[北魏:孝昌四年→武泰元年→建義元年→永安元年 梁:大通二年]


┃英雄宇文泰の登場
 これより前、宇文肱523年、524年〈2〉参照。六鎮の乱の際武川鎮にてこれに抵抗し、のち賀抜父子と共に衛可孤を殺害した)は中山に身を寄せていたが、のち鮮于修礼の傘下に入ると、そのまま部衆の統率を任された。しかし定州攻めの途中、唐河にて官軍に敗れ、第二子の宇文連と共に戦死した。子の宇文泰生年507、時に22歳)は引き続き修礼の傘下に残り、修礼が死ぬと(526年8月葛栄に従って将軍に任ぜられたが、葛栄では天下は取れぬと見ると、兄たちと共に逃亡しようとした。葛栄が栄に敗れたのはその矢先だった。そこで泰は栄に従って晋陽に遷った。
 栄は泰兄弟の雄才が傑出しているのを見て御しがたいと思い、まず他罪にかこつけて泰の三兄の宇文洛生を殺し、次いで泰を殺そうとした。しかし泰の弁明がとても堂々としていたので、感服して取りやめ、統軍に任じて厚くもてなした。

 宇文泰、字は黒獺は、肱の末子である。母は王氏といい、妊娠して五ヶ月の時に、夜、抱いていた赤ん坊が天に昇り、あともう少しという所で止まった夢を見た。王氏が目を覚ましてこの事を肱に告げると、肱は喜んでこう言った。
「天に届かずとはいえ、この子は極めて富貴の身分となるだろう。」
 泰が生まれると、黒気が華蓋(古代、天子が乗る車についていた傘状の遮蔽物)のようにその体を覆った。成人すると身長八尺、額は角ばって(方顙、貴人の相)広く、ひげ美しく、髪は長く地にまで届き、手も膝まで届く偉丈夫となった。背のホクロは龍がとぐろを巻いているように曲がりくねって点在していた。顔からは紫色の霊気が発され、見る者を畏敬させずにはおかなかった。また、うなじにコブがあり、それを見られないようにするためにいつも突騎帽(帯まで覆う長さの後ろ垂れがある)をかぶった。
 若くして大きな度量を持ち、家業には関わらず、金銭を軽んじて人に施すことを好み、人士と交際する事を楽しみとした。

 宇文洛生は若くして任侠を好み、武芸を尊び気力に溢れ、大きな度量があって施しを楽しみ人士を愛した。北辺の俊才はみな彼と交遊し、そのもとで才覚を現した。葛栄鮮于修礼の跡を継ぐと、漁陽王に封ぜられ、肱の部衆の統率を任された。人々はみな彼の事を洛生王と呼んだ。
 洛生は将兵を統率するのが上手く、麾下の者たちの殆どが驍勇の士で占められていた。戦場で洛生の鋭鋒に敵う者無く、勝利して戦利品を得ること常に諸軍の最上位にあった。
 現在、爾朱栄が山東を平定すると、葛栄の配下の豪傑たちは晋陽に遷され、洛生もこれに従ったが、栄はその勇名を常に耳にしていて恐れを抱いていたので、遂に殺害されてしまった。

