[隋:開皇九年 陳:禎明三年]

┃巴州以西降る

 安蜀城を鎮守していた陳の信州刺史の顧覚呂忠粛の敗報を聞くと、城を捨てて逃走した。楊素は進軍して〔江陵南岸の〕馬頭を占拠した。
 宜黄侯慧紀はこの時漢口にまで到っていたが、秦王俊の軍に阻まれて進むことができず、〔荊州に引き返した。〕忠粛の敗報を聞くと、公安に備蓄されていた物資を全て焼き払って東下した。この時、湘州(長沙)刺史の晋熙王叔文は任期満了で建康に帰還中だった。慧紀はこれと巴州にて合流し、盟主とした。
 かくて巴州以西はみな隋のものとなった。

○資治通鑑
 陳慧紀屯公安,悉燒其儲,引兵東下,於是巴陵以東無復城守者。
○隋48楊素伝
 陳主遣其信州刺史顧覺,鎮安蜀城,荊州刺史陳紀鎮公安,皆懼而退走。巴陵以東,無敢守者。
○陳15・南65陳慧紀伝
 素進據馬頭。是時,隋將韓擒虎及賀若弼等已濟江據蔣山, 慧紀聞之,留其長史陳文盛等居守,身率將士三萬人,樓船千餘乘,沿江而下,欲趣臺城。至漢口,為秦王軍所拒,不得進,〔聞肅敗,盡燒公安之儲,偽引兵東下,因推湘州刺史晉熙王叔文為盟主。水軍都督周羅㬋與郢州刺史荀法尚守江夏。及建鄴平…〕
○陳28晋熙王叔文伝
 禎明二年,秩滿,徵為侍中、宣毅將軍,佐史如故。未還,而隋軍濟江,破臺城,隋漢東道行軍元帥秦王至于漢口。時叔文自湘州還朝,至巴州。

 ⑴馬頭…《読史方輿紀要》曰く、『荊州府(江陵)の東南二十里→江津戍の南岸にある。』
 ⑵秦王俊…楊俊。字は阿祗。生年571、時に19歳。隋の文帝の第三子。母は独孤伽羅。優しい性格で、出家を希望するほど仏教を篤く信じた。隋が建国されると秦王とされた。582年、上柱国・洛州刺史・河南道行台尚書令とされた。間もなく右武衛大将軍を加えられ、関東の兵を統轄した。583年、秦州総管とされ、隴右諸州を全て管轄した。584年、崔弘度の妹を妃に迎えた。586年、山南道行台尚書令とされた。588年、山南道行軍元帥とされ、陳討伐に赴いて郢州(江夏)を攻めた。この時、殺生を忌避して崔弘度の攻撃要求を許可しなかった。588年(3)参照。
 ⑶晋熙王叔文…字は子才。宣帝(後主の父)の第十二子。後主の異母弟。母は袁昭容。軽率・陰険・見栄っ張りな性格だったが、非常な読書家という一面もあった。575年に晋熙王とされた。582年、宣恵将軍(四品)・丹陽尹とされた。583年正月~2月、軽車将軍(五品)・揚州刺史とされた。4月、江州(湓城。建康の西南)刺史とされた。584年、信威将軍(四品)・督湘衡武桂四州諸軍事・湘州刺史とされた。584年(2)参照。
 ⑷隋48楊素伝には『巴陵以東敢えて守るもの無し』とあるが、巴陵は晋熙王叔文・宜黄侯慧紀、郢州は周羅㬋・荀法尚が頑張っている。以西の間違いか?

┃蘄口・樊口の戦い
 隋の〔上大将軍・〕蘄州総管の王世積が水軍を率いて蘄水より出撃し、九江(陳の江州)に向かい、陳将の紀瑱を蘄口にて大破した

 また、〔開府・黄州総管の〕周法尚が水軍三万を率いて樊口(武昌近辺)に出撃した。陳の城州(武昌?)刺史の熊門超が軍を率いて迎撃に出てくるとこれを擊破し、捕虜とした(詳細な時期不明)。

○隋40王世積伝
 未幾,授蘄州總管。平陳之役,以舟師自蘄水趣九江,與陳將紀瑱戰於蘄口,大破之。既而晉王廣已平丹陽…。
○隋65周法尚伝
 及伐陳之役,以行軍總管隸秦孝王,率舟師三萬出于樊口。陳城州刺史熊門超出師拒戰,擊破之,擒超於陣。轉鄂州刺史。

 ⑴王世積…北周の開府・夏州刺史の王雅の子。堂々たる体躯をしていて腰回りは十囲ほどもあり、風格並み外れ、人傑の姿をしていた。北周の代に戦功を立てて上儀同・長子県公とされた。隋の文帝が丞相となり、尉遅迥が挙兵すると韋孝寛の指揮のもとでどの戦いでも功を立て、上大将軍とされた。隋が建国されると宜陽郡公とされた。高熲に才能を気に入られ、非常に親しく交際した。ある時、世積は密かに熲に「我らは共に周の臣である。国が滅んだ今、いったいどうするつもりか?」と言ったが、無視された。間もなく蘄州総管とされた。陳討伐の際には蘄春より江州攻略に向かった。588年(2)参照。
 ⑵詳細な時期は不明。王世積伝はこの後に続いて『間もなく晋王広が丹陽(建康)を陥とすと…』と記すので、今仮にここに置いた。
 ⑶周法尚…字は徳邁。生年556、時に34歳。陳の定州(蒙籠)刺史の周炅の子。若年の頃から勇猛果敢で、風格があり、兵法書を愛読した。576年、父が死ぬと監定州事とされ、兵を受け継いだ。のち数々の戦功を立て、定州刺史とされた。のち不仲の長沙王叔堅に讒言を受けて兵を差し向けられ、北周に亡命して開府・順州刺史・帰義県公とされた。陳将の樊猛が長江を渡って攻めてくると、武勇と智略によって大破した。580年、司馬消難が挙兵した際攻撃を受けると、寡兵で二十日に亘って抵抗したが、救援が来なかったため遁走した。この時、一門三百人を捕らえられた。のち巴州(戈州?)刺史とされ、三鵶叛蛮と陳軍を撃破した。のち衡州総管・四州諸軍事・譙郡公とされた。584年、隋の文帝が洛陽に赴いた際呼び出しを受け、陳に重用を見せつけるため金鈿酒鍾などを与えられた。586年、黄州総管とされ、陳の動静を探る役目を任された。588年の陳討伐の際、水軍三万を率いて樊口に向かった。588年(2)参照。

┃隋軍、南北より来たる

 辛巳(正月17日)、隋の上開府・呉州(広陵)総管の賀若弼が〔建康の東北にある〕蒋山(鍾山に進駐した
 弼はこう考えた。
「京口の物資を手に入れた今、速やかに白土岡を占拠して兵を死地に置いて〔奮戦させる〕べきである。」
〔かくて建康の東にある〕白土岡の東南に駐屯し、白土岡の南に陣する魯広達と相い対した。

 また、廬州(合肥)総管の韓擒虎も新林に進み、〔北江州を攻略していた〕杜彦の軍と合流して二万の軍勢となった。

○陳後主紀
〔韓擒…進拔姑孰,次於新林。〕辛巳,賀若弼進據鍾山,頓白土岡之東南。
○隋52韓擒虎伝
 進攻姑熟,半日而拔,次於新林。…晉王遣行軍總管杜彥與擒合軍,步騎二萬。
○隋52・北68賀若弼伝
 進屯蔣山之白土岡。〔…其六,先取京口倉儲,速據白土岡,置兵死地,故一戰而剋。〕
○隋55杜彦伝
 進至新林,與擒合軍。
○陳31魯広達伝
 及賀若弼進軍鍾山,廣達率眾於白土崗南置陣,與弼旗鼓相對。

