[北魏:神亀三年→正光元年 梁:天監十九年→普通元年]



┃普通改元
 春、正月、乙亥朔(1日)梁が年号を天監から普通に改め、天下に大赦を行なった。
 また、文武百官と父兄に良く仕える者・農業に熱心な者にそれぞれ一級の爵位(二十等爵)を加えた。
 また、特に貧困に喘いでいる家から税を取り立てることを禁じた。
 また、妻を亡くした男・夫を亡くした女・親を亡くした子ども・子の無い老人に救済を行なった。

○梁武帝紀
 普通元年春正月乙亥朔,改元,大赦天下,賜文武勞位,孝悌力田爵一級,尤貧之家,勿收常調,鰥寡孤獨,並加贍卹。


┃郢州の平和
 丙子(正月2日)、日食があった(北史魏孝明紀では1日の事とする)。
 己卯(5日)、侍中・中書監・司徒の臨川王宏を使持節・都督揚南徐州諸軍事・太尉・揚州刺史とし、侍中はそのままとした。
 また、安右将軍・監揚州の呉平侯昺を使持節・散騎常侍・都督郢司霍三州諸軍事・安西将軍・郢州刺史とした。
 また、尚書左僕射の王暕が母の死によって職を去った事を以て、金紫光禄大夫の王份を尚書左僕射とした。

 蕭昺が出発する際、武帝は建興苑(秦淮河南岸)まで出向いて見送り、涙を流した。のち宮殿に帰ると詔を下し、鼓吹(楽隊)一部を与えた。昺は州に赴任すると前のように有能の評を得た。郢州の斉安・竟陵郡は北魏領と接し、何度も侵攻に遭っていたが、昺が書簡を送って告示すると(自分が赴任した事を? 或いは説諭?)、北魏は即座に〔梁の郢州内に築いていた〕塢戍()を焼き払って領内に引き返し、二度と侵略しなかった。


 乙酉(11日)、北魏が詔を下して言った。
「国家を良く統治していくには、教化の樹立が基本であり、師を尊び道を敬うのが昔からの定めである。来年の仲陽(2月。今の3月頃に当たる)は気候が穏やかであるゆえ、孔子・顔回を祀るにはちょうど良い頃おいである。担当官はそれまでに国子学を修繕し、聖賢〔の像を〕塗飾し、良い生贄を選んで、吉日に儀礼を行なえるようにせよ。」

○魏孝明紀
 正光元年春正月〔乙亥朔,日有蝕之。〕乙酉,詔曰:「建國緯民,立教為本,尊師崇道,茲典自昔。來歲仲陽,節和氣潤,釋奠孔顏,乃其時也。有司可豫繕國學,圖飾聖賢,置官簡牲,擇吉備禮。」
○梁武帝紀
 丙子,日有蝕之。己卯,以司徒臨川王宏為太尉、揚州刺史,安右將軍、監揚州蕭景為安西將軍、郢州刺史。尚書左僕射王暕以母憂去職,金紫光祿大夫王份為尚書左僕射。
○梁21王暕伝
 尋加侍中。復遷左僕射,以母憂去官。
○梁21王份伝
 復入為散騎常侍、金紫光祿、南徐州大中正,給親信二十人。遷尚書左僕射,尋加侍中。
○梁22臨川靖恵王宏伝
 遷侍中、中書監、司徒。普通元年,遷使持節、都督揚南徐州諸軍事、太尉、揚州刺史,侍中如故。
○梁24蕭景伝
 明年,出為使持節、散騎常侍、都督郢司霍三州諸軍事、安西將軍、郢州刺史。將發,高祖幸建興苑餞別,為之流涕。既還宮,詔給鼓吹一部。在州復有能名。齊安、竟陵郡接魏界,多盜賊,景移書告示,魏即焚塢戍保境,不復侵略。

 ⑴臨川王宏…蕭宏。字は宣達。生年473、時に48歳。蕭順之の第六子で、母は陳太妃。梁の武帝の異母弟。八尺の長身の美男。孝行者。酒色に溺れ、侍女千人を擁した。また、武帝の娘の永興公主と密通した。505年、北魏を攻めるも大敗した。507年、司徒とされた。509年、司空・揚州刺史とされた。512年、太尉とされたが、間もなく降格に遭った。513年、司空とされた。516年、母が死ぬと喪に服し嘆き悲しんだ。間もなく中書監とされた。518年、帝の暗殺を図って失敗するも赦され、侍中・中書監・司徒とされた。
 ⑵呉平侯昺…字は子昭。生年477、時に44歳。蕭崇之の子で、武帝の從父弟。母は毛氏。弁才・決断力を有し、政治・軍事に才能を示して武帝に非常に頼りにされた。南兗州刺史とされると善政を行なった。505年、北伐に参加して北魏の宿預を占拠した。帰還すると領軍将軍とされ、508年、雍州刺史とされると北魏の荆州刺史の元志の侵攻を撃退した。512年に右衛将軍、513年に再び南兗州刺史、514年に領軍将軍とされた。518年、臨川王宏が武帝暗殺未遂を起こして罷免されると代わりに監揚州とされた。
 ⑶王暕…字は思晦。超名門琅邪王氏の出。南斉の宰相の王倹の子。南斉の淮南長公主を娶った。幼少の頃より令名高い貴公子だったが、差別主義者で、身分の低い者にむごく当たった。519年、左僕射とされた。519年⑴参照。
 ⑷王份…字は季文。生年446、時に75歳。南斉の雍州刺史の王奐の弟。14歳の時に父を亡くした。袁粲が誅殺された時、一人泣き叫んで名を上げた。奐が誅殺され、その子の王粛が北魏に亡命した際、自ら処罰を求めたが赦された。
 ⑸《洛陽伽藍記》に『国子学の講堂内に孔丘(孔子)像があり、その傍に仁を問う顔淵(顔回)の像と政を問う子路の像が置かれた』とある。

┃馮道根の死
 この月、梁の散騎常侍・左軍将軍・豫寧県伯の馮道根が逝去した(享年58)。
 その報を受けた時、武帝は正月の二廟の祭祀のために皇宮を出かけた所だった。帝はそこで中書舍人の朱异生年483、時に38歳)に尋ねて言った。
「同日に吉礼と凶礼を行なっていいものであろうか?」
 异は答えて言った。
「昔、衛の献公は太史の柳荘の病状が重くなった報を聞いた時、祭祀を執り行っていましたが、〔「危篤になった場合は、祭祀を行なった身でも構わず必ず見舞いに行く」と言い、間もなく荘の訃報を聞くと再拝稽首して〕『柳荘は私の臣と言うより社稷の臣(国の大黒柱)であったゆえ、その死を聞いたなら弔問に行くべきだ』と言い、祭服を脱がずに弔問に赴き、遺体に衣服を着せる儀礼を行ないました。道根は社稷の臣とまではいきませんが、国家に功労のあった者でありますゆえ、弔問に赴くのが礼儀だと考えます。」
 帝はそこで道根の屋敷に赴き、非常に嘆き悲しんだ。また、詔を下して言った。
「豫寧県開国伯・新除散騎常侍・領左軍将軍の馮道根は真摯に朕に仕え、功を立てても誇らず、良く民や兵の心を摑み、辺境を守れば容易に敵の侵入を許さなかった。祭遵・馮異