◯周文帝紀
 太祖文皇帝姓宇文氏,諱泰,字黑獺,代武川人也。其先出自炎帝神農氏,為黃帝所滅,子孫遯居朔野。有葛烏菟者,雄武多算略,鮮卑慕之,奉以為主,遂總十二部落,世為大人。其後曰普回,因狩得玉璽三紐,有文曰皇帝璽,普回心異之,以為天授。其俗謂天曰宇,謂君曰文,因號宇文國,并以為氏焉。普回子莫那,自陰山南徙,始居遼西,是曰獻侯,為魏舅生之國。九世至侯豆歸,為慕容晃所滅。其子陵仕燕,拜駙馬都尉,封玄菟公。魏道武將攻中山,陵從慕容寶禦之。寶敗,陵率甲騎五百歸魏,拜都牧主,賜爵安定侯。天興初,徙豪傑於代都,陵隨例遷武川焉。陵生系,系生韜,並以武略稱。韜生肱。肱任有俠有氣幹。正光末,沃野鎮人破六汗拔陵作亂,遠近多應之。其偽署王衞可孤徒黨最盛,肱乃糺合鄉里斬可孤,其眾乃散。後避地中山,遂陷於鮮于修禮。修禮令肱還統其部眾。後為定州軍所破,歿於陣。武成初,追尊曰德皇帝。
 太祖,德皇帝之少子也。母曰王氏,孕五月,夜夢抱子昇天,纔不至而止。寤而告德皇帝,德皇帝喜曰:「雖不至天,貴亦極矣。」生而有黑氣如蓋,下覆其身。及長,身長八尺,方顙廣額,美鬚髯,髮長委地,垂手過膝,背有黑子,宛轉若龍盤之形,面有紫光,人望而敬畏之。少有大度,不事家人生業,輕財好施,以交結賢士大夫。少隨德皇帝在鮮于修禮軍。及葛榮殺修禮,太祖時年十八【[六]按卷二稱宇文泰死時年五十二,北史卷九周本紀上作「五十」。魏書卷九肅宗紀孝昌二年五二六年七月,元洪業殺鮮于修禮,葛榮又殺洪業。周書文帝紀云葛榮殺修禮,不是事實。如孝昌二年,宇文泰年十八,由此下推到西魏恭帝三年五五六年止得四十八歲,與五十、五十二皆不合。】,榮遂任以將帥。太祖知其無成,與諸兄謀欲逃避,計未行,會爾朱榮擒葛榮,定河北,太祖隨例遷晉陽。榮以太祖兄弟雄傑,懼或異己,遂託以他罪,誅太祖第三兄洛生,復欲害太祖。太祖自理家冤,辭旨慷慨,榮感而免之,益加敬待。
○隋礼儀志衣冠
 後周之時,咸著突騎帽,如今胡帽,垂裙覆帶,蓋索髮之遺象也。又文帝項有瘤疾,不欲人見,每常著焉。
◯周10莒荘公洛生伝
 莒莊公洛生,少任俠,尚武藝,及壯,有大度,好施愛士。北州賢俊,皆與之遊,而才能多出其下。及葛榮破鮮于修禮,乃以洛生為漁陽王,仍領德皇帝餘眾。時人皆呼為洛生王。洛生善將士,帳下多驍勇。至於攻戰,莫有當其鋒者,是以克獲常冠諸軍。爾朱榮定山東,收諸豪傑,遷於晉陽,洛生時在虜中。榮雅聞其名,心憚之。尋為榮所害。

┃葛栄斬首
 乙亥(21日)、葛栄が平定された事を以て北魏は大赦を行ない、年号を建義(528年4月〜)から永安と改めた。

 辛巳(27日)、北魏が爾朱栄を大丞相・都督河北畿外諸軍事とし、栄の子で平昌公の爾朱文殊・昌楽公の爾朱文暢を共に王に封じた。
 また、楊椿を太保、城陽王徽胡太后の寵臣だったが、正平の人の楊檦に匿われて河陰の虐殺を免れた。徽の後妻は孝荘帝の舅の娘であった)を司徒とした。

 冬、10月、丁亥(3日)葛栄が洛陽に檻送されてくると、孝荘帝はこれを閶闔門にて引見した。葛栄は跪いて己の罪を謝したが、帝は赦さず市場にて斬刑に処した《魏孝荘紀》

┃楊津帰還
 これより前、定州刺史の楊津は定州陥落時に杜洛周に捕らえられた(528年〈1〉参照)のち、洛周を滅ぼした葛栄にも引き続き拘禁されていたが、爾朱栄が葛栄を滅ぼすとようやく洛陽に帰還する事ができた。北魏は津を荊州刺史とし、散騎常侍・州都督を加えたが、津は定州を守れなかった事を以て固辞し、赴任しなかった。


◯魏58楊津伝

 洛周弗之責也。及葛榮吞洛周,復為榮所拘守,榮破,始得還洛。永安初,詔除津本將軍、荊州刺史,加散騎常侍、當州都督。津以前在中山陷寇,詣闕固辭,竟不之任。


┃元顥・陳慶之の出陣
 この日、梁が北魏の北海王顥を魏王とし、東宮直閤将軍の陳慶之の軍の護衛のもと北に帰還させた。
 この月、北魏の潁州(豫州の東三百里。梁武帝紀は豫州刺史とするが誤りであろう)刺史の鄧献が州と共に梁に降った(鄧献伝では河陰の変の直後に梁に降っている)。