 ⑴資治通鑑は辛未(7日)とする。賀若弼が南徐州を陥としたのは6日である。南徐州ー曲阿ー建康の距離は約100kmある。たった1日で踏破できるものだろうか?
 ⑵賀若弼…字は輔伯。生年544、時に46歳。父は北周の開府・中州刺史の賀若敦。若年の頃から気骨があり文武に才能があった。父が愚痴を言って晋公護の怒りを買い、自殺させられた際、江南平定の夢を託された。また、錐で舌を刺されて口を慎むよう戒められた。のち斉王憲に用いられて記室とされ、間もなく当亭県公・小内史とされた。烏丸軌(王軌)と一緒に太子贇(天元帝)の悪行を告発した時、途中で態度を変えて軌に詰られた。579年の淮南平定の際には多くの計策を立てて成功に大きく貢献し、その功により揚州総管・揚州刺史とされ、襄邑県公に改められた。尉遅迥が挙兵したのに乗じて陳が侵攻してくるとこれを撃退したが、丞相の楊堅(のちの隋の文帝)に疑われて無理矢理交代させられた。581年、呉州総管とされた。「騏驎〔閣〕上に我ら二人の名を無からしむるなかれ」と気概を持ち、陳攻略十策を進言して帝に褒め称えられ、宝刀を授けられた。589年、行軍総管とされて陳討伐に赴き、長江を渡って南徐州を陥とした。589年(1)参照。
 ⑶蒋山…《読史方輿紀要》曰く、『鐘山は建康の東北十五里にある。またの名を蒋山といい、孫呉の大帝の孫権の祖父が鐘といったので、これを避けて蒋山に改めたのである。』『また言う。後漢の秣陵尉の蒋子文は、鍾山中に賊を追った時、額に傷を負って死んだ。生前、子文は酒色を好み、事あるごとに自分の骨相が貴く、死ねば神になると吹聴していた。孫権が皇帝となると建業に現れ、神として祀らないと災いを起こすと脅した。権がこれを無視すると、その都度災異が起こったので、遂に子文を中都侯に封じて廟を立て、鍾山を蒋山に改めた。』
 ⑷《元和郡県図志》曰く、『上元県(建康)の〔東?〕北二十里の蒋山の龍尾(尾根。あるいは曲がりくねった道)に賀若弼塁が築かれた。』
 ⑸魯広達…字は遍覧。群雄の魯悉達の弟。生年約531、時に約59歳。王僧弁の侯景討伐に従軍した。562年、周迪討伐に参加し、一番の武功を立てて呉州刺史とされた。567年、南豫州刺史とされた。華皎との決戦の際には先陣を切って奮戦し、戦後に巴州刺史とされた。570年、青泥にある後梁・北周の船を焼き払った。巴州では善政を行ない、官民の請願によって任期が二年延長された。北伐では大峴城にて北斉軍を大破し、西楚州を陥として北徐州刺史とされた。のち右衛将軍とされ、576年に北兗州刺史とされ、のち晋州刺史とされた。578年、合州刺史とされた。のち仁威将軍・右衛将軍とされ、579年、北周が淮南に侵攻してくると救援に赴いたが何もできずに引き返し、免官とされた。580年、北周の郭黙城を陥とした。間もなく平西将軍・都督郢州以上十州諸軍事とされ、隋の南伐時には溳口を守備したが、元景山に敗れ逃走した。のち(?)都督縁江諸軍事とされた。582年、安左将軍とされた。583年、平南将軍・南豫州刺史とされた。584年、安南将軍とされた。間もなく中央に呼ばれて侍中・安左将軍・綏越郡公とされた。周羅睺が讒言されると弁護した。588年、中領軍とされた。589年、隋軍が建康に迫ると都督とされ、白土岡の南を守備した。589年(1)参照。
 ⑹韓擒虎…宇文擒虎。字は子通。生年538、時に52歳。開府・中州刺史の韓雄の子。あらゆる書物の大要に通じ、宇文泰に才能を認められてその子どもたちの遊び相手とされた。のち儀同・新安太守とされ、父と同じように河南の地で北斉と戦った。伐斉の際、父の宿敵だった独孤永業を説得して降伏させた。のち范陽の平定に参加し、上儀同・永州刺史とされた。578年頃に陳が光州に迫ると行軍総管とされ、これを撃退した。579年、淮南平定に参加し、合州を陥とした。のち和州刺史とされ、陳の侵攻を何度も撃退した。581年、文武両道を評価され、廬州総管とされた。589年、陳討伐に赴き、南豫州を陥とした。589年(1)参照。
 ⑺新林…《読史方輿紀要》曰く、『新林浦は応天府(建康)の西南十八里にあり、長江の傍にあり、大勝河(朱元璋命名)が流れ込む地にある。新林港ともいう。新林浦は梁の武帝が新亭より運河を掘って新林浦と繋げ、更に新林浦の西に大道を造り、〔その先に〕江潭苑を建てたが、完成する前に侯景の乱が起こった。今(明)、府の西南十五里に新林橋がある。』
 ⑻杜彦…雲中の人(本姓は独孤渾か吐斤?)。父の杜遷は葛栄の乱を避けて豳州(長安の西北)に移住した。勇猛果敢な性格で、騎・射を得意とした。北周に仕えて左侍上士とされ、のち柱国の陸通の指揮のもと陳将の呉明徹を土州にて撃破した。更に叛蛮を攻め、その渠帥を斬った。のち郢州賊帥の樊志を討平し、その功を以て大都督とされた。間もなく儀同・治隆山(陵州。成都の南)郡事とされた。翌年、隴州(もと東秦州)刺史・永安県伯とされた。隋の文帝が丞相となると、韋孝寛の指揮のもと尉遅迥を相州に撃破し、上開府・襄武県侯・魏郡(相州)太守とされた。隋が建国されると丹州(延安の東南)刺史とされ、爵位を公に進められた。6年後、中央に呼ばれて左武衛将軍とされた。589年、陳討伐の際、北江州を陥とした。589年(1)参照。
 
┃決戦か籠城か
 賀若弼が蒋山にやってくると、陳の後主は驃騎将軍(一品)・皇畿大都督の蕭摩訶や鎮東大将軍(一品)の任忠らを内殿に呼んで軍議を開いた。摩訶は出撃を求めて言った。
賀若弼は孤軍で深入りし、友軍はまだ遠方におります。また、その陣地もまだ完成していないので、兵は浮き足立っております。今これを奇襲すれば、大勝利間違いありません。」
 帝はこれを聞き入れなかった。
 任忠は言った。
「兵家はこう言っております。『攻める側と守る側はそれぞれ置かれた状況が異なり、攻める側は積極さが尊ばれ、守る側は慎重さが尊ばれる』と。今、我らは食も兵も足りております。ゆえに、ここは台城(建康)の守りを固め、秦淮河沿いに柵を築き、北軍(隋軍)が来ても交戦せず、その間に水軍を南豫州と京口(南徐州)に派遣し、糧道と連絡を断つのが良いでしょう。どうか臣に精兵一万と金翅三百艘をお与えください。臣が今ただちに長江を下って六合(方州)を奇襲すれば、きっと彼の大軍は『〔ここに攻めてきたということは〕渡江した将兵たちは既に敗れて捕らえられたのに違いない』と勘違いし、自然と戦意喪失するでしょう。また、淮南の住民は臣と旧知の間柄でありますゆえ、臣がやってきたと聞けば必ずみな影の如く付き従うでありましょう。それから徐州(彭城。或いは南徐州の京口?)に攻め込むと大いに喧伝すれば、彼は退路を断たれるのを恐れ、戦わずして撤退するでしょう。残る賀若弼・韓擒虎も、〕春の増水時になれば上流より周羅睺ら援軍がやってきますので、〔きっと破る事ができましょう。〕これこそ良計であります。」
 また、〔司空の〕司馬消難も帝にこう言った。
「弼が高所に登って狼煙を上げれば、韓擒虎はこれに呼応して〔すぐさま駆けつけ、〕大軍となるでしょう。そうなっては諸将の心はきっと陛下から離れてしまいます。ゆえに、ここは急いで北は蒋山、南は秦淮水を押さえると共に、将兵の妻子を人質にし、かつ重い賞賜を約束して〔離反を防ぎつつ、〕城を固く守るのが良いと思います。さすれば、十日も経たない内に賊軍の兵糧は底を突き、二将の首が送り届けられてくる事になるでしょう。」
 孔範は功を立てるために戦いをしたいと考えていたので、こう言った。
司馬消難は反覆常ない男で、任忠は淮南の貧民の出であります。そのような者の言葉は信ずるに値しません。」