ともに光武帝の功臣。関中を守った・郭伋光武帝の功臣。北辺を守った・李牧趙の名将。秦を二度も撃退した)もこれ以上では無いであろう。かような立派な者がいま突然逝去してしまい、悲しみに心が痛んでいる。信威将軍・左衛将軍を追贈し、鼓吹(楽隊)一部を与えるべきである。また、遺族に葬儀代として銭十万・布百疋を与える。また、威と諡す事とする。」


○資治通鑑
 左軍將軍豫寧威伯馮道根卒。是日上春,祠二廟【帝立太廟,祀太祖文皇帝以上為六親廟,皆同一堂,共庭而別室。又有小廟,太祖太夫人廟也,非嫡,故別立廟。皇帝每祭太廟訖,乃詣小廟,亦以一太牢,如太廟禮。有二廟令,掌廟事】,既出宮,有司以聞。…「吉凶同日,今可行乎﹖」對曰:
「昔衛獻公聞柳莊死,不釋祭服而往【記檀弓曰:衛太史柳莊寢疾,公曰:「若疾革,雖當祭必告。」公再拜稽首,請於尸曰:「有臣柳莊也者,非寡人之臣,社稷之臣也。聞之死,請往。」不釋服而往,遂以襚之〕】。道根雖未為社稷之臣,亦有勞王室,臨之,禮也。」上即幸其宅,哭之甚慟。
○梁18馮道根伝
 普通元年正月,卒,時年五十八。是日輿駕春祠二廟,既出宮,有司以聞。高祖問中書舍人朱异曰:「吉凶同日,今行乎?」异對曰:「昔柳莊寢疾,衞獻公當祭,請於尸曰:『有臣柳莊,非寡人之臣,是社稷之臣也,聞其死,請往。』不釋祭服而往,遂以襚之。道根雖未為社稷之臣,亦有勞王室,臨之禮也。」高祖即幸其宅,哭之甚慟。詔曰:「豫寧縣開國伯、新除散騎常侍、領左軍將軍馮道根,奉上能忠,有功不伐,撫人留愛,守邊難犯,祭遵、馮異、郭伋、李牧,不能過也。奄致殞喪,惻愴于懷。可贈信威將軍、左衞將軍,給鼓吹一部。賻錢十萬,布百匹。諡曰威。」

 ⑴馮道根…字は巨基。生年463、時に58歳。広平の人。幼くして父をなくし、丁稚奉公をして母を養った。16歳の時に戦場にて窮地に陥った湖陽戍主を救い出した事で世に知られるようになった。499年、南斉の陳顕達が北伐に失敗した際、道案内をして逃げのびさせた。間もなく汮口戍副とされた。蕭衍が挙兵するとこれに従い、活躍した。衍が即位すると驍騎将軍・増城県男・文徳帥とされ、のち游擊将軍とされた。間もなく江州刺史の陳伯之の乱を平定した。503年、寧朔将軍・南梁太守・領阜陵城戍とされ、北魏軍の侵攻を撃退し、輔国将軍とされた。韋叡の合肥攻略にも功を立てた。507年、鍾離の決戦にて北魏軍を大破し、雲騎将軍・領直閤将軍・豫寧県伯とされた。のち、中権中司馬・右游擊将軍・武旅将軍・歴陽太守とされた。509年、貞毅将軍・豫州刺史・領汝陰太守とされると善政を行なった。512年、太子右衛率とされた。514年、信武将軍・宣恵司馬・新興永寧二郡太守とされた。515年に右游擊将軍・領朱衣直閤、516年に右衛将軍とされた。517年、信武将軍・豫州刺史とされたが、間もなく病気となり、建康に戻って左軍将軍とされた。

朱异現る
 朱异は字を彦和といい、呉郡銭唐の人である。
 异の祖父の朱昭之は高い学識を以て郷里から称賛された。その子で异の叔父の朱謙之は字を処光といい、義烈を以てを知られた。謙之が数歳の時に生母が亡くなると、昭之は仮に田の傍にこれを埋葬したが、その際、族人の朱幼方が放った火(或いは松明の火)によって焼き殺された。謙之は同母姉から密かにこの事を知ると、幼少の身ながらまるで喪に服しているかのように悲しみに暮れ、大人になっても結婚しなかった。のち、南斉の永明年間(483~493)に手ずから幼方を斬り殺し、自首して自ら首に枷を着けた。県令の申霊勗がこの事を上表すると、別駕の孔稚珪・兼記室の劉璡・司徒左西掾の張融が刺史の豫章王嶷に上書して言った。
「礼には報仇の記事(《礼記》曲礼上に『父之讎,弗與共戴天;兄弟之讎,不反兵』とある)があって孝義の情を示し、法には相殺(両成敗)の条があり、便宜的な制度を表しておりますが、謙之は刃を振るって仇を斬って既に私礼を示し、また、首に枷を着けて死に就こうとし、公法も明らかにしております。今もしこれを殺せば当世の罪人となり、これを赦して生かせば盛朝の孝子となります。一罪人を殺しても法律を守る者は増えませんが、一孝子を生かせば民度の向上に繋がるでしょう。張緒南斉の太常)・陸澄南斉の度支尚書)はみな謙之と同郷(呉郡)の生まれであり、徳化の影響は明らかです。また、私情を申しますに、私たちは謙之と面識はありませんが、その死を非常に惜しみます。」
 嶷がこの事を武帝に告げると、呉郡太守の王慈・太常の張緒・尚書の陸澄らはみな上表してこの事を論じた。帝はその義烈さを褒め称えると共に、謙之が幼方の子に復讐されるのを懸念し、謙之を曹虎の西行(曹虎は490年に南平内史とされた)に随行させた。しかし、その出発前に、謙之は幼方の子の朱懌に津陽門にて殺害されてしまった。すると今度は謙之の兄で异の父の朱巽之南斉書では『選之』)が懌を刺殺した。担当官がこの事を上聞すると、帝は言った。
「これらはみな義事であり、不問とすべき事である。」
 かくて赦免した。呉興郡の人の沈顗はこの一連の事件を聞くと感嘆して言った。
「弟は孝に死し、兄は義に殉じた。孝友(友は兄弟の友愛を指す)の節は、この一門に集まる。」
 巽之は字を処林といい、志節があり、《弁相論》を著した。顧歓は幼少時の巽之に会うと非凡な物を感じ、娘を嫁がせた。義烈さを以て名を知られ、南斉に仕えて江夏王参軍・呉平令とされた。
 异がまだ年端も行かぬ頃、外祖父の顧歓が异を撫でながら异の祖父の朱昭之にこう言った。
「この子は並の器ではない。きっとお前の家を栄えさせてくれることだろう。」
 异は十余歲の時、人を集めて賭博することを好んで郷里の人々に非常に煙たがられたが、成長すると心を改めて留学に赴いた。梁はその初めに五経書館を開設しており、异はその五経博士の明山賓を師と仰いだ。
 异は貧しかったので筆耕(人の代わりに本を筆写して報酬を得ること)をしてやりくりしたが、写し終わった時にはもう暗誦できるようになっていた。このようにして异は徧く五経を学んだが、特に礼経・易経に深い造詣を持つようになった。また書物を読み漁り、各種の技芸にも通暁し、囲碁などの博戯や書画・算術を得意とした。
 二十になって、都に上って尚書令の沈約と面試を行なうと、約は异にこうからかって言った。
「そなたは若いのに、どうしてそう欲深なのか?」
 异がとまどってその意味を測りかねていると、約は言った。
「天下の趣味というのはただ詩文・囲碁・書画しか無いが、そなたはその全てに通暁し、自分のものにしようとしている。故に欲深と言ったのだ。」
 その年(502年)、建康に獄司を設置して廷尉と同等の権限を持たせるよう、朝廷に意見書を出した。武帝は尚書にこの事を討議させ、その結果設置を許可することとした。元来の決まりでは25歳にならないと仕官が許されなかったが、异は二十一にして特別に揚州の議曹從事史となった。
 まもなく人材を求める詔が出されると五経博士の明山賓が上表して异を勧めて言った。
「錢唐の朱异は、まだ若いですが、その品行は既に老成したものを備え、一人で居るときもだらけたりすること無く、賓客と対応するときのようにしっかりとしております。またその器は広く深く、風采は山のように気高いものがあります。万丈の金山(美しい山)は少し登っただけではその高さが分からず、千尋の玉海はちょっと覗き見ただけではその深さを測れぬものです。また、磨いたばかりの玉器や編んだばかりの絹織物は、触るだけで美しい音色を響かせ、手に取ればますます輝きを増すものです。彼の誠実な言動を見るに、その才は郷里に一人いるかいないかというものではなく、要職を与えれば必ず天下の役に立つ才だと思われます。」
 そこで武帝が异を呼び寄せ、《孝経》《周易》の内容について語らせた所とても素晴らしいものがあったので、非常に喜んで左右にこう言った。
「朱异は真に非凡である。」
 のちに帝は山賓に会うとこう言った。
「そなたが推薦した者は、真に朕が求めている者であったぞ。」
 かくて异を中書省に出仕させると、まもなく太学博士も兼任させた。
 その年、帝が自ら孝経の講義を行なった際、异は朗読を任された。のち、尚書儀曹郎・兼中書通事舍人とされた。
 のち、中書郎とされた。時あたかも秋の日のことであり、就任式が始まると、蟬が飛んできて异の武冠に集まった。当時の人々は皆、これを异が蟬飾りをした冠の位(皇帝の近臣)に就く予兆だと言い合った。

