[北魏:太和十七年 南斉:永明十一年]


┃為仁微小

 壬寅(8月24日)、北魏の孝文帝が肆州(九原)に到った。この時、〔肆州〕民のうち七十歳以上の者の爵位(二十等爵)を一級進めた。また、路上にて目や足が不自由な者を見かけると足を止めて親しく慰問し、死ぬまで衣食を支給することを約束した。

 この頃、大司馬の安定王休が〔人民から?〕物を盗んだ三人の兵士を捕らえ、見せしめにしたのち、軍中でこれを斬ろうとした。帝はこれを見ると赦すよう命じた。すると休は反論して言った。
「陛下は今、遠く衡霍(衡山。五岳の一つ。長沙の南にある)の地まで祓い清めんとして親征をなされたはず。しかし、軍が出発した途端に窃盗事件が起こりました。これを斬らなければ犯罪を抑止することはできません。」
 帝は言った。
「大司馬の法に対する態度は実に正しい。ただ、王者は時に非常の恩恵を施す事があるという。三人の罪は死に値するが、何かの因縁か朕と出会ったからには、軍法に違反したとはいえ、特別に赦すべきである。」
 休は命に従った。帝は司徒の馮誕に言った。
「大司馬の法の執行は非常に厳格である。諸軍は慎まずにはおれぬぞ。」
 ここにおいて六軍の紀律は粛然とした。

 司馬光曰く…人主とは、国家を自分の体のように把握し、遠くを見ること近くを見るが如くし、辺境に在ること朝廷に在るが如くし、賢才を登用して官職に就け、版図の隅々まで政治をより良いものにして人民の生活を向上させる存在である。ここをもって先王はわざと黈纊(黄色の綿玉)を以て耳を塞ぎ、前旒(冠の先に垂らした玉飾り)を以て視界を覆って、耳目を近くの物を見聞きするために用いるのではなく、遠くの物を見聞きするために用いる事を示したのである。かの身体障害者の保護は担当官に命じて国全体で行なっていくべきものであり、今、帝のように路上で会った者にのみ救済を施していくのでは、救済から漏れる者が多くなってしまう。帝の仁の実践はなんと微小なものではないか! まして、法を枉げてまで罪人を赦すというのは、人君のあるべき姿から最もかけ離れた行為である。惜しいかな! 孝文帝は魏の賢君であるのに、なおかような振る舞いをしたのである!

○資治通鑑
 壬寅,魏主至肆州,見道路民有跛眇者,停駕慰勞,給衣食終身【此亦可謂惠而不知為政矣。見者則給衣食,目所不見者,豈能徧給其衣食哉!古之為政者,孤獨廢疾者皆有以養之,豈必待身親見而後養之也!跛者,一足偏短。眇者,一目偏盲】。大司馬安定王休執軍士為盜者三人以徇於軍,將斬之。魏主行軍遇之【行,下孟翻,循行也】,命赦之,休不可,曰:「陛下親御六師,將遠清江江表,今始行至此,而小人已為攘盜,不斬之,何以禁姦!」帝曰:「誠如卿言。然王者之體,時有非常之澤。三人罪雖應死,而因緣遇朕,雖違軍法,可特赦之。」既而謂司徒馮誕曰:「大司馬執法嚴,諸君不可不慎。」〔馮誕后戚,既親且貴,故語之以儆百司。〕於是軍中肅然。
 …臣光曰:人主之於其國,譬猶一身,視遠如視邇,在境如在庭。舉賢才以任百官,修政事以利百姓,則封域之內無不得其所矣。是以先王黈纊塞耳,前旒蔽明,欲其廢耳目之近用,推聰明於四遠也【東方朔曰:冕而前旒,所以蔽明;黈纊充耳,所以塞聰。如淳《注》曰:黈,音主苟翻,謂以玉為瑱,用黈纊懸之也。師古曰:如說非也。黈,黃色也;纊,綿也。以黃綿為丸,用組懸之,垂兩耳邊,示不外聽;非玉填之懸也。】。彼廢疾者宜養,當命有司均之於境內;今獨施於道路之所遇,則所遺者多矣。其為仁也,不亦微乎!況赦罪人以橈有司之法,尤非人君之體也。惜也!孝文,魏之賢君,而猶有是乎!
○魏孝文紀
 壬寅,車駕至肆州,民年七十已上,賜爵一級。路見眇跛者,停駕親問,賜衣食終身。戊申,幸并州。親見高年,問所疾苦。
○魏19安定王休伝
 車駕南伐,領大司馬。高祖親行諸軍,遇休以三盜人徇於六軍,將斬之,有詔赦之。休執曰:「陛下將遠清衡霍,故親御六師,跋涉野次,軍行始爾,已有姦竊,如其不斬,何以息盜,請必行刑,以肅姦慝。」詔曰:「大司馬執憲,誠應如是。但因緣會,朕聞王者之體,亦時有非常之澤,雖違軍法,可特原之。」休乃奉詔。高祖謂司徒馮誕曰:「大司馬嚴而秉法,諸軍不可不慎。」於是六軍肅然。

 ⑴孝文帝…拓跋宏。生年467、時に27歳。北魏の七代皇帝。在位471~。六代献文帝の長子。母は李夫人。490年に馮太后が亡くなると親政を始め、太后の路線を受け継いで数々の改革を行なった。493年⑷参照。
 ⑵安定王休…拓跋休。字は伐伏玄。景穆太子の子。五代文成帝の弟。若い頃から聡明で、判断力があった。庫莫奚が侵攻してくると和龍鎮将とされ、柔然が侵攻してくると撫冥鎮大将とされた。491年に太傅、492年に大司馬とされた。493年、朔望(一日と十五日)の朝見を免除された。493年⑴参照。
 ⑶馮誕…字は思政。生年467、時に27歳。父は太師の馮熙、母は景穆太子の娘の博陵公主。伯母は孝文帝の養母の馮太后。美男だが学問嫌いで、容姿と淳朴・謙虚な性格だけが取り柄だった。孝文帝と同い年で、幼い頃から勉強に付き合った事から、親しみのこもった待遇を受けるに至った。帝の妹の楽安長公主を娶り、侍中・征西大将軍・南平王とされた。庶姓王が廃止されると侍中・都督中外諸軍事・中軍将軍・特進・長楽郡公とされた。帝と同じ輿に乗り、同じ机で食事を摂り、同じ席で座り横になった。492年、司徒とされた。493年⑵参照。

┃虚飾
 戊申(8月30日)孝文帝が并州(晋陽)に到った。この時、年長の者に会い、民間が何で苦しんでいるのか尋ねた。

 この時、帝は并州刺史・中山公の王襲のもとを訪れた。宴会用の用具は粗末なもので、州内は平穏だったので、非常に褒め称えた。この時、州民の多くが大道の傍に襲を賛美する碑文を立てていたが、その内容は虚飾に満ちており、ある者は襲に命じられて書いたと言った。帝はこれを聞くと襲に問いただしたが、本当のことを言おうとしなかったため、怒って面と向かって責めたてた。尚書省は免官にするよう求めたが、帝は聞き入れず、ただ将軍号を二等降格するにとどめた。

