溢れては零れ、そして、流れ落ちる。
薄青色の病院着。
落ちた涙の染みが、次々とそこに奇妙な模様を描いてゆく。
「・・・。」
何度も何度も、緩やかに繰り返されるその涙の様子を、俺はただ黙って見ていた。
不思議な泣き方だと思った。
嗚咽を上げる事はおろか、微かに喉を震わせる様子すらなくただ涙だけが流れ続けている。
ただただ静かに。
未だ穏やかな表情の中で、唯一涙を流し続ける瞳だけがまるで別物のように――上手くは言えないが、例えば水と油、白と黒、光と影ほどに“違うもの”として――悲しみを湛えていた。
「あれ・・・何で俺、泣いてんだろう・・・。」
やがて口を開いたJr.。
誤魔化しではなく、本当に驚いた様子で慌てて目を擦り始める。
―――混乱・・・いや、もしかしたら本当に分かっていないのか・・・・・・?
確かにこいつはいつも強かった。
それは勝負や身体的な事ではなく、常に前を向き、あきらめない心の強さという意味において。
―――そう・・・そういう意味では多分、こいつは俺なんかよりずっと強い。
だが、強さは脆さと表裏一体。
耐えられるうちは――跳ね返せているうちはいいが、ひとたび小さな傷でも付いたが最後。
そこをきっかけに全てがひび割れ壊れてしまいかねないという危うさが増すのも、また事実で・・・。
「可笑しいな・・・。止まらねぇ・・・・・・。」
ふとあの日――リザーブマッチで時間超人に破れ、瀕死の状態でここに奴が運ばれてきた日――右腕の接合が叶わなかった経緯をラーメンマンから聞いていた奴の、冷静過ぎる程冷静な態度が脳裏によみがえる。
面会時間が終わり、俺達が部屋を出るその最後の最後まで揺るぎなかったその裏側でも――さらに言うならそれから今日この瞬間までも――、恐らく涙は奴の奥で溜まり続けていたに違いない。
―――ガキのくせに・・・・・・。
露わになったJr.の“傷”をじっと見る。
先のトーナメントでの屈辱。
リザーブマッチの敗北と失った右腕。
そして、ラーメンマンの死・・・。
体と同じ――いや、もしかするとそれ以上にボロボロな心。
最早自分の感情すらまともに認識出来なくなっているこいつに、せめて“気付かせて”やらなくてはいけない。
抑えに抑えていた感情が遂に限界を迎えた、その何よりの証拠たる雫は憐れで切なく、それでいてとても、透き通っていた。
その後もしばらく止まらない涙を必死に拭っていたJr.。
ようやく左手を下ろした時には、薄明かりでも分かる程両の眼が赤味を帯びてしまっていた。
「・・・・・・悪ぃ。」
「何で謝る?」
「だって、泣くなんて・・・。」
小さくそう詫びる姿は本当に子供そのもの。
だが泣く事、悲しむ事それ自体を否定しているような様子の奴に、しかしどんな言葉を掛けてやればよいのかと尋ねる相手はもちろんここには居ない。
―――お前なら、何て言うかな・・・。
ふとこんなタイミングでパートナーを頼ろうとした自分に、つい苦笑が洩れそうになる。
改めてどれだけあいつが大きな存在だったかという事をこんな形で実感――痛感――した俺は、軽い溜息でひとまずそれを一掃し奴と向き合った。
「別に悪くはねぇだろ。楽しけりゃ笑うし、悲しけりゃ泣くさ。」
「・・・。」
「真っ当な反応だと思うけどな・・・・・・違うか?」
「けど・・・けど、師・・・ラーメンマンは、自分でああいう形を選んだ。」
「ああ・・・それは、確かにそうだな。」
「しかもモンゴルマンとしてじゃない・・・。ちゃんと、ラーメンマンとして・・・・・・だろ?」
「ああ・・・。」
「なら、やっぱり・・・泣いちゃいけねぇと思う。」
「・・・なぜ?」
「そりゃ―――だって、格闘家として・・・何より、超人として。あれ以上の幕引きなんか多分無ぇはずだから・・・――」
普段は庇に隠れた、一見こちらを向いているJr.の眼はしかしやはり所在なさげで、そのせいかどこか他人事のように聞こえてしまう。
確かにそれも答えの一つではあるのだろう。
だが、まだどこか“違う――もしくは欠けている”ような気がしてならなかった。
―――そうじゃない・・・。“お前”は何を想うんだ?
嘘とまでは言わないが本音とも言い難いそれらの、さらに奥底にある感情。
未だ奴の服に残る涙の染みの、その最たる元であろう想いに向かって俺は訴えた。
「まあ、確かにお前の言う事も間違ってはねぇが・・・。けど、それだけじゃねぇだろ?」
「それだけ・・・って?」
「大事な人にはずっと生きていて欲しい。それこそ・・・誰だってそう願って当然だと思うがな。」
「・・・。」
「女々しくたって、矛盾したって・・・何でもいいじゃねぇか。確かに奴はお前に進めと言った。けど・・・たまにはちゃんと立ち止まる事も、同じくらい大事な事だと俺は思うけどな・・・。」
「・・・。」
「それにラーメンマンの事もそうだが、お前・・・ずっと辛かったんじゃねぇのか?負けた事・・・そして、その腕の事も・・・。」
「それは・・・でもそれは俺が―――」
「もちろん、俺達は強さが全てだ。けど、たまにはちゃんと泣いておかねぇと、いつかお前・・・・・・本当に潰れちまうぞ。」
正直根拠も脈絡も無い、浮かんだ端から口にしていったそれらだったが、そんな自分の言葉のどこかに何かを思い出したのか。
“同じような事言うなよ・・・。”
しばし呆然と自分を見ていたJr.だったが、やがて消え入りそうな程小さな声でしかし確かにそう呟くと、突然左手で服の右胸辺りを鷲掴んだ。
「・・・・・・っ。」
さっきまでの様子とは一転、体を折り苦しげに息を詰める奴の姿に一瞬不安が過ぎる。
「おい・・・どうした?」
「違・・・ごめ――」
しかしどうやら体の痛みではなく、ようやく悲しみを悲しみと認めた、それは心の痛みに因るものだった。
―――やっと・・・・・・気付けたか?
俺はもうそれ以上何も言わず、自分の腹まで覆っていたシーツを引き寄せると、俯く奴の背にそっと掛けてやった。
それこそあからさまな“情け”。
だが奴は、意外な程素直にそれを受け入れた。
傍らで震える子供。
その体を覆った白い布の隙間から覗く、空っぽの右袖が再び目に刺さる。
―――本当にもう、元には戻らねぇのかな・・・。
あの日ラーメンマンが“気休め”と切り捨てた一縷の望み。
それでも、なぜか祈らずにはいられない自分が居る。
―――って、何を俺はこんなに必死に・・・?
憂いとも戸惑いともつかない溜息をつきながら、天井に向かって寝返りを打つ。
ベッドの軋み音。
それがJr.の発する泣き声と混ざりあう。
これまでの事。
これからの事。
そして今日この夜の事・・・。
当分止みそうにないその悲しい音を聞きながら、俺は改めて、消えたあいつに問い掛けた。