┃姓名・字・出身地
侯景は字を万景といい、朔方、或いは雁門郡出身で、北魏の懐朔鎮の人である。
・幼名は狗子

○梁56侯景伝
 侯景字萬景,朔方人,或云雁門人。
○南80侯景伝
 侯景字萬景,魏之懷朔鎮人也。…狗子,景小字。

┃生没年
・503~552
・548年の侯景の書状に『臣は四十六年生きてきましたが』とある。
・《太平広記》に『梁の簡文帝と同年月日の生まれ』とある。簡文帝は503年10月28日生まれである。
・《太平広記》に『侯景は梁の武帝が殺した南斉の東昏侯の生まれ変わりで、侯の死んだ日に生まれた』とある。東昏侯が殺されたのは501年12月6日で、侯景の書状の内容と合わない。
・太始二年(梁の大宝三年。552)4月己卯(乙卯の誤り。18日)、景は逃走中、船上にて羊鵾らに矟で刺し殺された。

○梁簡文紀
 天監二年十月丁未,生于顯陽殿。
○南80侯景伝
 乃上言曰:「高澄狡猾,寧可全信。陛下納其詭語,求與連和,臣亦竊所笑也。臣行年四十有六,…。」
○太平広記
・晉安王蕭綱初生日,梁武遣使問誌,誌合掌云:「皇子誕育幸甚,然冤家亦生。」於後推尋曆數。與侯景同年月日而生也。
・梁武帝蕭衍殺南齊主東昏侯,以取其位。誅殺甚衆。東昏死之日,侯景生焉。後景亂梁,破建業,武帝禁而餓終,簡文幽而壓死,誅梁子弟,略無孑遺。時人謂景是東昏侯之後身也。
○資治通鑑
 承聖元年…夏四月…己卯,…景走入船中,…鵾以矟刺殺之。