○資治通鑑
 戊申,魏主至幷州。幷州刺史王襲,治有聲跡,境內安靜,帝嘉之。襲敎民多立銘置道側,虛稱其美;帝聞而問之,襲對不以實。帝怒,降襲號二等【號者,所領將軍號也】。
○魏93王襲伝
 久之,出為鎮西將軍、秦州刺史,又轉并州刺史。十七年,輿駕詣洛,路幸其治,供帳粗辦,境內清靜,高祖頗嘉之。而民庶多為立銘,置于大路,虛相稱美,或曰襲所教也。高祖聞而問之,對不以實,因是面被責讓。尚書奏免其官,詔唯降號二等。

 ⑴王襲…字は元孫。名門の太原王氏の出?尚書令・中山王の王叡(馮太后の寵臣)の子。481年、父が死ぬと尚書令・中山王とされた。のち公とされた。490年、馮太后が死ぬと次第に冷遇され、政治に関われなくなった。暫くして秦州刺史→并州刺史とされた。

┃使者派遣
 9月壬子(4日)、北魏が中書侍郎・高陽王雍友の高聡を兼員外散騎常侍、中書博士(北魏は国子学を中書学に改め、教授博士を置いた)の賈禎を兼員外散騎侍郎として南斉に派遣した(弔使?)。

 賈禎は字を叔願といい、読書家で、良く喪に服し、孝行者の評判を立てた。太和年間(477~499)に中書博士とされた。

 癸丑(5日)、南斉の前廃帝が詔を下して言った。
『東西二省(中書省・尚書省)と府国(諸王府)には長年に亘って昇進できず、家産も給料も薄弱で〔貧困に苦しんでいる者たちがおり、〕まことに憐憫の情を覚える。選部(人事部。吏部尚書)は彼らの才能と勤務年数を審査し、貧困な者を優先して地方長官や補佐官に任用せよ。』

 丁巳(9日)、北魏の孝文帝が詔を下して言った。
『車駕(孝文帝)が通過した地で作物が傷んでしまった者がいれば、一畝につき五斛の穀物を支給せよ。』

 辛酉(13日)、南斉の前廃帝が〔父の〕文恵皇太子長懋を追尊して世宗文皇帝とした。

○魏孝文紀
 九月壬子,詔兼員外散騎常侍高聰、兼員外散騎侍郎賈禎使於蕭昭業。丁巳,詔以車駕所經,傷民秋稼者,畝給穀五斛。
○南斉鬱林紀
 九月癸丑,詔「東西二省府國,長老所積,財單祿寡,良以矜懷。選部可甄才品能,推校年月,邦守邑丞,隨宜量處,以貧為先」。辛酉,追尊文惠皇太子為世宗文皇帝。
○魏33賈禎伝
 潤曾孫禎,字叔願。學涉經史,居喪以孝聞。太和中,為中書博士,副中書侍郎高聰使於江左。
○魏68高聡伝
 積十年,轉侍郎,以本官為高陽王雍友,稍為高祖知賞。太和十七年,兼員外散騎常侍,使於蕭昭業。

 ⑴高聡…字は僧智。生年452、時に42歳。勃海高氏の出。曾祖父は慕容徳(南燕初代皇帝)に従って北海郡に移住した高軌。父は劉宋の車騎将軍の王玄謨の甥の高法昂。生まれた時に母を亡くすと祖母の王氏の養育を受けた。大の読書家で非常な文才を有した。469年に北魏が東陽(青州)を攻略すると平城に連行され、雲中兵戸に編入されたが、族祖の高允に孫のように遇され、手厚い支援を受けた。また、その推挙を受けて中書博士とされた。十年後、中書侍郎・高陽王雍友とされ、次第に孝文帝に評価されるようになった。
 ⑵前廃帝…蕭昭業。字は元尚。生年473、時に21歳。在位493~。南斉の二代武帝の孫で、太子長懋の長子。南斉の三代皇帝。母は王宝明。幼名は法身。482年、南郡王とされた。484年、何婧英を妃とした。容姿端正・頭脳明晰で、書を得意とし、立ち居振る舞いや話しぶりも立派で、武帝に特に可愛がられた。また、人の筆跡を真似るのを得意とした。叔父の竟陵王子良の家に預けられ、その妻の袁妃の養育を受けた。約二十人の不良少年たちと生活を共にし、密かに金持ちのもとに行っては金品を巻き上げたり、営署(軍の慰安婦がいる施設)に赴いて淫行をしたり酒を飲んだりして楽しんだ。493年、父の太子長懋が亡くなると皇太孫とされた。間もなく武帝が亡くなると皇帝に即位した。493年⑷参照。
 ⑶文恵皇太子…蕭長懋。字は雲喬。幼名は白沢。458~493。南斉の武帝の長子。母は穆皇后。病気がちで、非常に太っていた。482年、父が即位すると皇太子とされた。物腰が柔らかく、仏教を厚く信じ、六疾館を立てて貧しい病人を救済するなどしたが、一方、非常な派手好みで、東宮内の建物や庭園を贅を尽くした物にし、父にばれないように数々の細工を施した。493年⑴参照。

┃不孝
 南斉の前廃帝は狩猟を好み、即位してから十日も経たない内に武帝の建てた招婉殿を取り壊し、その資材を閹人(宦官)の徐龍駒に与え、跡地に騎射の練習場を作らせた。あるとき馬に乗って走行中に落馬し、顔をしたたかに打って怪我をすると、病気と称して〔怪我が治るまで〕数日間人前に出てこなかった。また、多くの名鷹・名犬を集め、上質な米や肉を与えて養った。
 武帝の棺が秦淮河に浮かぶ船に乗せられて〔南蘭陵武進県(南徐州の東南)にある景安陵まで運ばれる際、〕帝は端門(宮城の正南門)内にて告別の礼を執り行なったが、轀輬車(霊柩車)がまだ端門を出ない内に、早くも体調不良を理由に宮殿内に引っ込んだ。宮殿に入るとすぐに胡楽を演奏させ、鼓や鐘の音が宮殿内外に響き渡った。この時、司空の王敬則が新除射声校尉(領軍将軍に属す)の蕭坦之に言った。
「かような事をするのは時期が早すぎるのではないか?」
 坦之は言った。
「この音は宮女たちの泣き声がこだましているだけです。」
 丙寅(9月18日)武帝を景安陵に埋葬し、廟号を世祖とした。

○景安陵石獣

○南斉武帝紀
 九月丙寅,葬景安陵。
○南斉鬱林紀
〔…素好狗馬,即位未逾旬,便毀武帝所起招婉殿,以材賜閹人徐龍駒,於其處為馬埒。馳騎墜馬,面頟並傷,稱疾不出者數日。多聚名鷹快犬,以粱肉奉之。及武帝梓宮下渚,帝於端門內奉辭,轀輬車未出端門,便稱疾還內。裁入閤,即於內奏胡伎,鞞鐸之聲,震響內外。時司空王敬則問新除射聲校尉蕭坦之曰:「便如此,不當怱怱邪?」坦之曰:「此政是內人哭響徹耳。」
○魏98島夷蕭道成伝
 昭業素好狗馬,立未十日,便毀賾所起招婉殿,以殿材乞閹人徐龍駒造宅,於其處為馬埒,馳走墜馬,面額並傷,稱疾不出者數日。多聚名鷹快犬,以粱肉奉之。賾將葬,喪車未出端門,昭業便稱疾還內,裁入閤,便於內奏胡伎,鞞鐸之聲,震響內外。時司空王敬則問射聲校尉蕭坦之曰:「便如此,不當怱怱邪?」坦之曰:「此政當是內人哭聲響徹耳。」

