[北魏:太和十七年 南斉:永明十一年]

┃遷都計画


 北魏の首都の平城は南五十里に定襄(雁門の誤り)郡より出て海(東シナ海)に流れる桑乾水という川があり、それに因んで索干(桑乾)都と呼ばれていたが、その地の気候は寒く、六月になっても雪が降るほどで、更に常に空気中に黄砂が舞っていた。そこで孝文帝は洛陽への遷都を思い立った。ただ、群臣の反対が予想されたため、まず〔群臣がより嫌がりそうな〕南斉大征伐を行なうと言って脅したのち、〔比較的楽な遷都を持ち出して賛同を得ようとした〕。

 帝はそこで明堂の左脇部屋にて身を清めたのち、太常卿の王諶に南伐の可否を占わせた所、『革』の卦が出た。帝は言った。
「革の卦はこれから行なう行為が湯王・武王殷・周)の革命のように天・人の心にかなっている事を指す(革彖辞)。吉兆であることこの上ない。」
 群臣のうち敢えてこれに反対する者はいなかった。その時、尚書〔令?〕の任城王澄が進み出て言った。
「《周易》の言う『革』とは『改める』の意味で、天・人の心に従って君臣の命(ことわり。関係)を改める事を指し、つまり〔臣下の身分であった〕湯王・武王にとっては良い卦であります。しかし代々天下に君臨してきた皇家の子孫たる陛下〔にとっては良い卦ではありません〕。今曰、征伐を占って『革』の卦が出ましたが、ただの叛逆者(南斉)を討つ事を革命とは言いません。これは君主の卦では無く、〔臣下の卦であります。〕吉兆とは言い切れません。」
 帝は声を荒げてこう言った。
「《周易革象辞》には『大人虎変』(虎の毛が秋に立派な毛に生え変わるように、君主が自分を変革して立派になる事を指す)の兆とある。どうして吉兆では無いと言うのか!」
 澄は言った。
「陛下は龍が飛び上がるが如く英明なこと久しきお方でありますのに、どうして虎の毛が生え変わるように自己を変える必要があるのでしょうか!〔これは陛下を指す卦ではございませぬ!〕」
 帝は顔を真っ赤にして言った。
「この国家は朕の国家である! 〔朕の言う事は絶対である!〕任城は〔敗北主義者であり、悲観的な事を言って〕人々の意気を沮喪させようとしている!」
 澄は言った。
「国家は確かに陛下の国家であります。しかし、臣も国家の臣子であり、陛下の顧問を務める身でありますゆえ、敢えてこうして愚衷(愚かな真心)を尽くして言っているのです。危険だと知っていて言わないのは忠臣ではございません。」
 帝は既に南伐からの遷都の実行を心に固く決めていたので、澄の対応を憎んだが、暫くして勘気を解き、こう言った。
「『おのおのその志を言ったまでの事であり、意見が異なったとしても何の差支えもない。』(《論語》先進)。」

 帝は明堂から宮殿に帰るとすぐさま澄を呼び、澄が階段を上る前に遠くからこう言った。
「先程の革卦の事について、今改めて言っておきたい。明堂で朕が怒ったのは、朝臣たちがあれこれ反論して我が大計を阻んでくるのを防ぐために、怖がらせようとしてやっただけの事なのだ。どうか朕の意を理解してくれ。」
 かくて人払いをしたのち、澄にこう言った。
「朕が今からやろうとしている事は非常に困難が予想される。〔だが、やらねばならないのだ。〕我が国家は北土より興り、南遷して平城に都を定め、遂に広大な領土を得るに至ったが、それでも統一は達成できていない。〔何故か。〕この地が軍事拠点としては適任だが、政治の拠点としては不適格だったからである。〔中国を統一するには文の方面の整備が必要不可欠だが、この地で国家の体制を〕武から文に移行するのは非常に困難である。そこで今、いにしえより帝王が都とし、〔文化の香り溢れる〕地たる崤函・河洛の地に遷都しようと思うのだが、任城はどう思うか?」
 澄は言った。
「伊洛(伊水・洛水の地。洛陽一帯)の地は等しく天下の中心にありますゆえ、陛下がこの地に都に置いて中国を統治する姿勢を示せば、人々は歓喜して靡き従うでありましょう。周(東周)や漢(後漢)が興隆したのはまさにこのためです(東周は衰えているが一応長期に亘って存続した)。」
 帝は言った。
「北人は故郷が好きであるから、移住すると聞いたらきっと大騒ぎするであろう。」
 澄は言った。
「これは非常の事であり、理解できるのは非常の人のみです。陛下はただ思う所を実行なさるだけで良いのです。〔そもそも、〕彼ら〔が反発したとして、いったい〕何ができましょう。」
 帝は言った。
「任城は我が子房(張良)である。」
 かくて澄を撫軍大将軍・太子少保とし、更に兼尚書左僕射(尚書令から降格されている?)とした。 

○資治通鑑
 將遷都洛陽;恐群臣不從,乃議大舉伐齊,欲以脅眾。…「『湯、武革命,應乎天而順乎人。』吉孰大焉!」群臣莫敢言。尚書任城王澄曰:「陛下奕葉重光,帝有中土;今出師以征未服,而得湯、武革命之象,未為全吉也。」帝厲聲曰:「云:『大人虎變』,何言不吉!」【「大人虎變」,《革》九五《爻辭》。九五,君位也,故引以難澄。】…澄曰:「社稷雖為陛下之有,臣為社稷之臣,安可知危而不言!」帝久之乃解,曰:「各言其志,夫亦何傷!」既還宮,召澄入見,謂之曰:「嚮者革卦,今當更與卿論之。明堂之忿,恐人人競言,沮我大計,故以聲色怖文武耳。相識朕意。」因屛人謂澄曰:「今日之舉,誠為不易。但國家興自朔土,徙居平城;此乃用武之地,非可文治。今將移風俗,其道誠難,朕欲因此遷宅中原,卿以為何如﹖」【魏主始與任城王澄言其情。】澄曰:「陛下欲卜宅中土以經略四海,此周、漢所以興隆也。」【比之周成、康,漢光、明也。】
○魏19任城王澄伝
 後高祖外示南討,意在謀遷,齋於明堂左个,詔太常卿王諶,親令龜卜,易筮南伐之事,其兆遇革。高祖曰:「此是湯武革命,順天應人之卦也。」羣臣莫敢言。澄進曰:「易言革者更也。將欲應天順人,革君臣之命,湯武得之為吉。階(陛)下帝有天下,重光累葉。今曰卜征,乃可伐叛,不得云革命。此非君人之卦,未可全為吉也。」高祖厲聲曰:「象云『大人虎變』,何言不吉也!」澄曰:「陛下龍興既久,豈可方同虎變!」高祖勃然作色曰:「社稷我社稷,任城而欲沮眾也!」澄曰:「社稷誠知陛下之社稷,然臣是社稷之臣子,豫參顧問,敢盡愚衷。」高祖既銳意必行,惡澄此對,久之乃解,曰:「各言其志,亦復何傷。」
 車駕還宮,便召澄,未及昇階,遙謂曰:「向者之革卦,今更欲論之。明堂之忿,懼眾人競言,阻我大計,故厲色怖文武耳,想解朕意也。」乃獨謂澄曰:「今日之行,誠知不易。但國家興自北土,徙居平城,雖富有四海,文軌未一,此間用武之地,非可文治,移風易俗,信為甚難。崤函帝宅,河洛王里,因茲大舉,光宅中原,任城意以為何如?」澄曰:「伊洛中區,均天下所據,陛下制御華夏,輯平九服,蒼生聞此,應當大慶。」高祖曰:「北人戀本,忽聞將移,不能不驚擾也。」澄曰:「此既非常之事,當非常人所知,唯須決之聖懷,此輩亦何能為也。」高祖曰:「任城便是我之子房。」加撫軍大將軍、太子少保,又兼尚書左僕射。
○魏39李韶伝
 長子韶,字元伯,學涉,有器量。與弟彥、虔、蕤並為高祖賜名焉。韶又為季父沖所知重。延興中,補中書學生。襲爵姑臧侯,除儀曹令。時修改車服及羽儀制度,皆令韶典焉。遷給事黃門侍郎。後例降侯為伯。兼大鴻臚卿,黃門如故。
 高祖將創遷都之計,詔引侍臣訪以古事。韶對:「洛陽九鼎舊所,七百攸基,地則土中,實均朝貢,惟王建國,莫尚於此。」高祖稱善。
○魏53李沖伝
 高祖初謀南遷,恐眾心戀舊,乃示為大舉,因以脅定羣情,外名南伐,其實遷也。
○南斉57魏虜伝
 平城南有干水,出定襄堺,流入海,去城五十里,世號為索干都【[一五]錢大昕廿二史考異云:「索干即桑乾之轉。」】。土氣寒凝,風砂恒起,六月雨雪。議遷都洛京。

