[北魏:太和十七年 南斉:永明十一年]


┃皇太孫昭業
 夏、4月癸未(3日)、北魏の使者が南斉に到着した(正月14日に北魏は邢巒と劉承叔を南斉に派遣していた)。
 甲午(14日)、南斉が南郡王昭業を皇太孫とし、東宮に住まわせた(去年の正月に太子長懋が亡くなったためである)。


 昭業(生年473、時に21歳)は字を元尚といい、太子長懋の長子である。母は王宝明。幼名は法身。
 曾祖父の高帝が劉宋の相国・斉王として東府を鎮守していた時、五歲(477年の昭業は帝の牀(座具・寝具。ベッドのようなもの)の前で遊んだ。この時、帝はちょうど従者に白髪を抜かせていた。帝は昭業に尋ねて言った。
「ぼく、わしを誰だと思うかな?」
 昭業は答えて言った。
「太翁(ひいおじいちゃん)。」
 帝は〔曾孫が自分の事を分かっているのを知ると、曾孫の前で家族でも無い者に自分の白髪を抜かせているのが気恥ずかしくなり、〕笑って従者にこう言った。
「他人のひいじいちゃんの白髪を抜く奴がいるか。」
 かくて〔従者の手から〕鏡と鑷(毛抜き)を取って投げ捨てた。のち、賓客がやってくると、帝は昭業を指差して言った。
「わしの国はこの四世代目まで続くであろう。」

〔祖父の〕武帝が即位すると(482年)南郡王(邑二千戸)とされた。この時十歲だった。永明五年(487)11月戊子(7日)、東宮の崇政()殿で元服式を行なった。その後の宴会で帝は王公以下に差をつけて絹を与え、昭業には介添人二人を与えた。七年(489)、更に班剣(衛兵)二十人と鼓吹(楽隊)一部を与えた。また、昭業のために大規模な学友の選抜を行なうなど、その待遇は諸王とかけ離れていた。今年、更に皁輪三望車(黒い車輪で、三方に窓がある牛車)を与えた。帝は詔を下し、昭業の国官(王の属官)の大規模な選抜を行なった。

 昭業は容姿端正で、書を得意とし、帝に特に可愛がられ、昭業が書いたものは大切に保管し、安易に宮外に流出させないよう命じた。立ち居振る舞いや話しぶりも立派で人々から絶賛を受けた。王侯は五日に一度帝に謁えるのが決まりだったが、帝は事あるごとに昭業を呼んでは帷の中にある自分の席にまでやってこさせ、優しい言葉をかけたり、幼名の法身の方で呼んだりと特別待遇で接した。
 昭業は生まれると叔父の竟陵王子良の家に引き取られ、その妻の袁妃の養育を受けた。子良が西州城(建康の西二里)を鎮守すると(484年)昭業もこれに付いて行ってそこに住んだ。昭業は非常に頭脳明晰で、感情が非常に豊かだった。また、賓客を接待する時は常に配慮が行き届いていた。
 ただ、それらは仮の姿で、本性は卑劣・邪悪だった。昭業は約二十人の不良少年たちと生活を共にして一緒に寝起きし、密かに金持ちのもとに行っては金品を巻き上げたりしたが、子良の目を気にしておおっぴらに羽目を外す事はできなかった。子良が西邸(鶏籠山邸)に移ると(487年)タガがはずれ、夜な夜な後堂の門を開けては、不良たちと共に営署(軍の慰安婦がいる施設)に赴き、淫行をしたり酒を飲んだりして楽しむようになった。
 また、周囲の取り巻きたちに前もって官爵を与え、その名号を黄牋紙(黄色のメモ用紙。古代中国の公文書の紙の色が黄色だったという)に一つ一つ書いて記録しておき、取り巻きたちにその紙を袋に入れて携帯させ、即位した暁にはすぐその官爵を授ける事を約束した。
 また、門の錠前の鍵を偽造して錠前を外し、封題(封印紙。字が書かれており、一度破ると同じ物を複製するのは困難なため、抑止になる)を破って門の閂を取って秘密裏に外出したのち、人の筆跡を真似るのが得意なのを活かして封題を複製して元の状態に戻したため、外出を誰にも気づかれなかった。
 昭業の師の史仁祖と侍書の胡天翼は昭業の不行状を聞くと相談して言った。
「この事を二宮(皇帝と太子)に報告するのは容易な事では無い〔し(監督不行届で責められるから? 或いは昭業の報復が怖いから?)、秘密にしたとしても〕いずれ皇孫が営署にて誰かに殴られたり、犬に噛まれたりするような事態になったら、我ら自身だけでなく、家族全員にも処刑が及ぼう。〔報告するのも秘密にするのも駄目なら、自殺するほかない。〕我らはとうに七十の坂を越えているのだから、これ以上生に執着はせぬ。」
 数日後、二人は相次いで自殺したが、二宮は〔その原因が〕分からなかった。武帝は暨陽県の寒人で給事中の綦母珍之を仁祖の、剡県の寒人の馬澄を天翼の後任とした。
 昭業が南郡王とされた(482年)のち、父の太子長懋は常に昭業を戒め、不良たちと起居を共にするのを禁じたり、使えるお金を制限したりした。昭業は〔不満に思い、大叔父の〕豫章王嶷の妃の庾氏にこう言った。
「おばあちゃん、仏典は『前世で善行を積んだ者が帝王の家に生まれる』と言っているけど、〔本当なのかな。〕ぼくは天王(南郡王)にされてからずっと、帝王の家に生まれる人は前世で大罪を犯した人なんじゃないかと思えて仕方がないよ。何かしたら側仕えの者が捕らえられるし、〔ほんとう窮屈で窮屈で堪らない。〕これなら市場で肉とか酒を売ってる金持ちの子どもに生まれたほうが百倍良かった!」
 長懋が亡くなった際、昭業は霊前に行くたび大声で泣き叫び、見る人に貰い泣きさせずにおかなかったが、自室に帰るとすぐに親しい者と談笑し、酒を飲み旨いものを食べた。
 葬儀が終わると皇太孫とされた。