 ⑴王敬則…晋陵南沙の人。母は巫女。両脇の下に長さ数寸の乳があった。学が無かったが地頭が良く、武芸を得意とし、劉宋の前廃帝に護衛役とされた。465年、寿寂之と共に帝を殺害した。474年、蕭道成に従って桂陽王休範の水軍を大破した。のち道成に心を寄せた。477年、沈攸之が荊州にて挙兵した際、宮内を平定した。斉国が建てられると中領軍とされた。479年、南斉が建国されると南兗州刺史とされたが、480年に北魏が侵攻してくると建康に逃げ帰った。のち呉興・会稽太守を歴任し、488年に中軍将軍とされ、489年、豫州刺史とされた。490年、驃騎大将軍とされた。493年、司空とされた。493年⑷参照。
 ⑵蕭坦之…蘭陵の人。蕭道成の族人。初め殿中将軍とされた。のち文帝の中軍板刑獄参軍とされると、同族を以て信任を受け、馬車馬のように働いた。東宮直閤とされると太子長懋に真摯な態度を評価された。のち数々の職を経たのち司徒中兵参軍とされ、帝が崩御すると射声校尉とされた。

┃黍離の詩
 戊辰(9月20日)、北魏の孝文帝が黄河を渡った。
 また、詔を下して言った。
『朕が通過した洛・懐(河内)・并・肆四州の民のうち、百歳以上の者を仮(名誉)県令とし、九十歳以上の者に爵三級を、八十歳以上の者に爵二級を、七十歳以上の者に爵一級を与えよ。また、自活能力の無い、妻を亡くした男・夫を亡くした女・親を亡くした子ども・子の無い老人に粟五斛と絹二疋を与えよ。また、孝悌(両親や兄によく仕える)・廉義(清廉で節操のある)の者や、文・武の才能が朝廷の要求に堪えられる者の名を全て報告せよ。』
 また、詔を下して言った。
『廝養(奴隷)の家(隷戸)の生まれの者は一般人と結婚できない決まりだが、文か武に才能があって多くの功労を立て、昇進に値する者は、一般人と同等の待遇とし、これと結婚する事を許す。』

 庚午(22日)、帝が洛陽に赴き、西晋の宮殿跡を見て回った。帝はこのとき侍臣にこう言った。
「晋は徳を修めていなかったばかりに、早くに国運を傾けた。〔輝かしき都の〕洛陽がこのように荒廃しているのを見ると、朕は悲しみ悼まずにはいられない。」
 かくて《黍離》(《詩経:王風》の詩。西周の都の鎬京が荒れ果てているのを悲しんで作られたもの)の詩を吟じ、涙を流した。

 

 彼(宮殿跡)の黍(きび。もちきび)、離離(生い茂っている)たり

 彼の稷(きび。うるきび)、これに苗(生)ゆ

 行き邁(ゆ)くこと靡靡(遅々)たり

 中心(心の中)揺揺(揺れ動く)たり


 我を知る者は

 我が心憂うと謂(おも)う

 我を知らざる者は

 我何をか求むと謂う(ノロノロと歩いているから)

 悠悠たる蒼天よ

 此れ何人ぞや(都をこんな有様にしてしまったのは誰か)


 彼の黍、離離たり

 彼の稷、これに穗(育)つ

 行き邁くこと靡靡たり

 中心酔うが如し


 我を知る者は

 我が心憂うと謂う

 我を知らざる者は

 我何をか求むと謂う

 悠悠たる蒼天よ

 此れ何人ぞや


 彼の黍、離離たり

 彼の稷、これに実る

 行き邁くこと靡靡たり

 中心噎(むせ)ぶが如し


 我を知る者は

 我が心憂うと謂う

 我を知らざる者は

 我何をか求むと謂う

 悠悠たる蒼天よ

 此れ何人ぞや

 壬申(24日)、洛橋(洛陽の南に流れる洛水に架かる橋)を観覧し、次いで太学跡に赴き、石経を観覧した。

 乙亥(27日)、鄧至(天水の西南にあった羌族の国)王の像舒彭南斉の西涼州刺史・東羌王)が子の旧を朝貢の使者として北魏に派遣し、上表文を奉ると共に、王位を旧に伝える許可を求めた。帝はこれを許した。

○資治通鑑
 乙亥,鄧至王像舒彭遣其子舊朝于魏,且請傳位於舊;魏主許之。
○魏孝文紀
 九月壬子,詔兼員外散騎常侍高聰、兼員外散騎侍郎賈禎使於蕭昭業。丁巳,詔以車駕所經,傷民秋稼者,畝給穀五斛。戊辰,濟河。詔洛、懷、并、肆所過四州之民:百年以上假縣令,九十以上賜爵三級,八十以上賜爵二級,七十以上賜爵一級;鰥寡孤獨不能自存者,粟人五斛,帛二匹;孝悌廉義、文武應求者,皆以名聞。又詔廝養之戶不得與士民婚;有文武之才、積勞應進者同庶族例,聽之。庚午,幸洛陽,周巡故宮基趾。帝顧謂侍臣曰:「晉德不修,早傾宗祀,荒毀至此,用傷朕懷。」遂詠黍離之詩,為之流涕。壬申,觀洛橋,幸太學,觀石經。乙亥,鄧至王像舒彭遣子舊詣闕朝貢,并奉表,求以位授舊,詔許之。

 ⑴石経…曹魏が正始年間に《春秋》《尚書》《左氏》の文章を三種の字体で刻ませたもの。二十五碑あり、北魏の代には十八碑が現存していた。他にも175~183年に後漢が蔡邕の書跡で《周易》《尚書》《公羊》《礼記》の文章を隷書で刻ませたものが四十八、曹魏の明帝が文帝の『典論』六碑を刻ませたものがあった。北魏の代には四碑が現存していた。

