┃プロフィール
【生没年】天監七年(508)八月丁巳(6日)~承聖三年(554)十二月辛未(19日)
・梁の武帝の第七子。
・幼名は七符(
・字は世誠
・眼病により幼い頃に片目を失明
・皮膚病を患った事もある
・頭脳明晰で頭の回転が非常に速く、生まれつき才能が抜きん出ていた。その言うことはどれも論理だっており、その声は鐘の音のように良く響いた。
・文才に優れ、書や絵も得意とし、自ら宣尼(孔子)像を描き、自ら孔子を讃える文章を作り、それを自ら書いたので、人々に『三絶』(3つの技芸に優れた人)と呼ばれた。

┃家族
・父…梁の武帝蕭衍
・母…阮修容石令嬴)。477~543。南斉の始安王遥光の妃。のち東昏侯の後宮に入れられ、梁の武帝が建康を陥とすとその綵女とされた。丁貴嬪の口利きによって帝の寵愛を受けるようになり、繹を産むと修容とされ、繹が各地の刺史にされるたびに付いていった。江州で亡くなった。
○妻
徐妃昭佩)。祖父の孝嗣は南斉の太尉・枝江文忠公。父の緄は侍中・信武将軍。517年12月に繹に嫁ぎ、世子の蕭方等益昌公主含貞を産んだ。容姿が醜かったため寵愛されず、二・三年に一度しかその寝室に赴かなかった。
王氏…繹の第二子の蕭方諸の母。美貌によって繹から寵愛を受けていたが、〔産んでから?〕程なくして亡くなった。繹はこれを妃がやったものだと疑った。
李桃児…営戸(戦争の際に捕虜とされて各地に分置された者たちの家系。代々平時は軍のために耕作・牧畜・製造を行なわされ、有事には兵として駆り出された。その身分は平民よりも低かった)出身だが、才知に優れていたため寵愛された。繹が建康に還る際(539年)にも付いていったが、当時の法令では営戸の者を州外に連れ出すことは禁止されていたため、発覚すると荊州に帰された。
○子
世子方等…母は徐妃。母が嫉妬によって寵を失い、更に王氏の死の責任を問われるようになると、身に不安を覚えるようになった。繹がそれを聞いてますます方等を嫌うと、方等はいよいよ恐懼し、隠遁志向の強い文章を著して災いを避けようとした。

┃人間関係
・母の阮修容武帝の寵を得たのは、太子綱廬陵王続の母である丁貴嬪のおかげだった。これが縁で繹は太子と仲が良く、続とも幼い頃からじゃれ合っていたが、長ずるに従って悪口を言い合う険悪な仲になった。
暨季江…側近の美男子。徐妃と密通し、そのたびに嘆息してこう言った。
「栢直の犬は老いてなお猟をすることができ、蕭溧陽の馬は老いてなお早く駆けることができ、徐娘は老いてなお好色である。」

┃性格
・生まれつき音楽や女色を好まなかった。
・見栄っ張りで嫉妬深く、名誉の機会を人に与えず、少しでも自分より才能がある者がいれば必ず排撃を加え、肉親でも容赦されなかった。
・疑い深かった。
・生来残忍だった上、父である武帝の寬縦の政の弊害に懲りていたため、その統治は非常に厳酷なものとなった。

┃隻眼の才士

 元帝は姓は蕭、諱は繹、字は世誠、幼名は七符(或いは官)といい、梁の武帝の第七子である。繹が生まれる前、帝は夢にて香鑪を持った片目が見えない僧侶にこう言われた。

「王宮にて転生するつもりだ。」

 これより前、会稽余姚の人の石令嬴生年477)は南斉の始安王遥光に嫁いでいたが、遥光が叛乱に失敗して処刑されると(499年)、廃帝東昏侯)の後宮に入れられた。のち、武帝が建康城を陥とすと(501年)、帝の采女とされて雑用に従事した。帝が夢を見てから間もなく、令嬴が戸の垂れ幕を掲げ開いた所、風が吹いてその衣服の〔裳(ロングスカート)の〕裾がめくれ上がった。帝はこれにムラっときて令嬴と関係を持った。やがて令嬴は月が懐中に落ちる夢を見たのち、妊娠した。

