[北魏:太和十七年 南斉:永明十一年]


┃陳顕達の静退
 春、正月、壬子朔(1日)、北魏の孝文帝が百官を太極殿に集めて宴会を開いた。

 癸丑(2日)、南斉の武帝が詔を下して言った。
『京師(建康)の囚人の罪状をもう一度良く調べ、〔無実だった者を〕釈放せよ。』
 戊午(7日)、使持節・散騎常侍・開府・都督豫州郢州之西陽司州之汝南二郡軍事・驃騎大将軍・豫州(寿陽)刺史の王敬則を司空とした。
 また、督江州諸軍事・江州刺史の鄱陽王鏘を領軍将軍とした。
 また、〔鏘の代わりに〕鎮軍大将軍〔・領中領軍〕の陳顕達を使持節・散騎常侍・都督江州諸軍事・征南大将軍・江州刺史とした。また、鼓吹(楽隊)一部を与えた。
 また、〔敬則の代わりに〕右衛将軍の崔慧景を持節・督豫州郢州之西陽司州之汝南二郡諸軍事・冠軍将軍・豫州刺史とした。


 陳顕達は控えめで穏やかな性格で、思慮深かった。自分が微賤の出身[1]だという事をよくわきまえ、昇進するたびにいつも過分な沙汰だと感じて恥ずかしく思い、恐縮した。ある時、十余人の息子にこう戒めて言った。
「父はもともと富貴になる事など望んでいなかった。お前たちは富貴を笠に着て無礼を働くでないぞ!」
 しかし、息子たちと王敬則の息子たちは立派な牛車に乗り、華麗な服装を身につけるようになった。当時、快牛(足が早い牛)として挙げられていたのは、陳〔顕達の〕世子の『青』・王三郎の『烏』・呂文顕の『折角』・江瞿曇の『白鼻』だったが、これらはいつしか全て陳家の牛舍の所有となった。顕達はこれを知ると不機嫌になった。
 子の陳休尚が郢府(江夏)主簿とされ、〔建康を発って〕九江(江州)を通った時、〔江州刺史の〕父に暇乞いをした。この時、顕達はこう言った。
「贅沢に溺れて身を滅ぼさなかった者は稀である。麈尾扇(麈尾蝿払。払子。仏教の法要の際に僧が威儀を示すために用いる法具)は王・謝(南朝の超名門)の家がお使いになられる高貴な物であり、お前たちが使っていいものではない。捨てるように。」
 かくて休尚から麈尾扇を奪って焼き捨てた。その謙虚ぶりはかくのごとくだった。

〔帝の異母弟の〕鄱陽王鏘は温和・従順な事で評判で、謙虚で文章を愛好し、帝に可愛がられ、南斉の諸王で初めて領軍将軍とされた。鏘は良く事務を処理し、人々から称賛を受けた。帝の外出の際には常に近衛兵を率いて付き従い、その厚遇ぶりは豫章王嶷に次いだ。この年、油絡車を与えられた。

◯魏孝文紀
 十有七年春正月壬子朔,帝饗百僚於太極殿。
○南斉武帝紀
 十一年春正月癸丑,詔「京師見繫囚,詳所原遣」。〔戊午,〕以驃騎大將軍〔、豫州刺史〕王敬則為司空,江州刺史鄱陽王鏘為領軍將軍,鎮軍大將軍陳顯達為江州刺史,右衞將軍崔慧景為豫州刺史。
◯南斉26王敬則伝
 七年,出為使持節、散騎常侍、都督豫州郢州之西陽司州之汝南二郡軍事、征西大將軍、豫州刺史,開府如故。進號驃騎。十一年,遷司空,常侍如故。
○南斉26・南45陳顕達伝
 出為使持節、散騎常侍、都督江州諸軍事、征南大將軍、江州刺史,給鼓吹一部。顯達謙厚有智計,自以人微位重,每遷官,常有愧懼之色。有子十餘人,誡之曰:「我本志(意)不及此,汝等勿以富貴陵人!」家既豪富,諸子與王敬則諸兒,竝精車牛,麗服飾。當世快牛稱陳世子青,王三郎烏,呂文顯折角,江瞿曇白鼻〔,而皆集陳舍〕顯達〔知此不悅。及子休尚為郢府主簿,過九江拜別。顯達〕謂其子曰:「〔凡奢侈者鮮有不敗,〕麈尾扇(麈尾蠅拂)是王謝家物,汝不須捉此自逐。」〔即取於前燒除之。其靜退如此。
◯南斉35鄱陽王鏘伝
 九年,始親府、州事。加使持節、督江州諸軍事、安南將軍,置佐史,常侍如故。先是二年省江州府,至是乃復。十一年,為領軍,常侍如故。鏘和悌美令,〔性謙慎,好文章,〕有寵於世祖,領軍之授,齊室諸王所未為。鏘在官理事無壅,當時稱之。車駕遊幸,常甲仗衞從,恩待次豫章王嶷。其年,給油絡車。
◯南斉51崔慧景伝
 明年,遷右衞將軍,加給事中。是時虜將南侵,上出慧景為持節、督豫州郢州之西陽司州之汝南二郡諸軍事、冠軍將軍、豫州刺史。