 ⑴孝文帝…拓跋宏。生年467、時に27歳。北魏の七代皇帝。在位471~。六代献文帝の長子。母は李夫人。490年に馮太后が亡くなると親政を始め、太后の路線を受け継いで数々の改革を行なった。493年⑵参照。
 ⑵王諶…字は厚誠。名門の太原王氏の出?尚書令・中山王の王叡(馮太后の寵臣)の弟。北魏に仕えて祠部尚書・領太史事・上党公→侯とされた。のち太常卿とされた。
 ⑶任城王澄…拓跋澄。字は道鏡。生年467、時に27歳。景穆太子の孫で、任城王雲の子。孝文帝の従兄弟叔父。孝行者で、学問を好んだ。話しぶりや振る舞いが上品だった。馮太后に『宗室の領袖となるべき者』と評された。485年、柔然が侵攻してくると都督北討諸軍事とされて討伐に赴いた。のち梁州刺史とされ、氐羌を良く手懐けた。のち徐州刺史とされると非常な名声と政績を上げた。のち中書令→尚書令とされた。南斉の使者の庾蓽に「昔の魏の任城王(彰)は武を以て聞こえたが、今の魏の任城王は文の方面に秀でている」と評された。493年⑵参照。

┃親征は危険なり
 孝文帝が南斉親征を提議した時、〔秘書監の〕盧淵が上表して言った。
『臣は全ての書を読んだわけではありませんが、非常に多くの書に目を通した自負はございます。魏晋以前の泰平の世に自ら軍を率いて勝敗を決した天子がいないのは、勝ったとしても〔敵が弱小であるため〕武威を示すには足らず、敗北すれば威信を損なう事になるという、いわゆる『千鈞の弩は鼷鼠のために機を発せず』の道理に従ったためであります。
 昔、魏の武帝曹操)は疲弊した兵一万(実際はもっと多い)を以て袁紹〔の大軍(約10万)〕を、謝玄は步兵三千(八千)を以て苻堅〔の大軍(約20万)〕をそれぞれ総崩れにさせました。〔ここから考えるに、〕勝敗は兵の多寡に由らず、成功失敗はふとした事で決まる事が分かります。〔例えば〕もし紹が田豊の策謀を用いていたなら、自ら戦わずして孟徳(操の字)を制する事ができていたでしょう(親征は危険である事、田豊たる自分の意見を良く聞いてほしい事を言っているのであろう)。
 のち、魏が蜀を併呑すると、晋の世に至るまで、残る最後の勢力の呉の領土はただ長江流域のみで、しかもその上流は魏晋に支配されており、両者の国力は大きく隔たっており、統治の良し悪しにも大きな差がありましたが、それでも呉は君臣が一致協力してなお十数年の命脈を保ち得ました。ただ、孫皓が暴政を行なうようになって人心がばらばらになると、晋は水陸より同時に侵攻を開始して一挙に討ち滅ぼす事に成功しました。翻っていま蕭氏(南斉)を見ますに、彼らは主君を弑逆しその位を簒奪した者の子孫でありますゆえ、自然、その政治はむごく、労役は繁雑を極め、しかも一族で殺し合って(490年の巴東王子響の乱の事を指すか)おりますので、もはや人からも神からも見放されており、呉会(江東)の民たちは首を長くしつま先だって陛下の恩沢が及ぶのを待ち望んでいる状態にあります。ここから考えますに、今こそまさに天下一統の機会であるといえましょう。もしいま陛下が御自ら南方にお出向かれれば、かの蛮人たちはきっと泰山で卵を潰すようにあっけなく降伏してくる事でしょう。
 ただ、愚臣が考えますに、陛下が親征なさると〔即ち大軍の出動となり、しかも〕千里を行軍するため(平城から建康まで直線距離で1000km)兵糧の輸送の困難が予想され、兵士は飢えに苦しむことになるでありましょうし、また、『大軍を起こした後は〔農村が人手を取られ農業に勤しめなかった事によって〕必ずや凶作の年となる』(《老子》)といいます。ゆえに、ここは将軍に精鋭のみを与えて江東を制圧させ、しかるのちに現地を巡幸し、東岳(泰山)に勝利を報告なさった方が、天下の人々にとって〔負担も少なく〕大いに助かり、きっと全土が陛下に全幅の信頼を寄せて従うようになるでしょう。
 また、臣は『関中の豪族たちが近年競って齋会(僧尼を招いて斎食を施す法会)を催し、高貴な血筋を自称して人々を扇動し、法会の中で公然と朝廷を謗っている』という噂を耳にしております。上を蔑する心がここまで酷かった例は他にございません。愚考いたしますに、〔南伐を行なうよりも、〕速やかにこちらに対処し、懲罰を加えてその悪風を絶やし、主だった者たちに誅戮を加えるべきであります。さもなければ、黄巾(後漢末の大乱)・赤眉(新末の大乱)のような災禍に発展する恐れがあります。災禍を芽のうちに摘み取らないでいると、一旦叛乱が起きた際、その被害は多数の人々に及ぶことになります。
 臣は代々皇家(北魏・拓跋氏)にお仕えしておりますゆえ、道義的にいって陛下と幸不幸を共にすべき身であります。こたびの行為は、陛下の意に逆らう非常に無礼千万な行為であると重々承知しておりますが、それでも、不忠の罪(諫言をしないなど)という何よりも大きな罪を犯すことを避けたいがために、今こうして上書したのであります。』
 帝は詔を下して言った。
『至高の徳というのは一つしか無いが、そこまで辿り着く方法は多岐に亘る。三聖()も五帝も法律の条文はそれぞれ異なり、ある者は寛大な、ある者は厳格な法律を施行したが、それにはみな理由があった。承平の主(泰平の時の君主)が自ら軍を率いなかったのも、恐らく理由があり、英明の主の場合は戦う前に敵を降すことができるため戦いに赴かず、凡庸な君は志が低劣であるため戦いに赴かないのである。翻って今もし朕を英皇と仮定するにしても、時勢が昔と異なるのでこれに倣う事はできず、庸君と仮定する事はそもそも自尊心が許さぬ。天子が戦いに出向くのが不当であるのなら、二公(西周の輔弼の臣の周公と召公? 或いは単に太尉や司徒、即ち重臣の事?)の徒が軍を率いるのも不当では無いだろうか? 先王が革輅(君主が戦いの時に乗る車)を作ったのも何故か? そもそも、昔の者が自ら率先して軍を率い、領土を切り開いてきたのなら、それを踏襲し拡大していくのが後人の務めである。戦乱を収めた雄主が武に疎かった事など一度も耳にした事が無い。世袓(太武帝。親征を行ない華北を統一した)の行ないこそが、その良き証左となろう。
 また、〔卿は寡兵が良く大軍を制したと言うが、〕曹操袁紹に勝ったのは恐らく賞罰や登用が当を得ていたからであり(通鑑では『仗順(天・人の心に応じていたため)』とある)、苻堅の軍が瓦解したのは国内の統治がまだ不充分だったからであり、操の疲兵が強かったわけではなく、実は十万の兵(紹軍)の方がより弱小だったのである。そもそも、寡が衆に必ず勝てるわけでもなく、弱が強を必ず制し得るわけでもない! 今、朕は〔統治に当たっては〕聖王の先見の術を駆使し、出兵に当たっては仁義の師(人民救済の軍)を用いているゆえ、これまでの成功失敗の例を仔細に鑑みるに、袁紹・苻堅のごとき失敗は殆ど犯さないであろう。また、長江の険(南斉の隠喩?)は恐れるほどではないし、そもそも前代未聞の軍を起こすというのに、どうして故事から学ぶ必要があろうか。また、洞庭・彭蠡湖は非常に堅固というわけではない(南斉は一枚岩ではない事を指すか?)ゆえ、腕を振るって一声叫んで威嚇するだけで、或いは漢朝のような一統の業を成し遂げることができるかもしれない。戦争というのは時と場合に応じて行なうものである。〔卿は補給が困難と言うが、〕蕭相(前漢の丞相の蕭何。劉邦軍の兵站を後方の関中より良く支えた)の如き人材に託せば解決することができる。〔また、将軍に精鋭を託して攻めさせよと言うが、〕天下一統という大事業に軽々しく行動などしてはならないし、そもそも他人に任せることがどうしてできようか!
 また、軍事行動によって土地が荒らされたり人手を取られる事で凶作が起こると言うが、そのような事は無い。湯王のような聖王が軍を起こした後に凶作になったのは、果たして土地を荒らしたり人手を取ったりしたからであろうか? 凶作というのは非常な豊作の後にも軍事行動を起こしていない平穏な時でも起こるもので、人智を越えたどうしようもないものなのである。また、関中に小さないざこざが起きていると言うが、それは既に勅命を発して鎮定させている。そもそも、瑣末な噂話ごときでどうして大事業を止めることができようか。卿の忠心は良く分かった。諫言を聞かなかった事を恨みに思わぬよう。』