┃年表
○503年      懐朔鎮で誕生
          懐朔功曹史や外兵史を務める
○523年      六鎮の乱勃発
○528年
4月       爾朱栄、洛陽を陥とす(この頃、私兵を率いて栄に仕える)
9月壬申(18日) 滏口の決戦。先鋒を務め、大いに名を上げる
○530年
9月戊戌(25日) 爾朱栄、孝荘帝に誅殺される
12月甲辰(3日) 爾朱兆、洛陽を陥とす
          侯景、引き続き爾朱氏に仕え、驃騎大将軍・行済州事とされる
○532年
・閨3月      高歓、韓陵山にて爾朱氏を大破
・4月辛未(8日) 高歓に降り、儀同三司・兼尚書僕射・南道大行台・済州刺史とされる
・7月       夏州遷民の郭遷が青州にて叛乱。斉州刺史の尉景・済州刺史の蔡俊らを率いて討伐
○533年頃     河西の費也頭族の紇豆陵伊利を説得するも失敗(このとき『長史』とある)
○534年
・2月       秦州刺史の侯莫陳悦が賀抜岳を殺害
          岳の遺衆の接収に向かうも宇文泰に先んじられて失敗
          東雍州刺史の金祚を慰諭し仇池より帰還させる
          宇文泰に帰順を勧める使者とされるが失敗して拘留される。間もなく釈放される
・7月       高歓、洛陽の孝武帝を攻める
          侯景、白馬津(東郡滑台)に向かう
          高歓が洛陽を陥とす。孝武帝、関中の宇文泰を頼る
・8月       南道大行台・荊州刺史の賀抜勝を討伐。勝、梁に亡命(以後、侯景、河南を治める)
・10月丙寅(17日) 孝静帝の即位。魏、東西に分裂
○535年
・正月       高敖曹と共に西魏の荊州を奇襲。独孤如願・楊忠、梁に亡命
・4月壬辰(16日) 梁の北道総督・魏王の元慶和が城父を攻める。侯景、彭城に向かう
○536年      賀抜勝らが西魏に入国。侯景、軽騎を率いて妨害するよう命じられる
          定州刺史とされる
・9月壬寅(4日) 南道行台右僕射とされ、梁討伐を指揮。梁の楚州を攻め、刺史の桓和兄弟を虜とする。更に淮水のほとりにまで進軍するも、梁の南・北司二州刺史の陳慶之に撃退される
・12月壬申(6日) 東魏が梁に使者を送って和平を結ぶ
○537年
・正月癸丑(17日) 小関の戦い
          西道大行台とされ、虎牢にて練兵を行なう
・9月       沙苑の決戦
          軍を前後二つに分けておく事を進言するも却下される
          火攻めに反対
          戦後に「黒獺は勝ったばかりで驕り高ぶり、きっと油断しておるはず。それがしに精騎二万(南史では数千)をお与えくだされば、直ちにこれを捕らえてご覧にいれましょう」と進言するも、歓の妻の婁昭君に「もしその言葉通りになったとしても、次は景が黒獺になるだけでしょう! 」と言われ拒否される
○538年
・2月       高敖曹・万俟受洛干・慕容紹宗らと共に潁州を陥とす。
          のち堯雄と共に魯陽を攻め、西魏の救援軍の李景和(李弼)を夜襲して破り、城を降伏させる
・7月壬午(25日) 高敖曹らと共に独孤如願を金墉城に包囲
・8月庚寅(3日) 宇文泰の援軍が迫ると囲みを解いて退却
   辛卯(4日) 河橋の戦い。侯景、河橋から邙山に到る長大な陣を築いてこれを迎え撃つ。東魏軍、一度大敗を喫し、高敖曹が戦死。間もなく態勢を立て直し、西魏軍を大破。李弼、重傷を負う
○540年
・春        荊州攻撃を図るも、李弼・独孤如願の救援軍が来ると退却
          のち(時期不明)吏部尚書とされる
○542年
・8月庚戌(16日) 河南行台尚書僕射とされ、河南の軍事を一任される
・9月       高歓、玉壁を攻める
○543年
・2月壬申(12日) 北豫州(治所 虎牢)刺史の高仲密が西魏に付く
・3月壬辰(2日) 宇文泰、河橋南城を包囲
          東魏の救援軍の先鋒の厙狄干と会うと会食を提案するも、急いでいたため断られる。後から騎兵に食事を送り届けさせる
          西魏軍が大敗を喫すると柏谷塢の楊檦・韋法保を追撃するも撃退される
          虎牢を攻める。『早く逃げよ』という書状を偽造して守将を逃走させる。   
          高仲密の妻子を捕らえて鄴に送る
・5月乙未(6日) 吏部尚書→司空とされる
○544年頃     崔暹に『賄賂如何で官爵を勝手に与えたり、判決を曲げたりした罪』で弾劾され、免官に遭う?
○545年
・12月       司徒とされる
○546年
・春        西魏の襄州(治 襄城)を攻める(このとき襄州陥落?)。西魏の若干恵が穰城(荊州の治所)に到ると退却
・6月庚子(29日) 河南大行台とされ、河南の軍事を一任される(通鑑では河南大将軍・大行台)
・9~11月     斉子嶺より西魏領内に侵攻するも、西魏の建州刺史の楊檦に撃退される
○547年
・正月丙午(8日) 高歓が晋陽にて逝去。高澄が跡を継ぐ
   辛亥(13日) 河南六州を挙げて西魏に付く。太傅・河南道行台・上谷公とされる
・2月庚辰(13日) 梁にも付く
   壬午(15日) 梁に大将軍・都督河南北諸軍事・大行台・河南王とされる
・5月頃      元柱を撃破
          韓軌らが潁川を包囲。侯景、西魏に救援を求める
・6月己巳(4日) 西魏の援軍が到来。韓軌ら撤退。
          鎮所を潁川(潁州)から懸瓠(豫州)に遷す
・7月頃      西魏に叛く
   庚申(25日) 梁の北司州刺史の羊鴉仁が懸瓠城に入る
・8月乙丑(1日) 梁が東魏討伐の軍を起こす
   戊子(24日) 録行台尚書事とされる
・11月頃      東魏の譙城(南兗州)を攻囲したが陥とせず、転進して城父を陥とす
   丙午(13日) 梁軍、寒山にて大敗を喫する
・12月       慕容紹宗が迫り、渦陽に退く
          慕容紹宗を撃破。紹宗を落馬させ、劉豊に傷を負わせる
          斛律光も撃破。田遷、光の馬を二度も射当てる
   壬申(9日) 元氏の一族の派遣を求める
○548年
・正月己亥(7日) 敗北
   癸丑(21日) 寿陽入城
   乙卯(23日) 南豫州牧とされる
・2月己卯(17日) 梁が東魏に和平の申し出を了承する旨を伝える
・7月       梁、東魏から返答が来なかったため、改めて謝挺・徐陵らを派遣
・8月戊戌(10日) 豫州(寿陽)にて叛乱。馬頭・木柵などを陥とす
・9月癸未(25日) 寿陽を発つ
・10月庚寅(3日) 譙州(南譙州)を陥とす
   丁未(20日) 歴陽を陥とす。荘鉄降伏
   戊申(21日) 臨賀王正徳、大船十艘を侯景に送る
   己酉(22日) 長江を渡河、采石→姑孰を陥とす→慈湖
   庚戌(23日) 板橋に到る。徐思玉を武帝のもとに派遣。梁、中書舍人の賀季と主書の郭宝亮を派遣。侯景、賀季を捕らえる
   辛亥(24日) 臨賀王正徳の寝返り。内城に侵入
   壬子(25日)〜癸丑(26日) 台城包囲。第一次攻城
・11月己未(2日) 臨賀王正徳が即位
   辛酉(4日) 東府城陥落
   癸亥(6日) 江子一出撃。戦死
   乙丑(8日) 第二次攻城
          范桃棒の謀反未遂
   庚辰(23日) 邵陵王綸軍(邵陵王綸・西豊公大春・新淦公大成・永安侯確・南安侯駿・趙伯超・蕭弄璋・尹思合)が鍾山に到る。侯景、逃走しようとするも任約に諌められる
   乙酉(28日) 玄武湖畔の決戦。綸軍敗れる
   丙戌(29日) 鄱陽世子嗣・裴之高・趙鳳挙らが蔡洲に到る
          景、秦淮河南岸の住民を北岸に強制移住させ、大街以西の住居を全て焼き払って更地とする
・12月       北徐州刺史の封山侯正表が侯景に付き、南兗州の南康王会理を攻めるも撃退される
   癸巳(7日) 羊侃の死
   丁酉(11日)〜己酉(23日) 第三次攻城
          水攻め
   丙辰(30日) 柳仲礼・韋粲・羊鴉仁・陳文徹・李孝欽が新林の王遊苑にて鄱陽世子嗣らと合流
          鄱陽王範の部将で晋熙太守の梅伯龍が王顕貴の守る寿陽を攻め、羅城(外城)を陥とす
○549年
・正月丁巳(1日) 青塘の戦い。韋粲戦死。柳仲礼、侯景をあと一歩まで追い詰めるも支化仁に斬られ失敗。壮気全く衰える
   庚申(4日) 邵陵王綸・臨城公大連・新淦公大成らが柳仲礼らと合流
          朱异の死
   甲子(8日) 荊州先遣隊の湘東世子方等・王僧弁の軍が柳仲礼らと合流
   戊辰(12日) 封山侯正表が北徐州(鍾離)と共に東魏に降る
          高州刺史の李遷仕・天門太守の樊文皎が柳仲礼らと合流
   癸未(27日) 鄱陽世子嗣・永安侯確・荘鉄・羊鴉仁・柳敬礼・李遷仕・樊文皎らが秦淮河を渡って東府城前の砦を攻めてこれを焼き、侯景が軍を退かせると、青溪の東に布陣。遷仕・文皎、景軍を追って次々と撃破。青溪の菰首橋の東に到った所で宋子仙の伏兵の奇襲に遭い、文皎戦死
          王顕貴が寿陽と共に東魏に降る
          侯景軍、東府城への道が遮断されたことで飢餓が始まる
・2月己亥(13日) 偽りの和約を結ぶ。侯景、大丞相・都督江西四州諸軍事とされる。豫州牧・河南王に関してはそのままとされる。
   庚子(14日) 南兗州刺史の南康王会理・前青冀二州刺史の湘潭侯退・西昌侯世子彧らが柳仲礼らと合流
   辛亥(25日) 永安侯確と趙威方の勇略を恐れ、武帝に要求して二人を台城に入れさせ、救援軍と引き離す
・3月丙辰(1日) 和約を破る
   戊午(3日) 南康王会理・羊鴉仁・趙伯超ら(梁56侯景伝では『羊鴉仁・柳敬礼・鄱陽世子嗣』とあり、南80侯景伝には『羊鴉仁・柳仲礼・鄱陽世子嗣』とある)が夜中の内に東府城の北に陣を築こうとするも失敗し宋子仙に大敗を喫する
   数日後    于子悦を台城に派して和を求める
          水攻め
   丁卯(12日) 台城陥落
          詔を下させ、自分を大都督・督中外諸軍事・録尚書事とさせる。侍中・使持節・大丞相・河南王の位はそのままとする
   己巳(14日) 救援軍解散
   庚午(15日) 羊鴉仁を手元に留め、柳仲礼を司州に、王僧弁を竟陵に還す。柳敬礼の暗殺計画失敗
          蕭正徳を皇帝の座から降ろす
          梁の秦郡・陽平・盱眙の三郡が降る。陽平を北兗州(通鑑では『北滄州』)、秦郡を西兗州とした(侯景伝では翌年7月の事だとしている)
          蕭邕を南徐州刺史として西昌侯淵藻と代わらせる
          徐相に晋陵を攻めさせる。太守の陸経降伏