 ⑴孝文帝…拓跋宏。生年467、時に27歳。北魏の七代皇帝。在位471~。六代献文帝の長子。母は李夫人。490年に馮太后が亡くなると親政を始め、太后の路線を受け継いで数々の改革を行なった。
 ⑵南斉の武帝…蕭賾。字は宣遠。幼名は龍児。生年440、時に54歳。南斉の二代皇帝で、在位482~。初代高帝(蕭道成)の長子。母は劉智容。治世中に大きな戦争を起こさず、『永明の治』と呼ばれる安定した政治を敷いた。
 ⑶王敬則…晋陵南沙の人。母は巫女。両脇の下に長さ数寸の乳があった。学が無かったが地頭が良く、武芸を得意とし、劉宋の前廃帝に護衛役とされた。465年、寿寂之と共に帝を殺害した。474年、蕭道成に従って桂陽王休範の水軍を大破した。のち道成に心を寄せた。477年、沈攸之が荊州にて挙兵した際、宮内を平定した。斉国が建てられると中領軍とされた。479年、南斉が建国されると南兗州刺史とされたが、480年に北魏が侵攻してくると建康に逃げ帰った。のち呉興・会稽太守を歴任し、488年に中軍将軍とされ、489年、豫州刺史とされた。490年、驃騎大将軍とされた。
 ⑷鄱陽王鏘…蕭鏘。字は宣韶。生年469、時に25歳。初代高帝(蕭道成)の第七子。母は陸修儀。482年、武帝が即位すると雍州刺史とされた。486年に中央に戻って左衛将軍とされた。この時、高帝の喪が明けたばかりの武帝のやつれようを見て涙を流し、帝を感嘆させた。489年に丹陽尹、490年に江州刺史とされた。
 ⑸陳顕達…生年427、時に67歳。南彭城の人。南斉の名将の一人。劉宋の孝武帝の代に張永の前軍幢主とされ、以降多くの武功を挙げ、羽林監や濮陽太守とされた。474年に桂陽王休範が叛乱を起こすと蕭道成の指揮のもとこれを討伐し、その余党を杜姥宅付近にて大破した。この際、左目に矢が当たった。のち広州刺史とされ、477年に荊州刺史の沈攸之が挙兵すると道成に忠誠を貫いて援軍を派遣し、攸之の敗滅に貢献した。のち左衛将軍とされ、479年、南斉が建国されると中護軍とされた。480年、護軍将軍とされ、北魏が豫州に侵攻してくると南兗州刺史とされた。481年、益州刺史とされた。484年、侍中・護軍将軍とされた。487年、雍州にて桓天生が乱を起こすと雍州刺史とされてこれを討伐した。490年、侍中・鎮軍大将軍とされ、492年、領中領軍とされた。
 ⑹崔慧景…字は君山。生年438、時に56歳。名門清河崔氏の出。南斉の名将の一人。早くから蕭道成に近付き、南斉が建国されると梁南秦二州刺史とされ、李烏奴の乱を平定した。州では蓄財に励んだ。485年に黄門郎・領羽林監とされた。のち司州刺史とされ、491年、中央に戻って太子左率とされ、492年、右衛将軍・給事中とされた。
 [1]微賤の出身…陳顕達は南彭城の人で、兵士から成り上がった。
 ⑺呂文顕…臨海の人。低い出自の出身。劉宋の孝武帝の時に齋幹直長(小姓まとめ係)とされ、477年に蕭道成が録尚書事となると殿中侍御史・羽林監・帯蘭陵丞→令・龍驤將軍・秣陵令・劉陽県男などを歴任した。483年、寧朔将軍・中書通事舍人とされた。非常に厳しい態度で政務に当たった。485年、帯南清河太守とされた。茹法亮らと交代交代で外勤になったり舍人になったりを繰り返し、寵用を受けた。多くの付届けを受けて富裕となり、大豪邸を建てた。のち左中郎将・南東莞太守・右軍将軍とされた。
 ⑻江瞿曇…名門の済江氏の出。南斉の武帝の寵臣の一人。血筋の良さを以て中書通事舍人とされたが、権力は無かった。
 ⑼豫章王嶷…蕭嶷。字は宣儼。幼名は阿玉。444~492。南斉の高帝の次子。母は昭皇后で、武帝の同母弟。七尺八寸(約191cm)の長身で、優しく上品な性格をしており、帝に特に可愛がられた。474年に桂陽王休範が叛乱を起こすと父の指揮のもとこれを討伐した。478年に荊州刺史の沈攸之の乱が平定されると江州刺史→荊州刺史とされた。479年、南斉が建国されると驃騎大将軍・揚州刺史・豫章王とされ、のち荊湘二州刺史とされた。480年、司空・揚州刺史とされた。帝の死の際には悲しみの余り目と耳から血を流した。武帝が即位すると太尉とされた。高帝の在世中、武帝に代わって太子になりかけた事があったが、武帝の意に一度も逆らう事がなかったため帝に気に入られた。487年、大司馬とされた。492年に死去した。

┃魏斉緊張
 南斉の武帝が〔長年の和平(484年に締結)を破り、〕石頭(建康の近西にある城)にて露車(大八車。二輪の運搬車)三千台を製造し、 陸路より彭城(北魏の徐州)を攻略しようと図った。北魏はその動きを察知した。
 春、北魏の孝文帝は高官を経武殿(488年に建設)に集め、南伐について議論した。話が宋・斉の篡奪の事に及ぶと、〔劉宋の亡命皇族で北魏の宋王の〕劉昶は泣き悲しんで止まず、こう言った。
「臣は故国を蕭氏に滅ぼされ、つぶさに辛酸を嘗めました。魏国のお力を借りてこの屈辱を晴らしたく存じます。」
 かくて平伏して天恩を謝した。帝も涙を流し、以後昶をますます礼遇するようになった。
 帝は南斉の豫州・〔北〕徐州攻略を図り、淮水・泗水一帯に大量の秣(まぐさ。馬の飼料)を用意した。
 南斉が崔慧景を豫州刺史としたのはこれに対処するためだった。

○資治通鑑
 初,上於石頭造露車三千乘,欲步道取彭城,魏人知之。劉昶數泣訴於魏主,乞處邊戍,招集遺民,以雪私恥。以議南伐,於淮、泗間大積馬芻。上聞之,以右衛將軍崔慧景為豫州刺史以備之。
○魏59劉昶伝
 又為中書監。開建五等,封昶齊郡開國公,加宋王之號。十七年春,高祖臨經武殿,大議南伐,語及劉、蕭篡奪之事,昶每悲泣不已。因奏曰:「臣本朝淪喪,艱毒備罹,冀恃國靈,釋臣私耻。」頓首拜謝。高祖亦為之流涕,禮之彌崇。
○南斉51崔慧景伝
 是時虜將南侵,上出慧景為持節、督豫州郢州之西陽司州之汝南二郡諸軍事、冠軍將軍、豫州刺史。
○南斉57魏虜伝
 後於石頭造露車三千乘 ,欲步道取彭城,形迹頗著。…是後宏亦欲南侵徐、豫,於淮、泗間大積馬蒭。

 ⑴劉昶…字は休道。生年436、時に48歳。劉宋の文帝の第九子。母は謝容華。読書家で文才があった。445年、義陽王とされた。464年、都督徐兗南兗青冀幽六州豫州之梁郡諸軍事・徐州刺史とされた。465年、前廃帝に疑われて討伐を受けると北魏に亡命し、丹陽王とされ、武邑公主→建興長公主→平陽長公主を与えられた。479年、蕭道成が劉宋を滅ぼすと南伐に加わった。492年、宋王とされた。

┃使者派遣
 乙丑(正月14日)、北魏が員外散騎常侍の邢巒と員外散騎侍郎の劉承叔を南斉に派遣した(目的は不明。宣戦布告か、油断させるためか)。

 邢巒は字を洪賓といい、河間邢氏の出で、祖父は北魏の中書侍郎の邢穎、父は州主簿の邢修年。若年の頃から学問を好み、貧しさにめげずに勉学に打ち込み、遂に博識になるに至った。文章と実務に才能を有し、美しい髭を備え、非常に立派な容姿をしていた。州郡から推挙を受けて中書博士とされ、のち員外散騎侍郎とされると孝文帝に才能を認められた。

