『十一代目團十郎と六代目歌右衛門 悲劇の「神」と孤高の「女帝」』 中川右介/著

幻冬舎新書 987円 新書判 359ページ 2009年1月発行 ISBN978-4-344-98111-9 C0295

http://www.gentosha.co.jp/search/book.php?ID=300416



歌舞伎見人(かぶきみるひと)


■出版社の案内文


戦後、大衆からの絶大な人気を誇り、市川宗家の名跡のもとで劇界を背負う宿命を負った立役、十一代目團十郎。妖艶な美貌と才芸を武器に、人間国宝、文化勲章などの権威を次々手にして這い上がった不世出の女形、六代目歌右衛門。立場の異なる二人が一つの頂点を目指したとき、歌舞伎界は未曾有の変革を孕んだ―。華やかな舞台の裏に潜む、人間の野望と嫉妬、冷徹な権謀術数の数々。最大のタブーの封印がいま解かれる。


■目次

まえがき

プロローグ 一九四五年八月十五日


第一章 海老様ブームと歌右衛門襲名 ~一九五一年

      第一節 市川海老蔵

      第二節 中村歌右衛門

      第三節 戦争と平和

      第四節 歌右衛門襲名


第二章 始動と雌伏 一九五二~一九五五年

      第一節 天覧歌舞伎

      第二節 大佛次郎と三島由紀夫

      第三節 歌右衛門の新しい試み

      第四節 吉右衛門一座の亀裂


第三章 模索と分裂 一九五六年~一九六二年

      第一節 一九五六年、五七年 模索する役者たち

      第二節 一九五八年 海老蔵のストライキ

      第三節 一九五九年 嵐の前

      第四節 一九六〇年 公的栄誉と国際的評価

      第五節 一九六一年 分裂と決意


第四章 神の復活と死 一九六二年~一九六五年

      第一節 一九六二年 襲名

      第二節 一九六三年 團十郎の迷走

      第三節 一九六四年 『團十郎問題』

      第四節 一九六五年 神の死

      第五節 歌舞伎の変容


エピローグ いくつかの後日譚


あとがき


■歌舞伎見人メモ (抜き書きの部分もあれば、まとめた部分もあります)

