┃醜奴討伐軍の編成


 これより前、西北方の群雄の万俟醜奴は天子を自称し(528年7月)、豳・涇に割拠し、東秦州を陥として(529年9月)岐州を包囲し、関中に住む巴蜀人を扇動するなど、その勢いは日に日に盛んとなっていた。朝廷はこれを憂慮した。そこで爾朱栄は武衛将軍の賀抜岳にその討伐を命じた。
 岳はこの命を受けると、密かに兄の賀抜勝に相談して言った。
「醜奴は秦・隴の兵を擁する強敵で、負ければ言うまでもなく処罰が、勝ったとしても嫉妬による讒言が待っています。」
「ならお前はどうするつもりだ?」
「爾朱氏の誰かを大将に戴き、自分はそれを補佐する。そういう形にできれば、責任も功績もいい具合になると思うのですが。」
「それはよい考えだ!」
 かくて勝が弟のために栄にかけあってみると、果たして栄は大いに喜び、甥の爾朱天光を使持節・都督二雍二岐(雍岐二州?)諸軍事・驃騎大将軍・雍州刺史として遠征軍の総指揮官とした。
 また、賀抜岳を使持節・仮衛将軍・西道都督・左廂大都督、また征西将軍の侯莫陳悦を右廂大都督として副将とし、醜奴討伐に向かわせた。
 天光は岳と旧知の仲であったため、同行を喜び、常に岳の許を訪れて相談した。

○魏58楊侃伝
 万俟醜奴陷東秦,遂圍岐州,扇誘巴蜀。大都督尒朱天光率眾西伐。
○魏74爾朱栄伝
 先是,葛榮枝黨韓婁仍據幽平二州,榮遣都督侯淵討斬之。時賊帥万俟醜奴、蕭寶夤擁眾豳涇,兇勢日盛。榮遣其從子天光為雍州刺史,令率都督賀拔岳、侯莫陳悅等總眾入關討之。
○魏75爾朱天光伝
 建義元年夏,万俟醜奴僭大號,朝廷憂之。乃除天光使持節、都督雍岐二州諸軍事、驃騎大將軍、雍州刺史,率大都督、武衞將軍賀拔岳,大都督侯莫陳悅等以討醜奴。
○魏80・周14賀抜岳伝
時万俟醜奴僭稱大號,關中騷動,朝廷深以為憂。榮將遣岳討之。岳私謂其兄勝曰:「醜奴擁秦、隴之兵,足為勍敵。若岳往而無功,罪責立至;假令尅定,恐讒愬生焉。」勝曰:「汝欲何計自安?」岳曰:「請爾朱氏一人為元帥,岳副貳之,則可矣。」勝然之,乃請於榮。榮大悅,乃以天光為使持節、督二雍二岐諸軍事、驃騎大將軍、雍州刺史,〕尋除使持節、假衞將軍、西道都督,隸尒朱天光為左廂大都督,〔又以征西將軍代郡侯莫陳悅為右大都督,竝為天光之副以〕討万俟醜奴。天光先知岳,喜得同行,每事論訪。尋加衞將軍、假車騎將軍,餘如故。
○周15寇洛伝
 寇洛,上谷昌平人也。累世為將吏。父延壽,和平中,以良家子鎮武川,因家焉。洛性明辨,不拘小節。正光末,以北邊賊起,遂率鄉親避地於并、肆,因從爾朱榮征討。及賀拔岳西征,洛與之鄉里,乃募從入關。
○周25李賢伝
 魏永安中,万俟醜奴據岐、涇等諸州反叛,魏孝莊遣爾朱天光率兵擊破之。

