団長です

Twitterは170文字ではなく140文字

今日もたくさんのメールありがとうございました…

で
番組後記でも。
取材は、録音機の「REC(録音モード)」が点灯している時とそうでない時で、対象者の話の質が変わってきます。
つまり、「オフレコ」の話。
取材の内容によっては、こちらの方が本質を得るときがあります。
「後継者とは」
おもむろに始まったこの話も「オフレコ」の時である。
「若い人間ではだめだ」
言葉の主は、とある祭りの実行委員の方である。
一度起こした体を、再びゆっくりとソファーに沈めながら
「祭りの後継者は、若い人ではだめなんですよ」
若い人間だと、仕事をしている。
そうなると年間で進められるスケジュールに参加することが難しくなる。
「私たちが求める後継者は、仕事をリタイヤした65歳以上の人がいいんです」
65歳から80歳までの15年祭りに携わる。
15年も間集中して祭りの運営に携わる。
その中では、リタイヤした仕事の知識も使えるだろうし、地元でのつながりもできているだろう。
それを祭りの中に組み込んでいく。
それが、この翁の言わんとしている事だ。
しかし、この話を消化する場合、「祭り」に二つの分類を持たせなくてはならない。
ひとつは、「地元の人の為のお祭り」。もう一つは「地元に人を呼ぶお祭り」。
分類的にみれば非常に似かより、厳密に今目に付くお祭りを分ける事は難しいかもしれないが。
例大祭や歴史祭りは「土地の伝承」や「歴史」を土台にしたお祭りである。
そういったお祭りは鉢植えのように違う土地に移し変えることが難しく、
地元の人間やそのコミュニティーに属している人間で運営されていることが多い。
これには、「地域」への記憶が蓄積されているある程度の人物が必要であり、若者には向かない
のかもしれない。
もう一つは、「地元に人を呼ぶお祭り」、つまり、「産業的お祭り」である。
テントをたて、ステージをつくり、他の地域の人たちを自分達の地域に呼び込む。
難解な伝承ではなく、人をひきつける勢いを必要とする。
体力的なことを考慮しても、若い人間が運営の中心となっていく。
言葉を平たくすれば「新しいお祭り」と「古いお祭り」とでも言おうか。
表から見れば非常に似ているが、側面から見れば大きく違う。
「新しいお祭り」は、時代や予算により内容を変えることができる。
しかし、「古いお祭り」は、その土台が「伝承」「歴史」という普遍的なものに立脚するため、
「変える」ことが難しく、「続ける」ことに重点が置かれていく。
この「変え」ずに「続ける」ことが難儀なのだ。
現在行われているたくさんのお祭りが、最大公約数で抱えるのが「運営資金不足」だ。
お祭りの資金は、国や自治体の補助金に依ることが多い。
詳しくはわからないが、補助金の判断の中に「来場者数」があるだろう。
新しい楽しみを生み出しにくい「古いお祭り」は、「来場者数」を大幅に増やすことが難しい。
それが判断材料になり、「運営資金」が削られていく。
そして、ボランティアや寄付金集めなどの「地域の負担」が増加し、「続ける」ことが難しくな
る。
この悪循環の中で消えたお祭りも多いだろう。
「やはり、お金、なんですよね。われわれもボランティアだし。」
翁の事を忘れていた。私を思考の淵から呼び戻しながら、コップになみなみと麦茶をそそぐ。
「地元のお祭りといっても、そこに思い入れのない人もいる。そういう人には<あってもなくて
もいい>みたいになる」
もはや勢いのなくなった「お祭り」は、標的になりやすい。
このご時世。自治体はまずはこの補助金を削ることから始める。
「ない袖はふれない」といわれれば、身も蓋もない。
しかし、人々の心の中に、大なり小なりだが必ずあるだろう
息を弾ませて駆けつけた幼いころの祭りの風景が。
確かに今の自治体が早急に予算を投入する事柄が多いこともわかる。
だが、足を止め、笛や太鼓の音に耳を傾ける事も大切なのではないか。
記憶の拠り所としていた風景が消えたとき、人々の心にも穴が開くであろう。
「お祭り」とは、もともと神や仏、あるいは祖先の魂を「祭る(まつる)」ことから始まった。
新しい風を入れ、人々を前に進めることも大事である。
しかし、伝承や先人の息吹に耳を傾け、か細い過去を守ることも大切である。
過去や歴史を大きく削った街づくりに、魅力は生まれない。
