歩くと少しぜいぜいしていて微熱(37.2℃)がある。

それだけの症状だった。

ひどくならないうちにといつも行っている病院を受診した。

そうしたら左の肺炎だということになり入院を勧められた。


できれば入院はしたくない。

それはまぎれもなく認知症の症状が悪化すると思われたからだ。

それは先生にちゃんと伝えている。

その上でそれでもやっぱり入院が必要だと。


認知症の症状が悪化するということは、環境が落ちつているからなかった周辺症状がみるみる現れ、その人がその人からかけ離れた状態になっていくということ。

人間が人間らしくなくなっていくということだ。


肺炎を治療しないとどうなるかというと、高齢者にとって肺炎は命取りになる可能性があるほど怖い病気。

だからなんとか治療して治したいと誰でも思うだろう。


肺炎は治療すればよくなる可能性がある。

認知症は環境を整えれば周辺症状を最小限に抑えることができる。

その両方をしないと意味がないのではないのか?


その両方ができない理由に認知症は病気ではないという認識があるからなのではないだろうか。

肺炎は病気だから治す。

でも認知症は病気じゃないから治せない。

そんな固まった認識不足のためではないのか。



とうさんは入院した次の日からもうすでに生きるのを辞めていた。

「死んだほうがましだ」

肺炎の治療のための入院が本人を「死にたい」と思わせている。

これはどういうわけだろう。


認知症が悪化する入院をして肺炎の治療をしても、その人がその人らしさを失い、死んでしまったほうがましだという環境の中毎日を送ることがその人を助ける道なのだろうか。


肺炎が治ってもその人を失ったら意味がない。


とうさんはそれ以降も生きることを辞めたいというメッセージを私に送り続けている。

また「毒をもられた」とも話していたという。

病気を治す病院が人を生きることから遠ざける。

そんなことがあっていいのだろうか。


肺炎を治すためだった入院がとうさんを生きることから遠ざけているとしたら私たちは本当にこの方法が良かったのか後悔してしまう。


生きるってどういうことなの?

なぜそこを見ようとしないの?