[北魏︰永安三年・建明元年 梁︰中大通二年]



┃爾朱兆・世隆、長広王を皇帝とす

 爾朱栄の死後、山西方面では并州東面大都督として楽平を鎮守していた元禹親爾朱派)が土民の王悪氈の挙兵に遭って殺害された。
 驃騎大将軍・汾州刺史・潁川公の爾朱兆は、爾朱栄の死を聞くと汾州より騎兵を率いて晋陽を占拠した。
 次いで南下し、爾朱世隆と栄の従父弟の爾朱度律が長子までやってくるとこれと合流した[1]
 壬申(10月30日)、三人は共に太原太守・行并州事の長広王曄を推戴して皇帝の位に即け、大赦を行なって年号を永安から建明に改めた以降、曄を便宜的に建明帝とする

 曄は、中山王英の弟で、元怡の子である(元怡郷郡長公主の兄である)。幼名は盆子といい、その名を聞いた者はみな赤眉の乱にて皇帝に推戴された劉盆子建世帝)を連想した。曄は軽はずみで落ち着きが無く、腕力に優れていた。


 建明帝爾朱兆を大将軍とし、更に爵位を王に進めた。
 また爾朱世隆を開府儀同三司・尚書令とし、爵位を王に進め(楽平公だった)、太傅・行司州牧を加官し、五千戸を加増した。
 また、衛将軍・左光禄大夫・兼京畿大都督の爾朱度律を太尉・四面大都督・常山王とした。
 また、世隆の兄で天柱府長史の爾朱彦伯を侍中とした。
 また、〔もと大行台吏部郎の〕王綽を驃騎大将軍・并州刺史とした。

○魏孝荘紀
 壬申,尒朱世隆停建興之高都,尒朱兆自晉陽來會之,共推太原太守、行并州刺史長廣王曄為主,大赦所部,號年建明,普汎四級。
○魏16元禹伝
 為并州東面大都督,鎮樂平。榮死之後,為土民王惡氈起義殺之。
○魏19魯郡王粛伝
 後除衞將軍、肆州刺史。其弟曄僭立,拜肅侍中、太師、錄尚書事。
○魏19元曄伝
 曄字華興,小字盆子。性輕躁,有膂力。起家祕書郎,稍遷通直散騎常侍。莊帝初,封長廣王,邑一千戶。出為太原太守,行并州事。尒朱榮之死也,世隆等奔還并州,與尒朱兆會於建興,乃推曄為主,大赦所部,號年建明。
○魏75爾朱兆伝
 及尒朱榮死也,兆自汾州率騎據晉陽。元曄立,授兆大將軍,爵為王。
○魏75爾朱彦伯伝
 尒朱彥伯,榮從弟也。…彥伯性和厚,釋褐奉朝請,累遷奉車都尉,為榮府長史。元曄立,以為侍中。
○魏75爾朱世隆伝
 及至長子,與度律等共推長廣王曄為主,〔曄小名盆子,聞者皆以為事類赤眉。〕曄以世隆為開府儀同三司、尚書令、樂平郡王,加太傅,行司州牧,增邑五千戶。
○魏75爾朱度律伝
 元曄之立,以度律為太尉公、四面大都督,封常山王。
○魏93王綽伝
 元曄立,轉除驃騎大將軍、并州刺史。

 ⑴楽平…《読史方輿紀要》曰く、『太原府の東二百八十里→平定州の東南六十里にある。
 ⑵爾朱兆…字は万仁。爾朱栄の甥。若くして勇猛で馬と弓の扱いに長け、素手で猛獸と渡り合うことができ、健脚で敏捷なことは人並み以上だった。栄に勇敢さを愛され、護衛の任に充てられた。栄が入洛する際に兼前鋒都督とされた。孝荘帝が即位すると車騎将軍・武衛将軍・都督・潁川郡公とされた。529年、上党王天穆の部将として邢杲討伐に赴いた。その隙に元顥が梁の支援を受けて洛陽に迫ると、胡騎五千を率いて引き返し、陳慶之と戦ったが敗れた。天穆が河北に逃れる際後軍を率いた。栄が洛陽を攻めた時、賀抜勝と共に敵前渡河を行なって顥の子の元冠受を捕らえた。この功により驃騎大将軍・汾州刺史とされた。529年⑶参照。
 [1]考異曰く、魏孝荘紀には「世隆は建興郡の高都県に留まった」とある。伽藍記も同様で、魏19元曄伝にもそう伺わせる記述がある。今は世隆伝の記述に従う。

┃樊子鵠、帝に付く
 これより前、爾朱栄が死んだ時、殷州(鄴の北)刺史の樊子鵠530年〈1〉参照)は世隆らから書を送られ、洛陽攻めに協力するよう求められたが、子鵠はこれに応ぜず孝荘帝側に付いた。子鵠は母が爾朱兆の本拠の晋陽に在ることから、鎮所を河南に遷してくれるよう求めた(晋陽と直接戦うのを避けるため? 或いは信じてもらうため?)。帝はこの寝返りを喜び、〔その願いを許して〕子鵠を車騎大将軍・豫州刺史・仮驃騎大将軍・都督二豫郢三州諸軍事・兼尚書右僕射・二豫郢潁四州行台とした。子鵠はこれを受けて南下を始め、相州に到った所で絹五百疋を賜った。

