その日、国は大きな前進を遂げた。
俺の持ちえた策の、明らかにどれより平和的な方法で。
西側のそこを、ぐるりと囲んだコンクリートと鉄の塊。
東はそれを「守護の壁」と呼び、
西はそれを「恥辱の壁」と呼んだ。
分断された街。陸の孤島。
それが、西ベルリン。
冷戦の象徴とされたその壁の中で、俺は産まれた。
その、他に類を見ない状況を、当たり前の事とさえ思う世代の一人だった。
壁は壊せる。
いや、壊さなくてはいけない。
そうはっきりと思うようになったのは、他でもない。
壁の外を、広い世界を見たから。
そして、どんなにいがみ合う間柄でも、どんな悪でも、揺るぎない信念さえあればそれは打破出来る事が分かったから。
幼い頃、その壁を出て海を見る事が自分の夢だった。
そして成長し、それなりに力を得て壁の中に帰ってきた自分は、今度はその壁を内から壊す事を“生涯の”目標として掲げた。
超人史上稀に見る戦いに幕が下ろされ、そして生死を共にした仲間と別れるまでの数日。
酒を片手に語り合ったのは、各々が頭に描いた未来の事ばかりだった。
ある者は家庭を望み、またある者は次を担う子供達に尽力したいと語った。
一つの目標に向かって走り続けた仲間が各々描いたそれらは、驚く程多種多様だった。
けれど皆、一様に晴れ晴れとした顔をしていた。
そして俺は、国にこの身を捧げる事を誓っていた。
例に洩れず、笑顔で。
その壁を壊すには、少なくともあと五十年、長ければ百年かかるとも言われていた。
自分もそう思っていた。
礎になればいい。
糸口になればいい。
自分が人々を守る盾に、“壁”に、なればいい。
そればかり考えていた。
だから、何度も何度も思い描いた平和な未来に、自分の姿は欠片も存在していなかった。
思う必要すら、感じてはいなかった。
しかし、今日、その壁は開かれた。
いともあっけなく。
しかも、それを築いた『東の者達』の意志によって。
自分が内から壊そうとしていたその壁は、外から開かれた。
きっかけは、言葉。
どこかの寓話のように。
“Open Sesame.”
正に、そんな冗談にも思えてしまうような勢いで。
「良かった・・・んだよ・・・な。」
間もなく日付の変わろうとする深夜。俺は、窓にぼんやり映った自分に向かってそう呟いた。
邸の最奥にある自室に、入れ替わり立ち替わり訪れては状況を報告していた家人達も、今は殆ど出払ってしまった。
その歴史的大事件を自身の目で確かめる為に。
何より、向こう側からやってくる人々と手を取り合う為に。
とめどなくやって来る“国賓”と、共に喜びを分かち合う為に。
「良かったんだ。」
さっきよりやや強い口調で漏らしたその言葉が、やけに引っ掛かった。
良くないはずはない。
むしろこれは奇跡。
団結した民衆が起こした奇跡。
彼らは血を流す事無く、それをやってのけたのだ。
血を流さない。
それは、俺の中に唯一無かった選択肢で。
「誰も傷つかずにすんだんだ。こんな良い事は無いじゃないか・・・。」
だが・・・・・・。
けれど・・・・・・。
ならばなぜ、自分はこんなにも冷静なのだろうか。
その答えが欲しくて。
けれど、部屋には誰も居ない。
よって窓に映る自分との、無益で無意味なやりとりばかりが続く。
「もっと喜べよ・・・。」
だが、目の前の男は一向に笑おうとしない。
当たり前だ。その為にはまず、自分が笑わなければならないのだから。
今まで味わった事のない空虚。
その感情を何と言えばよいのか。
本は山ほど読んだが、肝心のそれに当てはまる言葉は一向に出てこなかった。
まだ折り返し地点にも達していない自分の人生。
その、見る者によってはごく短い時間の中で、やはり一番辛かったのは――誰でもそうだろうが――、大事な人の“天寿ではない”死だった。
例えば、友の死。
そして、父の死。
身を切られるような痛み。
それは、超人でも人間でも同じ。
けれど、今の俺はそれすらも乗り越えられるようになっていた。
多くの仲間が力尽き息絶える瞬間に立会い、そして自分自身も何度も死の淵に立った。
そんな真剣勝負を繰り返すうちに、自然と鍛えられていった自分の心。
軽んじる訳ではなく。
立ち止まらないこと。
それこそが超人の強さだと、教えてくれたのは師と仰ぐあの人だった。
けれど、避けられる痛みは避けるべき。
それもまた、事実。
無意味に苦しむ必要は無い。
罪の無い者なら、そしてそれが弱い者であればある程、それはなおさらのこと。
そしてその苦痛を、過去はさて置き、今日は誰も感じていないのだ。
犠牲の無い勝利。
素晴らしい事じゃないか!
「これを喜ばずして、何を喜ぶってんだ・・・。」
それでも残る違和感。
思わず息を呑む。
何の為かは分からないが・・・。
自分の足元が、一瞬大きく揺らいだ。
残念ながらそればかりは、気のせいではなかった。
何よりの証拠は、咄嗟に体を支えようと窓に向かって出した自分の手だった。
目の前の男の手が、自分の手に触れる。
半分透けたその手はとても冷たかったが、今、自分に差しのべられた手はそれ一つしか無い。
静寂。
外の喧噪も、さすがにここまでは届いてこない。
自分自身の世界が、今までで一番狭く閉ざされている。
そんな錯覚に陥りそうになった。
まるで自分の周囲をだけを、ぐるりと“透明な壁”が築かれたような。
そして築いているのは、自分に他ならないという矛盾。
そう、これは矛盾だ。
間違っている。
「馬鹿馬鹿しい。何だっていうんだ・・・。」
これ以上深追いしてはいけない。
慌てて二度、三度、頭を振ってみると、少しスッキリしたような気がした。
こんな負の感情は、それこそ錯覚なのだ。
排除しなければいけないのだ。
考えては、いけない。
自分は混乱している。
自分はこの突然の出来事に、戸惑っている。
そうに違いない。
そうであるべきなのだ。
だから、そうだ。
自分も外に出よう。
皆の歓喜の声を聞けば。
喜び涙に咽ぶ顔を目にしさえすれば。
今自分が抱く全ての疑問、そして違和感など、すぐに掻き消されてしまうだろう―――。
けれどその日、結局俺は自室の――あの壁に比べれば何倍も薄く、軽く、そして脆いはずの――扉に、手を掛ける事すら出来なかった。
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壁が崩れたとき
壁が崩れたとき
ぼくの胸につっかえていたものも
崩れ落ちた
壁から
ぼくの脳みその中まで伸びてきた
コンクリートの塊が
突然、はずれた
でも頭痛は残った
ぼくが窮地に追い込まれるたびに
頼りにして来た建造物の廃墟の上を
支えるものなしに歩いたとき
目まいに襲われた
ぼくは愕然として空虚を見つめた
これまでイコンを飾っていた壁が
視界を全く遮っていたところに
いまでは空虚な穴がひとつ空いている
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