○陳31・南67蕭摩訶伝
 及弼進軍鍾山,摩訶又請曰「賀若弼懸軍深入,聲援猶遠,且其壘壍未堅,人情惶懼,出兵掩襲,必大克之」,後主又不許。
○陳31・南67任忠伝
 後主召蕭摩訶以下於內殿定議,忠執議曰:「兵家稱客主異勢,客貴速戰,主貴持重。〔今國家足食足兵,〕宜且益兵堅(固)守宮(臺)城,〔緣淮立柵。北軍雖來,勿與交戰,〕遣水軍分向南豫州及京口道,斷寇糧運(分兵斷江路)。〔無令彼信得通。給臣精兵一萬,金翅三百艘,下江徑掩六合。彼大軍必言其度江將士已被獲,自然挫氣。淮南土人,與臣舊相知悉,今聞臣往,必皆景從。臣復揚聲欲往徐州,斷彼歸路,則諸軍不擊而自去。〕待春水長,上江周羅㬋等眾軍,必沿流赴援,此良計矣。」眾議不同(後主不能從)。
○南77孔範伝
 時任蠻奴請不戰,而己度江攻其大軍。又司馬消難言於後主曰:「弼若登高舉烽,與韓擒相應,鼓聲交震,人情必離。請急遣兵北據蔣山,南斷淮水,質其妻子,重其賞賜。陛下以精兵萬人,守城莫出。不過十日,食盡,二將之頭可致闕下。」範冀欲立功,志在於戰,乃曰:「司馬消難狼子野心,任蠻奴淮南傖士,語並不可信。」事遂不行。隋軍既逼,蠻奴又欲為持久計,範又奏:「請作一決,當為官勒石燕然。」後主從之。