○梁武帝紀
 冬十月丁亥,以魏北海王元顥為魏主,遣東宮直閤將軍陳慶之衞送還北。魏豫州刺史鄧獻以地內屬。
○魏24鄧献伝
 纂弟獻,奉朝請、司空西閤祭酒、員外常侍、河陰令。尋遷鎮遠將軍、諫議大夫。肅宗末,除冠軍將軍、潁州刺史。建義初,聞尒朱榮入洛,朝士見害,遂奔蕭衍。

┃論功行賞
 丙申(12日)、北魏は撫軍将軍・太常卿で爾朱栄の世子の爾硃菩提生年517、時に12歳)を驃騎大将軍・開府儀同三司に任じた。
 丁酉(13日)、冀州の長楽・相(殷?)州の南趙・定州の博陵・滄州の浮陽・平州の遼西・燕州の上谷・幽州の漁陽七郡それぞれ一万戸を栄の太原国に加え《魏孝荘紀》、以前の封邑と合わせて計十万戸とした《魏74爾朱栄伝》
 戊戌(14日)、更に栄を太師に任じた。これらは全て葛栄を捕らえた大功に報いるものだった。
 侯淵は滏口で一番の戦功を挙げ、燕州刺史に任じられた《魏80侯淵伝》。

┃于暉、羊侃討伐に赴く
 庚戌(26日)、北魏が侍中・鎮南将軍・太原郡開国公の于暉を兼尚書左僕射・東南道行台とし、高歓と共に羊侃を討伐させた《魏孝荘紀》

 于暉、字は宣明は、于勁の子で、宣武帝の妃の順皇后の同母弟である。若くして気骨・才能があった。父の爵位の太原郡公を継ぎ、汾州刺史に任じられた。暉は人の機嫌を取るのが上手だったため、爾朱栄に気に入られ、栄の娘が子の于長孺)に嫁いだ《魏83于暉伝》

┃江陽王継の死
 壬子(28日)、北魏の江陽武烈王継元叉の父)が逝去した。

┃邢杲討伐の難航
 北魏は征虜将軍の韓子熙525年〈2〉参照。清河国の郎中令で、元叉一党を処罰するよう胡太后に求めた)に邢杲の説得をさせ、杲はこれに応じて降伏した。子熙がこれを信じて帰路につき、楽陵〈北海の西北〉まで到った所で杲は再び叛乱を起こした(時期不明《魏60韓子熙伝》
 この月、車騎大将軍の李叔仁が濰水にて杲と戦ったが、敗北して逃げ帰った《魏孝荘紀》

○魏60韓麒麟伝
 尒朱榮之擒葛榮也,送至京師,莊帝欲面見數之。子熙以為榮既元兇,自知必死,恐或不遜,無宜見之。尒朱榮聞而大怒,請罪子熙,莊帝恕而不責。尋加征虜將軍。及邢杲之起逆,詔子熙慰勞。杲詐降,而子熙信之,還至樂陵,杲復反,子熙遂還。

●荊州の解放
 これより前、梁将の曹義宗が荊州を包囲すると、北魏は費穆を都督南征諸軍事・大都督としてこれを討伐させていた(5月)。京畿南面大都督の慕容儼はその参加を志願し、軍を率いて南下した。このとき北育太守の宋帯剣が反乱を起こしていた。そこで儼は軽騎を率い、その不意を突いて直ちに城下に到るや、帯剣にこう言った。
「大軍既に到るに、太守どのは何故迎え入れぬ!」
 帯剣は突然のことに恐れおののいて為す所を知らず、とりあえず言葉に従ってすぐさま出迎えることにした。儼は帯剣が出てきたところを即座に捕らえ、かくて一郡を平定することに成功した。
 この月費穆今年5月に討伐を命じられていた)が荊州を攻囲していた梁の曹義宗軍を奇襲して大破し、義宗を捕らえて洛陽に送った。ここにようやく荊州は解放された。

 費穆は荊州に入城すると、祝宴を開き、守将で南道行台の辛纂に酒をついでこう言った。
「辛行台がここにいらっしゃらなければ、功を立てられませんでした。」
 穆は朝廷に帰還すると孝荘帝にこう進言した。
「纂は困難な状況にあって良く節を曲げず、城を守り抜きました。爵位や賞賜をお与えになり、朝廷に召還してその労に報いるべきであります。」
 帝はそこで詔を下してその労苦をいたわると共に、間もなく持節・平東将軍・東中郎将(虎牢を管轄)に任じ、絹五十疋と金で装飾した刀一振りを賞賜として与えた。
 荊州刺史の王羆も封爵を覇城県公に進められた。
 費穆も衛将軍に任じられ、封爵を趙平郡開国公に進められた。
 儼はこの一連の戦いで梁将の馬元達・蔡天起・柳白嘉らを破り、次々と戦功を立て、強弩将軍とされた。その後も更に梁将の王玄真・董当門らと戦ってみな撃破し、南陽・新鄉を取り戻した。儼はこの功により積射将軍・持節・豫州防城大都督とされた。