┃遷都の議
 孝文帝が平城を発ってから洛陽に到るまで、雨が降り続いていた。
 丙子(9月28日)、全軍に出発を命じた。
 丁丑(29日)、帝が軍服を着て鞭を手に取り、馬に乗って出陣すると、群臣が馬前に進み出てひれふし、頭を地に打ち付けた。帝は言った。
「遠征計画は既に決定したものである。今大軍が進発しようという時に、公らは今更何を言うつもりなのか?」
 すると輔国大将軍(第二品中)の李沖が進み出て言った。
「臣らの知恵が足りないばかりに、天下を平定する事ができず、南方にて帝号を僭称する輩をのさばらせる結果になってしまいました。臣らはこれに深く責任を感じ、陛下がいま親征なされるのを聞くや、死を賭してこれに尽くそうと考えておりました。しかし、都を出発してからというものの、長雨が降り続き、兵馬は疲弊し、目的地はまだ遥か遠くであるというのに行く手には非常に増水した川が待ち構えております。そもそも、伊川・洛水は領土内にある小川でありますのに、なお渡河するのに難渋しております。まして長江は大河であり、しかも遠く賊の領土内にあるのですから、〔その渡河の困難さは推して知るべしでしょう〕。もし船を建造して渡ろうとすれば、必ず完成するまで兵馬に長滞陣を強いる事になります。そうなりますと軍は疲弊し兵糧も欠乏し、進むも退くも困難な状態に置かれる事になるでしょう。ゆえに、ここは蕭賾南斉の武帝)の死を憐れんで(2ヶ月前に亡くなっていた)軍を返すのが良いと存じます。これは道理にもかなう事であります。」
 帝は言った。
「我々の考えは平城を発つ前に良く議論を尽くして南伐の実行で一致したではないか。それに、卿らは長雨を障害としているが、天気というのは非常に予見しやすいものである。即ち、夏に雨が降らない時は秋に雨が多いのが普通なのであって(今夏は南北ともに旱魃に苦しめられていた)、冬の初頭には晴れるに決まっている。ゆえに、ここは来月(十月。太陰暦では十月から冬)の十日まで待つ事にする。もし雨がなお降り止まないのなら、天命だと思って諦める。もし晴れたら、予定どおりそのまま行軍を続ける。それに、いにしえの『不伐喪』(喪中の国は攻撃しない)の論理は諸侯同士の戦いの時に言っているものであって、王者の統一戦の時に言っているものではない。そもそも、既にここまで来たというのに、どうして引き返す事などできようか。」
 沖は再び進み出て言った。
「今回の一挙は天下万民が願わぬものであり、やりたいと思っているのはただ陛下のみであります。漢の文帝は『朕一人千里を駆ける馬に乗っていても、どこに行けようか?』(《漢書賈捐之伝》)と言っております。〔皆が支持しなければどうしようもないのです。〕臣は陛下をお止めしたいのですが、もはやこれ以上言葉が見つかりませぬ。よって、臣の命と引き換えに引き返していただきたく存じます。」
 帝は激怒して言った。
「朕はいま宇宙(天下)を征服し、区域(天下)の統一の大計を成さんとしているのに、〔戦いも知らぬ〕儒生(学者)ふぜいががたがた抜かすな! それに、処刑の条件は法律で規定されているもので、〔そんな事で軽々しく執行できるものではない!〕卿はもう何も言うな!」
 かくて策馬に鞭をくれて出発しようとした。ここに至って大司馬の安定王休・兼左僕射の任城王澄らが泣きながら熱心に諌めた。帝はそこで群臣を諭して言った。
「今回の一挙は小規模な物では無いゆえ、何か成果を残さなければ後世の者に顔向けできないし、歴史に名を残す事もできない。そこで思い起こされるのは、朕の遠い先祖の事である。彼らは代々人里離れた荒漠たる地に住んでいたが、あるとき人々の反対を押し切って南遷した所、これ以上無い繁栄を享受するに至った。彼らがどうして何の考えも無しに軽々しく祖先の墓と先祖伝来の地を捨てたりしようか。〔彼らの事を思うと、〕朕も実行に移さずにいられなくなる。 〔そもそも、〕天の造化(世界の創造)を人が代行したのが、帝王の生まれた所以なのだ。〔ゆえに今、〕もし南伐をしないのなら、この洛陽の地に都を遷し、〔天に代わって造化を推し進めていく〕べきである。中原に都を置くのは今がうってつけでは無いだろうか。王公たちはどう思うか。今回の議決は〔重大であるゆえ、〕どっちつかずでは許されぬ。遷都に賛成する者は左側に、反対する者は右側に立て。」
 すると安定王休らは相次いで右側に立ち、〔反対の意志を示した〕。すると南安王楨が進み出て言った。
「そもそも『愚者は成事に闇(くら)く、智者は未萌を見る』(《史記:趙世家》。愚者は物事が起こったあとでも気づかないが、智者は物事が起こる前に気づいてしまう)、『至徳を行なう者は俗に議らず、大功を成す者は衆に謀らず』(《史記:趙世家》)とか(趙の武霊王が服装を胡服に改める際、大臣の肥義が賛同して言った言葉)と申しますように、『非常の事は非常の人によってしか成し遂げられぬもの』(《史記:司馬相如伝》)であります。神都(首都)を開拓して王業を盛んな物とし、天下の中心を測ってその地に帝京を制定するのは、以前に周公〕(西周の宰相)が行なった事であり(殷の遺民を抑えるために建設した第二の都)、陛下がこれに続くのは妥当な事であります。それに、天下で最も重要な物で皇居以上の物はありません。人々が尊重する所を、どうして古いままにしておけましょうか? どうか上は聖躬(陛下のお体)を安んじ、下は民の望みを叶えるためにも、中原に都を置き、南伐を中止なされますよう。これは臣たちの切実な願いであり、人民の熱望する所であります。」
 群臣はみな唱和して言った。
「〔陛下、〕万歳〔、万歳、万々歳〕!」。
 旧人(北人。鮮卑人など)は内心遷都を願わなかったが、それ以上に南征を嫌がっていたため、敢えて反対しなかったのである。
 ここにおいて北魏は都を洛陽に定めた。

 李沖は帝に言った。
「陛下は今まさに周公の定めた制度に倣って成周城(洛陽)に都を定めようとなされておられますが、宮殿が完成するまで陛下に車駕の中でお待ちいただく事はできませんし、城郭ができるまで馬上にて野営していただく事も困難であります。どうか新都の造営を臣下に任せて暫くのあいだ北都(通鑑では『代都』)にお帰りいただき、新都が完成してから、改めて車服・旌旗・儀仗を整えられ、吉日の日を選んで、車駕の鈴の音を響かせて南徙し、中原の人々に軌範を示されますよう。」
 帝は言った。
「朕は州郡を巡察したのち、鄴に暫く留まり、春の初めに再びここに帰ってくるつもりだ。北に帰るのは宜しくない。」[1]
 かくて〔撫軍大将軍・太子少保・兼尚書左僕射の〕任城王澄に言った。
「遷都は必ず代都の人々に諮るべき事である。そこでいま任城王を代都に急行させ、百官に可否を尋ねさせる事とする。近頃、朕は王に『革』の卦について論じたが(493年〈3〉参照)、今それは真の物となった。王よ、頑張るように!」

 また、帝は鎮南将軍・衛尉卿の万紐于烈にこう言った。
「卿は遷都についてどう思うか?」
 烈は言った。
「陛下のはかりごとは非常に深遠で、愚臣の管見(狭い見識)では計り知れる物ではございません。ただ、人々の心を推測するに、遷都に賛成する者と反対する者は半々では無いかと思うだけであります。」
 帝は言った。
「卿はいま異を唱えなかった。という事は、つまり同意したという事である。これこそ『不言之益』(老子の『不言之教,無為之益』〈言葉に頼らないこと、ありのままでいる事の有益さ〉の事か?)という物かと朕は深く感動している。〔その〕卿〔に任せたい事がある。〕旧都に帰り、代邑(平城)を鎮守せよ。」
 かくて平城の留守政府の政務を一任した。