○魏80樊子鵠伝
 及尒朱榮之死,世隆等遣書招子鵠,欲與同趣京師,子鵠不從。以母在晉陽,啟求移鎮河南。莊帝嘉之,除車騎大將軍、豫州刺史、假驃騎大將軍、都督二豫郢三州諸軍事、兼尚書右僕射、二豫郢潁四州行臺。子鵠到相州,又敕賚絹五百匹。

┃爾朱仲遠の動向
 車騎将軍・徐州刺史・兼尚書左僕射・三徐州大行台・督三徐州諸軍事・清河公の爾朱仲遠が兵を挙げて洛陽に向かった[1]
 この時、散騎常侍の賈顕智が部下を引き連れて彭城より清水(泗水。彭城の東を流れる)の東に出、州民を糾合して仲遠に抵抗した。孝荘帝はこれを聞くと褒め称え、顕智を右光禄大夫・武衛将軍・侯とし、二百戸を加増して合計千戸とし、徐州を鎮守させた。

 11月、癸酉朔(1日)孝荘帝は車騎将軍〔・左衛将軍〕の鄭先護を使持節・大将軍(仮驃騎将軍?)・大都督とし、都督の李侃希や行台の楊昱と共にこれを討伐するように命じた。

 乙亥(3日)、使持節・西道大行台尚書令・司徒の長孫稚を太尉、侍中・尚書令・驃騎大将軍・開府儀同三司の臨淮王彧を司徒とした。

○魏孝荘紀
 徐州刺史尒朱仲遠反,率眾向京師。十有一月癸酉朔,詔車騎將軍、左衞將軍鄭先護為使持節、大將軍、大都督,與都督李侃希赴行臺楊昱以討之。乙亥,以使持節、兼尚書令、西道大行臺、司徒公長孫稚為太尉公,侍中、尚書令、驃騎大將軍、開府儀同三司、臨淮王彧為司徒公。
○魏18臨淮王彧伝
 尒朱榮死,除彧司徒公。尒朱世隆率部北叛,詔彧防河陰。
○魏56鄭先護伝
 尋除車騎將軍、左衞將軍。及尒朱榮死,徐州刺史尒朱仲遠擁兵向洛,前至東郡。諸軍出討,不能制之。乃詔先護以本官假驃騎將軍、大都督,領所部與行臺楊昱同討之。
○魏58楊昱伝
 尒朱榮之死也,昱為東道行臺,率眾拒尒朱仲遠。
○魏75爾朱仲遠伝
 轉使持節、本將軍、徐州刺史、兼尚書左僕射、三徐州大行臺。尋進督三徐州諸軍事,餘如故。仲遠上言曰:「將統參佐,人數不足,事須在道更僕以充其員。竊見比來行臺採募者皆得權立中正,在軍定第,斟酌授官。今求兼置,權濟軍要。」詔從之。於是隨情補授,肆意聚斂。尒朱榮死,仲遠勒眾來向京師。
○魏80賈智伝
 及尒朱仲遠為徐州刺史,智隸仲遠,赴彭城。尒朱榮之死也,仲遠舉兵向洛,智不從之,遂擁部下出清水東,招勒州民,與相拒擊。莊帝聞而善之,除右光祿大夫、武衞將軍,進爵為侯,增邑二百戶,通前一千,因鎮徐州。

 [1]三徐州…徐州、治所は彭城。北徐州、治所は琅邪で永安二年に置かれ、東泰山・琅邪の二郡を領した。東徐州、治所は下邳。

┃爾朱天光の動向
 これより前、驃騎大将軍・儀同三司・雍州刺史・広宗公の爾朱天光が平涼にて万俟醜奴を捕らえた時、夏州の人の宿勤明達もこれに降伏していたが、間もなく再び叛乱を起こして北方に逃走し、北魏に降っていた𠮟干麒麟を攻めてその部衆を併呑しようとした。麒麟がそこで天光に救援要請を送ると、天光はこれに応えて〔都督涇北豳二夏四州諸軍事・涇州刺史の〕賀抜岳を派遣した。しかし明達はその到来の前に東夏州に逃亡してしまった。岳はこれを追おうとしたが、そこに爾朱栄の訃報が届いたため、やむなく涇州に引き返し、天光の到着を待った。
 天光は鄯州刺史の侯莫陳悦と共に隴山を下り、岳と合流して相談した結果、洛陽に出兵することを決め、雍州の北にまで到った。
 帝は侍中の朱瑞を派遣して説得を試みたが、天光は帝を〔亡命させて〕新たに皇族から皇帝を立てようと目論んでいたため、度々こう上奏して言った。
「臣に異心など全くございません。ただ陛下のご聖顔の前で、一族を代表して申し開きしたいだけなのであります。」
 一方で、天光は配下の者にこう上奏させて言った。
「天光は密かに異心を抱いております。どうか万全の備えをなさっておかれますよう。」[1]
 丙子(11月4日)、帝は天光の爵位を王に進めた。一方、建明帝を擁する爾朱兆らも天光を隴西王に封じた。
 天光は入洛に当たり、岳を行雍州事とし、悦を行華州事とした。