○資治通鑑
 六月,丙戌,命作河橋,欲以濟師。祕書監盧淵上表,以為:…詔報曰:「承平之主,所以不親戎事,或以同軌無敵,或似懦劣偷安。今謂之同軌則未然,比之懦劣則可恥,必若王者不當親戎,則先王制革輅,何所施也?魏武之勝,蓋由仗順;苻氏之敗,亦由失政豈寡必能勝眾,弱必能制強邪!」丁未,魏主講武,命尚書李沖典武選。
○魏47盧淵伝
 及高祖議伐蕭賾,淵表曰:
『臣誠識不周覽,頗尋篇籍。自魏晉以前,承平之世,未有皇輿親御六軍,決勝行陳之間者。勝不足為武,弗勝有虧威德,明千鈞之弩不為鼷鼠發機故也。昔魏武以弊卒一萬而袁紹土崩,謝玄以步兵三千而苻堅瓦解。勝負不由眾寡,成敗在於須臾,若用田豐之謀,則坐制孟德矣。魏既并蜀,迄于晉世,吳介有江水,居其上流,大小勢殊,德政理絕。然猶君臣協謀,垂數十載。逮孫皓暴戾,上下攜爽,水陸俱進,一舉始克。今蕭氏以篡殺之燼,政虐役繁,又支屬相屠,人神同棄。吳會之民,延踵皇澤,正是齊軌之期,一同之會。若大駕南巡,必左袵革面,閩越倒戈,其猶運山壓卵,有征無戰。然愚謂萬乘親戎,轉漕難繼,千里饋糧,士有飢色,大軍之後,必有凶年。不若命將簡銳,盪滌江右,然後鳴鸞巡省,告成東岳,則天下幸甚,率土戴賴。
 臣又聞流言,關右之民,自比年以來,競設齋會,假稱豪貴,以相扇惑。顯然於眾坐之中,以謗朝廷。無上之心,莫此之甚。愚謂宜速懲絕,戮其魁帥。不爾懼成黃巾、赤眉之禍。育其微萌,不芟之毫末,斧斤一加,恐蹈害者眾。臣世奉皇家,義均休戚,誠知干忤之愆實深,然不忠之罪莫大。』
 詔曰:
『至德雖一,樹功多途。三聖殊文,五帝異律,或張或弛,豈必相因。遠惟承平之主,所主不親旆五戎者,蓋有由矣。英明之主,或以同軌無征;守庸之君,或緣志劣寢伐。今若喻之英皇,時非昔類;比之庸后,意有恧焉。脫元極之尊,本不宜駕,二公之徒,革輅之戎,寧非謬歟?尋夫昔人,若必須己而濟世,豈不克廣先業也。定火之雄,未聞不武,世袓之行,匪皆疑懾。且曹操勝袁,蓋由德義內舉;苻堅瓦解,當緣立政未至。定非弊卒之力強,十萬之眾寡也。今則驅馳先天之術,駕用仁義之師,審觀成敗,庶免斯咎。長江之阻,未足可憚;踰紀之略,何必可師。洞庭、彭蠡,竟非殷固,奮臂一呼,或成漢業。經略之義,當付之臨機;足食之籌,望寄之蕭相。將希混一,豈好輕動,利見之事,何得委人也!
 又水旱之運,未必由兵;堯湯之難,詎因興旅?頗豐之後,雖靜有之,關左小紛,已敕禁勒。流言之細,曷足以紆天功。深錄誠心,勿恨不相遂耳。』
 及車駕南伐,趙郡王幹督關右諸軍事,詔加淵使持節、安南將軍為副,勒眾七萬將出子午。尋以蕭賾死,停師。

 ⑴盧淵…字は伯源、幼名は陽烏。名門の范陽盧氏の出で、兼散騎常侍の盧玄の孫、青州刺史の盧度世の長子。温和・上品・寡欲で、袓父の面影があった。学業に勤しみ、円満な家庭を築いた。侯爵を継ぎ、秘書令・始平王師とされた。のち例に依って爵位を伯に降ろされた。のち給事黄門侍郎とされ、次いで兼散騎常侍・秘書監・本州大中正とされた。孝文帝が馮皇后を立てる際異論を唱え、司徒の馮誕に睨まれたが意に介さなかった。493年⑵参照。

┃楊大眼の登場
 6月、庚辰朔(1日)、日食があった。
 壬午(3日)、南斉の武帝が詔を下して言った。
「長雨が過ぎ去った。中書舍人と二県(秣陵・建康)の長官に京邑(建康)の住民の救済を命じる。」

 丙戌(7日)、北魏が南伐を円滑に進めるため、事前に河橋(洛陽近北)を架けさせた。
 己丑(10日)、徐(彭城)・南豫(豫州〈汝南〉?)・陝(恒農)・岐(平秦)・東徐(東安
或いは宿豫)・洛(洛陽)・豫(北豫州〈虎牢〉?)七州の兵糧供出を免じた(旱魃の被害が大きい地域?)。


 乙未(16日)、演習を行なった。

 帝は代(平城)より南伐するに当たり、吏部尚書の李沖に武官を選任させた。この時、南秦王の楊難当の孫で、南秦王の楊徳の子で、奉朝請の楊大眼がこれに立候補した。沖が拒絶すると、大眼は言った。
「尚書はそれがしを良く知らないのですな。どうか一技を披露させてください。」
 沖が聞き入れると、大眼は直ちに約三丈(約7m)の長縄を髻(もとどり)に結んで走った。すると〔あまりの速さに〕縄は〔垂れ下がることなく〕まっすぐ矢のようになり、ある者が馬を馳せても〔大眼に〕追いつくことができなかった。見た者はみな驚嘆した。沖は言った。
「千年もの間、このような逸材はいなかった。」
 かくて軍主(都督→別将→統軍→軍主)とした。大眼は同僚にこう言った。
「今日の私はいわゆる水を得た時の蛟龍である。この遠征ののち、私は諸君と列を同じくしないだろう。」
 大眼は若年の頃より度胸と勇気があり、その跳躍や走行はまるで飛んでいるかのようだった。ただ、妾の子だったため冷遇を受け、極貧の生活を余儀なくされた。太和年間(477~499)に出仕して奉朝請とされた。

