kadowarauのブログ

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千葉県銚子の犬吠埼灯台近くの「君が浜」には大勢のバードウオッチャーが来ている。松原の中で重いカメラを担いだり据え付けたりして姿を探し追っているのは、キバラゲラ。みるからに可愛く癒される小鳥だ。そして、その小鳥の姿を見れるチャンスはなかなかない。希少な小鳥なのだ。


メジロならいつでも見られる。


ところで、メジロが希少でキバラゲラがいつでも見られるとしたらどうだろう。姿の美しさを比較してみよう。断然、メジロだと思う。


ところでまた思う。

山林や街の公園やビルの谷間などのいたるところに生えていて一年じゅういつでも見られるのが桜の花だったとしよう。そして、青葉の木が春の一瞬しか鑑賞できないとしよう。その一瞬の青葉はどんなに美しいことだろう。


われわれが普段、目にしているものは実はすべてが美しいのである。

そもそも下等な動物ほど群れているものである。その例はここで書くまでもないだろう。

集団で一人を「いじめ」るのがほとんどなのだが、それ即ち、集団で行動している「いじめ」は下等な動物の証明なのだ。弱い人間だからこそ集団でいじめるのである。


いじめられているその一人の人は強い人なのである。なぜなら、彼は自分をいじめる奴らを全員殺してしまうことだって可能なのだが、それを実行しないという勇気ある行動を行っているのだからである。

http://video.search.yahoo.co.jp/search?ei=UTF-8&fr=top_ga1_sa&p=%E7%8A%AC%E5%90%A0%E5%9F%BC


上のアドレスはいま住んでいるところのもの。私はこの灯台(特に「夜の犬吠埼灯台」と題されたものは感動的ですのでクリックしてみてください)を見ながら釣りをしたり海藻を採ったりして楽しんでいます。実は、このブログで著書の紹介(『ウィリアム・ブレイクとキリスト教』)をしたいのですが、規則に違反するようで、おまけに、著書もあまり売れないときています。つまり、自棄になって書いているわけです。

犬吠埼灯台周辺では最近、特にサメがよく釣れてしまいます。が、スポーツとしてトライしてみることはいかがでしょう。先日、90センチのサメを安物の釣り竿で釣りあげました。モテない男が突然モテちゃったようなもので、ワクワク・ドキドキでした。

ただし、海に釣り込まれてしまうことは注意してください。道糸やハリスなどの太さの調節は注意深く行ってください。


空飛ぶ鳥に憧れる人間は多い。だが、鳥に思考力があったなら、地上にいる人間に憧れる鳥は多いだろう。なにしろ鳥はいつも飛んでなければならないし、地上に降りても餌を探さなければならない。疲れるはなしだ。それにひきかえ人間は、空を飛ぶことができる(飛行機で)し、地上でゆっくり歩くことも休むこともできるし、読書もできるし、酒も飲めるし、、、、というわで、絶対に人間のほうがいい。

作曲家の團伊玖磨氏は八丈島での経験を書いていた。なんでも、修学旅行にきていた生徒たちが八丈島にはなんにもないことを嘆いていた。青く広大な海や空そして美しい浜辺や島があるというのに、それに気が付かないとはとても残念だったというのである。

私はこうも思う。「宇宙へ行きたい」とばかり言っている人は多いが、それも八丈島でみた修学旅行生の類なのではないのか、と。なぜなら、地球上にいること自体がすなわち宇宙空間にいることであって、発見できる物事は無限にあるだろうから。人間自体がすなわち宇宙人の一種なのである。「人を見たら泥棒と思え」というが、「人を見たら宇宙人と思え」だ。

ニュートンは木から林檎が落ちるのを見て不思議に思い万有引力の法則を発見した。なにかを不思議に思ったり驚異を感じたりするのは発見の第一歩だと思う。

私は小さい頃、女が男を好きになるのが不思議だった。女が綺麗でもない男と結婚するなんて。自分が男だったから男を好きになる心理が分からなかった。そこで発見。

万有引力の法則ではないが、女が男を好きになり男が女を好きになるのは神が与えてくれた法則に間違いないだろう。結論として、どんな男も魅力のない男はいないし、どんな女も魅力のない女はいないのだ。そして誰もが必ず魅力をもっている。「交際してみてから」なんで面倒だ、「結婚して子供がいる家庭のことを想え」。自分には魅力がないと思っている男や女は、地球が太陽の周りをまわっている球体で、しかもそれはちっぽけな銀河系宇宙の一点にすぎないのだということを知らないのと同じくらいバカなのだ。

