彼女が死んだ。


 

 危篤の知らせに、私は軍務を早々に切り上げ彼女の部屋へ急いだ。しかし着いた時には既にその体は熱を失っていた。


 息子――Jr.と同じ、柔らかな白金の髪に縁取られた顔はとても柔らかな表情を湛えていて、それは本当に、眠っているようだった。




 既に覚悟は出来ていた。しかし、酷く胸が締め付けられた。

 

 彼女の眠るベッドの上、数人の家人が見守る中息子は、彼女の絹糸のような長い髪を小さな指に絡め、泣きながら、動かない彼女に向かって覚えたての「母親」を表す言葉を繰り返していた。

 もともとどちらかというと大人しい子供だったが、彼なりに動かない母親に何かを感じていたのだろうか。その泣き方は普段と違い、どこか遠慮がちで――大声で泣き叫ぶのではなく、大きく見開いた自分と同じ色の目からポロポロと大粒の涙をこぼしていた――、その様子にさらに自分の胸は痛んだ。


 「・・・大丈夫。頼りないかもしれないが、これからは私がお前を守るから・・・。」


 自分が伸ばした腕に、一瞬息子は体をすくめこちらを窺うしぐさを見せた。しかしすぐに彼女の方へ居直ると、再び母を呼び始めた。


 「大丈夫だから・・・おいで。」


 自分が出来る精一杯の柔らかい表情を見せ、私はそっと息子を抱きあげた。



 彼女は自分との子を成してまもなく体の不調を訴え、そして床に伏せていた。
 
 まだ体調を崩して間もない頃、私は主治医に彼女を救う方法を訪ねた。最も確実なのはと前置きし、医者が自分に告げたその方法は、比較的簡単で、しかしどうあっても実行する事は出来ないものだった。

 一族の誇りであり、また力の源であり証しでもある、永きに渡り守ってきた髑髏の徽章。その徽章を継ぐ資質ともなる“血”を繋ぐ子供は、一族の宝であり、糧だった。
 徽章を継ぎ、しかも一族の頭首を担う自分の血を継いだ子を堕胎するなど、この家にあって許されるはずもなかった。


 日増しに弱っていく彼女。まるで宿した命が彼女の命を喰らっているようだった。


 ―――けれど、彼女はいつも笑っていた・・・。


 そして案の定、彼女は出産で死の淵に立った。しかし何とか一命をとりとめた彼女はその後周囲の制止も意に介さず、息子が自分の足で立てるようになる今まで、彼女なりに精一杯その手で慈しみ育てたのだった。

 たかだか一年と半年足らずの、ままごとのように拙く短い家族の時間は、それでも元々医者が告げた彼女の余命より何倍も長かった。それに、どちらにせよ彼女が息子と暮らせる期間は二年しかない――一族の子息は二歳を境に母親との一切の接触を禁じられる。母が我が子に与える特別な愛情は、後に就く職務に支障をきたすものと考えられていた――事を考えれば、息子は十分彼女に抱かれたとも言えた。


 ―――ただ自分は、もっと色々な事を教わりたかった・・・。



 そもそも壊す術しか知らない自分は、彼女がJr.を宿すまで、子供というものに対して何の感情も持ちあわせてはいなかった。
 

 徽章を継ぐと同時に頭首の座に着いた自分の元に、程なく一族の中から選ばれた数名の女。彼女はその一人だった。

 皆一様に美しく、また一様に若かった。そして僅かな色みの違いはあれど、皆自分と同じ色の髪と目と肌を持っていた。しかしいくら見栄えが良くとも、自分と同じ色を有し、しかも自分とどことなく似たその女達に、自分の心は僅かも揺れはしなかった。
 黙って佇んでいると、それこそ女達は人形にしか見えなかった。


 頭首の“責務”。ただその二文字の為に、何の感情も無くその女達と肌を合わせていた自分。しかし他の女達と違い、会うたび彼女は、終始無言で眉一つ動かさない自分に向かって、あれこれ色々な話をして聞かせた。
 自身の事、好きな本の事、今日の天気、明日の天気、行ってみたい場所、見てみたい絵画、聴いてみたい音楽、そして、子供に付けたい名前・・・。彼女の話す全ては、正直自分には何一つ必要無い情報だった。

 それでも彼女は、こちらの反応などお構い無しに、終始笑い、時に頬を膨らませながら、自分に様々な事を語った。


 可笑しな女だと思った。だが不思議と不快感は無かった。それどころか、やがて彼女の話をもっと聞きたいと思うようになった。
 そして、いつしか彼女の紡ぐ“生きた言葉”は、自分の心を穏やかにかき乱すようになっていった。


 ―――そう・・・。彼女はちゃんと、“生きて”いた。


 彼女は、こんな一族にあっても、良い意味でとても奔放だった。もちろん、しきたりに縛られた環境下ではたかが知れてはいたが、それでも彼女は精一杯自由に振舞い、考えていた。
 言い換えるなら、彼女は確固たる“自分”を持っていた。そして、そういう意味では人形なのはむしろ己の方だった。



 程なく彼女に新たな命が宿った。そして私は、その時初めて自分の方から彼女に問いかけた。


   “―――こんな家に生きて、お前は幸せなのか?”


   “―――こんな自分の子供でも、お前は愛せるのか?”


 今でもなぜそんな疑問を口にしたのかは分からない。しかし、確かに自分は彼女の答えを求めていた。


 冷酷な頭首には似つかわしくない、その初めての問いかけに、彼女はしばし黙ったまま青い大きな眼に自分を映していたが、やがて小刻みに肩を震わせると、声を上げ笑い出した。
 そして訝しがる自分を尻目に気のすむまで笑った彼女は、軽い謝罪の言葉を口にしながら真っ直ぐ自分に向き直り、そしてこう告げた。
 

   “―――貴方にどう映っているのかは分からないけど・・・、少なくとも私は幸せよ。”


   “―――それに、そんな疑問を持てる貴方が父親なら、きっとこの子も幸せになるわ・・・。”


   “大丈夫。私はこの子が宿った瞬間から愛してるし、絶対貴方も愛しいと思うようになるから・・・。”



 細く長い指を自分の冷たい頬に添え、自信に満ちた声でそう言う彼女は、本当に幸せそうだった。