○資治通鑑
 丁未,魏主講武,命尚書李沖典武選。
○魏孝文紀
 六月〔庚辰朔,日有蝕之。〕丙戌,帝將南伐,詔造河橋。己丑,詔免徐、南豫、陝、岐、東徐、洛、豫七州軍糧。丁未(乙未),講武。
○南斉武帝紀
 六月壬午,詔「霖雨既過,遣中書舍人、二縣官長賑賜京邑居民」。
○魏73・北37楊大眼伝
 楊大眼,武都氐難當之孫也。少有膽氣(驍捷),跳走如飛。然側出(庶孽),不為其宗親顧待,頗有(不免)飢寒之切。太和中,起家奉朝請。時高祖自代將南伐,令尚書李沖典選征官,大眼往求焉。沖弗許,大眼曰:「尚書不見知,聽下官出一技。」便出長繩三丈許繫髻而走,繩直如矢,馬馳不及,見者莫不驚歎。沖曰:「自千載以來,未有逸材若此者也。」遂用為軍主。大眼顧謂同僚曰:「吾之今日,所謂蛟龍得水之秋,自此一舉終不復與諸君齊列矣。」
○魏101氐伝
 高宗時,拜難當營州刺史,還為外都大官。卒,諡曰忠。子和,隨父歸國(魏),別賜爵仇池公。子德〔子〕襲難當爵,早卒。子小眼襲,例降為公,拜天水太守,卒。子大眼,別有傳。

 ⑴南斉の武帝…蕭賾。字は宣遠。幼名は龍児。生年440、時に54歳。南斉の二代皇帝で、在位482~。初代高帝(蕭道成)の長子。母は劉智容。治世中に大きな戦争を起こさず、『永明の治』と呼ばれる安定した政治を敷いた。493年⑵参照。
 ⑵今年の5月19日に「洪水と旱魃によって農作物に被害が出ている」という詔が下されている。去年の11月にも「長雨の被害が出ている」という詔が下されている。
 ⑶北史魏孝文帝紀。魏書では丁未(28日)とあるが、乙巳(26日)の記事の前に置かれており、矛盾する。よって今は北史の記述を採った。
 ⑷李沖…字は思順。生年450、時に44歳。隴西李氏の出。早くに父を亡くし、長兄の李承に教育を受けた。落ち着いていて品があり、清廉で度量があった。孝文帝が即位すると秘書中散とされ、よく禁中の文事を取り仕切ったので次第に目をかけられるようになった。のち内秘書令・南部給事中とされた。486年、三長制の施行を進言して聞き入れられた。のち中書令→南部尚書・順陽侯→隴西公とされた。馮太后の信任を受け、多くの賞賜を与えられた事で裕福になったが、驕る事はなく、金品を親戚や故郷の人々に気前よく分け与えた。また、生活に困っている者や不遇の者を多く抜擢した。帝に名前ではなく中書と呼ばれる特別待遇を受けた。馮太后が亡くなった後も帝に身を粉にして仕え、比肩する者が無いほどの深い信頼関係を築いた。のち滎陽郡侯に改められ、廷尉卿→侍中・吏部尚書・咸陽王師とされ、太子が立てられると太子少傅とされた。娘が帝の夫人となった。

┃職員令
 乙巳(6月26日)、北魏の孝文帝が詔を下して言った。
「昔、周は六職(天地春夏秋冬官)を置き、漢晋は九列(九卿)を設け、その職務は常に一定していて、人はその職掌を守って行動したものだった。今、我が朝は百官が置かれているとはいえ、その職掌についてはまだはっきりと定義されていない。そこで朕は官制を整備した(491年)のち、自ら研究を行ない、遠くは古来の制度を参照し、近くは現在の実情を踏まえて《職員令》二十一巻を作ったが、征伐が目前に迫ったことにより、完璧なものにはできなかった。ただ、永久の規範とするには不充分ではあるにしても、当面の問題を解決するには充分である。よって、不備の箇所については征伐から帰還したのち改めて議論する事とし、取り敢えず施行してみる事とする。何か問題が起こった場合は随時報告せよ。朕がその不備の箇所を直して改めて交付する。」

○魏孝文紀
 六月…乙巳,詔曰:「六職備于周經,九列炳於漢晉,務必有恒,人守其職。比百秩雖陳,事典未敍。自八元樹位,躬加省覽,遠依往籍,近採時宜,作職員令二十一卷。事迫戎期,未善周悉。雖不足綱範萬度,永垂不朽,且可釋滯目前,釐整時務。須待軍回,更論所闕,權可付外施行。其有當局所疑而令文不載者,隨事以聞,當更附之。」

┃立太子
 また、皇子の拓跋恂を皇太子とした。
 恂(生年483、時に12歳)は字を元道といい、林皇后の子である。皇后が『子貴母死』の制度によって殺されると、馮太后が常に傍に置いて養育した。四歲の時(486年6月)、太后自らが考えた恂の名と元道の字を与えられ、同時に大赦が行なわれた。

 戊申(6月29日)、高句麗の朝貢の使者が北魏に到着した。

 秋、7月、癸丑(5日)、皇太子を立てた事を以て、人民のうち跡継ぎの者に爵位(二十等爵)を一級上げて公士(一級)とした。また、かつて属吏だった者に爵位を二級上げて上造(二級)とした。また、自活能力の無い、妻を亡くした男・夫を亡くした女・親を亡くした子ども・子の無い老人に粟五斛を与えた。

○魏孝文紀
 立皇子恂為皇太子。戊申,高麗國遣使朝獻。秋七月癸丑,以皇太子立,詔賜民為人後者爵一級,為公士;曾為吏屬者爵二級,為上造;鰥寡孤獨不能自存者,人粟五斛。
○魏22廃太子庶人恂伝
 廢太子庶人恂,字元道。生而母死,文明太后撫視之,常置左右。年四歲,太皇太后親為立名恂,字元道,於是大赦。太和十七年七月癸丑,立恂為皇太子。

┃江淮疲弊
 丁巳(7月9日)、南斉の武帝が詔を下して言った。
「近頃、強風や洪水の被害によって自活できなくなった長江沿岸の住民が多く土地を離れて流民となっている。彼らの中には病人や子の無い老人、幼い子どもなどもいるだろう。朕は彼らのことを思うといよいよ憐れみの感情を覚える。よって今、中書舍人を派遣して救済を行なわせる。」
 また、詔を下して言った。
「洪水や旱魃によって農作物に甚大な被害が出ている。長江・淮水に挟まれた地域の倉庫には備蓄が全く無く、〔飢えた人民が〕次々と盗賊となって野に満ち溢れ、互いに略奪し合い、〔討伐に遭っても〕山湖の険に拠って逃げおおせてしまっている。そこで今、南兗・兗・豫・司・徐(北徐州)五州と南豫州の歴陽・譙・臨江・廬江四郡(全て江北)の〔今年の〕三調(調粟〈租〉・調帛〈調〉・雑調〈庸〉)とこれまでの借金(または延滞している三調?)を全て免除することにする。また、淮水一帯と青・冀二州に新しく入ってきた避難民のうち、免税期間が終わっている者に五年の延長を許す。」


○南斉武帝紀
 秋七月丁巳,詔曰:「頃風水為災,二岸居民,多離其患。加以貧病六疾,孤老稚弱,彌足矜念。遣中書舍人履行沾卹。」又詔曰:「水旱為災,實傷農稼。江淮之閒,倉廩既虛,遂草竊充斥,互相侵奪,依阻山湖,成此逋逃。曲赦南兖、兖、豫、司、徐五州,南豫州之歷陽、譙、臨江、廬江四郡三調,眾逋宿債,並同原除。其緣淮及青、冀新附僑民,復除已訖,更申五年。」