○資治通鑑
 帝大怒曰:「吾方經營天下,期於混臺,而卿等儒生屢疑大計,斧鉞有常,卿勿復言!」【此亦所以怖群臣而決遷都之計也】…李沖言於上曰:「陛下將定鼎洛邑,宗廟宮室,非可馬上遊行以待之。願陛下暫還代都,俟羣臣營畢功,然後備文物、鳴和鸞而臨之。」帝曰:「朕將巡省州郡,至鄴小停,春卽還,未宜歸北。」【不肯歸北,蓋慮北人歸代復戀土重遷也】乃遣任城王澄還平城,諭留司百官以遷都之事,曰:「今日眞所謂革也。謂前筮之遇《革》,今之遷都眞以革北方之俗。《易·說卦》曰:革,去故也。王其勉之!」
○魏孝文紀
 丙子,詔六軍發軫。丁丑,戎服執鞭,御馬而出,羣臣稽顙於馬前,請停南伐,帝乃止。仍定遷都之計。
○魏19任城王澄伝
 加撫軍大將軍、太子少保,又兼尚書左僕射。及駕幸洛陽,定遷都之策,高祖詔曰:「遷移之旨,必須訪眾。當遣任城馳驛向代,問彼百司,論擇可否。近日論革,今真所謂革也,王其勉之。」
○魏31于烈伝
 尋轉衞尉卿。從駕南征,加鎮南將軍。及遷洛陽,人情戀本,多有異議,高祖問烈曰:「卿意云何?」烈曰:「陛下聖略淵遠,非愚管所測。若隱心而言,樂遷之與戀舊,唯中半耳。」高祖曰:「卿既不唱異,即是同,深感不言之益。宜且還舊都,以鎮代邑。」敕留臺庶政,一相參委。
○魏53李沖伝
 車駕南伐,加沖輔國大將軍,統眾翼從。自發都至於洛陽,霖雨不霽,仍詔六軍發軫。高祖戎服執鞭,御馬而出,羣臣啟顙於馬首之前。高祖曰:「長驅之謀,廟算已定,今大軍將進,公等更欲何云?」沖進曰:「臣等不能折衝帷幄,坐制四海,而令南有竊號之渠,實臣等之咎。陛下以文軌未一,親勞聖駕,臣等誠思亡軀盡命,効死戎行。然自離都淫雨,士馬困弊,前路尚遙,水潦方甚。且伊洛境內,小水猶尚致難,況長江浩汗,越在南境。若營舟檝,必須停滯,師老糧乏,進退為難,矜喪反旆,於義為允。」高祖曰:「一同之意,前已具論。卿等正以水雨為難,然天時頗亦可知。何者?夏既炎旱,秋故雨多,玄冬之初,必當開爽。比後月十間,若雨猶不已,此乃天也,脫於此而晴,行則無害。古不伐喪,謂諸侯同軌之國,非王者統一之文。已至於此,何容停駕。」沖又進曰:「今者之舉,天下所不願,唯陛下欲之。漢文言,吾獨乘千里馬,竟何至也?臣有意而無其辭,敢以死請。」高祖大怒曰:「方欲經營宇宙,一同區域,而卿等儒生,屢疑大計,斧鉞有常,卿勿復言!」策馬將出。於是大司馬、安定王休,兼左僕射、任城王澄等並殷勤泣諫。高祖乃諭羣臣曰:「今者興動不小,動而無成,何以示後?苟欲班師,無以垂之千載。朕仰惟遠祖,世居幽漠,違眾南遷,以享無窮之美,豈其無心,輕遺陵壤。今之君子,寧獨有懷?當由天工人代、王業須成故也。若不南鑾,即當移都於此,光宅土中,機亦時矣,王公等以為何如?議之所決,不得旋踵,欲遷者左,不欲者右。」安定王休等相率如右。前南安王楨進曰:「夫愚者闇於成事,智者見於未萌。行至德者不議於俗,成大功者不謀於眾,非常之人乃能建非常之事。廓神都以延王業,度土中以制帝京,周公啟之於前,陛下行之於後,故其宜也。且天下至重,莫若皇居,人之所貴,寧如遺體?請上安聖躬,下慰民望,光宅中原,輟彼南伐。此臣等願言,蒼生幸甚。」羣臣咸唱「萬歲」。
 高祖初謀南遷,恐眾心戀舊,乃示為大舉,因以脅定羣情,外名南伐,其實遷也。舊人懷土,多所不願,內憚南征,無敢言者,於是定都洛陽。沖言於高祖曰:「陛下方修周公之制,定鼎成周。然營建六寢,不可遊駕待就;興築城郛,難以馬上營訖。願暫還北都,令臣下經造,功成事訖,然後備文物之章,和玉鑾之響,巡時南徙,軌儀土中。」高祖曰:「朕將巡省方岳,至鄴小停,春始便還,未宜遂不歸北。」

 ⑴李沖…字は思順。生年450、時に44歳。隴西李氏の出。早くに父を亡くし、長兄の李承に教育を受けた。落ち着いていて品があり、清廉で度量があった。孝文帝が即位すると秘書中散とされ、よく禁中の文事を取り仕切ったので次第に目をかけられるようになった。のち内秘書令・南部給事中とされた。486年、三長制の施行を進言して聞き入れられた。のち中書令→南部尚書・順陽侯→隴西公とされた。馮太后の信任を受け、多くの賞賜を与えられた事で裕福になったが、驕る事はなく、金品を親戚や故郷の人々に気前よく分け与えた。また、生活に困っている者や不遇の者を多く抜擢した。帝に名前ではなく中書と呼ばれる特別待遇を受けた。馮太后が亡くなった後も帝に身を粉にして仕え、比肩する者が無いほどの深い信頼関係を築いた。のち滎陽郡侯に改められ、廷尉卿→侍中・吏部尚書・咸陽王師とされ、太子が立てられると太子少傅とされた。娘が帝の夫人となった。南伐の際、武官の選任を任された。493年⑷参照。
 ⑵原文『有竊號之渠』。渠は彼の意? 或いは渠帥(悪者の親玉、盗賊の首領)の意?
 ⑶原文『越在南境』。越は遥かの意。
 [1]平城に戻ろうとしなかったのは、恐らくひとたび帰ると北人たちが二度と平城を離れなくなると危惧したからであろう。
 ⑷任城王澄…拓跋澄。字は道鏡。生年467、時に27歳。景穆太子の孫で、任城王雲の子。孝文帝の従兄弟叔父。孝行者で、学問を好んだ。話しぶりや振る舞いが上品だった。馮太后に『宗室の領袖となるべき者』と評された。485年、柔然が侵攻してくると都督北討諸軍事とされて討伐に赴いた。のち梁州刺史とされ、氐羌を良く手懐けた。のち徐州刺史とされると非常な名声と政績を上げた。のち中書令→尚書令とされた。南斉の使者の庾蓽に「昔の魏の任城王(彰)は武を以て聞こえたが、今の魏の任城王は文の方面に秀でている」と評された。493年、孝文帝が南伐を行なおうとすると反対したが、のち帝に南伐は建前で実際は遷都が目的だと打ち明けられると賛成し、「我が子房(張良)」と絶賛され、撫軍大将軍・太子少保・兼尚書左僕射とされた。493年⑶参照。
 ⑸万紐于烈…生年435、時に59歳。尚書令の万紐于洛抜の長子。弓術を得意とし、口数が少なく、威厳があった。北魏に仕えて羽林中郎将とされた。のち行秦雍二州事→司衛監とされ、近衛軍を総督した。のち左衛将軍・昌国子とされた。のち殿中尚書とされた。馮太后に拓跋丕・歩六孤叡・李沖らと共に免死の特権を与えられた。のち前将軍・洛陽侯とされた。間もなく衛尉卿とされ、493年の南征の際、鎮南将軍とされた。
 ⑹原文『隱心而言』。通鑑胡注に『隠は、度(推測する)なり』とある。