 ⑴万俟醜奴…?~530。高平鎮(原州)に割拠する勅勒族酋長の胡琛の部将。525年、涇州に侵攻し、北魏の名将の崔延伯を大破して戦死させた。間もなく琛が死ぬとその遺衆を引き継いで群雄の一人となった。527年、北魏の蕭宝寅を大破して一気に東秦州・岐州・北華州・豳州を制圧して長安に迫り、一時潼関も陥としたが、間もなく反撃を受けて東秦州・岐州などを喪った。宝寅が亡命してくるとこれを受け入れた。528年7月、天子を称し、趙を建国した。529年9月、東秦州を再び占拠した。のち岐州を包囲したが、530年、爾朱栄の討伐を受けて大敗し、捕らえられて斬られた。
 ⑵爾朱天光…496~532。爾朱栄の従祖兄の子。若くして果断であり、弓馬の扱いに長けた。栄に非常に可愛がられ、常に重要な軍議の参加を許された。528年に栄が洛陽を攻める際、都将とされて肆州軍の統率を任された。栄が洛陽を陥とすと撫軍将軍・肆州刺史・長安県公とされた。栄が葛栄を討伐する際も留守を任された。永安年間(528~530)に侍中・北秀容第一酋長→衛将軍とされた。529年、元天穆の邢杲討伐に付き従った。元顥が入洛すると栄と合流し、并肆雲恒朔燕蔚顯汾九州行台・行并州事とされて留守を任された。栄が洛陽を奪還すると驃騎将軍・左衛将軍・広宗郡公とされた。530年、都督雍岐二州諸軍事・驃騎大将軍・雍州刺史とされて万俟醜奴を討伐し、平定に成功した。更に王慶雲も平定した。この功により侍中・儀同三司を加えられた。栄が孝荘帝に誅殺されると帝に広宗王、建明帝に隴西王とされた。爾朱兆が帝を捕らえると、節閔帝の即位に貢献し、開府儀同三司・関西大行台とされた。のち大将軍とされ、宿勤明達を平定した。兆や爾朱仲遠たちと比べるとそこまで暴政は行なわなかった。のち大司馬とされた。532年、韓陵にて高歓に大敗を喫し、捕らえられて殺された。
 ⑶侯莫陳悦…?~534。父は駝牛都尉の侯莫陳婆羅門。河西にて育ち、狩猟を好み、騎射に長けていた。牧民の叛乱に遭うと爾朱栄を頼り、その長流参軍→大都督となった。栄が洛陽を陥とすと征西将軍・栢人県侯とされた。爾朱天光の関中征討の際には右廂大都督として参加し、左廂大都督の賀抜岳に次ぐ功を挙げた。爾朱栄死後、渭州刺史・白水郡公→開府・都督隴右諸軍事・秦州刺史とされた。岳が丞相の高歓と対立すると、密かに歓に付いて岳を殺したが、間もなく岳の部下の宇文泰に討たれた。

┃赤水の戦い
 天光は出立する際、栄から千の兵しか与えられず、馬に至っては道々民家から徴発して補う有様だった。
 この時、東雍州(華山郡鄭県)赤水の蜀賊が洛陽と長安の交通を遮断しており(万俟醜奴に扇動されたのだろう)、孝荘帝は天光の出発より先に侍中の楊侃を使持節・兼尚書僕射・関右慰労大使としてその説得と馬の徴発を命じさせていたが、疑われて失敗に終わっていた。
 天光は彼らと戦うのを躊躇し、その手前の潼関にて進軍を停止した。すると賀抜岳が言った。
「蜀賊はこそ泥の類いでありますのに、公はこれと戦うのを躊躇される。そのような及び腰で醜奴とどう戦うおつもりなのですか!」
 天光は答えて言った。
「今日の事は、全てそなたに一任しよう。」
 岳がそこで渭水の北において蜀賊と一戦すると、見事にこれを撃ち破って多数の捕虜を得た。
 天光はその中から壮健な兵士を選抜して配下に収めた。また、その軍馬二千も獲得した。天光は更に雍州にて馬を徴発し、軍馬は合計一万余頭に達した。
 しかしそれでも天光は醜奴と戦うには兵が不足しているとして、それ以上進軍しようとしなかった。
 爾朱栄はこれを聞くや激怒し、騎兵参軍の劉貴を急行させた。貴は陣中にて天光を叱責し、百回の杖打ちを加えた。栄はその上で、ようやく天光に二千の増派を行なった。