 ⑴陳の後主…陳叔宝。字は元秀。幼名は黄奴。宣帝の嫡長子。母は柳敬言。生年553、時に37歳。在位582~。細部まで技巧が凝らされた詩文を愛した。554年、西魏が江陵が陥とした際に父と共に長安に連行され、父の帰国後も人質として北周国内に留められた。562年、帰国を許され、安成王世子に立てられた。569年、父が即位して宣帝となると太子とされた。のち周弘正から論語と孝経の講義を受けた。582年、宣帝が死ぬと棺の前で弟の叔陵に斬られて重傷を負い、即位後も暫く政治を執る事ができなかった。傷が癒えたのちは弟の叔堅や毛喜を排斥し、『狎客』と呼ばれる側近たちを重用した。自分の過失を人に聞かれるのを嫌い、そのつど孔範に美化した文章を書かせて誤魔化そうとした。また、僭越な振る舞いが多かった陳暄を逆さ吊りにして刃を突きつけたり、もぐさの帽子をかぶせて火をつけたりした。隋と和平を結ぶと外難から解放されて羽目を外し、酒色に溺れ、政務を執る時以外は殆ど宴席に身を置いた。584年、臨春・結綺 ・望仙の三閣を建てた。音楽を愛好し、《玉樹後庭花》などの新曲を作製した。585年頃、直言の士の傅縡を誅殺した。587年、後梁の亡命者を受け入れた。また、直言した章華を誅殺した。588年、太子胤を廃して始安王淵を新たに太子とした。隋が侵攻した際、施文慶らの言を信じて警戒を怠った。589年(1)参照。
 ⑵蕭摩訶…字は元胤。生年532、時に58歳。口数が少なく、穏やかで謙虚な性格だったが、戦場に出ると闘志満々の無敵の猛将となった。もと梁末の群雄の蔡路養の配下で、陳覇先(陳の武帝)が路養と戦った際(550年)、少年の身ながら単騎で覇先軍に突撃して大いに武勇を示した。路養が敗れると降伏し、覇先の武将の侯安都の配下とされた。556年、幕府山南の決戦では落馬した安都を救う大功を挙げた。のち留異・欧陽紇の乱平定に貢献し、巴山太守とされた。573年、北伐に参加すると、北斉の勇士を次々と討ち取って決戦を勝利に導く大功を挙げた。その後も数々の戦功を立てた。578年、呉明徹が大敗を喫した際、騎兵を率いて包囲を突破した。579年、北周が淮南に侵攻してくると歴陽に赴いたが、結局何もできずに引き返した。北周が乱れると和州・呉州に侵攻したが撃退された。581年、長江以北の地を攻めた。582年、宣帝が死に、始興王叔陵が叛乱を起こすと後主に付き、平定に大きく貢献した。この功により車騎大将軍・南徐州刺史・綏建郡公とされ、更に叔陵が蓄えていた巨万の金帛を全て与えられた。587年、侍中・驃騎大将軍・左光禄大夫とされ、特別に黄色の門と門前の馬柵、庁舎と官邸に鴟尾を使用することを許された。また、娘が皇太子妃とされた。薛道衡に大したことが無いと評された。589年、隋軍が建康に迫ると皇畿大都督とされた。589年(1)参照。
 ⑶任忠…字は奉誠、幼名は蛮奴。汝陰(合肥)の人。幼い頃に親を喪って貧しい生活を送り、郷里の人から軽んじられたが、境遇にめげることなく努力して知勇に優れた青年に育った。梁の鄱陽王範→王琳に仕え、琳が東伐に向かった際、本拠襲撃を図った陳将の呉明徹を撃破した。王琳が敗れると降伏し、華皎の乱が起こるとこれに加わったが、陳と内通していたため、皎が敗北したのちも引き続き陳に用いられた。のち右軍将軍とされ、北伐が起こるとこれに参加し、歴陽〜合肥方面の城を次々と陥とした。更に霍州も陥とした。578年の北伐軍大敗の際は指揮下の軍を無事帰還させた。間もなく都督寿陽、新蔡、霍州等縁淮諸軍事・霍州刺史・寧遠将軍とされ、淮西の地の軍事を任された。のち中央に戻って左衛将軍とされた。579年、大閲兵式の際に陸軍十万を率いた。北周が淮南に侵攻してくると平北将軍・都督北討前軍事とされ、秦郡に赴いたが結局何もできずに引き返した。580年、南豫州刺史・督縁江軍防事とされ、歴陽を攻めたが撃退された。582年、鎮南将軍とされた。583年、侍中・領軍将軍・梁信郡公とされた。のち孔範の奪兵策に遭い、兵を奪われた。587年頃、呉興内史とされ、東揚州刺史の蕭巖らを監視した。薛道衡に大したことが無いと評された。589年、隋軍が建康に迫ると救援に馳せ参じ、朱雀門の守備を任された。589年(1)参照。
 ⑷南史陳後主紀には『この時、建康には十余万の兵がいた』とある。
 ⑸旧知の間柄…任忠は合肥出身で、のち、573年の北伐や霍州刺史赴任などでも関わりがあった。
 ⑹楽観的である。これまで任忠は何度も淮南を攻め、そのつど撃退されている。まして隋の大軍がいるこの時にどうして呼応したりするだろうか?
 ⑺周羅睺…字は公布。生年542、時に48歳。九江尋陽の人。父は梁の南康内史。騎・射を得意とし、狩猟を好み、義侠心があって気ままに振る舞い、逃亡者を集めて私兵とし、密かに兵法を勉強した。従祖父に戒められても品行を改めなかった。陳の宣帝の時に軍功を挙げて開遠将軍・句容令とされた。のち北伐に参加し、広陵戦で流れ矢によって左目を失った。575年、北斉軍が明徹を宿預に包囲した時、敵陣に突進して斉兵を次々と蹴散らし、蕭摩訶に武勇を認められて副将とされた。577年、徐州にて北周の梁士彦と戦った際、落馬した摩訶を重囲から救い出した。578年、呉明徹が大敗を喫した際、軍を全うして帰った。579年、都督霍州諸軍事とされ、山賊を平定し、右軍将軍とされた。のち総管検校揚州内外諸軍事とされた。金銀を与えられると全て部下たちに分け与えた。のち晋陵太守→太僕卿とされた。北周が乱れると呉州に侵攻したが撃退された。581年、隋の胡墅を攻め陥とした。のち雄信将軍・都督豫章十郡諸軍事・豫章内史とされた。至徳年間(583~586)に都督南州諸軍事とされた。この時、讒言されて立場が不安定になり、ある者に叛乱を勧められたが拒否した。のち、建康に帰還すると太子左衛率とされ、信任はいっそう厚いものとなった。ある時、帝に「周左率は武将であるのに、いつも文士よりも先に詩を完成させる。文士たちはどうして左率の後になるのだ?」と言われ、孔範に「周羅睺は作詩も戦闘も他者に引けを取りません」と言われた。のち督湘州諸軍事とされ、帰ると散騎常侍とされた。588年、峡口に駐屯し、隋の峡州に侵攻した。隋が侵攻してくると漢口にて対峙した。589年(1)参照。
 ⑻楽観的である。周羅㬋は秦王俊の大軍と対峙しているうえ、時が経てば上流の楊素の軍も到来してくるので、ますます建康への救援が不可能になる。
 ⑼司馬消難…字は道融。北斉の太尉の司馬子如の長子。幼い頃から聡明で、歴史書を読み漁り、風格があった。ただ見栄っ張りで、名誉を求める所があった。高歓の娘の高氏を娶った。北豫州刺史とされると汚職を働き、御史中丞の畢義雲の捜査を受けた。また、浮気癖があったため高氏に嫌われ、讒訴された。また、上党王渙を匿ったという嫌疑もかけられると、身の危険を感じて遂に叛乱を起こして北周に降り、小司徒・大将軍・滎陽公とされた。この時救援に来てくれた楊忠と義兄弟となり、たいへん親密な間柄となった。忠の子の楊堅とも叔父・甥のような親密な関係となった。571年に柱国、573年に大司寇とされた。575年、東伐の際には前二軍総管とされた。間もなく梁州(漢中)総管とされた。579年、大後丞とされ、娘が静帝の后とされた。楊堅が丞相となると尉遅迥と連携して挙兵し、陳に人質を送って司空・大都督水陸諸軍事とされたが、討伐軍が来ると戦わずして陳に逃亡した。間もなく北周の江州を襲ったが、撃退された。582年頃に征東将軍・東揚州刺史とされた。583年、車騎将軍(一品)とされた。589年、隋が侵攻してくると大監軍とされた。589年(1)参照。
 ⑽孔範…字は法言。会稽山陰の人。読書家。宣帝の時に宣恵江夏王長史とされた。後主が即位すると都官尚書とされ、江総らと共に『狎客』の一員となった。立ち居振る舞いが上品で、作る文章も華麗で、五言詩を得意としたので、後主からもっとも親愛を受けた。帝が何か悪事を犯した時には美化した文章を書いてこれを誤魔化す役目を任された。孔貴嬪が帝から非常な寵愛を受けているのを知ると、義兄妹の関係を結び、それによっていよいよ帝から寵遇を受けるようになり、どのような意見でも聞き入れられるに至った。帝に将軍たちから兵を奪うよう進言して自分のもとに所属させ、武将たちの心を離れさせた。後主が「周左率(羅睺)は武将であるのに、いつも文士よりも先に詩を完成させる。文士たちはどうして左率の後になるのだ?」と聞くと、「周羅睺は作詩も戦闘も他者に引けを取りません」と答えた。隋が侵攻してくると「長江は天が創りたもうた堀であり、飛び越えてこれるわけが無い 」と言って警戒を疎かにさせた。隋軍が迫ると宝田寺の守備を任された。589年(1)参照。

┃疑惑
〔これより前、陳は樊猛・蒋元遜・南康王方泰らに青龍艦八十艘を与えて白下近辺に向かわせ、六合から来る隋水軍の迎撃に当たらせていた。〕
 この時、後主樊猛に水軍を与えて六合から来る水軍の迎撃を任せていたが、その家族が隋軍の手に落ちたのを知ると(589年〈1〉参照)、猛が〔家族の命惜しさに〕寝返るのではないかと疑い、任忠に交代させようと考えた。そこで蕭摩訶におもむろに毅を説得させてみると、毅は不快の念を示した。摩訶がこれを報告すると、帝はこれ以上毅の心を傷つけるべきではないと考え、取り止めた。

○陳31・南67樊猛伝
 隋將韓擒虎之濟江也,猛在京師(都下),第六子巡攝行州事,擒虎進軍攻陷之,巡及家口竝見執。時猛與左衛將軍蔣元遜領青龍八十艘為水軍,於白下遊弈,以禦隋六合兵,後主知猛妻子在隋軍,懼其有異志,欲使任忠代之,又(令蕭摩訶徐喻毅,毅不悅。摩訶以聞,)重傷其意,乃止。

 ⑴樊猛…字は智武。樊毅の弟。騎射を得意とした。侯景の乱が起こると建康の救援に赴き、青溪の戦いで大いに奮戦した。建康が陥ちると兄と共に江陵の湘東王繹(のちの元帝)に仕え、湘州司馬とされた。成都の武陵王紀が攻めてくるとこれを迎撃し、自ら紀父子三人を捕らえて斬った。のち司州刺史とされた。元帝が西魏に殺されると王琳に仕えたが、琳が陳に敗れると陳に仕えた。のち永陽太守→安成王府司馬→廬陵内史→始興平南府長史・領長沙内史とされ、章昭達の江陵攻めの際には峽口を襲い、周軍の艦船を焼き払い、その功により富川県侯とされた。のち都督荊信二州諸軍事・宣遠将軍・荊州刺史とされ、のち、左衛将軍とされた。定州刺史の周法尚が北周に寝返ると討伐に赴いたが大敗を喫した。586年、都督南豫州諸軍事・忠武将軍(四品)・南豫州刺史とされた。589年、隋軍が建康に迫ると水軍の迎撃を任された。589年(1)参照。
 ⑵南康王方泰…南康王曇朗の長子。幼少の頃から粗暴で、不良少年たちと一緒にやりたい放題行なったが、不幸な境遇に免じて特別に容赦された。572年に使持節・都督広衡等十九州諸軍事・平越中郎将・広州刺史とされると暴政を行ない、弾劾を受けて免官となった。574年に豫章内史とされたが、また暴政を行なった。のち弾劾を受けて免官とされ、謹慎処分とされた。579年、復帰を許され寧遠将軍とされたが、大閲兵式のさい生母が病気だと言って参加せず、下町に行って人妻を犯し、逮捕しようとした警官も傷つけたため、再び官爵を剥奪された。間もなく赦され、元の官爵に復帰した。589年、隋軍が建康に迫ると水軍の迎撃を任された。589年(1)参照。