○魏孝文紀
 乙丑,詔曰:「夫駿奔入覲,臣下之常式;錫馬賜車,君人之恒惠。今諸邊君蕃胤,皆虔集象魏,趨鏘紫庭。貢饗既畢,言旋無遠。各可依秩賜車旗衣馬,務令優厚。其武興、宕昌,各賜錦繒纊一千;吐谷渾世子八百;鄧至世子,雖因緣至都,亦宜賚及,可賜三百。命數之差,皆依別牒。」(詔大賜諸蕃君長車、旗、衣、馬、錦綵、繒纊,多者一千,少者三百,各以命數為差。)詔兼員外散騎侍郎劉承叔使於蕭賾【[七]北史卷三作「兼員外散騎常侍邢巒使於齊」。通鑑卷一三八四三二六頁也作「邢巒」,而官却同魏書。趙翼陔餘叢考卷八云:「按遣使必兩人,魏書遣使皆兩人並書,北史止書正使一人,此次魏書只書劉承叔,蓋脫落正使邢巒也。」按邢巒出使事見卷六五本傳。魏遣使南朝,通例正使兼散騎常侍,副使兼散騎侍郎。劉承叔官銜就說明他是副使。又南齊書卷五七魏虜傳載太和十七年鹿樹生移文也有「會前使人邢巒等至」的話。這裏「詔」下脫去「兼員外散騎常侍邢巒」九字】。
○魏65邢巒伝
 邢巒,字洪賓,河間鄚人也。五世祖嘏,石勒頻徵,不至。嘏無子,巒高祖蓋,自旁宗入後。蓋孫穎,字宗敬,以才學知名。世祖時,與范陽盧玄、勃海高允等同時被徵。後拜中書侍郎,假通直常侍、寧朔將軍、平城子,銜命使於劉義隆。後以病還鄉里。久之,世祖訪穎於羣臣曰:「往憶邢穎長者,有學義,宜侍講東宮,今其人安在?」司徒崔浩對曰:「穎臥疾在家。」世祖遣太醫馳驛就療。卒,贈冠軍將軍、定州刺史,諡曰康。子脩年,即巒父也,州主簿。巒少而好學,負帙尋師,家貧厲節,遂博覽書傳。有文才幹略,美鬚髯,姿貌甚偉。州郡表貢,拜中書博士,遷員外散騎侍郎,為高祖所知賞。兼員外散騎常侍,使於蕭賾,還,拜通直郎,轉中書侍郎。

┃太子長懋の死
 この月(正月、南斉の太子長懋ボウが重病に罹った。武帝は心配し、自ら見舞いに赴いた。
 乙亥(正月24日)、太子が東宮の崇明殿にて逝去した(享年36)。
 太子は成人後に太子とされ(482年、25歳)、長期に亘って東宮にいて(482~493)政治に参与した。帝は晚年に宴会を好むようになると、尚書省から提出された書類の何割かを太子のもとに送り、代わりに決裁させた。百官たちは遅かれ早かれ太子が帝の跡を継ぐだろうと考えていたので、太子が亡くなると一様に驚き惜しんだ。武帝は東宮(太子宮)に赴いて哭礼を行ない、非常な悲しみようを見せた。文恵と諡し、衮冕の服(皇帝の礼服)を着せて崇安陵に埋葬した。

 太子と竟陵王子良は共に仏教を厚く信じ、六疾館を立てて貧しい病人を救済した。また、物腰が柔らかかった。
 ただ、非常な派手好みで、東宮内の建物は全て精巧な彫刻で飾り立て、その豪華さは皇宮を超えるほどだった。また、玄圃園を台城の北塹まで拡張し、その中に山や池を築き、高層建築を建て、多くの奇岩を集め、山水の美を極めた庭園に作り上げた。その建設費用は莫大な数に上った。太子はこの玄圃園が皇宮から望見されるのを恐れ、門の辺りに竹を植え、その内部に高い壁を築いて覆い隠した。また、諸機巧を施した可動式の壁を作ったが、これは隠すべき時にはたちまちの内に数百間の壁となり、必要が無くなった時はすぐさま撤去する事ができた。
 また、珍しい物を作るのが得意で、例えば孔雀の羽毛を織った物で裘(けごろも)を作ったが、そのきらびやかさは雉の頭の羽毛で作った裘以上だった。
 また、お気に入りの部下の徐文景に輦輿(皇帝用の乗り物)や皇帝用の調度品、虎賁(儀仗兵)の幟旗などを作らせた。あるとき、帝が東宮にやってきたが、あまりに突然のことだったため輦を隠す暇が無かった。この時、文景が仏像を輦の中に入れ、〔仏像のために作った物のように装うと、〕帝はなんの疑いも抱かなかった。文景の父で給事中の徐陶仁は文景にこう言った。
「お前はいつか我が家を滅ぼすだろう。私は墓を綺麗にしてその時が来るのを待つだけだ!」
 かくて引っ越しをして文景と距離を置いた。のち、文景が果たして自殺させられると、陶仁は全く泣こうとせず、古人のような気風があると評された。
 また、東晋の〔二代皇帝の〕明帝が太子の時に西池を作った前例を引き合いに出して、帝に東田(鍾山〈建康の近東北〉の麓にある楼館)に小苑を作る許可を求めて許された。永明年間(483~493)は二宮(皇宮・東宮)の兵力が完備した時で、太子はその東宮中の将兵を動員して交代交代で工事に当たらせた。その結果、〔小苑は〕宮城の庭園の〔中で最も〕立派なものとなり、都中から見物人が詰めかけた。
 帝は厳格な性格で至る所に耳目(典籤)を放っていたが、太子の行ないを敢えて報告する者はいなかった。のち、帝が豫章王〔嶷〕宅に赴き、帰りに太子の東田の傍を通った際、その広大で華麗なのを目にして激怒し、監作主帥(工事監督)を捕らえ、尋問しようとした。太子は恐れおののき、主帥を匿った。以後、間断なく叱責を受けるようになった。

 太子はもともと病気がちで、しかも非常に太っており、常に東宮内にいて遊んで暮らし、後継者としての資質に大いに疑問符が付く人物だったが、東宮と皇宮が非常に近い距離にあったのに、帝は太子の死までこれに気づくことが無かった。

 帝は〔哭礼をしに〕東宮に赴いた際、その調度類が豪華なのを見て激怒し、担当官に命じて隨事破壊・撤去させた。また、太子と仲良くしていた竟陵王子良がこの事を報告しなかったのを責め立てた。

 太子は平素から〔従伯父の〕西昌侯鸞を毛嫌いしており、あるとき密かに竟陵王子良にこう言った。
「私は従伯父が嫌いで嫌いで仕方が無いが、その理由がいまいち分からないでいた。〔今考えてみるに、〕きっと善行を殆どしていないのが原因なのだろう。」
 子良は何度も鸞の弁護をした。のち、鸞が即位すると、果たして太子の子孫は皆殺しに遭った。

