奴が見せてくれた景色。


 視界を覆い尽くす花々。
 次から次へと、舞い落ち舞い上がる花びら。



 自分が桜を見たのは、未だそのただ一度しかない。









 その日、妙な荷物が届いた。


 歯切れの悪い言葉を繰り返す家人に眉を顰めながら居間に向かうと、窓際に据えられたテーブルの上にそれは置かれていた。



 日本からの荷物。
 但し、送り主は不明。


 海の向こうから届いたそれは、アルファベットで記された住所や搬送中に押されたいくつかの判からも、確かに日本から送られた事だけは間違い無いようだった。
 だが国名以外の地名は行った事も無ければ聞いた事すら無い場所。そして家人の言っていた通り、送り主の名を書くべき欄は、全くの空白になっていた。



 薄い土色の紙で厳重に梱包されたその包みはかなり縦長の立方体で、持ち上げると見た目より幾分重かった。


 ―――日本・・・という事は、ウルフか・・・?いや、でも奴はファクトリーで教官をしているはずだし・・・。それに、もしそうなら宛名を書かない訳は無い。


 テーブル横のソファに腰を下ろし、改めて手にしたその包みを試しに軽く振ってみると、小さくカタカタと何かが当たる音に混じって、なにやら液体らしきものが揺れているような感覚が伝わってきた。


 ―――まあ、自分の手元にあるという事は、少なくとも物騒な類の物では無いのだろうが・・・。



 かつての仲間でタッグパートナーでもあるウルフ以外に心当たりの無い俺は、それでもその包みを手にしばらく頭を悩ませていたが、程なく諦めるととりあえずそれを開けてみる事にした。






 かなり厳重に結ばれた紐。
 その僅かな隙間に小指を差し入れ、ほんの一瞬力を籠める。


 ぷつりと小さな音を立てテーブルに落ちる紐から、微かに焦げたような匂いが漂った。



 ジェイドが完全に技をマスターした今、もはやナイフの代用程度にしか使い道の無くなった自分の手。
 そんな己の右手に、つい自嘲にも似た笑みを洩らしながら包装紙を解いてゆくと、中から木箱と白い封筒が出てきた。


 「・・・?」


 箱の中には見慣れないラベル――おそらくは日本酒――の酒が一本。
 そして裏にも表にもやはり宛名らしきものなど無い、真っ白な無地の封筒の中には、やはり見慣れない、だが遥か昔何度か目にした――師匠が筆と墨を使って書いていたものに何となく似た――覚えのある、縦書きの文字が綴られた紙が一枚入っていた。


 たった二行の短い文章が書かれたその紙の中にも、やはり宛名らしきものは無かった。


 ―――漢字と・・・こっちは平仮名・・・・・・か?



 三つ折りに折られた、やや厚手の、そして幾分黄みがかった紙の表面を指でなぞる。


 大きくうねるような曲線を描いたと思えば掠れるように消え、さらに太くなったり細くなったりを繰り返す黒い線の群れ。
 目にした事が無ければ絵に見えていたかもしれないそれは、眺めれば眺める程、何かの生き物のように思えた。






 日本語である事には間違い無かった。
 しかし俺は、そこから知った単語の一つすら見付けられずにいた。



 現役時代に慣れ親しんだその言葉は、世界のあらゆる国から集まった仲間内で話す際の“共用語”になっていた事もあり、“話す”という点においては何の不自由も無かった。

 だが、何分「平仮名」と「片仮名」、そして無数の「漢字」が入り混じるその独特な構成は、特に“読む”という点において、たかだか数十個――アルファベット二十六文字にウムラウトの付いた三文字、そしてエスツェット(β)を加えた三十文字――の文字しか持たない言語を母国語とする自分にとっては、かなりな労力を伴うのだった。


 ―――せめて、筆以外のもので書いてくれればな・・・。


 もちろん公式文書等、“書面”を読む程度の訓練は幼少の頃から――それは日本語に限らず、英語やフランス語に始まり、先進主要国の公用語は殆ど全て――積んできていた事もあり、余程専門的なもので無ければ、おおよその内容は理解出来た。

 だが、本や新聞等の印字ならまだしも、筆と墨、しかも人の手で書かれた殆ど一筆書きのようなその文字は、意味がどうこうと言う以前に、まず個々の文字一つ一つが何であるのかを判別する事が、自分には出来ないのだった。


 ―――とは言え、放っておく訳にもいかないし・・・。かと言って自分宛てに来た手紙を他人に・・・ましてや家人に託すのも忍びない・・・。

 ―――仕方ない・・・・・・少し調べてみるか。



 考えたところで進展する兆しなど微塵も無いこの状況――それこそ、この包みの送り主の心当たり以上に八方塞がりな状況――に、俺は一つ溜息をつくとソファに預けていた体を起こした。






 「分かりました。じゃあロードワークが終わったら、またお声を掛けに伺いますね。」
 「ああ。俺の部屋か書庫かのどちらかには居るから、戻ったら覘いてくれ。」
 「はい。じゃあ、行ってきます!」
 「ああ・・・それからジェイド。」
 「はい?」
 「いつも言っている事だが、もし傷に違和感を感じたら、途中でもすぐ戻って来るんだぞ。分かったな。」
 「はい、レーラァ。大丈夫、ちゃんと分かってます。」



 俺はその手紙を片手に庭へ向かうと、サンドバック相手にトレーニングを続けていたジェイドに、少しばかり席を外す旨を簡単な経緯を絡めて説明し、次いで追加のメニューを指示した。



 H/F一期生二期生の入替え戦。
 そこで弟子は、右腕を切断されるという大怪我を負った。


 一時は再起不能も覚悟した。

 だが、流石は若い――そして純粋な――超人と言うところか、驚くばかりの回復力見せた弟子の右腕は、今や肩口に僅かな傷跡が残る以外は、まるで切断前と変わらないまでに元の動きを取り戻していた。



 街に向かって駆けてゆくジェイドの、その後ろ姿を目で見送る。
 もちろん、弟子の体の状態については既に医者からも太鼓版を押されていたが、自分の体でない分、つい余計な心配をしてしまうのだった。



 すると、そんな不安混じりの自分の視線に気付いたのだろうか。
 ジェイドはふと振り返ると自分に向かって大きく手を振った。そして再び走り出した次の瞬間、庭木を飛び越さんばかりに高くジャンプした。


 しなやかで、それでいてはち切れんばかりの筋肉を纏った右腕が大きく振りかぶられ、次いで空を切る小気味よい音が庭に響いた。


 ―――良い動きだ・・・。もう本当に、大丈夫そうだな・・・。



 くるりと宙を回って着地した弟子は、“どうだ”と言わんばかりの満面の笑みを自分に向けながら街へと消えていった。



 弟子が去り人の気配が無くなった庭。
 代わりに心地よい風が木々の葉を揺らした。


 ―――それにしても、あのお調子者ぶりは・・・。“明るい”と言えば聞こえも良いが、ついこの間それで着地に失敗して傷を作った事、もう忘れたか・・・。



 俺は安堵と苦笑の入り混じった溜息をつきながら身を返すと、敷地の隅にある書庫に向かって歩き出した。