○魏孝荘紀
 丙子,以驃騎大將軍、儀同三司、雍州刺史、廣宗郡開國公尒朱天光開府,進爵為王。
○魏75爾朱天光伝
 初,賊帥夏州人宿勤明達降天光於平涼,後復北走,收聚部類謀為逆,攻降人叱干麒麟,欲并其眾。麒麟請救於天光,天光遣岳討之,未至,明達走於東夏。岳聞榮死,故不追之,仍還涇州以待天光。天光亦下隴,與岳圖入洛之策。進至雍州北,破叛已。詔遣侍中朱瑞詣天光慰喻。天光與岳謀,欲令帝外奔,別更推立。乃頻啟云:「臣實無異心,惟仰奉天顏,以申宗門之罪。」又其下僚屬啟云:「天光密有異圖,願思勝算以防微意。」既而莊帝進天光爵為廣宗王,元曄又以為隴西王。
○魏80・周14賀抜岳伝
 天光入洛,使岳行雍州事(刺史)。元曄立(建明中),除驃騎大將軍,增邑五百戶,餘如故。
○魏80侯莫陳悦伝
 以本將軍除鄯州刺史,餘如故。尒朱榮死後,亦隨天光下隴。元曄立,除車騎大將軍、渭州刺史,進爵為公,改封白水郡,增邑五百戶。及天光向洛,使悅行華州事。

 [1]天光はどっちつかずの態度を取って帝らを惑わせようとしたのである。

┃西兗州陥落
 爾朱仲遠が西兗州[1]を攻めた。
 丁丑(11月5日)、これを陥とし、征東将軍・西兗州刺史の王衍を捕らえた。仲遠は更に東郡に迫った。
 衍(生年485、時に46歳)は、王肅501年7月参照)の兄の子である。仲遠はその名声に免じて衍を害さず、牛に乗せて従軍させた。
 癸未(11日)、帝は右衛将軍の賀抜勝を東征都督とし、千騎の指揮をさせた。
 壬辰(20日)、更に左衛将軍の鄭先護を〔東南道?〕行台尚書左僕射に任じて勝・〔東南道三徐行台尚書左僕射の〕鹿悆呂文欣の乱を平定した。530年〈1〉参照。先護とこの時行台を交代した?)と共に仲遠を討伐させた。

○魏孝荘紀
 丁丑,尒朱仲遠陷西兗州,執刺史王衍。癸未,以右衞將軍賀拔勝為東征都督。壬辰,又以左衞將軍、大都督鄭先護兼尚書左僕射,為行臺,與勝並討仲遠。
○魏56鄭先護伝
 莊帝又遣都督賀拔勝討仲遠。
○魏63王衍伝
 誦弟衍,字文舒。名行器藝亞於誦。自著作佐郎,稍遷尚書郎、員外常侍、司空諮議、光祿大夫、廷尉、揚州大中正、度支尚書,仍轉七兵,徙太常卿。出為散騎常侍、征東將軍、西兗州刺史。衍屆治未幾,屬尒朱仲遠稱兵內向,州既路衝,為其攻逼。衍不能守,為仲遠所擒,以其名望不害也,令其騎牛從軍,久乃見釋。
○魏79鹿悆伝
 詔為使持節、兼尚書左僕射、東南道三徐行臺。至東郡,值尒朱仲遠陷西兗,向滑臺,詔與都督賀拔勝等拒仲遠。
○魏80・周14賀抜勝伝
 仲遠逼東郡,詔勝以本官假驃騎大將軍為東征都督,〔率騎一千,〕率眾會鄭先護以討之。

 [1]北魏の太和年間(477~499)に滑台に西兗州が設置され、孝昌年間(525~528)に定陶に治所が遷された。

┃侯淵南下
 これより前、范陽太守の盧文偉は栄の死を知ると、范陽に駐屯する〔幽州大都督・〕平州刺史の侯淵が帝に叛するだろうと考え、猟に出かけてはと城外に誘い出した所でこれを締め出してしまった。
 淵はそこで私兵を率いて郡南に赴くと、栄のために挙哀の礼を行なってその魂を弔ったのち、洛陽を目指して南下を始め、定州の東北にまで到った。そこで淵は朝廷が派した行台・僕射の魏蘭根と河北・山東慰労大使の東萊王貴平の迎撃に遭ったが、逆に返り討ちにした。一敗地に塗れた蘭根は高乾のもとに身を寄せた。貴平は捕らえられて晋陽に送られた。
 のち淵は建明帝が即位したのを聞くと、そのもとに赴いた。途中常山太守の甄楷鮮于修礼の乱のさい定州を守り、三州の難民を虐殺した。526年〈1〉参照)が井陘に陣を布いているのを見るや、これも擊破した。帝は淵を驃騎大将軍・儀同三司・定州刺史・左軍大都督・漁陽郡公とした。
 戊戌(11月26日)、帝は蘭根を行台から罷免すると、後将軍・定州刺史の薛曇尚525年〈1〉参照)を代わりに北道行台尚書とした。