 异は顔つきが堂々として立派であり、立ち居振る舞いが素晴らしく、学生出身者ではあったが、政治・軍事両面の決まりや習わしを知悉していた。

○南斉55朱謙之伝
 朱謙之字處光,吳郡錢唐人也。父昭之,以學解稱於鄉里。謙之年數歲,所生母亡,昭之假葬田側,為族人朱幼方燎火所焚。同產姉密語之,謙之雖小,便哀戚如持喪。年長不婚娶。永明中,手刃殺幼方,詣獄自繫。縣令申靈勗表上,別駕孔稚珪、兼記室劉璡、司徒左西掾張融牋與刺史豫章王曰:「禮開報仇之典,以申孝義之情;法斷相殺之條,以表權時之制。謙之揮刃斬冤,既申私禮;繫頸就死,又明公法。今仍殺之,則成當世罪人;宥而活之,即為盛朝孝子。殺一罪人,未足弘憲;活一孝子,實廣風德。張緒陸澄,是其鄉舊,應具來由。融等與謙之竝不相識,區區短見,深有恨然。」豫章王言之世祖,時吳郡太守王慈、太常張緒、尚書陸澄竝表論其事,世祖嘉其義,慮相復報,乃遣謙之隨曹虎西行。將發,幼方子惲於津陽門伺殺謙之,謙之之兄選之又刺殺惲,有司以聞。世祖曰:「此皆是義事,不可問。」悉赦之。吳興沈顗聞而歎曰:「弟死於孝,兄殉於義。孝友之節,萃此一門。」選之字處林,有志節,著辯相論。幼時顧歡見而異之,以女妻焉。官至江夏王參軍。
○梁38・南62朱异伝
 朱异字彥和,吳郡錢唐人也。〔祖昭之,以學解稱於鄉。叔父謙之字處光,以義烈知名。年數歲,所生母亡,昭之假葬於田側,為族人朱幼方燎火所焚。同產姊密語之,謙之雖小,便哀感如持喪,長不昏娶。齊永明中,手刃殺幼方,詣獄自繫。縣令申靈勗表上之。齊武帝嘉其義,慮相報復,乃遣謙之隨曹武西行。將發,幼方子懌於津陽門伺殺謙之。謙之兄〕父巽〔之〕,以義烈知名,〔即异父也,又刺殺懌。有司以聞。武帝曰:「此皆是義事,不可問。」悉赦之。吳興沈顗聞而歎曰:「弟死於孝,兄殉於義,孝友之節,萃此一門。」巽之字處林,有志節,著辯相論。幼時,顧歡見而異之,以女妻焉。〕官至齊江夏王參軍、吳平令。异年數歲,外祖顧歡撫之謂异祖昭之曰:「此兒非常器,當成卿門戶。」年十餘歲,好羣聚蒲(蒱)博,頗為鄉黨所患。既長,乃折節從師,〔梁初開五館,异服膺於博士明山賓。居貧,以傭書自業,寫畢便誦。〕遍治(覽)五經,尤明禮、易,涉獵文史,兼通雜藝,博弈書算,皆其所長。年二十,詣都,尚書令沈約面試之,因戲异曰:「卿年少,何乃不廉?」异逡巡未達其旨。約乃曰:「天下唯有文義异(棊)書,卿一時將去,可謂不廉也。」其年,上書言建康宜置獄司,比廷尉,敕付尚書詳議,從之。舊制,年二十五方得釋褐。時异適二十一,特敕擢為揚州議曹從事史。尋有詔求異能之士,五經博士明山賓表薦异曰:「竊見錢唐朱异,年時尚少,德備老成,在獨無散逸之想,處闇有對賓之色,器宇弘深,神表峯峻。金山萬丈,緣陟未登;玉海千尋,窺映不測。加以珪璋新琢,錦組初構,觸響鏗鏘,值(遇)采便發。觀其信行,非惟十室所稀,若使負重遙途,必有千里之用。」高祖(武帝)召見,使說孝經、周易義,甚悅之,謂左右曰:「朱异實異。」後見明山賓,謂曰:「卿所舉殊得其人。」仍召异直西省,俄兼太學博士。其年,高祖自講孝經,使异執讀。遷尚書儀曹郎,入兼中書通事舍人,〔後除中書郎,時秋日,始拜,有飛蟬正集异武冠上,時咸謂蟬珥之兆。…异容貌魁梧,能舉止,雖出自諸生,甚閑軍國故實。〕

