[北魏(爾朱氏):普泰二年 北魏(高歓):中興二年→太昌元年→永興元年→永熙元年 梁:中大通四年]


爾朱兆征伐
 壬寅(10日)高歓が滏口より、大都督の厙狄干が井陘より爾朱兆を攻めた。
 乙巳(13日)、歓が爾朱度律・天光の身柄を洛陽に送り、帝はこれを斬刑に処した(天光、時に37歳)。天光の長史だった趙善字は僧慶)が天光の遺体の引き取りを求めると、歓はその義心に免じてこれを許した(周34趙善伝)。
 庚戌(18日)、帝が侍中・驃騎将軍の高隆之を驃騎大将軍・儀同三司・兼尚書左僕射・北道行台とし、步騎十万を率いさせて歓と合流させた。隆之はそこで北道行台の任を解かれて大丞相軍司とされた。
 歓の軍が武郷県【上党郡に属す】にまで到ると、爾朱兆は晋陽にて大略奪を行なったのち北のかた秀容に逃れた。かくて并州は平定された《魏出帝紀》。歓は晋陽が四塞の地【東に太行山脈・常山、西に蒙山、南に霍太山・高壁嶺、北に東陘・西陘関があった】に在って防衛に適している事から、ここに大丞相府を建てて居を構えた《北斉神武紀》

○魏75爾朱兆伝
 奔晉陽,〔其年秋,神武自鄴進討之,兆〕遂大掠并州城內。獻武王自鄴進討之,兆遂走於秀容。

┃郭遷の乱
 この月、夏州遷民の郭遷が青州にて叛し、刺史の元嶷を州城(東陽)から追いやった。帝は行台の侯景に斉州刺史の尉景・済州刺史の蔡俊らを率いさせてこれを討伐させた。景らが州城を陥とすと、遷は梁に亡命した。


○魏出帝紀
 是月,夏州徙民郭遷據宥州反,刺史元嶷棄城走。詔行臺侯景率齊州刺史尉景、濟州刺史蔡儁等攻討之。城陷,遷奔蕭衍。

┃譙城の戦い
 東南道大行台の樊子鵠と徐州刺史・大都督の杜徳・舎人の李昭らが譙城の元樹を攻めた時、樹は梁国にまで進出していた。樹は子鵠らが来るのを聞くと迎え撃とうとしたが、いざ対峙してみると、子鵠軍の軍容がとても立派で勝てそうになかったため、夜陰に紛れて譙城に引き返した。子鵠がこれを追撃して譙城に到ると、樹は城を背にして陣を布いたが、子鵠がすぐさま〔武厲将軍の〕竇熾らに騎兵を与えて突撃させてくると支えきれず、大敗を喫した。樹軍は争って城に逃げ込んだが、狭隘な城門の所でもみくちゃとなり、多くの者が圧死した。子鵠はこの混乱の中で千余級の首を取り、数百頭の軍馬や多くの鎧・武器を手に入れた。
 樹は城を包囲されたのちも出撃して戦ったが、痛撃を受けて失敗に終わると、以降は城に引き籠り、防衛に徹するようになった。子鵠は梁が援軍を派遣してくるのを危惧し、兵を分派して苞州・然州・宕州・大澗・蒙県の五城を攻め陥とし、その援路を遮断した。かくて樹に希望を失わせたのち、金紫光禄大夫の張安期を派して開城するよう説得させると、樹は遂に折れ、こう求めて言った。
「城を明け渡すゆえ、撤退は見逃していただきたい。」
 子鵠らはこれを許し、白馬を殺してその血をすすり、攻撃せぬことを誓った。
 この月、樹が城を明け渡した。樹が軍の半ばほどを城外に出した時、子鵠は約定を破って杜徳にその中央部を突かせ、樹および譙州刺史(梁は譙城を手に入れた際、譙州を設置していた。531年〈4〉参照)の朱文開など、非常に多くの捕虜を得た(梁39元樹伝では、樊子鵠ではなく、独孤如願〈信〉に包囲を受けたとある)。
 この時、梁の大軍司馬〔・都督瑕丘諸軍事・安北将軍・兗州刺史〕の羊侃は樹の救援に向かって官竹にまで到っていたが、その敗北を知ると引き返した。
 樹は洛陽に送られ、景明寺(魏書では『永寧寺』)に拘禁された。