┃家族関係
・祖父…侯乙羽周
・父…侯標侯漢の元帝
・妻…侯景が東魏にて叛乱を起こした時に高澄によって顔を剥ぎ取られたのち、大量の油が入った大鉄釜に投げ込まれて煎殺された。
・妻…臨賀王正徳の娘。正徳が皇帝に即位した際、侯景に嫁がされた。
・妻…溧陽公主。梁の簡文帝の娘。母は范淑妃。父や兄弟を侯景に殺され、更に自身も妾とされて陵辱を受けた。景は公主の色香に惑い、政務を怠るようになった。王偉が景に色香に溺れぬようたびたび諫言しているのを聞くと怒り、その悪口を景に吹き込んだ。景が死ぬとその肉を食べた。
・小妻(側室)…羊侃の娘
・子…侯景が東魏にて叛乱を起こした時、三歳以上の子は高澄によって顔を剥ぎ取られたのち、大量の油が入った大鉄釜に投げ込まれて煎殺された。娘たちは宮中に入れられて下女とされ、三歳以下の四子はみな生殖器を切り取られた。のち、文宣帝は夢に獼猴()が玉座に座った夢を見て〔不快になり、〕四子をことごとく煮殺した。
・548年11月、侯景は高澄に手紙を出し、母・弟・妻・子を特別に釈放してくれるよう求めた。

