第三次訴訟まで原告団では男性が中心となり闘い続けてきました。しかし賠償は認められても差止は認められてこなかった。第4次からは女性部を立ち上げ、これまでなかった視点から爆音被害、基地被害を考えようという試みです。

 

今回はかでな道の駅に集合し、

嘉手納飛行場の滑走路を見渡す展望広場で沖縄市平和ガイドの眞榮城玄徳さん、安仁屋真孝さんから説明を受けました。

嘉手納基地内の土地にあった街並みを聞き取りをしながら書き上げたものです。

戦前、それ以前にはそこに人の暮らす街が広がっていたことが分かります。

日本軍が戦争のために飛行場にし、米軍が奪い広げていきました。

嘉手納ロータリー内にある戦前にあった鉄道の嘉手納駅跡地の碑です。

那覇から嘉手納まで鉄道があったのです。

この鉄道が今もあれば車社会の沖縄本島の幹線道路の混雑もなかったかもしれません。国道58号線で起こる飲酒運転による事故も帰るときに鉄道を利用していればなかったかもしれません。

第一ゲート前に移動し、ここでも前述の平和ガイドのお二人に説明をしていただきました。

北谷町の馬場公園にはこのような石碑もありました。

上陸地の一つである北谷町の砂辺の浜。

その浜を前に平和ガイドの方にお話をしていただきました。

戦争はどうやって起こったのか、だれが起こしてしまったのか、だれがあんなになるまで続けてしまったのか。今一度、考えさせられました。

トンボが飛んでいる向こうには米軍のヘリが飛んでいました。

 

 

 

周辺には米国を思わせるような住宅街があります。

爆音被害によりこの地を去っていった方々の家の跡地は防衛省が年に2回草を刈っているそうです。そのための予算も組まれているそう。

手入れが行き届いていない土地は草が生い茂っています。

砂辺公民館では北谷支部の照屋副支部長から、この写真の赤く塗りつぶされている部分が爆音被害に耐え切れず出て行ってしまった家だという事や、この集落の伝統行事、拝所などのお話も聞けました。

砂辺公民館を出ると上空をオスプレイが飛行していました。

落下物、墜落の事故の絶えない機体。

こんな機体が上空を飛んでいるのは恐怖でしかありません。

それから、第5ゲート、第2ゲート前を通り沖縄市のゲート通りにある「HISTREET 沖縄市戦後文化資料展示館」に行きました。

内部は撮影禁止とのことでしたが、戦前、戦時中、戦後の貴重な資料が展示されていました。

二階には原告団にも公園をしていただいた石川文洋さんの写真も展示されていました。

HISTREETの駐車場そばに綺麗に咲いているハイビスカスを見かけました。

戦前、戦後奪われ続けてきた沖縄県。

基地は徐々に返還されているかもしれませんが訓練は減っていません。

外来機飛来により嘉手納基地や普天間基地では爆音被害がひどくなっています。

女性部フィールドワーク参加者一同、この被害を子や孫、後世に残さないために闘っていくことを誓い解散いたしました。