 ⑴顧歓…字は景怡。420~483。呉郡塩官の人。剡県の天台山に隠遁して学校を開き、常時百人近くの弟子を集めた。《尚書百問》《毛詩集解叙義》《老子義綱》《老子義疏》《夷夏論》などを著した。
 ⑵明山賓…字は孝若。生年443、時に78歳。平原郡鬲県の人。大の読書家。出仕して奉朝請とされ、のち梁の尚書駕部郎→治書侍御史・右軍記室参軍とされ、国家の祭祀を取り仕切った。五経博士が置かれると初めにその選に選ばれた。のち北中郎諮議参軍とされ、皇太子の読書に付き添った。のち中書侍郎・国子博士・太子率更令・中庶子などを歴任した。516年、督縁淮諸軍事・北兗州刺史とされた。《吉礼儀注》《礼儀》《孝経喪礼服義》などを著した。
 ⑶沈約…字は休文。441~513。名門の呉興沈氏の出。《宋書》の編纂者。『竟陵八友』の一人。父は劉宋の淮南太守の沈璞。453年に父が孝武帝に誅殺されると逃げ隠れ、赦されたのちも貧しい生活を強いられたが、めげずに勉学に打ち込み、体を壊すことを恐れた母に明かりを消されると昼に読書し、夜は内容を思い出して暗誦し、遂に多くの書物の内容に通暁するようになり、文才にも優れるようになった。初任は奉朝請。太子長懋に非常に気に入られて太子家令とされ、のち黄門侍郎・兼尚書左丞→御史中丞→車騎長史とされた。

┃使者捕縛

 庚子(正月26日)、梁に扶南国(タイ南部・カンボジアにあった国)・高句麗国の朝貢の使者が到着した。

 

 2月、壬子(8日)、老人星(カノープス。吉星)が現れた。


 癸丑(9日)、梁が高句麗王世子の高興安を寧東将軍・都督営平二州諸軍事・高句麗王とし、衣・冠・剣・佩(腰に付ける装身具)を江法盛に持たせて派遣した。

 しかし、法盛は途中、光州(山東半島)の海域にて北魏兵に捕らえられてしまった。


 3月、丙戌(12日)、滑国(西域にある国)の使者が梁に到り、黄獅子・シロテンの皮衣・波斯(ペルシャ)錦などを献上した。

 夏、4月、甲午(?日)、河南国(吐谷渾)の朝貢の使者が梁に到着した。


○梁武帝紀
 庚子,扶南、高麗國各遣使獻方物。二月壬子,老人星見。癸丑,以高麗王世(嗣)子安為寧東將軍、高麗王。三月丙戌,滑國遣使獻方物。夏四月甲午,河南王(國)遣使獻方物(遣使朝貢)。
○魏100高句麗伝
 正光初,光州又於海中執得蕭衍所授安寧東將軍衣冠劍佩,及使人江法盛等,送於京師。
○梁54河南王国伝
 普通元年,又奉獻方物。
○梁54滑国伝
 普通元年,又遣使獻黃師子、白貂裘、波斯錦等物。
○梁54扶南国伝
 普通元年,中大通二年,大同元年,累遣使獻方物。
○梁54高句麗伝
 普通元年,詔安纂襲封爵,持節、督營平二州諸軍事、寧東將軍。
○三国史記
 二年春正月,遣使入梁朝貢。二月,梁高祖封王為寧東將軍都督營、平二州諸軍事高句麗王,遣使者江法盛,賜王衣冠劒佩,魏兵就海中執之,送洛陽。魏封王為安東將軍領護東夷校尉遼東郡開國公高句麗王。

 ⑴高興安…高句麗の22代君主。519年に父の文咨王が死ぬと跡を継ぎ、安臧王となった。北魏に安東将軍・領護東夷校尉・遼東郡開国公・高句麗王とされた。519年⑶参照。

┃旱魃
 丙辰(4月13日)、〔七兵?〕尚書の長孫稚に北辺(原文『北藩』。藩には境界という意味がある)を巡視・慰撫させ、人々の生活ぶりを調査させた。
 5月、辛巳(8日)、詔を下して言った。
「朕は徳が薄いのに帝位を継いだゆえ、夜明け前に政務に就き、一日中過ちを犯さぬよう気をつけるなど努力しているが、それでも愚昧ゆえに失政を行なう事が多かった。今、旱魃の災いが発生している責任は朕にあり、恥の余り寝食を忘れている所である。現在、刑罰が厳しく行なわれ、獄舎は囚人で一杯になっているゆえ、彼らに恩恵を与え、人民を救済すべきである。八座(一令・二僕射・五曹尚書)は囚人に冤罪の者がいないかもう一度取り調べよ。」
 癸未(10日)、詔を下して言った。
「神の感応を得て災いを祓うには政治を修正する事が基本であり、特に民は神主(神の祀り手)なのであるから、率先して救済していかねばならぬ。刺史・太守・県令は朕と共に天下を治めているからには、罪人を捕らえたとしても同情すべきであって喜ぶべきではなく(『宜哀矜勿喜』。《論語》子張に『上失其道、民散久矣。如得其情(犯情)、則哀矜而勿喜』とある)、慈しみの心を持って臨まねばならぬ。まして今は旱魃が長期に亘って続き、疲弊している所なのであるから、尚更である。よって今、州郡に民に綏撫を加え、知能の限りを尽くし、慎みの態度を持って政務に当たるよう厳命する。州郡の長官がこのようであれば、必ずや神に思いが通じ、旱魃が収まる事であろう。民にとって無益な賦税・徭役は、仔細に報告したのちすぐ廃止するようにせよ。」

 6月、丁未(5日)、梁が護軍将軍の韋叡を侍中・車騎将軍としたが、叡は病気を理由に受けなかった。

○魏孝明紀
 夏四月丙辰,詔尚書長孫稚巡撫北藩,觀察風俗。五月辛巳,詔曰:「朕以寡薄,運膺寶圖,雖未明求衣,惕懼終日,而闇昧多闕,炎旱為災,在予之愧,無忘寢食。今刑獄繁多,囹圄尚積,宜敷仁惠,以濟斯民。八座可推鞠見囚,務申枉濫。」癸未,詔曰:「攘災招應,修政為本,民乃神主,實宜率先。刺史守令與朕共治天下,宜哀矜勿喜,視民如傷。況今炎旱歷時,萬時彫弊,而不撫恤窮冤,理決庶獄。可嚴敕州郡,善加綏隱,務盡聰明,加之祗肅,必使事允人神,時致靈應。其賦役不便於民者,具以狀聞,便當蠲罷。」
○梁武帝紀
 六月丁未,以護軍將軍韋叡為車騎將軍。
○梁12韋叡伝
 普通元年夏,遷侍中、車騎將軍,以疾未拜。

 ⑴長孫稚…字は承業。本名は冀帰。北魏の名族の出で、征南大将軍の長孫観の子。六歳の時に家業を継いだため孝文帝に『稚』の名と承業の字を与えられた。聡明で度量があった。輔国将軍とされ、509年に梁将の王神念が南兗州に侵攻してくると都督とされて討伐に赴いた。
 ⑵韋叡…字は懐文。生年442、時に79歳。名門・京兆杜陵韋氏の出。梁の名将。南斉に仕えて上庸太守とされ、雍州刺史の蕭衍が挙兵すると兵を引き連れてこれに馳せ参じ、多くの献策を行なった。また、衍が郢州を発つ際、留守を任された。502年、梁が建国されると廷尉とされた。のち豫州刺史・領歴陽太守とされ、504年、北魏の侵攻を退けた。505年、北伐に参加し、小峴城を陥とし、来援してきた北魏軍を大破し、合肥を陥とした。507年、鍾離にて北魏軍を大破した。508年、南郡太守とされ、中山王英が安陸に迫ると救援に向かい、退却させた。508年、江州刺史とされ、510年、右衛将軍とされ、のち左衛将軍・太子詹事とされた。のち中護軍とされた。515年、雍州刺史とされた。518年、護軍将軍とされた。

