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イギリス文学の最高峰と言っても過言ではないだろう、G.K.チェスタトンという作家は!!!。彼を知らないのは、日本人が夏目漱石を知らないのと同じだと思う。いや、漱石以上だ。G.K.チェスタトンのことを思うと愉快でたまらない。もっとも、彼の作品を読むのは危険だとも言える。

なぜなら、読み出したらもう会社の仕事で残業までして滅私奉公するのは無能で姑息な男のすることで唾棄すべきことだと強く思うに違いないだろうから、所謂「出世」というのを犠牲にすることになる、つまり変人とみなされるであろうからである。

「酒か出世のどちらかをとれ」と言われたら、「酒です」と言う会社員は少なくないだろうが、私が「チェスタトンか出世のどちらかをとれ」と言われたら、私は前者をとりたい。勿論、好きな作家は他にも10人以上はいる。この心境は、若い独身男がフェロモンたっぷりな10人以上の女性に取り囲まれているうようものだ。

例えば、である。次のような著述を読んでなんにも思わない御仁は、最高のワインをちょっとだけなめてみて、「日本酒を知らない西洋人はおかしな人種だ」思っているようなものだ。当初、バターの味を知らない日本人が「バタクサイ」と言って忌避し気取っていた、そんな時代があったのを思い出す。

【チェスタトンの著述の一例】

♦「あらゆる幸福の源は感謝である。」「私は、片方の脚ともう片方の脚の間に、不思議な魅惑的な分離をもたらしてくれた軽い捻挫に感謝したい。何かを愛する道は、それが失われることの自覚にある。片方の脚に、私は、脚とはなんと強くすばらしいものであるかを感じ、もう片方の脚に、そうではないことも大いにありえたことを自覚する。このことの教訓は、まったく心を浮き浮きさせてくれる」(G.K.チェスタトン著『棒大なる針小』)。

「サンタ・クロースが靴下に玩具やお菓子の贈り物を入れてくれると、子供たちはただすなおに感謝する。それならサンタ・クロースが、私の靴下にこの二本の奇跡的な脚という贈り物を入れてくれた時、私はどうしてすなおに感謝していけない理由があったろう。誕生日のプレゼントに葉巻やスリッパを貰ったら、われわれは贈ってくれた人に感謝する。それなら誕生日のプレゼントに誕生そのものを貰った時、誰にも感謝してはいけない理由がどこにあろう」(G.K.チェスタトン著『正統とは何か』)。参考文献:『ウィリアム・ウレイクとキリスト教』456頁(出版社:サンパウロ=新宿区四谷1-2)

「≪人間が窮地に陥るときこそ、神の働きたもう機会である≫といわれるのは、自己放棄が必要であるという事実を神学的に言いあらわしたものである」(W.ジェイムズ)。

「キリストなしで<自己自身>たらんと努めても無駄である。わたしがキリストに抵抗し、自分の思うままに生きようとすればするほど、わたしはますます自分の遺伝や育ち環境や生来の欲望に支配されるようになる」(C.S.ルイス)。


参考文献:『ウィリアム・ブレイクとキリスト教』445頁

「私たちがバラの香り、鳥の歌声、太陽の輝き、そして月の光をめでるとき、それは元来人間に帰すべきものを自然に帰しているのである。というのは、実際の自然は<無音・無臭・無色であって、終わりなく意味ももたぬ物質の単なる流転の姿>である。外的世界におきる物理現象を寄せ集めては、音・香・色・意味というようなものを創りだし、それによって私たちの生活により情緒的、かつより知的な色あいを添えるという仕事は、自然がやってくれるのではなく、私たち人間にまかされた仕事なのである。」(ルネ・デュボス)


参考文献:『ウィリアム・ブレイクとキリスト教.』427頁


「あなたは、あなた以外の人でも言うことができるようなことを言ってはいけない。ほかの人でもやることができるようなことをやってはいけない。あなた自身についていえば、あなた以外の誰にも存在しはしないという側面だけにしか興味をいだいてはいけない。辛抱を重ね、あるいは焦りに焦って自分自身のなかからあらゆる存在のうちで、最もユニークで他のもので置きかえられないものを、創りあげよ。」(アンドレ・ジイド)

「宮廷の壮麗さや、良き社会の魅力とか機知とか想像力とか趣味とか育ちのよさといった魅力や、地位の威光や、富の蓄積は、悪徳と無宗教をおおい隠す幕であり、道具であり、言い訳である。」(J.H.ニューマン 『大学で何を学ぶか』=イギリス文学)


J.H.ニューマンのこの言葉を読むと、痛快でたまらない。まるで最高級ブランデーを飲みながらベートーヴェンの名曲を聴いているような思いがする。


参考文献:『ウィリアム・ブレイクとキリスト教』351頁