○資治通鑑
 丙子,文惠太子長懋卒。太子風韻甚和,上晚年好遊宴,尚書曹事分送太子省之,由是威加內外。…又使嬖人徐文景…文景父陶仁謂文景曰:「我當掃墓待喪耳!」…「我意中殊不喜此人,不解其故,當由其福薄故也。」
○南斉武帝紀
 丙子(乙亥)【[二九]「丙子」南史齊紀作「乙亥」。通鑑從齊書。按長曆,是年正月壬子朔,二十四日乙亥,二十五日丙子。按鬱林王追尊長懋為文帝,廟號世宗。禮志下有「有司以世宗文皇帝今二年正月二十四日再忌日」語,則以作「乙亥」為是。】,皇太子長懋薨。
○南史南斉廃帝紀
 先是文惠太子立樓館於鍾山下,號曰「東田 」,太子屢游幸之。
○南斉21・南44文恵太子長懋
 上晚年好遊宴,尚書曹事亦分送太子省視。太子與竟陵王子良俱好釋氏,立六疾館以養窮民。風韻甚和,而性頗奢麗。宮內殿堂,皆雕飾精綺,過於上宮。開拓玄圃園,與臺城北塹等。其中〔土山、池閣、〕樓觀、塔宇,多聚奇()石,妙極山水(窮奇極麗)〔,費以千萬〕。慮上宮望見,乃傍門列脩竹,內施高鄣,造游牆數百閒,施諸機巧,宜須鄣蔽,須臾成立,若應毀撤,應手遷徙。善製珍玩之物,織孔雀毛為裘,光彩金翠,過於雉頭〔〕矣。以晉明帝為太子時立西池,乃啟世祖引前例,求東田起小苑,上許之。永明中,二宮兵力全實,太子使宮中將吏更番役築,宮城苑巷,制度之盛,觀者傾京師。上性雖嚴,多布耳目,太子所為,無敢啟者。後上幸豫章王宅,還過太子東田,見其彌亘華遠,壯麗極目,於是大怒,收監作主帥,太子懼,皆藏匿之,由是見責。
 太子素多疾,體又過壯,常在宮內,簡於遨遊。玩弄羽儀,多所僭儗,雖咫尺宮禁,而上終不知。〔又使徐文景造輦及乘輿御物虎賁雲罕之屬,上嘗幸東宮,怱怱不暇藏輦,文景乃以佛像內輦中,故上不疑。文景父陶仁時為給事中,謂文景曰:「終當滅門,政當掃墓待喪耳。」及移家避之。其後文景竟賜死,陶仁遂不哭,時人以為有古人風。〕十年,豫章王嶷薨,太子見上友于既至,造碑文奏之,未及鐫勒。十一年春正月,太子有疾,上自臨視,有憂色。疾篤,上表曰:「臣地屬元良,業微三善,光道樹風,於焉蓋闕,晨宵忷懼,有若臨淵。攝生舛和,構離痾疾,大漸惟幾,顧陰待謝,守器難永,視膳長違,仰戀慈顏,內懷感哽。竊惟死生定分,理不足悲,伏願割無已之悼,損既往之傷,寶衞聖躬,同休七百,臣雖沒九泉,無所遺恨。」〔薨于東宮崇明殿,〕時年三十六。
 太子年始過立,久在儲宮,得參政事,內外百司,咸謂旦暮繼體,及薨,朝野驚惋焉。上幸東宮,臨哭盡哀,詔斂以衮冕之服,諡曰文惠,葬崇安陵。世祖履行東宮,見太子服翫過制,大怒,勑有司隨事毀除,以東田殿堂〔〕為崇虛館。鬱林立,追尊為文帝,廟稱世宗。初太子內懷惡明帝,密謂竟陵王子良曰:「我意色中殊不悅此人,當由其福德薄所致。」子良便苦救解。後明帝立,果大相誅害。
○南斉40竟陵文宣王子良伝
 文惠太子薨,世祖檢行東宮,見太子服御羽儀,多過制度,上大怒,以子良與太子善,不啟聞,頗加嫌責。

 ⑴太子長懋…蕭長懋。字は雲喬。幼名は白沢。生年458、時に36歳。武帝の長子。母は穆皇后。ふくよかな体をしていた。482年、父が即位すると皇太子とされた。
 ⑵竟陵王子良…蕭子良。字は雲英。生年460、時に34歳。武帝の次子。母は穆皇后で、太子長懋の同母弟。才能と学識に優れ、才能のある者を礼遇した。高潔な性格で、熱心な仏教信者。482年、武帝が即位すると竟陵王・南徐州刺史とされた。483年、侍中・南兗州刺史とされた。484年、護軍将軍・兼司徒とされ、西州城に住んだ。487年、正司徒とされた。鶏籠山に居を移し、《四部要略》を編纂するなど大いに文化事業を行ない、そのサロンには『竟陵八友』と呼ばれる著名な文人貴族たちが集まった。492年、揚州刺史・中書監とされた。
 ⑶278年に西晋の太医司馬の程拠が雉頭裘を武帝に献上したが、奇抜な衣服は礼法に外れるとして焼き捨てられた。
 ⑷西昌侯鸞…蕭鸞。字は景栖。幼名は玄度。生年452、時に42歳。高帝の次兄の始安王道生の子。幼くして父を喪い、高帝に養育を受け、実子以上に大切に育てられた。倹約家で、侯となったのちも車や従者を質素なものとした。472年に安吉令とされると厳格な能吏という評判を得た。479年、南斉が建国されると西昌侯とされた。480年に郢州刺史、487年に豫州刺史、489年に尚書右僕射、492年に左僕射とされた。493年、右衛将軍を兼ねた。

┃伏連籌を王と認める
 この日(正月24日)、北魏に勿吉国(満洲地域にある)の朝貢の使者が到着した。

〔これより前、吐谷渾王の慕容度易侯が死ぬと(490年)、子の慕容伏連籌が跡を継いだ。孝文帝は平城まで朝見してくるよう求めたが、伏連籌は病と称して聞き入れず、国境の守りを固めた。帝はそこでこれを討伐した(491年)。のち(492年)、伏連籌は世子の慕容賀魯頭を平城に派遣して朝見させた。〕
 丙子(25日)、吐谷渾の慕容伏連籌を使持節・都督西垂諸軍事・征西将軍・領護西戎中郎将・西海郡開国公・吐谷渾王とした。

 庚辰(29日)、大司馬の安定王休と太保の斉郡王簡の朔望(一日と十五日)の朝見を免除した。


 これより前、太子長懋が死ぬと南斉はその第二子で冠軍将軍・持節・督南豫州諸軍事・南豫州(姑孰)刺史の臨汝公昭文を建康に呼び戻していた。
 2月、壬午(1日)、侍中・車騎将軍の廬陵王子卿を代わりに使持節・都督南豫豫司三州軍事(淮西軍司令官)・驃騎将軍・南豫州(姑孰。建康の西南)刺史とし、侍中はそのままとした。
 また、撫軍将軍〔・丹陽尹?〕の安陸王子敬を車騎将軍とした。

 昭文(生年480、時に14歳)は字を季尚という。母は宮女の許氏。永明四年(486)に臨汝公(邑千五百戸)とされた。初め輔国将軍・〔南〕済陽(南徐州にある)太守とされ、十年(492)に持節・督南豫州諸軍事・南豫州刺史とされ、将軍はそのままとされた。今年、冠軍将軍に進められた。

 乙酉(4日)、北魏が律令の議論に参与した者たちに差をつけて下賜を行なった。
 己丑(8日)《北史》では『己酉(28日)』〉、孝文帝が初めて都の平城の南にて籍田の儀式(宗廟に供える祭祀用の穀物を天子みずから耕作した儀式)を行なった。