┃白下の戦い
 隋の行軍元帥長史の高熲と行軍総管の宇文述が三万の水軍を率い、長江を遡ってこれと当たると、猛と元遜は揃って投降した。方泰は配下の将兵が離散したため船を捨てて逃走した。
 間もなく述は石頭城を陥とし、賀若弼韓擒虎を援護した

○隋61宇文述伝
 開皇初,拜右衞大將軍。平陳之役,復以行軍總管率眾三萬,自六合而濟。時韓擒、賀若弼兩軍趣丹陽,述進據石頭,以為聲援。
○陳14南康王方泰伝
 隋遣行軍元帥長史高熲領船艦泝流當之,猛及元遜竝降, 方泰所部將士離散,乃弃船走。及臺城陷…。

 ⑴高熲…字は昭玄。独孤熲。生年541、時に49歳。またの名を敏という。父は北周の開府・治襄州総管府司録の高賓。幼少の頃から利発で器量があり、非常な読書家で、文才に優れた。武帝の治世時(560~578)に内史下大夫とされた。のち、北斉討平の功を以て開府とされた。578年、稽胡が乱を起こすと越王盛の指揮のもとこれを討平した。この時、稽胡の地に文武に優れた者を置いて鎮守するよう意見して聞き入れられた。楊堅が丞相となり、登用を持ちかけられると欣然としてこれを受け入れ、相府司録とされた。尉遅迥討伐軍に迥の買収疑惑が持ち上がると、監軍とされて真贋の見極めを行ない、良く軍を指揮して勝利に導いた。この功により柱国・相府司馬・義寧県公とされた。堅が即位して文帝となると尚書左僕射・兼納言・渤海郡公とされた。帝に常に『独孤』とだけ呼ばれ、名を呼ばれないという特別待遇を受けた。左僕射の官を蘇威に譲ったがすぐに復職を命ぜられた。また、新律の制定に携わった。間もなく伐陳の総指揮を任された。陳の宣帝が死ぬと喪中に攻め込むのは礼儀に悖るとして中止を進言し聞き入れられた。のち北辺に赴いて突厥対策に当たった。間もなく営新都大監とされ、新都の建設の差配を行なった。間もなく行軍元帥とされ、寧州道より討伐に赴いた。585年、左領軍(十二軍の戸籍・賦役・訴訟を司る)大将軍とされ、輸籍法を提案した。また、宇文忻に兵権を与えぬよう進言した。587年頃に阿波可汗が捕らえられると生かすよう進言した。後梁を廃した際には長江・漢水一帯の地の安撫を任された。588年、元帥府長史とされて陳討伐に赴き、実際の総指揮を執った。588年(3)参照。
 ⑵宇文述…字は伯通。生年546、時に44歳。上柱国の宇文盛の子。騎・射を得意とした。人相見に「将来きっと位人臣を極める」と評された。謙虚で沈着な性格だったため、大冢宰の宇文護に非常に目をかけられ、護の親信を兼任した。武帝が親政を行なうと左宮伯とされ、のち次第に昇進して英果中大夫・濮陽郡公とされた。尉遅迥が挙兵すると行軍総管とされて討伐に赴き、懐州の包囲を破った。その後も多くの武功を挙げ、上柱国・褒国公とされた。隋が建国されると右衛大将軍とされた。588年、行軍総管とされて陳討伐に赴いた。589年(1)参照。
 ⑷詳細な時期は不明。白土岡の決戦では陳軍は建康の西を空っぽにして賀若弼に当たっている。決戦前に石頭城を陥としていたのは考えられないだろう。石頭城占拠は決戦中か、決戦後の事か? 豫章王叔英が正月4日辺りに知石頭軍戍事とされたあとすぐ朝堂の守備に遷ったのがやや気になる所だが…。

┃出撃に決す
 軍議の翌日、後主は突然こう言った。
「長対陣などすると心労で人を殺してしまう。蕭郎(蕭摩訶)を呼んで一戦交えさせよう。」
 忠が叩頭して頻りに説いて言った。
「戦ってはなりません!」
 孔範はまたこう言った。
「どうか決戦を! さすれば、臣はきっと陛下のために、燕然山に石碑を立てた竇憲後漢の名将。89年に匈奴を大破した)のように北虜を打ち払ってご覧に入れましょう。」
 帝はこれを聞き入れ、蕭摩訶にこう言った。
「公よ、朕のために決戦してくれ。」
 摩訶は言った。
「これまでの戦いは国のため自分のためでしたが、今回は妻を守るためでもあります。〔奮戦をお約束いたします。〕」
 かくて精兵八千を率いて出陣したが、実は帝に妻を寝取られていたため、戦う気は無かった

○資治通鑑
「兵久不決,令人腹煩,可呼蕭郎一出擊之。」
○陳31・南67蕭摩訶伝
 及隋軍大至,將出戰,後主謂摩訶曰:「公可為我一決。」摩訶曰:「從來行陣,為國為身,今日之事,兼為妻子。」後主多出金帛,頒賞諸軍。〔…後主通於摩訶之妻,故摩訶雖領勁兵八千,初無戰意。〕
○陳31・南67任忠伝
〔明日欻然曰:「腹煩殺人,喚蕭郎作一打。」忠叩頭苦請勿戰,後主從孔範言,〕因遂出戰。