 天監七年(508)、8月、丁巳(6日)、繹を産んだ。この時、部屋中に普通でない香りが漂い、繹の胞衣(胎盤・臍帯・卵膜)は〔高貴な〕紫色をしていた。帝はこれを不思議でめでたいことと考え、かくて令嬴に阮の姓を与え、修容(側室のランクの三夫人九嬪五職三職の内の九嬪に属し、その中で一番下)とした。


 繹は生まれつき眼病を患っていたため、帝は全力で治療に当たり、自ら考えた治療法も試してみたが、結局進行を止めることはできず、片目が失明してしまった。帝は昔見た片目が見えない僧侶の夢を思い出し、以後いよいよ繹に憐憫と愛情をかけた。

 繹は頭脳明晰で頭の回転が非常に速く、生まれつき才能が抜きん出ていた。その言うことはどれも論理だっており、その声は鐘の音のように良く響いた。五・六歲の時、帝は繹にこう尋ねた。

「何の本を読んでいるのかな?」

 繹は答えて言った。

「《礼記》の曲礼篇を暗誦する事ができます。」

 帝は言った。

「試しに言ってみよ。」

 すると繹は曲礼の上篇をすらすらと暗誦してみせたので、周りの者はみな驚嘆した。


○梁元帝紀

 世祖孝元皇帝諱繹,字世誠,小字七符,高祖第七子也。〔初,武帝夢眇目僧執香鑪,稱託生王宮。既而帝母在采女次侍,始褰戶幔,有風回裾,武帝意感幸之。采女夢月墮懷中,遂孕。〕天監七年八月丁巳生〔帝,舉室中非常香,有紫胞之異。武帝奇之,因賜采女姓阮,進為修容〕。…世祖聰悟俊朗,天才英發。〔出言為論,音響若鍾。〕年五〔六〕歲,高祖〔嘗〕問:「汝讀何書?」對曰:「能誦曲禮。」高祖曰:「汝試言之。」即誦上篇,左右莫不驚歎。初生患眼,〔醫療必增,〕高祖自下意治(療)之,遂盲一目,〔乃憶先夢,〕彌加愍愛。

○梁7高祖阮修容伝

 高祖阮脩容諱令嬴,本姓石,會稽餘姚人也。〔初,〕齊始安王遙光納焉。遙光敗,入東昏宮。建康城平,高祖納為綵女。〔在孕,夢龍罩其牀。〕天監七年八月,生世祖〔于後宮。是日大赦〕。尋拜為脩容,〔賜姓阮氏。〕常隨世祖出蕃。…承聖二年,追贈太后父齊故奉朝請石靈寶散騎常侍、左衞將軍、封武康縣侯,母陳氏武康侯夫人。


 ⑴梁の武帝…蕭衍。字は叔達。464~549。梁の初代皇帝。博学多才で、弓馬の扱いにも長けた。南斉の時に雍州刺史として襄陽を守っていたが、500年に叛乱を起こして建康を陥とし、502年に梁を建国した。その後約半世紀に亘って江南に平和をもたらしたが、仏教に傾倒して仏寺に捨身したり、子どもたちに寛容すぎてわがままにさせたりと問題も起こした。548年、東魏の降将の侯景に叛乱を起こされ、翌年建康を陥とされ、餓死に追い込まれた。


┃賢母・阮修容

 母の阮修容武帝の側室となったのち大いに勉強し、《浄名経》の経義を学ぶと《雑阿毗曇心論》を持っていないのにも関わらず仏教の教えに通暁するようになった。その後三十年に亘って自ら仏教の講説を行ない、自ら《雑心講疏》を著した。

 また、繹の幼い頃に自ら教育を行ない、《孝経》《論語》《毛詩》を教えた。繹が地方長官になった後も政治について意見し、天災が起きた時には質素な生活をした。

 また、感情が一定していて慎ましやかで優しく、一度も厳しい言葉を言った事が無かった。両親が亡くなったときは危うく死にかけるほどに激しく悲しみ、両親の木像を刻むと朝夕これにお祈りをし、伏臘(夏と冬に神と祖先を祭る行事)の日には何か言うたび必ず涙を流した。