○魏孝荘紀
 戊戌,詔罷魏蘭根行臺,以後將軍、定州刺史薛曇尚為使持節、兼尚書,為北道行臺,隨機召發。
○魏19東萊王貴平伝
 除平北將軍、南相州刺史。莊帝既殺尒朱榮,加武衞將軍,兼侍中,為河北、山東慰勞大使。至定州東北,為幽州大都督侯淵所執,送於晉陽。
○魏44薛曇尚伝
 尋除後將軍、定州刺史。尒朱榮之死,授持節、兼尚書北道行臺,代魏蘭根。
○魏52陰遵和伝
 稍遷龍驤將軍、驍騎將軍、豫州都督,鎮懸瓠。孝莊末,除左將軍、行豫州刺史。時前行州事元崇禮被徵將還,既聞尒朱兆入洛,遂矯殺遵和,擅攝州任。後追贈平南將軍、涼州刺史。
○魏68甄楷伝
 孝莊時,徵為中書侍郎。尒朱榮之死,帝以其堪率鄉義,除試守常山太守,賜絹二百匹。
○魏80侯淵伝
 尋詔淵以本將軍為平州刺史、大都督,仍鎮范陽。及尒朱榮之死也,范陽太守盧文偉誘淵出獵,閉門拒之。淵率部曲屯於郡南,為榮舉哀,勒兵南向。莊帝使東萊王貴平為大使,慰勞燕薊。淵乃詐降,貴平信之,遂執貴平自隨。進至中山,行臺僕射魏蘭根邀擊之,為淵所敗。會元曄立,淵欲歸之。常山太守甄楷屯據井陘,淵又擊破之。曄乃授淵驃騎大將軍、儀同三司、定州刺史、左軍大都督、漁陽郡開國公,邑一千戶。
○北斉22盧文偉伝
 尒朱榮遣將侯深討樓,平之,文偉以功封大夏縣男,邑二百戶,除范陽太守。深乃留鎮范陽。及榮誅,文偉知深難信,乃誘之出獵,閉門拒之。深失據,遂赴中山。
○北斉23魏蘭根伝
 時尒朱榮將侯深自范陽趣中山,蘭根與戰,大敗,走依渤海高乾。

┃豫州の乱
 これより前、孝荘帝が驍騎将軍・豫州都督の陰遵和孝荘紀では『導和』)を左将軍・行豫州刺史(孝荘紀では『行州事』)とし、前行州事(孝荘紀では『行豫州刺史』)の元崇礼を都に召還した。崇礼は帰途に就く前、爾朱兆が入洛〔しようと〕しているのを聞いた。
 この日、崇礼が皇帝の命と偽って遵和を殺害し、勝手に豫州を取り仕切った。
 のち、遵和は平南将軍・涼州刺史を追贈された。

○魏孝荘紀
 行豫州刺史元崇禮殺後行州事陰導和,擅攝豫州。
○魏52陰遵和伝
 稍遷龍驤將軍、驍騎將軍、豫州都督,鎮懸瓠。孝莊末,除左將軍、行豫州刺史。時前行州事元崇禮被徵將還,既聞尒朱兆入洛,遂矯殺遵和,擅攝州任。後追贈平南將軍、涼州刺史。

┃賀抜勝の降伏

 東郡に迫る仲遠軍を迎え撃つ鄭先護賀抜勝が信用できず(もと爾朱栄配下という理由で?)、常にこれを陣屋の外に露営させた。このため、勝の軍は戦う前から疲労してしまった。
 庚子(11月28日)、勝は仲遠と滑台(東郡の治所)の東にて戦ったが敗れ、降伏した。これにより官軍は混乱に陥った。

○魏孝荘紀
 庚子,賀拔勝與仲遠戰於滑臺東,失利,仍奔之。
○魏56鄭先護伝
 莊帝又遣都督賀拔勝討仲遠,勝於陳降賊,戰士離心。
○魏80賀抜勝伝
 為先護所疑,置之營外,人馬未得休息。俄而仲遠兵至,勝與交戰不利,乃降之。
 
┃元顕恭の敗北
 また、河東方面では劉貴高歓の友の一人で爾朱栄に歓を薦めた。爾朱天光の関中征伐の際には不甲斐ない天光を鞭打った)が世隆により征南将軍・金紫光禄大夫・兼尚書左僕射・西道行台とされ、孝荘帝の派した元顕恭の軍と正平に戦い、これを撃破していた。貴は顕恭・裴元俊らを虜とした(詳しい時期は不明)。

○北斉19劉貴伝
 永安三年,除涼州刺史。建明初,尒朱世隆專擅,以貴為征南將軍、金紫光祿、兼左僕射、西道行臺,使抗孝莊行臺元顯恭於正平。貴破顯恭,擒之,並大都督裴儁等,復除晉州刺史。

┃宰相の器に非ず
 これより前、帝は城陽王徽を太保・大司馬・宗師・録尚書事とし、政軍全般を一手に取り仕切らせた。
 徽は栄という根幹さえ断てばあとの枝葉は勝手に散っていくものと考えていたが、案に相違して世隆らは一致団結して洛陽に進軍し、日々その勢いを増していったので、徽は狼狽して何ら有効な対策を取れなかった。
 また徽は嫉妬深い性格で己より人が前に出るのを酷く嫌ったため、政軍の事は常に帝と二人きりで決め、他人に付け入る隙を与えなかった。もし群臣の中から献策をする者がいても、徽は帝にこれを聞き入れないように勧め、かつこう言った。
「ごろつきどもを除くのに、どうして策を弄する必要がありましょうか!」
 また徽は非常に吝嗇であり、賞賜は常に僅少にし、たまにいつもより多く与える時があっても、結局財貨が惜しくなって中抜きして減らし、酷い時には賞賜が対象者の手に渡った後に返納させる事があった。ために徽の賞賜は群臣に全くやる気を起こさせず、いたずらに財物を消費する結果に終わった。