 ⑴つまり前の言葉はかなり皮肉を含んだ言葉という事になる。

┃任夫人の不倫(南史演義)
 これより前、蕭摩訶は妻を亡くし、後妻として任氏を娶った。任氏は〔摩訶に比べて〕格段に年が若かった。任氏は生まれつき顔立ちが美しく、体もしなやかで美しく、しかも詩文を作る才能もあった。任氏は自分の才能と容色に自信を抱き、風流な生活に非常に憧れていた。摩訶に嫁ぐと、富貴を得た点では満足したが、ただ摩訶が一介の武人に過ぎず、〔風流さの欠片も無く〕、女性の扱いが全くなっていないのが内心嫌で嫌で堪らなかったため、心満たされぬ日々を送っていた。
 ある時、命婦(高官の妻)である事を以て参内した時、貴妃の張麗華と話して意気投合し、義姉妹の関係を結んだ(任氏が妹)。任氏は宮殿にて後主と麗華が一緒にいるのに会ったが、二人はまるで並蒂蓮や比翼鳥のように仲睦まじく、深く愛し合っていたので、非常に羨ましく思った。そこで〔自分もそうなりたいと思い、〕帝に会った際はいつも秋波を送って気に入られようとした。帝は好色で、美女が前にいると夢中になってしまうたちだったので、この据え膳をみすみす放っておく理由は無かったが、ただ任氏が大臣の妻である事や、妃嬪たちの前だった事を以て自制し、想いを遂げることはなかった。
 ある日、麗華は帝が朝堂に赴いた後に任氏を召し、結綺閣にて一緒に酒を飲んだ。二人は互いに酒を勧め合い、やがて麗華は知らず知らずの内に酩酊状態になり、繡榻(刺繍が施してある長椅子)にもたれかかって眠ってしまった。任氏は麗華が酔いつぶれてしまったのを見ると、酒に酔った勢いで複道(二階建ての回廊)を通って望仙閣に行き、孔貴嬪と片時の間お喋りしたのち、こっそりとまた複道を通って帰ろうとした。その時、偶然帝が一人でこちらに歩いてくるのに出くわした。任氏は隠れようとしたが間に合わず、慌てて廊下の脇にひれ伏した。帝は任氏を見ると微笑みながら傍に近寄り、その手を優しく取って助け起こし、こう言った。
「夫人は既に朕の貴妃と義姉妹の関係を結んでいるのだから、つまり小姨(妻の妹。小姑)に当たる。小姨が大礼(平伏)を行なう必要は無い。」
 任氏がそこでやっと立ち上がると、帝はその美しい手を引いて部屋に連れ込んで座らせ、こう言った。
「卿の事をずっと想っていた。卿は今日、朕のこの想いに応えるべきだ。」
 任氏はうつむいて恥じらいつつ、か細い声でこう答えた。
「私はただ、この事がいけない事ではないのかと恐れるだけです。」
 ただ、任氏は風流天子の優しい態度に早くも心を動かされていた。かくて帝が任氏に抱擁し、同意を求めると、任氏は微笑んで体を寄せ、全く拒もうとしなかった。女性の心は移ろいやすく、二人はすぐに仲睦まじくなった。昔、楚の懐王が夢の中で巫山の神女と結ばれたという美しい話も、実際はこのようなものでしか無かったのだろう。これを見た宮女たちはみな空気を読んで遠くに去り、二人が情事に耽るに任せた。やや長い時が経って事が終わると、二人は互いに服の乱れを整えて起き上がり、宮女が捧げ持ってきた金のたらいで手を洗った。
 洗い終わると二人は一緒に〔麗華のいる〕結綺閣に〔報告に〕赴いた。この時、任氏の髪の左右は乱れ、かんざしも斜めになり、満面に色気のある恥じらいを発していた。麗華は任氏の姿を見るや〔二人が結ばれた事を察したが、嫉妬する事なく〕すぐ帝にお祝いを述べて言った。
「陛下は良く風流に合致しておられましたので、姉さま(ヨイショしている)に会う事ができたのです。また、姉さまも良く陛下のお気持ちを汲み取られ、〔陛下のお心を多いに満ち足りさせました〕。これ即ち繡閣(閨房)の功臣というものであります。そのお方をどうして嫌ったりしましょうか?」
 かくて任氏に念入りに化粧を施してあげ、閣中にて再び酒宴を開いた。その日の夜、麗華は任氏を結綺閣に留め、帝と再び同衾させた。二人は初めての時よりもいっそう激しく情を交わした。翌日、任氏が辞去を申し出ると、帝はこれを引き止めようとしたが、物議を醸すのを危惧し、そこで小詞一首を作って再会を約束するにとどめた。すると任氏も小詞一首を作って返し、慈しみを忘れていないことを伝えた。麗華はこれを読むと賛嘆して言った。
「陛下は天賦の才の持ち主で、姉妹は非凡な女性であるのに、二人とも〔冷徹になる事なく、〕深い情愛の心を持っていらっしゃる。」
 これより以後、任氏は入宮しては朝帰りする事を繰り返すようになった。蕭摩訶が訝しむと、麗華が帰してくれないのだと言い訳を言った。摩訶は単純な性格だったので最初の内は本当だと思い、特に追及しなかった。だが、のちに風聞がだんだんと伝わってきて帝と不倫しているのを知ると、怒りを抑える事ができず、嘆息してこう言った。
「私は国家のために悪戦苦闘し、無数の功労を立て、その天下に僅かながら貢献してきた。それなのに、今、嗣主(後主)は人倫・道徳を顧みずに我が妻を手込めにし、我が一門の家風を汚辱した。私はこれからどんな顔をして朝廷にいればいいというのだ!」
 これより以後、摩訶の忠君報国の心は冷め、半減してしまった。

○南史演義
 先是蕭摩訶喪偶,續娶夫人任氏,年甚少。嘗以命婦入朝,與麗華說得投機,結為姊妹。任氏生得容顏俏麗,體態輕盈,兼能吟詩作賦,自矜才色,頗慕風流。嫁得摩訶,富貴亦已稱心,微嫌摩訶是一武夫,閨房中惜玉憐香之事,全不在行,故心常不足。入宮,見後主與麗華,好似並蒂蓮,比翼鳥,無刻不親,何等思愛綢繆,不勝欣羨。故見了後主,往往眉目送情,大有毛遂自薦之意。況後主是一好色之主,豔麗當前,正搔著心孔癢處,焉肯輕輕放過?只因任氏是大臣之妻,礙著君臣面上,未便妄動。又相見時妃嬪滿前,即欲與她苟合,苦於無從下手,故此未獲如願。一日,正當後主臨朝,麗華召夫人入內,留在結綺閣宴飲,你一盞,我一杯,慇懃相勸,麗華不覺酣醉,倚在繡榻之上,沉沉睡著。夫人見麗華醉了,乘著酒興,欲往望仙閣,與孔貴妃閒談片時,遂悄悄從複道走去。那知事有湊巧,恰值後主亦獨自走來,夫人迴避不及,忙及俯伏在旁。後主笑嘻嘻走近身邊,以手相扶道:「夫人既與我貴妃結為姊妹,便是小姨了,何必行此大禮?」夫人纔立起身,後主便挽定玉手,攜入密室,拉之並坐,曰:「慕卿已久,今日可副朕懷。」夫人垂首含羞,輕輕俏語道:「只恐此事不可。」然見了風流天子,態度溫存,早已心動。於是後主擁抱求歡,夫人亦含笑相就,絕不作難。翻雲覆雨,笑語盈盈,以為巫山之遇,不過如此。宮人見者,皆遠遠避開,任其二人淫蕩。良久事畢,遂各整衣而起,宮人進來,捧上金盆洗手。二人洗罷,同往結綺閣來。斯時夫人鬂亂釵斜,嬌羞滿面,麗華接見,忙上前稱賀道:「此是陛下合享風流之福,故得遇姊。姊能曲體帝意,便是繡閣功臣了,何嫌之有?」乃為夫人重點新妝,閣中再開筵宴。當夜麗華留住夫人,使後主重赴陽台之夢。較之初次,更覺情濃。明日,夫人辭出,後主欲留,恐惹物議,因作小詞一闕,以訂後會。…夫人亦答小詞一首,以紀恩幸。…麗華見了,不勝歎賞,曰:「陛下天縱之才,姊妹閨中之秀,然皆深於情者也。」自此夫人常召入宮,留宿過夜。在摩訶面前,只言被麗華留住,不肯放歸。摩訶是直性人,始初信以為實,也不十分查問。其後風聲漸露,知與後主有奸,不勝大怒,因歎道:「我為國家苦爭惡戰,幹下無數功勞,纔得打成天下。今嗣主不顧綱常名分,姦污我妻子,沾辱我門風教我何顏立於朝廷!」因此把忠君為國的心腸,遂冷了一半。

