[499~583]

┃呉興の大族
 姚僧垣は字を法衛といい、呉興郡(建康の東南、呉郡の西南)武康県(呉興の南)の人で、呉の太常の姚信の八世孫である。曽祖父は劉宋の員外散騎常侍・五城侯の姚郢、父は梁の高平令の姚菩提。菩提は何年も病気に苦しめられたため、医術を学ぶようになった。梁の武帝も医術を愛好していたので、よく菩提を呼んでは医術について討論した。菩提の発言は帝を満足させるものばかりだったため、以降非常な礼遇を受けるようになった。

○周47姚僧垣伝
 姚僧垣字法衞,吳興武康人,吳太常信之八世孫也。曾祖郢,宋員外散騎常侍、五城侯。父菩提,梁高平令。嘗嬰疾歷年,乃留心醫藥。梁武帝性又好之,每召菩提討論方術,言多會意,由是頗禮之。

 ⑴梁の武帝…蕭衍。字は叔達。464~549。梁の初代皇帝。博学多才で、弓馬の扱いにも長けた。南斉の時に雍州刺史として襄陽を守っていたが、500年に叛乱を起こして建康を陥とし、502年に梁を建国した。その後約半世紀に亘って江南に平和をもたらしたが、仏教に傾倒して仏寺に捨身したり、子どもたちに寛容すぎてわがままにさせたりと問題も起こした。548年、東魏の降将の侯景に叛乱を起こされ、翌年建康を陥とされ、餓死に追い込まれた。

┃酬対滞る無し
 僧垣は幼い頃から礼儀をわきまえており、父の死の際には礼を尽くした。二十四歳の時(522年)に家業を継いだ。梁の武帝が宮中に呼び入れて自ら面接すると、流れるように答えてみせたので、帝から非常に高い評価を受けた。大通六年(、出仕して臨川嗣王(正義)国左常侍とされた。
 大同五年(539)、驃騎廬陵王()府田曹参軍とされた。

○周47姚僧垣伝
 僧垣幼通洽,居喪盡禮。年二十四,即傳家業。梁武帝召入禁中,面加討試。僧垣酬對無滯。梁武帝甚奇之。大通六年,解褐臨川嗣王國左常侍。大同五年,除驃騎廬陵王府田曹參軍。

 ⑴大通六年…大通は527~529年の3年で、六年は存在しない。普通六年(525)か中大通六年(534)のどちらかの誤りであろう。534年だと家業を継いでから出仕までが長過ぎるが、その時に就いた職が臨川嗣王国左常侍で、臨川王宏が亡くなったのは526年なので、534年が正しいのかもしれない。

┃葛修華診察
 九年(543)、中央に帰って領殿中医師とされた。この時、武陵王紀の生母の葛修華がたちの悪い病気に長く苦しめられていたが、治療を受けても効き目が無かった。帝がそこで僧垣に診察しに行かせた。僧垣は帰ると事細かに病状を説明すると共に、その推移について記録した〔物を提出した〕。帝は感嘆して言った。
「卿の注意力はこの次元にまで至った。この注意力を以て治療に当たれば、どんな病気でも治すことができるだろう。朕はこれまでの名士の多くが医術を好んでいた事を以て、これを学び、その大要を知悉したつもりだったが、今、卿の説く所を聞くと、いっそう啓発される思いがする。」

○周47姚僧垣伝
 九年,還領殿中醫師。時武陵王所生葛修華,宿患積時,方術莫効。梁武帝乃令僧垣視之。還,具說其狀,并記增損時候。梁武帝歎曰:「卿用意綿密,乃至於此,以此候疾,何疾可逃。朕常以前代名人,多好此術,是以每恆留情,頗識治體。今聞卿說,益開人意。」

 ⑴武陵王紀…字は世詢。武帝の第八子。母は葛修容。508~553。温和な性格をしており、感情が一定していた。文武に優れ、気骨のある詩文を作り、騎射や長矛の扱いに長けた。武帝に特に可愛がられた。514年に武陵王に封じられ、間もなく揚州刺史とされた。524年、東揚州刺史とされた。529年に宣恵将軍・江州刺史とされ、532年に都督揚南徐二州諸軍事・揚州刺史とされた。537年、都督益梁等十三州諸軍事・安西将軍・益州刺史とされると、建寧・越嶲の地を開拓し、内では農耕・養蚕・鋳鉄を奨励し、外では貿易を振興したため、財政は潤い、武器鎧の備蓄は充実して軍馬は八千頭を数えた。また、前任者の十倍もの量の特産品を朝廷に献上した。545年、征西大将軍・開府儀同三司とされた。552年、皇帝に即位し、553年、湘東王繹と戦ったが敗れて殺された。

┃武帝発熱
 十一年(545)、領太医正とされ、文徳主帥・直閤将軍を加えられた。帝があるとき発熱し、大黄を服用しようとした。このとき僧垣は言った。
「大黄は快薬(速効性のある薬)でありますが、お年をめされている至尊が軽々しく使用していいものではありません。」
 帝がこれを聞き入れずに大黄を服用すると、〔果たして〕病状が悪化して危篤に陥った。