┃宣戦布告
 戊午(7月10日)、北魏が南斉征伐を全人民に通達すると共に、南斉に宣戦布告し、全土に戒厳令を発した。
 南斉は揚州(建康)・徐州(北徐州〈鍾離〉?)に広く募兵を行なって北魏の侵攻に備えた。

○資治通鑑
 秋,七月,…戊午,魏中外戒嚴,發露布及移書,稱當南伐【用兵尚神密。魏主今露其事以布告四方,故亦日露布;移書,則移書於齊境也】。詔發揚、徐州民丁,廣設召募以備之。
○魏孝文紀
 秋七月…戊午,中外戒嚴。
○南斉57魏虜伝
 十一年,遣露布并上書,稱當南寇。世祖發揚、徐州民丁,廣設召募。

┃気位高き才子・王融
 南斉の中書郎の王融は超名門の琅邪王氏の出で、速筆で、どんなに突然な命であっても即座に書き上げることができた。融は才能と門地(家柄)が他者より優れていると自負しており、三十歳になるまでに宰相になる野望を抱いていた(融、このとき27歳)。
 初め、竟陵王司徒法曹参軍となった時、〔同じ一族で太子中舍人の〕王僧祐の屋敷を訪れた。その際、〔侍中の〕沈昭略と初めて出会った。昭略はちらちら融の方を見、主人の僧祐にこう言った。
「この少年は誰でしょうか?」
 融は非常に不満を抱き、こう言った。
「僕は扶桑(伝説上の太陽が昇る所)より昇り、湯谷(伝説上の太陽が没する所)に入り、天下をあまねく照らす、〔太陽の如く〕誰もが知る存在です。卿は何故そのような事を聞くのですか?」
 昭略は言った。
「それは知らなかった。まあ、一緒にアサリでも食おう。」
 融は言った。
「『物は群を以て分かち、方は類を以て聚まる』(《易経》。類は友を呼ぶ)とか。君長(天子)が東隅(建康)に住んでいると、自然にこのような者(俗物)を好むようになるのですな(或いは臣下はこのような物〈アサリ〉を好むようになるのですな)。」
 その気位の高さはこの様だった。
 ある夜、中書省に宿直した際、机を撫でさすって嘆息して言った。
「このような閑職にいては、鄧禹に笑われるぞ!」[1]
 ある時、朱雀航(建康近南に流れる秦淮河にある浮橋)が〔朝になって?〕通行可能になると、人々が殺到して渋滞し、融は車内で足止めを余儀なくされた。すると融は車の壁を叩いて嘆息して言った。
「車中には七尺の男子がおらず、車前には八人の先払いの者[2]がおらず、これでどうして大丈夫と言えようか!」

 竟陵王子良はその文才と学識を愛し、特別待遇で接した。融はその権勢に加え、賓客を手厚くもてなしたので、文武官が次々とそのもとに集まった。
 融は武帝に北伐の志があるのを見抜くと、しばしば上書して実行を勧め、来たる日に備えて騎・射の訓練に励んだ。
 現在、北魏軍が動くと、〔司徒・侍中・中書監・揚州刺史の〕子良は東府(揚州刺史の治所。建康の東南)にて募兵を行ない、融に板授(諸王大臣が配下に仮に官を与える行為[3]して寧朔将軍・軍主とし、これを取り仕切らせた。融は江西(江州一帯)に住む傖楚(もと楚の地に住む粗野な者たち)数百人を集めた。彼らはみな武に秀でた者たちばかりだった。

○資治通鑑
 中書郎王融,自恃人地【王融有俊才,故以人身自高;且王弘曾孫,故以門地自高】,三十內望為公輔。嘗夜直省中,撫案歎曰:「為爾寂寂【爾,如此也。寂寂,言冷寞也】,鄧禹笑人!」【鄧禹年二十四為漢司徒,融年巳過之, 故云然。】行逢朱雀桁開,喧湫不得進【朱雀桁當建康朱雀門,跨秦淮南北岸以渡行人,大路所由也。桁開則行者填咽。湫,子小翻,隘也】,搥車壁歎曰:「車前無八騶,何得稱丈夫!」【車前有油壁。自晉以來,諸公、諸從公車前給騶八人】竟陵王子良愛其文學,特親厚之。融見上有北伐之志,數上書獎勸【獎者,推助以成其事】,因大習騎射。及魏將入寇,子良於東府募兵,板融寧朔將軍【宋泰始初,南攻義嘉,軍功者衆,板不能供,始用黃紙。今板授融,蓋重於黃紙也。或曰:未經敕用者謂之板授】,使典其事。融傾意招納,得江西傖楚數百人,並有幹用。
○南斉47・南21王融伝
 融自恃人地,三十內望為公輔。〔初為司徒法曹,詣王僧祐,因遇沈昭略,未相識。昭略屢顧盼,謂主人曰:「是何年少?」融殊不平,謂曰:「僕出於扶桑,入於湯谷,照耀天下,誰云不知,而卿此問?」昭略云:「不知許事,且食蛤蜊。」融曰:「物以羣分,方以類聚,君長東隅,居然應嗜此族。」其高自標置如此。〕直中書省(及為中書郎),夜〔撫案〕歎曰:「〔為爾寂寂,〕鄧禹笑人。」行逢(遇)大[舟+行](朱雀桁)開,喧湫不得進(路人填塞)。又〔搥車壁〕歎曰:「〔車中乃可無七尺,〕車前無八騶卒,何得稱為丈夫!」會虜(魏軍)動,竟陵王子良於東府募人,板融寧朔將軍、軍主。融文辭辯捷(捷速),尤善倉卒屬綴,有所造作,援筆可待。子良特相友好,情分殊常。晚節大習騎馬。才地既華,兼藉子良之勢,傾意賓客,勞問周款,文武翕習輻湊之。招集江西傖楚數百人,竝有幹用。〔融特為謀主。〕

 ⑴王融…字は元長。生年467、時に27歳。超名門の琅邪王氏の出。祖父は劉宋の中書令で458年に獄死した王僧達。父は廬陵内史の王道琰。母は臨川太守の謝恵宣の娘。母に教育を受けた。若年の頃から聡明で、博識で文才があった。南斉に仕えて中書郎とされた。
 [1]後漢の〔建国の功臣の〕鄧禹は二十四歳の時(25年)に大司徒とされた。王融の年齢はその年齢をとうに過ぎていたので、この言葉を漏らしたのである。
 ⑵七尺の男子…《礼記》曰く、『天子之堂九尺,諸侯七尺,大夫五尺,士三尺』《白虎通徳論》曰く、『天子蓍(筮竹)長九尺,諸侯七尺,大夫五尺,士三尺』とあり、この七尺だとすると諸侯という意味になる。《後漢書》輿服志曰く、『公、侯、將軍紫綬,二采,紫白,淳紫圭,長丈七尺』『九卿、中二千石、二千石青綬,三采,青白紅,淳青圭,長丈七尺』とあり、この七尺だとすると公侯・九卿・中二千石・二千石という意味になる。単に王融の身長が七尺無いだけなのかもしれない(身長の記載は無し)。
 [2]八人の先払いの者…晋以降、諸公・諸従公(公と品秩が同格な者)には車前に八人の先払いの者が与えられた。
 ⑶竟陵王子良…蕭子良。字は雲英。生年460、時に34歳。武帝の次子。母は穆皇后で、太子長懋の同母弟。才能と学識に優れ、才能のある者を礼遇した。高潔な性格で、熱心な仏教信者。482年、武帝が即位すると竟陵王・南徐州刺史とされた。483年、侍中・南兗州刺史とされた。484年、護軍将軍・兼司徒とされ、西州城に住んだ。487年、正司徒とされた。鶏籠山に居を移し、《四部要略》を編纂するなど大いに文化事業を行ない、そのサロンには『竟陵八友』と呼ばれる著名な文人貴族たちが集まった。492年、揚州刺史・中書監とされた。493年⑵参照。
 [3]板授…劉宋の泰始(465~471)の初めに明帝が義嘉帝(晋安王子勲)を攻めた際、軍功を立てた者が非常に多かったため、任命書として使用していた板が足りなくなり、代わりに初めて黄紙を用いるようになった。今、融に板を任命書に用いて授けたのは、黄紙より板の方が格式が高いと考えていたからであろう。或いは曰く、『未だ帝の了解を得ずに官を与えることを板授という』。

