控室に戻り内側から鍵を掛け、奥のシャワー室へ向かいつつ身に着けているものを脱ぎ捨ててゆく。
誰も居ない部屋。
そこに自分の靴音、そしてバサリバサリと床に落ちる服の音だけが、やけに大袈裟に響く。
そうして覆うものを一つずつ失ってゆく体。
もちろん、軍帽も――つまりは徽章も――例外では無く。
見る間に力が抜けていくが、体の奥深くでざわつくドス黒い感情だけは、収まるところかさらに激しさを増してゆく。
―――今日の試合で丁度百・・・。でも、やっと二十人か・・・。
―――まだ全然足りない。もっと、もっと殺さなきゃ・・・・・・。
薄いシャワー室の扉。
その金属の取っ手に掛けた自分の手は、こびりつき固まった対戦相手の血で見る影もない。
恐らくは相当な血臭が漂っているのだろう。
だが、既に鼻は麻痺して何も感じない。
ファーターが殺されてからもう半年が経った。
訃報を知るより先に頭首の座に就いた――というか訳も分からないまま無理矢理就かされたのだが――自分。
この世でたった一人の家族。
その無残に千切れた遺体の眠る棺を土深く埋めた次の日から、俺は課された職務とトレーニングを除いたほぼ全ての時間を、国内で開催される超人レスリングの試合に費やしていた。
試合に出る目的は二つ。
次に開催されるあの世界大会に、国の代表として選ばれるだけの実績を作る為。
そしてもう一つは、より大きな力を――その為の血を、命を――得る為だ。
徽章を継ぎ、強靭な肉体を得てもなお、全く敵わなかったファーター。
そんな、自分よりずっと強かったファーターを殺したあいつを倒すには、通常の鍛錬を行う程度では恐らく一生かかっても間に合いやしない。
もちろん、技もまだまだ磨きをかけなくてはならないし、一応“レスリング”という形態で行われる試合である以上、それ特有の体裁きを身につける事も大切だ。
―――そして何より、あいつの技や動きを覚える事も・・・・・・。
だが徽章を継いでからの約二十年の間に、何百人もその手で殺めてきたファーター。
それらを考えると、やはり少なくともあと数十人は殺し力を得なければ自分に勝ち目は無い。
―――今よりさらに倍となると、もっと試合数を増やさないと間に合わないな・・・・・・。
自分が公の試合に出る度口喧しく反対してきた家人や一族のお目付け役達も、とうとう諦めたか今では物言いたげな視線を向けるに留まっている。
その様子から推察するに、外からの非難の声は恐らく相当なものなのだろうと思う。
彼らが文句を言いたくなる気持ちは、分からなくもない。
表舞台に出る事は少ないが、それでも数世紀も前からこの国と深く関わっていた由緒ある一族の主が、毎日のように一般人の面前で野蛮な殺し合いに興じているのだから。
―――でも、仕方ないじゃないか・・・。大手を振って殺せる奴らは、既に一人残らずファーターが始末してしまっていたのだから・・・。
だが、一方で己のこの行動を容認する者達も少からず存在するという事もまた、紛れもない事実。
徽章を持つ人間が遂に自分を含めて僅か三人になってしまった今、個々の能力が一層問われるようになったからだ。
―――そうだ・・・結局皆、自分の事しか考えてないんだ・・・・・・。
―――義務は完璧に果たしているんだ・・・。それ以外で好きな事をやって何が悪い!
新たに湧き上がったくだらない苛立ちを一掃すべく、シャワーのコックを目一杯捻る。
勢い良く噴き出した水。
それが、火照った肌の温度を瞬く間に奪ってゆく。
己の体を伝い、排水溝に向かって流れる水。
薄赤色に染まるそれが、ゴボゴボと音を立てて吸い込まれてゆく。
ファーターを殺したあいつという存在。
それを、自らの手でこの世から消す。
その実現に向けほぼ一日も休む事無く振るい続けたこの右手は、日を追う毎に威力を増している。
“殺し”すら許される超人同士の戦いのリングに初めて立ち、そして初めて人の命を奪ったあの瞬間すら、今では遠い昔の出来事のように思える。
そしてそんな忌むべき瞬間さえ、自分の中には後悔の念はおろか、これっぽちの罪悪感すら芽生えはしなかった。
ただ訓練では経験しなかった、“生の肉や骨や内臓を抉る”感触には、微かな嫌悪を覚えた。
また、自分を怯えと蔑みが入り混じる表情で見つめる観客達の視線に戸惑いを感じた事も否定しない。
けれど、ただそれだけ。
むしろ拍子抜けした程、人を殺す事は“簡単”だった。
そしてどんな事でも、一度経験してしまえばその後はさらに楽になる。
それまでの満ち足りた屋敷での暮らしから一転、訓練施設でのあの厳しい生活でさえ、慣れてしまえば至って普通の“日常”となりえたのだから。
―――唯一慣れないのは、そう・・・ファーターが居ないという事実だけ。
―――それ以外は何でもない。全く、取るに足らない事だ・・・・・・。
ふと、体に微かな痛みが走る。
残らず洗い流したはずの相手の血。
だが、床を流れる水にはまだ微かに色が混じっていた。
すっかり忘れていたが、そういえば試合の最中、相手の放った膝蹴りを一発食らったような気がする。
鋭利な棘の付いた膝当てを身に着けていた対戦相手。
見れば確かに、自分の脇腹にはそれとほぼ同径の穴があいていた。
「・・・。」
左側のやや下。赤黒く抉(えぐ)れたそれに軽く触れる。
決して浅くはないが、再び徽章を身につけさえすれば血も直ぐに止まる。
そしてこの程度なら、数日もすれば傷痕すら見えなくなるだろう。
徽章の力を得てから――というよりも、ファーターが死んでからだろうか。
痛みに対する感覚が、さらに鈍くなったように思う。
自分の体。
なのに、自分のものじゃないような違和感。
もちろんそれは、単純に徽章の力に寄るところが大半なのだろうが、それにしてもこの無頓着さは、流石におかしいと言わざるをえない。
―――いや・・・。正確には、この傷を負った日から・・・・・・かな。
己の首筋に横一線に走る傷。
ファーターの手自らもたらされたそれは、幼い頃揃いでもらったチェーンに並ぶ程、今や自分にとって何にも代えがたいものとなっていた。
依然激しく降り注ぐ水を浴びたまま、普段はヘッドギアに隠れて見えないその傷痕を、さっき腹の傷に触れた時よりもずっと柔らかな手つきでなぞり確かめてゆく。
僅かに盛り上がった肉の一筋。
ほぼ直線に走るその一部が歪(いびつ)になっているのは、その後何度も自分で抉ったからだ。
徽章を得た事によって失ったものは、もう帰ってこない。
そして引き換えに得たものには、僅かな愛着さえ湧かない。
これも運命なのだろうが、せめて、これ以上ファーターに纏わる何かが自分の傍から消える事だけは何としても避けたい。
水を止め、未だ血の流れる傷口にも構う事無く、傍らに置かれたタオルで体を拭う。
一瞬、壁に据え付けられた姿見に映る自分と目が合ったが、肩の“証”を失ったその貧弱な様に耐えかね、すぐさま目を反らす。
真っ白なタオルが、見る間にまだらに汚れていく。
さっきまで自分の手を染めていたものと、己の脇腹から滲むもの。
その二つが全く同じ色である事が、なぜか妙に笑えて仕方なかった。