○周47姚僧垣伝
 十一年,轉領太醫正,加文德主帥、直閤將軍。梁武帝嘗因發熱,欲服大黃。僧垣曰:「大黃乃是快藥。然至尊年高,不宜輕用。」帝弗從,遂至危篤。

┃太子綱の礼遇
 太子綱も僧垣を非常に礼遇し、四季の節句の日と伏臘(夏の三伏の祀と、冬の田神を祭る臘祭)の日に常に賞賜を与えた。

○周47姚僧垣伝
 梁簡文帝在東宮,甚禮之。四時伏臘,每有賞賜。

 ⑴太子綱…字は世賛(讚、纉)。幼名は六通。503~551。武帝の第三子で、母は丁令光。太子統の同母弟。506年に晋安王とされた。6歳の時に早くも美文を作り、帝に「我が家の東阿(曹植)」と絶賛され、自らも『詩癖』があると称し、『宮体』と呼ばれる軽艶な詩を作った。温厚で髭が美しく、十行を同時に読むことができ、多くの書物を暗記し、文章を即座に書き上げることができた。また、老荘思想を好んだ。510~513年に都督南北兗青徐冀五州諸軍事・南兗州刺史とされ、514年に都督荊雍梁南北秦益寧七州諸軍事・荊州刺史とされ、515年に江州刺史、520年に南徐州刺史、523年に都督雍梁南北秦四州郢州之竟陵司州之隨郡諸軍事・雍州刺史とされると領土を大きく広げる事に成功した。526年、都督荊益南梁三州諸軍事に進められた。530年、都督南揚徐二州諸軍事・揚州刺史とされた。531年、太子統が亡くなるとその子を措いて代わりに皇太子とされ、非難を浴びた。544年、武帝が蘭陵に赴いた際、留守を任された。548年、侯景が建康に攻め寄せてくると迎撃の指揮を執り、自ら銀鞍を持って手柄を立てた戦士に与えたり、土を運んで土山を作る手伝いをしたりして兵の士気を高めた。范桃棒が寝返った際疑って受け入れなかった。韋粲が戦死したのを聞くと涙を流した。《囲城賦》を作って朱异を責め立て、憤死させた。549年、侯景が和を求めてくると帝を説得してこれを受け入れた。台城が陥落すると景に会ったが全く恐れの色を見せなかった。帝が餓死すると跡を継いで即位し、簡文帝となった。景に娘を奪われたり、舞を舞わされたり、宇宙大将軍を名乗られて驚かされたりした。551年、廃されて晋安王に戻り、間もなく殺害された。
 
┃古今に通じる
 太清元年(547)、鎮西湘東王(府中記室参軍とされた。僧垣は若年の頃から読書を好み、章句の意味などの些末な事に囚われなかった。ある時、古今の事について討論すると、〔その内容が立派だったため、〕学者たちから称賛を受けた。

○周47姚僧垣伝
 太清元年,轉鎮西湘東王府中記室參軍。僧垣少好文史,不留意於章句。時商略今古,則為學者所稱。

 ⑴湘東王繹…字は世誠。幼名は七符(官)。508~554。梁の武帝の第七子。母は阮修容。生まれつき眼病を患い、のち片目を失明したが、左右の者に代読させて読書を楽しんだ。ひとたび筆を取れば一気呵成に書き上げるなど、頭の回転が非常に速く博学多才だったが、残忍で疑い深く利己的な性格だった。514年に湘東王とされ、526~539年に都督荊湘郢益寧南梁六州諸軍事・荊州刺史を務めた。540年に江州刺史とされ、547年に都督荊雍湘司郢寧梁南北秦九州諸軍事・鎮西将軍・荊州刺史とされた。侯景の乱が起こると積極的に救援せずに武帝と太子を見殺しにし、更に他の兄弟や甥たちも殺害した。552年に侯景を滅ぼし、皇帝に即位して江陵に都したが、554年、西魏の侵攻を受けて捕らえられ、殺された。

┃台城救援
 侯景が建康に迫った時(548年)、僧垣は妻子を顧みずに〔荊州から?〕救援に赴いた。武帝はその気節を褒め称え、戎昭将軍・湘東王府記室参軍とした。

○周47姚僧垣伝
 及侯景圍建業,僧垣乃棄妻子赴難。梁武帝嘉之,授戎昭將軍、湘東王府記室參軍。

 ⑴侯景…字は万景。503~552。懐朔鎮の人。身長七尺に満たず、胴長短足で、目鼻は疎らで整った容姿を持ち、額は広く頬骨は高く、赤ら顔で髭が薄かった。右足が左足より短かったため、弓や馬の扱いに不得手であったが、その代わり智謀に優れていた。性格は残虐で軍法を厳しく執行したが、気前が良かったため兵士からの評判は良く、戦えば十中八九勝利を得た。同郷の高歓と非常に仲が良かった。しばしば功を立てて鎮の功曹史や外兵史とされ、爾朱栄が洛陽を陥とすと私兵を率いてこれに仕え、大いに才能を買われて滏口の決戦の際には先鋒を任された。爾朱氏が高歓に滅ぼされると歓に仕えて河南の軍事を一任された。歓の死後叛乱を起こしたが敗れて梁に亡命したが、そこでも叛乱を起こし、都の建康を陥として漢を建国したが、552年、王僧弁・陳覇先の連合軍に敗れて流浪の身となり、最後は部下に殺された。

