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自分の為の記録であり暗い話が多いですし、辛いことを思い出してしまう方もいらっしゃると思いますので、読まないほうがよいかもしれません。もし、読む方がいらっしゃるのであれば、今の私はそこそこ元気であることを念頭に置いて読んでいただければと思います。


 2023年4月28日、入院し肺炎の治療が始まり、5月7日まで治療は続きました。


 5月8日、主治医から次の治療法のC‐VAD療法の説明があり、5月12日より治療が開始されました。


 手先の痺れ、味覚障害、脱毛、ふらつき…とても強い副作用が出ました。

 この頃、病気になってから最も体調が悪く、看護師にお世話になることが多かったです。

自分の力ではどうにもならないことがある、1人では生きていけないと痛感しました。


 左の鎖骨の1ヶ所だった腫瘍は、左胸、右脇、右の鎖骨の計4ヶ所になりました。

 下手くそですが、絵にしました↓


 妖怪になってしまったかのように思え、私は腫瘍が出来たあたりを直視出来ませんでした。

妖怪ならどんな名前がつくのかな?と考えたりしました。

 しかし、今にして思えば目に見える形で腫瘍が出来たのは運がよかったのかもしれません。腫瘍が抗がん剤は効いていないと知らせてくれたような、そんな気がします。



 ・痛みは増すばかりで体調は悪い

 ・抗がん剤が効いている実感がないのに強い副作用は感じる

 ・腫瘍が出来て変わってしまった体(見た目)

 ・この薬が効かなかったら覚悟が必要と言われていた

 ・症状を言っても主治医には否定された

 ・母は自宅で1人でいることの寂しさと不安を訴えていた。


 今思うと精神的に限界だったのでしょう。私は無意識のうちに考えることをやめ、感じる心を封じていました。何も感じないようにすることで自分を守っていたのだと思います。そうすることでしか自分を守れなかったのかもしれません。


 毎日霧の中を彷徨っているようでした。


 ある日の夕方の回診時、主治医が独り言のようにポツリと言いました。

「こんなの辛い、辛すぎる…。」

と。

 ふと主治医を見ると悲しいような悔しいようなとても辛そうな表情で、唇を真一文字に結び歯を食いしばっているような…、真っ赤な顔をしていました。

初めて見る主治医の表情でした。

 私はぼんやりとしていて返事が出来ませんでした。しばらくして主治医は病室をあとにしました。


 私は辛かったのか…。辛いと感じてよかったのか。そんなことを考えました。

 ただ、この時は辛いとは思いませんでした。

辛かったと思えるようになったのは1回目の自家移植が終わって落ち着いた頃です。10月上旬に(あの頃は辛かったな、ああ、辛かったんだな)とふと思いました。


 私のせいで主治医を辛い思いをさせている、あんな表情をさせてしまった。申し訳なく思いました。

 それまで主治医にあまりよい感情はなかったのですが、主治医が私のことを思い発した言葉に心が動きました。

 私のことを思ってくれる人がいる。主治医は私に寄り添ってくれていたのだと。


 私は主治医に救われました。

あの日、夕焼けに照らされた主治医の姿と表情を忘れることはないでしょう。


 私は主治医に対して徐々に心を開くようになっていきました。


 この事と看護学生の明るく献身的な看護(看護実習です)により私の心は回復していきました。


 心が回復してくると考えることをするようになりました。この治療が効かなかった場合、セカンドオピニオンを受けるのか、緩和ケアに切り替えるのか。

 亡くなった父に母のことを頼まれていたこともあり、母を残して死ぬわけにはいかない、でもどうしたらよいのか。悩みましたが結論を出せずにいました。


 6月中旬、左胸の腫瘍が小さくなっているように感じ、主治医に伝えました。主治医は触診し、

「確かに小さくなっている感じがしますね!!薬が効いてきたかも!」

と嬉しそうに言いました。

あまり表情に出さない人なので珍しいなと思うとともに嬉しそうな主治医を見て私も嬉しくなりました。

 治療を始めてからここまで、治療の効果を感じたことはありませんでした。やっと一筋の光が見えた、そんな気がしました。


 この日を境に腫瘍は徐々に小さくなっていき、7月上旬頃には目に見えていた4つの腫瘍はなくなりました。

ただし、鎖骨のあたりは変形してしまい、今も腫瘍があるような形をしています。


 抗がん剤が効いてくると痛みも治まっていきました。勝手なもので痛みがひいていくと痛かったことを忘れていきました。看護師に

「あれだけ痛がっていたのに痛いと言わなくなったね」

と言われ(そういえば)と思ったし、(抗がん剤が効くってこういうことなんだ)と気づきました。


 抗がん剤の副作用はとても強かったので体調はよいとは言えないもののよくなっていったような気がします。


 そして1回目の自家移植へ繋がります。やっとここまでこれたという安心と喜びがありました。


 1回目の自家移植以降はブログに記録した通りです。


 



 後ろ向きになることはなかったと思いますが、前向きになることもありませんでした。

 与えられた治療を受ける、ただそれだけでした。


 頑張ったのは主治医をはじめとする医療関係者の方々で私が頑張ったことはありません(体は頑張っていたのかもしれません)。

 強いて言うのであれば、自家移植の時にクリーンルームから出られず引きこもりの状況に耐えたことくらいです。


 それでも、今はそれなりに元気になりました。

 生きています。

 今日もこれから仕事です。

 体力は回復していませんが、健康な人に近い生活を送っています。




 年末に暗い話を続けてしまい、読んでくださった方には申し訳なく思います。

 来年は、明日からは新たな一歩を踏み出せると思っています。