○魏孝荘紀
 是月,…大都督費穆大破蕭衍軍,擒其將曹義宗,檻送京師。
○魏44費穆伝
 蕭衍遣將軍曹義宗逼荊州,詔穆為使持節、南征將軍、都督南征諸軍事、大都督以援之。穆潛軍徑進,出其不意,至即大破之,生擒義宗送闕。以功遷衞將軍,進封趙平郡開國公,增邑一千戶。遷使持節,加侍中、車騎將軍、假儀同三司、前鋒大都督。
○魏77辛纂伝
 尋為義宗所圍,相率固守。莊帝即位,除通直散騎常侍、征虜將軍、兼尚書,仍行臺。後大都督費穆擊義宗,擒之。入城,因舉酒屬纂曰:「微辛行臺之在斯,吾亦無由建此功也。」入朝,言於莊帝,稱纂固節危城,宜蒙爵賞,以勸將來。帝乃下詔慰勉之。尋除持節、平東將軍、中郎將【[二]虎牢是北魏東中郎將的治所。魏書「中郎將」上脫「東」字】,賜絹五十匹,金裝刀一口。
○周18王羆伝
 彌歷三年,義宗方退。進封霸城縣公。
○北斉20慕容儼伝
 孝昌中,尒朱榮入洛,授儼京畿南面都督。永安中,西荊州為梁將曹義宗所圍,儼應募赴之。時北育太守宋帶劍謀叛,儼乃輕騎出其不意,直至城下,語云:「大軍已到,太守何不迎?」帶劍造次惶恐不知所為,便出迎,儼即執之,一郡遂定。又破梁將馬元達、蔡天起、柳白嘉等,累有功。除強弩將軍。與梁將王玄真、董當門等戰,並破之,解穰城圍,克復南陽、新鄉。轉積射將軍,持節、豫州防城大都督。

 ⑴辛纂…字は伯将。辛雄の従父兄。読書家で、温和・正直な性格。咸陽王禧の謀叛の際に李伯尚を匿った罪で免官に遭い、十余年に亘って無職となった。のち復帰を赦され、太尉騎兵参軍とされると、府主の清河王懌から賞賛を受け、「辛騎兵は学識・才能がある。上第(成績第一等)とするべきだろう。」と言われた。のち尚書令の李崇の柔然討伐の際、録事参軍とされた。この時の働きぶりが評価され、臨淮王彧の北征・広陽王淵の北伐の際に長史とされた。526年、梁将の曹義宗が荊州・新野に迫ると南道行台とされて救援に向かい、これを撃破した。荊州の兵は二千しかいなかったが、迅速な用兵と団結ぶりを警戒され、攻撃を受けなかった。のち荊州軍司とされた。528年、孝明帝の崩御の報が届くと、帝の死を隠すことなく号泣し、兵全員の服を喪服に着替えさせた。528年(4)参照。

●兗州の解放

 この月、梁の魏王の元顥が北魏の南兗州にある銍城を陥とした。

 これより前、庚戌(26日)、北魏が侍中・鎮南将軍・太原郡開国公の于暉を東南道行台左僕射とし、〔銅鞮伯の〕高歓と共に羊侃を討伐させた。また、安南将軍・光禄大夫・徐兗行台尚書の崔孝芬を散騎常侍・鎮東将軍・金紫光祿大夫・東道行台(徐兗行台)尚書とし、大都督の刁宣と共に〔別道より〕救援に赴かせた。
 于暉・高歓・刁宣・爾朱陽都らが十万(《南史》。《梁書》では『数十万』)の兵を率いて瑕丘を攻めた。
 徐紇は北魏に捕らえられるのを恐れ、梁へ援軍を求めに行ってくると言ったきり、そのまま梁に亡命してしまった。
 暉らは侃を十余重に逆包囲し、その兵を多く殺傷した。侃軍は矢尽き、梁の援軍も進軍を止めてやって来なかった。
 11月、癸亥(10日)、侃は夜陰に紛れて包囲を突き破って逃走し、戦いながら一昼夜で国境の渣口に到った。この時侃軍はなお一万余の兵と二千頭の馬を擁していたが、士卒がみな夜に故郷を想って悲歌を歌ったので、侃はそこで彼らに謝ってこう言った。
「そなたらが故郷を想う気持ちは良く分かった。去就の判断は各自に委ねる。南に行きたくない者はここで別れよ。」
 そこで士卒らはおのおの侃に暇ごいをしてその場を去った。
 かくて北魏は再び泰山郡を回復した。