┃呉興での抵抗


549年3月、〕台城が陥落し、百官があちこちに逃げ散ると、僧垣も間道を通って故郷の呉興に帰り、太守の張嵊に謁えた。嵊は僧垣に会うと涙を流してこう言った。
「私は朝廷から過大な恩を蒙った身ゆえ、今命を賭けてこれに報いるつもりです。貴君は呉興の大族であり、しかも朝廷の旧臣であります。今日貴君を得たからには、きっと成功する事でしょう。」
8月、甲申朔(1日)劉神茂・侯子鑑率いる二万の大軍が呉興を攻めた。〕
 9月、癸丑朔(1日)、長い攻城戦の末に呉興郡城は陥落した。僧垣は逃げ隠れたが、暫くして捕らえられた。景の将の侯子鑑はもともと僧垣の評判を耳にしていたので罪に問わず、非常に礼遇した。僧垣は建康に帰り、兼中書舍人とされた。

梁(侯景)の大宝元年(550)2月、〕侯子鑑が広陵の鎮守を任されると、これに随行して江北に到った。

○周47姚僧垣伝
 及宮城陷,百官逃散。僧垣假道歸,至吳興,謁郡守張嵊。嵊見僧垣流涕曰:「吾過荷朝恩,今報之以死。君是此邦大族,又朝廷舊臣。今日得君,吾事辦矣。」俄而景兵大至,攻戰累日,郡城遂陷。僧垣竄避久之,乃被拘執。景將侯子鑒素聞其名,深相器遇,因此獲免。及梁簡文嗣位,僧垣還建業,以本官兼中書舍人。子鑒尋鎮廣陵,僧垣又隨至江北。

 ⑴張嵊…字は四山。南斉五代皇帝の東昏侯を殺害した張稷の子。侯景の乱のとき呉興太守を務め、景軍が攻めてくると激しく抵抗したが、敗れて殺された。
 ⑵劉神茂…侯漢の司空・東道行台(或いは東南道大行台)。梁の馬頭戍主。侯景が東魏に敗れて寄る辺を失っていた時、これを寿陽に導いた。549年、監行台とされ、義興を陥とした。のち、侯子鑑と共に呉興を陥とした。次いで南下して富陽を陥とした。12月、宋子仙と共に東揚州を陥とし、逃走した南郡王大連を東陽にて捕らえた。のち東道行台とされた。551年、任約の代わりに司空とされたが、間もなく湘東王繹に寝返り、討伐を受けて捕らえられ、大剉碓という刑具で足から頭まで順々に切り刻まれて殺された。
 ⑶侯子鑑…侯景の中軍都督。549年、劉神茂と共に呉興を陥とした。550年、広陵にて来嶷らが挙兵すると討伐に赴き、平定すると董紹先の代わりに南兗州刺史とされた。551年、侯景の即位前に白獐(ノロ、鹿の一種)を献じた。552年、北斉の合肥を攻めた。のち姑孰の守備に就き、南洲にて王僧弁らの軍を迎え撃ったが大敗し、更に建康でも敗れると広陵に逃走し、そこで郭元建を説得して共に北斉に降伏した。

┃禍敗久しからず

梁(湘東王繹)の承聖元年(552)、〕湘東王繹侯景の乱を平定すると、僧垣を荊州に呼び、晋安王府諮議とした。当時、繹は大乱を平定したものの、人事はめちゃくちゃで、無軌道な政治を行なっていた。僧垣はこれを非常に憂い、旧友にこう言った。
「今の形勢を見るに、禍敗は遠からず訪れるだろう。今一番採るべき策は、家に閉じこもって〔政治に関わらない事だ〕。」
 これを聞いた者たちはみな口を覆ってくすくすと笑って〔馬鹿にした〕。
〔間もなく繹は即位して元帝となった。〕

○周47姚僧垣伝
 梁元帝平侯景,召僧垣赴荊州,改授晉安王府諮議。其時雖剋平大亂,而任用非才,朝政混淆,無復綱紀。僧垣每深憂之。謂故人曰:「吾觀此形勢,禍敗不久。今時上策,莫若近關【[八]今時上策莫若近關 冊府明本卷七九六 九四六二頁「近關」作「杜門」,宋本作「近門」。按「近關」不可解,疑「近」是「閉」之訛】。」聞者皆掩口竊笑。