┃関西動乱

 これより前、北魏は都督関右諸軍事の河南王幹・西道都将の丘穆陵亮・安南将軍の盧淵・仮平南将軍の薛胤に七万の兵を与えて子午谷より蜀攻略に向かわせていた[→493年⑷参照]。
 北魏軍が裒父(?)に到った時、南斉の武帝が崩御したため、引き返した。
 この時、北魏の北地(長安の東北)民の支酉が数千の人々を集めて長安の北の西山(通鑑では何故か『石山』[1]⑴になっている)にて挙兵しており(盧淵伝では『涇州羌が叛いた』とある、南斉の梁州(漢中)刺史の陰智伯に使者を派遣して援軍を求めた。
 また、秦州(天水)民の王度人も挙兵して酉に呼応し、刺史の劉藻を捕らえた。ここにおいて秦・雍一帯の七州[2]の人々十万が一斉に蜂起し、各自塢壁(土壁をめぐらした集落)に立て籠り、南斉に援軍を求めた。
 北魏の河南王幹と尚書の盧陽烏淵の幼名)がこの討伐に向かった。淵は六千の兵を三万と号し、ゆっくりと進軍した。酉はこれを大破した。酉は次いで咸陽の北の濁谷に進軍し、北魏の司空・長洛王の繆老生丘穆陵亮。繆はボクの読みがある。老生は幼名)と戦ってこれも大破した。老生は長安に逃げ帰った。
 また、南斉の梁州刺史の陰智伯も軍主の席徳仁張弘林らに数千の兵を与えて酉らの援軍に赴かせた。徳仁らが長安に進軍すると、北魏の人々は至る所で降伏した。
 孝文帝は関中の危急を聞くや、武帝の死を理由にして撤退した。
 帝は楊大眼・張聡明らに数万の兵を与えて酉を攻撃させた。盧淵と都将の薛胤らは〔これと協力して〕酉を迎撃すると、一月も経たずに酉軍は総崩れとなり、酉は捕らえられ、数万人が投降した。北魏は酉・王度人ら首謀者のみを斬首し、他はみな不問とした。

○資治通鑑
 先是,北地民支酉聚眾數千,起兵於長安城北山【按水經註,石山當在長安城東北,有敷谷,敷水出焉,北流注于渭】。泰州民王廣亦起兵應之,攻執魏刺史劉藻,秦、雍間七州【七州:雍、岐、秦、南秦、涇、邠、華也】民皆響震,眾至十萬,各守堡壁以待齊救。魏河南王幹引兵擊之,幹兵大敗;支酉進至咸陽北濁谷,穆亮【《考異》曰:《齊書》「穆亮」作「繆老生」,今從《魏書》】與戰,又敗。陰智伯遣軍主席德仁等將兵數千與相應接。酉等進向長安,盧淵、薛胤等拒擊,大破之,降者數萬口。淵唯誅首惡,餘悉不問,獲酉、廣,並斬之。
○魏42薛胤伝
 行達裒父,以蕭賾死,班師。又為都將,共討秦州反,敗支酉,生擒斬之。
○魏47盧淵伝
 及車駕南伐,趙郡王幹督關右諸軍事,詔加淵使持節、安南將軍為副,勒眾七萬將出子午。尋以蕭賾死,停師。是時涇州羌叛,殘破城邑,淵以步騎六千眾號三萬,徐行而進。未經三旬,賊眾逃散,降者數萬口,唯梟首惡,餘悉不問。詔兼侍中。初,淵年十四,嘗詣長安。將還,諸相餞送者五十餘人,別於渭北。有相者扶風人王伯達曰:「諸君皆不如此盧郎,雖位不副實,然德聲甚盛,望踰公輔。後二十餘年,當制命關右。願不相忘。」此行也,相者年過八十,詣軍門請見,言敍平生。
○魏70劉藻伝
 轉秦州刺史。秦人恃嶮,率多粗暴,或拒課輸,或害長吏,自前守宰,率皆依州遙領,不入郡縣。藻開示恩信,誅戮豪橫,羌氐憚之,守宰於是始得居其舊所。遇車駕南伐,以藻為東道都督。秦人紛擾,詔藻還州,人情乃定。
○南斉57魏虜伝
 北地人支酉,聚數千人,於長安城北西山起義。遣使告梁州刺史陰智伯。秦州人王度人起義應酉,攻獲偽刺史劉藻,秦、雍間七州民皆響震,眾至十萬,各自保壁,望朝廷救其兵。宏遣弟偽河南王幹、尚書盧陽烏擊秦、雍義軍,幹大敗。酉迎戰,進至咸陽北濁谷,圍偽司空長洛王繆老生,合戰,又大破之,老生走還長安。梁州刺史陰智伯遣軍主席德仁、張弘林等數千人應接酉等,進向長安,所至皆靡。會世祖崩,宏聞關中危急,乃稱聞喪退師。
 太和十七年八(十?)月,…遣偽大將楊大眼、張聰明等數萬人攻酉,酉、廣等竝見殺【[二八]張森楷校勘記云:「上有秦州人王度人起義應支酉,疑此『廣』係『度』字之譌。」】。

 [1]水経註から考えるに、石山は長安城の東北(南の誤り?)にある。石山には敷谷(華山郡の東)があり、そこから敷水が湧出し、北に流れて渭水に注ぐ。
 ⑴石山…《読史方輿紀要》曰く、『石盤山は耀州(北地)の北七十五里→同官県の北にある。魏書地形志曰く、「銅官県に石盤山がある」。北魏の孝文帝の時、北地民の支酋が人々を集めて挙兵した石山が、石盤山である。』
 ⑵南伐前に盧淵が「『関中の豪族たちが近年競って齋会(僧尼を招いて斎食を施す法会)を催し、高貴な血筋を自称して人々を扇動し、法会の中で公然と朝廷を謗っている』という噂を耳にしております。上を蔑する心がここまで酷かった例は他にございません。愚考いたしますに、〔南伐を行なうよりも、〕速やかにこちらに対処し、懲罰を加えてその悪風を絶やし、主だった者たちに誅戮を加えるべきであります。さもなければ、黄巾(後漢末の大乱)・赤眉(新末の大乱)のような災禍に発展する恐れがあります。災禍を芽のうちに摘み取らないでいると、一旦叛乱が起きた際、その被害は多数の人々に及ぶことになります」と言っていたのが現実の物となったのである。
 [2]七州…雍・岐・秦・南秦(梁?)・涇・邠・華の事である。
 ⑶陰智伯…武威姑臧→南平の人。蕭衍と家が隣同士で非常に仲が良かった。南斉に仕えて中軍将軍とされ、489年、梁・南秦二州刺史とされた。490年、北秦州刺史・武都王の楊集始が叛いて漢中に侵攻してくるとこれを撃退した。
 ⑷劉藻…字は彦先。生年434、時に60歳。南朝の人で、太安年間(455~459)に北魏に帰順した。読書家で立ち居振る舞いが美しく、うわばみで酒をいくら飲んでも乱れなかった。北地太守とされると良く諸羌を手懐けた。のち雍城鎮将とされると氐人の豪族の徐成らの乱を平定した。のち秦州刺史とされると良く羌氐を制し、秦州を完全な北魏領とした。
 ⑸劉藻伝には南伐のさい東道都督とされて秦州を離れており、秦人が叛乱を起こすと州に帰るよう命じられ、人心を静めたとある。捕らえた刺史は別人では無いか。
 ⑹濁谷…《読史方輿紀要》曰く、『西安府(長安)の西北五十里→咸陽県の北にある。』
 ⑺楊大眼…南秦王の楊徳の子。度胸と勇気があり、その敏捷なこと飛ぶが如くだった。ただ、妾の子だったため冷遇を受け、極貧の生活を余儀なくされた。太和年間(477~499)に出仕して奉朝請とされた。493年の南伐のとき参加を志願し、李沖に拒否されると馬よりも速い足を披露して軍主とされた。493年⑶参照。