○魏孝荘帝紀
 冬十月…庚戌,以侍中、鎮南將軍、太原郡開國公于暉兼尚書左僕射,為行臺,與齊獻武王討羊侃。…是月,…蕭衍以北海王顥為魏主,號年孝基,入據南兗之銍城。…十有一月…癸亥,齊獻武王、行臺于暉,與徐兗行臺崔孝芬、大都督刁宣大破羊侃於瑕丘,侃奔蕭衍。兗州平。
○魏57崔孝芬伝
 建義初,太山太守羊侃據郡反,遠引南賊,圍逼兗州。除孝芬散騎常侍、鎮東將軍、金紫光祿大夫,仍兼尚書東道行臺,大都督刁宣馳往救援,與行臺于暉接,至便圍之。侃突圍奔蕭衍,餘悉平定。
○魏93徐紇伝
 孝莊初,遣侍中于暉為行臺,與齊獻武王督諸軍討之。紇慮不免,說侃請乞師於蕭衍。侃信之,遂奔衍。文筆駁論數十卷,多有遺落,時或存於世焉。
○梁39羊侃伝
 魏人大駭,令僕射于暉率眾數十萬(眾十萬),及高歡、尒朱陽都等相繼而至,圍侃十餘重,傷殺甚眾。柵中矢盡,南軍不進,乃夜潰圍而出,且戰且行,一日一夜乃出魏境。至渣口,眾尚萬餘人,馬二千匹,將入南,士卒並竟夜悲歌。侃乃謝曰:「卿等懷土,理不能見隨,幸適去留,於此別異。」因各拜辭而去。

 ⑴銍城…《読史方輿紀要》曰く、『徐州の南百五十里、或いは蒙城県の北百二十里→宿州の南四十六里にある。』
 ⑵于暉…?~529。字は宣明。定州刺史の于勁の子。宣武帝の妃の順皇后の同母弟。若くして気骨・才能があった。父の爵位の太原郡公を継ぎ、汾州刺史に任じられた。人の機嫌を取るのが上手だったため、爾朱栄に気に入られ、その娘を子の嫁に貰った。のち侍中・河南尹とされ、間もなく東南道行台僕射とされて羊侃を討伐し、次いで邢杲の討伐に赴いたが、部下の彭楽が叛くと引き返した。元顥が入洛すると殺害された。
 ⑶高歓…字(鮮卑名)は賀六渾。496~547。北魏末に群雄の爾朱栄に仕えて晋州刺史とされ、栄が殺されると次第に頭角を現し、531年、信都にて挙兵して爾朱氏を撃ち破り、532年に華北東半部を制した。534年、擁立した孝武帝が宇文泰のもとに逃れると孝静帝を擁立して東魏を建て、その大丞相となり、西魏と長きに亘って激闘を繰り広げた。
 ⑷崔孝芬…字は恭梓。485~534。名門博陵崔氏の出。光州刺史の崔挺の子。博識で文才があり、孝文帝に才能を認められた。廷尉少卿とされ、裴邃討伐に躊躇っている河間王琛らの督促役を任された。荊州刺史の李神俊が包囲されると、代わりに荊州刺史とされ、南道行台とされて救援に赴いた。のち元叉に連座して除名された。527年、梁が北伐してくると徐州行台とされ、撃退に成功して徐兗行台とされた。528年に羊侃が叛乱を起こすとこれを討伐した。北海王顥が洛陽を陥とすと雎陽を急攻して陥とした。のち西兗州刺史とされたが、戦場に倦んでいたため固辞し、太常卿とされた。530年に趙修延が荊州城を襲うと再び荊州刺史・南道行台とされ討伐に赴いた。のち西兗州刺史とされた。532年、兼殿中尚書とされ、のち兼吏部尚書とされた。534年、高歓が洛陽を陥とすと殺害された。
 ⑸刁宣…字は季達。北魏の洛州刺史の刁遵の子、滄冀瀛三州刺史の刁整の弟。妻は東平王略の娘。略が梁に亡命すると一時逮捕された。功を挙げて高城県侯とされ、都官尚書・衛大将軍・滄州刺史を歴任した。崔孝芬と共に羊侃や北海王顥を討伐した。
 ⑹爾朱陽都…528年6月に葛栄の僕射の任褒が沁水に迫ると、上党王天穆らと共に討伐に赴いた。車騎将軍とされ、530年、孝荘帝が爾朱栄を誅殺した時に同時に殺害された。
 ⑺渣口…《読史方輿紀要》曰く、『渣口戍は兗州府の東南二百六十里→嶧県の東南にある。』