┃元帝の病気と新貨
 元帝があるとき心腹の病気(腹痛?)に罹り、医者たちを呼んで治療の方法について検討させた。医者たちはみな口々にこう言った。
「至尊(陛下)は非常に貴い身でありますゆえ、軽々しい方法を用いてはなりません。穏当な薬を用いるべきであります。さすれば次第に快方に向かうでしょう。」
 その中で僧垣は言った。
「脈が洪(波のように押し寄せるときには勢いよく、去るときはゆっくりと減退していく脈)・実(はっきりと力強く打つ脈)になる原因は宿食(食べ物が胃腸に停滞し、消化できていないために現れる症状)にあります。大黄(タデ科ダイオウまたは同属植物の根茎を乾燥したもの)を用いなければ治らないでしょう。」
 帝がこれに従ってその煎じ薬を飲むと、果たして宿食が下り(便秘が治り)、病気が治った。帝は大いに喜び、このとき鋳造したばかりの新銭十万枚を与えたが、この新銭は一枚が旧銭の十枚に相当したので、実際は百万枚与えたようなものだった。

○周47姚僧垣伝
 梁元帝嘗有心腹疾,乃召諸醫議治療之方。咸謂至尊至貴,不可輕脫,宜用平藥,可漸宣通。僧垣曰:「脉洪而實,此有宿食。非用大黃,必無差理。」梁元帝從之,進湯訖,果下宿食,因而疾愈。梁元帝大喜。時初鑄錢,一當十,乃賜錢十萬,實百萬也。
 
┃于謹の拒絶

西魏の恭帝元年(554)、〕西魏軍が江陵を陥とした。この時、僧垣はなおも元帝の傍から離れようとしなかったが、西魏兵に制止されると涙を流して去った。間もなく中山公の宇文護が使者を派して面会を求めてくると、その軍営に赴いた。のち、更に燕国公の万紐于謹于謹に呼ばれ、大変な礼遇を受けた。のち、宇文泰が急使を派して僧垣を呼んだが、謹は断固として拒否して使者にこう言った。
「歳をとり、たちの悪い病気に悩まされ続けている今、この人を得た〔のは運命であります。〕どうか彼と老いを共にさせてください。」
 泰は謹の勲功と徳行が非常に重いのを以てこれを聞き入れ、呼ぶのをやめた。
 翌年、僧垣は謹に随行して長安に到った。
〔のち、西魏が禅譲を行ない北周が建国された。〕
 武成元年(559)、小畿伯下大夫とされた。

○周47姚僧垣伝
 及大軍剋荊州,僧垣猶侍梁元帝,不離左右。為軍人所止,方泣涕而去。尋而中山公護使人求僧垣。僧垣至其營。復為燕公于謹所召,大相禮接。太祖又遣使馳驛徵僧垣,謹固留不遣。謂使人曰:「吾年時衰暮,疹疾嬰沉。今得此人,望與之偕老。」太祖以謹勳德隆重,乃止焉。明年,隨謹至長安。武成元年,授小畿伯下大夫。

 ⑴宇文護…晋公護。字は薩保。宇文泰の兄の子。513~572。至孝・寛容の人。宇文泰に「器量が自分に似ている」と評された。泰が危篤となると幼い息子(孝閔王)の後見を託されたが、宰相となると瞬く間に権力を手中にし、孝閔王と明帝を毒殺して武帝を立てた。572年、誅殺された。572年(1)参照。
 ⑵万紐于謹(于謹)…字は思敬。493~568。八柱国の一人で、北周の元勲。冷静沈着の名将。西魏の代に姓を元の万紐于氏に復した。554年、梁の首都の江陵を陥とす大功を挙げ、太傅・燕国公とされた。568年(1)参照。
 ⑶宇文泰…字(鮮卑名)は黒獺。507~556。匈奴(鮮卑化)宇文部の出。北魏末に爾朱栄に仕え、関中平定の際に大いに活躍した。のち爾朱天光→賀抜岳に仕えて関西大行台左丞・府司馬とされ、右腕として活躍した。のち夏州刺史とされ、岳が侯莫陳悦に殺されると遺衆を引き継いで悦を討ち、関中の実力者となった。孝武帝が高歓と対立して亡命してくるとこれを迎え入れて西魏を建国し、丞相とされた。間もなく帝を殺害して文帝を立て、華北の大半を掌握した歓と小関・沙苑にて戦い、寡にして良く衆を破ったが、続く河橋・邙山の戦いでは善戦するも敗北を喫した。548年、太師とされた。梁が侯景の乱によって乱れると南方に目を向け、漢中・成都・襄陽・江陵の地を攻略し、領土を大きく広げることに成功した。556年、六官の制を採用して大冢宰に就いた。