○魏孝文紀
 乙亥,勿吉國遣使朝獻。丙子,以吐谷渾伏連籌為其國王。庚辰,蠲大司馬、安定王休,太保、齊郡王簡朔望之朝。二月乙酉,詔賜議律令之官各有差。己丑(酉),車駕始籍田於都南。
○南斉武帝紀
 二月壬午,以車騎將軍廬陵王子卿為驃騎將軍、南豫州刺史,撫軍將軍安陸王子敬進號車騎將軍。
○南斉海陵紀
 海陵恭王昭文字季尚,文惠太子第二子也。永明四年,封臨汝公,邑千五百戶。初為輔國將軍、濟陽太守。十年,轉持節、督南豫州諸軍事、南豫州刺史,將軍如故。十一年,進號冠軍將軍。文惠太子薨,還都。
○魏101吐谷渾伝
 拜伏連籌使持節、都督西垂諸軍事、征西將軍、領護西戎中郎將、西海郡開國公、吐谷渾王,麾旗章綬之飾皆備給之。
○南斉40廬陵王子卿伝
 俄遷使持節、都督南豫豫司三州軍事、驃騎將軍、南豫州刺史,侍中如故。
○南斉40安陸王子敬伝
 十年,轉散騎常侍、撫軍將軍、丹陽尹。十一年,進車騎將軍。尋給鼓吹一部。
○南斉50文二王伝
 宮人許氏生海陵恭王昭文。

 ⑴安定王休…拓跋休。字は伐伏玄。景穆太子の子。五代文成帝の弟。若い頃から聡明で、判断力があった。庫莫奚が侵攻してくると和龍鎮将とされ、柔然が侵攻してくると撫冥鎮大将とされた。491年に太傅、492年に大司馬とされた。
 ⑵斉郡王簡…拓跋簡。字は叔亮。生年460、時に34歳。五代文成帝の第四子。六代献文帝の弟。母は北涼の三代君主の沮渠牧犍の娘。外祖父の沮渠蒙遜に性格も顔もよく似ていた。491年に太保とされた。
 ⑶廬陵王子卿…蕭子卿。字は雲長。生年468、時に26歳。武帝の第三子。母は張淑妃で、太子長懋・竟陵王子良の異母弟。483~7年、荊州刺史とされたが、贅沢な武具馬具や衣服を作り、武帝から叱責を受けた。
 ⑷安陸王子敬…蕭子敬。字は雲端。生年472、時に22歳。武帝の第五子。母は周淑儀。484年、南兖州刺史とされ、487~9年、都督荊湘梁雍南北秦六州軍事・荊州刺史とされた。492年、撫軍将軍・丹陽尹とされた。

┃王奐誅殺
〔これより前(491年)、南斉は尚書左僕射の王奐を使持節・散騎常侍・都督雍梁南北秦四州郢州之竟陵司州之隨郡軍事・鎮北将軍・雍州(襄陽)刺史としていた。〕
 奐は寧蛮長史の劉興祖と不仲だった。〕
 ある時、奐は軍主の朱公恩に蛮族を討たせたが敗北した。興祖がこれを朝廷に報告しようとすると、奐は激怒して興祖を捕らえて牢屋に入れた。すると興祖は獄中にて針で漆合盤(漆器の大皿)に字を書いて家族のもとに送り、不当に逮捕されている事を朝廷に伝えさせた。この時、奐も朝廷に急使を派し、興祖が蛮族を扇動したと誣告したが、帝は興祖の家族から不当逮捕の事を知っていたため、〔これを信じず、〕興祖を都の建康に帰還させるよう命じた。奐は嘘がばれることを恐れ、興祖を殺害した。
 武帝は激怒し、御史中丞の孔稚珪に事件の推移を報告させたのちこう言った。
『雍州刺史の王奐は「寧蛮府長史の劉興祖が山蛮を扇動して叛乱を図っている」と偽りの報告をした。朝廷が興祖を都に送るよう命じると、奐は嘘がばれる事を恐れ、獄中にて興祖を打ち殺し、朝廷には「興祖は首吊り自殺した」と偽りの報告をした。ただ、いま興祖の遺体を検死してみるに、その腿は青黒くなっており、そこから嘘であることが判明した。
 また、興祖の門生(弟子、私有民)の劉倪を朝廷に呼んで詳しく問いただした結果、このような事を並べ立てて言った。「奐は興祖と一緒に仕事をしていましたが、仲良くすることができませんでした。去年、朱公恩に蛮族を討伐させて失敗し、興祖がその報告書を作って奐に見せた所、奐は遂に恨みを抱くようになりました。去年の九月十八日、奐は衛兵三十人を興祖のもとに遣り、勅命と称して逮捕し、投獄しました。興祖にもし罪があると言うのなら、民間で悪事を働いた以外にあり得ないのですが、雍州の人々は平穏無事でありますので、その可能性は全く皆無なのです。〔それなのに、奐は興祖を逮捕したのであります。また、〕これより前、安定郡の蛮族のある者は郡にて賄賂を受け取っており、興祖はこれを知ると上表しましたが、奐は不問としました。のち、興祖が逮捕されるに及び、奐はこの蛮人に衛兵を率いさせ、監視役とさせました。興祖は死ぬ前に獄中にて物を用いて漆柈子(漆器の大皿)の中に字を書き、これを密かに家族のもとに送って不当に逮捕されている事を朝廷に報告させ、都に出て弁解する事ができたなら、何万回死ぬことになっても恨む事は無いと言いました。」また、こう言った。「奐は興祖を監禁して使者を遣わす事を禁じ、何か企んだら舌を引っこ抜いて殺すと言いました。」また、こう言った。「奐の殺意はそこそこでありました。興祖を殺すよう唆したのは、奐に随行して州に赴き、州政の全てに関与していた奐の第三子の王彪であります。」また、こう言った。「〔奐は〕興祖の家から送られてきた糜()の中に下剤を入れ、興祖がこれを食べると二口目にして早くも便意を催しました。興祖はこれを獄卒にも食べさせてみた所、みな酷い下痢に襲われました。興祖はそこで『粥の中に下剤が入っている!』と叫びました。牢獄近くの家の者でこの言葉を聞かなかった者はいませんでした。」また、こう言った。「奐の取り調べは日に日に急となり、その判決には理が通っていませんでした。十一月二十一日、奐は獄吏を興祖の家に遣り、興祖が首吊り自殺したと伝えさせました。〔しかし、〕送られてきた遺体を家族が洗って綺麗にした所、興祖の首に傷はあったものの、〔他にも〕肩甲骨辺りは真っ黒になっていたり、陰下(股下?)がめちゃめちゃに砕かれていたりしており、興祖が首を吊って死んだというのは全くの出鱈目であることが明らかになりました。この検死には興祖の家族と門生・義従(私有民)が参加しており、一人だけが見たわけではありません。」また、検雍州都留の田文喜も、倪と同じような事を言上してきた。
 送還の勅命は十一月十九日に雍州に到っていたのに、興祖は二十一日に死んだ。興祖は獄中にてただただ都へ行って弁明する事だけを望み、その願いは勅命によって叶えられたばかりだったのに、どうして自ら首を吊ったりしようか? 状況証拠から推理するに、興祖が自殺したというのは明らかに嘘偽りである。朕は勅使を派遣して奐を都に呼びつけたが、奐はこれを拒んだ。また、これまでに朕の耳に入れられた誹謗の言は、全て奐から発されたものであり、その讒訴は今は亡き丞相(豫章王嶷)から陳顕達にまで及んだ。朝政をここまで酷く誹謗した例は他に無い。また、奐の子の王彪は私的に父に随行して雍州に赴き、〔その統治に口出しして〕国法を乱した。彼らの罪はみな万死に値する。』
 かくて帝は中書舍人の呂文顕と直閤将軍の曹道剛に齋仗(近衛兵[2]五百人を与え、奐を逮捕しに行くよう命じた。
 この日(2月8日)、南斉が輔国将軍・鎮西司馬・南平(荊州の南)内史(王国がある地の太守の名称)の曹虎を持節・督梁南北秦沙四州諸軍事・西戎校尉・梁南秦二州刺史とし、数百の兵を率いて江陵(荊州)より陸路進軍し、襄陽にて文顕らと合流するよう命じた。