○金楼子3后妃

 天監元年,選入為露采女,賜姓阮氏,進位為修容。於是辨物書數,詔獻穜稑。初習淨名經義,備該元理,權實之道,妙極沙門。末持《雜阿毗曇心論》,精研無比,一時稱首。三十年中,恆自講說,自為《雜心講疏》,廣有宏益,繹始習方物名,示以無誑。及在幼學,親承慈訓。初受《孝經》,正覽《論語》《毛詩》,及隨繹數番,指以吏道,政無繁寡,皆荷慈訓。時值水旱,變食深憂,居常儼敬,無喜慍之色。恭儉仁恕,未嘗疾言。親指至于醴酏品式、衣裳製度。家人有善,莫不仰則。先是丁朝請之憂,毀瘠過禮,見者不復能識。母陳氏繼而艱,故攀號慟絕,殊不勝哀。乃刻木為二親之像,朝夕虔事。每歲時伏臘,言必隨淚下。


┃廬陵王続との確執

 湘東王繹の母の阮修容武帝の寵を得たのは、武帝の正室の丁貴嬪のおかげだった。これが縁で、繹は貴嬪の子で自分の兄の晋安王綱廬陵王続と幼い頃から仲が良く、じゃれ合っていたが、長ずるに従って続とは悪口を言い合う険悪な仲になった。


 十三年(514)に湘東郡王(邑二千戸)とされた。


○梁元帝紀

 十三年,封湘東郡王,邑二千戶。

○南53廬陵威王続伝
 始元帝母阮修容得幸,由丁貴嬪之力,故元帝與簡文相得,而與廬陵王少相狎,長相謗。

 ⑴廬陵王続…字は世訢。生年504~547。梁の武帝の第五子。母は丁貴嬪で、昭明太子統・太子綱の同母弟。勇猛果断で並外れた膂力を有し、騎射は百発百中の腕前であり、武帝に「我が任城(曹彰)」と賛嘆を受けた。ただ、強欲だった。509年に廬陵郡王とされた。511年に南彭城琅邪太守、514年に会稽太守、517年に江州刺史、520年に石頭戍軍事とされた。522年に都督雍梁秦沙四州諸軍事・雍州刺史とされた。のち南徐州刺史とされ、530年に再び都督雍梁秦沙四州諸軍事・雍州刺史とされた。533年、賀抜勝の侵攻に対処した。535年に江州刺史、537年に護軍将軍・領石頭戍軍事、539年頃に都督荊郢司雍南北秦梁巴華九州諸軍事・荊州刺史とされた。


┃徐昭佩との結婚

 十六年(517)12月徐昭佩と結婚した(時に10歳)。昭佩の祖父は南斉の太尉・枝江文忠公の徐孝嗣。父は侍中・信武将軍の徐緄

 昭佩は容姿が醜かったため、繹は彼女を寵愛せず、二・三年に一度しか寝室に赴かなかった。昭佩は繹の片目が見えないのを皮肉り、繹が来るのを知ると必ず顔の半分だけ化粧をしてこれを待った。繹はこれを見ると激怒して寝室を出た。妃は酒が好きで、大体いつも泥酔しており、繹がやってくると必ずその服に嘔吐した。



○梁7・南12世祖徐妃伝

 世祖徐妃諱昭佩,東海郯人也。祖孝嗣,〔齊〕太尉、枝江文忠公。父緄,侍中、信武將軍。天監十六年十二月,拜湘東王妃。生世子方等、益昌公主含貞。〔妃無容質,不見禮,帝三二年一入房。妃以帝眇一目,每知帝將至,必為半面粧以俟,帝見則大怒而出。妃性嗜酒,多洪醉,帝還房,必吐衣中。


┃会稽赴任

 のち、寧遠将軍・会稽太守とされた(12歳の頃。519年頃)。

 この時、武帝は中書郎・兼吏部・太子中庶子の到溉を軽車長史・行府郡事とし、繹にこう言った。

「到溉はただお前の州務を代行するだけでなく、お前の師となるに充分な者である。常に彼に相談してから行動するようにせよ。」

 溉は昔、こんな夢を見た。夢の自分は武帝の子どもたちを見て回っていたが、繹の所に到った所で帽子を脱いでこれを繹に与える、というものである。

 現在、繹の部下になるに及び、〔溉は運命的なものを感じ、〕謹んでこれに仕えた。


 溉は八尺の長身で、絵に書いたような色白の美男であり、美しい髭を備え、立ち居振る舞いには風雅で、当意即妙に言葉を返すことができた。無欲な性格で、どの官に就いても清廉であり、自室にはただ牀(座具を兼ねた寝台)一つがあるだけだった。また、音楽や女性を好まず、側室を置かなかった。また、車や服なども質素な物とし、冠や靴も十年経ってようやく変え、朝服は時に縫って補修してまで着続けた事があった。また、先払いの者も必要最低限の数しか連れて行かなかった。