 帝が詔を下して言った。
『東宮の文武官をみな太孫の属官に遷す。』⑺[1]

○南斉武帝紀
 夏四月壬午,詔「東宮文武臣僚,可悉度為太孫官屬」。〔癸未,魏人來聘。〕甲午,立皇太孫昭業、太孫妃何氏。
○南斉前廃紀
〔廢帝〕鬱林王昭業,字元尚,文惠太子長子也。小名法身。〔高帝為相王,鎮東府,時年五歲,牀前戲。高帝方令左右拔白髮,問之曰:「兒言我誰耶?」答曰:「太翁。」高帝笑謂左右曰:「豈有為人作曾祖而拔白髮者乎。」即擲鏡、鑷。其後問訊,高帝指示賓客曰:「我基於此四世矣。」〕世祖即位,封〔為〕南郡王,二千戶。〔時年十歲。〕永明五年十一月戊子,冠於東宮崇政(正)殿。其日小會,賜王公以下帛各有差,給昭業(南郡王)扶二人。七年,有司奏給班劍二十人,鼓吹一部,高選友、學〔,禮絕羣王〕。十一年,給皁輪三望車。詔高選國官。文惠太子薨,立昭業(南郡王)為皇太孫,居東宮。
 …昭業少美容止,好隸書,〔武帝特所鍾愛,〕世祖勑皇孫手書不得妄出,以貴重之。進對音吐,甚有令譽。王侯五日一問訊,世祖常獨呼昭業至幄座,別加撫問,呼為法身,鍾愛甚重。〔生而為竟陵文宣王所攝養,常在袁妃間。竟陵王移住西州,帝亦隨住焉。性甚辯慧,哀樂過人。接對賓客,皆款曲周至。矯情飾詐,陰懷鄙慝。與左右無賴羣小二十許人共衣食,同臥起。妃何氏擇其中美貌者,皆與交歡。密就富市人求錢,無敢不與。及竟陵王移西邸,帝獨住西州,每夜輒開後堂閤,與諸不逞小人,至諸營署中淫宴。凡諸小人,並逆加爵位,皆疏官名號於黃紙,使各囊盛以帶之,許南面之日,即便施行。又別作籥鉤,兼善效人書,每私出還,輒扃籥,封題如故,故人無知者。師史仁祖、侍書胡天翼聞之,相與謀曰:「若言之二宮,則其事未易,若於營署為異人所毆打,及犬物所傷,豈直罪止一身,亦當盡室及禍。年各已七十,餘生寧足吝邪。」數日中,二人相係自殺,二宮不知也。武帝以暨陽縣寒人給事中綦母珍之代仁祖,剡縣寒人馬澄代天翼。〕為南郡王時,文惠太子〔每〕禁其起居,節其用度,昭業謂豫章王妃庾氏曰:「阿婆,佛法言,有福德生帝王家。今日見作天王,便是大罪,左右主帥,動見拘執,不如作市邊屠酤富兒百倍矣。」文惠皇太子〔自疾及〕薨,昭業每臨哭,輒號咷不自勝(哀容號毀),〔旁人見者,莫不嗚咽。〕俄爾還內(裁還私室),〔即〕歡笑極樂(酣飲),〔備食甘滋〕。〔葬畢,立為皇太孫。〕
○魏98島夷伝
 昭業生而為其叔子良所養。而矯情飾詐,陰懷鄙慝,與左右無賴羣小二十許人共衣食,同臥起。妻何氏擇其中美貌者與交通。密就富商大賈取錢無數。既與子良同居,未得肆意。子良移西邸,昭業獨住西州,每至昏夜,輒開後閤,與諸小人共至諸營署恣淫宴。凡諸不逞,皆迭加爵位,許以南面之日,便即施行,皆疏官位名號於黃牋紙與之,各各囊盛,帶之肘後。昭業師史仁祖、侍書胡天翼聞之,相與謀曰:「若言之二宮,則其事未易,若於營署為異人所毆打,及為犬物所傷殘,豈直罪止一身,亦當盡室及禍。年各已七十餘,生寧足吝也。」數日,仁祖、天翼皆自殺。昭業父長懋自患及死,昭業侍奉憂哀,號毀過禮,及還私室,與所親愛欣笑酣飲,備諸甘滋。葬畢,立為皇太孫。
○南斉50文二王伝
 安皇后生鬱林王昭業。

