ふと開け放したたままになっていた窓から吹き込んだ風に頬を撫でられた俺は、自分がすっかり眠り込んでしまっていた事に気付いた。


 ―――二時過ぎ。という事は、半時近くも・・・・・・。



 こうして知らぬ間に意識を無くす事が、最近増えてきたような気がする。


 もちろん、ジェイドの前でそんな醜態を晒すような事だけは無いよう気をつけてはいるが、いよいよ再び与えられたこの体にも“限界”が近づきつつある現実を改めて実感した俺は、窓に向かって軽い溜め息を吐いた。






 己の現役最後の戦い。
 そこで生き絶え、そして再び蘇ったこの体。


 超人を統べる一族の、その奇跡の光の加護とでも言ったところだろうか。
 以前のように殺さなくとも――この手を血で汚さずとも――、普通に生きてゆけるようにはなった。



 だが幸か不幸か、やはり徽章の力無くしては超人でいられない自分。
 しかも唯でさえ無駄な年月と不摂生を重ねたこの身で、毎日休みなく成長した弟子の相手をするのは中々容易い事ではなかった。


 ―――まぁ、今でもこうして変わらず動けるだけでも、十分過ぎる程ありがたい話には違いないが・・・・・・。


 消える間もなく、次から次へと蓄積される肉体的な疲労とダメージ。

 どれだけ気力でカバーしようともやはり限界のあるそれらは、遂に目に見える形で体に現れるようになっていた。



 ―――正に、“自業自得”とはこの事だな・・・。



 はっきりと自覚するようになったのは半年程前からだろうか。
 時折不快な痛みと共に喉の奥からせり上がる、生々しい味と鉄臭。


 それも全ては無駄に費やした十数年への“罰”だと――要は己が撒いた種なのだと――思えば苦ではなかったし、目に見えない痛みより見える痛みの方がずっと楽だという事も十分過ぎる程分かっていた。

 それに体の苦痛は心のそれとは違って、必ずいつかは治まる。
 そう信じてずっとやり過ごしてきたのだが、悲しいかな一旦苦痛を訴えた体の“悲鳴”は、鎮まるどころか激しさを増す一方だった。



 元々徽章を継いだ人間の寿命は短い。


 もちろん、その殆どは――例えば師匠との試合で命を落としたファーターのように――事故死や戦死といった類の、明らかに“天寿ではない”死因によりこの世から去っていった訳だが、少なくとも記録が残る中で自分が最も長く生きているという事だけは、紛れもない事実だった。


 ―――そうだ・・・。自分は少々長く生き過ぎただけ・・・・・・。



 じき五十に差し掛かろうとしている自分の年齢。
 ファーターの年齢を超えた辺りからなるだけ考えないようにはしていたが、今や自分はそれよりさらに十年以上も年月を重ねた事になる。



 ただでさえ常人が持つには余りに大きな力をその身に抱えて過ごした数十年。

 それを経てもなお、こうしてジェイドの“師”で居られるという奇跡。



 それも恐らくは、あの光の力のお陰なのだろうが、ふと、もしかすると理由はそれだけではないのかもしれないという考えが脳裏に浮かび上がってきた。


 ―――奴が・・・いや、でもまさか・・・・・・。



 一度完全に朽ち果てたこの身には、もう奪った誰の命も宿ってはいないと思っていた。
  


 だが、ニンジャから教わったあの歌が添えられた包みがこのタイミングで自分のもとに届いた。


 それはつまり、あの時――奴が俺や仲間達の腕中で事切れた直前の、正にあの時――もらった奴の魂の一部が、まだ自分の中にあり続けているのではないか。

 そして今でも、自分を支え守ってくれているとは考えられないだろうか。



 「・・・なんてな。世迷い言にも程がある・・・・・・。」



 余りにとりとめのないその考えに、思わず口から漏れた本音に苦笑しながら、気持ちを切り替えるべく大きく一つ深呼吸をし、机の上の軍帽を深々と被り直す。



 「ありて世の中、はての憂ければ―――か。全く、違い無いな・・・。」


 
 開け放していた窓を閉めながら空を仰ぐ。


 一瞬白い小さな何かが舞ったような気がしたが、ただの陽の光の残像だったと分かるとまた苦笑が漏れた。


 






 「レーラァ・・・!レーラァ!!」


 ひとしきり思いを巡らせ、さて一人にしていた弟子の様子を見に行こうとしたその時、けたたましい足音、そして自分を呼ぶ声と共に、ジェイドが部屋へと飛び込んできた。


 「レーラァ!ああ、ここに居らした。あ・・・でもご用は?」
 「今終わった。それより何だ。そんな大声で・・・。それに、屋敷の中を走るなと何度言ったら――」
 「ああ・・・すみません。でも、ええと・・・これ見て下さい!超人委員会からです!」