┃清河王懌、誣告を受く
 北魏の太傅・領太尉・侍中の清河王懌は美男であったため、胡太后に迫られて関係を持ち、〔それがもとで重用を受けたが、〕もともと才能があったので太后の政治を良く輔佐した。また、文学を愛好し、教養人を敬ったので非常に人気を集めた。
 侍中・領軍将軍の元叉は太后の妹の夫であることを以て門下省に身を置いて近衛兵を統括し、寵愛を頼みにやりたい放題に振る舞い、その欲望には限りが無かった。懌はよく法を以てこれを裁き、叉の恨みを買った。
 衛将軍・儀同三司・中侍中・長秋卿の劉騰は朝廷内外に権勢を振るっており、吏部はその意を汲んで騰の弟を太守・兼戍主としたが、懌は才能や身分が相応しくない事を以てこれを握りつぶした。この事によって懌は騰からも恨みを買った。
 これより前、懌は宋弁の長子の宋維を名臣の子である事を以て通直散騎侍郎とし、その弟の宋紀を召して行参軍としていた。維と紀は非常な読書家だったが、軽薄で品行が悪かった。叉はこの維に昇進の約束をして仲間に取り込み、懌を陥れようとした。維は叉の権勢が日増しに高まっていくのを目の当たりにしていたためこれを聞き入れ、その指示に従って司染都尉の韓文殊父子が挙兵して懌を擁立しようと企てていると誣告した。太后はそこで懌を門下省に軟禁し、文殊父子は恐れて逃げ隠れた。その側近や朝廷の高官たちに聞き取り調査をしたが、高官たちがみな懌を擁護したため釈放した。ただ、懌は依然として宮西の別館に軟禁され、近衛兵の監視を受けた。また、文殊父子は逃亡の罪を以て欠席ながら斬首の判決を受けた。
 懌は忠義であったのに誹謗を受けた事を〔遺憾に思い〕、昔の忠烈の士の記事を集めて『顕忠録』二十巻を著し、これを通して己が心情を吐露した。
 維は反坐(誣告した者が誣告した罪状の罰と同じ罰を受ける制度。死刑に相当する罪を誣告して失敗した場合死刑になる)が適用されることとなったが、叉は太后にこう言った。
「今維を誅殺したりなさると、のちに本当に反乱を企てる者が現れても誰も訴え出ないようになりますぞ。」
 太后はそこで維を燕州の昌平太守に、紀を秦州の大羌令に左遷するに留めた。人々は皇室の賢人の懌から恩顧を受けながら裏切って誣告した維に憤り、かつ軽蔑した。

 宋維は字を伯緒といい、宋紀は字を仲烈という。維は若年の頃に父の爵位を継ぎ、員外郎から給事中に昇進した。のち、高肇におもねった罪で益州龍驤府長史に左遷されたが、病気を理由にして行かなかった。

○資治通鑑
 魏太傅、侍中、清河文獻王懌,美風儀,胡太后逼而幸之。然素有才能,輔政多所匡益,好文學,禮敬士人,時望甚重。…維當反坐【反坐,誣告失實者以其所告之罪坐之。】;叉言於太后曰:「今誅維,後有真反者,人莫敢告。」
○魏13宣武霊皇后胡氏伝
 時太后得志,逼幸清河王懌,淫亂肆情,為天下所惡。
○魏16元叉伝
 太傅、清河王懌,以親賢輔政,參決機事,以叉恃寵驕盈,志欲無限,懌裁之以法。叉輕其為人,每欲斥黜之。叉遂令通直郎宋維,告司染都尉韓文殊欲謀逆立懌,懌坐禁止。後窮治(案)無實,懌雖得免,猶以兵衞守於宮西別館。
○魏22清河王懌伝
 靈太后以懌肅宗懿叔,德先具瞻,委以朝政,事擬周霍。懌竭力匡輔,以天下為己任。領軍元叉,太后之妹夫也,恃寵驕盈。懌裁之以法,每抑黜之,為叉所疾。叉黨人通直郎宋維希叉旨,告懌謀反,禁懌門下,訊問左右及朝貴,貴人分明,乃得雪釋焉。懌以忠而獲謗,乃鳩集昔忠烈之士,為顯忠錄二十卷,以見意焉。
○魏63宋維伝
 長子維,字伯緒。維弟紀,字仲烈。維少襲父爵,自員外郎遷給事中。坐諂事高肇,出為益州龍驤府長史,辭疾不行。太尉、清河王懌輔政,以維名臣之子,薦為通直郎,辟其弟紀行參軍。靈太后臨政,委任元叉,而叉恃寵驕盈,懌每以分理裁斷。叉甚忿恨,思以害懌,遂與維為計,以富貴許之。維見叉寵勢日隆,便至乾沒,乃告司染都尉韓文殊父子欲謀逆立懌。懌坐被錄禁中。文殊父子懼而逃遁。鞫無反狀。以文殊亡走,懸處大辟。置懌於宮西別館,禁兵守之。維應反坐,叉言於太后,欲開將來告者之路,乃黜為燕州昌平郡守,紀為秦州大羌令。維及紀頗涉經史,而浮薄無行。懌親尊懿望,朝野瞻屬,維受懌眷賞,而無狀構間,天下人士莫不怪忿而賤薄之。
○魏94劉騰伝
 吏部嘗望騰意,奏其弟為郡帶戍,人資乖越,清河王懌抑而不與。騰以為恨,遂與領軍元叉害懌。