 北魏は元樹討伐に参加していた都督の堯傑を南兗州とした。傑は多くの賄賂を受け取ったが、果断であったため官民から畏服された。間もなく行兗州事を加えられた。 

○魏・北史魏孝武紀
〔是月(七月),東南道大行臺樊子鵠大破蕭衍軍於譙城,擒其鄴王元樹及譙州刺史朱文開。
○魏21・北19元樹伝
 尒朱榮之害百官也,樹〔時為郢州刺史,〕聞之,乃請衍討榮。衍乃資其士馬,侵擾境上。前廢帝時,竊據譙城。出帝初,詔御史中尉樊子鵠為行臺,率徐州刺史、大都督杜德〔、舍人李昭等〕以討之。樹城守不下,子鵠使金紫光祿大夫張安期往說之,樹乃請委城還南,子鵠許之〔,殺白馬為盟〕。〔與杜德別,〕樹恃誓約,不為戰備,杜德襲擊之,擒樹。〔(樹請)還南,德不許,〕送京師,禁於永寧佛寺(景明寺)。
○魏80樊子鵠伝
 時蕭衍遣元樹入寇,陷據譙城。詔子鵠與德討之。樹屯兵梁國,欲來逆戰,見子鵠軍盛,夜退還譙。子鵠引兵追躡,樹又背城為陳。子鵠勒兵直趣城下,縱騎衝突,樹眾大敗,奔入城門,城門隘塞,多自殺害。於是斬千餘級,獲馬數百匹,大收鎧仗,遂圍城。加儀同三司。樹勒兵出戰,輒被摧衄,遂不敢出,自守而已。子鵠恐蕭衍遣救,乃分兵擊衍苞州、然州、宕州、大澗、蒙縣等五城,並望風逃散。樹既無外援,計無所出,子鵠又令人說之,樹遂請率眾歸南,以地還國。子鵠等許之,共結盟約。及樹眾半出,子鵠中擊,破之,擒樹及衍譙州刺史朱文開,俘馘甚多。班師,出帝賚馬匹。
○周30竇熾伝
 尋率兵隨東南道行臺樊子鵠追爾朱仲遠,仲遠奔梁。時梁主又遣元樹入寇,攻陷譙城,遂據之。子鵠令熾率騎兵擊破之,封行唐縣子,邑五百戶。
○北斉20堯傑伝
 後為都督,率眾隨樊子鵠討元樹於譙城,平之。仍除南兗州,多所取受,然性果決,吏民畏之。尋加行兗州事。 
○梁39元樹伝
 發憤卒於魏,時年四十八。
○梁39羊侃伝
 行次官竹,元樹又於譙城喪師。軍罷,入為侍中。

 ⑴竇熾...竇熾...字は光成。生年507、時に26歳。代々高官を務める名家の出。美しい髭を持ち、身長は八尺二寸もあった。公明正大な性格で、智謀に優れ、毛詩・左氏春秋の大義に通じた。また、騎射に巧みで、北魏の孝武帝や柔然の使者の前で鳶を射落とした。葛栄が滅ぶと爾朱栄に仕え、残党の韓楼を自らの手で斬った。
 ⑵蒙県...《読史方輿紀要》曰く、『寿州(寿陽)の北百八十里→蒙城県(もと南兗州。渦陽)の西南七十里にある。』
 ⑶羊侃...字は祖忻。祖父はもと劉宋の臣。七尺八寸の長身で、虎と評されるほどの怪力の持ち主。また、読書家で、特に左氏伝・孫呉兵法を好んだ。莫折念生の乱が起こると、その弟の天生を射殺す大功を立て、領泰山太守とされた。528年に叛乱を起こしたが敗れ、梁に亡命し、徐州刺史や青冀二州刺史を歴任した。532年(1)参照。
 ⑷官竹...《読史方輿紀要》曰く、『官竹園は、亳州府(譙城)の東北にある。』『帰徳府(梁郡)の東南にある。

●金の指輪
 9月、庚子(9日)孝武帝が華林園の都亭に赴き、元樹および文武百官・外国の使者・督将らを引見し、宴射(射を行なってもてなす宴会)を行ない、差をつけて下賜品を分け与えた。