 ⑴太子長懋…蕭長懋。字は雲喬。幼名は白沢。458~493。南斉の武帝の長子。母は穆皇后。病気がちで、非常に太っていた。482年、父が即位すると皇太子とされた。物腰が柔らかく、仏教を厚く信じ、六疾館を立てて貧しい病人を救済するなどしたが、一方、非常な派手好みで、東宮内の建物や庭園を贅を尽くした物にし、父にばれないように数々の細工を施した。493年⑴参照。
 ⑵高帝…蕭道成。字は紹伯、幼名は闘将。427~482。南斉の初代皇帝で、在位479~482。太鼓腹で、劉宋の後廃帝に鏑矢の的にされた。蛮族討伐や北魏との戦いで功を立て、明帝即位の際の大混乱の平定に大いに貢献し、帝が死ぬと右衛将軍とされた。474年、桂陽王休範の乱を平定して建康を守る大功を挙げ、中領軍・都督南兗徐兗青冀五州軍事とされ、『四貴』の一人となった。476年、左僕射とされた。477年、後廃帝が近侍の者に殺されると順帝を擁立し、驃騎大将軍とされた。間もなく荊州刺史の沈攸之の挙兵に遭ったが翌年平定に成功し、479年、禅譲を受けて南斉を建国した。
 ⑶高帝が劉宋の相国・斉王となったのは479年の事。この時は驃騎大将軍・開府儀同三司。
 ⑷南斉の武帝…蕭賾。字は宣遠。幼名は龍児。生年440、時に54歳。南斉の二代皇帝で、在位482~。初代高帝(蕭道成)の長子。母は劉智容。治世中に大きな戦争を起こさず、『永明の治』と呼ばれる安定した政治を敷いた。493年⑴参照。
 ⑸竟陵王子良…蕭子良。字は雲英。生年460、時に34歳。武帝の次子。母は穆皇后で、太子長懋の同母弟。才能と学識に優れ、才能のある者を礼遇した。高潔な性格で、熱心な仏教信者。482年、武帝が即位すると竟陵王・南徐州刺史とされた。483年、侍中・南兗州刺史とされた。484年、護軍将軍・兼司徒とされ、西州城に住んだ。487年、正司徒とされた。鶏籠山に居を移し、《四部要略》を編纂するなど大いに文化事業を行ない、そのサロンには『竟陵八友』と呼ばれる著名な文人貴族たちが集まった。492年、揚州刺史・中書監とされた。493年⑴参照。
 ⑹豫章王嶷…蕭嶷。字は宣儼。幼名は阿玉。444~492。南斉の高帝の次子。母は昭皇后で、武帝の同母弟。七尺八寸(約191cm)の長身で、優しく上品な性格をしており、帝に特に可愛がられた。474年に桂陽王休範が叛乱を起こすと父の指揮のもとこれを討伐した。478年に荊州刺史の沈攸之の乱が平定されると江州刺史→荊州刺史とされた。479年、南斉が建国されると驃騎大将軍・揚州刺史・豫章王とされ、のち荊湘二州刺史とされた。480年、司空・揚州刺史とされた。帝の死の際には悲しみの余り目と耳から血を流した。武帝が即位すると太尉とされた。高帝の在世中、武帝に代わって太子になりかけた事があったが、武帝の意に一度も逆らう事がなかったため帝に気に入られた。487年、大司馬とされた。492年に死去した。
 ⑺南斉書はこれを『壬午(2日)』としているが、昭業が太孫になったのは甲午である。よって今は通鑑の判断に従った。
 [1]東宮の属官は、文官は太子太傳・少傳・詹事・率更令・家令・僕・門大夫・中庶子・中舍人・庶子・浩馬・舍人、武官は太子左右衛率・翊軍步兵屯騎三校尉・旅賁中郎将・左右積弩将軍・殿中将軍・員外殿中将軍・常従虎賁督がある。
 
┃無寵・王宝明
 また、太子妃の王宝明を皇太孫太妃とした。
 宝明は超名門の琅邪王氏の出で、祖父は呉興太守の王韶之、父は太宰祭酒の王曄之。宋代に蕭賾のちの南斉の武帝)が子の長懋のために選んで縁組みした。〔元徽元年(473)、昭業を産んだ。〕
 桂陽王休範が建康に攻めてくると(474年)、賾は新亭にてこれを迎え撃つと共に、家に伝令を派して〔家族を避難させようとしたが、〕伝令は中途にて戦死してしまい、家族は〔気づくのが遅れ、〕避難する前に襲撃を受けた。長懋は〔同母弟の〕蕭子良のちの南斉の竟陵王)と共に体を張って〔母の〕裴恵昭武帝の正室)・〔叔父の妻の〕庾氏・宝明を護り、宝明の兄の王昺の家まで送り届けた。彼らは戦いが終息するとようやく家から出ることができた。


 建元元年(479)、南斉が建国されると南郡王妃とされ、四年(482)に武帝が即位し長懋が皇太子とされると皇太子妃とされた。
 宝明は長懋に愛されず、側室には新しく綺麗な衣装や首飾りが与えられるのに、〔宝明には与えられなかった。そのため、〕宝明の牀(ベッド)や帷(カーテン)は古いままで、釵鑷(かんざし)も十余本しか持たされなかった。

○南斉20文安王皇后伝
 文安王皇后諱寶明,琅邪臨沂人也。祖韶之,吳興太守。父曄之,太宰祭酒。宋世,太祖為文惠太子納后,桂陽賊至,太祖在新亭,傳言已沒,宅復為人所抄掠,文惠太子、竟陵王子良奉穆后、庾妃及后挺身送后兄昺之家,事平乃出。建元元年,為南郡王妃。四年,為皇太子妃,無寵。太子為宮人製新麗衣裳及首飾,而后牀帷陳設故舊,釵鑷十餘枚。永明十一年,為皇太孫太妃。

┃淫乱・何婧英
 また、南郡王妃の何婧英を皇太孫妃とした。

 婧英は名門の廬江灊(シン、あるいはセン)県何氏の出(劉宋の前廃帝の皇后の何令婉も廬江何氏の出)で、撫軍将軍の何戢の娘である。
 永明二年(484)、〔武帝によって〕昭業の妃候補とされたが、昭業の父の太子長懋はこう言って反対した。
「何家は戢が男子を残さずに亡くなった事で家運が傾いております。そのような所と婚姻を結びたくはありません。」
 この時、〔尚書令・領太子詹事の〕王倹が言った。
「南郡王妃は将来天子の后となる者でありますゆえ、高貴な家の出である事は必須でありますが、〔専横の恐れがありますので、〕有力な家の出である必要はございません。今、何氏は高貴ではありますが、勢力は薄弱であり、誠に外戚にするにうってつけの一族であります。」
 長懋はこれを聞き入れ、永明三年(このとき昭業13歳)に昭業と婧英を結婚させた。
 婧英は淫乱で、昭業の悪友たちのうち顔が整っている者全員と関係を持った。昭業の侍書の馬澄は美少年で、婧英に非常に気に入られ、いつも澄と腕相撲をして力比べをし(腕相撲という名目のボディタッチ?)、昭業はこれを見て楽しんで笑った。
 澄は剡県の低い家柄の出で、あるとき〔長江〕南岸の娘を拉致して秣陵県に逮捕されたが、昭業はこれを知ると秣陵県に圧力をかけて釈放させた。また、澄はおばの娘を妾にしようとしたが、おばに拒否されると建康令の沈徽孚に訴えた。すると徽孚は言った。
「おばの娘は妻とすべきであって、妾とすべきではない。」
 澄は言った。
「僕の家は父が給事中になって富貴になっているが、おばの家はまだ貧賤のままだ。なら妾とするのが妥当だろう。」
 徽孚は叱責して追い返した。