 学問を好み、〔このとき皮膚病を患い、一時手を握ることができず、膝も曲げる事ができないほどになったが、めげずに読書に励んだ。〕


 顔之推曰く…梁の元帝陛下はある時、私にこう言った。

「昔、会稽にいた時、年齢はようやく十二になったばかりだったが、もう勉学が大好きだった。この時、皮膚病を患って、手を握ることができず、膝も曲げる事ができないほどだったが、静かな書斎に蝿避けの蚊帳を吊って、その中に一人座り、銀の瓶に貯えておいた山陰(会稽郡の治所)産の甘酒を時折飲んで痛みを和らげつつ、読書に専念し、一日に二十巻も読破したものだ。このときまだ先生がいなかったので、ところどころ字や語句の意味が分からないことがあったが、その時は必ず何度も繰り返し読んで意味を自分なりに考えたりして飽きなかった。」

 皇帝の子という身分、童子という安逸な立場にあっても、なおこれほどまでに努力して勉強なされたのである。まして、一般の身分で、勉学によって栄達を志す者であれば、尚更努力せねばならないだろう。


○梁元帝紀

 初為寧遠將軍、會稽太守。

○梁40・南25到溉伝

 遷中書郎,兼吏部,太子中庶子。湘東王繹為會稽太守,以溉為輕車長史、行府郡事。高祖敕王曰:「到溉非直為汝行事,足為汝師,間有進止,每須詢訪。」〔溉嘗夢武帝遍見諸子,至湘東而脫帽與之,於是密敬事焉。〕…溉身長八尺,美風儀,善容止(眉目如點,白晳美鬚髯,舉動風華,善於應答),所莅以清白自脩。性又率儉,不好聲色,虛室單牀,傍無姬侍,自外車服,不事鮮華,冠履十年一易,朝服或至穿補,傳呼清路,示有朝章而已。

○梁50・南21王籍伝

 久之,除輕車湘東王諮議參軍,隨府會稽。郡境有雲門、天柱山,籍嘗遊之,或累月不反。至若邪溪賦詩,其略云:「蟬噪林逾靜,鳥鳴山更幽。」當時以為文外獨絕。〔劉孺見之,擊節不能已已。以公事免。〕還為大司馬從事中郎,遷中散大夫,尤不得志,遂徒行市道,不擇交遊。 湘東王為荊州,引為安西府諮議參軍,帶作塘令,不理縣事,日飲酒,人有訟者,鞭而遣之。少時,卒。文集行於世。

○顔氏家訓

 梁元帝嘗為吾說:「昔在會稽,年始十二,便已好學。時又患疥,手不得拳,膝不得屈。閑齋張葛幃避蠅獨坐,銀甌貯山陰甜酒,時復進之,以自寬痛。率意自讀史書,一日二十卷,既未師受,或不識一字,或不解一語,要自重之,不知厭倦。」帝子之尊,童稚之逸,尚能如此,況其庶士,冀以自達者哉?


 ⑴到溉…字は茂灌。477~548。彭城武原の人。母は魏氏。絵に描いたような色白の美男で、美髯・八尺(196cm)の長身。立ち居振る舞いに華があった。清廉潔白でつましい生活を送り、音楽や女色を好まなかった。若年の頃に父を亡くし貧しい生活を送った。頭が良く学識もあった。御史中丞・都官・左戸二尚書を歴任し、539年に吏部尚書とされた。のち国子祭酒とされると、武帝の編纂した《孔子正言章句》を学校に置いて正言助教二人・学生二十人を置くことを求めて許された。帝と非常に仲が良く、よく一緒に碁を打った。朱异・劉之遴・張綰と親しく交際した。のち失明し、548年に死去した。


