自分の腕の中、一向に泣き止まないJr.を見かねたのか、傍の家人の一人が声を掛けてきた。
「お預かり致しましょうか。」
「・・・。」
「頭首?」
「・・・いや、必要無い。それより暫く、息子と二人になりたい。良いと言うまで外で待て。」
“三人”とはあえて言わなかった。事切れた彼女を人数に含める、そんな感傷的な発言を気が置ける家人の耳如きに入れたくはなかった。
私は胸の上で重ねられた彼女の白い手を見つめ、無表情のまま静かにそう告げた。
程なく家人は全て部屋を去り、部屋には自分と息子、そして彼女だけになった。
相変わらず息子は泣き続け、時折母の方を向いてはその名を呼び続けていた。
「・・・どうした?お前も悲しいのか?」
「大丈夫だ。何も心配する事はない・・・。」
私はもう一度息子に微笑むと、その小さな体を強く抱いた。
あの時、自分が問いかけた彼女の“答え”は、全くその通りとなった。
自分と彼女の容姿を半分ずつ受け継いだ息子――Jr.。
彼を初めて腕に抱いた時、私はそれまで感じた事の無い感情に襲われた。
単なる喜びではない、胸の詰まるような思い。少し苦しさが混じるその感情が、親が子に抱く愛情なのだと彼女は教えてくれた。
血と鉄の匂いが染みついた自分の腕に無防備に体を預け、穏やかに寝息を立てる小さな命を前に、私は言葉を失った。
“―――ほら。言ったとおり、とても愛しいでしょう?”
青白い顔でベッドに横たわり、それでも普段と変わらないやわらかな表情でさらりと自分にそう言った彼女の顔は、今でもはっきりと覚えている。
その後私は彼女を正妻として迎えた。他の女達は、既にJr.が彼女に宿った時から顔も見ていなかった。
もちろん周囲は第二子、第三子を強く望んだ。しかし自分は彼女との間に産まれた息子一人で十分だった。
―――しかし、彼女が居なくなった今、自分は本当に、一人でこの子を守れるのだろうか・・・。
未だ腕の中で泣き止まない息子。自分の胸をふと不安が過ぎった。
一族と徽章を守るだけの為に育てられ、そしてその通り生きてきた自分。しかしあの日、息子を自分の手に抱いた日から、その根本まで徐々に変化していった。
―――一族を守るのも息子の為。国に尽くすのも息子の為。そして、自分が生きるのも・・・・・・。
それまで自分以外の特定の“誰か”の為に行動する事など、ただの一度も無かった。もちろん自分の職務は一族の人間を潤し守る。しかし、顔も名前も良く分からない不特定多数の人間への奉仕は、何一つ自分に見える形――実感として、還ってはこなかった。
だが息子は・・・、息子と彼女は、違った。
―――この温もりの為に自分が居る。この笑顔を少しでも多く自分に向けてもらう為、自分は手を汚している。
人を傷つけ時に殺める事も、またそうする度己の中に積もるヘドロのような感情も込み上げる吐き気も、彼女達の為、何より息子の生きる未来の為だと思えば、難なく耐えることが出来た。
自分の存在、そして行動の意義を実感出来る事が、これ程自分に安らぎを与えるなど思いもしなかった。
―――笑ってもらう為に笑う。守られる為に守る。愛される為に、愛する・・・。それを教えてくれたのも彼女だったな・・・。
本当に様々な事を、自分は彼女から教わり、学んだ。
しかし自分は唯一、今目の前にある難題についての対処法を教わっていなかった。
「・・・お前はどうすれば泣き止んでくれるんだ?」
まだ言葉らしい言葉も殆ど知らない息子が、自分の問いかけに答えるはずもなかった。
その時、彼女よりさらに細く柔らかい息子の髪を撫でながら横たわる彼女の顔を眺めていた私は、ふと彼女の唇の色に目を留めた。
―――化粧だろうか・・・。鮮やかな赤。まるで・・・。
白いシーツ、淡い金髪、そして青白い頬の中、ひときわ目を引く彼女の唇の赤。その色をきっかけに、自分の中にある考えが浮かんだ。
幸い家人を外に出したおかげで、私はそれをすぐ実行に移す事が出来た。
―――もう死んでしまっているが・・・、だが僅かでも自分の中に彼女を・・・。
私は片方の手で息子を抱いたまま、もう片方の手で彼女の手の甲を取り傍に寄せると、その上に指先を軽く走らせた。
そして現れた細い筋から僅かに滲み出た血に、自分の唇を寄せた。
徽章を継いだ者は、末期の血により力と、そして命を得る。
既に息の無い彼女の血を舐めたところで、実際何の意味も無かったのだが、それでも自分の胸に小さな熱が宿ったような気がした。
動かない母親の手を取り口付ける父を、息子は小さく嗚咽をあげながら不思議そうに見つめていた。
自分の傍に置いた彼女の手元には、読んでいた途中だったのだろうか、小さな絵本が一冊、開かれたまま置かれていた。
―――・・・そうか。恐らく彼女は間際まで・・・。
そして、ようやく自分はJr.が何を望んでいたのか理解した。
突然の確信。それはまるで、彼女が自分を導いているようだった。
私は開かれたままの本を手に取った。Jr.は程なく泣き止み、そして、とても嬉しそうな声を上げた。
「そうか・・・。お前は続きを読んで欲しかったんだな。」
静かに眠る彼女の傍ら、私はゆっくりその本を読んで聞かせた。
開く度あらわれる色鮮やかな頁に向かって、息子はあれこれと、それらしい言葉を口にしては私に笑顔を向けた。
息子には出来るだけ多くの本を読み与えて欲しい。それが、彼女が自分に言った最後にして唯一具体的な願いだった。
実際、彼女はJr.の目が見えるようになるよりも前から、様々な本を読み聞かせていた。それこそ食事や、身の周りの世話以外の時間の殆どを本に費やしていたと言ってもいい程だった。
もちろん、彼女はもっと他の事も息子にしてやりたかったに違いない。体に障るという理由で家人に任せざるをえなかった散歩も、本当は彼女自身がやりたかったはずだった。
しかし、それでも彼女が息子に読む本の数は尋常ではなかった。
そこまで彼女が本にこだわる理由。それを訪ねた自分に、彼女はこう答えていた。
“―――こんな窮屈な家に生まれてしまったこの子だけれど、せめて夢の中くらいは自由でいてほしいから・・・。”
それが、彼女が息子にそれだけ多くの本を読んでいた理由であり、自分に告げた願いの理由だった。
その日、私は息子の望むまま何度もその本を読んだ。
―――こんな簡単な事で息子の笑顔が見れ、そして、彼女の願いも果たせるのか・・・。
人を幸せにする方法が必ずしも難しいものばかりではないという事を、私はその時初めて知った。