 ⑴張貴妃…名は麗華。生年560、時に30歳。貧しい兵家の娘。容姿端麗で漆黒の七尺の長髪と聡明な精神を備え、立ち居振る舞いに品があった。後主が太子とされた時(569年)に龔貴嬪の給仕として後宮に入り、のち一目で気に入られて寵愛を受け、妊娠して陳淵を産んだ(575年)。帝が即位すると貴妃とされた。話上手で記憶力に優れ、帝の気持ちを良く汲み取る事ができた。また、気遣いができたため他の宮女からの評判も良かった。584年、後主が臨春・結綺 ・望仙の三閣を建てると結綺閣に住んだ。588年、子の淵が太子とされた。588年(1)参照。
 ⑵孔貴嬪…陳の後主に寵愛を受け、第十子の呉郡王蕃を産んだ。584年、望仙閣が建てられるとそこに住んだ。都官尚書の孔範と義兄妹の関係を結んだ。588年(1)参照。

┃出陣

 甲申(正月20日)、陳軍は白土岡に布陣した。布陣の位置は一番南が魯広達で、次に〔周智安、〕任忠、〔田瑞南史蕭摩訶伝では『端』)、〕樊毅孔範と続き、一番北が蕭摩訶だった。
 広達から摩訶の陣までの南北の距離は二十里(約8km?)の長きに及び(実際は5~6km?)、互いに何をしているか把握することができなかった。
 周智安は〔南豫州刺史の〕周敷の子で、太僕卿にまで昇進した。

 これより前、後主は中書舎人の施文慶沈客卿に朝政の重要事項を司らせていたが、ここにおいて文慶を外に出して楽游苑に駐屯させ、客卿に政治を取り仕切らせる事とした
 また、〔権知(臨時)中領軍の〕蔡徴に宮城の西北大営を守備させ、間もなく軍事を取り仕切らせた。

○陳後主紀
 甲申,後主遣眾軍與弼合戰。
○隋52賀若弼伝
 進屯蔣山之白土岡,陳將魯達、周智安、任蠻奴、田瑞、樊毅、孔範、蕭摩訶等以勁兵拒戰。
○陳13・南67周敷伝
 周敷…子智安嗣〔,位至太僕卿〕。
○陳29蔡徴伝
 及決戰於鍾山南崗,勑徵守宮城西北大營,尋令督眾軍戰事。
○陳31蕭摩訶伝
 令中領軍魯廣達陳兵白土崗,居眾軍之南偏,鎮東大將軍任忠次之,護軍將軍樊毅、都官尚書孔範次之,摩訶軍最居北,眾軍南北亘二十里,首尾進退,各不相知。
○南77施文慶伝
 尋敕文慶領兵頓于樂游苑。
○南77沈客卿伝
 禎明三年,客卿遂與文慶俱掌機密。隋師至,文慶出頓樂游苑,內外事客卿總焉。

 ⑴樊毅…字は智烈。樊文熾の子で、樊文皎の甥。武芸に優れ、弓技に長けた。陸納の乱の際には巴陵の防衛に活躍した。江陵が西魏に攻められると救援に赴いたが捕らえられ、後梁の臣下となった。556年に梁の武州を攻めて刺史の衡陽王護を殺害したが、王琳の討伐を受けて捕らえられた。その後は琳に従った。560年、王琳が敗れると陳に降った。のち荊州攻略に加わり、次第に昇進して武州刺史とされた。569年、豊州(福建省東部)刺史とされた。のち左衛将軍とされた。573年、北伐に参加し、大峴山にて高景安の軍を大破した。また、広陵の楚子城を陥とし、寿陽の救援に来た援軍も撃破した。また、済陰城を陥とした。575年、潼州・下邳・高柵など六城を陥とした。578年、朱沛清口上至荊山縁淮諸軍事とされ、淮東の地の軍事を任された。清口に城を築いて北周と戦ったが撃退された。のち中領軍とされた。北周が淮南に攻めてくると都督北討諸軍事とされた。のち都督荊郢巴武四州水陸諸軍事とされ、580年、司馬消難が帰順してくると督沔漢諸軍事とされた。581年、中護軍→護軍→荊州刺史とされた。後主が即位すると征西将軍とされた。585年、中央に呼ばれて侍中・護軍将軍とされた。588年、隋の侵攻を察知すると京口と採石の防備を固めるように進言したが聞き入れられなかった。隋軍が建康に迫ると下流大都督とされた。589年(1)参照。
 ⑵周敷…字は仲遠。?~564。臨川の豪族の出。短躯痩身だったが男気のある性格で、侯景の乱の時に梁の王族たちの多くを匿い、江陵に送り届けた。周迪が勢力を拡大するとこれと連合し、臨川故郡城を鎮守した。のち陳と王琳が対立すると陳に味方し、558年、王琳軍が周迪を包囲するとこれを救出し、560年、王琳の与党の熊曇朗を討伐した。561年、南川の土豪たちの中で一人先んじて入朝し、豫章太守とされた。周迪が叛乱を起こして豫章に攻め込んでくるとこれを撃退した。563年、南豫州刺史とされた。周迪が再び叛乱を起こすと再度討伐に赴いたが、騙し討ちにされて殺された。564年(4)参照。
 ⑶施文慶…呉興烏程の人。微賤の吏門の出。頭の回転が速く記憶力が良く、勉強家・読書家だった。太子時代の後主に仕えて事務処理能力を認められ、主書(東宮主書?もしくは即位後の中書主書?)に抜擢され、帝が即位すると中書舍人とされた。この時、始興王叔陵が乱を起こし、隋軍が国境に迫るという難局にあり、迅速な事務処理が求められたが、これを良く取り捌いてみせたので、帝から寵用を受けるに至った。また、宣帝が即位して以降弛緩していた政治を引き締め直し、官吏たちに全力で仕事に当たらせた。沈客卿らを推挙した功により、朝廷内外の事務を一任された。のち太子左衛率とされ、舍人はそのままとされた。585年頃、傅縡を死に追いやった。588年、湘州刺史とされたが、赴任する前に隋の侵攻に遭い、沙汰止みにならないよう後主に非常事態ではないと嘘をついて警戒を怠らせた。隋軍が上陸してくると大監軍とされた。自分を憎んでいる諸将が功を立てるのを恐れ、帝に彼らの言葉を聞き入れないよう進言した。589年(1)参照。
 ⑷沈客卿…呉興郡武康県の人。美男で頭が良く、弁才があり読書家で、施文慶と幼馴染で仲が良かった。陳に仕え、次第に昇進して尚書儀曹郎とされた。非常に故事に通じ、人々が朝廷の制度や儀礼で判断に迷うことがあると自分の意見を押し通した。至徳年間(583~586)の初めに中書舍人・兼步兵校尉とされ、金帛局(中書省二十一局の一つ)を司った。後主が宮殿の造営を盛んに行なうなどして財政が悪化すると、そのつど臨時の税を作って人民から搾り取ることに血道を上げ、結果、税収をこれまでの数十倍にした。これにより帝に大いに気に入られて左衛将軍とされ、舍人はそのままとされた。588年(3)参照。
 ⑸施文慶のやることなすことが私利私欲のためである事に気づいて愛想が尽きたのか、諸将の突き上げを食らったのか。
 ⑹蔡徴…字は希祥。本名は覧。守度支尚書の蔡景歴の子。美男で、弁才があり、優れた見識と並外れた記憶力を有していた。七歲の時に母を亡くした際、喪の服し方が成人のそれと同じだった。継母の劉氏にいじめられたがこれに恭しく接し、王祥の面影を見た父に名を徴、字を希祥に改められた。南徐州刺史の陳覇先(のちの陳の武帝)に仕えて主簿とされ、のち多くの職を歴任したが、どこでも能吏の評を得た。太建年間(569~582)の初めに太子(後主)少傅丞とされ、のち太子中舍人・兼東宮領直とされた。至徳二年(584)、廷尉卿とされ、間もなく吏部郎とされた。のち太子中庶子・中書舍人とされ、詔誥の作成に携わった。間もなく寧遠将軍(五品)・左民尚書とされた。後主に才能を高く評価されて日に日に信任を受け、将軍たちから奪った兵を分け与えられた。588年、吏部尚書・安右将軍(三品)とされた。常に十日に一度東宮に赴き、太子胤に古今の成功失敗の事例や現在の政務について論述した。また、廷尉寺の訴訟案件の判決を大小と無く全て任された。また、募兵を行なって私兵を組織する事を許された。面倒見がよく、人心を掴むのを得意としていたため、1ヶ月の間に1万人近くが集まった。間もなく中書令とされると「閑職に回されたため怨み言を言っている」と讒言を受け、誅殺されかかった。589年、隋軍が建康に迫ると再び起用され、中領軍とされた。589年(1)参照。