クラーク博士ではないが、「宇宙人であるどんな男もどんな女も自信を抱け!」だ。


フランスの哲学者ボルテールは「あなたの意見には反対だ。だが、あなたがそれを主張する権利は命がけで守る」と言ったという。すばらしい言葉だと思う。近隣の国である「勧告」も「忠告」も福沢諭吉以前だと思う。「天は人の上に人を造り人の下に人を造ったと言えり」。

貧者は金がないので買わない。一方、富者は金があっても何でも所有しているので買わない。従って、誰も買わないことになる。日本経済を好転させるには貧富の格差を縮小させる政策を実行しなければならない。

GDPはいつまでも低いレベルであり続けつだろうし、プライマリーバランスなんて結局は無理だろうし、国の財政赤字は続くことになるだろう。

そもそも、大企業のおこぼれで中小企業を活性化させるなどという発想が問題なのだと思う。金持ちの兄のほうに金を回すようにすれば、兄は弟に金を回すだろうとでも思っているのだろうか、今の政権は。


兄は貯金を殖やすだけで弟にはあげないだろうよ。なぜなら、欲望には限りがないからである。

約30年前に、ジョン・クーパー・ポーイス著『孤独の哲学』(原一郎訳、みすず書房)を偶然読んで、孤独で在ることのすばらしさに同感し友人に贈ったことを思い出した。それ以来、中学生や高校生が仲間外れになることを恐れて、結果いろいろな事件(いじめなど)が起きている現実を知るにつけ、なんでいまの子供たち(大人にもあるが)はそうなんだろうと残念に思っていた。

そもそも、下等動物ほど多く群れて生きているではないか。寧ろ孤独な生き方をした人こそ多く歴史上に登場している事実を知るべきだろう。人間の場合、特殊な存在であればあるほど人間としての存在価値がある。群れている蟻の中の一匹を踏み殺して歩いてきたからといって悩んでいる人はいない。

人間には特殊性が求められている。それ故に、孤独である状況はそのための必然的過程なのであり、存在価値確立のための道なのだと思う。いや、人間存在の最終到達点だと考えてもいだろう。自分と同じ考え方をする人はこの地球上に誰一人いないという状況になったときは、地球上の無二の存在になったことであり、この上なく貴重な存在になったことになる。そう考えると、仲間外れなんかのことで悩む必要など一切ないのだ。誰かを仲間から外して喜んでいる連中などただ単純で哀れな存在でしかないのだ。(そこのところを学校の先生などは説いてほしいのだ。)

なぜこんなことを書きはじめたのか。『孤独の価値』という新聞広告を見たからである。著者・森博嗣氏(小説家・工学博士)はこう書いているようだ。①「無理につながらなくて、いいじゃないか」。②「寂しいことは、悪いことか?」。③「孤独を感じるのは人間としての能力」。④「芸術・科学とは、孤独を美に変えたもの」。⑤「寂しい、孤独だと感じる状況はその後、訪れる楽しさの準備段階である」。⑥「本当の友達なら、頻繁に会う必要はない」。(出版社評→)絆の肥満になっていませんか?孤独が寂しいとは、マスコミがつくったステレオタイプの虚構を、悪だと思わされているだけではないか。孤独とは、社会と共生しつつ自分の思い描いた「自由」を生きることである。 もう寂しくない。孤独を無上の歓びと発見に変える画期的人生論。760円(税抜き)。

♦私は今年の2月からピアノを始めた。殆んどすすまない。もし誰かが毎日聴いていたとしたらあきれるだろう。いつもいつも同じ節を弾いている。しかし、遅々としてではあるが、すすんでいるようにも思える。そして、なんとなく充実している。多分、上記④を味わっているからではないか。

            



  


ギャンブルで快感を得た経験が脳に焼付いたように忘れられなくなり、それだけに集中してしか脳が働かなくなり、実際の脳味噌の組成がその他諸々の喜びなどに向かない状態になっていることがある。それ故に、借金でも盗みでも虚言でもなんでもありの危険な人間が日本では約500万人(記憶では)もいると先程、NHKが報じていた。ギャンブル依存症のこと。