 差し出された黒い無地の封筒。

 その中には、かつて若かりし自分も手にした、超人オリンピック開催の案内とそのエントリー用紙が入っていた。


 「これは・・・。」


 ジェイドが慌てるのも無理は無かった。
 
 案内によれば開催は三ヶ月後。
 自分も出場し、そしてそこで勝利以上に価値あるものを沢山得たあの大会から、それは実に三十年ぶりの開催だった。



 「そうか。またあの大会が行われるのか・・・。」
 「ね、凄いでしょう!レーラァが何度も話してくれたオリンピックですよ!!その知らせが、まさかこうして自分の手元に届くなんて・・・。」
 「本当だな。もう二度と開催されないと思っていたが・・・。」
 「三ヵ月後・・・。三ヵ月後に、誰が一番強いのかが決まるんですよね。」
 「ああ・・・。で、その様子ならもはや聞くまでもないとは思うが・・・出たいか?」
 「もちろん!レーラァに鍛えてもらったこの体と腕で、俺・・・今度こそ一番になりたいです!」


 両の拳を強く握りしめながらそう答えるジェイドの笑顔は本当に眩しく真っ直ぐで、俺はそんな変わらない弟子の気質にそっと目を細めた。


 「・・・そうか。」
 「ええ!優勝して、ベルトをもらって・・・そしてレーラァに恩返ししたい。」
 「恩返し?」
 「はい!この間ば駄目だったけど・・・でも、今度こそ勝ち抜いて、そして俺が一人前になった姿を、レーラァに見てもらいたいです!」



 生き生きと言葉を続ける弟子の、その澄んだ眼に映る自分の姿。

 かつて自分も誰かに向かって口にした“一人前”という言葉の、そのどこまでも純粋で幼い響きに誘われて零れた己の笑みに、しかしもう違和感を覚えるような事は無くなっていた。



 「そうだな・・・。期待しているぞ、ジェイド。」



 もう自分は、ニンジャのように華々しく散る事は出来ない。
 もはや表舞台に立つ機会すら無ければ、それに臨む為に必要な気力も体力も残ってはいない。


 ―――そう。ただゆるやかに枯れゆくだけ・・・。


 だがせめて、手塩にかけたこの若い力が、今度こそ世界に向かって羽ばたいてくれたなら。 


 ―――自分の分まで、立派に花咲いてくれたなら・・・・・・。


 その為にこの身が役に立つのなら、本望だと思った。






 ジェイドと暮らして早や十年近く。


 先の戦いでは叶わなかった弟子の一人立ち。
 それを果たさねばならない時が、いよいよ近づいている事を感じた。


 「・・・。」
 「・・・レーラァ?」


 ジェイドと出会う前の十数年もの時間を自ら望んで孤独に過ごしてきたにも関わらず、今更再び訪れる一人の時間を想うと、なぜか妙に心が揺らいだ。



 「レーラァ・・・?どうかされました?」
 「ん・・・いや・・・久し振りにあの時の事を思い出したら、何だか血が騒いでな・・・。それより、大会まで三ヶ月。相当厳しいトレーニングになるが、大丈夫か?」
 「もちろん!お願いします、レーラァ!!」



 僅かな表情の陰りを慌てて“師”という仮面で覆い隠し、ジェイドの肩口に拳を当てる。


 跳ね返すようなその力強い感触に向かって、俺は残り僅かな使命に己の全てを捧げると誓った。

 







 そしてその日の夜。

 俺はジェイドに、仲間が見せてくれた幻と、そしてその時交わした約束の話をして聞かせた。



 弟子が淹(い)れた温かい紅茶を右手に、手紙を机に。
 そして、左手で傍らに座る弟子の頭を時折撫でながらの談笑。


 久しく触れていなかった、ジェイドの癖かかった髪の感触は相変わらずとても心地良く手に馴染み、俺の心は再び穏やかに揺らいだ。



 ―――送り出すというのも、中々辛いんだな・・・。



 思えば自分とファーターは、これといった親離れ・子離れをする暇も無いまま死に別れてしまった。



 子供が自立し、己と違う道を歩き始める。
 そんな独特の寂しさを、結局実感する事なく死んだ自分の父親。



 もしかするとそれは、もちろん残念な事には違いないのだろうがそれでも――ある意味とても幸せだったのかもしれないと思った。









 酒は自室の棚の奥に閉まった。


 「全部終わったら、ゆっくり飲ませてもらうよ・・・。」


 そんな、他愛も無い“約束”を添えて。