・この本は、2010年をもって建て替えられる四代目の歌舞伎座を舞台に繰り広げられた、劇界の頂点の座を

 めぐる権力闘争の物語。なぜ十一代目市川團十郎は「神」になれなかったのか。いかにして六代目歌右衛門

 は劇界に「女帝」として君臨していったのか。


・歌右衛門は三島由紀夫と親交が深かった。三島の死後は、容姿と人気は衰えたが、劇界での権力はますます

 強固なものとなっていった。歌右衛門はテレビや映画には出なかったので一般的知名度は低かったが、

 戦後の文化・芸術・芸能の世界では頂点にあった


・2001年に歌右衛門が亡くなった際、新聞には追悼記事が溢れかえったが、それらのなかに「人気があった」

 とか「親しまれた」という語句はない。その業績や人格をよいほうに誇張して書く追悼記事ですら、歌右衛門に

 「人気があり」、彼が「人々に親しまれた」とは書けなかったくらい、歌右衛門は「人気」と「親しみ」の対極に

 ある人だった。だからこそ、彼は劇界の頂点、女帝だった。


・この歌右衛門とは対極にあったのが、十一代目市川團十郎だった。その人気は絶大で、何よりも「華のある人」

 だった。そして、あまりにも政治的センスがなく、周囲とも軋轢を起こし、劇界で孤立した。五十代にして亡く

 なったため、藝術院会員にも人間国宝にも文化勲章にも縁のない、無冠の人だった。しかし、死後も人気は

 続き、伝説の名優となった。


・海老蔵は若い時から人気があったわけでもなければ、演技力が評価されていたわけでもない。むしろ大根役者

 だと酷評されていた。青年時代、結核で四年の療養生活を送った後の初舞台では、『助六』の「口上」を務めた

 が、この口上が酷評された。「幕が開くと、かみしもの若造が現れて、(中略)といったような挨拶を述べたが、

 この若造の弁舌甚ださわやかならず、大根の徴が見えた」と、朝日新聞に書かれた。

 するとこの「若造」は、筆者の東大教授に手紙を書いた。抗議したのではなく、「あの若造云々の高麗蔵でござ

 いますが」という書き出しで、「不出来だらけにしても私の口上を聞いて下さったことを知り、もっと具体的に

 私のセリフの悪い点について注意なり、御指示を頂きたい」と書いたのである。


・1935年に東宝が劇団を結成したが、海老蔵は父に相談せず、東宝入りを決断した。その裏にあった事情は

 海老蔵の「男性関係」で、海老蔵が東宝劇団に走ったのは、どうしても、一人の女方俳優と、私生活はもとより

 舞台生活までをともにしたかったから、と記されている。相手は、片岡我童(当時は芦燕、死後に十四代目

 片岡仁左衛門を追贈)。


・海老蔵に市川宗家との養子縁組が決まると、海老蔵と我童は別れさせられた。海老蔵と別れた際に、我童は

 「お茶断ち」を決意し、生涯、水か白湯しか飲まなかった。来世は海老蔵と結ばれるようにという願掛けのため

 に茶を断ったのだという。


・地位も名声も財産も得た五代目歌右衛門ではあったが、若い時代に使っていた白粉に鉛が含まれていた

 ため、鉛毒に侵され子どもが釣れない身体となってしまったため、長男も、次男の六代目歌右衛門も、実の子

 ではなく養子であり、当時の劇界では誰もが知る事実だったが、歌右衛門本人の意向ゆえか、歌舞伎手帖