そこで思い出した。いつのまにか経理課長が会社にいなくなっていた。経理課の女性に聞いたら、「あの人はお馬さんが好きだから」と話していた。別の情報では、なんでも彼はサラ金から借りていたからだということだった。納得。

◆それで思いついた。多分、国民全体の95%以上がブッキン依存症(私の造語)に罹っているだろうということである。ブッキンとは物と金のこと、要するに物質主義者(拝金主義者)ということで、精神的存在価値或いは絶対的な存在価値などということには思いもよらない人のことである。自分のまわりの人のほとんどが同じブッキン依存者なので、自分が病気だということに気付かないだろうが、これは明らかにブッキン依存症という病気なのである。

モノやカネに依存した生活だと必然的に争いや不幸がおきる。隣の芝生は青くみえるもので、人間には比較するという悪い癖がある。そして、完全に平等にするなどということは至難の技,いや不可能といっていいだろう。「比較は最悪な友である」と誰かが書いていた。だから次のようなことが多発するのであろう。離婚、盗み、オレオレ詐欺、名誉棄損、相続問題、地位権力争いと多忙と病気とストレスと早世、肉体的快楽(SEX等)、独裁、戦争、学歴至上主義、拝金主義、スピード、成果主義、能力主義、美食、犯罪、裁判、相続問題、奴隷、耽溺、見栄、虚栄、不安、吝嗇,狂気、過労、贅沢、不満、不自由、サディズム、嫉妬、暴力、憎悪、敵意、復讐、不信、誘惑、背信、放蕩、自殺、殺人、不倫、差別、いじめ、悪い意味での孤独、洗脳、風見鶏、慇懃無礼、傲慢、卑下、嘲笑、中傷、恐怖、失望、騒音、勝敗、牢獄、地獄、犬やロボットのような人間、論争、その他多数。

「それではオマエはなんなんだ」とのご質問。

一口では言えません。わたしの著書をお薦めします。

安倍政権は政労使会議を通じて、年功序列型を見直そうとしているが、これには反対である。

「人間」という文字を考えてみよう。まず、「人」は互いに支えあっている二本の棒のようなもので成り立っている。筆で書くと、左のい棒を右のい棒で支えて成り立っている。もちろん、左の棒がなければ右の棒は倒れてしまう。しかし、右の棒がなければ左の棒も倒れてしまう。

長と短とが融合し助け合って存在しているのが人だと思う。つぎに、「間」という言葉を考えてみよう。間とはコミュニケーションを意味しているのだとう思う。長所短所の間柄のコミュニケーションが重要なのである。

そもそも、長所だけの人がいるだろうか。短所だけの人がいるだろうか。たとえば我々は、欠点のない人を愛せるだろうか。我々が誰かを愛している場合、その欠点が故に愛しているのだと言っても過言ではない。

『釣りバカ日誌』は欠点だらけの浜ちゃんがいるが故に人気があるのだと思う。『寅さん』の場合もそうだと思う。浜ちゃんや寅さんをバカだと思う人は多いだろうが、ではその人はバカな彼らがいない社会が健全だと思っているのだろうか。深層心理ではノーだろう。

神さまは能力のある完全無欠な人だけを創ったのではない。聖書には、「神は愛である」とある。その愛には短所も含まれているのである。「汝の敵を愛せ」だとか「貧しい者は幸せである」というイエスの言葉には深い真理が秘められていることを察しなければならない。

研究者によると、「蟻の社会」の場合、働き者ばかりの社会だと思われているだろうがじつは遊んでばかりいる蟻も多数いるのだそうである。そして、遊んでばかりいる蟻を取り除いてしまうと、こんどは働き者の蟻が遊び始めるのだそうである。

ある哲学書によると、淑女とは売女がいるが故にそう呼ばれるのだそうである。人間、大差ないのである。友人は東大を一番で出たが、一緒に乗ったタクシーで傘を忘れてしまっていた。バカな私と大差ないのである。

結論:人間は助け合ってこそ人間なのである。能力のない社員がいたならば、彼を助けるために働こうではないか。欠点のある社員がいたならば、彼の長所を見付けようではないか。見付からなかったら彼を飲みに誘おうではないか。