┃三礼講義

 のち侍中・宣威将軍・丹陽尹とされ〔ると、丹陽尹に就いた者たちの列伝を集めて《丹陽尹伝》を著した〕。

 繹は非常な読書家で、文章もすらすらと書くことができ、帝は繹が十七歳の時にこう尋ねて言った。

孫策が江東に赴いたのは何歳の時だったか?」

 繹は答えて言った。

「十七歳の時です。」(父の孫堅が死んで跡を継いだのが17歳の時で、江東攻略に赴いたのは20歳

 帝は言った。

「まさにお前の年齢の時だ。」

 かくて賀革を府諮議参軍とし、《三礼》の講義をさせた。


 繹は丹陽尹とされると朝士と共に宴会を開き、中書黄門侍郎の王規に酒令(酒席に興を添える遊び)を作らせた。すると規はおもむろにこう〔諌めて〕言った。

「江東に遷ってより以来、このような事(中書黄門侍郎に酒令を作らせること?)は一度もございませんでした。」

 その場にいた特進の蕭琛・金紫の傅昭は共にその通りだと言った。


○梁元帝紀

 入為侍中、宣威將軍、丹陽尹。…既長好學,博總(極)羣書,下筆成章,出言為論,才辯敏速,冠絕一時。高祖嘗問曰:「孫策昔在江東,于時年幾?」答曰:「十七。」高祖曰:「正是汝年。」賀革為府諮議,敕革講三禮。…所著…丹陽尹傳十卷。

○梁41王規伝

 除中書黃門侍郎。敕與陳郡殷鈞、琅邪王錫、范陽張緬同侍東宮,俱為昭明太子所禮。湘東王時為京尹,與朝士宴集,屬規為酒令。規從容對曰:「自江左以來,未有茲舉。」特進蕭琛、金紫傅昭在坐,並謂為知言。


┃三絶

 繹は生まれつき音楽や女色を好まず、非常な評判を得た。荊州刺史となると州の学校に宣尼廟(孔子廟)を建て、儒林参軍一人・勧学従事二人・生(生徒)三十人を置き、食糧を支給して〔学問に専念できる環境を作った〕。

 繹は書や絵が上手で、自ら宣尼(孔子)像を描き、自ら孔子を讃える文章を作り、それを自ら書いたので、人々に『三絶』(3つの技芸に優れた人)と呼ばれた。

 また、裴子野・劉顕・蕭子雲・張纘など当時を代表する秀才たちと布衣の交わり(身分にこだわらない関係)を結んだ。常に自分は諸葛亮・桓温と同等の才能があると言ったが、賛同したのは纘だけだった。その著作は多くが世に広く流布した。


○梁元帝紀

 世祖性不好聲色,頗有高名,〔為荊州刺史,起州學宣尼廟。嘗置儒林參軍一人,勸學從事二人,生三十人,加廩餼。帝工書善畫,自圖宣尼像,為之贊而書之,時人謂之三絕。〕與裴子野、劉顯、蕭子雲、張纘及當時才秀為布衣之交,〔常自比諸葛亮、桓溫,惟纘許焉。〕著述辭章,多行於世。

○梁35蕭子雲伝

 丹陽尹丞。時湘東王為京尹,深相賞好,如布衣之交。

○梁48賀革伝

 革字文明。少通三禮,及長,徧治孝經、論語、毛詩、左傳。起家晉安王國侍郎、兼太學博士,侍湘東王讀。敕於永福省為邵陵、湘東、武陵三王講禮。稍遷湘東王府行參軍,轉尚書儀曹郎。尋除秣陵令,遷國子博士,於學講授,生徒常數百人。出為西中郎湘東王諮議參軍,帶江陵令。王初於府置學,以革領儒林祭酒,講三禮,荊楚衣冠聽者甚眾。


