『半ズボンをはいた播磨屋』 中村吉右衛門/著

淡交社 2,427円 A5判 237ページ 1993年5月発行 978-4473012883

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歌舞伎見人(かぶきみるひと)

■出版社の案内文


やんちゃ坊主だった半ズボンの頃の播磨屋御曹司が、この世に生まれてから二代目を襲名するまでを、ふだん着のままの中村吉右衛門がつづる。

■目次

口上

半ズボンをはいた播磨屋

役者の素顔

あとがき


■歌舞伎見人メモ (抜き書きの部分もあれば、まとめた部分もあります)

・私は体が弱かったせいか、自分が長生きしないような気がしていました。もし五十まで生きられたら、私は

 仏門に入るのだと心にきめていたほどです。


・戦時中、日光へ疎開し、われわれ兄弟を世話してくれたばあやは、育ち盛りの兄のために赤ガエルをとって

 食べさせていたが、終戦後、兄は日光での赤ガエルの味がよほど忘れられなかったのか、東京の家の庭に

 ガマガエルが出ると、「ねえ、ばあばあ、カエルとって!カエルとって!」とねだり、ばあやをひどく困らせた


・私が吉右衛門になったのは二十二歳のときでした。不惑を過ぎた現在ならともかく、色気盛りの頃の

 「吉右衛門」は辛いものがありました。兄の名前の「染五郎」。三之助ブームの「菊之助、辰之助、新之助」。

 それぞれに色っぽい芸名です。その他「福助」とか「玉三郎」とか。女性ファンが手紙を書くにも「恋しい恋しい

 染五郎様」とか「愛しい菊之助様」とかすんなりと書けるでしょうが、「吉右衛門様」とくるとそうはいきません。

 「その後ギックリ腰はいかがですか?心を込めて腹巻を送ります」ということになります。


・私の場合は、初代に後継ぎができず、初代の弟の中村時蔵おじさんに男の子が多かったので、ゆかりの名を
 皆そちらへつけてしまい、私のときには何も残っていなかったのが現実です。
 播磨屋の家は、本来ならば「種太郎-米吉-もしほ-時蔵-歌六」というようになるのですが、初代のときから
 「萬之助-吉右衛門」という流れができました。

・ほとんどの役者さんは話上手で、昔の芝居の話とか失敗談など、同じ話を何度聞かされても面白いものです。
 ですから先輩方の残された芸談や自伝はみな聞き書き形式です。聞き書きをなさった作家や記者の方が、
 話の内容はもちろんですが、それ以上に話をした役者の口調だの間の取り方、話し振りを何とか活字にしよう
 と努力なさっているのが読みとれて、とても興味深いものがあります。

・週に何日か初代の家に泊まっていました。初めは初代と祖母の間に川の字になって寝ていました。しかし
 祖父と祖母の妙なるデュエット「んごんごんごおーん!」「ぐえぐえぐえーっ!」両側から襲ってくるいびきに
 悩まされ、夜中に祖父母を起こしたので、それからはめでたく次の間で寝ることになりました。

・着到板の上には序幕から順に狂言の題名と出演順に役者の名前がずらりと書かれている

・役者は楽屋入りして自分の部屋に入ると、まず部屋着といって浴衣に着物を重ねたものを着ます(夏は無礼講
 で浴衣だけ)

・ほとんどの役者さんが舞台から引っ込んでくると、今日は客席のどこそこに映画女優の誰々さんが来ている
 とか、誰が寝ていた彼が起きていたとピイチクパアチクやっていますが、私はその会話に入れません。
 というのも、子役のときから母に舞台での目のつけどころを厳しく言われたせいもありますが、芝居中は
 ほとんど客席が目に入らないのです。

・子役の頃、舞台裏で釘拾いをし、掌にいっぱい持っていくと大道具さんは喜んでくれました。私がやることで
 大人が喜んでくれたのは初めてでしたから、私はとても嬉しくなりました。それまで叱られてばかりでしたから
 喜ばすことの快感に目覚めました。もちろんせっせと釘拾いをしました。そしていつもにこにこ笑って冗談を
 言う子どもになりました。そうしていると周りの大人たちは喜んでくれたからです。

・「戻駕色相肩」という踊りで、私は禿たよりを勤めました。駕籠の中の私がボーイソプラノで「アーイ、アーイ」
 と返事をするのですが、その日も高音のよい調子で「アーイ、アーイ」と返事をしようとしました。しかし実際は
 無残にも「ガーイ!ガーイ!」と壊れた法螺貝のような低いだみ声を出していたのです。私は変声期に
 入ったのです。それが始まったのは突然で、しかも選りによって舞台の上でした。

・歌舞伎では、本読みの初めに必ず作者が本をひと通り読むのが習わしでしたから、注意深く聞いていれば
 知らない時でも何とか凌げたのです。先生方のなかには、この間亡くなった宇野信夫先生のように、
 科白まわしまでつけて読んでくださる方もありました。坪内逍遥先生や河竹黙阿弥先生などは玄人裸足の
 科白を読まれたそうです。

・私が反抗期になる前、優等生の兄にも反抗期がありました。兄はもっぱら口で反抗していました。演劇論やら
 人生論を母に吹っかけて激論のすえ、母が泣き出すというパターンでした。

・菊田先生に初めて東宝の重役室でお会いしたとき、私は意気揚々としていました。菊田先生という方は偉くて
 怖い方だと思っていたら、とても小柄でまるでキューピーさんに髭と眼鏡をかけさせたような方でした。
 それにとても照れ屋で少年のような方でした。

・われわれの東宝への移籍のことは、父方の祖父七代目松本幸四郎の追善興行の記者発表の席で突然父の
 口から告げられました。突然のことといい私は何も知らされていなかったので、無口な父がきっぱりとした口調
 で滔々と演説するのに、ただただ驚いていました。

・ばあやが癌で危篤状態になったとき、大阪の仕事を終えて飛んで帰って来た兄がばあやの手を握って
 「ただいま」と言うと、誰が呼んでも反応しなかったばあやがうっすら目を開けて「おかえんなさい、ご苦労さま」
 と言ったのです。ばあやは兄を待っていました。それっきり二度と再び目覚めませんでした。私はこのときほど
 兄を妬ましく思ったことはありませんでした。


・ 女房も同じ氏子や除夜詣
 これは、私の祖父である初代吉右衛門の惚気の句。この句碑が東京浅草、浅草神社(通称三社様)の境内に
 建っている。(→参照