「・・・レーラァ?」
 「・・あ・・・いや。悪いな。ちょっと色々思い出していた・・・。」


 つい馳せた思いに気を取られた俺の目の前には、不思議そうに自分を覗きこむジェイドの姿があった。





 胸の内の微かな動揺と憂いを悟られまいと、軽く咳ばらいをしながら、ジェイドの頭に置いたまになっていた手を引っ込めた。
 そして、元居た傍らの木に再び背を預け、大きく一つ深呼吸すると、再度彼に向きなおった。


 相変わらず弟子は、真っ直ぐな眼差しを自分に向けていた。 


 「それで、その、俺の最も特別な人だが・・・。」



 その時、左の胸ポケット辺りに、痒いような、くすぐったいような感覚が走った。


 釦を外し、そこに収めていた小さな布切れを取り出す。
 時折ふと取り出すくらいで、殆ど光に当てていないはずのそれは、しかし経た年月のせいか、もらった時よりも随分と色褪せてしまっていた。





 あの日、ソルジャーが俺にくれた青色のバンダナ。





 自分の最後の戦い。人生の中でも、最も過酷で、そして最も誇り高い戦い。
 己の力だけで使命を果たせたその試合で、俺が命と引き換えに守ったそれは、あの人の掲げた誇りで、信念で、眼差しと同じく俺にとってあの人そのものだった。


 そしてソルジャーと交わした約束の証しでもあるそのバンダナは、夢を失い、生きる意味を失い、遂には己自身をも失いかけた自分を、何とかギリギリの所で繋ぎとめたものの一つでもあった。


 ―――だからこそ、余計に辛かったのも確かだけれど・・・。


 それを受け取ってから二十年と少し。ずっと闇の中に居た俺の時計は、まだ動き出したばかりだった。


 ―――ずっと立ち止まったままだったけど・・・。でも今は、あの時あんたに見送ってもらった時のように、ちゃんと前に向いて歩いてるよ・・・。


 この“色褪せ”に自分が追いつくには、まだ暫く時間がかかる。
 恐らくそれは、弟子が一人前の正義超人に成長する事と同じくらい――もしかするとそれ以上に――、険しく苦しい道のりになるのは必至だった。

 だが、いつかそれに追いつけた時。
 その時にはきっと、弟子の瞳に映る自分に違和感を抱く事も無くなっているのだろう。


 ―――だから・・・悪ぃけど、もうちょっと待っててくれよな・・・。


 そう心の中で呟きながら、それを掴んだ手をそっと鼻先に近づけた。
 

  “――焦る必要はない。待っているから。”


 恐らくは気のせい。
 だが、そんなあの人の声が聞こえた気がした。



 「それは・・・?」


 突然取り出したその布きれをただ黙って見つめる自分と自分の手元を、ジェイドは興味深げに覗き込んできた。


 「ああ・・・。これか?そうだな・・・これが“答え”だ。」
 「答え?」
 「そう。その特別な人からもらったもの。格闘家としての俺にとって、何より大切なもの。・・・ただ、悪いが今は、ここまでしか話せない。」
 「内緒・・・って事ですか?」
 「いや、そうじゃない。まだそういう時期ではないという事だ。」
 「?」
 「お前はまだ小さい。だから、この人がどれだけ俺にとって特別な人だったかという事を、お前に上手く伝える自信が俺に無いんだ。」
 「・・・。」
 「こればっかりは、すまないがな・・・。だが、もう少しお前が大きくなったらちゃんと話すつもりだ。約束する。」
 「約束?」
 「ああ・・・約束だ。」
 「じゃあ・・・。僕、早く大きくなりますね!」
 「はは・・・。そうだな。」


 俺があの人から得た多くのもの。それをジェイドに話すには、まだ少し早かった。

 それらを正しく伝えるには、その後の挫折、そして葛藤・・・。何より自分が「元・人間」である事まで含めて話すべきだと考えていた。いや、むしろそこまで話さなければ、あの人が自分に与えてくれたものの大切さを、きちんと伝えられないと思っていた。


 小さな弟子はまだ八つ。
 もっと色々な事を教え、体も、そして心ももう少し成長した時。


 その時には、全てを包み隠さず話そうと思った。



 歯切れの悪い師の答え。けれど約束という言葉に満足したのか、ジェイドは満面の笑みを湛えながら、俺に向かって何度も“頑張る”、“早く大きくなる”という言葉を繰り返した。

 そして俺はその笑顔の中に、歩き出してから初めて抱いた“光ある未来”をはっきりと見ていた。


 ジェイドが大きくなり、あの人の事を話せるようになる日。
 俺があの人からもらったものを彼の心に刻める日。
 そして、彼が一人でもちゃんと“歩いて”いけるようになる日。


 ―――俺があんたからもらったもの。それを未来に託すまで。

 ―――それをやり遂げるまで。もう少しだけ・・・。


 そんな未来はきっと、いや、必ず来る。


 ―――このバンダナを片手に、無駄に過ごした二十年も含めて、自分の歩いた軌跡を笑って話せる日・・・。


 そしてきっと、あの人は待っていてくれている。

 そう思えた。



 俺はもう一度バンダナを鼻先に近づけ、軽く目を閉じた。
 こうする度脳裏に過ぎるソルジャー達の姿。日増しに遠のいてゆくそれらが、今日はいつもに増して自分の近くにあった。


 ―――会いたいな・・・。


 久し振りに駆られた、そんな望郷に似た思いについ口の端が緩むのを感じながら、俺は木の幹にもたせかけていた体を起こした。


 「さて・・・と。少し余談が過ぎたな。訓練に戻るぞ。さっきの続きからだ、ジェイド。」
 「はい、レーラァ!」
 「何だその態度は!休憩は終わったんだ。へらへらするな!また痛い目に遭いたいのか?」
 「い、いえ・・・でも、あの――」
 「だったらさっさと行け!」
 「は・・・はいっ!!」
 


 俺は慌てて身を翻し駆け出していった弟子を怒鳴りつけながら、手にした布を再び胸ポケットに収めた。


 ―――焦らなくてもいい。ちゃんと、待っているから・・・。


 そしてそう心の中で呟きながら、小さな背中の後を追った。