〔奐の〕女婿で雍州長史の殷叡字は文子。名門の陳郡殷氏の出)は災いが自分にも及ぶのを恐れ、奐にこう言った。
「今、曹・呂が〔勅命と称して〕やって来ましたが、確実に勅書と分かる物を送ってきてはいません。もしかすると彼奴らが〔陛下の同意を得ずに〕独断専行してやってきた可能性があります。ゆえに、ここは彼奴らを捕らえたのち、急使を派して陛下の気持ちを確かめるのが良いかと存じます。」
 奐はこれを聞き入れた[3]
 奐の子の王彪は凶悪愚昧な性格で、父の奐でもどうすることもできないほどであり、頗る州政に関与して人々から恨まれていた。この時、呂文顕は漆箱の中に箜篌(ハープに似た弦楽器)を入れ、船中に置いていたが、これを知るとこう偽って言った。
「この中には陛下に授けられた宝剣が入っている。陛下はこれを用いて王彪を斬れとお命じになられた。」
 彪は曹道剛・曹虎・呂文顕が合流して強盛となったのと、文顕の言葉を恐れたのとで、遂に州内より千余の兵を集め、鎮庫を開いて武器・軍服・鎧兜を配り、南堂に兵を並べ、門を閉じて抵抗した。
 奐の門生の鄭羽が叩頭して奐に城を出て朝使を迎えるよう求めると、奐は言った。
「私は何も罪を犯してなどいないし、先んじて朝廷に弁明の使者も派遣するつもりだった。ただ、曹・呂ら小人が独断専行して私を亡き者にしようとしてくるから、門を閉じて我が身を守っているだけなのだ。」
 かくて彪が出撃して虎軍と戦ったが、その一党の范虎が二百の兵と共に官軍に降ってしまったため、敗走して帰った。すると州の人々が挙兵して州城の西門に攻めかかった。彪は門楼に登って防戦の指揮を執り、これを撃退した。
 この時、奐の司馬の黄瑤起と寧蛮長史・広平(襄陽の西北)太守の裴叔業が私兵を率いて城内にて挙兵し、奐を攻めた。奐は兵がやってくるのを聞くと家に帰って仏壇の前に座り、仏陀を拝んだ。兵士は奐が立ち上がる前にその首を斬った(享年59
 彪とその弟の王爽・王弼殷叡らもみな誅殺された。
 奐の長子で太子中庶子の王融と、融の弟で司徒従事中郎の王琛は都の建康にて公開処刑された。
 ただ、残りの孫たちはみな赦された。
 琛の弟で秘書丞の王粛は建康を脱出して北魏に亡命した。
 粛(生年464、時に30歳)は字を恭懿といい、若年の頃から聡明で、書物を読み漁り、非常に大きな志を抱いていた。南斉の武帝に仕えて著作郎・太子舍人・司徒主簿・秘書丞を歴任した。自ら礼経・易経に通じていると称したが、実際はまだその大義に達していなかった。

 奐の弟で大司農の王份は自らを縛って処罰を求めた。帝はその忠誠を知り、説諭したのち解放した。
 份(生年446、時に48歳)は字を季文といい、十四歳の時に父(王粋)を亡くした。出仕して車騎主簿とされ、のち寧遠将軍・始安内史とされた。袁粲が誅殺された時(477年に反蕭道成の兵を起こして殺された)、友人たちはみな弔問に行かなかったが、份のみ赴いて慟哭し、これ以降名を知られるようになった。のち太子中舍人・太尉属とされた。のち晋安内史とされた。のち次第に昇進して中書侍郎とされ、次いで大司農とされた。

 奐の弟の王伷の娘は長沙王晃の妃となっていた。帝は詔を下して言った。
「長沙王妃の伯父の奐は叛逆者の身となったが、妃の産んだ子どもたちはみな成長してしまっているし、奐は従祖父の王球の跡を継いでいて伷の家と関係が薄くなっているし、前代にも例がある。よって、特別に離縁しない事とする。」

 奐が誅殺された時、友人たちは誰も弔問に行かなかったが、奐の参軍で汝南の人の許明達のみ遺体を引き取って非常に手厚い葬儀を行なった。人々はその節義を褒め称えた。
 
 癸卯(22日)、〔帝の子で〕新除中書監の晋安王子懋を使持節・都督雍梁南北秦四州郢州之竟陵司州之隨郡軍事・征北将軍・雍州刺史とし、鼓吹(楽隊)一部を与えた。
 この時、子懋はまだ〔叔父の〕豫章王嶷の喪を終えていなかった(嶷の死は去年の4月。伯父の服喪期間は1年)が、帝は国境の州には威光と人望がある者でなければならないと考え、特別に許可して赴任させた。
 子懋が上表して好書(内容の優れた本)を求めると、帝はこう言った。
「お前がいつも読書に気に留めているのを知れて、非常に嬉しい限りである。」
 かくて杜預が校定した《左伝》(春秋左氏経伝集解?)と〔劉宋の范泰が編纂した〕《古今善言》を与えた。