┃洛都造営
 冬、10月、戊寅朔(1日)、北魏の孝文帝が金墉城(洛陽城内西北にある小城。洛陽防衛の要)に赴いた。帝は司空の丘穆陵亮[1]・〔吏部〕尚書の李沖・将作大匠の董爵通鑑では『菫爾』)に洛京の造営を命じた。
 己卯(2日)、〔西方の〕河南城に赴いた。
 乙酉(8日)、〔東方の北〕豫州(虎牢)に赴いた。
 癸巳(16日)、〔東北方の〕石済津に到った。
 乙未(18日)、戒厳令を解除した(7月10日に発していた)。
 また、〔東北方の〕滑台城(東郡白馬津)の東に赴いて祭壇を築き、行廟(出征中も先祖を祭れるよう臨時に設けた廟)に遷都の意を告げ、天下に大赦を行なった。
 また、滑台宮を築いた。
 また、京師(ここでは平城)および諸州の従軍者に二十等爵を一級、募兵に応じた者に二級、将軍に三級を加えた。

○資治通鑑
 冬,十月,戊寅朔,魏主如金墉城,徵穆亮【徵穆亮於關右】,使與尚書李沖、將作匠董爾經營洛都【「董爾」,北史作「董爵」】。己卯,如河南城;乙酉,如豫州;〔自金墉西如河南,又自河南東如豫州。此豫州謂虎牢城也。魏明元帝取虎牢置豫州;獻文帝取懸瓠又置豫州,以虎牢為北豫州;今主太和十九年罷北豫州,置東中府。〕癸巳,舍于右濟。乙未,魏解嚴,設壇于滑臺城東,告行廟以遷都之意【遷都之議既定。停南伐之師,故解嚴。奉神主而行,故有行廟】。大赦。
○魏孝文紀
 冬十月戊寅朔,幸金墉城。詔徵司空穆亮與尚書李沖、將作大匠董爵經始洛京。己卯,幸河南城。乙酉,幸豫州。癸巳,次於石濟。乙未,解嚴,設壇於滑臺城東,告行廟以遷都之意。大赦天下。起滑臺宮。又詔京師及諸州從戎者賜爵一級,應募者加二級,主將加三級。
○魏53李沖伝
 尋以沖為鎮南將軍,侍中、少傅如故,委以營構之任。改封陽平郡開國侯,邑戶如先。

 [1]関中から呼び戻したのである。
 ⑴河南城…《読史方輿紀要》曰く、『洛陽故城の西南二十里にある。周の洛邑があった場所。周は洛陽故城に成周を築き、後漢〜西晋は都を置いた)』
 ⑵石済津…《読史方輿紀要》曰く、『河南府(洛陽)の東北二百六十里→衛輝府(汲郡)の東三十五里→胙城県の東北にある。』

┃停戦
 この月(10月)、北魏の使持節・安南大将軍・都督徐青斉三州諸軍事・南中郎将・徐州刺史・広陵侯府長史・帯淮陽太守の鹿樹生が南斉の兗州府長史府に書簡を送って言った。
「陛下の詔書を伝える。『皇軍は南進して長江に救う妖賊を一掃せんとし、先月の下旬に黄河を渡って洛陽に到ったが、そこで前に使者として派遣していた邢巒ら(正月参照)がやってきて蕭賾武帝)が亡くなった事を知った。春秋の義では喪中の国は伐たない事になっている。そこで今南伐をやめ、〔代わりに〕中原の地に都を置くこととした。』」
 これと同時に弔使を南斉に派遣した。

○南斉57魏虜伝
 太和十七年八(十?)月,使持節、安南大將軍、都督徐青齊三州諸軍事、南中郎將、徐州刺史、廣陵侯府長史、帶淮陽太守鹿樹生移齊兖州府長史府:「奉被行所尚書符騰詔:『皇師雷舉,搖旆南指,誓清江祲,志廓衡靄。以去月下旬,濟次河洛。會前使人邢巒等至,審知彼有大艾。以春秋之義,聞喪寢伐。爰勑有司,輟鑾止軔,休馬華陽,戢戈嵩北。便肇經周制,光宅中區,永皇基于無窮,恢盛業乎萬祀。宸居重正,鴻化增新,四海承休,莫不銘慶。』故以往示如律令。」并遣使弔國諱。

┃代都開伏
 これより前(9月29日)、孝文帝任城王澄を代都に急行させ、百官に遷都の可否を尋ねさせていた。
 澄が代都に到って遷都を知らせると、都の人々はみな非常に驚いた。しかし、澄が遷都の故事を引いてゆっくり教え諭すと蒙を啓かれ、納得して受け入れた。
 澄はそこで復命しに急いで南に引き返し、滑台にて帝と再会した。帝は報告を受けると大いに喜び、こう言った。
「任城でなくば、朕の事業は成し得なかったであろう。」
 
 壬寅(10月25日)、南斉が皇太孫太妃〔の王宝明〕を皇太后とし、〔皇太孫妃の〕何婧英を皇后とした。

○資治通鑑
 起滑臺宮。任城王澄至平城,衆始聞遷都,莫不驚駭。澄援引古今,徐以曉之,衆乃開伏【開,發也。伏,厭伏也。言北人安土重遷,蔽於此說,不肯降心以相從。澄援引曉喻以發其蒙,莫不厭伏也】。澄還報於滑臺。魏主喜曰:「非任城,朕事不。」
○南斉鬱林紀
 冬十月壬寅,尊皇太孫太妃為皇太后,立皇后何氏。
○魏19任城王澄伝
 既至代都,眾聞遷詔,莫不驚駭。澄援引今古,徐以曉之,眾乃開伏。澄遂南馳還報,會車駕於滑臺。高祖大悅曰:「若非任城,朕事業不得就也。」

 ⑴洛陽から平城まで直線距離でも600kmある。これは東京から岡山までの距離に相当する。早馬は1日で約120~140kmほど走れるらしいので、地形無視で考えると最短往復で10日ほどで走破できる事になる。もし滑台経由だと約800kmほどになり、約13日で走破できる。
 ⑵王宝明…超名門の琅邪王氏の出。宋代に蕭賾(のちの南斉の武帝)の子の長懋に嫁いだ。473年、蕭昭業(のちの前廃帝)を産んだ。474年、桂陽王休範が建康に攻めてくると兄の王昺の家に避難した。479年、南斉が建国されると南郡王妃とされ、482年に武帝が即位し長懋が皇太子とされると皇太子妃とされた。長懋に愛されず、冷遇を受けた。493年、長懋が死に子の昭業が皇太孫に立てられると皇太孫太妃とされた。493年⑵参照。
 ⑷何婧英…名門の廬江灊県何氏の出で、撫軍将軍の何戢の娘。485年、太孫昭業(のちの前廃帝)の妃とされた。淫乱で、昭業の悪友たちのうち顔が整っている者全員と関係を持ったが、昭業ともきちんと愛し合い続けたため、不問とされた。493年⑷参照。