 昭業は母の太妃の部屋に赴くと、その壁を切り開いて扉を作り、太妃の部屋と婧英の部屋を繋げて〔秘密裏に婧英のもとに〕行き来できるようにし(喪中のため周囲に見られたくなかったのである)、婧英の部屋に入ると何時間も出てこなかった。
 帝が東宮に弔問にやってくると、昭業はこれを出迎えた。その際、大いに涙を流し、悲しみの余り気絶したのち目を覚ます〔ふりをした〕。帝は〔慌てて〕輿から降りて〔倒れる昭業を〕抱き留めた。〔帝はその孝子ぶりに感動し、〕ますます可愛がるようになった。

 帝は詔を下して言った。
『天下の跡継ぎの者に爵位(二十等爵)を一級上げ、孝子・順孫・義夫・節婦に穀物や反物を与えよ』。

○魏孝文紀
 夏四月戊戌,立皇后馮氏。是月,蕭賾征虜將軍、直閤將軍、蠻酋田益宗率部落四千餘戶內屬。
○南斉武帝紀
 甲午,立皇太孫昭業、太孫妃何氏。詔「賜天下為父後者爵一級,孝子順孫義夫節婦粟帛各有差」。
○南史南斉前廃紀
 問訊太妃,截壁為閤,於太妃房內往何氏間,每入輒彌時不出。武帝往東宮,帝迎拜號慟,絕而復蘇,武帝自下輿抱持之,寵愛日隆。
○魏98島夷伝
 截壁為閤,於母房內往何氏間,每入輒彌時不出。賾至東宮,昭業迎拜號慟,絕而後蘇,賾自下輿抱持之,寵愛隆重。
○南斉20・南11鬱林王何妃伝
 鬱林王何妃名(諱)婧英,廬江灊人,撫軍將軍戢之女也。永明二年,〔將〕納為南郡王妃〔,文惠太子嫌戢無男,門孤,不欲與昏。王儉以南郡王妃,便為將來外戚,唯須高冑,不須強門。今何氏蔭華族弱,實允外戚之義。永明三年,乃成昏。妃稟性淫亂,南郡王所與無賴人游,妃擇其美者,皆與交歡。南郡王侍書人馬澄年少色美,甚為妃悅,常與鬬腕較力,南郡王以為歡笑。澄者本剡縣寒人,嘗於南岸逼略人家女,為秣陵縣所錄,南郡王語縣散遣之。澄又逼求姨女為妾,姨不與,澄詣建康令沈徽孚訟之。徽孚曰:「姨女可為婦,不可為妾。」澄曰:「僕父為給事中,門戶既成,姨家猶是寒賤,政可為妾耳。」徽孚訶而遣之〕。十一年,為皇太孫妃。

 ⑴何戢…字は慧景。446~482。名門の廬江何氏の出。美男で贅沢好き。妻は劉宋の孝武帝の娘で淫乱な山陰公主楚玉。劉宋に仕えて司徒左長史とされた。474年、蕭道成が中領軍とされるとこれに近付き、南斉が建国されると吏部尚書とされた。
 ⑵王倹…字は仲宝。452~489。超名門の琅琊王氏の出。父は金紫光禄大夫の王僧綽。父が453年に太子劉劭の廃立に関わって逆襲を受け殺されると、叔父の王僧虔に引き取られて育てられた。優れた風采を有し、大の勉強家だった。明帝の娘の陽羨公主を娶った。出仕して秘書郎とされ、のち飛び級して秘書丞とされた。劉歆の《七略》の分類法を参考に図書目録《七志》(経典志・諸子志・図譜志・文翰志・軍書志・陰陽志)四十巻を著した。また、《元徽四部書目》も著した。のち吏部郎とされた。のち蕭道成の天下取りを助け、478年、道成が太尉とされると右長史→左長史とされた。479年に斉国が建てられると28歳の若さで斉国右僕射・領吏部とされ、南斉が建国されると480年に左僕射・領吏部とされた。482年、尚書令とされた。484年に領国子祭酒、485年に更に領太子少傅とされた。489年、中書監とされた。

┃皇后冊立
〔初め、北魏の孝文帝は義母の馮太后のお気に入りの宦官・林金閭の姪の林氏を皇后としたが、林氏が長子の拓跋恂を産むと『子貴母死』の制度に従って殺害し(483年)、以後皇后を置かずにいた。〕
 現在、帝が馮太后490年9月没)の喪を終えると、太尉の平陽公丕らが上表して皇后を置くよう求めた。



 帝はこれを聞き入れた。
 戊戌(4月18日)馮氏を皇后とした。帝は馮氏の父で太師の馮熙にこう言った。
「《白虎通義》には『王者が臣下として扱わない者の種類は三つあり、妻の両親がその一つに当たる』とある。よって太師に臣下の礼をやめる事を許す。」
 かくて熙に上書の際臣と称さない事と、謁見の際拝礼をしない事を許したが、熙は上書してこれを固辞した。