○魏19元徽伝
 榮死,世隆等屯據不解。除徽太保,仍大司馬、宗師、錄尚書事,總統內外。徽本意謂榮死後,枝葉自應散亡。及尒朱宗族,聚結謀難,徽算略無出,憂怖而已。性多嫉妬,不欲人居其前。每入參謀議,獨與帝決。朝臣有上軍國籌策者,並勸帝不納,乃云:「小賊何慮不除?」又吝惜財用,自家及國。於是有所賞錫,咸出薄少,或多而中減,與而復追。徒有糜費,恩不感物。莊帝雅自約狹,尤亦徽所贊成。

┃高歓と爾朱兆の確執
 これより前、爾朱栄はおもむろに左右にこう尋ねて言った。
「わしがいなくなったら、誰が代わりに軍を束ねるであろうか?」
 左右は口々に爾朱兆の名を挙げた。すると栄はこう答えて言った。
「兆は勇猛だが、統率に関しては三千騎を率いるのが精々だ。これより多くを率いれば必ず軍に混乱をきたすであろう。わしに代わりうる者は、高歓だけだ。」
 そしてこれにかこつけて兆にこう戒めの言葉をかけて言った。
「お前は歓の相手にはならぬ。いずれ歓に鼻を穿たれるような事になるだろう。」【牛は鼻を穿たれ、人に制御される
 かくて栄は歓を晋州刺史とした。歓は刺史になると大いに蓄財を行ない、劉貴経由で栄の腹心たちに賄賂を贈って足下を固めていった。ある時、州庫にある角笛が不意に鳴り、歓を不思議がらせた。栄が帝に殺されたのはそれから間もなくのことだった。
 そして現在、爾朱兆は洛陽に向かわんとするにあたり、使者を派して歓に参加を求めた。すると歓は長史の孫騰にこう言った。
「臣下が主君を討つのは道から非常に外れたことだ。そのような行為は、わしの採らぬ所である。しかし今行かねば、兆に必ず恨まれよう。それでは上手くないから、こう言い訳をしておいてくれ。」
 そこで騰は并州の大谷にて兆に会い、こう述べた。
「絳蜀・汾胡を平定しておかねば、必ず背後の憂いとなります。ゆえにこれを討伐したのち、黄河の北から大王を支援いたそうと思います。」
 兆はこれを聞くや非常に不快な表情を示し、騰にこう言った。
「帰ったら高晋州にこう伝えよ。わしは瑞夢を見たゆえ、こたびの出兵に必ず勝つとな。」
 騰が尋ねて言った。
「それはどのような夢でございましょう。」
 兆は答えて言った。
「亡き父と小高い丘に登る夢だ。その周囲には耕地があり、既に刈り取りが終わっていたが、まだ馬藺草(ネジアヤメ)の株が残っていた。父が何故抜かないのかと左右に尋ねると、根が堅いから抜けないのだという。そこで父が私に抜いてみろと言うのでやってみると、どれもひっこ抜けてしまった。この馬藺草はわしの敵を暗示する。ゆえに必ず勝つと言ったのだ。」
 騰が帰ってこのことを伝えると、歓はこう言った。
「兆らは道理に外れた馬鹿者たちだ。主上に兵を向けるような事はわしにはできぬ。しかしそうなると、いくら言い訳したとて疑われることは避けられず、勢い爾朱氏に仕えるのは難しくなるだろう。ならば先手を打ってこれを討つのが上策だ。兆らはこたびの出兵で必ず黄河の線で食い止められ立ち往生するはず。その背後をわしが太行山の東より突けば、一挙に虜とすることができよう。」

○北斉神武紀
 榮嘗問左右曰:「一日無我,誰可主軍?」皆稱尒朱兆。曰:「此正可統三千騎以還,堪代我主眾者唯賀六渾耳。」因誡兆曰:「爾非其匹,終當為其穿鼻。」乃以神武為晉州刺史。於是大聚斂,因劉貴貨榮下要人,盡得其意。時州庫角無故自鳴,神武異之。無幾而孝莊誅榮。
○魏75爾朱兆伝
 兆與世隆等定謀攻洛,兆遂率眾南出。…初,兆將向洛也,遣使招齊獻武王,欲與同舉。王時為晉州刺史,謂長史孫騰曰:「臣而伐君,其逆已甚。我今不往,彼必致恨。卿可往申吾意,但云山蜀未平,今方攻討,不可委之而去,致有後憂。定蜀之日,當隔河為犄角之勢。如此報之,以觀其趣。」騰乃詣兆,及之於并州大谷,具申王言。兆殊不悅,且曰:「還白高兄,弟有吉夢,今段之行必有克獲。」騰問:「王夢如何?」兆答曰:「吾比夢吾亡父登一高堆,堆旁之地悉皆耕熟,唯有馬藺草株往往猶在。吾父問言何故不拔,左右云堅不可去。吾父顧我令下拔之,吾手所至,無不盡出。以此而言,往必有利。」騰還具報,王曰:「兆等猖狂,舉兵犯上,吾今不同,猜忌成矣,勢不可反事尒朱。今也南行,天子列兵河上,兆進不能渡,退不得還。吾乘山東下,出其不意,此徒可以一舉而擒。」