 ⑴清河王懌…字は宣仁。生年487、時に34歳。孝文帝の第四子。母は羅夫人。宣武帝の弟、孝明帝の叔父。汝南王悦の同母兄。幼い頃から頭脳明晰・容姿端麗で孝文帝に可愛がられた。読書家で文才に優れ、議論を得意とし、寛容で感情が一定していた。499年に宣武帝が即位すると侍中・尚書僕射とされた。職務に就くと政治の才能を遺憾なく発揮し、優れた決断力を示した。帝が高肇に専権を振るわせると帝を諌めた。512年に司空、515年に孝明帝が即位すると司徒→太傅・領太尉とされ、胡太后から政治を委任された。519年⑶参照。
 ⑵胡太后…北魏の司徒の胡国珍の娘。母は皇甫氏。宣武帝の妻で、孝明帝の母。聡明で容姿麗しく、弓の腕前も一流だったが、淫乱だった。比丘尼統の叔母の胡僧芝に宮中にて仏教の講義を受け、大義に通じた。また、このときその美しさが宣武帝の耳に入って承華世婦とされた。このとき、子貴母死制度があったため後宮の女官たちは太子を出産する事を願わなかったが、ただ一人「天子にどうして男児ができないのでしょうか。どうして我が身可愛さに皇家の世継ぎを産まずにいられましょうか?」と言い、妊娠すると周囲に堕胎するよう勧められたが拒否し、「男児を孕んでおりますよう。そして元気に成長して世継ぎになりますよう。さすれば死をも辞さぬ覚悟です」と天に誓い、晴れて男児(のちの孝明帝)を産むと充華嬪とされた。このとき帝は男児を別宮にて養育し、皇后や充華嬪らに近づかせなかった。515年、帝が死んで幼い孝明帝が跡を継ぐと高皇后との争いを制して皇太妃→皇太后とされ、実権を握り摂政を行なった。519年、朕を称し、令を詔に改めた。仏教を厚く信じ、洛陽に永寧寺などを建て、諸州にも五層の仏塔を建てさせた。また、節度無く施物や下賜を行ない、財政を悪化させた。519年⑶参照。
 ⑶元叉…字は伯儁。幼名は夜叉。生年486、時に35歳。京兆王継の長子。温厚で教養が深く、道教や仏教に通じ、文才に優れた。母が亡くなった時、悲しみのあまり死にかけた。のち出仕して散騎侍郎とされ、胡太后の妹を娶った。この事で太后に寵用され、侍中・領軍将軍・領左右とされて近衛兵を統べた。楊昱に収賄の罪を告発されると逆恨みし、武昌王和らに誣告させたが失敗した。519年⑶参照。
 ⑷劉騰…字は青龍。生年463、時に58歳。平原城民だったが、南兗州の譙郡に移住した。幼い時に宮刑を受けて宦官となった。読書をした事が無く、自分の名前を書くことしかできなかったが、頭の回転が早く、良く人の考えを汲み取る事ができた。小黄門→中黄門とされ、孝文帝が懸瓠に赴いた時、馮后が高菩薩と不倫している事を報告し、その功により冗従僕射・中黃門とされた。のち中常侍→大長秋卿とされた。515年、宣武帝が死に高皇后と胡貴妃の対立が激化すると貴妃側に付いて権力奪取に大いに貢献し、その功により中侍中・長楽公とされ、非常な寵用を受けた。のち、長秋寺を建てた。518年、衛将軍・儀同三司とされた。519年⑵参照。

┃神亀の変
 この事件より暫くののち、領軍将軍(近衛軍総司令官)の元叉はいずれ清河王懌が自分に報復してくると考え、〔禍根を絶つために〕密かに中侍中・長秋卿の劉騰と光禄卿・領右衛将軍(近衛軍右衛長官)の奚康生と共に〔懌の始末を〕企てた。
 秋、7月、丙子(4日)胡太后が嘉福殿(後殿)にいてまだ前殿に行かない内に、騰は主食中黄門の胡玄度北史では『胡度』)・胡定を偽って逮捕し、こう白状させた。
「懌は私たちを買収し、御食事の中に毒薬を盛らせて帝を殺害し、皇帝にならんと図りました。また、皇帝になった暁には、私たち兄弟を富貴の身分にすると約束しました。」
 騰がこれを孝明帝に報告すると、帝はこの時まだ十一歳だったため信じてしまった。叉は帝を連れて顕陽殿(前殿)に到り、騰は永巷門を閉じて胡太后を前殿に出てこれなくした。
 やがて懌が宮城に入り(懌は宮西別館に軟禁されていた筈なので、呼び出されたのだろう)、叉と含章殿後にて会った。懌が徽章東閤に入ろうとすると、叉は声を荒げてこれを止めた。懌は言った。
「お前は謀反を起こすつもりなのか?」
 叉は言った。
「私は謀反など考えはしない。ただ謀反人を捕らえたいと思うだけだ!」
 かくて宗士(宗室を取り締まる宗師に属する)および直齋(殿中の齊閤に宿直する兵士で、直閤に属する)ら三十人に懌の袂(たもと)を掴まえさせて含章東省に連行し、数十人の兵士に監視させた(懌伝では『門下省に監禁した』とある)。
 叉と騰は詔と偽って高官たちを召集し、大逆の罪を以て懌を処刑するべきかどうか議論させた。この時、高官たちは叉を恐れてその意を汲んだが、ただ右僕射の游肇のみ反対を叫び、最後まで署名しようとしなかった。叉・騰は高官たちの署名を帝に渡し、間もなく裁可を受けると、夜中に懌を殺害した(享年34)。
 天下の人々は貴賤や交流の有無に関わらずみな悲しんで落胆した。懌の死は遠近を驚愕させ、北族も洛陽から帰ってきた者からこの事を知ると劈面(匈奴など北方民族の風習で、顔を切って血を流すことで哀悼の意を示す)する者が数百人にも及んだ。

 叉・騰はここにおいて胡太后の詔を偽造した。内容はこのようなものだった。
『魏は建国されてより代々繁栄し、高祖孝文皇帝は英明さを以て天下を治め、都を洛陽に遷され、世宗宣武皇帝もまた英明さを以て帝業を継ぎ、区夏(中国)の平定に勤しまれた。しかし、道半ばで早くに崩御なされたため、区夏は未だに統一されず、鯨寇(大賊)の勢いは未だに盛んなままとなった。〔そのような難局の中、〕帝(孝明帝)が皇位を継いだが、幼少ゆえ宗廟の祭祀に当たることもできなかったので、朕(胡太后)は群臣の求めに従って摂政を行なう事にした。のち、帝が成長していくにつれ、朕は隠居を考え、何度もその意向を百官に告げたが、反対を受けたためやむなく政務に精励して今日まで至る事になった。しかし、春以来、持病がしばしば再発し、薬石を用いて治療しても効果は芳しくなく、夏の初め頃から今に至るまで何度も病状が悪化するようになり、日々の多忙な政務をこなす事や巨細に目を通す事ができなくなった。〔今、〕帝は年齢が〔もうすぐ〕星紀(十二年)を一巡りするが、識見や学力も日進月歩で向上し、人君として必要な物を備え、国家を統治するには充分となった。〔そこで、〕朕はかねてからの志や、『復子明辟(子に明辟(政権)を復〈かえ〉す。周公旦が成王に政権を返した故事から)』の義に思いを致し、別宮に退いて静養したいと思う。どうか諸公から人民に至る臣下は、このことわりを深く鑑みてほしい。今もし政権を帝に返せば、君臣は一体、天地は安らかとなり、魏の国運は興隆し、人も神も喜ぶであろう。これこそ喜ばしい事では無いか?』
 太后は宣光殿に幽閉され、宮殿の門は昼夜を問わず閉じられて外界と遮断された。騰が門の鍵を持っていたため帝でも太后に会うことができず、ただ食事を運ぶ許可をする事しかできなかった。太后は粗末な衣食だけを与えられ、飢えや寒さに苦しめられた。太后は嘆息して言った。
「『虎を飼って咬まれる』とは、私の事を言っているのだ。」
 また、読書の付き添いという名目で中常侍の賈粲を帝の傍に置き、監視させた。

 賈粲は字を季宣といい、酒泉の人である。太和年間(477~499)に腐刑(宮刑。去勢の罰)に処された。非常な読書家で、宣武帝の治世(499~515)の末年に次第に才能を認められて内侍の官に用いられるようになり、崇訓丞から長兼中給事中・中嘗薬典御とされ、のち長兼中常侍とされた。のち、光禄少卿や光禄大夫とされた。