┃三縛と決命大散
 金州刺史の伊婁穆が病気に罹って長安に帰り、僧垣に診療を求めた。この時、穆はこう言った。
「腰から臍に至るまでの三ヶ所が縛られている感じがして、両脚に力が入らない。」
 僧垣は脈を取ると、煎じ薬を三つ処方した。穆が最初の一つを服用すると一番上の縄のような物が解かれ、次にもう一つを服用すると真ん中の縄が解かれ、最後にもう一つを服用すると最後の縄が解かれた。ただ、両脚はまだ麻痺していて、曲がったまま動かなかった。そこで更に粉薬を一つ処方すると、次第に曲げ伸ばしができるようになった。僧垣は言った。
「霜が降る頃には完治するでしょう。」
 果たして九月になると立ち上がって歩く事ができるようになった。

 大将軍・襄楽公の賀蘭隆先賀蘭祥の弟)は気疾(呼吸器系統の病気)と水腫を病んでいて、いきなり喘息(気管支喘息。気道がむくんで細くなる事で発症)を発症するので毎日気が気でなかった。そこである者が『決命大散』という薬を服用するよう勧めた。隆先の家族はその薬を信じきれず、飲むかどうか決められなかったので、僧垣に判断を仰いだ。僧垣は言った。
「この病気と大散は合わないと思います。もし大散を服用したいと考えるなら、わざわざお訪ねに来られなくともよろしいです。」
 かくて家族を帰らせた。すると隆先の子が頭を下げて心を込めてこう言った。
「私は長い間我慢してきましたが、耐えきれなくなって今日ここに来たのです。〔もう父が苦しむ姿を見たくはありません。〕もし父の病気が治らないままになったら、自分の心のありったけを尽くしたことになりませぬ。」
 僧垣は治療できる事を知ると、直ちに薬を処方して急いで服用するよう勧めた。隆先がこれを飲むとすぐに呼吸が良くなり、更にもう一つ服用すると他の病気も全て治った。
 天和元年(566)、車騎大将軍・儀同三司とされた。

○周47姚僧垣伝
 金州刺史伊婁穆以疾還京,請僧垣省疾。乃云:「自腰至臍,似有三縛,兩脚緩縱,不復自持。」僧垣為診脉,處湯三劑。穆初服一劑,上縛即解;次服一劑,中縛復解;又服一劑,三縛悉除。而兩脚疼痺,猶自攣弱。更為合散一劑,稍得屈申。僧垣曰:「終待霜降,此患當愈。」及至九月,遂能起行。
 大將軍、襄樂公賀蘭隆先有氣疾,加以水腫,喘息奔急,坐臥不安。或有勸其服決命大散者,其家疑未能決,乃問僧垣。僧垣曰:「意謂此患不與大散相當。若欲自服,不煩賜問。」因而委去。其子殷勤拜請曰:「多時抑屈,今日始來。竟不可治,意實未盡。」僧垣知其可差,即為處方,勸使急服。便即氣通,更服一劑,諸患悉愈。天和元年,加授車騎大將軍、儀同三司。
○北61賀蘭祥伝
〔賀蘭〕祥弟隆,大將軍、襄樂縣公。

 ⑴伊婁穆…字は奴干。父は西魏の隆州刺史の伊霊(尹)。早くから宇文泰に仕え、口が達者なことで名を知られた。邙山の戦いで功を挙げた。のち丞相府参軍事→外兵参軍→中書舍人・尚書駕部郎中→大丞相府掾→従事中郎→給事黄門侍郎とされた。553年、蜀に使者として赴いた際、趙雄傑らの乱に遭うと、叱羅協と共にこれを討伐した。557年、兵部中大夫→治御正とされた。561年に軍司馬、564年に金州総管とされ、のち襄州総管の衛公直の長史とされた。

┃患い、時に剋殺あり
 ある時、大将軍・楽平公の竇集が突然風疾に罹り、意識が混濁して前後不覚の状態に陥った。医者たちはみな匙を投げたが、後から診察した僧垣はこう言った。
「非常に難しいですが、助かる見込みはあります。私に一任していただけますなら治してみせましょう。」
 家族はこれを聞くと喜び、僧垣に治療してくれるよう求めた。僧垣が煎じ薬と粉薬を調合して服用させると、病気はたちどころに治った。
 大将軍・永世公の叱伏列椿は長い間頻繁な下痢に悩まされていたが、朝廷への参内はやめなかった。燕国公の万紐于謹于謹)はあるとき僧垣にこう尋ねて言った。
「楽平・永世は共に持病に悩まされているが、私が見た所、永世の方がやや軽いように思う。」
 僧垣は答えて言った。
「病状には深い浅いがありますが、時に〔浅い方が〕激しくなって死に至る事があります。楽平は今のところ病状が重いですが、結局は生きながらえることができるでしょう。永世は今のところ病状が軽いですが、きっと死んでしまうでしょう。」
 謹は言った。
「貴君は必ず死ぬと言うが、それはいつ頃なのかね?」
 僧垣は答えて言った。
「四ヶ月を越えない内に死ぬでしょう。」
 すると果たして四ヶ月以内に叱伏列椿は亡くなった。謹は感嘆し不思議がった。
 六年(571)、遂伯中大夫とされた。