┃荊州赴任

普通七年(526)冬、10月、辛未(5日)、梁が丹陽尹の湘東王繹を使持節・都督荊湘郢益寧南梁六州諸軍事(長江中・上流一帯)・西中郎将・荊州(江陵)刺史とした。




 大通二年(528)徐昭佩が長子の蕭方等を産んだ。

○梁武帝紀

 冬十月辛未,以丹陽尹湘東王繹為荊州刺史。

○梁元帝紀

 普通七年,出為使持節、都督荊湘郢益寧南梁六州諸軍事、西中郎將、荊州刺史。

○梁7高祖阮脩容伝

 常隨世祖出蕃。

○梁44忠壮世子方等伝

 忠壯世子方等…時年二十二。


┃漢中攻略

 中大通四年(532)、9月、乙巳(14日)、平西将軍(五班)に進められた。

 大同元年(535)、西魏の梁州民の皇甫円・姜晏らが徒党を集め、叛乱を起こして梁に付いた。梁はこれに応じて南鄭(漢中、梁州の治所)を攻めた。諸軍の指揮は都督荊湘郢益寧南梁六州諸軍事・西中郎将・荊州刺史の湘東王繹に委ねたが、実際の指揮は、司農卿の肩書を与えて行台とした繹の諮議参軍の劉之亨に任せた。梁軍の楼船(漢水を遡上)・鎧武器は非常に堂々たるものがあった
 北梁州(治 魏興)刺史(名目上)の蘭欽は北魏の通生()を破り、行台の元子礼元孚の子?)や大将の薛俊懐俊?)・張菩薩を捕らえた。
 壬戌(11月20日)、西魏の梁州刺史の元羅胡太后を幽閉し専権を振るった元叉の弟)は州を挙げてこれに降った[1]
 癸亥(21日)、〔北梁州の名称を元の〕梁州に戻した。

◯梁武帝紀
〔中大通〕四年…九月乙巳,…西中郎將、荊州刺史湘東王繹為平西將軍。
〔大同元年十一月〕壬戌,北梁州刺史蘭欽攻漢中,剋之,魏梁州刺史元羅降。癸亥,〔復梁州。

○梁元帝紀

 中大通四年,進號平西將軍。

○魏16元羅伝
 出帝時,遷尚書令,尋除使持節、驃騎大將軍、開府儀同三司、梁州刺史。羅既懦怯,孝靜初,蕭衍遣將圍逼,羅以州降。
○周44楊乾運伝
 楊乾運字玄邈,儻城興勢人也。為方隅豪族。父天興,齊安康郡守。乾運少雄武,為鄉閭所信服。弱冠,州辟主簿。孝昌初,除宣威將軍、奉朝請,尋為本州治中,轉別駕,除安康郡守。大統初,梁州民皇甫圓、姜晏聚眾南叛,梁將蘭欽率兵應接之。以是漢中遂陷,乾運亦入梁。
○梁46杜懐宝伝
 父懷寶,少有志節,常邀際會。高祖義師東下,隨南平王偉留鎮襄陽。天監中,稍立功績,官至驍猛將軍、梁州刺史。大同初,魏梁州刺史元羅舉州內附,懷寶復進督華州。值秦州所部武興氐王楊紹反, 懷寶 擊破之。五年,卒於鎮。
○南50劉之亨伝
 累遷步兵校尉,湘東王繹諮議參軍,敕賜金策并賜詩焉。大通六年,出師南鄭,詔湘東王節度諸軍。之亨以司農卿為行臺承制,途出本州北界,總督眾軍,杖節而西,樓船戈甲甚盛。老小緣岸觀曰:「是前舉秀才者。」鄉部偉之。是行也,大致剋復,軍士有功皆錄,唯之亨為蘭欽所訟,執政因而陷之,故封賞不行,但復本位而已。

 ⑴湘東王繹からここまでの記述は『大通六年』の事とされているが、大通は三年しか無いので、『中大通六年(534)』の誤りのように思われる。しかし、去年にそのような記述は見当たらないので、いま仮にここに移した。
 ⑵蘭欽…字は休明。並外れた武勇と優れた智謀を備え、果断さを戦場で良く発揮し、步けば一日に二百里を行くことができた。また、統率の才能があり、人によく死力を尽くさせることができた。梁に仕えて東宮直閣とされた。527年北魏の蕭城を攻め陥とし、擬山城に侵攻して劉属が率いる二十万の大軍も撃破した。次いで厥固を陥とした。更に范思念ら数万も大破した。527年⑵参照。
 [1]考異曰く、『三国典略』はこの事を7月としているが、今は梁武帝紀の記述に従うことにする。

┃西帰内人
 12月、辛丑(29日)、安西将軍(四班)に進められた。
 三年(537)、閏9月、甲子(2日)、鎮西将軍(三班)に進められた。
 五年(539)、秋、7月、己卯(28日)、朝廷に呼び戻され、安右将軍(四班)・護軍将軍(六軍の一。近衛兵を掌る)・領石頭戍(建康近西の城)軍事とされた。

