障害者が障害者であるとき | マイケル星の緩慢な日々

障害者が障害者であるとき


マイケル星の緩慢な日々-ナツカシノデンショク

障害者の苦悩についてはあえて書くまでもないし、それなりに察することができると思う。


今回書きたいのは障害者にしか理解できない感覚、感性について。


例えば、知り合いの全盲のプロの箏奏者は、普段は介護がなければ生活できない。


しかしひとたび箏の前に座ると、とても見事で正確な演奏をし、


尚且つ同じく並んで演奏する多くの演奏者の一人の音の微妙な違いを指摘できる。


彼は視覚障害者だが、それを補うように聴覚や音楽センスは健常者の比ではない。


このとき、箏を演奏しているとき、はたして彼は障害者なのか?


もうひとつ例をあげるならば「アスペルガー症候群」と呼ばれる発達障害。


彼らは度合いにもよるがコミュニケーション能力が低いが、


ある分野(数学やコンピュータ)において高いレベルの能力を持つ。


彼ら特有の能力は高く評価されるが、社会的能力の欠如から発達障害と診断される。


はたして彼らはほんとうに「障害」または「症候群」なのか?



平均的な能力値で全員の足並みが揃っていることを良しとする社会の中にいるとき、


彼らは「障害者」なのではないかと思う。


突出した能力がある反面他の能力が欠如していると障害者となってしまう。


得手不得手の延長線上のような感覚で見ると、


彼らの「障害」も「個性」と見られるのではないか?


数学が苦手な人がいるように、対人コミュニケーション能力が乏しい人がいる。


メガネをかける人がいるように、補聴器を着ける人がいる。


ただの私の理想論かもしれないがどう思われるだろうか。



それと学校の社会科や道徳の授業でもこの手の議論をもっとすべきだと思う。


形式的な、正しい答えの用意された道徳よりずっと興味深い。


「個性だ」と思うのも意見、「やはり障害だ」と思うのもまた意見。


私には答えは分からない。かなり難しいテーマだし、答えがあるのかも分からない。


しかしこのテーマを遠ざけるのでなく、考えることに意味があると思う。