○魏58楊侃伝
 万俟醜奴陷東秦,遂圍岐州,扇誘巴蜀。大都督尒朱天光率眾西伐,詔侃以本官使持節、兼尚書僕射,為關右慰勞大使。
○魏74爾朱栄伝
 天光既至雍州,以眾少不敵,逡巡未集。榮大怒,遣其騎兵參軍劉貴馳驛詣軍,加天光杖罰。天光等大懼,乃進討。
○魏75爾朱天光伝
 天光初行,唯配軍士千人,詔發京城已西路次民馬以給之。時東雍赤水蜀賊斷路,詔侍中楊侃先行曉慰,并徵其馬。侃雖入慰勞,而蜀持疑不下。天光遂入關擊破之,簡取壯健以充軍士,悉收其馬。至雍,又稅民馬,合得萬餘匹。以軍人寡少,停留未進。榮遣責之,杖天光一百,榮復遣軍士二千人以赴。
○魏80・周14賀抜岳伝
〔時赤水蜀賊,阻兵斷路。天光之眾,不滿二千。及軍次潼關,天光有難色。岳曰:「蜀賊草竊而已,公尚遲疑,若遇大敵,將何以戰。」天光曰:「今日之事,一以相委,公宜為吾制之。」於是進軍,賊拒戰於渭北,破之,獲馬二千疋,軍威大振。天光與〕岳屆(進至)長安(雍州),榮〔〕遣兵續至。
○周15寇洛伝
 破赤水蜀,以功拜中堅將軍、屯騎校尉、別將,封臨邑縣男,邑二百戶。
○周15李弼伝
 魏永安元年,爾朱天光辟為別將,從天光西討,破赤水蜀。以功拜征虜將軍,封石門縣伯,邑五百戶。
○周16侯莫陳崇伝
 後從岳入關,破赤水蜀。

 ⑴赤水…《読史方輿紀要》曰く、『華州(東雍州)の西三十里にある。
 ⑵劉貴…本名は懿、字は貴珍。?~539。高歓の親友。剛直な性格で決断力があった。仕事が早かったため、せっかちな爾朱栄に気に入られ、重用を受けた。高歓が栄に仕えた際、口利きをした。歓が挙兵すると城を棄ててこれに従い、肆州刺史・行建州事・陝州刺史・御史中尉などを歴任した。非常に厳しく薄情だったが、仕事が早かったことや、権門にも容赦なく弾劾を加えたことで称賛を受けた。

┃横崗の戦い

 醜奴は一方で、大行台の尉遅菩薩・僕射の万俟忤[1]に武功から渭水南岸に渡河させ、北魏の前線の砦を攻囲させた。
永安三年(530年)3月、これに対し天光は賀抜岳可朱渾元に千騎を与え、砦の救援に向かわせたが、岳が到着した時には既に砦は陥落し、菩薩らも引き揚げた後だった。
 そこで岳は軽騎八百を率いて渭水を渡ると、醜奴の県令二人と兵四百、及び吏民を殺害・拉致して挑発に出た。すると果たして菩薩軍二万はこれにひっかかり、引き返して渭水の北岸に布陣した。
 岳は軽騎数十を率い、渭水の南岸に出ると、菩薩に北魏の強大さを述べて降伏するように言ったが、菩薩は自軍が優勢なことから真面目に相手をしようとせず、使者自らにその応対をさせた。すると岳は激怒して言った。
「わしは今菩薩と話をしているのだ! どこの馬の骨とも知れぬお前とではない!」
   使者は岳と川を隔てていることから怖がる事なく、変わらず不遜な態度を取った。そこで岳が矢を番えてひょうと放つや、使者は弦の響きに応じてどうと倒れた。菩薩軍はこれに色めき立ったが、この時既に日が暮れかかっていたので、両軍それぞれ勝負を預け、引き返した。
 この時岳は密かに、渭水の南岸各所に精騎数十を一組とした部隊を地形に応じて配しておいた。
   翌日、岳は百余騎を率いて渭水を挟んで菩薩軍と相い対峙した。この時岳が渭水に近づくにつれ、前日に配しておいた伏兵たちが順々に姿を現したため、菩薩軍は岳軍の多寡を測りかね、攻撃を躊躇った。岳はそのまま二十里ばかり進み、渭水の水深が浅くなっている所に出たところで、突如馬に鞭をくれて東方に奔った。
   菩薩はこれを岳が恐れをなして逃げ出したものと早とちりし、逃すものかと自ら軽騎のみを率いてこれを急追した。
 岳は東に十余里進んだのち、彼らが追いつく前に横岡に伏兵を配した。一方そうとも知らぬ菩薩の軽騎兵は、隘路を縦一列で進んでこれを追い、半ばが横岡を越えてその東に達した。
 その時、岳は急に馬首を返し、自ら先頭に立ってこれに攻めかかった。〔菩薩軍が応戦した時、岡の裏からも伏兵が突如襲いかかった。〕菩薩軍は虚を突かれ、遂に大敗を喫した。
 岳は菩薩軍が敗走を始めたのを見ると、自軍にこう号令をかけた。
「下馬した者は殺すでないぞ!」
 これを聞くや、菩薩軍の将兵は助かりたい一心でこぞって馬から下りたので、岳は瞬く間に三千の捕虜と、それと同数の軍馬を得、更に菩薩も生け捕ることに成功した。
 岳が次いで渭水の北岸に赴くと、残されていた歩兵一万余も降伏し、多数の軍需品も同時に鹵獲する事に成功した。

