今年最後のアップは、震災です。
岩手県といえども内陸で、津波の被害はない地域です。
被害はそれほど無いとはいえ、非現実的な数日間を過ごしたことも事実ですし、感じたこともあります。
その日前後の自分の行動や、今思うことを記したいと思います。
記憶は3.9までさかのぼります。
お昼頃に震度4の地震がありました。
ちょうどコンビニに居て、店員さんが酒瓶を押さえていました。
被害は特にありませんが、地域包括から独居高齢者の安否確認依頼がありました。
確認しましたが、もちろん無事でした。物的被害もなし。
そうか、大きい地震のときはこういう風に動くんだね・・・と簡単に認識。
それぐらいでした。
3.11の記憶は昼食からです。
初めてすき家でねぎ玉牛丼食べました。
午後からは主治医の意見書依頼にある整形に行かなければ行けませんでしたが、時間帯的に昼休憩時間なので、改めて行く事にして事務所へ戻る。
そしてその時・・・14:46
ちょうど「そろそろ行こうかな?」と思って立ち上がりました。
その時は事務所には一人相談の人が来ていてそれに対応している人一人と他自分を含めて3人在室。一人は外出中でした。
最初カタカタと揺れ始めたので、
「あれまたですね・・・一応ドア開けますね」
と部屋の一番奥からドアを開けに移動(僕のデスクは部屋の入り口からは一番奥です)
ドアを開けて最初に異変に気付いたのは、廊下の防火扉がフワーンと動いたのを見た時。
「ありゃ、結構大きいかも・・・」
と振り返ったところで本震到来。
大きな揺れで近くのドアと使っていないパソコンを必死に押さえる・・・いや物を守るではなく、必死に何かにつかまっていたと言う方が正しいと思います。
目の前には各職員と相談ブースから出てきた来客も同様に机等につかまっている脇で、机のものやらパソコンやらがバタンバタン落ちていくのを目の当たりにしました。
気持ちの中では、「あ~、あの窓のところから崩れていっちゃうのかな・・・」と少し死を意識しました。今から思うとうちの市は震度5強だったことを考えるとオーバーでしたが、それほど体験したことの無い地震でした。
長く揺れている間
「大丈夫・・・いや長いな~・・・治まれ~」と口に出していました。自分では周りの人に安心感を与えられればと思っていましたが、多分自分が声出してないと怖かったんだと思います。
揺れが終わりました。
うちの事務所はぐちゃぐちゃです。
机の脚の下に物が挟まっていたり、動かないはずのものが動いていたり。
自分のデスクのところが一番物が吹っ飛んだり倒れたりしてました。ドアを開けに行った事が幸いでした。
それからはその日来ていた透析・通所リハビリの利用者対応と思って避難している1階に行きました。自分の担当している利用者と話をしたり、ワンセグで情報収集したり。
ただ、沿岸に関係者が居る人が大勢居ることが考えられたので、あまり変に情報を流さないように気をつけていたのがあります。
内陸とは言え、みんなの意識は「コレだけ揺れたら津波・・・」となっていましたので。
途中大きな余震があるたびに声出して安心感を与えながら毛布を配るくらいしか手がありませんでした。とにかく途中からは「今ここを利用している人をどうやって無事に帰宅させるか?」がテーマになって行動していました。
途中、担当利用者さんとワンセグを見ていた時に、宮城の上空からの津波映像が中継されていて、本当に絶句してしまいした。
その横で、また別の担当している人が、「どうなの?沿岸は大丈夫なの??」と質問。
息子さん一家が沿岸に居ることを知っていたので、「大丈夫」としか言えませんでした。
後日その方の息子さん一家が全員無事だと聞いたときは、本当にほっとしました。
許可を取って(取ったかな?無理やりだった気も)通所にいる担当利用者で帰せない人(例えば一人暮らしで家の状況が分からない人や今送ってもいつもその時間は不在の人とか)の家を車で廻りました。