 叉と騰は表裏一体となって専権を振るい、叉は宮外を、騰は宮内に目を光らせ、交代で宮中に宿直し、刑罰や恩賞を相談して決めた。二人の威権は都の内外に振るい、百官は恐れおののいて唯々諾々とその命に従った。また、叉は帝に自分の事を『姨父』(母の姉妹の夫)と呼ばせた。
 騰は崔光と同じく、詔を受ける際、步挽(手で引く車)に乗って宮殿の門を出入りする事を許された。〔騰が亡くなる正光四年(523)までの〕四年間、生殺の決定権は叉・騰二人の手に握られた。

 また、宋維兄弟は以前に懌の謀反を密告していた事を以て洛陽に呼び戻され、維は散騎侍郎、紀は太学博士・領侍御史とされ、非常に手厚くもてなされた。のち更に維は飛び級で通直常侍・冠軍将軍・洛州刺史とされ、紀は尚書郎とされた。
 これより前、父の宋弁は族弟の宋世景にこう言っていた。
「維は性格が陰険で、紀は頭が足りない。いつかきっと私のやってきた事を台無しにするだろう。」
 世景はそうは思わなかったが、ここに至って果たしてその通りになったのだった。これを聞いた者は『子の事は父が一番良く知っている』(《管子》)とはよく言ったものだと考えた。尚書令の李崇・尚書左僕射の郭祚・右僕射の游肇もよくこう言った。
「伯緒(宋維)は凶悪な性格で、いつか宋氏を滅ぼすだろう。せめて伯緒一人が殺されるのを願うのみだ。」
 論者はここに至り、彼らの言う事にはちゃんと根拠があったのだと考えた。

 また、太尉掾・兼中書舍人の楊昱を済陰(兗州の西南)内史に左遷した。
 
 また、太后の母の兄弟〔尚書左僕射・領左衛将軍〕の皇甫度を左遷して都督・瀛州刺史としたが、固辞されると右光禄大夫とした。
 度は字を文亮といい、〔右衛大将軍の〕皇甫集の弟である。安定県公とされ、昇進を重ねて尚書左僕射・領左衛将軍とされた。愚鈍で、人と話すとき常に僕射を自称したため、毛嘉になぞらえられた。

 また、光禄卿・領右衛将軍(近衛軍右衛長官)の奚康生は撫軍大将軍(二品。衛将軍に次ぐ)・河南尹・右衛将軍・領左右とされた。

○資治通鑑
 使主食【主御食者也】中黃門胡定自列【列,陳也】云:「懌貨定使毒魏主,若己得為帝,許定以富貴。」帝時年十一,信之。秋,七月,丙子,太后在嘉福殿,未御前殿,叉奉帝御顯陽殿,騰閉永巷門,太后不得出。懌入,遇叉於含章殿後,叉厲聲不聽懌入,懌曰:「汝欲反邪!」叉曰:「叉不反,正欲縛反者耳!」命宗士及直齊執懌衣袂,將入含章東省【魏置宗師,宗士其屬也。直齊,直殿內齊閤者也,屬直閤。將,引也,送也】,使人防守之。騰稱詔集公卿議,論懌大逆;眾咸畏叉,無敢異者,唯僕射新泰文貞公游肇抗言以為不可,終不下署【不下筆署名也】。叉、騰持公卿議入,俄而得可【魏主可其奏也】,夜中殺懌。於是詐為太后詔,自稱有疾,還政於帝。幽太后於北宮宣光殿,宮門晝夜長閉,內外斷絕,騰自執管鑰,帝亦不得省見,裁聽傅食而已。太后服膳俱廢,不免飢寒,乃歎曰:「養虎得噬,我之謂矣。」又使中常侍酒泉賈粲侍帝書,密令防察動止。叉遂與太師高陽王雍等同輔政,帝謂叉為姨父。叉與騰表裏擅權,叉為外禦,騰為內防,常直禁省,共裁刑賞,政無巨細,決於二人,威振內外,百僚重跡【言懼之甚,不敢妄舉足而行,步步踏陳迹也】。朝野聞懌死,莫不喪氣,胡夷為之剺面者數百人【剺,里之翻。胡夷臨喪,剺面而哭哀甚】。游肇憤邑而卒。
○魏孝明紀
 秋七月丙子,侍中元叉、中侍中劉騰奉帝幸前殿,矯皇太后詔曰:「魏有天下,弈葉重光。高祖孝文皇帝,以英聖馭天,徙京定鼎。世宗宣武皇帝,以睿明承業,廓寧區夏,而鴻勳未半,早已登遐。乃令車書弗同,鯨寇尚熾。幼主稚弱,夙纂寶曆,曾是宗祏,莫克祗奉,朕所以敬順羣請,臨朝總政。帝年以長,久思退身,所以往歲殷勤,具陳情旨,百官內外,已照此懷。而僉爾眾意,苦見勤奪,僶俛從事,以迄于茲。自此春來,先疾屢發,藥石攝療,莫能善瘳,夏首及今,數加動劇,便不堪日釐萬務,巨細兼省。帝齒周星紀,識學逾躋,日就月將,人君道茂,足以撫緝萬邦,諧決百揆。朕當率前志,敬遜別宮,遠惟復子明辟之義,以自綏養,實望羣公逮于黎庶,深鑒斯理。如此,則上下休嘉,天地清晏,魏道熙隆,人神慶悅,不其善歟?」乃幽皇太后於北宮,殺太傅、領太尉、清河王懌,總勒禁旅,決事殿中。辛卯,帝加元服,大赦,改年,內外百官進位一等。八月甲寅,相州刺史、中山王熙舉兵欲誅叉、騰,不果見殺。九月壬辰,蠕蠕主阿那瓌來奔。戊戌,以太師高陽王雍為丞相,加後部羽葆、鼓吹、班劍四十人。
○魏13宣武霊皇后胡氏伝
 領軍元叉、長秋卿劉騰等奉肅宗於顯陽殿,幽太后於北宮,於禁中殺懌。
○魏16元叉伝
 久之,叉恐懌終為己害,乃與侍中劉騰密謀。靈太后時在嘉福,未御前殿,騰詐取主食中黃門胡玄度(胡度)、胡定列誣懌,云「許(貨)度等金帛,令以毒藥置御食中以害帝,自望為帝,許度兄弟以富貴。」騰以具奏,肅宗聞而信之,乃御顯陽殿。騰閉永巷門,靈太后不得出。懌入,遇叉於含章殿後,欲入徽章東閤,叉厲聲不聽。懌曰:「汝欲反邪?」叉曰:「元叉不反,正欲縛反人。」叉命宗士及直齋等三十人執懌衣袂,將入含章東省,使數十人防守之。騰稱詔召集公卿,議以大逆論,咸畏憚叉,無敢異者。唯僕射游肇執意不同。語在其傳。叉、騰持公卿議入奏,俄而事可,夜中殺懌。於是假為靈太后辭遜之詔。叉遂與太師高陽王雍等輔政,常直禁中,肅宗呼為姨父。自後專綜機要,巨細決之,威振於內外,百僚重跡。
○魏22清河王懌伝
 正光元年七月,叉與劉騰逼肅宗於顯陽殿,閉靈太后於後宮,囚懌於門下省,誣懌罪狀,遂害之,時年三十四。朝野貴賤,知與不知,含悲喪氣,驚振遠近。夷人在京及歸,聞懌之喪,為之劈面者數百人。
○魏55游肇伝
 徵為太常卿,遷尚書右僕射,固辭,詔不許。肇於吏事,斷決不速。主者諮呈,反覆論叙,有時不曉,至於再三,必窮其理,然後下筆,雖寵勢干請,終無回撓。方正之操,時人服之。及領軍元叉之廢靈太后,將害太傅、清河王懌,乃集公卿會議其事。於時羣官莫不失色順旨,肇獨抗言以為不可,終不下署。

