「これに着替えろ。」
「・・・え?」
「聞こえなかったか?」
「あ・・・はい。でも、今日の訓練は――」
「いいからさっさと着替えてこい!」
「は・・・はい!!」
その国の十一月としては珍しい程晴れ渡ったその日、普段どおりの訓練が始まるものと思って待機していたその子供――ジェイドは、突然鼻先に突きつけられた見慣れない洋服に戸惑いを隠す事は出来なかった。
ドイツのベルリン郊外にあるこの屋敷にジェイドが住み始めたのはまだほんの数か月前。人から仕入れた断片的な情報だけを頼りに、かつて超人界の最前線で戦ったというその屋敷の主の仮住まいに忍び込み、“強くなりたい”というその一心だけで、実際のところ名すらろくに知らなかったその主に弟子入りしたのだった。
いきなり何の面識もない者の元に、それも十にも満たない子供が弟子入りするという、誰の目にも無謀な彼の行動。しかし、彼を止める者は一人としていなかった。それもそのはず、彼には家族も、親戚と呼べる者もいなかった。
彼は産みの親の顔を知らない。そして、名付け親であり、育ての親であった気の良い夫婦も揃ってこの世を去って――人ではない彼を育てる事を快く思わない者達の手によって殺されて――いた。
その主の住まいを訪ねた時、ジェイドは何も持っていなかった。
ただ一つ、生まれながら体に宿る“超人”の力を除いて。
目当ての超人が住むという、鍵の掛けられていないその家の扉の中は、おおよそ人の住める場所では無かった。窓もカーテンも閉め切ったままで、昼だというのに夜のように暗いその部屋には、空になった酒瓶が数えきれない程散乱し、壁には明らかに人の拳によって付けられた凹みを中心に、幾筋ものひび割れが走っていた。
扉をくぐる時、全く怖くなかったと言えば嘘になる。しかし、育ての親と共に家も失ったジェイドにとっては、その主に会う事だけが、正しく生きる残されたただ一つの道だった。
あいにく家には誰も居なかったが、ジェイドはその部屋の奥で目当ての人を待った。
ひたすら待って、待って、もしかすると自分の聞いた話が間違いだったのかもしれないとジェイドが不安になり始めた頃、ようやくその超人は戻って来た。
酒のせいであろう、どこかおぼつかない足取り。軍帽の庇から僅かに覗く目はどこまでも暗く沈んでいて、まるで月の無い夜の様だった。
しかし、そんな状態にあってもなお、その超人の体は一分の隙も無駄も無かった。そして何より、体から発せられる気配は、同じ超人であるジェイドですら――いや、同じ超人であるからこそなのかもしれないが――、背筋が震える程鋭く、そして冷たかった。
これまで自分の見てきた超人の誰とも違うその気配に、ジェイドは確信を得る。
この人に間違いないと。そして自分を誰より強くしてくれるのは、この人しかいないのだと。
その後、ジェイドの見せた力と才能を目の当たりにしたその超人――ブロッケンJr.は、程なくその目に精気を取り戻した。そしてジェイドと共に彼の元々の住まいである屋敷――訓練に必要な設備や書籍が全てそこにあった為だが――に戻り、出会いから今日までの数か月、二人は食事と睡眠以外の時間の全てを、厳しい訓練に費やしていたのだった。
訓練は、曜日も天気も関係無く行われた。
弟子入りしてから“レーラァ”と呼ぶようになったJr.の指導は過酷極まり無いものだったが、そのどれもが適切で、しかも子供のジェイドの目から見ても正しいと思えるものであった為、彼はただ黙々とJr.の課した毎日のノルマをこなしていた。
訓練中はもちろん、食事時でさえ、Jr.とジェイドの間に私語は殆ど無かった。しかも数える程の私的な話も、その全てはジェイドが一方的に話していたに過ぎず、それはお世辞にも会話と呼べるものではなかった。
その為共に暮らして幾月か経った今も、ジェイドがJr.について知っているのは、名前と、この屋敷の主である事、超人格闘界から一線を退いてから今まで、どうやらかなり荒んだ生活を送っていた事。そして、確かにかつて第一線で活躍した正義超人なのだと思うに十二分な技術や経験を持っている事だけだった。
つきっきりの指導。毎日提供される計算された食事。そして部屋にはジェイド専用の机に本棚にベッド。山のような書籍・・・。
Jr.から与えられるそれらに対して、彼が不満に思う事は何も無かった。むしろ屋敷に来るまでの、食べる事だけで精一杯だった以前の生活と比べれば、それは身に余るほど贅沢なものと言えた。
しかしそんな生活の中、彼は次第に飢えを感じるようになる。
体ではない別の部分。それは心の飢え。
―――レーラァは、本当のところ僕をどう思っているんだろう。確かに指導は厳しいけど、良くしてくれているのも本当だ。だけど、こんなに凄い家の人だなんて、知らなかった。屋敷の人達もどこか冷たいし・・・。
―――もしかして、迷惑・・・じゃ、ないかな・・・。
他に行くあても、そして他に目指すものも無いジェイドは、それを決して口にはしない。万が一その思いが本当だとしたら、確実に彼は行き場を失うからだ。
しかし、生まれながら強靭な超人の肉体を持つ彼ではあるが、所詮はまだ十にも満たない子供。普通なら親の情を一身に受け、守られ愛されるべき年頃だ。
つまり、彼は“安心”したかったのだ。
―――笑って、たった一言でも何か言ってくれればいいんだけどな・・・。それでなくてもレーラァの笑った顔なんて、ここに来てから全然見てない。
しかし、ひとたび訓練が始まれば、そんな甘えた事を言ってはいられない。
そして、一度遠慮をしたが最後、その不安について踏み入れる機会も、何より勇気も彼には無かった。
今のジェイドにとって、Jr.は一番近くて、なのに遠い人だった。