途中気になる利用者さん宅も廻りながら。
やはり大きな国道(うちのあたりだと4号線)が大渋滞で、車で渡らずに手前で駐車して歩いて渡りました。結果的に良かったです。
ただ携帯電話が使えないのが痛い。仕入れた情報を伝えるには、直接戻るしかなかったからです。電話の不通はかなりの大ダメージだと感じました。
いろいろ手配つけて、一人暮らしの方のところも娘さんが迎えに着たりでなんとか。
その娘さんから「ガソリンのほとんどないけど、どっかで入れられますかね?」と相談。
停電なので今は難しいのでは?と話しましたが、あんなに後日まで影響が出るとはこの時予想できませんでした。
帰宅は6時くらいでした。
家に帰る途中の様子は、酒瓶が多数割れている酒屋さんや懐中電灯で営業しているコンビニが見られ、非常時だとますます認識しました。
自宅は実家も含めて表面的には無事で(後日いろいろ出て来ましたが)
ただわが家はオール電化なので正直全滅。実家はプロパンガスで水道も無事(結局家の水系は断水無しでした。本当に恵まれていました)だったので、土鍋で御飯を炊いてカレーを食べました。
夜は蓄熱暖房機が停電しているとはいえ温かさをためていたので、1階に4人で寝ました。
子供たちが怖がり過ぎないように、「揺れたら早く机の下に入った人の勝ち」と行って少しゲーム感覚で避難指示。
なかなか眠れず、情報欲しさに携帯をいじって、すぐに充電が不足してしまいました。
3.12
翌日は休みでしたが、様子も気になり事務所へ。
みんな出てきてました。
片づけしながら、気になる所を何件か回って帰宅。
とてもいい天気でした。
本来であれば待ち望んだ春の日差しでしたが、あの独特なほっこり感は勿論無い一日でした。
確かこの日の夜には電気も復旧しました。
嫁ともこの時の話をしましたが、震災直後からラジオで悲惨な情報は仕入れていましたが、映像での情報はここまで入らなかったのは、良かったんじゃないかと。
つまり、ラジオで仕入れた情報で準備が出来た状態での映像との接触だったから。じゃなかったら・・・
3.14
仕事面では翌週から本格的な影響が出てきます。
まず介護サービスがほぼ全面的にストップします。
ガソリン不足のため、ヘルパーも原則ストップしました。
ケアマネージャーは各サービスをコーディネートする立場なので、各サービスが動けなければ、自分の持ち札が全く無い状況になります。
正直しんどかったです。
「何かしなければ」という焦燥感と「じゃ何が出来るよ」と言う無力感。
3.14の記憶は、公用車の燃料確保で手伝った位しか記憶無いです。なにかしら動いたんだけど多分。
3.15
友人の今の状況や頑張っている情報を知れば知るほど「何かしなければ」という思いが強くなり、自転車で気になる家を廻ることにしました。
管理者からは少し反対されましたが、押し切ってしまいました。
途中、自分の親戚のおばちゃんに会って、親類のお兄さんの死を知りました。
「戦争だぞ」
食料もガソリンも不足する中で、おばちゃんから言われた一言が残っています。
気になった利用者さんは皆無事でしたが、情報が不足していた為、知っていた情報を流しながら廻りました。情報を伝えたり確認できただけでも良かったと思ってます。それは今も。
3.16~
正直なんの仕事をしていたか残っていないです。
デスクワークをしていたんだと思いますが、「今これやってて本当にいいの?」との気持ちが強くて、身が入ってなかったんでしょう。
3.25あたり。
公用車のガソリン確保や自分の車へのガソリンも少しずつなんとかなってきて、徐々にサービスも再開してきた事でほっとしたのを覚えています。
4.2あたり。
家のあたりはだいぶ元の生活にもどりつつありました。
記憶としては、この週末は外食する人がとても多かったように思います。
4.7 23時30分頃
4人で寝てました。大きな揺れで親二人は起きて、とっさに子供二人をかばいました。たんすの上の時計?が上に飛び跳ねて落ちたのを覚えています。