 蔡東藩曰く…菩薩という名なのに、どうして神仏の加護を一つも得られなかったのか。

 醜奴はこの報を聞くと岐州の囲みを解いて北の方安定(涇州)に退き、平亭[1]に砦を築いて守りに入った。
 天光はそこで雍州(長安)を発して岐州に到り、岳の軍勢と合流した。

○魏孝荘紀
 三月,醜奴大行臺尉遲菩薩寇岐州,大都督賀拔岳、可朱渾道元大破之。
○周文帝紀
 万俟醜奴作亂關右,孝莊帝遣爾朱天光及岳等討之,太祖遂從岳入關,先鋒破偽行臺尉遲菩薩等。
○魏天象志
 三年三月,万俟醜奴遣其大行臺尉遲菩薩寇岐州,大都督賀拔岳、可朱渾道元大破之。
○魏75爾朱天光伝
 天光令賀拔岳率千騎先驅,至岐州界長城西與醜奴行臺尉遲菩薩相遇,遂破擒之,獲騎士三千,步卒萬餘。
○魏80・周14賀抜岳伝
 時万俟醜奴〔自率大眾圍岐州,〕遣其大行臺尉遲菩薩〔、僕射万俟仵(行醜)同〕向武功,南渡渭水,攻圍趣柵。天光遣岳率騎一千馳往赴救(援),菩薩攻柵已克,還向岐州。岳以輕騎八百北渡渭水擒賊(其縣令二人),〔獲甲首四百,〕令殺掠其民,以挑菩薩。菩薩果率步騎二萬餘人至渭水北。岳以輕騎數十與菩薩隔水交言,岳稱揚國威,菩薩自言強盛,往復數返(反)。菩薩乃自驕〔〕,令省事傳語〔〕。岳怒曰:「我與菩薩言,卿是何人,與我對語!」省事恃水,應答不遜。岳舉弓射之,應弦而倒。時已逼暮,於此各還。岳密於渭南傍水分置精騎,四十、五十(數十)以為一所,隨地形便,駱驛置之。明日,自將百餘騎,隔水與賊相見,並且東行。岳漸前進,先所置騎隨岳而集。騎既漸增,賊不復測其多少。行二十里許,便至〔〕淺可濟〔之處〕,岳便馳馬東出,以示奔遁。賊謂岳走,乃棄步兵,南渡渭水,輕騎追岳。岳東行十餘里,依橫崗伏兵以待之。賊以路險不得前()進,前後繼至,半度崗東。岳乃回〔與賊〕戰,身先士卒,急擊之,賊便退走。岳號令所部,賊下馬者皆不聽殺。賊顧見之,便悉投馬。俄而虜獲三千人,馬亦無遺。〔遂擒菩薩。〕遂渡渭北,降步兵萬餘,〔〕收其輜重。其有土民,普皆勞遣。醜奴尋棄岐州,北走安定。
○周15寇洛伝
 又從岳獲賊帥尉遲菩薩於渭水。
○周16侯莫陳崇伝
 時万俟醜奴圍岐州,遣其將李【[二一]殿本考證云:「『李』字下有脫字。」按万俟醜奴部下未見李姓將領,「李」字恐是衍文】。尉遲菩薩將兵向武功。崇從岳力戰破之,乘勝逐北,解岐州圍。
○南北史演義
 誘菩薩至渭南,依山設伏,俟菩薩輕騎追來,發伏齊起,得將菩薩捉住,名為菩薩,奈何毫無神力?收降賊眾萬餘。

 [1]万俟忤…『考異』曰く、『北史』には「万俟行醜」とある。今は『周書』の記述に従う。
 ⑴横岡…《読史方輿紀要》曰く、『馬塚のことではないか。』『五丈原は武功の西十里にあり、馬塚は武功の東十余里にある。
 [2]平亭…涇州の北にある。