 この時、帝は朝臣を集めて馮氏冊立の議論をする前に秘書監の盧淵に相談して言った。
「卿はどう思うか?」
 淵は答えて言った。
「皇后の冊立は古より慎重に行なってきたものです。愚見を申しますと、改めて吉日を選んで占うべきでしょう。」
 帝は言った。
「〔馮氏は〕先后(馮太后)の姪である。朕の心はもう決まっている。」
 淵は言った。
「陛下のお心がそうであっても、臣の心は全く納得が行っておりません。」
 間もなく朝臣を集めて議論が行なわれると、淵は頑なに前と同じ態度を取り続けた。〔そのため、馮熙の子・馮氏の兄?で、帝から非常な寵用を受けていた司徒の〕馮誕から恨まれたが、意に介さなかった。
 淵は字を伯源、幼名を陽烏といい、〔名門の范陽盧氏の出で、兼散騎常侍の盧玄の孫、青州刺史の盧度世の長子である〕。温和・上品・寡欲で、袓父の面影があった。学業に勤しみ、円満な家庭を築いた。侯爵を継ぎ、主客令・典属国とされ、のち秘書令・始平王師とされた。のち例に依って爵位を伯に降ろされた。のち給事黄門侍郎とされ、次いで兼散騎常侍・秘書監・本州大中正とされた。
 
 癸卯(23日)、南斉が驍騎将軍の劉霊哲を〔北〕兗州刺史とした。

○魏孝文紀
 夏四月戊戌,立皇后馮氏。
○南斉武帝紀
 癸卯,以驍騎將軍劉靈哲為兖州刺史。
○魏13孝文廃皇后馮氏伝
 孝文廢皇后馮氏,太師熙之女也。太和十七年,高祖既終喪,太尉元丕等表以長秋未建,六宮無主,請正內位。高祖從之,立后為皇后。高祖每遵典禮,后及夫、嬪以下接御皆以次進。
○魏47盧淵伝
 淵,字伯源,小名陽烏。性溫雅寡欲,有袓父之風,敦尚學業,閨門和睦。襲侯爵,拜主客令,典屬國。遷祕書令、始平王師。以例降爵為伯。給事黃門侍郎,遷兼散騎常侍、祕書監、本州大中正。是時,高祖將立馮后,方集朝臣議之。高祖先謂淵曰:「卿意以為何如?」對曰:「此自古所慎,如臣愚意,宜更簡卜。」高祖曰:「以先后之姪,朕意已定。」淵曰:「雖奉敕如此,然於臣心實有未盡。」及朝臣集議,執意如前。馮誕有盛寵,深以為恨,淵不以介懷。
○魏83馮熙伝
 高祖納其女為后,曰:「白虎通云:王所不臣,數有三焉。妻之父母,抑言其一。此所謂供承宗廟不欲奪私心。然吾季著於春秋,無臣證於往牒,既許通體之一,用開至尊之敬,比長秋配極,陰政既敷,未聞有司陳奏斯式,可詔太師輟臣從禮。」又勒集書造儀付外。高祖前後納熙三女,二為后,一為左昭儀。由是馮氏寵貴益隆,賞賜累巨萬。高祖每詔熙上書不臣,入朝不拜。熙上書如舊。
○南49劉霊哲伝
 靈哲位兗州刺史。

 ⑴孝文帝…拓跋宏。生年467、時に27歳。北魏の七代皇帝。在位471~。六代献文帝の長子。母は李夫人。490年に馮太后が亡くなると親政を始め、太后の路線を受け継いで数々の改革を行なった。493年⑴参照。
 ⑵平陽公丕…拓跋丕。生年422、時に72歳。北魏の道武帝の祖父・拓跋什翼犍の兄の玄孫。容貌が立派で、恰幅が良く、大きい耳と凛々しい眉を備えた。466年、馮太后が丞相の乙渾を捕らえるのに貢献し、尚書令・東陽公とされた。孝文帝が即位すると東陽王とされ、のち477年に司徒とされた。三百余に亘る難題の解決を任されると、その全てを公平妥当に処理した。長年の忠勤を評価されて免刑・免税の特典を与えられた、丕を讒言した者は直ちに斬刑に処せられた。479年に太尉・録尚書事とされた。淮南王他・淮陽王尉元・河東王苟頹らと共に宿老として帝と太后から礼遇を受けた。のち例にならって平陽郡公に改められた。
 ⑶馮熙…字は晋昌(国)。生年438、時に56歳。馮太后の兄。弓馬を得意とし、武の才能があり、孝経・論語を学び、陰陽や兵法を好んだ。優しく瑣末な事に拘らず、才能のある者は皆受け入れた。妹が文成帝の后とされると長安から平城に召し出され、景穆太子の娘の博陵長公主を娶り、定州刺史とされた。465年に献文帝が即位すると昌黎王とされた。468年、太傅とされた。孝文帝が即位すると太師・中書監・領秘書事とされたが、人心の反発を恐れて外任を求め、洛州刺史とされた。州では人の子女を拉致して奴隷とし、その中から美しい者を妾として数十人を産ませたりと好き放題に振る舞った。養母が亡くなると非常な悲しみようを見せた。のち例に依って京兆郡公に改められた。
 ⑷《白虎通義》…後漢が79年に白虎観に多くの学者や高官を集め、五経の解釈について討論させたのを整理・編集したもの。
 ⑸妻と、その両親と、夷狄の三つである。
 ⑹馮誕…字は思政。生年467、時に27歳。父は太師の馮熙、母は景穆太子の娘の博陵公主。伯母は孝文帝の養母の馮太后。美男だが学問嫌いで、容姿と淳朴・謙虚な性格だけが取り柄だった。孝文帝と同い年で、幼い頃から勉強に付き合い、親しみのこもった待遇を受けるに至った。帝の妹の楽安長公主を娶り、侍中・征西大将軍・南平王とされた。庶姓王が廃止されると侍中・都督中外諸軍事・中軍将軍・特進・長楽郡公とされた。帝と同じ輿に乗り、同じ机で食事を摂り、同じ席で座り横になった。492年、司徒とされた。
 ⑺劉霊哲…字は文明。南斉の安北将軍の劉懐珍の子。孝行者で、生母が病気となった際祈祷をし、夢にてお告げを得て治すことに成功した。嫡母の崔氏と兄の子の劉景煥が北魏に捕らえられるとその辛さを思って自粛生活を送り、父が亡くなった際、兄がまだ生きているかもしれないと言って爵位を継ぐのを固辞した。 その後も連年大枚をはたいて北魏に二人を返してくれるよう求めたが拒否された。のちこれを憐れんだ武帝が正式に北魏に返還を求めて景煥が帰ってくると前言の通りにこれに爵位を継がせた。のち巴西梓潼二郡太守・西陽王左軍司馬などを歴任した。