○周47姚僧垣伝
 天和元年,加授車騎大將軍、儀同三司。大將軍、樂平公竇集暴感風疾,精神瞀亂,無所覺知。諸醫先視者,皆云已不可救。僧垣後至,曰:「困則困矣,終當不死。若專以見付,相為治之。」其家忻然,請受方術。僧垣為合湯散,所患即瘳。大將軍、永世公叱伏列椿苦利積時,而不廢朝謁。燕公謹嘗問僧垣曰:「樂平、永世俱有痼疾,若如僕意,永世差輕。」對曰:「夫患有深淺,時有剋(危)殺。樂平雖困,終當保全。永世雖輕,必不免死。」謹曰:「君言必死,當在何時?」對曰:「不出四月。」果如其言。謹歎異之。六年,遷遂伯中大夫。

 ⑴叱伏列椿…字は千年。叱列伏椿?西魏の開府・恒州刺史・長楽県公の叱列伏亀の子。母は宇文顥(晋公護の父)の娘? 明帝の時(557~560)に儀同とされ、間もなく開府・永世県公とされた。保定二年(562)、幽州刺史とされ、天和年間(566~572)の初めに左宮伯とされ、大将軍とされた。

┃叱奴太后の死
建徳三年(574)、〕庚申(2月29日)、北周の叱奴太后武帝の母)が病気に罹った。
 叱奴太后が病に臥せったのち、多くの医者が診察したが、その診断の結果はそれぞれ異同があった。武帝は内殿に行くと僧垣を呼んで共に座り、こう尋ねて言った。
「太后の病状は重そうに見えるが、医者たちはみな大丈夫だという。しかし、もしかすると、太后の子である朕の気持ちを忖度して、嘘をついているのかもしれぬ。公は朕と君臣の間柄であるゆえ、嘘偽りは許されぬ。どうか本当の事を言ってもらいたい。」
 僧垣は答えて言った。
「臣は声音や顔色から病状を判断できるほどの妙技はございませんが、診てきた病人の数は多うございますゆえ、そこからある程度見当をつけることはできます。彼らの病状と突き合わせてみますに、太后さまのご容態は非常に危険な状態にあると考えます。」
 帝は泣いてこう言った。
「公がそう診断を下したのなら、もう何も言うまい!」
 癸酉(13日)、太后が逝去した。

○周武帝紀
 庚申,皇太后不豫。三月辛酉,至自雲陽宮。癸酉,皇太后叱奴氏崩。
○周47姚僧垣伝
 六年,遷遂伯中大夫。建德三年,文宣太后寢疾,醫巫雜說,各有異同。高祖御內殿,引僧垣同坐,曰:「太后患勢不輕,諸醫並云無慮。朕人子之情,可以意得。君臣之義,言在無隱。公為何如?」對曰:「臣無聽聲視色之妙,特以經事已多,准之常人,竊以憂懼。」帝泣曰:「公既決之矣,知復何言!」尋而太后崩。其後復因召見,帝問僧垣曰:「姚公為儀同幾年?」對曰:「臣忝荷朝恩,於茲九載。」帝曰:「勤勞有日,朝命宜隆。」乃授驃騎大將軍、開府儀同三司。又勅曰:「公年過縣車,可停朝謁。若非別勅,不勞入見。」

 ⑴武帝…宇文邕。北周の三代皇帝。在位560~。生年543、時に32歳。宇文泰の第四子。聡明・沈着で将来を見通す識見を持ち、泰に「我が志を達成してくれる者」と評された。文学を愛好した。560年、帝位に即いたが、実権は従兄の晋公護に握られた。572年、護を誅殺して親政を開始した。574年(1)参照。

┃不労入見
 のち、帝は僧垣を呼ぶと、尋ねて言った。
「姚公は儀同になってから何年経つ?」
 僧垣は答えて言った。
「臣は朝恩を忝のうしてから(儀同になってから。566年)、九年は経ちましてございます。」
 帝は言った。
「姚公は長年朝廷に良く仕えてくれている。昇進して然るべきである。」
 かくて驃騎大将軍・開府儀同三司とし、更に勅を下して言った。
「公はとうに県車の歳(七十。引退する歳)を過ぎているのだから、以後はたっての命令で無い限り、朝見に来ずとも良い。」

○周47姚僧垣伝
 其後復因召見,帝問僧垣曰:「姚公為儀同幾年?」對曰:「臣忝荷朝恩,於茲九載。」帝曰:「勤勞有日,朝命宜隆。」乃授驃騎大將軍、開府儀同三司。又勅曰:「公年過縣車,可停朝謁。若非別勅,不勞入見。」

┃武帝を治す

建徳四年(575)武帝は北斉討伐に赴いたが発病して帰還した。〕
 帝はこのとき口が利けず、瞼が垂れて目も見えず、片方の足が縮こまって歩くこともできなかった。僧垣はいくつかの内臓が同時に病に冒されているため、一度に治す事はできないと診、そこでまず、軍中では〔命令伝達が〕一番重要と考えて、薬を処方して話せるようにした。次いで目を治し、最後に足を治した。帝の容態は華州(華山。長安の東二百里)に着いた頃にはすっかり快復した。帝は〔甚く喜んで〕直ちに僧垣をこの華州の刺史としたが、長安に連れて行って州には居らせなかった。
 戊寅(9月26日)、帝が長安に帰った。