 戊寅(25日)、北魏は上党王天穆を大将軍・開府儀同三司とし、并州刺史の世襲を許した。

 12月、庚子(17日)、北魏が于暉邢杲を討つように命じた。暉は歴下(斉州の治所)に進んだ《魏孝荘紀》。

┃韓樓の乱
 この年葛栄の別帥だった韓樓・郝長らが数万を率いて幽州(薊城)にて叛し、北辺を乱した。爾朱栄は燕州刺史の侯淵と撫軍将軍の賀抜勝にその討伐を命じ、中山(定州)を鎮守させた。樓は勝の威名を恐れ、敢えて南下しようとはしなくなった。
 この時、別将の独孤如願が韓樓の漁陽王の袁肆周と一騎討ちをしてこれを捕らえ、この功によって員外散騎侍郎を授けられた。

○魏孝荘紀
 是歲,葛榮餘黨韓樓復據幽州反。
○魏47盧文翼伝
 文甫弟文翼,字仲祐。少甚輕躁,晚頗改節。為員外郎,因歸鄉里。永安中,為都督,守范陽三城,拒賊帥韓婁有功,賜爵范陽子。
○魏80侯淵伝
 榮啟淵為驃騎將軍、燕州刺史。時葛榮別帥韓樓 、郝長等有眾數萬,屯據薊城,尒朱榮令淵與賀拔勝討之。
○周14賀抜勝伝
 時洛周餘燼韓婁在薊城結聚,為遠近之害。復以勝為大都督,鎮中山。婁素聞勝威名,竟不敢南寇。
◯周16独孤信伝
 從征韓婁,信疋馬挑戰,擒賊漁陽王袁肆周,以功拜員外散騎侍郎。
○北斉22盧文偉伝
 時韓樓據薊城,文偉率鄉閭屯守范陽,與樓相抗。乃以文偉行范陽郡事。防守二年,與士卒同勞苦,分散家財,拯救貧乏,莫不人人感說。

┃お洒落好きの独孤郎
 独孤如願生年502、時に27歳)、字は期弥頭は、雲中の人である。拓跋氏の創業の時、三十六の部落がこれに協力したが、如願の祖先の独孤伏留屯はその内の一つの部落大人であった。祖父の独孤俟尼は和平年間(460~465)に良家の子弟という理由で武川鎮に移住することになった。父の独孤庫は領民酋長となり、若くして勇猛で節義を重んじ、北辺の人々に敬服された。母は費連氏
 如願は美男で、騎・射に優れていた。正光(520~525)の末に賀抜度抜らと共に衛可瓌を斬って名を知られるようになった。のち北辺の騒乱を避けて中山に赴いた所で葛栄に捕らえられた。如願青年は着飾ることを好み、服装が一般のそれと異なっていたので、軍中にて独孤郎(独孤の若殿)と呼ばれた。爾朱栄葛栄を滅ぼすと別将に任じられた。

◯周16独孤信伝
 獨孤信,雲中人也,本名如願。魏氏之初,有三十六部,其先伏留屯者,為部落大人,與魏俱起。祖俟尼,和平中,以良家子自雲中鎮武川,因家焉。父庫者,為領民酋長,少雄豪有節義,北州咸敬服之。信美容儀,善騎射。正光末,與賀拔度等同斬衞可孤,由是知名。以北邊喪亂,避地中山,為葛榮所獲。信既少年,好自修飾,服章有殊於眾,軍中號為獨孤郎。及爾朱氏破葛榮,以信為別將。
◯河内戻公墓誌
 母費連氏…公…字期弥頭。