○魏58楊昱伝
 及元叉之廢太后,乃出昱為濟陰內史。

○魏63宋維伝
 及叉殺懌,專斷朝政,以維兄弟前者告懌,徵維為散騎侍郎,紀為太學博士,領侍御史,甚昵之。維超遷通直常侍,又除冠軍將軍、洛州刺史;紀超遷尚書郎。初,弁謂族弟世景言:「維性疏險,而紀識慧不足,終必敗吾業也。」世景以為不爾,至是果然,聞者以為知子莫若父。尚書令李崇、尚書左僕射郭祚、右僕射游肇每云:「伯緒兇疏,終敗宋氏,幸得殺身耳。」論者以為有徵。
○魏73奚康生伝
 徵拜光祿卿,領右衞將軍。與元叉同謀廢靈太后。
○魏94劉騰伝
 遂與領軍元叉害懌。廢靈太后於宣光殿,宮門晝夜長閉,內外斷絕。騰自執管鑰,肅宗亦不得見,裁聽傳食而已。太后服膳俱廢,不免飢寒。又使中常侍賈粲假言侍肅宗書,密令防察。叉以騰為司空公,表裏擅權,共相樹置。叉為外禦,騰為內防,迭直禁闥,共裁刑賞。騰遂與崔光同受詔乘步挽出入殿門。四年之中,生殺之威,決於叉、騰之手。
○魏94賈粲伝
 賈粲,字季宣,酒泉人也。太和中,坐事腐刑。頗涉書記。世宗末,漸被知識,得充內侍。自崇訓丞為長兼中給事中、中嘗藥典御,轉長兼中常侍。遷光祿少卿、光祿大夫。靈太后之廢,粲與元叉、劉騰等伺帝動靜。
○北80皇甫度伝
〔太后舅皇甫集…〕集弟度,字文亮,封安縣公,累遷尚書左僕射,領左衞將軍。度頑蔽,每與人言,自稱僕射,時人方之毛嘉。正光初,元叉出之為都督、瀛州刺史。度不願出,頻表固辭,乃除右光祿大夫。

 ⑴奚康生…本姓達奚氏。生年468、時に53歳。代々部落大人を務めた家の出。祖父は鎮北大将軍・内外三都大官・長進侯。父の普憐は仕えないまま亡くなった。勇猛で武芸に優れ、十人張りの弓を引く事ができ、尋常ではない大きさの矢を用いた。487年、柔然がたびたび侵攻してくると前駆軍主とされて活躍し、宗子隊主とされた。495年、孝文帝に従って淮水を渡る際、「中洲を陥とせた者を直閤将軍とする」の募集に応じて梁の水軍を大破し、直閤将軍とされた。のち中堅将軍・太子三校・西台直後とされた。のち吐京胡の討伐に赴き、五軍のうち四軍が敗れる中一人軍の保全に成功し、統軍とされた。のち車突谷に追撃したとき偽って落馬し、胡賊が殺到してきた所で再び乗馬して矛を振るい、数十人を殺傷して敗走させ、辛支王を百余步の距離で狙撃して射殺した。498年、南斉の義陽を攻めた際にその将の張伏護が城楼にて挑発してくると、窓を開けた時に狙撃して射殺した。城兵はその大矢を見て『狂弩』による物だと言い合った。のち渦陽が攻撃を受けると救援に赴いて一戦にて大破した。500年、寿陽が降伏してくると羽林一千を率いて入城して一月に亘って固守し、援軍が至ると出擊して南斉軍を撃破し、梁城・合肥・洛口三戍を抜いた。この功により征虜将軍・安武県男とされた。のち南青州刺史とされ、梁軍を撃退した。梁の武帝から長さ八尺(約184cm)・弓把(弦と取っ手の間)一尺二寸(約25cm)の十余人張りの大弓二張りと長笛並の大矢を送られると、文武官の前で平射してまだ余力のある所を見せると『希代絶倫』と絶賛された。梁が彭城を攻めると別将とされ、南青州の諸軍を率いてこれを撃退した。506年、梁が徐州に侵攻し、高塚戍を包囲すると武衛将軍とされて羽林三千を率い一戦で撃退し、驊騮御胡馬一頭を与えられた。のち華州刺史とされると善政を行なった。次いで涇州刺史とされ、官炭瓦を使った事で弾劾を受けて官爵を剥奪されたが、間もなく赦された。梁の郁洲が降ってくるとその迎接に赴き、事前に細御銀纏槊と棗柰果を与えられたが、出発する前に郁洲が再び梁に付いたため行かなかった。のち父の死に遭って喪に服し、514年に復帰して西中郎将とされた。この年、三万を率いて征蜀に赴いたが、宣武帝が崩御すると引き返した。のち衛尉卿→相州刺史とされた。この時旱魃が起こると石虎の絵に鞭打ち、西門豹祠にて雨乞いしたが、何も起こらないと怒って豹の舌を抜いた。この時二人の子どもが急死し自分も病気に罹った。のち光禄卿・領右衛将軍とされた。
 ⑵孝明帝…元詡。北魏の九代皇帝。生年510、時に11歳。在位515~。母は胡太后。515年にわずか6歳で即位し、母の胡太后の摂政を受けた。519年⑶参照。
 ⑵游肇…字は伯始。生年452、時に69歳。大鴻臚の游明根の子。硬骨の宰相。孝文帝に名を与えられた。大の読書家。景明年間(500~504)の末に黄門侍郎とされ、のち廷尉卿・兼御史中尉・黄門侍郎とされた。高肇が権勢を振るった時、改名するよう迫られたが孝文帝に賜った名だとして拒否し、宣武帝に硬骨さを褒め称えられた。孝明帝の時(515~)に中書令→相州刺史→尚書右僕射とされた。権勢家に請託をされても意志を曲げなかったので人々に敬服された。
 ⑶楊昱…字は元晷(キ)。生年478、時に43歳。楊椿の子。出仕して広平王懐の左常侍とされるとしばしば諫言を行ない、広平王国臣の多くが不法行為を働いて処罰された際不問とされた。のち太学博士とされた。514年、帯詹事丞とされた。この時、太子が外出する際乳母を供にするだけであったのを、東宮の臣も連れて行くように改めさせた。のち太尉掾・兼中書舍人とされ、元叉の収賄を告発して逆恨みを受けた。519年⑶参照。
 ⑷毛嘉…?~235。河内の人。曹魏の明帝の毛皇后の父。227年に娘が皇后となると騎都尉→奉車都尉・博平郷侯→光禄大夫とされた。典虞の車職人からいきなり富貴の身となったため、その立ち居振る舞いは非常に愚かで、自分の事を『侯身(侯の身)』と言って嘲笑を受けた。のち特進とされた。

 

 520年⑵に続く