┃王粛重用
 癸卯(10月26日)、〔北方の〕鄴城に赴いた。

〔これより前(3月)、南斉の秘書丞の王肅は父で雍州刺史の王奐が叛乱を起こして殺されると建康を脱出して北魏に亡命していた〕。
 この時、帝は粛がやって来たのを知ると、胸襟を開いて礼を以て接し、引見して亡命してきたわけを尋ねた。すると粛は話し始めたが、その内容は流暢かつ切実で、〔しかし感情に流されることなく〕その話しぶりは礼節をわきまえていたので、帝は非常に憐憫の情を覚えた。話が国家統治の方法に及ぶと、粛は品良く流暢にこれを述べたが、そのどれもが深く帝の考えにかなうものだった。帝は感嘆してこれを聞き入れた。帝は席を近づけて時が経つのも忘れて話し込み、長時間座った事による疲れにも気づかないほどだった。粛がそこで南斉に滅亡の予兆と付け入る隙がある事を説き、討伐を勧めると、帝は大いに乗り気になり、以後南斉侵攻に力を入れるようになった。
 粛への礼遇は日に日に手厚いものとなり、帝と粛の仲は近親者や側近・旧臣たちですら間を引き裂けないほどのものとなった。ある時などは人払いをして二人きりで話をし、真夜中になってもやめなかった事があった。粛は身を粉にして帝に仕え、一切隠しだてする事がなかった。粛(帝?)は帝(粛?)との出会いについてこう評した。
「玄徳(劉備)が孔明(諸葛亮)に会った時のようだ。」
 粛は間もなく輔国将軍・大将軍長史・開陽伯とされたが、伯爵は固辞し、聞き入れられた。
 この時、帝はちょうど礼儀と音楽を盛んにし、習俗を華風に変えようとしていた所だった。ここにおいて粛は礼儀作法や車服・旌旗・儀仗などの多くを制定した。

 乙巳(28日)安定王休に、随行していた文武官を引き連れて代京(平城)にいる家族を迎えに行くよう命じた。帝は漳水(鄴の近西北・近北を流れる)の北まで出向いてこれを見送った。

 11月、庚戌(3日)、北魏の使者が南斉に到着した(9月4日に派遣していた高聡たち?)。
 辛亥(4日)、南斉が〔皇弟の〕臨汝公昭文を中軍将軍・新安王(邑二千戸)とし、兵を率いる事と幕僚を置く事を許した。
 また、曲江公昭秀を臨海王(邑二千戸)とし、蕭昭粲を永嘉王とした。

 昭秀(生年483、時に11歳)は字を懐尚といい、故・太子長懋の第三子である。母は陳氏。永明年間(483~493)に曲江公(邑千五百戸)とされた。十年(492)、寧朔将軍・済陽(南徐州にある)太守とされた。
 昭粲(生年491、時に3歳)は太子長懋の第四子である。母は褚氏
 
 これより前、孝文帝は南伐に赴く際、鄴城の西部に宮殿を築かせていた。
 癸亥(16日)、宮殿が完成した。帝はここに移り住んだ。
 12月、戊寅(2日)、六軍を巡視した。
 庚寅(14日)、陰平国が朝貢の使者を派遣してきた。
 乙未(19日)、軍士を救済し、死亡者〔を手厚く埋葬し、〕戦傷病者に手厚い支援を行なった。

○資治通鑑
 魏主如鄴城。王肅見魏主於鄴【是年三月王肅奔魏,今方得見魏主】。陳伐齊之策。魏主與之言,不覺促席移【降人初至,君臣情分甚為闊疏。言有當心,故促席近前以聽之,不覺其分之疏也;與之言而弗厭倦,日為之移晷,不覺其久也】。自是器遇日隆,親舊貴臣莫能間也。魏主或屛左右與肅語,至夜分不罷,自謂君臣相得之晚。尋除輔國將軍、大將軍長史。時魏主方議興禮樂,變華風,凡威儀文物,多肅所定。乙巳,魏主遣安定王休帥從官迎家於平城。
○魏孝文紀
 癸卯,幸鄴城。乙巳,詔安定王休率從官迎家〔口〕於代京,車駕送於漳水上。初,帝之南伐也,起宮殿於鄴西;十有一月癸亥,宮成,徙御焉。十有二月戊寅,巡省六軍。庚寅,陰平國遣使朝貢。乙未,詔隱恤軍士,死亡疾病務令優給。
○南斉鬱林紀
 十一月〔庚戌,魏人來聘。〕辛亥,立臨汝公昭文為新安王,曲江公昭秀為臨海王,皇弟昭粲為永嘉王。
○南斉海陵紀
 海陵恭王昭文字季尚,文惠太子第二子也。永明四年,封臨汝公,邑千五百戶。初為輔國將軍、濟陽太守。十年,轉持節、督南豫州諸軍事、南豫州刺史,將軍如故。十一年,進號冠軍將軍。文惠太子薨,還都。鬱林王即位,為中軍將軍,領兵置佐。封新安王,邑二千戶。
○魏19任城王澄伝
 從幸鄴宮,除吏部尚書。
○魏19安定王休伝
 定都洛邑,休從駕幸鄴。命休率從駕文武,迎家于平城。高祖親餞休於漳水之北。
○魏63王粛伝
 高祖幸鄴,聞肅至,虛襟待之,引見問故。肅辭義敏切,辯而有禮,高祖甚哀惻之。遂語及為國之道,肅陳說治亂,音韻雅暢,深會帝旨。高祖嗟納之,促席移景,不覺坐之疲淹也。因言蕭氏危滅之兆,可乘之機,勸高祖大舉。於是圖南之規轉銳,器重禮遇日有加焉,親貴舊臣莫能間也。或屏左右相對談說,至夜分不罷。肅亦盡忠輸誠,無所隱避,自謂君臣之際猶玄德之遇孔明也。尋除輔國將軍、大將軍長史,賜爵開陽伯,肅固辭伯爵,許之。
○南斉50文二王伝
 陳氏生巴陵王昭秀;褚氏生桂陽王昭粲。…巴陵王昭秀字懷尚,太子第三子也。永明中,封曲江公,千五百戶。十年,為寧朔將軍、濟陽太守。鬱林即位,封臨海郡王,二千戶。…桂陽王昭粲,太子第四子也。鬱林立,以皇弟封永嘉郡王。

 ⑴王粛…字は恭懿。生年464、時に30歳。超名門の琅邪王氏の出で、南斉の雍州刺史の王奐の子。読書家。礼経・易経に通じていると称したが、実際はまだその大義に達していなかった。南斉に仕えて秘書丞とされた。493年、父が叛乱を起こして殺されると建康を脱出して北魏に亡命した。493年⑴参照。
 ⑵原文『辭義敏切』。敏の意味がよく分からない。いま敏=素早い=流暢と解したが、敏=賢い=論理だっている、かもしれない。また、敏には荘の漢字と同じ意味があるというので、敏=厳かという意味なのかもしれない。
 ⑶通鑑では主語が孝文帝になっていて、発言の内容も『自謂君臣相得之晚』と、出会いが遅かった事を恨むものとなっている。
 ⑷臨汝公昭文…字は季尚。生年480、時に14歳。太子長懋の第二子。母は宮女の許氏。前廃帝の弟。486年に臨汝公とされた。492年に南豫州刺史とされ、493年、冠軍将軍とされた。父が死ぬと建康に呼び戻された。493年⑴参照。


 494年⑴に続く