・ある時、景が王・謝(南朝最上級の名門)の家から妻を娶りたいと求めると、武帝はこう答えた。
「王・謝では家柄が高すぎてそなたとは釣り合わぬ。朱・張以下から選ぶと良い。」
 景はこれに激怒して言った。
「呉(梁)の女どもなどみな奴隷の嫁にしてやる!」

┃容貌
・身長…七尺未満
・胴長短足で、目鼻は疎らで整った容姿を持ち、額は広く頬骨は高く、赤ら顔で髭薄く、眼は下を向いてしばしば左右に揺れ動き、声はしわがれていた(どれも豺狼の特徴)。識者は言った。
「しわがれ声は豺狼の声である。故に、人を食い、また人に食われる所となるだろう。」
・右足が左足より短かったため、弓や馬の扱いに不得手であった(梁書には『勇敢で膂力に優れ、騎射を得意とした』とある。怪我→不得手になったのか?)。
・慕容紹宗に敗れ、南下して梁に入り、小城を通り過ぎた時、ある者に「このびっこ野郎(跛奴)!何をしに来たのか!」と言われた。景は激怒して城を攻め陥とし、罵った者を殺して去った。
・左足には亀〔の頭〕のようなコブがあり、景が戦いに勝ったときには飛び出、負けた時には低くなった。この日景が負けると、コブは〔低くなりすぎて〕左足の中に没し、無くなってしまった。