┃武帝病臥
 この月(7月、南斉の武帝が病気に罹った。帝は輿に乗って延昌殿に移ったが、階段を登った途端に建物から音が鳴り響いた。帝はこれを不吉に感じた。
 帝は〔次子の〕竟陵王子良に兵士を率いて延昌殿に入り、看病をするよう命じた。子良は臨湘県侯の蕭懿、懿の弟の蕭衍王融劉絵王思遠顧暠之范雲らを帳内軍主とした。
 子良が僧侶に宮殿の戸前にて〔快癒祈願のために〕読経をさせると、帝はこれに感応したのか、夢に優曇鉢の花(優曇波羅華。ウドゥンバラ・プシュパ。三千年に一度咲くという仏教の想像上の花)を見た。子良はそこで仏典を読んで優曇鉢華がどのような形をしているか調べたのち、〔少府(宮中の諸物・衣服宝貨珍膳の類を司る)に属する〕御府局に銅を以て花を作らせ、それを帝の寝台の四隅に挿した。子良は常に殿中にいたのに対し、〔後継者の〕太孫昭業は一日おきにしか会うことを許されなかった。
 また、〔左中郎将(侍従武官。中領軍に隷属し、宮城の守備に当たった)・後軍将軍・南蘭陵太守の〕蕭諶を傍に置いて警護させた。
 
 戊辰(20日)、北魏の侵攻に対処するため、江州(柴桑)刺史の陳顕達に雍州(襄陽)の樊城(襄陽が漢水の南岸にあり、樊城は北岸にある)を鎮守させた。
 帝は人心の動揺を危惧し、病を押して楽府による正声伎[1]の演奏を聴いた。

 顧暠之は字を士明といい、若くして父を亡くした。勉学を好み、節義のある行ないをした。初め秀才に挙げられ、府の属官を数々務めた。永明(483~493)の末に太子中舍人・兼尚書左丞とされた。王思遠と仲が良かった。

○資治通鑑
 會上不豫,詔子良甲仗人延昌殿侍醫藥;子良以蕭衍、范雲等皆為帳內軍主。戊辰,遣江州刺史陳顯達鎮樊城。上慮朝野憂遑,力疾召樂府奏正聲伎【江左以清商為正聲伎】。子良日夜在內,太孫間日參承【間曰,隔一日也。參,候也。承,奉也】。
○南斉武帝紀
 是月,上不豫,徙御延昌殿,乘輿始登階,而殿屋鳴咤,上惡之。虜侵邊,戊辰,遣江州刺史陳顯達鎮雍州樊城。上慮朝野憂惶,乃力疾召樂府奏正聲伎。
○南斉26陳顕達伝
 十一年秋,虜動,詔屯樊城。
○南斉40竟陵文宣王子良伝
 世祖不豫,詔子良甲仗入延昌殿侍醫藥。子良啟進沙門於殿戶前誦經,世祖為感夢見優曇鉢華,子良按佛經宣旨使御府以銅為華,插御床四角。日夜在殿內,太孫閒日入參承。
◯南斉42蕭諶伝
 轉左中郎將,後軍將軍,太守如故。世祖臥疾延昌殿,敕諶在左右宿直。
○南斉43顧暠之伝
 暠之字士明。少孤,好學有義行。初舉秀才,歷宦府閤。永明末,為太子中舍人,兼尚書左丞。

 ⑴劉絵…字は士章。生年458、時に36歳。名門の彭城劉氏の出。劉宋の名将の劉勔の子で、太常の劉悛の弟。聡明で文才があり、速筆・達筆だった。父の大量の食客に対し流暢に談論した。初任は著作郎。蕭道成(のちの南斉の高帝)の太尉行参軍となると、道成に「劉公は死んでいなかったか」と絶賛された。主簿・参軍→南康相→中書郎とされた。竟陵王西邸に集った文人たちの若手の領袖と目された。
 ⑵王思遠…超名門の琅邪王氏の出。尚書令の王晏の従弟。八歳の時に父を亡くした。主簿や参軍を務めたのち、太子中舍人とされた。太子長懋と竟陵王子良から才能を認められた。のち建安内史→中書郎とされた。492年、邵陵王子貞が呉郡太守とされると呉郡丞・行郡事とされた。のち黄門郎とされた。
 ⑶范雲…字は彦龍。生年451、時に43歳。東晋の徐兗二州刺史の范汪の六世孫。竟陵八友の一人。文才に優れ、八歳にして即座に詩を作ることができた。人生で一度も下書きをした事が無かった。殷琰に「公輔(宰相)の才」があると評された。劉宋に仕えて郢州西曹書佐→法曹行参軍とされた。477年、沈攸之が郢州城を包囲した際捕らえられ、城内に書簡を送るよう命じられた。南斉が建国され、竟陵王子良が会稽太守とされるとこれに随行した。篆書体で書かれた秦の刻石文を唯一読む事ができた事から子良に才能を認められ、王府一の重遇を得るに至った。492年、北魏への使者とされた。帰ると零陵内史とされ、清廉・簡素な政治を行なった。
 ⑷太孫昭業…蕭昭業。字は元尚。生年473、時に21歳。南斉の二代武帝の孫で、太子長懋の長子。母は王宝明。幼名は法身。482年、南郡王とされた。484年、何婧英を妃とした。容姿端正・頭脳明晰で、書を得意とし、立ち居振る舞いや話しぶりも立派で、武帝に特に可愛がられた。また、人の筆跡を真似るのを得意とした。叔父の竟陵王子良の家に預けられ、その妻の袁妃の養育を受けた。約二十人の不良少年たちと生活を共にし、密かに金持ちのもとに行っては金品を巻き上げたり、営署(軍の慰安婦がいる施設)に赴いて淫行をしたり酒を飲んだりして楽しんだ。493年、父の太子長懋が亡くなると皇太孫とされた。493年⑵参照。
 ⑸蕭諶…字は彦孚。南蘭陵の人。祖父は員外郎の蕭道清。父は桂陽国参軍の蕭仙伯。蕭道成に遠縁の一族と認定され、蕭賾のもとに派遣されて腹心とされた。賾が太子とされると宿衛を任された。賾が即位して武帝となると步兵校尉・南蘭陵太守・領御仗主とされ、齋(私室)内の護衛兵を全て託され、重要案件について常に関与する事を許された。のち左中郎将・後軍将軍とされ、南蘭陵太守とされた。
 ⑹陳顕達…生年427、時に67歳。南彭城の人。南斉の名将の一人。非常に控えめな性格で、栄達したのちも謙虚に振る舞った。劉宋の孝武帝の代に張永の前軍幢主とされ、以降多くの武功を挙げ、羽林監や濮陽太守とされた。474年に桂陽王休範が叛乱を起こすと蕭道成の指揮のもとこれを討伐し、その余党を杜姥宅付近にて大破した。この際、左目に矢が当たった。のち広州刺史とされ、477年に荊州刺史の沈攸之が挙兵すると道成に忠誠を貫いて援軍を派遣し、攸之の敗滅に貢献した。のち左衛将軍とされ、479年、南斉が建国されると中護軍とされた。480年、護軍将軍とされ、北魏が豫州に侵攻してくると南兗州刺史とされた。481年、益州刺史とされた。484年、侍中・護軍将軍とされた。487年、雍州にて桓天生が乱を起こすと雍州刺史とされてこれを討伐した。490年、侍中・鎮軍大将軍とされ、492年、領中領軍とされた。493年、征南大将軍・江州刺史とされた。493年⑴参照。
 [1]正声伎…江東では清商楽(中原伝統の音楽)を正声伎と呼んだ。