┃爾朱兆、洛陽に迫る

 12月、壬寅朔(1日)爾朱兆が丹谷を攻めると、守将で都督の崔伯鳳は戦死し、都督の羊文義史仵龍は門を開いて降伏した。源子恭河内を守備?)は逃走したが追いつかれ撃破された。

 伯鳳は名門の清河崔氏の出で、南青州刺史の崔僧淵の子である。母は杜氏。若年の頃から弓と馬の扱いに長け、勇敢で膂力に優れていた。出仕して奉朝請・員外郎とされ、のち次第に昇進して鎮遠将軍・前将軍とされ、しばしば将帥を務めた。

 兆は度律と共に軽騎兵を率いて洛陽に急行した。
 この時、衛将軍・吏部尚書・都督の元世俊が河橋を守備していた。そこで、兆は河橋の西より黄河を渡った[1]
 これより前、黄河のほとりに住んでいた者が夢にて神人に会い、こう言われた。
「爾朱家が黄河を渡ろうとするなら、私は汝を灅波(雷陂)津の令とし、爾朱家のために水脈を弱めさせよう。」
 その一ヶ月余りののち、夢を見た者は死んだ。その後兆が黄河に到ると、ある者が水深の浅い所を知っていると名乗り出、草を插してその浅い所の道順を示した。それからたちまち行方をくらましてしまった。兆はその道を通り、馬に乗ったまま黄河を押し渡ったのだった。
 孝荘帝は黄河が深く広いのを理由に、兆が急に渡河する事はできないと見ていたが、あにはからんや、兆は船を用いず馬に乗って黄河を押し渡ってきたのである。この日、黄河の水深は馬の腹すら濡らさぬほどであり、このような事はどの歴史書にもない前代未聞の出来事であった。

 楊衒之洛陽伽藍記の著者曰く…むかし天は滹沱河を凍らせて光武帝を救い、的盧を高く跳躍させて劉備を救ったが、何故今この残虐なる爾朱兆にまで加護を与えたもうたのか、理解に苦しむ。『天は悪を罰する』というのは、虚妄の説ではなかろうか。

 この時、世俊ははなから河橋を守る気など無く、南岸にて兆軍を遠くから拝むだけだった。人々はその態度を非難した。

○魏孝荘紀
 十有二月壬寅朔,尒朱兆寇丹谷,都督崔伯鳳戰歿,都督羊文義、史五龍降兆,大都督源子恭奔退。甲辰,尒朱兆、尒朱度律自富平津上,率騎涉渡。
○魏19元世俊伝
 孝莊時,除衞將軍、吏部尚書。尒朱兆寇京師,詔世儁以本官為都督,防守河橋。及兆至河,世儁初無拒守意,便隔岸遙拜,時論疾之。
○魏24崔伯鳳伝
 伯鳳,少便弓馬,壯勇有膂力。自奉朝請、員外郎,稍遷鎮遠將軍、前將軍,數為將帥。永安末,與都督源子恭守丹谷,戰歿。
○魏41源子恭伝
 既而尒朱兆率眾南出,子恭所部都督史仵龍、羊文義開柵降兆。子恭退走,為兆所破。眾既退散,兆因入洛。子恭竄于緱氏,仍被執送。俄而見釋。
○魏75爾朱兆伝
 進達太行,大都督源子恭下都督史仵龍開壘降兆,子恭退走。兆輕兵倍道從河梁西涉渡,掩襲京邑。先是,河邊人夢神謂己曰:「尒朱家欲渡河,用爾作灅波津令,為之縮水脉。」月餘,夢者死。及兆至,有行人自言知水淺處,以草往往表插而導道焉。忽失其所在。兆遂策馬涉渡。
○洛陽伽藍記
 長廣王都晉陽,遣潁川王尒朱兆舉兵向京師。子恭軍失利,兆自雷陂涉渡。…衒之曰:「昔光武受命,冰橋凝於滹水;昭烈中起,的盧踊於泥溝;皆理合於天,神祗所福,故能功濟宇宙,大庇生民。若兆者,蜂目豺聲,行窮梟獍,阻兵安忍,賊害君親,皇靈有知,鑒其凶德!反使孟津由膝,贊其逆心。《易》稱天道禍淫,鬼神福謙,以此驗之,信為虛說。」

