上矢印前回の最後に「佃島については重要なところを見落としていることに気がついた」と書きました。

 

後日改めて、走って探しに行った時に見つけた建物や景色を紹介します。

 

 
「佃島」と聞くと、この景色が頭に思い浮かびます。
 
石川島播磨重工業の跡地に作られた住宅地には大川端リバーシティ21という名前が付けられています。
眺望を重視したタワーマンションの原型Wikipediaで説明されています。
 
 
このブログを書くまで、佃島の定義が私の頭のなかで曖昧になっていたことに気がつきました。
 
緑で囲ったエリア=石川島(江戸時代からある自然島)→ タワマンがあるところ
赤で囲ったエリア=佃島(江戸時代からある自然島)
青で囲ったエリア=新佃島(埋め立て人工島)
 
中央区佃=石川島+佃島+新佃島 だと言うことを今回勉強しました。
(ですが、現在の中央区佃のエリアを佃島としている古地図もあります)
 
 
中央大橋を渡って石川島へ上陸します。
 

 

まず一軒目がいきなりスゴイ!
以前から隅田川の佃側を走るときに気になっていた建物です。カッコイイ。
 

 

しかも煉瓦の塀までキラキラ
奥の方は古い感じです。きっと戦前からのものでしょう。
 

 

一軒目のお宅の石川島側に赤い鳥居があります。
 

 

住吉神社
なぜこの神社がここにあるか、徳川家康と佃の深い絆というサイトに詳しく紹介されています。
(伝説の域を出ないとのことですが)
  • 大阪にも佃がある
  • 東京の佃の元祖は摂津国の佃(現 大阪市西淀川区佃)
  • ここから移り住んだ漁師たちが作った町が東京の佃
  • 本能寺の変の後、徳川家康は堺から命がけで脱出する必要があった
  • 救いの手を差し伸べたのが摂津国佃村の漁師たち
  • 関東を開拓する中で生じた食糧難に対応するため家康が佃村の漁師を呼び寄せた
ということのようです。
 
石川島にも面白いストーリーがありますが、長くなりすぎるので割愛します。
 

 

なんと、住吉神社の奥に煉瓦の蔵があるではないですか!
 
何度か参拝したことがあったのですが、この時初めて気がつきました。
 
案内板にこう書かれています。
 
旧神輿庫
 形状:煉瓦二階建て(イギリス積み)
 坪数:四坪五合八勺
 竣成:明治四十三年十二月
 費用:八百六十円
 
 
拝殿を横から見ています。
いつ建てられたものか調べきれませんでしたが、戦前の可能性もありそうです。
 

 

神社とは少し離れた街角に御神輿が飾られていました。
 

 

出桁造りの佃煮屋 天安
元祖佃煮と看板に書かれていますね。
 
創業天保八年ということは西暦1837年です。
 

 

数カ所でこのような手押し井戸ポンプを見かけました。
探せば相当の数見つかるかも知れません。

 

 

こちらの建物もひときわ魅力的ですキラキラ
大切にされているようですね。
 

 

 
右側の立て札にはこのように書かれています。
 
 此の場所には、江戸時代後期
 寛政拾年(一七九八年)
 徳川幕府より建立を許された
 大幟の柱、抱が、埋設されて
 おりますので立ち入ったり掘り
 起こしたりはしないで下さい。
    佃住吉講
 
 
歌川広重: 『佃しま住吉の祭』~Wikipediaより~
 
大幟というのは、広重の浮世絵にも描かれてこれ上矢印のことですね。
「抱」とは抱木とも書くようですが、大幟を支える部材のことです。
 
中央区観光協会特派員のブログによれば、柱や抱木が水の中に埋められていても腐らない理由は、酸素に触れないからだそうです。
 
3年ごとに掘り起こして大幟が立てられるようですが、前回が2018年だったようですのでちょうど今年が該当します。
 
ですが、「本祭りは来年に延期します」と住吉神社のホームページに書かれているのに気がつきました。
 
来年は開催できると良いですね。
 

 

むむむ、こんな細い路地に入っていっても構わないのかと非常に心配になります。
 
 
前の人たちについて行ってみると、佃天台地蔵尊がありました。
 

 

銀杏の大木にビックリ。
樹齢300年と言われているそうです。
 
 

石版に掘られた珍しいお地蔵様に手を合わせてお参りさせてもらいました。

 

 

石川島の方に行ってみると、このようなモニュメントが置かれていました。
 
 
 
「この煉瓦壁は石川島播磨重工業時代のものなのかなぁ」などと考えながら、帰路につきました。

 

 
10Km、1時間と少し。
最近はこのくらいの距離をのんびり走るばかりです。
 
東京マラソンを完走できるか・・・不安です。