┃蕭懿の登場

 蕭懿は字を元達といい、丹陽尹・臨湘県侯の蕭順之の長子である。若年の頃からを令名を馳せた。出仕して安南邵陵王行参軍とされ、のち臨湘県侯の爵位を継いだ。のち太子舍人・洗馬・建安王友を歴任した。のち晋陵(建康と呉郡の中間)太守とされると良く訴訟を取り裁き、善政を行なって一月も経たずに州内をまとめ上げた。のち中書侍郎とされた。

○梁・南史梁武帝紀
 道賜生皇考諱順之,齊高帝族弟也。參預佐命,封臨湘縣侯。歷官侍中,衞尉,太子詹事,領軍將軍,丹陽尹,贈鎮北將軍。
○梁23長沙宣武王懿伝
〔文帝十男:張皇后生長沙宣武王懿…〕懿,字元達,〔文帝長子也。〕少有令譽。解褐齊安南邵陵王行參軍,襲爵臨湘縣侯。遷太子舍人、洗馬、建安王友。出為晉陵太守,曾未朞月,訟理人和,稱為善政。入為中書侍郎。

 ⑴蕭順之…字は文緯。蕭道成(南斉の高帝)の族弟で幼馴染み。道成が戦いに出るたび副将とされた。北討の際、道成が刺客に寝込みを襲われると手ずからこれを斬った。のち道成の鎮軍司馬・長史とされた。道成が劉宋の後廃帝を恐れて地方に出ようとするとこれを諌止した。のち黄門郎・安西長史・呉郡内史を務めた。477年、袁粲が石頭に拠って道成を討とうとした時、家兵を率いて朱雀橋を守備した。南斉が建国されると衛尉・臨湘県侯とされた。武帝が即位すると警戒を受け、宰相とされなかった。482年、豫州刺史とされた。のち太子詹事とされ、485年、領軍将軍とされた。のち丹陽尹とされた。490年、帝の第四子で荊州刺史の巴東王子響の乱を平定し、太子長懋の命により子響を殺害した。のち帝が子響の死を嘆き悲しむと不安を覚え、 憂死した。

┃蕭衍の登場

 蕭衍は字を叔達、幼名を練児といい、南蘭陵(呉郡の西北)中都里の人で、前漢の相国の蕭何の後裔である(眉唾)。劉宋の孝武帝の大明八年(464)甲辰の歲に秣陵県同夏里の三橋宅にて生まれた。母は張尚柔
 尚柔は范陽方城の人で、〔西晋の司空の張華の七世孫で〕ある。祖父の張次恵は劉宋の濮陽太守で、父の張穆之は劉宋の交阯太守。母は蕭順之の従姑(父のいとこの娘。いとこおば)の蕭氏
 劉宋の元嘉年間(424~453)に順之に嫁ぎ、蕭懿・蕭敷・蕭衍を産んだ。衍を妊娠した時、太陽を抱きかかえる夢を見た。のち、妊娠中に室内にいた時、突然庭にある昌蒲からとてもこの世のものとは思われぬ光り輝く花が咲いたのを見た。尚柔は驚いて近侍の人々にこう言った。
「あの花を見ましたか?」
 人々は答えて言った。
「見ていません。」
 尚柔は言った。
「昔聞いたことがあります。これを見た者はきっと富貴になると。」
 かくて急いで花を取って飲み込んだ(!?)。その月中に蕭衍を産んだ。出産の前夜、尚柔は庭に朝士たちが居並んでいるように見えた。
 のち、更に蕭暢・蕭令嫕エイ)を産んだ。劉宋の泰始七年(471)に秣陵県同夏里の屋敷にて亡くなり、武進県(呉郡の西北。南蘭陵)の東城里山に埋葬された。

 衍は体から不思議な光を発し、特異な外見をしていて、額の中央が太陽のように丸く隆起し(日角)、眉骨が龍のように隆起し(龍顔。眼窩上隆起。類人猿のような眉骨の盛り上がり)、重岳虎顧(日角龍顔に対応する表現?これも骨相の特徴なのかもしれないがよく分からない。険しい顔つき・目つき?)、舌には『八』の字があり、うなじには光が浮き出、太陽に照らされても影が出ず、骨盤の寛骨は二重になっており、頂上(頭のてっぺん?)は隆起し、右手に『武』の字があった。

●日角

 衍は子どもの時、〔風に乗って〕空を歩く事ができた。長じると広く種々の学問に通じ、はかりごとをめぐらすのを好む、文武両道の青年となり、当時の名士たち全員から才能を認められ称賛された。部屋にいる時は常に雲気が立ち込め、これに触れた者は自然と体が引き締まった。
 出仕して巴陵王(子倫)南中郎法曹行参軍とされ(489年に子倫は南中郎将とされた)、のち衛将軍〔・尚書令〕の王倹の東閤祭酒とされた(王倹が衛将軍とされたのは483年、亡くなったのが489年)。倹はひとたび衍に会うとその才能を見抜き、奏請して戸曹属とした。また、廬江の何憲にこう言った。
「この蕭家の若者はきっと三十になるまでに侍中となり、三十を越えたのちは口に出すのも憚られるほどの高貴な身分となるだろう。」
〔司徒の〕竟陵王子良が西邸(鶏籠山邸)を開き(487年)、文才・学識に優れた者を招くと、衍は沈約・謝朓・王融・蕭琛・范雲・任昉・陸倕(11)らと交遊し、『竟陵八友』と並び称された。王融は非常に才知に長け、抜群の鑑識眼を持っていた。融は衍〔の才能を見抜いて〕敬意を払い、親しい者にこう言った。
「天下を治めるのはきっとこの人であろう。」
 のち、隨王(子隆。益州刺史〈490~〉)鎮西諮議参軍とされた。〔益州に赴くため〕牛渚(建康の西南。南豫州の近北)を通過した時、強風に遭って〔やむなく〕龍瀆に停泊した。この時、一人の老人が衍にこう言った。
「貴君の立ち居振る舞いは龍虎の如く非凡であり、相貌も口に出すのも憚られるほど素晴らしいものがある。天下が乱れた時、これを安んずる者は貴君ではなかろうか?」
 衍が老人の姓名を問うと、老人は忽然と姿を消してしまった。
 間もなく父の蕭順之が亡くなると職を去り、建康に帰還した。

 蕭敷は字を仲達といい、蕭順之の第二子である。若年の頃から学問を良く修めた。出仕して後軍征虜行参軍とされ、のち太子舍人・洗馬・丹陽尹丞を歴任した。のち中央に戻って太子中舍人とされ、のち建威将軍・隨郡(襄陽の東)内史とされた。このとき〔多くの生活支援策を打ち出して〕遠近の人々を招き懐けた。州民はその統治を大いに支持し、前後に比肩するものが無いほどの政治を行なったと絶賛した。