┃洛陽陥落
 甲辰(12月3日)、暴風が激しく砂塵を巻き上げ、太陽の光を覆い隠した。そのため、宿衛の士たちは兆の騎兵が宮門を攻撃するまで侵入に気づかなかった。宿衛の士たちは慌てて弓を射ようとしたが、暴風に煽られた上着が弦を弾いて射ることができず、遂に敗北を悟って一斉に逃げ出した。
 これより前、帝は兆が南下したのを聞くや、自ら諸軍を率いてこれを討たんとした。すると華山王鷙528年〈3〉参照)が帝にこう言った。
「黄河は非常に深いのですぞ。どうして兆が渡れましょう!」
 帝はこれに納得して親征を取り止めてしまった。鷙は爾朱栄と共に河陰の虐殺を観覧してより、密かに爾朱氏と通じていたのだった。
 鷙は兆が宮城に侵入したのを見ると、更に衛兵を留めてこれと戦わせないようにした。かくて帝は瞬く間に追い詰められた。
 衛将軍・右光禄大夫の李神俊と中書舍人の温子昇と直閤将軍の元融は逃走した。
 司徒の臨淮王彧は東掖門より脱走したが、逃げ切れず捕らえられた。
 融は字を叔融といい、非常に身長が低く顔も醜かったが、非常に勇猛だった。帝が爾朱栄誅殺を図った時、直閤将軍とされた。

 帝は徒歩にて雲龍門(宮城東門)より宮城を脱出した所で、偶然城陽王徽が馬に乗って逃げようとするのに出くわした。帝は何度もこれに声をかけて呼び止めようとしたが、徽はこれに応えることなく走り去ってしまった。
 兆は騎兵を派して帝を捕らえると(伽藍記では『式乾殿にて捕らえた』とある)、これを永寧寺の楼上に幽閉した。帝は酷寒に耐えかねて兆に頭巾を求めたが、兆は聞き入れなかった。兆はまた尚書省に陣屋を置くと、金鼓を用い、漏刻をその庭に設け〔て天子のようにふるまった〕。また、爾朱皇后の産んだ皇子を撲殺し、後宮の女性をみな己の幕中に引き入れ次々と犯し、兵を洛陽城内に派して大略奪を行なわせた。兵士たちは楽署に放火し、楽器の類いはほぼ燃え尽きた。ただ、史書は山偉が国史典書の高法顕に命じて密かに埋めさせていたので無事だった。
 臨淮王彧は兆のもとに引っ立てられると屈する素振りを見せなかったため、胡兵たちによって殴り殺された。
 尚書左僕射の范陽王誨孝文帝の孫で、広平王懐の子)も殺害された(享年26)。
 青州刺史の李延寔も殺害された。

○魏孝荘紀
 甲辰,尒朱兆、尒朱度律自富平津上,率騎涉渡,以襲京城。事出倉卒,禁衞不守。帝出雲龍門。兆逼帝幸永寧佛寺,殺皇子,并殺司徒公、臨淮王彧,左僕射、范陽王誨。
○魏14元鷙伝
 莊帝既殺尒朱榮,榮從子兆為亂,帝欲率諸軍親討,鷙與兆陰通,乃勸帝曰:「黃河萬仞,寧可卒渡。」帝遂自安。及兆入殿,鷙又約止衞兵。帝見逼,京邑破,皆由鷙之謀。
○魏18臨淮王彧伝
 及尒朱兆率眾奄至,彧出東掖門,為賊所獲。見兆,辭色不屈,為羣胡所毆薨。彧美風韻,善進止,衣冠之下,雅有容則。博覽羣書,不為章句。所著文藻雖多亡失,猶有傳於世者。然居官不能清白,所進舉止於親婭,為識者所譏。無子。
○魏19元融伝
 暢弟融,字叔融。貌甚短陋,驍武過人。莊帝謀殺尒朱榮,以融為直閤將軍。及尒朱兆入洛,融逃人間。
○魏19元徽伝
 及尒朱兆之入,禁衞奔散,莊帝步出雲龍門。徽乘馬奔度,帝頻呼之,徽不顧而去。
○魏39李神俊伝
 乃除衞將軍、右光祿大夫。尋屬尒朱兆入京,乘輿幽執,神儁遂逃竄民間。
○魏75爾朱兆伝
 是日,暴風鼓怒,黃塵漲天,騎叩宮門,宿衞乃覺。彎弓欲射,袍撥弦,矢不得發,一時散走。帝步出雲龍門外,為兆騎所縶,幽於永寧佛寺。兆撲殺皇子,汙辱妃嬪,縱兵虜掠。停洛旬餘,先令衞送莊帝於晉陽。
○魏81山偉伝
 及莊帝入宮,仍除偉給事黃門侍郎。…初,尒朱兆之入洛,官守奔散,國史典書高法顯密埋史書,故不遺落。
○魏82祖瑩伝
 初,莊帝末,尒朱兆入洛,軍人焚燒樂署,鍾石管弦,略無存者。
○魏83李延寔伝
 尋轉司徒公,出為使持節、侍中、太傅、錄尚書事、〔東道大行臺、都督、〕青州刺史。尒朱兆入洛,乘輿幽縶,以延寔外戚,見害於州館。
○魏85温子昇伝
 尒朱兆入洛,子昇懼禍逃匿。
○北斉20斛律羌挙伝
 斛律羌舉,太安人也。世為部落酋長。父謹,魏龍驤將軍、武川鎮將。羌舉少驍果,有膽力。永安中,從尒朱兆入洛,有戰功,深為兆所愛遇,恒從征伐。
○北斉42綦連猛伝
 仍從尒朱兆入洛。
魏故司徒范陽王墓誌銘
 尋除尚書左僕射,任居彼相,道濟斯民。虛來實反,酌而不竭。方謂天德唯輔,神聽無違。垂旒曳兗,作鎮邦國。而斯理一愆,長從化往。春秋廿六,永安三年十二月三日薨,追贈使持節、驃騎大將軍、司徒公、冀州刺史、侍中,王如故,諡曰文景王。稟性和理,率由閒素。尤好墳典,雅善事功。而方年夭秀,聞見傷感。
○洛陽伽藍記
 擒莊帝於式乾殿。帝初以黃河奔急,謂兆未得猝濟,不意兆不由舟楫,憑流而渡。是日水淺,不及馬腹,故及此難。書契所記,未之有也。…時兆營軍尚書省,建天子金鼓,庭設漏刻,嬪御妃主,皆擁之於幕。鏁帝於寺門樓上。