 丙午(25日)、冠軍将軍〔・北兗州刺史?〕の王文和を益州(成都)刺史とした。
 3月丙寅(16日)、金紫光禄大夫の王晏を尚書右僕射とした。

 戊辰(18日)、北魏が後宮を改築した。
 孝文帝が永興園に赴いたのち、宣文堂に移った。
 吐谷渾国が朝貢してきた。

○資治通鑑
【齋仗,齋庫精仗以給禁衛勇力之士】【考異曰:南史:「奐子彪議閉門拒命。叡諫曰:『今開門白服接臺使,不過隳官免爵耳。』彪堅執不同。叡又請遣典籤間道送啟,奐從之。典籤出城,為文顯所執。叡曰:『忠不背國,勇不逃死。』勸奐仰藥。叡與彪同誅。」今從齊書
○魏孝文紀
 三月戊辰,改作後宮,帝幸永興園,徙御宣文堂。吐谷渾國遣使朝獻。
○南斉武帝紀
 二月…己丑,輔國將軍曹虎為梁、南秦二州刺史。癸卯,以新除中書監晉安王子懋為雍州刺史。丙午,以冠軍將軍王文和為益州刺史。三(二)月乙亥(《南史》には日の記載無し),雍州刺史王奐伏誅。〔丙寅,以金紫光祿大夫王晏為尚書右僕射。
○魏63王粛伝
 王肅,字恭懿,琅邪臨沂人,司馬衍丞相導之後也。父奐,蕭賾尚書左僕射。肅少而聰辯,涉獵經史,頗有大志。仕蕭賾,歷著作郎、太子舍人、司徒主簿、祕書丞。肅自謂禮、易為長,亦未能通其大義也。父奐及兄弟並為蕭賾所殺,肅自建業來奔,是歲,太和十七年也。
○魏98島夷伝
 十七年,賾雍州刺史王奐與南蠻長史劉興祖論眾罪,賾以興祖付獄,令送還建業。奐輒於獄殺之,而云自死。賾怒,遣其直閤將軍曹道剛、梁州刺史曹虎收奐,奐閉門拒戰。司馬黃瑤起於城內起兵攻奐,殺之,奐子祕書丞肅、肅弟秉來降。
○南斉30曹虎伝
 以虎為輔國將軍、鎮西司馬、南平內史。十一年,收雍州剌史王奐,敕領步騎數百,步道取襄陽。仍除持節、督梁南北秦沙四州諸軍事、西戎校尉、梁南秦二州刺史,將軍如故。尋進號征虜將軍。
○南斉40晋安王子懋伝
 十年,入為侍中,領右衞將軍。十一年,遷散騎常侍,中書監。未拜,仍為使持節、都督雍梁南北秦四州郢州之竟陵司州之隨郡軍事、征北將軍、雍州刺史,給鼓吹一部。豫章王喪服未畢,上以邊州須威望,許得奏之。〔啟求所好書,武帝曰:「知汝常以書讀在心,足為深欣。」賜以杜預手所定左傳及古今善言。
○南斉42王晏伝
 十年,改授散騎常侍、金紫光祿大夫,給親信二十人,中正如故。十一年,遷右僕射,領太孫右衞率。
○南斉49王奐伝
 乃轉為左僕射,加給事中,出為使持節、散騎常侍、都督雍梁南北秦四州郢州之竟陵司州之隨郡軍事、鎮北將軍、雍州刺史。上謂王晏曰:「奐於釋氏,實自專至。其在鎮或以此妨務,卿相見言次及之,勿道吾意也。」上以行北諸戍士卒多繿縷,送袴褶三千具,令奐分賦之。〔與寧蠻長史劉興祖不睦。
 十一年,〔奐遣軍主朱公恩征蠻失利,興祖欲以啟聞,奐大怒,收付獄。興祖於獄以針畫漆合盤為書,報家稱枉,令啟聞,而奐亦馳信啟上,誣興祖扇動荒蠻。上知其枉,敕送興祖還都,奐恐辭情翻背,輒殺之。〕奐輒殺寧蠻長史劉興祖,上大怒,使御史中丞孔稚珪奏其事曰:
『雍州刺史王奐啟錄小府長史劉興祖,虛稱「興祖扇動山蠻,規生逆謀,誑言誹謗,言辭不遜」。敕使送興祖下都,奐慮所啟欺妄,於獄打殺興祖,詐啟稱自經死。止今體傷楗蒼[黒+敢],事暴聞聽。攝興祖門生劉倪到臺辨問,列「興祖與奐共事,不能相和。自去年朱公恩領軍征蠻失利,興祖啟聞,以啟呈奐,奐因此便相嫌恨。若云興祖有罪,便應事在民間;民間恬然,都無事迹。去十年九月十八日,奐使仗身三十人來,稱敕錄興祖付獄。安定郡蠻先在郡贓私,興祖既知其取與,即牒啟,奐不問。興祖後執錄,奐仍令蠻領仗身於獄守視。興祖未死之前,於獄以物畫漆柈子中出密報家,道無罪,令啟乞出都一辨,萬死無恨」。又云:「奐駐興祖嚴禁信使,欲作方便,殺以除口舌。」又云:「奐意乃可。奐第三息彪隨奐在州,凡事是非皆干豫,扇構密除興祖。」又云:「興祖家餉糜,中下藥,食兩口便覺,回乞獄子,食者皆大利。興祖大叫道『糜中有藥』。近獄之家,無人不聞。」又云:「奐治著興祖日急,判無濟理。十一月二十一日,奐使獄吏來報興祖家,道興祖於獄自經死。尸出,家人共洗浴之,見興祖頸下有傷,肩胛烏[黒+敢],陰下破碎,實非興祖自經死。家人及門義共見,非是一人。」重攝檢雍州都留田文喜,列與倪符同狀。興祖在獄,嗛苦望下,既蒙降旨,欣願始遂,豈容於此,方復自經?敕以十九日至,興祖以二十一日死,推理檢迹,灼然矯假。尋敕使送下,奐輒拒詔,所謗諸條,悉出奐意。毀故丞相若陳顯達,誹訕朝事,莫此之深。彪私隨父之鎮,敢亂王法,罪竝合窮戮。』
 上遣中書舍人呂文顯、直閤將軍曹道剛領齋仗五百人收奐。〔又別〕敕()鎮西司馬(梁州刺史)曹虎從(自)江陵步道會(出)襄陽。
〔長史,奐〕女婿殷叡懼禍,謂奐曰:「曹、呂今來,既不見真敕,恐為姦變,政宜錄取,馳啟聞耳。」奐納之。奐子彪素凶剽(愚),奐不能制。〔頗干時政,士人咸切齒。時文顯以漆匣匣箜篌在船中,因相誑云,「臺使封刀斬王彪」。及道剛、曹武、文顯俱至,眾力既盛,又懼漆匣之言,〕彪輒令率州內得千餘人,開鎮庫,取仗,配衣甲,出南堂陳兵,閉門拒守(於是議閉門拒命。)。〔諫曰:「今開城門,白服接臺使,不過檻車徵還,隳官免爵耳。」彪堅執不從,叡又曰:「宜遣典籤間道送啟自申,亦不患不被宥。」乃令叡書啟,遣典籤陳道齊出城,便為文顯所執。叡又曰:「忠不背國,勇不逃死,百世門戶,宜思後計,孰與仰藥自全,則身名俱泰,叡請先驅螻蟻。」又不從。〕奐門生鄭羽叩頭啟奐,乞出城迎臺使。〔奐〕曰:「我不作賊,欲先遣啟自申。政恐曹、呂輩小人相陵藉,故且閉門自守耳。」彪遂出與虎軍戰,其黨范虎領二百人降臺軍,彪敗走歸。土人起義攻州西門,彪登門拒戰,卻之。奐司馬黃瑤起、寧蠻長史裴叔業於城內起兵攻奐。奐聞兵入,還內禮佛,未及起,軍人遂斬之。年五十九。執彪及弟爽、弼、殷叡,皆伏誅。
 詔曰:「逆賊王奐,險詖之性,自少及長。外飾廉勤,內懷凶慝,貽戾鄉伍,取棄衣冠。拔其文筆之用,擢以顯任,出牧樊阿,政刑弛亂。第三息彪矯弄威權,父子均勢。故寧蠻長史劉興祖忠於奉國,每事匡執,奐忿其異己,誣以訕謗,肆怒囚錄,然後奏聞。朕察奐愚詐,詔送興祖還都,乃懼姦謀發露,潛加殺害。欺罔既彰,中使辯覈,遂授兵登陴,逆捍王命。天威電掃,義夫咸奮,曾未浹辰,罪人斯獲,方隅克殄,漢南肅清。自非犯官兼預同逆謀,為一時所驅逼者,悉無所問。」奐長子太子中庶子融,融弟司徒從事中郎琛,於都棄市。餘孫皆原宥。〔琛弟肅、秉並奔魏,後得黃瑤起臠食之。〕奐弟伷女為長沙王晃妃,世祖詔曰:「奐自陷逆節,長沙王妃男女竝長,且奐又出繼,前代或當有准,可特不離絕。」〔奐既誅,故舊無敢至者,汝南許明達先為奐參軍,躬為殯斂,經理甚厚,當時高其節。
○南斉51裴叔業伝
 九年,為寧蠻長史、廣平太守。雍州刺史王奐事難,叔業率部曲於城內起義。上以其有幹用,仍留為晉安王征北諮議,領中兵,扶風太守。
○南斉57魏虜伝
 王奐之誅,子肅奔虜。
○梁21王份伝
 王份字季文,琅邪人也。祖僧朗,宋開府儀同三司、元公。父粹,黃門侍郎。份十四而孤,解褐車騎主簿。出為寧遠將軍、始安內史。袁粲之誅,親故無敢視者,份獨往致慟,由是顯名。遷太子中舍人,太尉屬。出為晉安內史。累遷中書侍郎,轉大司農。份兄奐於雍州被誅,奐子肅奔于魏,份自拘請罪,齊世祖知其誠款,喻而遣之。