 繹は荊州時代(526~539年)、李桃児という、営戸(戦争の際に捕虜とされて各地に分置された者たちの家系。代々平時は軍のために耕作・牧畜・製造を行なわされ、有事には兵として駆り出された。その身分は平民よりも低かった)出身の才知に優れた女性を寵愛した。
 現在、建康に帰る際、繹は桃児を連れて行った。ただ、当時の法令では営戸の者を州外に連れ出すことは禁止されていたため、事は秘密裏に行なわれた。しかし、〔険悪の中だった〕兄の廬陵王続はこれを見逃さず、このことを洗いざらい武帝にぶちまけてしまった。繹は泣いて仲の良かった兄の太子綱もと晋安王綱)に仲介を求めたが、上手くいかなかった。繹はここにおいて、やむなく桃児を荊州に帰した。これが有名な《送西帰内人》の詩の下りである。
 

秋気蒼茫として孟津に結(巡)り

復(ま)た巫山に送りて枕神に薦(集)む

昔時、慊慊(切々)たる愁(うれ)い応(ただ)ちに去るも

今日、労労(悲痛)として長(とこし)えに人と別る。


李桃児といた時は心配事もたちまち消え去ったのに、今日別れる時は悲痛な気持ちが永遠に続いてしまう。

 これ以降、繹と続は絶交状態となった。

○梁武帝紀

〔大同〕元年…十二月…辛丑,平西將軍、荊州刺史湘東王繹進號安西將軍。

 三年…閏月甲子,安西將軍、荊州刺史湘東王繹進號鎮西將軍。

 五年…秋七月己卯,…湘東王繹為護軍將軍、安右將軍。

○梁元帝紀

 大同元年,進號安西將軍。三年,進號鎮西將軍。五年,入為安右將軍、護軍將軍,領石頭戍軍事。

○梁49・南72劉緩伝
 縚弟緩,字含度,少知名。歷官安西湘東王記室,時西府盛集文學,緩居其首。除通直郎,俄遷鎮南湘東王中錄事,復隨府江州,卒。〔性虛遠,有氣調,風流迭宕,名高一府。常云:「不須名位,所須衣食。不用身後之譽,唯重目前知見。」
○南53廬陵威王続伝
 元帝之臨荊州,有宮人李桃兒者,以才慧得進,及還,以李氏行。時行宮戶禁重,續具狀以聞。元帝泣對使訴於簡文,簡文和之得止。元帝猶懼,送李氏還荊州,世所謂西歸內人者。自是二王書問不通。

 ⑴巫山の枕神…もと天帝の娘。未婚のまま死んで巫山の南に葬られ,巫山の神となった。楚の懐王が夢にこの神女と通じ、襄王も彼女と夢の中で会ったとされる。

┃江州赴任
 六年(540)12月壬子(9日)、梁の江州刺史の豫章王歓が逝去した。
 梁は護軍将軍・領石頭戍軍事の湘東王繹を代わりに使持節・都督江州諸軍事・鎮南将軍(三班)・江州刺史とした。
 また、桂州(治 桂林?)を湘州の始安郡(零陵の西南)〔に移し、〕湘州の監督下に置き、南桂林など二十四郡を廃し、全て桂州に所属させた。


○梁武帝紀

〔大同六年…十二月壬子,江州刺史豫章王歡薨。以護軍將軍湘東王繹為鎮南將軍、江州刺史。置桂州於湘州始安郡,受湘州督;省南桂林等二十四郡,悉改屬桂州。

○梁元帝紀

 六年,出為使持節、都督江州諸軍事、鎮南將軍、江州刺史 。


┃劉敬躬の乱と王僧弁の登場


 時に、梁の安成郡の望族に劉敬躬宮?)という者がいた。敬躬がある日田んぼの中から白い蛆(ウジ)虫を得ると、蛆虫は金亀に変化した。敬躬がそこでこれを鎖に繋ごうとすると、突如として光を発して部屋中を照らし出したので、敬躬はこれを神として祀った。敬躬がこれに願い事をすると多くがその通りとなったため、次第に無賴の者たちが多く敬躬のもとに集まってくるようになった。敬躬は常々徳のある者が〔幸いを、〕怨恨を受けている者が〔災いを〕必ず受けると考えていたので、遂に梁に叛乱を企てるようになった。
大同八年(542)春、正月敬躬が妖術を以て得た信徒らを率いて叛乱を起こした。安成内史の蕭説侻?)は城を棄てて東方に逃れ、郡は敬躬に占拠された。敬躬は年号を永漢と改め、百官を置き、南康・廬陵に進攻して県邑を虐殺・破壊して回った。敬躬の軍は遠近から志願者が相次いだことによって数万の兵に膨れ上がり、豫章郡の新淦県や柴桑(江州)に迫った。
 当時、南方は戦とは無縁であったため、官民はこれを怖がってあちこちに逃げ去った。しかし豫章内史の張綰は逃亡の誘いを断って城の守りを固め、一万余人の義勇兵を募って敬躬に抵抗した。
 綰、字は孝卿は、尚書僕射の張纘539年正月参照)の弟である。
 2月、戊戌(2日)、江州刺史の湘東王繹が司馬の王僧弁・中直兵参軍の曹子郢に敬躬の討伐を命じた。両者は綰の指揮に従った。
 子郢が敬躬軍を撃破すると、敬躬は安成郡に逃げ帰った。
 3月、戊辰(2日)、あらかじめ安成郡に向かっていた僧弁が敬躬軍に奇襲攻撃を仕掛けてこれを大破した。敬躬は捕らえられて建康に送られ、市場にて斬られた。