 宣政元年(578)、〔老齢を理由に(時に80歳)〕引退を願い出ると、帝はこれまでの労をねぎらう詔を下して聞き入れた。

○周武帝紀
 戊寅,至自東伐。
○周47姚僧垣伝
 四年,高祖親戎東討,至河陰遇疾。口不能言;瞼垂覆目,不復瞻視;一足短縮,又不得行。僧垣以為諸藏俱病,不可並治。軍中之要,莫先於語。乃處方進藥,帝遂得言。次又治目,目疾便愈。末乃治足,足疾亦瘳。比至華州,帝已痊復。即除華州刺史,仍詔隨入京,不令在鎮。宣政元年,表請致仕,優詔許之。

┃武帝の死
 5月、己丑(23日)武帝が諸軍を率いて突厥討伐に赴いた。
 癸巳(27日)、発病し、雲陽宮(もと甘泉宮。長安の西北にある。宇文泰が亡くなった場所。避暑地)に留まった。

 帝は僧垣を雲陽宮に呼んだ。この時、内史中大夫の宇文昂柳昂が密かに僧垣に尋ねて言った。
「至尊(陛下)の食が細くなって久しいのですが、脈を診てどう思われましたか?」
 僧垣は答えて言った。
「天子は上は天の御心に適われたお方でありますから、愚かな私の頭では良くなるのか悪くなるのか皆目見当がつきません。ただ、普通、このような脈であったら、万に一つも助かる見込みはありません。」

 6月(陳の閏5月)、丁酉(1日)、帝は危篤に陥り、長安へ帰ろうとした。この日の夜、帝は車駕の中で逝去した(享年36)。

○周武帝紀
 五月己丑,帝總戎北伐。遣柱國原公姬願、東平公宇文神舉等率軍,五道俱入。發關中公私驢馬,悉從軍。癸巳,帝不豫,止于雲陽宮。丙申,詔停諸軍事。六月丁酉,帝疾甚,還京。其夜,崩於乘輿。時年三十六。
○周47姚僧垣伝
 宣政元年,表請致仕,優詔許之。是歲,高祖行幸雲陽,遂寢疾。乃詔僧垣赴行在所。內史柳昂私問曰:「至尊貶膳日久,脉候何如?」對曰:「天子上應天心,或當非愚所及。若凡庶如此,萬無一全。」尋而帝崩。

 ⑴宇文昂(柳昂)…字は千里。大将軍の宇文敏(柳敏)の子。幼い頃から利発で器量と見識があり、並外れた事務処理能力を持っていた。武帝の時に内史中大夫・開府儀同三司・文城郡公とされて政務を取り仕切り、百官はみなその指示に従った。仕事に全力で、しかも謙虚で偉ぶることが全く無かったため、人々から高い評価を受けた。577年(1)参照。

┃姚僧垣寵遇
太子贇が即位し、北周の宣帝となった(時に20歳)。〕
 帝は太子時代、いつも心痛(胸の痛み)に苦しんでいたが、僧垣に治療してもらうとすぐに治って非常に喜んでいた。そのため、即位すると僧垣を非常に礼遇した。ある時、ふと僧垣にこう言った。
「先帝は貴公の事を姚公と呼んでいたと耳にしたが、本当なのか?」
 僧垣は答えて言った。
「臣は先帝に特別な寵遇をいただいておりましたので、まことに陛下のお言葉の通りでございます。」
 帝は言った。
「その『公』は老人を敬う敬称であって、顕貴な爵位の称号の方の『公』ではない。朕は貴公を本当の公として土地を与え、子孫に永久に継がせていこうと思う。」
 かくて長寿県公(邑千戸)とした。また、冊命(封爵)の日、更に金帯や衣服などを下賜した。
大象元年(579)2月、帝が長子の太子衍に帝位を譲り(静帝)、天元皇帝を称した。〕

○周47姚僧垣伝
 宣帝初在東宮,常苦心痛。乃令僧垣治之,其疾即愈。帝甚悅。及即位,恩禮彌隆。常從容謂僧垣曰:「常(嘗)聞先帝呼公為姚公,有之乎?」對曰:「臣曲荷殊私,實如聖旨。」帝曰:「此是尚齒之辭,非為貴爵之號。朕當為公建國開家,為子孫永業。」乃封長壽縣公,邑一千戶。冊命之日,又賜以金帶及衣服等。