そして揺れ終わったあとに「スーッと」電気が消えていきました。
すぐに思いました。やってしまったと。
自家用車はエンプティランプ点灯&携帯充電1メモリ。非常に後悔しました。
4.8
事務所はまたまためちゃくちゃ。ただ、2回目ということもあって復旧作業も手馴れており問題なし。なんだか余裕はありましたが、「今回は電気の復旧が遅れるんじゃないか?」という情報に焦りましたが、夕方に復旧しました。
こんな感じです。現在の記憶としては。
最後に
自分自身感じたことや変化あったことは、
まず、震災の映像や体験談を聞いたときに、無意識に奥歯を食いしばる事に気がつきました。
今までそんなことが無かったので、身体の防御反応なのかなと思っています。
そして
「ありえないと思っていた事はありえてしまう」
という事。
確か3.18だったかな。朝からの降雪と吹雪で自転車で行けずに歩いて行っての帰り道。
大きな国道バイパスの陸橋の上からの景色は
人も車も店の明かりも無い、吹雪が吹き荒れる寒々しい光景でした。
普段なら、そして今はもう車がわんさか通るし店の明かりも見える。
それが一切無い光景でした。
今のこの現代社会で、こんな光景になってしまうんだとショックを受けました。
誰がこんな災害に遭うと思っていたか?
放射能の影響で住むところを離れて暮らしている人が日本で出てしまうと思っていたか?
そう考えると、なんだってありえるしあってはいけない事もおきてしまうんじゃないかと思います。
あの吹雪の寒々しい光景の空に、例えば戦争が起きて戦闘用の飛行機が飛んでいる事だって、起こっちゃいけないけど起こるような気がしてしまう感じがしてしまうようになりました。
とても怖いです。
平和ボケといわれればそれまでですが、そんな考えになってしまう事も怖いです。
今年はそういう意味でも特別な年になってしました。
来年はどんな年になりますか。
皆様、良いお年を。
岩手県といえども内陸で、津波の被害はない地域です。
被害はそれほど無いとはいえ、非現実的な数日間を過ごしたことも事実ですし、感じたこともあります。
その日前後の自分の行動や、今思うことを記したいと思います。
記憶は3.9までさかのぼります。
お昼頃に震度4の地震がありました。
ちょうどコンビニに居て、店員さんが酒瓶を押さえていました。
被害は特にありませんが、地域包括から独居高齢者の安否確認依頼がありました。
確認しましたが、もちろん無事でした。物的被害もなし。
そうか、大きい地震のときはこういう風に動くんだね・・・と簡単に認識。
それぐらいでした。
3.11の記憶は昼食からです。
初めてすき家でねぎ玉牛丼食べました。
午後からは主治医の意見書依頼にある整形に行かなければ行けませんでしたが、時間帯的に昼休憩時間なので、改めて行く事にして事務所へ戻る。
そしてその時・・・14:46
ちょうど「そろそろ行こうかな?」と思って立ち上がりました。
その時は事務所には一人相談の人が来ていてそれに対応している人一人と他自分を含めて3人在室。一人は外出中でした。
最初カタカタと揺れ始めたので、
「あれまたですね・・・一応ドア開けますね」
と部屋の一番奥からドアを開けに移動(僕のデスクは部屋の入り口からは一番奥です)
ドアを開けて最初に異変に気付いたのは、廊下の防火扉がフワーンと動いたのを見た時。
「ありゃ、結構大きいかも・・・」
と振り返ったところで本震到来。
大きな揺れで近くのドアと使っていないパソコンを必死に押さえる・・・いや物を守るではなく、必死に何かにつかまっていたと言う方が正しいと思います。
目の前には各職員と相談ブースから出てきた来客も同様に机等につかまっている脇で、机のものやらパソコンやらがバタンバタン落ちていくのを目の当たりにしました。