┃侯莫陳崇、単騎醜奴を馬上に捕らう

 爾朱天光は醜奴を追って汧水・渭水の間(東秦州?)に到ると進軍をやめ、馬を放し飼いにして遠近にこう宣言した。
「炎暑となる時期に戦いはすべきではない。今は秋の涼しさを待ち、それから去就を決めることにする。」
 醜奴はこの宣言に初め疑いを持ったが、放っていた間諜が丁度帰ってきて裏づけが取れたので、すっかり信用してしまい、臨戦態勢を解いて秋に向け守りを固めることにした。しかしこの間諜は、実は天光が以前捕らえていた者であり、宣言を信用させるためにわざと釈放して伝えさせたものだった。
 そうとも知らぬ醜奴は、太尉の侯伏侯元進に五千の兵を与えて前線の百里・細川に砦を築かせるとともに屯田をさせた。また、数多くの千人以下の小部隊を作って、彼らにもあちこちに砦を築かせ、屯田をさせた。
 天光は狙い通り醜奴の軍が分散したのを見るや、夕暮れ密かに先遣隊に細川と平亭の連絡を遮断させたのち、全軍を率いて出陣した。
 そして黎明、元進の大砦を囲んで陥とすと、捕虜たちを各所に放って陥落のことを伝えさせた。すると瞬く間に他の砦群もこぞって天光に降伏した。
 天光は次いで昼夜兼行して百八十里を踏破して涇州(安定)城下に到り、刺史の侯幾長貴を驚愕させて降伏させた。
 醜奴は相次ぐ敗報に平亭を棄て、本拠の高平に落ちのびて再起を図ることにした。
 しかし天光は逃さじと賀抜岳に軽騎兵を与えて急追させた。
 4月丁卯(22日)、追撃軍は平涼の長平坑にてその背中を捉えた。
 この時直閤で代人の侯莫陳崇生年514、時に16歳が追撃軍におり、彼は醜奴の姿を見るや醜奴軍に陣形を整えるいとまも与えず、直ちに単騎敵陣に突き入った。崇は醜奴と一騎打ちをし、三合もせずにこれを小脇に捕らえてこう叫んだ。
「醜奴捕らえたり!!」
 そのあまりの神業ぶりに、醜奴軍は狼狽して為すところを知らなかった。そこに味方の後続の騎兵が続々と到来し崇の援護をしたので、醜奴軍は遂に大敗した。
 岳は崇の大功を讃え、彼に醜奴の愛馬・宝剣・金帯を与えた。のち、安北将軍・太中大夫・都督・臨涇県侯とされた。

戊辰(23日)、原州城が降伏した。
 かくて、ここに涇・豳・二夏、北〔西?〕は霊州に到るまでが北魏の手に還った。〕


○魏孝荘紀
 夏四月…丁卯,雍州刺史尒朱天光討醜奴、蕭寶夤於安定,破擒之,囚送京師。
○魏75爾朱天光伝
 醜奴棄岐州走還安定,置柵於平亭。天光發雍至岐,與岳合勢於汧渭之間,停軍牧馬,宣言遠近曰:「今時將熱,非可征討,待至秋涼,別量進止。」醜奴每遣窺覘,有執送者,天光寬而問之,仍便放遣。免者傳其待秋之言,醜奴謂以為實,分遣諸軍散營農稼,在岐州之北百里涇川。使其太尉侯伏侯元進領兵五千,據險立柵,且耕且守。在其左右,千人已下為一柵者,乃復數處。天光知其勢分,遂密嚴備。晡時,潛遣輕騎先行斷路,以防賊知,於後諸軍盡發。昧旦,攻圍元進大柵,拔之,諸所俘執,並皆放散,須臾之間,左右諸柵悉來歸款。前去涇州百八十里,通夜徑進,後日至城,賊涇州刺史侯幾長貴仍以城降。醜奴棄平亭而走,欲趨高平。天光遣岳輕騎急追,明日,及醜奴於平涼長平坑,一戰擒之。
○魏80・周14賀抜岳伝
〔醜奴尋棄岐州,北走安定,置柵於平亭。天光方自雍至岐,與岳合勢。軍至汧、渭之間,宣言遠近曰:「今氣候漸熱,非征討之時,待秋涼更圖進取。」醜奴聞之,遂以為實,分遣諸軍散營農於岐州之北百里細川,使其太尉侯元進領兵五千,據險立柵。其千人以下為柵者有數處,且戰且守。岳知其勢分,乃密與天光嚴備。晡時,潛遣輕騎先行路,於後諸軍盡發。昧旦,攻圍元進柵,拔之,即擒元進。諸所俘執皆放之,自餘諸柵悉降。岳星言徑趣涇州,其刺史俟幾長貴以城降。醜奴乃棄平亭而走,欲向高平。岳輕騎急追,明日,及醜奴於平涼之長坑,一戰擒之。高平城中又執蕭寶寅以降。〕天光雖為元帥,而岳功效居多。加車騎將軍,增邑二千戶,進封樊城縣開國伯。尋詔岳都督涇、北豳、二夏四州諸軍事,本將軍,涇州刺史,進爵為公,改封清水郡公。
○周15寇洛伝
 又從岳獲賊帥尉遲菩薩於渭水,破侯伏侯元進於百里細川,擒万俟醜奴於長坑。洛每力戰,並有功。
○周16侯莫陳崇伝
 又赴百里細川,破賊帥侯伏侯元進柵。醜奴率其餘眾奔高平,崇與輕騎逐北,至涇州長坑及之。賊未成列,崇單騎入賊中,於馬上生擒醜奴。於是大呼,眾悉披靡,莫敢當之。後騎益集,賊徒因悉逃散,遂大破之。岳以醜奴所乘馬及寶劍金帶賞崇。除安北將軍、太中大夫、都督,封臨涇縣侯,邑八百戶。
○北史演義
 副將侯莫陳悅單騎衝入賊中,於馬上生擒丑奴,因大呼曰:「得醜奴矣!」眾皆辟易,無敢當者。後騎益集,遂大破之。
○南北史演義
 裨將侯莫陳崇,單騎突入,與醜奴交手,不到三合,便把醜奴活捉了來,大呼出陣,賊皆披靡。

