近いのに遠い―――。そんなJr.に突然渡された漆黒の服に、しかし慌てて自室に戻って袖を通したジェイドは、改めてその服が至極上等なものである事に改めて狼狽した。しかしさらに驚いたのは、着替えを終えて再び目にしたJr.が、彼の服よりさらに深い黒の、普段のそれとは異なる造形の軍服を身に纏っていた事だった。
見慣れた師――Jr.はいつも年期の入った灰緑色の軍服を身に付けていたが、必要最低限の釦を留め、袖を幾重にも折ったその様は、贔屓目に見てもこの大きな屋敷の主とは思い難いものだった――とはまるで別人のような荘厳な出で立ちに、ジェイドは思わず身を竦めた。
普段の倍はありそうな沢山の釦をきっちり留めたその軍服の胸元には、様々な形の勲章。襟を縁取る銀糸の光沢に囲まれた首元の黒いネクタイの上で僅かに揺れる鉄十字は、胸元のどの勲章よりも豪華な細工が施され、その十字に交差する長剣の柄には琥珀色の宝石が埋め込まれていた。しかし何よりジェイドの言葉を失わせたのは、その衣装から覗く師の白い顔が、伸びるに任せていたまばらな不精髭が無くなったせいで、それこそ別人のように気高い印象を際立たせていた事だった。
そんな、一歩間違えれば時代錯誤ともとれる衣装をごく自然に着こなした師に目を奪われ立ちすくむ弟子の様子を尻目に、ジェイドの頭からつま先に向かって何かを確認するように視線を走らせていたJr.だったが、やがてその目をある一点で止めた。それは結び方が分からず手に握られたままになっていたネクタイだった。
「貸せ。」
「あ・・・。これ・・・その・・・。」
「・・・いいから貸せ。」
そう言いながらジェイドの手からネクタイを半ば強引に奪い取ったJr.は、常に伸ばした背を大きく屈めると、手際よく彼の小さな首にそれを結んだ。
「あ・・・、ありがとうございます。」
「・・・行くぞ。」
「え・・・どこに?」
「行けば分かる。お前には面白くも何ともない場所だ。」
相変わらず言葉少なく、大股でさっさと歩くJr.に、ジェイドはただ小走りで付いていく他なかった。
長い廊下。鉛の入ったブーツの奏でる単調な足音に不規則な軽い足音が続く。
屋敷の玄関までの道中、廊下に飾られた花瓶に活けられた花々の中から、師が百合の花を一輪引き抜いた事をジェイドは不思議に思ったが、もちろん理由を聞く事は出来なかった。
扉の外には黒塗りの車が一台止まっていた。家人の開けた後部座席のドアをJr.が顎で差す。乗れという指示なのだろうと、ジェイドがそこに乗り込むと、Jr.が後に続いた。
運転席と助手席に着いた家人の言葉にJr.は短い相槌を返した。そして程無く車は動き出し、屋敷の外へと走り出した。
車に乗った事すら数える程のジェイドは、大きな黒革のシートの上でせわしなく目を動かしていた。
窓の外の景色はいつもの見慣れた風景であるのに、車内から見るとこれほど印象が変わるものなのか。普段訓練で走りながら見ていた景色を、スモークの貼られたガラス越しに覗くジェイドの胸は自然と高鳴った。
―――それにしても、どこまで行くんだろう。こんないい服まで着せてもらって・・・。訓練て訳でもなさそうだし。
しかし、それをJr.に問う事は、ジェイドには出来なかった。
それは一度聞いた問いかけを何度も繰り返すのをJr.が特に好まない事を彼が知っていたからには違いなかったのだが、それ以上に彼を躊躇させたのは、傍らに深々と腰を下ろす師の、いつもと異なる雰囲気のせいだった。
手にした花をじっと見つめる師の目は、普段の厳しいものではなく、どことなく優しげで、それでいて悲しげだった。そんな表情の師をジェイドが目の当たりにしたのも、もちろんこれが初めてだった。