┃田益宗、魏に付く
 この月(4月、光城(淮西にある。南斉書では西陽)の蛮帥で南斉の征虜将軍・直閤将軍の田益宗が北魏に使者の張超を派遣し、部落四千余戸を引き連れて帰順した。
 益宗(生年445、時に49歳) は代々四山の蛮帥を務めた家柄の出で、身長八尺(約180cm)の長身で、勇猛果敢で将才があり、容貌や振る舞いが普通の蛮人とは異なっていた。沈攸之の乱(477~478)の際に功を立てて将軍とされ、のち臨川王防閤とされた。

○魏孝文紀
 夏四月…是月,蕭賾征虜將軍、直閤將軍、蠻酋田益宗率部落四千餘戶內屬。
○魏61田益宗伝
 田益宗,光城蠻也。身長八尺,雄果有將略,貌狀舉止,有異常蠻。世為四山蠻帥,受制於蕭賾。太和十七年,遣使張超奉表歸款。
○魏101蛮伝
 是時蕭賾征虜將軍,直閤將軍蠻酋田益宗率部曲四千餘戶內屬。
○南斉58蛮伝
 西陽蠻田益宗,沈攸之時,以功勞得將領,遂為臨川王防閤,叛投虜。

┃四廟子孫の宴
 5月、乙卯(6日)、宕昌・陰平・契丹・庫莫奚の朝貢使が北魏に到着した。
 壬戌(13日)孝文帝が四廟の子孫[1]を宣文堂(任城王澄伝では『皇信堂』[2]に集めて宴会を開いた。この時、帝は一般家庭での礼を用い[3]、爵位・秩禄の高さではなく長幼の序で序列・席次を決め、彼らと肩を並べて酒を飲んだ。この時、帝はこう言った。
「一通り儀礼は済んだ。後はおのおの志を詩を作って述べよ。」
 この時、帝は特別に任城王澄に自分と一緒に七言連句詩(複数人が七言詩を一行ずつ関連性を持たせて作り合うもの)を作り合わせて優劣を競った。帝たちは心行くまで楽しみ、深夜になってようやく解散した。

○魏孝文紀
 五月乙卯,宕昌、陰平、契丹、庫莫奚諸國並遣使朝獻。壬戌,宴四廟子孫於宣文堂,帝親與之齒,行家人之禮。
○魏19任城王澄伝
 時詔延四廟之子,下逮玄孫之冑,申宗宴於皇信堂,不以爵秩為列,悉序昭穆為次,用家人之禮。高祖曰:「行禮已畢,欲令宗室各言其志,可率賦詩。」特令澄為七言連韻,與高祖往復賭賽,遂至極歡,際夜乃罷。

 [1]四廟の子孫…世祖(太武帝)・恭宗(景穆太子)・高宗(文成帝)・顕祖(献文帝)の子孫である。
 [2]太和十二年(488)に宣文堂と経武殿を建てた。
 [3]君臣の礼を省き、長幼の序(年齢が高い者を尊ぶ)を用いたのである。
 ⑴任城王澄…拓跋澄。字は道鏡。生年467、時に27歳。景穆太子の孫で、任城王雲の子。孝文帝の従兄弟叔父。孝行者で、学問を好んだ。話しぶりや振る舞いが上品だった。馮太后に『宗室の領袖となるべき者』と評された。485年、柔然が侵攻してくると都督北討諸軍事とされて討伐に赴いた。のち梁州刺史とされ、氐羌を良く手懐けた。のち徐州刺史とされると非常な名声と政績を上げた。のち中書令→尚書令とされた。南斉の使者の庾蓽に「昔の魏の任城王(彰)は武を以て聞こえたが、今の魏の任城王は文の方面に秀でている」と評された。

┃天子親臨
 甲子(5月15日)孝文帝が朝堂に赴き、政治上の難題を議論して決裁し、更に囚人の審理を行なった。
 この時、帝は司空の丘穆陵亮にこう言った。
「三代(夏・殷・周)では、日の出と共に政務を執るのが決まりだったが、漢魏以降ではその決まりも徐々に廃れていった。晋では朔望の日(1日と15日)に公卿を朝堂に集めて政治について議論させたとあるが、天子が親臨したという記述は無い。今より以後は、卿らを日の出後に朝堂に集め、午前に卿らに議論をさせ、午後に朕が卿らの出した結論を決裁する事とする。」
 かくて公卿以下を引見して奏案(上奏文の下書き)を読ませ、自らその可否を決裁した。
 また、亮にこう言った。
「徐州からの上表文に『帰順してきた者に〔一年間〕穀物を支給して〔支援をして〕はどうか』とあった。天子は民の父母なのであるから、誠に許すべき事である。ただ、今は荊揚(南斉)が従わず、統一が未達成で、朕が自ら六軍を率いて江介(長江のほとり。南斉のこと)を征伐する所であり〔、境場の穀物の貯蔵が大事な時である〕。今帰順してきている一万戸に一年支給するとなると百万斛もの食糧が必要になる。もしこれを許せば、境上の蓄えは枯渇してしまう。〔そもそも、千万戸が帰順してきたとしても、まだ統一は成らないのだ。〔彼らにいちいち支給していたら大変な事になってしまう。〕そこで、解決策として貧民にのみ支給をしようと思うのだが、卿はどう思うか?」
 亮は答えて言った。
「陛下のお考えは非常に遠大であります。全面的に賛同いたします。」