 ⑴百里・細川…《読史方輿紀要》曰く、『涇州の南九十里→霊台県の東に百里城が、東北に細川城がある。
 ⑵侯莫陳崇…字は尚楽。514~563。八柱国の一人。武川鎮出身。寡黙で、騎射に優れた。爾朱栄に仕え、北魏末の群雄・万俟醜奴を単騎で捕らえた。のち賀抜岳に仕え、岳が侯莫陳悦に殺されると宇文泰を主君とした。悦討伐の際、原州を攻略した。のち、河橋の戦いで随一の功を立てた。559年、大司徒とされた。563年、宇文護に殺された。

┃万俟道洛・王慶雲の乱

 万俟醜奴が捕らえられたのち、涇・豳から西は霊州[1]に到るまでの賊党が北魏の軍門に降ったが、ただ行台の万俟道洛のみ六千の兵と共に山中に立て籠もり、あくまで抵抗の姿勢を示していた。
 この時高平は大旱魃が起きており、爾朱天光は馬に与える水や草に不足をきたした事から、城から五十里東に駐屯場所を遷した。高平には行原州事[2]に任命した都督の長孫邪利と二百の兵を残しておいた。李賢はその主簿に、李遠は伏波将軍・長城郡守・原州大中正に任じられた。
 道洛は高平が手薄になった事を知ると直ちにこれを奇襲した。邪利はその迎撃にあたったが、城中に潜伏していた千余人の醜奴兵が内応して道洛軍を城中に引き入れたため、遂に二百の兵と共に殺害された。
 天光はこれを知るや賀抜岳・侯莫陳悦らを率いて直ちに高平に赴いた。道洛はこの時郷兵を率いる李賢に頑強な抵抗を受けていたため、城を出て迎撃する事を選んだが結局敗れ、追撃を受けて千余人の死者を出しつつ山中に逃れた。かくて高平は再び北魏の手に還ったが、道洛は天光の説得を聞き入れず、西方の牽屯山に逃れてその険を頼りに抵抗を続けた。
 爾朱栄は天光が邪利を死なせ、道洛を逃した事に怒り、使者を派して天光に百回の杖打ちを加えさせた上、官位を撫軍将軍・雍州刺史に降格し、爵位も侯に格下げした。
 天光は岳・悦らを率いて牽屯山を攻め、自ら道洛と戦ってこれを破ったが、結局再び数千騎と共に逃亡された。道洛は隴山に入り、略陽に割拠する王慶雲[3]のもとに帰した。道洛は武勇絶倫な事で有名であったため、慶雲はこれを得るやいたく喜び、天下を狙えると考えるようになった。
 この月、かくて慶雲は水洛城にて皇帝を名乗り、百官を置いて道洛を大将軍に任じた。