┃白土岡の決戦

 賀若弼は初め、陳軍は〔恐れおののいて〕まだ戦っては来ないと考えていたが、〔一応〕軽騎兵を率いて〔蒋〕山に登って動きを探った。すると陳軍が白土岡に集結しつつあり、こちらに攻めてこようとしているのが分かった。弼は〔慌てて山を〕馳せ下り、部下の行軍総管の楊牙・韓洪・員明・黄昕・張黙言・達奚隆・張弁らと共に約八千の兵を率い、防御態勢を取って迎え撃った。
 張黙言張保洛の子である。北斉の武平末(570~576)に衛将軍とされた。

〔陳軍は弼軍よりも遥かに多勢だったが、〕蕭摩訶は前述の通り戦意が無く、〔任忠は籠城派で、樊毅は献策を聞き入れられなかった事に不満があり、孔範は戦場を知らなかったため、〕奮戦したのは魯広達・田瑞だけだった。戦いはまず田瑞が先陣を切ったが撃退された。


 次いで広達が攻撃を仕掛けた。広達は甲冑を身に着け、手にバチを持ち、決死隊の先頭に立って軍鼓を打ち鳴らして激励し、白刃をものともせずに突き進んだ。これに諸軍が続くと、弼軍は〔堪らず〕敗走した。広達はこれを追って弼陣に到達し、非常に多くの兵を殺傷し、二百七十三名の首を斬った。弼は何度も後退を余儀なくされ、煙幕を張って身を隠すほどにまで追い詰められた。


 この時、陳兵はもう勝ったものと思って油断し、弼兵の首を得た者はみな〔戦場を抜け出して〕宮城に走って後主に献じ、金銀の褒賞を求めるほど規律が乱れていた。
 弼はこれを見ると〔つけいる隙があると感じ、〕将兵を叱咤激励して全力で反撃に転じた。弼は〔陳軍の北側(左翼)に戦意が無いのを感じ取り、〕攻め方を変えて軍を分けて北側に突撃させた。孔範がこれを迎え撃ったが、少し交戦しただけですぐ敗れて逃走した。


 陳軍はこれを見ると〔恐慌状態に陥って〕ばらばらになって戦わずして潰走し、〔魯広達樊毅が(南北史演義)〕制止しても止まらなかった。〔任忠はもともと不戦派だったため、当然退却を開始した。蕭摩訶も既に心が冷めきっていたので退却を図った(南北史演義)。〕かくて陳軍は大敗を喫し、五千もの死者を出した。
 蕭摩訶は開府の員明に捕らえられ、弼のもとに送られた。弼は左右に命じ、摩訶の首に刀を突きつけ斬ろうとしたが、全く平然として屈する様子が無かったので、〔弼はその意気を気に入って〕縄を解き、礼遇した。

○資治通鑑
 陳諸軍顧之,騎卒亂潰,不可復止,死者五千人。
○隋文帝紀
 丙子,賀若弼敗陳師於蔣山,獲其將蕭摩訶。
○陳後主紀
 甲申,後主遣眾軍與弼合戰,眾軍敗績。
○北斉19張保洛伝
 張保洛…子默言嗣。武平末,衛將軍。
○隋52賀若弼伝
 進屯蔣山之白土岡,陳將魯達、周智安、任蠻奴、田瑞、樊毅、孔範、蕭摩訶等以勁兵拒戰。田瑞先犯弼軍,弼擊走之。魯達等相繼遞進,弼軍屢却。弼揣知其驕,士卒且惰,於是督厲將士,殊死戰,遂大破之。麾下開府員明擒摩訶至,弼命左右牽斬之。摩訶顏色自若,弼釋而禮之。
○陳31・南67蕭摩訶伝
 賀若弼初謂未戰,將輕騎,登山觀望形勢,及見眾軍,因馳下置陣。〔後主通於摩訶之妻,故摩訶雖領勁兵八千,初無戰意,唯魯廣達、田端以其徒力戰。賀若弼及所部行軍七總管楊牙、韓洪、員明、黃昕、張默言、達奚隆、張辯等甲士凡八千人,各勒陣以待之。弼躬當魯廣達,〕廣達首率所部進薄,弼軍屢却,〔麾下戰死者二百七十三人,弼縱煙以自隱,〕俄(窘)而復振。〔陳兵得人頭,皆走獻後主,求賞金銀。弼〕更分軍趣北突諸將(孔範),孔範出戰,兵〔暫〕交而(便)〔敗〕走,諸將支離,陣猶未合,騎卒潰散,駐之弗止,摩訶無所用力焉,〔陳軍盡潰,死者五千人。〕為隋軍所執(諸門衞皆走,黃昕馳燒北掖門而入。員明禽摩訶以送弼,弼以刀臨頸,詞色不撓,乃釋而禮之)。
○陳31魯広達伝
 廣達躬擐甲冑,手執桴鼓,率勵敢死,冒刃而前,隋軍退走,廣達逐北至營,殺傷甚眾,如是者數四焉。
○南77孔範伝
 明日,範以其徒居中,以抗隋師,未陣而北,範脫身遁免。
○南北史演義
 就是魯廣達、樊毅兩軍,也被牽動,一並嘩散。任忠本不欲戰,自然退去。蕭摩訶心灰意懶,也擬奔回。

 ⑴韓洪…字は叔明。廬州総管の韓擒虎の末弟。若年の頃から勇敢で、弓術を得意とし、人並み外れた膂力を有した。北周に仕えて侍伯上士とされ、のち戦功を立てて大都督とされた。文帝が丞相となると韋孝寛の指揮のもと尉遅迥を相州に撃破し、上開府・甘棠県侯とされた。隋が建国されると公とされ、間もなく驃騎将軍とされた。陳討伐の際、行軍総管とされた。588年(2)参照。
 ⑵張保洛…鮮卑人。弓・馬を得意とした。六鎮の乱が起こると南下し、葛栄が挙兵するとその領左右とされた。葛栄が爾朱栄に敗れると爾朱栄に仕えて統軍とされた。のち高歓の部下となってその都督とされた。高歓が挙兵すると帳内都督とされた。孝武帝が高歓と対立し済州に兵を差し向けてくると、その迎撃軍の先鋒を務めた。のち歓に従って西魏の夏州を陥とし、万俟受洛干が帰順してくるとその迎接に赴いた。538年、西夏州刺史・安武県伯とされた。のち行蔚州刺史とされた。のち邙山・玉壁・龍門の戦いに参加し、帰還すると晋州刺史とされた。高澄が跡を継ぐと左廂大都督とされた。のち再び晋州に出、潁川の王思政を包囲する際、楊志塢を鎮守した。潁川が陥ちると梁州刺史とされた。のち、廃帝が即位すると滄州刺史・敷城王とされたが、搾取を行なった事で官爵を剥奪され死んだ。
 

 589年⑶に続く