 樹は十五の時に梁に亡命して以来、富貴というものを味わったことが無く、嵩山から現れた雲が南に向かうのを見て、その日が来るのを泣きながら待ち望んでいた。
 譙城に赴く際、樹が愛妾の玉児にしばしの別れを告げると、玉児は金の指輪を樹に贈り、樹はこれを常に身に付けて必ず梁に帰る事を誓った。帝はこれを察すると、間もなく樹に死を賜った(享年48)。
 その後間もなく、杜徳が突如錯乱状態に陥り、恐れ騒ぎながらこううわ言を言った。
元樹がずっと殴ってくる。」
 この状態が暫く続いたのち、遂に命を落とした。
 舍人の李昭も、使者として秦州に赴き、道中の潼関駅に泊まった時、夢の中で樹に会った。樹はこう言った。
「私は既に卿を天帝に訴えた。卿は隴から帰ることができぬだろう。」
 昭は目を覚ますと不吉に思った。隴口に到ると、果たして賀抜岳に殺害された。

 乙巳(14日)、梁の武帝が司空の袁昂を兼尚書令に任じた《梁武帝紀》

○魏孝武紀
 九月癸未,以侍中、驃騎大將軍、左光祿大夫封津為儀同三司。庚子,帝幸華林都亭,引見元樹及公卿百僚蕃使督將等,宴射,班賚各有差。
○魏21・北19元樹伝
樹年十五奔南,未及富貴。每見嵩山雲向南,未嘗不引領歔欷。初發梁,覩其愛姝玉兒,以金指環與別,樹常著之。寄以還梁,表必還之意。朝廷知之,〕未幾賜死。〔未幾,杜德忽得狂病,云:「元樹打我不已。」至死,此驚不絕。舍人李昭尋奉使向秦州,至潼關驛,夜夢樹云:「我已訴天帝,待卿至隴,終不相放。」昭覺,惡之。及至隴口,為賀拔岳所殺。
○梁39元樹伝
 發憤卒於魏,時年四十八。

●帝位を脅かす者
 冬、11月、丁酉(7日)、冬至の日に、北魏の孝武帝が円丘にて天を祀った。
 甲辰(14日)安定王朗もと廃帝、時に20歳)と東海王曄もと建明帝)を殺害した。
 己酉(19日)汝南王悦を侍中・大司馬とした。また、胡太后528年に河陰の変にて爾朱栄に殺害された。528年〈3〉参照)を埋葬した《魏出帝紀》

 12月、庚辰(21日)、梁の武帝は北魏の政局が安定した事を知ると、北伐を諦め、東魏王に封じていた元法僧を改めて郢州刺史とした《梁武帝紀》

 丁亥(28日)孝武帝汝南王悦が宗室に非常に近く、しかも自分より序列が上である事を気にし、遂にこれを殺害した。

 北魏が大赦を行ない、年号を太昌から永興に改めた。しかし間もなく永興の年号が太宗明元帝の時に使われていた事が発覚すると、これを避けて更に永熙と改めた《魏出帝紀》

再建義
 孝武帝が歓の長女を后にすることにし、太常卿の李元忠殷州の大族で歓の建義に大きな貢献をした。531年〈2〉・〈4〉参照)と尚書令の元羅元叉の弟、北斉22李元忠伝)に晋陽まで迎えに行かせた。歓は元忠と宴の席を設ける時、常に昔話に話が至った。その時、元忠がこう言った。
「昔日の建義(歓が爾朱氏に対し挙兵した一件)は、全てが怒涛のごとく刺激的で、非常に愉快でした。しかし最近は実にしんとして寂しいものがあります。ここらでもう一度建義を起こしたいものです。」
 歓は手を打って大笑して言った。
「この御仁は私に兵を挙げようというのか。」
 元忠はふざけてこう言った。
「まず侍中殿(歓の長子の高澄?)に協力を仰ぎますが、断られたら別の者に建義をお願いすることに致します。」
 歓は言った。
「そなたの事だから建義はきっと起こせようが、ただ、わしのような人物にめぐり会うのは難しいぞ。」
 元忠は答えて言った。
「そうです。まさに会い難いからこそ、殿のもとから去れずにいるのです。」
 元忠はそう言うと、歓の髭をしごいて呵々大笑した。歓は元忠の忠義心を知り、これ以後ますますこれを尊重するようになった(この記事の明確な時期は不明《北33李元忠伝》

●爾朱兆討伐
 爾朱兆は秀容に到ると、兵を分けて要害を守らせると共に、何度も歓の領地に侵入して略奪することを繰り返した。そこで歓は兆の討伐を宣言して出撃したが、結局中止すること四・五回に及んだ。兆はここにおいて警戒を緩めるようになった。歓は明年、兆が必ず年始の宴を行なうだろうと予測し、都督の竇泰広阿の戦いの際、歓に反間の計を行なうよう献策した。531年〈4〉参照)に精騎を授けて一昼夜三百里の強行軍を行なわせ、その隙を突かせた。また、自らも大軍を率いてそのあとに続いた《北斉神武紀》