○魏孝荘紀
 是月,白馬龍涸胡王慶雲僭稱大位於水洛城,署置百官。
○魏75爾朱天光伝
 賊行臺万俟道洛率眾六千人入山不下。時高平大旱,天光以馬乏草,乃退於城東五十許里,息眾牧馬。於是涇、豳、二夏,北至靈州,賊黨結聚之類,並來歸降。天光遣都督長孫邪利率二百人行原州事以鎮之。道洛招誘城人來掩,襲殺邪利并其所部。天光與岳、悅等馳赴之,道洛出城拒戰,暫交便退,追殺千餘人,道洛還走入山,城復降附。天光遣慰喻,道洛不從,乃率眾西依牽屯山,據險自守。榮責天光失邪利,不獲道洛,復遣使杖之一百,詔降為散騎常侍、撫軍將軍、雍州刺史,削爵為侯。天光與岳、悅等復向牽屯討之。天光身討道洛,道洛戰敗,率數千騎而走,追之不及,遂得入隴,投略陽賊帥王慶雲。慶雲以道洛驍果絕倫,得之甚喜,便謂大事可圖,乃自稱皇帝,以道洛為大將軍。
○周25李賢伝
 時原州亢旱,天光以乏水草,乃退舍城東五十里,牧馬息兵。令都督長孫邪利行原州事,以賢為主簿。道洛復乘虛忽至,時賊黨千餘人在城中,密為內應,引道洛入城,遂殺邪利。賢復率鄉人殊死拒戰,道洛乃退走。
○周25李遠伝
 及爾朱天光西伐,乃配遠精兵,使為鄉導。天光欽遠才望,特相引接,除伏波將軍、長城郡守、原州大中正。

 [1]霊州…北魏は赫連氏を滅ぼしたのち、436年に薄骨律鎮を設置した。その後孝昌年間に霊州に改められた。『括地志』曰く、《薄骨律鎮は黄河の小島の中に在ったが、一度も水没の悲運に見舞われた事が無かった。故に霊(神秘的な)州と名付けられたのである》。
 [2]北魏の太延二年(436)に高平鎮が設置され、正光五年(524)に原州に改められた。原州の治所は高平城で、高平と長城の二郡を領した。
 [3]考異曰く、魏帝紀では『白馬龍涸胡の王慶雲』とあるが、今は爾朱天光伝の記述に従った。

┃水洛城の戦い
 天光が慶雲を討伐しようとすると、孝荘帝爾朱栄にこう止められた。
「隴中は奥深く険しい所で攻めにくく、しかも時期は遠征に適さぬ盛夏である。ここは慎重に冬を待ってから行動した方が良いだろう。」
   しかし天光は今攻めれば勝つという確信があったため、制止を振り切って隴中(秦州)に進軍し、水洛城に到達した。
 慶雲と道洛が出城して迎え撃ってくると、天光は道洛に向かって矢を放ち、その腕に射当てた。道洛がたまらず弓を取り落として城に逃げ帰るや、天光軍は勢いづいて水洛城の東城を攻め陥とした。慶雲軍はそれでもなお西城に拠って抵抗を続けたが、東城には水源や水の貯えが無かったため、たちまち兵士たちは炎天下の中喉の渇きに苦しめられるようになった。この苦境に慶雲・道洛は籠城を諦め、血路を開いて再起を期すことを図った。天光は投降者を通じてその事を知ると、栄の怒りが覚めやらぬ中にまた同じ失態(逃走を許す事)を晒すのを阻止せんと、慶雲に使者を派して早く降伏するように勧め、かつこう伝えた。
「貴公の負けは決まったのだから、早く降伏するべきである。自分一人で決められないのならば、今夜中に協議を行ない、明朝早く結論を伝えるがよい。」
 慶雲らは包囲が緩む事を期待し、偽ってこう答えた。
「明日の回答をお待ちあれ。」
 天光は答えて言った。
「貴公らが水を欲しているのは分かっている。今少しばかり兵を退かせるゆえ、その間自由に谷川の水を採るとよい。」
 その言葉通り谷川が開放されると、慶雲兵たちは争ってその水を飲んで喉を潤し、満足して逃走への熱意を失ってしまった。天光はまた密かに軍士たちに七尺ある拒馬槍(動かすことの可能な馬防柵)を数多く造らせ、暗くなった頃に城の周囲、特に要路に何重にも設置しておかせた。また拒馬槍と拒馬槍の間に伏兵を配し、敵の突破に備えさせた。また、同時に城北に長梯子を秘密裏に造らせておいた。