┃人物
・趣味…世間話・小馬に乗って駆け回る・鳥を弾弓で射る
・佩剣…『水精標』
・愛馬…白馬。勝つ前には必ず足を踏み鳴らして嘶き、意気軒昂な様を示したが、負ける前には必ず項垂れて前に進もうとしなかった。建康の決戦の際、全く意気沮喪し、うつ伏せになって一歩も動こうとしなかった。景は左右の者を白馬の前に跪かせ、起き上がるよう請わせてみたり、白馬に鞭をくれて無理矢理起き上がらせようとしてみたりしたが、結局最後まで動こうとしなかった。
・また、軍人の戦袍(軍服)を整えるため、一万疋の錦を所望すると、中領軍の朱异は錦を蔵から出すのは賞賜の時だけだとしてこれを断り、代わりに青布を支給させた。侯景はこれを全て戦袍とし、以来青色をたっとぶようになった。
・これより前、大同年間(535~546)にこのような童謠が流行った。
「青絲白馬、寿陽より〔建康に〕来たる。」
 景はこれを耳にすると、乗馬を白馬とし、手綱を青絲で作って験を担ごうとした。
・若年の頃から勝手気ままで、郷里の人々から恐れ憚られたが、同じ懐朔鎮の人の高歓とは非常に仲が良かった。成長すると、勇猛で膂力に優れ、騎射に長けた青年となった。
・性格は残虐で軍法を厳しく執行したが、戦利品を得ると気前よく将兵に分け与えたので兵士からの評判は良く、戦えば十中八九勝利を得た。
・疑り深く残忍な性格で殺戮を好み、常に手ずから人を斬って娯楽とした。食事をする時は面前で人を斬らせ、その間いつものように談笑し、飲み食いをやめなかった。ある者はまず手足と舌と鼻を切断し、それから日を置いたのちに殺した。
・吏部尚書とされるが、好む所ではなく、「いつになったらこの反故紙(下らない紙の山。或いはハコシという円く平たく黒い豆)の中から脱出できるのであろうか」と愚痴る
・簒奪後は白紗帽をかぶり、青袍を尊んで着、髪には象牙製の櫛を挿し、牀(一段高くなっている場所)上にいつも胡牀(折りたたみ式の腰掛け椅子)や筌蹄(士大夫が講話の時に持った払子の類)を置き、靴を履き、脚を垂らして座った(床にあぐらしたりせず椅子に座る事を好んだのである)。
・王僧弁軍が迫ってきたのを聞くと、持ち前の猜疑心がいっそう酷くなり、牀の周りに蘭錡(武器掛け)を置いて〔自衛の準備を整えて〕から客と会うようになった。
・僧通という僧侶を非常に信じ敬った。
 景が後堂にて家臣と共に競射した時、僧通は景の弓を奪って景陽山(劉宋の元嘉二十三年〈446〉に華林園に築かれた)を射、こう叫んだ。
「奴を得たり!」(景陽山に『景』がある事から、侯景がいずれ仕留められる事を指すか)
 景はのち、家臣たちと共に宴会をすると、また僧通を呼んだ。このとき僧通は肉を塩まみれにして景に進め、こう言った。
「お口に合いましたでしょうか?」
 景は答えて言った。
「塩が多すぎたのが残念だな。」
 僧通は言った。
「塩が無ければ腐ってしまいます。」
 果たしてその言葉通りになったのだった。