●河右帰伏
 これより前、大行台郎中・諫議大夫・石門県男(邑二百戸)の王士良紇豆陵步蕃と戦って敗れ、捕らえられて河右(黄河西部)に連行されていた。〔步蕃の〕行台の紇豆陵伊利は士良の才能を愛し、行台右丞に抜擢し、孫娘を嫁がせた。士良は姻戚となって信頼を得ると、言葉を尽くして伊利らに朝廷に帰伏するよう勧めた。すると伊利らはみなこれに従った。朝廷はその働きを褒め称えた。
 この年、士良の爵位を進めて晋陽県子(邑四百戸)とした。間もなく、更に爵位を進めて琅邪県侯とし、太中大夫・右将軍とした。のち外勤を命じて殷州車騎府司馬とした。
 士良(生年500、時に65歳)は字を君明といい、先祖は太原郡晋陽県に住んでいたが、西晋の混乱を避けて涼州に移住した。北魏の太武帝が北涼を滅ぼすと(439年)、曽祖父の王景仁は北魏に帰順し、敦煌鎮将とされた。祖父の王公礼は平城鎮司馬とされ、以後代郡に居住するようになった。父の王延は蘭陵郡守とされた。
 士良は若年の頃から真面目で、無闇に人と付き合わなかった。早くに両親を喪うと、継母の梁氏に孝行を尽くした。北魏の建明元年(530。《北史》では『孝荘末(530年)』)に爾朱仲遠の開府参軍事とされ、のち大行台郎中・諫議大夫を歴任した。

○周36王士良伝
 王士良,字君明,其先太原晉陽人也。後因晉亂,避地涼州。魏太武平沮渠氏,曾祖景仁歸魏,為燉煌鎮將。祖公禮,平城鎮司馬,因家於代。父延,蘭陵郡守。士良少修謹,不妄交遊。魏建明初(孝莊末),爾朱仲遠啟為府參軍事。歷大行臺郎中、諫議大夫,封石門縣男,邑二百戶。後與紇豆陵步藩交戰,軍敗,為步藩所擒,遂居河右。偽行臺紇豆陵伊利欽其才,擢授右丞,妻以孫女。士良既為姻好,便得盡言,遂曉以禍福,伊利等竝即歸附。朝廷嘉之。太昌初,進爵晉陽縣子,邑四百戶。尋進爵琅邪縣侯,授太中大夫、右將軍,出為殷州車騎府司馬。...士良少孤,事繼母梁氏以孝聞。

 ⑴紇豆陵步蕃...河西に住む費也頭族の酋長。530年に爾朱兆を攻めて大破したが、兆の助勢にやってきた高歓に敗れて殺害された。530年(5)参照。
 ⑵爾朱仲遠...北魏末の実力者の爾朱栄の従弟。読み書きと計算を大いに得意としたが、性格に難があり、貪暴の限りを尽くした。栄が北魏の実権を握ると三徐州大行台とされ、栄が死ぬと更に二兗も治め、東道大行台とされた。のち、高歓に敗れて梁に亡命した。

●韋放の死
 この年、梁の持節・信武将軍・督北徐州諸軍事・北徐州刺史の韋放字は元直。車騎将軍の韋叡の子。陳慶之と共に北魏の渦陽を陥とした。530年〈5〉参照)が赴任先で亡くなった(享年59)。宜侯と諡された。
 放は温厚篤実な性格で、財貨を軽んじ人に施す事を好んだ。弟たちと非常に仲が良く、遠く離ればなれになる時や帰ってきた時は必ず同じ部屋で生活し、人々から三姜(後漢の姜肱三兄弟の事。仲が良く、同じ部屋で生活した)に比せられた。
 これより前、放と呉郡の張率字は士簡)の側室たちがどちらも懐妊した事があった。そこで二人は産まれてくる子どもたちを結婚させる約束を結んだ。のちに側室たちはそれぞれ男女を産んだが、彼らが成長する前に率は亡くなった(大通元年〈527〉、享年53)。率の遺児たちはみな幼く身寄りが無かったため、放が常にその生活を援助した。放が北徐州刺史となった時(530年)、ある貴族が婚姻を求めてきたが、放はこう答えて断った。
「亡き友との約束は破れぬ。」
 かくて息子の岐に率の娘を娶らせ、娘を率の子に嫁がせた。人々は放の旧友を大切にする心を称賛した《梁28韋放伝》