○拒馬槍

 その日の夜、慶雲と道洛は果たして脱出を図り、夜闇の中を先頭に立って駆け抜けたが、その途中に突如拒馬槍に遭って馬は傷つき倒れ、慶雲らは地に投げ出された。それを見るや伏兵がさっと立ち上がって即座にこれを生け捕りにした。
 天光軍は次いで用意しておいた長梯子を使って城中になだれ込んだ。城内に残っていた兵たちは城を出て南に逃げたが、これまた拒馬槍に遭って万事休し、そろって降伏した。
 秋、7月、丙子(3日)、天光は岳・悦らと話し合った結果、捕虜の武器を取り上げたのち、全員を穴埋めにして殺してしまった。死者は一万七千人にも及び、その家族は将兵らに褒美として分配された。
 かくてここに三秦(秦・東秦・南秦州)・河[1]・渭[2]・瓜(敦煌)・涼・鄯州がみな北魏の手に還った。
 天光は略陽に駐屯所を置いた。朝廷は天光の官爵を元に戻し、次いで侍中・儀同三司を加官し、封邑を加増して三千戸とした。
 また、〔天光の左廂大都督の〕賀抜岳を都督涇・北豳・二夏四州諸軍事・車騎将軍・涇州刺史・清水郡公とした。
 また、〔右廂大都督の〕侯莫陳悦を鄯州刺史とした。
 関中遠征の総大将は天光であったが、その挙げた功績の殆どは岳の手によるものだった。

 秦州刺史の駱超と南秦州刺史の辛顕が城民に殺されそうになって天光のもとに逃れてきた。天光は岳・悦らと共にこの乱を平定した。

○魏孝荘紀
 秋七月丙子,天光平水洛城,擒慶雲,坑其城民一萬七千。
○魏75爾朱天光伝
 天光欲討之,而莊帝頻敕,榮復有書,以隴中險邃,兼天盛暑,令待冬月。而天光知其可制,乃率諸軍入隴,至慶雲所居水洛城。慶雲、道洛出城拒戰,天光復射中道洛臂,失弓還走。破其東城,賊遂併趨西城,城中無水,眾聚熱渴。有人走降,言慶雲、道洛欲突出死戰。天光恐失賊帥,燼釁未已,乃遣謂慶雲曰:「力屈如此,可以早降,若未敢決,當聽諸人今夜共議,明晨早報。」而慶雲等冀得小緩,待夜突出,報天光云,「請待明日」。天光因謂曰:「相知須水,今為小退,任取河飲。」賊眾安悅,無復走心。天光密使軍人多作木槍,各長七尺,至黃昏時,布立人馬為防衞之勢,周匝立槍,要路加厚。又伏人槍中,備其衝突,兼令密縛長梯於城北。其夜,慶雲、道洛果便突出,馳馬先進,不覺至槍,馬各傷倒,伏兵便起,同時擒獲。餘眾皆出城南,遇槍而止。城北軍士登梯上城,賊徒路窮乞降,至明盡收其仗。天光、岳、悅等議悉坑之,死者萬七千人,分其家口。於是三秦、河、渭、瓜、涼、鄯善咸來款順。天光頓軍略陽,詔復天光前官爵,尋加侍中、儀同三司,增邑至三千戶。秦州城民謀殺刺史駱超,超覺,走歸天光。天光復與岳、悅等討平之。南秦滑城人謀害刺史辛琛顯,琛顯走赴天光【[一三]通鑑卷一五四四七七七頁作「南秦州城民謀殺刺史辛顯」。按南秦州之滑城不見紀載,疑「滑」字衍,通鑑「琛顯」作「顯」當是雙名單稱】。天光遣師臨之,往皆克定。
○魏80賀抜岳伝
 天光雖為元帥,而岳功效居多。加車騎將軍,增邑二千戶,進封樊城縣開國伯。尋詔岳都督涇、北豳、二夏四州諸軍事,本將軍,涇州刺史,進爵為公,改封清水郡公。
○魏80侯莫陳悦伝
 西伐克獲,皆與天光、賀拔岳略同勞效。以本將軍除鄯州刺史,餘如故。

 [1]河州…太平真君六年(445)に枹罕鎮が設置され、これがのちに河州に改められた。金城・武始・洪和・臨洮郡を領した。
 [2]渭州…隴西・南安・南安陽・広寧郡を領した。


 賀抜岳伝⑶に続く