 などの出版物では、実子であるかのように記されている


・六代目歌右衛門は二歳半になっても立ち上がることができず、医者に診せたところ、生まれながらに左股関節

 を脱臼していたことがわかり、三歳になると手術をし、四歳になると再手術をし、一年にわたり全身をギプスで

 固定するという難行に耐えた。その甲斐があって、四歳の終わりには歩けるようになったが、左足は生涯

 不自由だった


・青年歌舞伎で主役を演じ、若手女方として注目されるようになった歌右衛門は、青年歌舞伎の同僚である

 守田勘弥に失恋したのが原因で、歌右衛門家の男衆と駆け落ちするというスキャンダルを起こす。この事件の

 せいなのか、青年歌舞伎は解散となった。


・中学生時代の歌右衛門は学校帰りにいつも初代吉右衛門の家に寄っており、遊び相手は吉右衛門のひとり娘

 正子だった。二人は仲良く、おままごとなどをして遊んでいた。大人たちは、二人が将来いいカップルになるの

 ではと期待していたが、正子が好きになるのは、父吉右衛門のもとで修業していた八代目幸四郎で、

 歌右衛門もまた、正子目当てに遊びに来ていたのではなく、幸四郎目当てに通っていた。正子と歌右衛門は

 幸四郎の話で盛り上がると、それは「女学生のファン同士がキャーキャー騒ぐみたいな感じ」だったと正子は

 回想している


・歌右衛門が守田勘弥と熱い関係にあった頃、海老蔵と我童というカップルもいたわけで、この四人だけが特殊

 というよりも、当時、歌舞伎の世界ではそうした関係が当たり前だったと考えたほうがいい


・昭和十八年、海老蔵のもとに召集令状が届いたが、礼状を受け取った日の夜から、彼は高熱を出し、寝込んで

 しまう。実父の幸四郎は国家のために名誉の召集令を受けたのに病気などするとは不甲斐ない、「死んでも

 行け」と電話をかけてきた。海老蔵は自動車に乗せてもらい、入隊の集合地点に向かったが、そんな重病人は

 お荷物になるだけで、そのまま帰宅を命じられた。チフスだった。


・日本敗戦後、仇討ものの演目は上演を禁じられていたが(正確には、禁止ではなく指導)、1947年11年に

 ついに『仮名手本忠臣蔵』が通しで上演された。同じ敗戦国のドイツで、ヒトラーに庇護されていたバイロイト

 音楽祭が復活するのは1951年だから、それよりも四年早い歌舞伎の完全復活だった


・六代目尾上菊五郎が亡くなった通夜の晩、日本演劇史に名を残す、「物干し場の会議」が開かれた。

 菊五郎の家が弔問客でごった返していたため、集まれる場所が物干し場しかなかったからなのだが、

 菊五郎一座の役者たちがこれからも一座として続けていこうと誓い合った。座頭である菊五郎がいなくなって

 しまったので、菊五郎一座とするのはおかしいので、「劇団」と改称された。また、合議制による劇団となった。


・襲名披露公演は興行としてうまみがある。話題になるし、当人とその贔屓筋が成功させねばと必死でチケットを

 売ってくれる。松竹としては、1940年から消えている中村歌右衛門の名を一日も早く復活させたいと考え、

 その名の継承権を持つ藤雄(6代目歌右衛門)に襲名を迫っていたが、彼は自分にふさわしい場所での襲名を

 望み、断り続けていた。(当時、歌舞伎座は戦災のため改築中だった。)