 [1]考異曰く、孝荘紀には富平津、伽藍記には雷陂より渡河したとある。今は魏書兆伝の記述に従う。

┃城陽王徽の死
 城陽王徽は洛陽を脱出すると、龍門山の南麓に住む寇祖仁弥の字?)の家に身を寄せた。祖仁一門が輩出した三刺史はみな徽に引き立てられたという関係があり、その恩義から裏切らないだろうと踏んでのものだった。この時徽は金百斤と馬五十頭を持ってきていた。祖仁はそれに目がくらみ、徽の前では歓迎の素振りを示しつつ、陰では子弟にこう言った。
「聞くところによると、兆は城陽王の身柄に千戶侯の懸賞をかけているとか。富貴の身分となるのは今だぞ!」
 かくて徽に兆の手が近くまで伸びてきていると嘘を言って脅かし、他所に避難させると、その道中に刺客を放って殺してしまった。そして金と馬をせしめると、これを遠い親戚にまで当分に分配した。しかし千戸侯の褒美は兆が約束を破ったため与えられなかった。その兆がある時夢に徽に会ってこう語りかけられた。
「金二百斤・馬百頭を祖仁の家に残している。取りに行くとよい。」
 兆は目を醒ますと、こう考えた。
「徽は禄も位も高く、清貧だという噂も無かったのに、わし自らその屋敷を漁ってみても、金銀が見つからなかった。もしかすると、この夢は本当なのかもしれぬ。」
 かくて夜が明けると直ちに祖仁を捕らえると、その家宅を捜索して金と馬を探し求めた。祖仁は誰かに密告されたのだと早合点し、素直にこう白状して言った。
「実は、金百斤・馬五十頭を手に入れました。」
 しかし兆は夢で聞いた数と合わない事から隠匿を疑い、なおも捜索を続けて祖仁の家に元々あった金三十斤・馬三十頭を全て自分のものとした。それでもまだ夢の数に満たなかったので、遂に兆は激怒して祖仁を縛り上げると、高い木にその首を吊るし、大石をその足にぶら下げさせた上で、これに鞭打って殺してしまった(魏42寇弥伝では弥は生きながらえ、西魏にて没している)。

 楊衒之曰く…祖仁は財貨に目が眩み、恩を仇で返す不義を行なった。徽はそこで兆の夢に出ると、金と馬の数をわざと多めに言い、兆に隠匿を疑わせて殺害にまで追いやったのである。

○魏19元徽伝
 及尒朱兆之入,禁衞奔散,莊帝步出雲龍門。徽乘馬奔度,帝頻呼之,徽不顧而去。遂走山南,至故吏寇彌宅。彌外雖容納,內不自安,乃怖徽云,官捕將至,令其避他所。使人於路邀害,送屍於尒朱兆 。
○魏42寇弥伝
 治弟彌,兼尚書郎。為城陽王徽所親待。永安末,徽避尒朱兆脫身南走。歸命於彌。彌不納,遣人加害,時論深責之。
○洛陽伽藍記
 榮、穆既誅,拜徽太師司馬,餘官如故,典統禁兵,偏被委任。及爾朱兆擒莊帝,徽投前洛陽令寇祖仁。祖仁一門刺史,皆是徽之將校,以有舊恩,故往投之。祖仁謂子弟等曰:「時聞爾朱兆募城陽王甚重,擒獲者千戶侯。今日富貴至矣!」遂斬送之。徽初投祖仁家,齎金一百斤、馬五十匹。祖仁利其財貨,故行此事。所得金馬,總親之內均分之。所謂「匹夫無罪,懷璧其罪」,信矣。兆得徽首,亦不勳賞祖仁。兆忽夢徽云:「我有黃金二百斤、馬一百匹,在祖仁家,卿可取之。」兆悟覺,即自思量,城陽祿位隆重,未聞清貧,常自入其家采掠,本無金銀,此夢或真。至曉掩祖仁,征其金馬。祖仁謂人密告,望風款服,云實得金一百斤、馬五十匹。兆疑其藏隱,依夢征之。祖仁諸房素有金三十斤,馬三十匹,盡送致兆,猶不充數。兆乃發怒捉祖仁,懸首高樹,大石墜足,鞭捶之以及於死。時人以為交報。
 楊衒之曰:「崇善之家,必有餘慶;積禍之門,殃所畢集。祖仁負恩反噬,貪貨殺徽,徽即讬夢增金馬,假手於兆,還以斃之。使祖仁備經楚撻,窮其塗炭,雖魏其侯之笞田蚡,秦主之刺姚萇,以此論之,不能加也。」


 530年⑹に続く