その花に目を移してみれば、そこには純白の花びらをそっと包んだと思えば、指先で軽くなぞるJr.の手があった。ジェイドを導き、時に殴りつける師の手は、どこにあれ程の破壊力を秘めているのか不思議になる程しなやかだった。細く節のない指。それまで忙しなく方々に向けられていたジェイドの視線は、いつしかその一点ばかりに注がれていた。
毎日訓練で外を走るジェイドの肌は、間もなく冬が近づく今でもほんのりと小麦色に色づいていた。しかし、それに必ず付き添っているはずの師の肌には、僅かな血色の他には何の色味も無かった。
花とほぼ同色のその手は、その後も動きを止める事はなかった。
半時ばかり走ったところで車は停止した。先に降りた家人が開けたドアをくぐり、外に降りたジェイドの目の前に広がっていたのは、人気のない静かな丘だった。
一面の地面の緑とは対照に、木々の葉は黄色く色付き、既に半分程散ってしまっていたが、間もなく冬が訪れようとしているドイツには珍しい快晴の陽の光で、そこは金の粉をまぶしたように光輝いていた。
そのどこまでも穏やかな情景に、思わずジェイドの頬は緩んだ。しかし一方のJr.の表情は、車中の時以上に憂いでいた。
「ジェイド、行くぞ。」
「あっ・・・!?は・・・はいっ!」
助手席に座っていた方の家人が差し出したコートを無言で受取り、百合を持つ手と反対側の小脇に抱えたJr.は、そうジェイドに声を掛けると振り返りもせず敷地の奥に向かって足を進めた。久し振りの自然溢れる穏やかな景色に見惚れていたジェイドは、車の傍らに立つ家人らに軽く頭を下げると、師の背中を小走りに追った。
風は冷たく、しかし陽の光を受けた、厚い布地で仕立てられたその漆黒の上着は思いのほか温かで、普段訓練の為薄いTシャツしか着ないジェイドにとって、それはこの上なく心地良く感じられた。
柔らかい草の絨毯を踏みしめ、ひたすら奥へと進む。ふと気がつくと、Jr.はジェイドの真横を歩いていた。子供の足と大人の――しかも一般の人間より随分大柄なJr.の――足。それでも無意識のジェイドとこうして並んで歩いているという事は、つまり、Jr.がジェイドの歩調に合わせているという事に他ならなかった。
―――レーラァと並んで歩くなんて、そういや初めてかもしれない。
視線を上に向けると、そこには常にジェイドの前か後ろを行くJr.の見慣れぬ横顔があった。
年を重ねたなりの皺は刻まれているが、作り物のようなに丹精な顔が日の光を反射し、ほのかに輝いていた。
明るい場所で、ここまでまじまじとJr.の顔を見る事もまた、ジェイドにとっては初めてと言ってよい程珍しい事だった。この国にあっても目を惹いて止まない師の肌の白さは、険しい表情にあってはさらに酷薄さを強調した。しかし今、日の光を受け、かつ憂いで僅かに緩んだ口元を湛えたJr.の顔は、子供のジェイドの目にもそうだと思える程、事実美しかった。
―――レーラァの顔。前に見た絵みたいだ・・・。
まだジェイドが養父母と共に暮らしていた頃。芸術好きの養母に連れられ行ったベルリン美術館は、今よりさらに幼かった彼にとっては正直退屈なものであったが、あれこれと言葉を掛けてくれる養母の笑顔を見るのが好きで、出かける機会が訪れる度彼はそこを指名した。
そうして何度か足を運ぶうちに記憶したいくつかの絵画の一枚。微かな笑みを湛えた青い目の高貴な婦人の横顔が、ジェイドの脳裏に浮かんでいた。
―――やっぱり、この人は僕とは違うんだな・・・。
何世紀もの長きに渡って、守られ受け継がれたJr.の中に流れる血。その血統ゆえに成しえた師の稀有な容姿を前に、ジェイドはさらに自分の胸に空虚が広がるのを感じていた。