○魏孝文紀
 五月…甲子,帝臨朝堂,引見公卿已下,決疑政,錄囚徒。
○魏27穆亮伝
 後高祖臨朝堂,謂亮曰:「三代之禮,日出視朝,自漢魏已降,禮儀漸殺。晉令有朔望集公卿於朝堂而論政事,亦無天子親臨之文。今因卿等日中之集,中前則卿等自論政事,中後與卿等共議可否。」遂命讀奏案,高祖親自決之。又謂亮曰:「徐州表給歸化人稟。王者民之父母,誠宜許之。但今荊揚不賓,書軌未一,方欲親御六師,問罪江介。計萬戶投化,歲食百萬,若聽其給也,則蕃儲虛竭。雖得戶千萬,猶未成一同。且欲隨貧賑恤,卿意何如?」亮對曰:「所存遠大,實如聖旨。」

 ⑴丘穆陵亮…字は幼輔。幼名は老生。生年451、時に43歳。代々公主を娶った名門の家柄の出で、中書監・魏郡公の丘穆陵羆(平国)の子。献文帝の時に中山長公主を娶り、471年、趙郡王→長楽王とされた。のち秦州刺史・敦煌鎮都大将とされると善政を行なった。のち仇池鎮将とされ、宕昌が吐谷渾に滅ぼされるとその王族の梁弥承を奉じて吐谷渾を討ち、宕昌を復興した。のち尚書右(左?)僕射・司州大中正とされた。488年、南斉の将の陳顕達が醴陽を陥とすと一万騎を率いてこれを撃退した。489年、司空とされた。のち庶姓王の廃止によって公とされた。のち太子太傅を兼任した。
 ⑵宋書州郡志に依ると南朝は青・兗・徐・豫州を領有していても把握戸数は約94万戸程度しか無かったので、この言葉は単に大げさに言っただけのものであろう。

┃水旱
 戊辰(5月19日)、南斉の武帝が詔を下して言った。
「洪水と旱魃によって農作物に被害が出ている。そこで、三調(調粟〈租〉・調帛〈調〉・雑調〈庸〉)の延滞を秋の収穫まで許す事とする。また、京師の二県(秣陵・建康)と朱方(南徐州。建康の東)・姑熟(南豫州。建康の西南)は暫くのあいだ断酒せよ(酒は穀物を発酵させて作るので、凶作時には穀物の消耗を防ぐためしばしば禁酒が行なわれる)。」

○南斉武帝紀
 五月戊辰,詔曰:「水旱成災,穀稼傷弊,凡三調眾逋,可同申至秋登。京師二縣、朱方、姑熟【[三一]按京師二縣謂秣陵、建康也。洪頤煊諸史攷異云:「丹徒古朱方,南東海郡治,姑熟即于湖,淮南郡治,皆京邑重鎮,故連言之。」】,可權斷酒。」

┃釈法智の乱
 建康の蓮華寺の道士の釈法智が南斉の北徐州(鍾離。徐州と建康の中間)民の周盤龍[1]らと共に北徐州で叛乱を起こした。法智らは四百人を率いて夜に州城の西門を攻め、ハシゴを使って城壁の上に登り、城局参軍の唐穎を射殺して城内に侵入した。軍主の耿虎・徐思慶・董文定らがこれを迎撃して食い止め、明け方になって刺史の王玄邈が百余の兵を率いて便門(多数の門のうち、用務にもっとも都合のよい門)より城に入り、奮戦して法智・盤龍らを生け捕りにした。
 ただ、南斉はこの不祥事を起こした事を責め、玄邈を免官とした

 庚午(5月21日)、〔代わりに?〕輔国将軍〔・南海(広州)太守〕の蕭恵休を〔北〕徐州刺史とした。

○資治通鑑
 建康僧法智與徐州民周盤龍【此又一周盤龍,非周奉叔之父】等作亂,夜,攻徐州城【徐州城即鍾離城】,入之;刺史王玄邈討誅之。
○南斉武帝紀
 五月…庚午,以輔國將軍蕭惠休為徐州刺史。
○南斉27王玄邈伝
 十一年,建康蓮華寺道人釋法智與州民周盤龍等作亂,四百人夜攻州城西門,登梯上城,射殺城局參軍唐穎,遂入城內。軍主耿虎、徐思慶、董文定等拒戰,至曉,玄邈率百餘人登城便門,奮擊,生擒法智、盤龍等。玄邈坐免官。
○南斉46蕭恵休伝
 十一年,自輔國將軍、南海太守,為徐州刺史。

 [1]周奉叔の父の周盤龍とは別人である。
 ⑴釈法智は建康からはるばる北徐州までやってきていたのだろうか?
 ⑵王玄邈…字は彦遠。名門の太原王氏の出で、北兗州刺史の王玄載の弟。劉宋の明帝の時に青州刺史とされた。蕭道成(のちの南斉の高帝)が淮陰を鎮守した際、密かに結託を持ちかけられたが断り、建康に帰ると帝に道成に二心ありと報告した。ただ、道成に恨まれる事は無く、477年に道成が順帝を擁立し驃騎大将軍となるとその司馬とされた。のち梁南秦二州刺史とされ、兄で南兗州刺史の玄載と同時に刺史を務めた。李烏奴が梁州にて乱を起こすとある者を烏奴に偽降させて「王使君は既に逃げ去った」と言わせ、烏奴がこれを信じて少数で攻めてきた所を撃破した。489年に大司馬、490年に太常とされた。のち右衛将軍とされ、492年、北徐州刺史とされた。
 ⑶通鑑は何故かこれを6月の事としている。王玄邈は492年に北徐州刺史とされ、今年の5月に蕭恵休が北徐州刺史とされているので、5月までに起こった事件だと思われるのだが…。
 ⑷蕭恵休…蘭陵蕭氏の出で、劉宋の郢州刺史の蕭思話の第五子。486年、広州刺史とされた。のち輔國将軍・南海太守とされた。