○資治通鑑
 八年春正月,敬躬據郡反,改元永漢,署官屬,進攻廬陵,逼豫章。南方久不習兵,人情擾駭,豫章內史張綰募兵以拒之。綰,纘之弟也。二月戊戌,江州刺史湘東王繹遣司馬王僧辯、中兵曹子郢討敬躬,受綰節度。三月戊辰,擒敬躬,送建康,斬之。僧辯,神念之子也【天監七年,王神念自魏來奔。】,該博辯捷,器宇肅然,雖射不穿札,而志氣高遠。
○梁武帝紀
 八年春正月,安成郡民劉敬躬挾左道以反,內史蕭說委郡東奔,敬躬據郡,進攻廬陵,取豫章,妖黨遂至數萬,前逼新淦、柴桑。二月戊戌,江州刺史湘東王繹遣中兵曹子郢討之。三月戊辰,大破之,擒敬躬送京師,斬于建康市。
○隋天文志
 大同…五年…十一月乙卯,至婁滅。占曰:「天下有謀王者。」其八年正月,安成民劉敬躬挾左道以反,黨與數萬。
○梁34張綰伝
 出為豫章內史。綰在郡,述制旨禮記正言義,四姓衣冠士子聽者常數百人。八年,安成人劉敬宮挾祅道,遂聚黨攻郡,內史蕭侻棄城走。賊轉寇南康、廬陵,屠破縣邑,有眾數萬人,進寇豫章新淦縣。南中久不習兵革,吏民恇擾奔散。或勸綰宜避其鋒,綰不從,仍修城隍,設戰備,募召敢勇,得萬餘人。刺史湘東王遣司馬王僧辯帥兵討賊,受綰節度,旬月間,賊黨悉平。
○梁45・南63王僧弁伝
 王為江州〔刺史〕,仍除雲騎將軍司馬(中兵參軍),守湓城。〔時有安成望族劉敬躬者,田間得白蛆化為金龜,將銷之,龜生光照室,敬躬以為神而禱之。所請多驗,無賴者多依之。平生有德有怨者必報,遂謀作亂,遠近響應。元帝命中直兵參軍曹子郢討之,使僧辯襲安成。子郢既破其軍,敬躬走安成,僧辯禽之。

 ⑴王僧弁…字は君才。?~555。北魏から梁に亡命した王神念の次子。膂力に乏しかったが、そのぶん智謀に優れた。梁の湘東王繹に仕え、侯景の乱が起こるとその大軍から巴陵を守り切りって形勢を一気に逆転させ、反転攻勢を行なって一挙に景を滅ぼした。のち江陵が陥落して元帝(湘東王繹)が西魏に殺されると、その遺児を建康にて擁立して実権を握ったが、のち陳覇先のクーデターに遭って殺された。

┃母の死
 大同九年(543)、6月、庚申(2日)、江州府の内寝(奥座敷)にて母の阮修容が亡くなった(享年67)。
 11月、江寧県(建康)の通望山に埋葬された。宣と諡された。

○梁7・南12高祖阮脩容伝
 大同六(九)年六月,薨于江州內(正)寢,時年六十七。其年十一月,歸葬江寧縣通望山。謚曰宣。世祖即位,有司奏追崇為文宣太后〔,還祔小廟〕。
金楼子3后妃
 以升明元年丁已六月十一日生…大同九年太歲癸亥六月二日庚申死于江州之內寢,春秋六十七。
 

 梁元帝紀⑵に続く