気持ちの中では、「あ~、あの窓のところから崩れていっちゃうのかな・・・」と少し死を意識しました。今から思うとうちの市は震度5強だったことを考えるとオーバーでしたが、それほど体験したことの無い地震でした。
長く揺れている間
「大丈夫・・・いや長いな~・・・治まれ~」と口に出していました。自分では周りの人に安心感を与えられればと思っていましたが、多分自分が声出してないと怖かったんだと思います。
揺れが終わりました。
うちの事務所はぐちゃぐちゃです。
机の脚の下に物が挟まっていたり、動かないはずのものが動いていたり。
自分のデスクのところが一番物が吹っ飛んだり倒れたりしてました。ドアを開けに行った事が幸いでした。
それからはその日来ていた透析・通所リハビリの利用者対応と思って避難している1階に行きました。自分の担当している利用者と話をしたり、ワンセグで情報収集したり。
ただ、沿岸に関係者が居る人が大勢居ることが考えられたので、あまり変に情報を流さないように気をつけていたのがあります。
内陸とは言え、みんなの意識は「コレだけ揺れたら津波・・・」となっていましたので。
途中大きな余震があるたびに声出して安心感を与えながら毛布を配るくらいしか手がありませんでした。とにかく途中からは「今ここを利用している人をどうやって無事に帰宅させるか?」がテーマになって行動していました。
途中、担当利用者さんとワンセグを見ていた時に、宮城の上空からの津波映像が中継されていて、本当に絶句してしまいした。
その横で、また別の担当している人が、「どうなの?沿岸は大丈夫なの??」と質問。
息子さん一家が沿岸に居ることを知っていたので、「大丈夫」としか言えませんでした。
後日その方の息子さん一家が全員無事だと聞いたときは、本当にほっとしました。
許可を取って(取ったかな?無理やりだった気も)通所にいる担当利用者で帰せない人(例えば一人暮らしで家の状況が分からない人や今送ってもいつもその時間は不在の人とか)の家を車で廻りました。
途中気になる利用者さん宅も廻りながら。
やはり大きな国道(うちのあたりだと4号線)が大渋滞で、車で渡らずに手前で駐車して歩いて渡りました。結果的に良かったです。
ただ携帯電話が使えないのが痛い。仕入れた情報を伝えるには、直接戻るしかなかったからです。電話の不通はかなりの大ダメージだと感じました。
いろいろ手配つけて、一人暮らしの方のところも娘さんが迎えに着たりでなんとか。
その娘さんから「ガソリンのほとんどないけど、どっかで入れられますかね?」と相談。
停電なので今は難しいのでは?と話しましたが、あんなに後日まで影響が出るとはこの時予想できませんでした。
帰宅は6時くらいでした。
家に帰る途中の様子は、酒瓶が多数割れている酒屋さんや懐中電灯で営業しているコンビニが見られ、非常時だとますます認識しました。
自宅は実家も含めて表面的には無事で(後日いろいろ出て来ましたが)
ただわが家はオール電化なので正直全滅。実家はプロパンガスで水道も無事(結局家の水系は断水無しでした。本当に恵まれていました)だったので、土鍋で御飯を炊いてカレーを食べました。
夜は蓄熱暖房機が停電しているとはいえ温かさをためていたので、1階に4人で寝ました。
子供たちが怖がり過ぎないように、「揺れたら早く机の下に入った人の勝ち」と行って少しゲーム感覚で避難指示。
なかなか眠れず、情報欲しさに携帯をいじって、すぐに充電が不足してしまいました。
3.12
翌日は休みでしたが、様子も気になり事務所へ。
みんな出てきてました。
片づけしながら、気になる所を何件か回って帰宅。
とてもいい天気でした。
本来であれば待ち望んだ春の日差しでしたが、あの独特なほっこり感は勿論無い一日でした。
確かこの日の夜には電気も復旧しました。
嫁ともこの時の話をしましたが、震災直後からラジオで悲惨な情報は仕入れていましたが、映像での情報はここまで入らなかったのは、良かったんじゃないかと。