┃官位
・時期不明 懐朔功曹史や外兵史とされる
・530年頃 爾朱氏:驃騎大将軍・行済州事とされる
・532年4月 高歓:儀同三司・兼尚書僕射・南道大行台・済州刺史とされる
・533年頃 長史とされる
・時期不明 定州刺史とされる
・536年 9月 南道行台右僕射とされ、梁討伐を指揮
・537年 西道大行台とされる
・542年8月 河南行台(高歓の玉壁攻めの間?)
・時期不明 吏部尚書とされる
・543年5月 司空とされる
・544年頃 崔暹に弾劾され一時免官に遭う?
・時期不明 吏部尚書とされる
・545年12月 司徒とされる
・546年6月 河南大行台とされ、河南の軍事を一任される(通鑑では河南大将軍・大行台。高歓の玉壁攻めの間?)
・547年正月…西魏:太傅・河南道行台・上谷公
    2月…梁:大将軍・都督河南北諸軍事・大行台・河南王
      5月…西魏:大将軍
・548年正月…梁:南豫州牧
      11月…梁(臨賀王正徳)相国(正徳伝では『丞相』)・天柱将軍
・549年2月…梁:大丞相・都督江西四州諸軍事・豫州牧・河南王
    3月…梁:侍中・使持節・大丞相・大都督・督中外諸軍事・録尚書事・河南王

┃東魏
高歓…懐朔鎮時代からの親友。十万の兵と河南の指揮権を侯景に与え、己の半身のように頼りにする。高澄に「景に河南の兵権を委ねてから(534~)もう十四年になる。その間、景は常に勝手気ままにふるまった(飛揚跋扈)が、わしはこれを良く押さえることができた。しかし、お前では景を使いこなせぬだろう」と言う
高敖曹…劉貴を攻めようとした所を仲裁される。何度もタッグを組んで戦う。「突進する猪と同じで、ろくな死に方をしないだろう!」と評される
劉貴…高敖曹に攻められようとしていたのを救われる
万俟受洛干…共に高敖曹をなだめる
堯雄…豫州刺史。行台の侯景の指揮のもと西魏や梁と戦う。
敬顕儁…いっとき河南行台尚書を務める。博識で、侯景に「衣服は左前・右前、どちらで着るのが正しいのだろうか。」と問われると論語憲問の記述を引いて右前が正しいと答えた。
厙狄干…急いでいたため会食を断る
崔暹…高澄の命を受け侯景ら勲貴を弾劾
高澄…平素から侯景に侮られる。「鮮卑のガキ」「高王(高歓)なら叛かぬが、鮮卑のこわっぱ(高澄)には絶対に仕えぬ!」
司馬子如…四貴の一人。「高王(高歓)なら〜」の言葉を言われて慌てて口を塞ぐ
彭楽…「突進する猪と同じで、ろくな死に方をしないだろう!」と評される
韓軌…侯景の討伐に赴く。侯景「猪の腸を食べるようなガキに何ができよう!」
賀抜仁…侯景の討伐に赴く。
可朱渾道元…侯景の討伐に赴く。
高岳…侯景の討伐に赴く。侯景「兵が精強でも、将が凡人ではな。」
慕容紹宗…兵法の師(ただ、すぐに紹宗の方が侯景にたびたび教えを請うようになった)。侯景の討伐に赴き、侯景に「誰が鮮卑のガキに紹宗がいいと教えたのだ! もしや、高王がまだ生きているのではあるまいな⁉」と言わしめる。将兵に「侯景は詭計を弄する奴で、人の裏をかくのを好むゆえ、用心せよ」と言ったが結局撃破され、落馬させられた。
劉豊…侯景の討伐に赴く。傷を負った。
斛律金…侯景に「友」と評された。
斛律光…初め侯景の部下となる。のち侯景の討伐に赴く。景に「わしはお前の父の友であるのに、どうしてそう〔無情に〕矢を射かけてくるのか? 」と言われたが答えず。景の部下の田遷に馬を射倒され、副え馬も射当てられ、陣地に逃げ帰った。
段韶…侯景の討伐に赴く。風上より火を放って景軍を火攻めにした。景は騎兵を水に入らせ、それから退却させた。退路上にあった草は馬についていた水で湿って火が着かず、かくて火攻めは失敗した。