・帝劇では翻訳劇やオペラの上演と並び、歌舞伎も上演される方針だった。そこで歌舞伎座は1906年に役者が

 他劇場へ掛け持ち出演するのを禁止する目的で、幹部技芸委員というポストを創設し、役者たちを運営に

 引き込み、運命共同体にした


・六代目歌右衛門が1951年に歌舞伎座で襲名を行った際の口上が興味深かった。普通は主だった役者が

 ずらりと並んで行われるが、歌右衛門襲名の口上は、当人と、後見人である初代中村吉右衛門、そして甥の

 中村福助(後の芝翫)の三人のみが舞台にあがった。さらに、当人と福助は黙って座っているだけで、

 口上を述べたのは吉右衛門ひとりだった。


・歌右衛門が芝翫を襲名したときも三人だけだった。自分ではこう説明している。「昔は襲名する本人は謙虚に

 していて、何も言わなかったんです。本人が挨拶するようになったのは最近ですよね。私は昔のやり方の方が

 良いと思いますけれども」と。

 歌右衛門が謙虚な人間であったのならば、この言葉はそのまま受け止めていいだろうが、彼はそういう人では

 ない。そこには謙虚とは正反対の意思があったと解釈すべきであろう。

 歌右衛門にとっては、同僚の役者たちからの祝辞など、この大イベントには邪魔だったのだ。いったい誰が、

 自分に「おめでとう」などと言えるというのだ。祝辞を述べていいのは、自分よりも上の立場の者だけだ。彼は

 歌右衛門の名を継いだことで、劇界のトップに君臨する決意を示したつもりだった。これから、自分の下になる

 人間たちから祝辞を述べてもらう必要などないのだ。甥の福助を同席させたのは、自分が歌右衛門を継いだ

 ことを、五代目直系の孫である彼も納得していること、自分の歌右衛門襲名の正統性をアピールするためだった。


・歌右衛門の後援会は、当時650円だったチケットを3万枚買い取った。公演の全席数の15%を後援会が引き受け

 たことになる。


・こうして河村藤雄は34歳にして中村歌右衛門になった。それは、歌右衛門王国において「王位」に就いたことを

 意味していたが、劇界には他にもいくつもの王国があった。菊五郎王国、吉右衛門王国、幸四郎王国、猿之助

 王国 -それらを束ねた上に君臨すうる「帝位」に就かなければならない。他の役者にはそんなものを目指そう

 という意識は希薄だったが、彼だけが、それを意識していた。いや、もうひとりいた。だが、この時点ではまだ

 鳴りを潜めていた。市川海老蔵、後の十一代目團十郎は、この時期、かたくなに團十郎襲名を拒んでいた。


・自分の劇団を持たない海老蔵は、菊五郎劇団に客演扱いで参加していた。歌右衛門は、襲名と同時に、それ

 まで参加していた吉右衛門一座において、自分をそのように客分として別格にしてほしいと吉右衛門夫妻に

 詰め寄った。

 吉右衛門劇団では、吉右衛門がトップで、その下に並列で歌右衛門、幸四郎、勘三郎がいた。吉右衛門が

 亡くなると、座頭の後継者候補は、吉右衛門の実弟の勘三郎、娘婿の幸四郎、劇団から離れていはいたが

 弟の時蔵、そして歌右衛門だった。歌右衛門にしてみれば、吉右衛門一座を継いだところで、苦労が多い

 だけで、そんな面倒なことに興味はなかった。歌右衛門にとって重要なのは、劇界全体の中で誰が吉右衛門

 のいるポジションに就くかだった。

 「別格」問題は結論は出ず、歌右衛門はとりあえず矛を収めた。


・1953年に、昭和天皇が歌舞伎座を訪れた。歌右衛門はこの日のために、周到な準備をしていた。

 この天覧歌舞伎を撮った写真として、二階席最前列中央に天皇・皇后がいて、花道で歌右衛門が踊っている

 場面のものがあり、多くの本に掲載されている。なぜ、座頭の吉右衛門ではなく、歌右衛門の写真が撮られた

 のだろうか。

 この写真は、歌右衛門が写真家の吉田千秋に直接依頼して撮ってもらった写真で、「天覧の客席を開幕5分前

 の客席がまだ明るいうちに、二階の右側から撮影しておいて、別の日に同じ位置から客席の半分が中央にな

