事の前。


 俺は奴の頬に軽く口付ける。




 それは回を重ねるうちに何となく習慣化した、他愛もない所作であり。
 これから自分が与える苦痛への“謝罪”でもあり。



 触れるだけのそれを頬に落とすと、決まって奴は、照れたような、少しふてくされたような顔で横を向く。



 長い睫毛に縁取られたガラスのような眼。

 その、冷たい蒼色に浮かび上がる複雑な表情の中に、少なくとも“怯え”が存在しない事にまずは安堵する。





 自分の――奴にすれば大きすぎる程大きな――体。
 その下。肘をついて出来たその空間に、すっぽり収まった白い体。



 長くしなやかに伸びる四肢。
 その肩から腕にかけて刻まれた印(しるし)の、痛々しい程鮮やかな色の対比。
 暗がりでもほのかに光を放つ、細く柔らかい白金の髪。


 そして一片の非の打ちどころも無い、それでいてどこか幼さを残した顔。



 今なら簡単に握り潰せる。
 覆い隠すものを失った奴の容姿は、そんなことさえ思わせる。



 その中にあって、唯一変わらず強い主張を示す瞳が再び自分に向けられる。



 蒼色の中に見え隠れする感情。
 それは、底なしの愁(うれ)い。



 心の奥に深く根付いてしまったそれを拭い去ってやる事は、悲しいが自分には出来ない。

 いや、俺だけではない。

 
 それが出来るのは、既にこの世から居なくなった奴の一番大切だった――そして恐らくは今も一番大切な――人、その人一人だけなのだから。



 血という絶対的な繋がりの前には、全てが無力。
 いやがおうにも痛感してしまうそれ。



 けれど、忘れさせてやるくらいなら出来る。
 たとえこの一時だけでも、その呪縛から解放してやるくらいの事なら自分にも出来る。



 だが、軽々しく言葉を紡いだところで、まだ幼い奴の――何より複雑に入り組み歪んでしまった奴の――心に届きはしない。



 だから。



 俺は体を、熱を、そして視線を与え続ける。






 窓から見える月。
 薄雲を纏ったそれは、今自分にその身を預けるこの存在と、余りに重なって何とも切ない。



 吹き込む風が二人の間をそっと通り抜けてゆく。



 小さく一つ、白い体が震える。
 もっと温めてやりたいと思う。






 薄いシーツ。

 そこに覆い隠された奴の両足の間に、自分の体を割り込ませる。


 軽く眉根を寄せながら声を洩らす白い膚。

 これから耐えねばならない痛みを予感しているのだろうか。
 その呼吸は、次第に荒く、そして浅くなってゆく。



 それを少しでも軽くしてやりたくて。
 俺は肘をついた左の方の手で、何度も奴の髪を撫でる。



 矛盾。



 そんな事は分かっている。






 指と舌で解きほぐしたその場所。


 少しずつ。
 だが、確実に。


 奴の中に、自分を埋め込んでゆく。



 自分が体を進める。
 その度に白い体が小さく跳ねる。


 その度に強く締め付けられる。



 ふいに肩に走った小さな痛み。
 奴の立てた爪が皮膚に食い込む。






 添え手を必要としなくなるくらいまで埋め込んだところで、空いた右手で奴の左脚を抱え上げる。


 膝裏を掬い持ち上げたその脚は、自分の腕よりも細い。



 小さく、掠れるような呻き。
 それと共に伝わる、押し戻されるような感覚。


 逆らわず、時に抵抗しながら。
 ゆっくり腰を進めてゆく。





 自分の肉に、奴の肉が絡みつく。
 外の色からは想像もつかない程熱い、中の温度が直に伝わってくる。



 締め付けられる苦しさと、包まれる心地良さ。



 白い顔が苦痛に歪む。
 血の気の引いた薄い唇からは、途切れる事無く音が漏れ続けている。



 不意に湧き上がる、残酷で破壊的な衝動。


 それを必死で抑えつける。






 受け継いだ血が成した体と、その血を売って得た強大な力。


 自分が踏み入れた、非情で残酷な世界。
 そこで生きてゆく為には、絶対に必要だった――そして今でも絶対に必要な――それら。



 だが、この時ばかりはその体と力が恨めしくなる。



 自分にその身を開き委ねる奴に与えている苦痛。


 それが一体どれ程のものか。
 考えただけで吐き気がする。



 慈しみたいと思えば思う程――そして求められればなおのこと――与えたくなる。
 だが、与えれば与える程、傷付け壊してしまうという現実。



 そんな堂々巡り。
 胸が詰まる。




 単なるエゴかもしれない。


 だが、それでも与え続けたいと思う。






 痛みのせいか。
 それとも、別の何かを想ってか。


 奴の目に、薄っすらと涙が浮かぶ。



 荒い息使いに混じって聞こえる、さらに先を望む声。



 掴まれた肩がジワジワと疼く。
 爪に破られた皮膚。



 余りに小さな痛み。
 だが、間違い無く奴から自分に与えられたその確かな感覚に、少しだけ許された気になる。





 望みのまま。
 呼吸に合わせ、残りの全てを一気に埋め込む。



 髪を撫でる方の手はそのままに、奴の左手に自分の右手を重ねる。


 溢れ出し、零れ落ちる涙。


 奴の名を呼びながら。
 何度も口付けながら。



 想いを祈る。
 もっと、縋って欲しいと願う。






 奴の体の奥。
 そこから滲んだものが、自分の肉に絡む。


 微かに漂う血臭。
 けれど、今更止めはしない。



 途中で引く。
 その方がかえって奴を苦しめてしまう事――何より奴がそれに酷く傷付く事――を知っているから。



 近しい存在が急に離れていく事。
 その手に掴んでいたものが突然消えてしまう事。


 失う事への、恐れ。


 その過剰なまでの執着が、単なる性格や幼さから生じているものでは無い事もまた、俺は知っている。



 自分の肩を掴んでいた白い手。
 それがシーツの中に潜り込み、限界を迎えた熱を必死で堰(せ)き止める。


 二人の間で濡れ光る奴の肉が、戒められた熱に震え、悶え、さらに張り詰めてゆく。



 「バ・・・ファ・・・。もう・・・・・・。」



 幾筋も伝う涙。
 思考が停止する。



 深く、さらに深くまで穿つ。






 「ん・・・?どうした?」


 乱れた呼吸を整え、そしてゆっくり熱を放った肉を引き抜くと、決まって奴は自分の背に腕を回してくる。


 微かな甘えを帯びたしぐさ。
 素直に愛しいと思う。



 「別に・・・。何でも・・・ない。」


 ぽつりとそう漏らす奴の顔は、自分の体の陰に隠れてこちらからは伺えない。



 自分の背に回された腕に、一層力が籠められる。


 さらに愛しさが込み上げてくる。





 自分の胸に縋る白い膚。
 その額に口付け、両の腕で包む。



 やがて聞こえてくる微かな寝息。


 穏やかで単調なその音が、自分の意識を甘く溶かしてゆく。



 未だ背に回されたままの腕。
 夜が明けるまで、決して離れないそれ。
 


 もちろん同じ夢を見られるに越したことは無い。

 だが、それは叶わなくとも、せめて良い夢を見られるように。



 悪い夢を見ないように。



 今はただ、それだけを願う。