みっちゃんに対して『看取りケアをしなければならない』という重たく肩に力が入るような想いはなかった。

『看取りケア』と言われるけれど、特別なものという印象はない。

わたしにとってはそうだった。


お話ができなくても、笑い合ったり、けんかしたりできなくても、みっちゃんはそこにいる。

その、そこにいるみっちゃんに今何が必要かを見極め施す。

それは看取りであってもそうでなくても、花縁で日々行っていることである。

だから、自然にありのままに迎えられたような気がする。


ただ、『みっちゃんがいなくなる』という現実がちょっとさみしいと思った。

それを受け入れるのに用意が必要だった。

これも素直な心。


でも、花縁に来るまではそうではなかったような気がする。

希望があれば『看取りケア』をしたい!!という想いが確かにあった。

その経験がきっと大きな財産になると思ったし、それが超高齢化社会のなかでのGHの役割だと思っていたから。

よくわからない『意気込み』のようなものを抱いていた。


でもそうではなかった、ということに気付いたんだ。

みっちゃんが身をもって教えてくれた。



『死を看取る』ということは、永遠に続くみっちゃんとの関わりのほんの一部分ではないのか。

これで終わってしまったのではなく、ここから始まるという感覚もある。

それは『死』に限らず、毎日の暮らしの中で繰り返し繰り返し訪れる様々な関わりだと思う。


花縁での毎日のじじ様ばば様との関わりという経験が私に教えてくれたこと。

『死』もまた日々のありきたりな当たり前な関わりなのである。


看取りケアといつものケアと境界線があるわけではない。

現象として、現実としては明らかに『看取りケア』ではあるが、日々の関わりとなんら変わりないのである。


ということはもうすでに全ての方の『看取りケア』が始まっているのだよ。

『死』だけに捕われない関わり。

そう思うと、お年寄りだけではない、わたしたちも同じ。


毎日をどう生きる?

そしてあなたはどう『看取られたい』?