 る構図を撮り、もう一枚は歌右衛門を中心に露出をあわせて撮った」。こうして撮った三枚をつなぎあわせて、

 「天覧歌舞伎の写真」は出来上がった。写真は必ずしも「真実を写す」ものではない実例である。だが、合成

 であろうがなかろうが、「花道で踊っている歌右衛門を観る天皇・皇后」という事実はあったわけだし、それを

 証明するものとして、この写真は永遠に残るものとなった。


・いわゆる「三島歌舞伎」と呼ばれるものは、合計して六作あり、そのうち歌右衛門を想定して書かれたものは

 五作となる。第一作の『地獄変』では、歌右衛門は台本が出来上がるまで何も関与していないが、歌右衛門は

 「『地獄変』には三島さんの匂いというのか、味というのかが薄いように思えます」と指摘する。そして、この作品

 には「三島歌舞伎」という言葉は当てはまらないとまで、歌右衛門は言う。三島歌舞伎とは、イコール歌右衛門

 歌舞伎である -歌右衛門はそう思っていた。


・海老蔵は菊五郎劇団の客分として同劇団と行動を共にし、歌右衛門は吉右衛門一座のひとりとして行動して

 いたので、共演機会がなかったが、観客は共演を望んでいた。それを阻んでいたのが松竹である。松竹として

 は、両劇団が合同で歌舞伎座に出れば、たしかに客は喜ぶかもしれないが、満席の二千席以上のチケットが

 売れるわけではない。しかし、出演料などのコストは、吉右衛門一座だけが出るときよりもかかる。松竹として

 は、歌右衛門と海老蔵は別々に出てもらったほうが経営効率はいいのである。


・六代目尾上菊五郎が亡くなったときの物干し場会議のように、初代吉右衛門が亡くなったとき、同じように協議

 がなされた。座頭は置かない、「吉右衛門劇団」と称す、勘三郎、幸四郎、歌右衛門、吉之丞を加えた四名に

 よる合議制で運営すると決まったらしい。

 だが歌右衛門にとっては劇団の維持そのものに関心がなかったし、むしろ劇団制そのものを崩壊させ、劇界を

 再編成し、自分が頂点に立つ  -それこそが歌右衛門が描く構想だった。


・海老蔵は1953年9月に結婚を披露した。実際にはだいぶ前に、彼には妻と子供がいたのだが、公表していな

 かった。「海老さま」が独身だと思っていた多くの女性ファンにとってはショッキングなニュースだった。その翌月

 の10月、歌舞伎座での九代目市川團十郎五十年祭で、存在が公になった海老蔵の長男の夏雄が初舞台を

 踏んだ。後の十二代目團十郎、このとき、八歳だった。


・歌舞伎から映画に転身して大スターとなった例に、初代中村錦之助や市川雷蔵がいるが、舞台で演じていた

 わけではない、長唄三味線の二代目杵屋勝丸が映画界に入ると大スターになってしまうのは、劇界の誰にも

 予想できなかったであろう。勝新太郎である。


・幸四郎も海老蔵も映画に出ていたので、歌舞伎が絶滅しても、時代劇スターとしてやっていけるかもしれない 

 が、映画には女形の居場所はない。歌右衛門にとっては、歌舞伎しかなかった。だからこそ歌右衛門は、誰に

 頼まれたわけでもないのに、常に歌舞伎会全体の行く末を考えなければならなかった。

 歌右衛門の自己中心的な思考と権力志向が、結果的に歌舞伎界全体を救うのだから、皮肉なものである。


・日本俳優協会は、歌舞伎と新派の役者で構成される団体で、新劇や映画俳優にはそれぞれ別の協会がある。

 当初は役者たちに納税させるための組織として作られた。江戸時代の役者たちは身分が低かったが、納税の

 義務もなかった。しかし、明治になると、差別される対象ではなくなった代わりに納税の義務が生じるように

 なる。その後、徴税期間としてだけでなく、俳優相互の親睦や地位の向上、福利厚生などを目指す団体へと

 発展していく。


・歌右衛門には実子はいなかったが、妻の兄の子二人を養子にとった。二人には加賀屋福之助、橋之助

 の名を襲名させた。加賀屋は、初代から三代までの中村歌右衛門の屋号で、四代目から成駒屋になったた

 め、絶えていた屋号を復活させた。(現在の梅玉と魁春)