 ⑴太子贇…字は乾伯。生年559、時に20歳。武帝の長子。母は李氏。品行が良くなく、酒を好み、小人物ばかりを傍に近づけ、非行を繰り返したとされる。輔佐する者の賢愚によって品行が激変する事から『中人』と評された。561年に皇子時代の父と同じ魯国公とされた。565年に楽遜、568年に斛斯徴の授業を受けた。572年、太子とされた。574年、西方を巡視した。叱奴太后が亡くなって帝が喪に服すと、五十日に亘って政治を代行した。その後も帝が四方に赴くたびに長安に留まって政治を代行した。576年、吐谷渾の討伐に赴いたが、その間多くの問題行動を起こし、烏丸軌(王軌)と安化公孝伯にこの事を武帝に報告されて鞭打たれた。以後帝の威厳を恐れはばかり、うわべを繕うことに努めるようになった。577年(4)参照。
 ⑵太子衍…生年573、時に7歳。宣帝の長子。母は朱満月(南方出身)。今年の1月に魯王→皇太子とされた。579年(1)参照。
 
┃助かる見込み無し
 大象二年(580)、太医下大夫とされた。
 間もなく天元帝が発病し、病状が次第に重篤なものとなると、僧垣は泊まり込みで看病に当たった。帝は隨国公の普六茹堅楊堅にこう言った喋れている?)。
「今日、私が助かるかどうかはこの人(僧垣)如何にかかっている。」
 僧垣は帝を診察して助からない事を知ると、答えて言った。
「臣は既にかなりの恩を忝うしておりますゆえ、全力で治療に当たるつもりです。ただ、凡愚でふつつかな身であるため、上手くいかないかもしれませぬ。」
 帝は頷いた。
〔間もなく、帝は天徳殿にて崩御した(享年22)。〕
 静帝が跡を継ぐと、上開府儀同大将軍とされた。
〔のち普六茹堅が帝位を簒奪し、隋を建国した。〕
 開皇年間(581~600)の初めに爵位を進められて北絳郡公とされた。

○周47姚僧垣伝
 大象二年,除太醫下大夫。帝尋有疾,至于大漸。僧垣宿直侍。帝謂隨公曰:「今日性命,唯委此人。」僧垣知帝診候危殆,必不全濟。乃對曰:「臣荷恩既重,思在效力。但恐庸短不逮,敢不盡心。」帝頷之。及靜帝嗣位,遷上開府儀同大將軍。隋開皇初,進爵北絳郡公。

 ⑴普六茹堅(楊堅)…幼名は那羅延。生年541、時に40歳。父は故・隨国公の楊忠。母は呂苦桃。落ち着いていて威厳があった。宇文泰に「この子の容姿は並外れている」と評され、名観相家の趙昭に「天下の君主になるべきお方だが、天下を取るには必ず大規模な誅殺を行なわないといけない」と評された。また、非常な孝行者だった。晋公護と距離を置き、憎まれた。568年に父が死ぬと跡を継いで隨国公とされた。573年、長女が太子贇(のちの宣帝)に嫁いだ。575年の北斉討伐の際には水軍三万を率いて北斉軍を河橋に破った。576年の北斉討伐の際には右三軍総管とされた。577年、任城王湝と広寧王孝珩が鄴に侵攻すると、斉王憲と共にこれを討伐した。のち定州総管とされた。577年、南兗州(亳州)総管とされた。578年、宣帝が即位すると舅ということで上柱国・大司馬とされた。579年、大後丞→大前疑とされた。580年、揚州総管とされたが、足の病気のため長安に留まった。580年(1)参照。
 ⑵隋38劉昉伝には『御正中大夫の顔之儀と御正下大夫の劉昉を寝室に呼び、後事を託そうとしたが、もはや声が出せないほどに病状は悪化していたため、何も伝えることができなかった』とある。

┃姚僧垣の死
 開皇三年(583)、僧垣が逝去した(享年85)。僧垣は遺言にて白帢(白い帽子。官に仕えなかった者が棺に入れられる時にかぶる)をかぶせて棺に入れ、朝服を着せぬように言い、また、霊前にはただ香箱のみを置き、每日清水のみを供えるように言った。隋は本官のほか荊・湖二州刺史を追贈した。
 僧垣の医術の腕前は非常に素晴らしく、治した患者の数は数え切れないほどだった。そのため、国内の人々はもちろん、外国の者からも重んじられ、治療の申し出が来た。僧垣は珍奇な薬草を採集してどんな効果が出たか考察した物を《集験方》十二巻にまとめ、更に《行記》三巻を著し、どちらも世に流布した。長子の姚察は陳に仕え、〔のち隋にて《梁書》《陳書》の編纂に当たったが、中途で逝去した〕。

○周47姚僧垣伝
 三年卒,時年八十五。遺誡衣白帢入棺,朝服勿斂。靈上唯置香奩,每日設清水而已。贈本官,加荊、湖二州刺史。
 僧垣醫術高妙,為當世所推。前後効驗,不可勝記。聲譽既盛,遠聞邊服。至於諸蕃外域,咸請託之。僧垣乃搜採奇異,參校徵効者,為集驗方十二卷,又撰行記三卷,行於世。長子察在江南。