つまり、ラジオで仕入れた情報で準備が出来た状態での映像との接触だったから。じゃなかったら・・・
3.14
仕事面では翌週から本格的な影響が出てきます。
まず介護サービスがほぼ全面的にストップします。
ガソリン不足のため、ヘルパーも原則ストップしました。
ケアマネージャーは各サービスをコーディネートする立場なので、各サービスが動けなければ、自分の持ち札が全く無い状況になります。
正直しんどかったです。
「何かしなければ」という焦燥感と「じゃ何が出来るよ」と言う無力感。
3.14の記憶は、公用車の燃料確保で手伝った位しか記憶無いです。なにかしら動いたんだけど多分。
3.15
友人の今の状況や頑張っている情報を知れば知るほど「何かしなければ」という思いが強くなり、自転車で気になる家を廻ることにしました。
管理者からは少し反対されましたが、押し切ってしまいました。
途中、自分の親戚のおばちゃんに会って、親類のお兄さんの死を知りました。
「戦争だぞ」
食料もガソリンも不足する中で、おばちゃんから言われた一言が残っています。
気になった利用者さんは皆無事でしたが、情報が不足していた為、知っていた情報を流しながら廻りました。情報を伝えたり確認できただけでも良かったと思ってます。それは今も。
3.16~
正直なんの仕事をしていたか残っていないです。
デスクワークをしていたんだと思いますが、「今これやってて本当にいいの?」との気持ちが強くて、身が入ってなかったんでしょう。
3.25あたり。
公用車のガソリン確保や自分の車へのガソリンも少しずつなんとかなってきて、徐々にサービスも再開してきた事でほっとしたのを覚えています。
4.2あたり。
家のあたりはだいぶ元の生活にもどりつつありました。
記憶としては、この週末は外食する人がとても多かったように思います。
4.7 23時30分頃
4人で寝てました。大きな揺れで親二人は起きて、とっさに子供二人をかばいました。たんすの上の時計?が上に飛び跳ねて落ちたのを覚えています。
そして揺れ終わったあとに「スーッと」電気が消えていきました。
すぐに思いました。やってしまったと。
自家用車はエンプティランプ点灯&携帯充電1メモリ。非常に後悔しました。
4.8
事務所はまたまためちゃくちゃ。ただ、2回目ということもあって復旧作業も手馴れており問題なし。なんだか余裕はありましたが、「今回は電気の復旧が遅れるんじゃないか?」という情報に焦りましたが、夕方に復旧しました。
こんな感じです。現在の記憶としては。
最後に
自分自身感じたことや変化あったことは、
まず、震災の映像や体験談を聞いたときに、無意識に奥歯を食いしばる事に気がつきました。
今までそんなことが無かったので、身体の防御反応なのかなと思っています。
そして
「ありえないと思っていた事はありえてしまう」
という事。
確か3.18だったかな。朝からの降雪と吹雪で自転車で行けずに歩いて行っての帰り道。
大きな国道バイパスの陸橋の上からの景色は
人も車も店の明かりも無い、吹雪が吹き荒れる寒々しい光景でした。
普段なら、そして今はもう車がわんさか通るし店の明かりも見える。
それが一切無い光景でした。
今のこの現代社会で、こんな光景になってしまうんだとショックを受けました。
誰がこんな災害に遭うと思っていたか?
放射能の影響で住むところを離れて暮らしている人が日本で出てしまうと思っていたか?
そう考えると、なんだってありえるしあってはいけない事もおきてしまうんじゃないかと思います。
あの吹雪の寒々しい光景の空に、例えば戦争が起きて戦闘用の飛行機が飛んでいる事だって、起こっちゃいけないけど起こるような気がしてしまう感じがしてしまうようになりました。
とても怖いです。
平和ボケといわれればそれまでですが、そんな考えになってしまう事も怖いです。
今年はそういう意味でも特別な年になってしました。
来年はどんな年になりますか。
皆様、良いお年を。