 ⑴王奐…字は彦孫。生年435、時に59歳。超名門の琅邪王氏の出。無学だったが、実務能力に長けた。劉宋の外戚という事で南斉の武帝に警戒を受けた事がある。武帝が即位すると右僕射→湘州刺史とされた。484年、江州刺史とされた。486年、再び右僕射とされた。のち僕射とされた。488年、領軍将軍とされた。のち左僕射とされ、491年、雍州刺史とされた。
 [1]蕭子顕の《斉志》曰く、『寧蛮府は雍州に属し、西新安・義寧・南襄・北建武・蔡陽・永安・安定・懐化・武寧・新陽・義安・高安・左義陽・南襄城・広昌・東襄城・北襄城・懐安・北弘農・西弘農・析陽・北義陽・漢広・中襄城を管轄した。
 ⑵朱公恩…輔国将軍。488年、桓天生が雍州内にて叛乱を起こして隔城を占拠すると、百騎を率いて討伐軍(曹虎)の先鋒となり、遊軍を撃破した。
 ⑶孔稚珪…字は徳璋。生年447、時に47歳。会稽孔氏の出。477年に高帝が劉宋の驃騎大将軍とされると文才を認められて記室参軍とされた。南斉建国後、御史中丞とされた。
 [2]齋仗…齋庫(国庫)の精良な武器を支給された、武勇に優れる近衛兵の事である。
 ⑷曹虎…字は士威。本名は虎頭。下邳の人。劉宋の明帝(在位465~472)の末頃に直廂とされた。474年に桂陽王休範が叛乱を起こすと蕭道成の指揮のもとこれを討伐し、新亭壘の戦いの際に先んじて首級を獲ってきたことで道成の目に止まった。道成が領軍とされると防殿隊主とされた。484年、江州蛮の乱を平定した。武帝に虎頭の名前が卑俗だとされ、改名を命じられた。488年、桓天生が雍州にて叛乱を起こし隔城を占拠するとその討伐に赴き、平定に成功した。490年、広陵太守とされた。隨郡王子隆が荊州刺史とされるとこれに付き従い、輔国将軍・鎮西司馬・南平内史とされた。
 [3]考異曰く、『南史には「王奐の子の王彪が門を閉じて抵抗することを諮ると、殷叡が諌めて言った。『今、門を開き、白服を着て朝使を迎え入れれば、護送車に乗せられて都に戻され、官爵を剥奪されるだけで済むでしょう。』彪は頑として聞き入れなかった。叡はまたこう求めて言った。『典籤(朝廷からのお目付け役)に弁明の上奏文を持たせ、間道経由で朝廷に赴かせれば、きっと赦される事でしょう。』奐はこれに従い、叡に書簡を作らせて典籤に持たせた。しかし、典籤は中途にて呂文顕に捕らえられてしまった。叡はまたこう言った。『忠臣は国に背かず、勇者は死から逃れずとか。王家の事を考えるなら薬を飲んで自殺なさるべきです。さすれば、王家は族滅にも遭わず、名声も保持する事ができるでしょう。どうか私に先んじて死ぬ許可をお与えください。』奐は聞き入れなかった。」〔南斉書と南史では態度が全く違う。〕今は南斉書の記述に従った。
 ⑸裴叔業…生年438、時に56歳。名門河東裴氏の出。弓・馬を得意とし、軍事の才能があった。劉宋に仕えて羽林監とされ、のち蕭道成の驃騎行参軍とされた。南斉が建国されると屯騎校尉とされ、北魏が司豫二州に侵攻してくると,軍主とされて征討に赴いた。487年以降、豫州刺史の鸞や王敬則の補佐をした。491年、寧蛮長史・広平太守とされた。
 ⑹この出来事を南斉武帝紀は三月乙亥(25日)の事とするが、南史は二月の事とし、日の記載は無い。
 ⑺長沙王晃…字は宣明。幼名は白象。460~490。武帝の第四子。母は謝貴嬪。武勇に優れ、高帝に可愛がられ、「我が家の任城王(曹彰)」と評された。豫州刺史とされた時、お目付け役の典籤を殺害して帝に杖で打たれた。479年、南斉が建国されると南徐州刺史・長沙王とされ、482年に護軍将軍とされた。483年、南徐州刺史とされた。のち中書監とされた。建康に帰る際、武器を私有していた事がばれ、武帝に殺されかかったが、豫章王嶷の取りなしと高帝の「宋のように身内で殺し合うな」という遺言を以て赦されたが、重用はされずじまいとなった。のち丹陽尹とされた。
 ⑻晋安王子懋…蕭子懋。字は雲昌。生年472、時に22歳。南斉の武帝の第七子。母は阮淑媛。諸王の中で最も人格が素晴らしく、学問を好み、孝行者だった。初め江陵公とされた。485年に南豫州刺史、487年に南兗州刺史、488年に湘州刺史とされた。490年、《春秋例苑》三十巻を編纂した。491年、親政を始めた。492年、侍中・右衛将軍とされた。493年、中書監とされた。
 ⑼王文和…劉宋の鎮北大将軍の劉仲徳の兄の孫。景和年間(465)に義陽王昶の征北府主簿とされた。昶が北魏に亡命した際、ただ一人国境まで付き従った。この時、「卿には老母がいるだろう」と言われ、やむなく立ち去った。のち巴陵内史とされ、沈攸之が挙兵するとその使者を斬って蕭賾(武帝)に報告し、郢州城に逃げ込んだ。永明年間(483~493)に青・冀・兗州刺史を歴任した。
 ⑽王晏…字は士彦。超名門の琅邪王氏の出。世渡りが非常に上手かった。477年、沈攸之が挙兵し、人々が去就を図りかねる中、積極的に蕭道成に助力して軍中の書簡の全てを作成した。南斉が建国されると太子中庶子とされたが、太子賾(のちの武帝)が帝の了解も得ずに勝手気ままに振る舞うと、病と称して距離を置いた。武帝が即位すると昔のような親しい仲に戻った。489年、吏部尚書とされた。

  
 493年⑵に続く