・1959年に、三島由紀夫編集による歌右衛門の豪華写真集が発売となった。『六世中村歌右衛門』という書名

 で、五百部限定、定価一万五千円。現在なら18万7500円ほどにもなる。全何巻という本ならばともかく、一冊

 だけでそれだけ高価な本など、現在では考えられないだろう。歌右衛門の後援者にはこれだけ高価なものを

 購入できる層が、500人近く見込めたということである。


・幸四郎の生涯が回顧される際に必ず語られるのは、文学座の『明智光秀』、文楽との「日向島」、そして『オセ

 ロ』だが、幸四郎自身は、「世間を喜ばせてやろうtか、びっくりさせてやろうというつもりはまったくなく、地味で、

 地道で、コツコツあったこと」なのだと息子に説明している。


・大佛次郎作の『大仏炎上』は、言葉が非常に難解な作品で、本読みが始まる直前、主役の海老蔵は突然、

 「これを中止したい、とてもできません」と真剣に切り出した。そして本当に中止になってしまうという事件があっ

 た。海老蔵は完全主義者だったので、セリフをすべて覚えてからでなければ舞台に出なかった。『大佛炎上』

 中止は、海老蔵にとって辛い決断で、悩みに悩んでいるうちに稽古当日を迎えてしまったのだろう。当人として

 はこのタイミングしかなかったが、なかなか理解されることではなかった。


・十一代目團十郎襲名後、「團十郎と歌右衛門」時代が本格的に始まったが、そのあおりを受けたのが、

 歌右衛門とコンビを組んできた勘三郎だった。團十郎と勘三郎は同じ年の生まれで、勘三郎は團十郎を

 ライバル視していた。そして、楽屋の部屋争いが勃発した。團十郎が、襲名したからは奥の部屋に移るといい、

 だがそこは勘三郎が入る予定で、勘三郎が拒み、團十郎が楽屋入りをしない事態になった。

 この楽屋事件により、襲名してから團十郎の性格が変わったと誰もが思うようになった。少年時代は「お辞儀の

 金ちゃん」、その後も「お辞儀の海老さん」と呼ばれていた人が、急に偉そうな振る舞いをするようになったと

 受け取られた。團十郎にしてみれば、もはや自分は海老蔵ではないので、團十郎として生きなければ

 ならない、周囲も團十郎として扱うべきだと考えていた


・市川一門の役者の襲名にあたっては、市川家代々の墓の前で襲名認証式をするのが恒例となっていたが、

 猿翁・猿之助襲名の際、松竹は猿之助にも團十郎にも何の連絡をしないまま、準備を進めてしまい、結局

 市川宗家たる團十郎不在の襲名となった。市川宗家との和解はならず、團十郎は襲名の口上にも出なかった


・伝統歌舞伎保存会が発足したのは、歌舞伎を国の重要無形文化財として総合指定することが内定していた

 ため、その受け皿として設立されたもので、この重要無形文化財への指定は、江戸時代の初めに誕生して

 以来、時の権力、徳川幕府によって弾圧につぐ弾圧を受けていた歌舞伎が、初めて公に国家の保護下に入る

 ことを意味していた。これを「出世」とみるか、「堕落」とみるかは、思想信条によって異なるだろう。

 指定されたことで何が変わるかといえば、文化財となり、保護を義務付けられた結果、歌舞伎は古典演劇と

 しての姿勢を保つべく、演技者や演出において、ある程度の規制を受けることになり、博物館化していくのだった


・口上の挨拶は、中央の人から始まり、舞台上手の方向に進む。そして一番上手の者が終わると、今度は下手

 の端の人になり、中央に向かっていく。上手と下手のそれぞれ端には、「大物」が座る。中央に近いほど、親戚

 とか指定などの関係は濃い。


・1980年代半ば、歌右衛門は玉三郎について問われると、人気と努力は認めるが、古典ものはまだもうひとつで

 あり、「玉三郎の歌舞伎であって、歌舞伎のなかの玉三郎にならなければと思うの」と語っている


・歌右衛門が養子にした二人の息子は一人前の役者になり、1967年に甥の福助を七代目芝翫に、その長男に

 五代目児太郎を襲名させるとともに、二人の子を、八代目福助と五代目松江にした。この時点では、

 歌右衛門の名跡は、彼の死後、まず芝翫に、それからまた、歌右衛門の方に戻し、福助が継ぐという構想が

 あったようだが、1992年には、福助には四代目梅玉を、芝翫の子の児太郎には九代目福助を襲名させた。

 これにより、歌右衛門の名跡は、芝翫、福助の父子の順に継がせるか、あるいは芝翫はそのままで福助が

 将来継ぐという、歌右衛門の意向が明らかになった


・96年には歌右衛門は株式会社歌舞伎座の取締役になったが、はるか以前から、歌右衛門の了承なくしては、

 歌舞伎座の演目も配役も、誰がどの名をいつ襲名するかも決められない状況になっていた。だからこそ、

 同世代のライバルである雀右衛門は藝術院会員や文化勲章が遅く、玉三郎は人気と実力があるのに

 歌舞伎座の舞台にはなかなか立てなかった


・歌右衛門が老いてその美しさを喪うと、「歌舞伎は美しければいいというものではない」という主旨の批評が

 氾濫した。そんな歌舞伎が大衆の支持を得られないのは当たり前だった。その状況に最も危機感を抱いた

 のは、他ならぬ歌右衛門だった。歌右衛門は自ら決断し、いくつかの重要な役を玉三郎に伝えることにする。