┃孝子・宜都王鏗
〔これより前(2月)、廬陵王子卿は使持節・都督南豫豫司三州軍事・驃騎将軍・南豫州(姑孰。建康の西南)刺史とされていた。〕
 子卿は鎮所に赴く際、ふざけて部下たちを水軍のように仕立てて進ませた。武帝はこれを聞くと激怒し、子卿の典籤(目付け役)を殺害した。
 丙子(5月27日)、左民尚書の宜都王鏗コウ)を持節・都督南豫司二州軍事・冠軍将軍・南豫州刺史として子卿と交代させ、子卿を自邸に帰らせた。
 帝は亡くなるまで一度も子卿に会わなかった。
 また、〔黄門郎の〕蔡約を宜都王冠軍長史・淮南太守・行府州事とし〔て鏗を補佐させ〕た。

 鏗(生年477、時に17歳)は字を宣厳(或いは儼。豫章王嶷とかぶっている)といい、高帝の第十六子である。母は何太妃。三歲の時に母を亡くし、物心がつくと母がどこにいるのか尋ねた。従者が既に亡くなっている事を告げると悲しみ、肉食を断ち、夢で母に会えるよう祈りを捧げた。六歲の時、夢に一人の女性が現れ、こう言った。
「お母さんだよ。」
 鏗は目を覚ますと涙を流し、むかし母の従者を務めていた者に夢で見た人物の容貌や衣服について説明すると、どれも何太妃の生前の容貌や衣服と合致していたため、この話を聞いた者たちはみな涙を流した。
 初め遊擊将軍とされ、永明十年(492)に左民尚書とされた。
 南豫州に赴任した時、ある者が東晋の大司馬の桓温の娘の墓をあばき、金蚕・銀繭・珪璧などの副葬品を盗んだ。鏗は〔これを逮捕すると、〕長史の蔡約に副葬品を墓に戻させ、一つも手をつけなかった。

 蔡約が長史として赴任する前、帝はこう言った。
「今、卿を近藩(首都付近の州鎮)の上佐(上級佐官)としたのは、卿なら我が期待に沿ってくれると思ったからだ。」
 約は言った。
「南豫州は京師(建康)に非常に近いので、独自で何かをすることはありませんし、臣もどこぞの馬の骨であり、『爝火(シャッカ)息まず』というものです。」
 当時、諸王と行府州事は対立する事が多かったが、約は鏗と穏やかな関係を築いた。

○南斉武帝紀
 五月…庚午,以輔國將軍蕭惠休為徐州刺史。丙子,以左民尚書宜都王鏗為南豫州刺史。
○南斉40宜都王鏗伝
 宜都王鏗字宣嚴(儼)【[一八] 王鳴盛十七史商榷云:「案豫章王已字宣嚴,二王皆高帝子,不應同字,必有一誤。」】,太祖第十六子也。〔生三歲喪母。及有識,問母所在,左右告以早亡,便思慕蔬食自悲。不識母,常祈請幽冥,求一夢見。至六歲,遂夢見一女人,云是其母。鏗悲泣向舊左右說容貌衣服事,皆如平生,聞者莫不歔欷。〕初除遊擊將軍。永明十年,遷左民尚書。十一年,為持節、都督南豫司二州軍事、冠軍將軍、南豫州刺史,鎮姑熟。時有盜發晉大司馬桓溫女塚,得金蠶銀繭及珪璧等物。鏗使長史蔡約自往修復,纖毫不犯。
○南斉40廬陵王子卿伝
 子卿之鎮,道中戲部伍為水軍,上聞之,大怒,殺其典籤。遣宜都王鏗代之。子卿還第,至崩,不與相見。
○南斉46蔡約伝
 出為宜都王冠軍長史、淮南太守,行府州事。世祖謂約曰:「今用卿為近蕃上佐,想副我所期。」約曰:「南豫密邇京師,不治(化)自理。臣亦何人,爝火不息。」時諸王行事多相裁割,約在〔右〕任,主佐之間穆如也。

 ⑴廬陵王子卿…蕭子卿。字は雲長。生年468、時に26歳。武帝の第三子。母は張淑妃で、太子長懋・竟陵王子良の異母弟。483~7年、荊州刺史とされたが、贅沢な武具馬具や衣服を作り、武帝から叱責を受けた。今年の2月、都督南豫豫司三州軍事・南豫州刺史とされた。493年⑴参照。
 ⑵蔡約…字は景撝。生年457、時に37歳。名門の済陽蔡氏の出。酒好き。劉宋の孝武帝の娘の安吉公主を娶った。南斉が建国されると黄門郎・領屯騎校尉とされた。490年、仕事中に寝ていたことで弾劾を受けた。
 ⑶爝火息まず…《荘子》逍遥遊。有能な人物を日月に譬え、日月が出ている(他にその位に相応しい有能な人物がいる)のに篝火を絶やさずにいる(自分がその位に就いている)のはおかしいという意味。

┃旱魃と襄陽蛮酋の帰順
 丁丑(5月28日)、北魏の孝文帝が旱魃を以て料理の数を減らした。

 また、襄陽(南斉の雍州)の蛮酋の雷婆思ら十一人が千三百余戸を引き連れて北魏領内への移住を求めてきた。北魏は彼らを太和川()に住まわせ、穀物を支給した。蛮人は安堵し、暴動を起こさなかった。

○資治通鑑
 襄陽蠻酋雷婆思等帥戶千餘求內徙於魏,魏人處之沔北【是時沔北之地猶為齊境。雷婆思等蓋居沔南,徙處沔北,則稍近魏境耳】。
○魏孝文紀
 五月…丁丑,以旱撤膳。襄陽蠻酋雷婆思等率〔其部〕一千三百餘戶內徙,居於太和川。
○魏101蛮伝
 襄陽酋雷婆思等十一人率戶千餘內徙,求居大和川,詔給廩食。後開南陽,令有沔北之地。蠻人安堵,不為寇賊。


 493年⑶に続く