 蕭暢は蕭順之の第四子である。良い評判があった。

 蕭令嫕蕭順之の長女であり、〔超名門の琅邪王氏の出の〕王琳字は孝璋。梁末の群雄の王琳とは別人)に嫁いだ。

○梁・南史梁武帝紀
 高祖武皇帝諱衍,字叔達,小字練兒,南蘭陵中都里人,漢相國何之後也。…高祖以宋孝武大明八年甲辰歲生于秣陵縣同夏里三橋宅。〔初,皇妣張氏嘗夢抱日,已而有娠,遂產帝。〕生而有奇異,〔有異光,狀貌殊特,日角龍顏,重岳虎顧,舌文八字,項有浮光,身映日無影,〕兩骻駢骨,頂上隆起,有文在右手曰「武」。帝〔為兒時,能蹈空而行。〕及長,博學多通,好籌略,有文武才幹,時流名輩咸推許焉。所居室常若雲氣,人或過(遇)者,體輒肅然。
 起家巴陵王南中郎法曹行參軍,遷衞將軍王儉東閤祭酒。儉一見深相器異〔,請為戶曹屬〕,謂廬江何憲曰:「此蕭郎三十內當作侍中,出此則貴不可言。」竟陵王子良開西邸,招文學,高祖與沈約、謝朓、王融、蕭琛、范雲、任昉、陸倕等並遊焉,號曰八友。融俊爽,識鑒過人,尤敬異高祖。每謂所親曰:「宰制天下,必在此人。」累遷隨王鎮西諮議參軍,〔行經牛渚,逢風,入泊龍瀆,有一老人謂帝曰:「君龍行虎步,相不可言,天下方亂,安之者其在君乎?」問其名氏,忽然不見。〕尋以皇考艱去職〔,歸建鄴〕。
〔及齊武帝不豫,竟陵王子良以帝及兄懿、王融、劉繪、王思遠、顧暠之、范雲等為帳內軍主。〕融欲因帝晏駕立子良,帝曰:「夫立非常之事,必待非常之人,融才非負圖,視其敗也。」范雲曰:「憂國家者,惟有王中書。」帝曰:「憂國欲為周、召?欲為豎、刁邪?」懿曰:「直哉史魚,何其木強也!」〕
○梁書7太祖献皇后張氏伝
 太祖獻皇后張氏諱尚柔,范陽方城人也。祖次惠,宋濮陽太守。〔父穆之。〕后母蕭氏,即文帝從姑。后,宋元嘉中嬪於文帝,生長沙宣武王懿、永陽昭王敷,次生高祖。初(方孕),后嘗於室內,忽見庭前昌蒲生花,光彩照灼,非世中所有。后驚視,謂侍者曰:「汝見不?」〔皆〕對曰:「不見。」后曰:「嘗(常)聞見〔昌蒲花〕者當富貴。」因遽取吞之。是月產高祖。將產之夜(夕),后見庭內若有衣冠陪列焉。次生衡陽宣王暢、義興昭長公主令嫕。宋泰始七年,殂于秣陵縣同夏里舍,葬武進縣東城里山。
○梁23永陽昭王敷伝
 敷字仲達,〔文帝第二子也。少有學業,〕解褐齊後軍征虜行參軍,轉太子舍人,洗馬,遷丹陽尹丞。入為太子中舍人,除建威將軍、隨郡內史。招懷遠近,黎庶安之,以為前後之政莫之及也。
○梁王琳伝
 長子琳,字孝璋,舉南徐州秀才,釋褐征虜建安王法曹,司徒東閤祭酒,南平王文學。尚義興公主。
○陳17王通伝
 王通字公達,琅邪臨沂人也。祖份,梁左光祿大夫。父琳,司徒左長史。琳,齊代娶梁武帝妹義興長公主,有子九人,竝知名。
○南51衡陽宣王暢伝
 衡陽宣王暢,文帝第四子也。有美名。

 ⑴秣陵県…《読史方輿紀要》曰く、『西晋が孫呉を平定した際、建業県は秣陵県に改められ、太康三年(282)、〔秦淮〕水の北に再び建業県を置いて丹陽郡の治所とした。建興(313~317)の初めに〔司馬鄴が即位すると諱を避けて〕建康県に改めた。宋白曰く、「西晋は秣陵県を二つの邑(行政区画。《尚書》曰く、「五里を邑とし、十邑を都する」)に分割し、〔秦〕淮水の南を秣陵、北を建業とした。」』
 ⑵同夏里…《読史方輿紀要》曰く、『同夏廃県は上元県(建康)の東十五里にある。梁の武帝は同夏里にて生まれ、大同年間に県を置いた。陳もこれを踏襲したが、隋代に廃された。』
 ⑶文武両道…南史羊侃伝に「朕(蕭衍)は若いとき矟(長矛)の使い手だった」とある。
 ⑷王倹…字は仲宝。452~489。超名門の琅琊王氏の出。父は金紫光禄大夫の王僧綽。父が453年に太子劉劭の廃立に関わって逆襲を受け殺されると、叔父の王僧虔に引き取られて育てられた。優れた風采を有し、大の勉強家だった。明帝の娘の陽羨公主を娶った。出仕して秘書郎とされ、のち飛び級して秘書丞とされた。劉歆の《七略》の分類法を参考に図書目録《七志》(経典志・諸子志・図譜志・文翰志・軍書志・陰陽志)四十巻を著した。また、《元徽四部書目》も著した。のち吏部郎とされた。のち蕭道成の天下取りを助け、478年、道成が太尉とされると右長史→左長史とされた。479年に斉国が建てられると28歳の若さで斉国右僕射・領吏部とされ、南斉が建国されると480年に左僕射・領吏部とされた。482年、尚書令とされた。484年に領国子祭酒、485年に更に領太子少傅とされた。489年、中書監とされた。
 ⑸何憲…字は子思。名門の廬江何氏の出。広く種々の学問に通じ、世の書物を全て読破した。孔逷・王倹と共に三公と並び称された。
 ⑹蕭衍は37歳で侍中となり、39歳で皇帝になったので、前者の予言は外れることになった。30前は諮議参軍止まり。
 ⑺沈約…字は休文。441~513。時に53歳。名門の呉興沈氏の出。《宋書》の編纂者。『竟陵八友』の一人。父は劉宋の淮南太守の沈璞。453年に父が孝武帝に誅殺されると逃げ隠れ、赦されたのちも貧しい生活を強いられたが、めげずに勉学に打ち込み、体を壊すことを恐れた母に明かりを消されると昼に読書し、夜は内容を思い出して暗誦し、遂に多くの書物の内容に通暁するようになり、文才にも優れるようになった。初任は奉朝請。太子長懋に非常に気に入られて太子家令とされ、のち黄門侍郎・兼尚書左丞→御史中丞→車騎長史とされた。
 ⑻謝朓…字は玄暉。464~499。時に30歳。名門の陳郡謝氏の出。『竟陵八友』の一人。若年の頃より学問を好み、清らかで綺麗な詩文を作った。出仕して豫章王太尉行参軍とされ、のち隨王鎮西功曹→文学とされ、隨郡王子隆に非常に気に入られた。のち新安王中軍記室・兼尚書殿中郎とされた。
 ⑼蕭琛…字は彦瑜。480(470?)~531。時に14歳(24歳?)。蘭陵の人。『竟陵八友』の一人。若年の頃から聡明で、弁才に優れた。出仕して太学博士とされた。年少の時に宰相の王倹に自分を売り込みに行き、大いに気に入られて倹が丹陽尹とされると(484~5)主簿とされ、のち司徒記室とされた。491年、北魏への使者とされた。のち兼少府卿・尚書左丞とされた。
 ⑽任昉…字は彦昇。460~508。時に34歳。楽安の人。前漢の御史大夫の任敖の後裔とされる。父は中散大夫の任遥。母は裴氏。『竟陵八友』の一人。身長は七尺五寸(約172cm)。非常な孝行者。幼くして学問を好み、早くから名を知られた。文才に優れ、速筆だった。16歳の時に劉宋の丹陽尹の劉秉の主簿とされた。のち奉朝請とされ、484年、王倹が丹陽尹とされると主簿とされた。倹に比肩する者が無いほどの厚遇を受けた。のち太子步兵校尉・管東宮書記とされた。
 (11)陸倕…字は佐公。470~526。時に24歳。名門の呉郡陸氏の出。父は太常卿の陸慧曉。『竟陵八友』の一人。文才に優れた。家の敷地内に二間のあばら家を建ててそこに数年缶詰めになって勉学に励んだ。人から《漢書》を借りた際、五行志四巻を紛失してしまったが、内容を思い出して白紙に書き写して返し、殆ど誤字脱字が無かった。十七歳の時に秀才に挙げられた。揚州刺史の竟陵王子良が西邸を開いて英俊を招いた際、それに預かった。のち議曹従事参軍・廬陵王法曹行参軍とされた。


 493年⑷に続く