┃西魏
宇文泰…一度侯景を拘束する。河橋で敗れる。景に「高澄と雁行する(肩を並べる。澄は建前上は臣下の身分なので、そう言うのである)のをよしとしなかったわしが、どうして大弟(宇文泰)と肩を並べることができようか!」と言われる
李弼…広州で敗れ、河橋では重傷を負わされた。侯景が乱を起こすと救援。趙貴が景を自分たちの軍営に誘って捕らえようとした時、制止した。侯景が乱を起こすと討伐に赴いたが、梁の援軍がやってくると長安に引き返した。
趙貴…侯景を救援。景に酒宴に招待されたが、疑って行かず、逆にこちらから景を自分たちの軍営に誘って捕らえようとしたが、弼に制止された。
李長寿…孝武帝が宇文泰のもとに亡命した時広州刺史とされたが、行台の侯景に敗れて殺害された。
趙剛…北魏の孝武帝の閤内都督。高歓との決戦の前に東荊州刺史の馮景昭(冏?)の説得に成功したが、穰城(荊州)に迫っていた侯景の軍に東荊州民が呼応したため蛮人の地に逃亡した。のち西魏に仕え、梁への使者とされた。宇文泰が恒農を攻め陥としたのち、大都督・東道軍司・潁川郡守とされ、七軍を指揮して陽城を取り戻し、太守の王智納を捕らえ、陳留郡守に任じられた。しかし東魏の行台の吉寧の三万に郡城を陥とされて潁川に引き返し、そこでも侯景に敗れると、残兵を率いて洛陽に身を寄せた。洛陽が失陥すると敵中に孤立したが、連戰して東魏の広州刺史の李仲偘を破り、侯景の別帥の陸太・潁川郡守の高沖ら八千人が襄城など五郡を攻めていたのも五百の精鋭で戦い、沖を大破した。540年?に景が広州に侵入すると、十三日に渡ってこれと戦いを繰り広げ、宜陽に退却させた。再び伊・洛地方に出陣すると、侯景も再び黄河を渡って城を築いた。剛は前後の戦いで景指揮下の三郡を陥とし、郡守一人を虜にした。また、別に東魏の行台の梅遷の軍を破り、千余級の首を得た。邙山の戦いののち、侯景の先鋒を南陸(南陸渾?)で破り、郡守二人を虜にした。のち西魏の文帝に「昔、侯景が東方(東魏)にいた時、卿はこれを良く苦戦させた」と評された。
韓雄…東徐州(新安)刺史。537年、蓼塢を包囲していた侯景を撃退した。
陳忻…行宜陽郡事。544年、侯景が九曲城を築くとこれを迎撃し、宜陽郡守の趙嵩や金門郡守の楽敬賓を捕らえた。
魏玄・李延孫・李義孫…河南を守備し、侯景と長く戦ったと思われる。
楊檦…字は顕進。543年、邙山にて西魏軍が大敗を喫したのち、侯景の追撃を受けたが韋法保と共に柏谷塢にて撃退した。546年でも侯景が斉子嶺より西魏領内に侵攻してきたのを撃退した。
韋法保…同軌(九曲?)防主。侯景は西魏の将軍たちを厚くもてなして味方に付けようとし、表面上は全く二心の無いふりをして、諸軍の陣営を行き来する際は護衛を殆ど連れず、名のある将のもとには残らず足を運んだ。特に法保と親しくした。
裴寛…同軌防長史。韋法保に「近づいてきても信用してはなりません。それより伏兵を以てこれを斬るべき」と進言した。

┃梁
武帝…「蕭衍じいさん」「呉児のジジイ!」
羊侃…侯景から台城を守る。景に忠義心を認められ、子どもが重用され、娘が妻とされる

┃叛乱までの経緯
・「それがしはもともと田舎の一般人で、これといった才芸も無かったのですが、天柱大将軍(爾朱栄)の抜擢に逢い、大事を預かる身分となり、永熙(532~534)の頃になると軍事の大権を任されるようになりました。二十余年に渡って国家のために身を粉にしてきた結果、とうとう袞衣を着、玉食に口に入れるような(袞〈錦〉衣玉食)富貴な身分となったのです。その私がどうして突如叛旗を翻したのでしょうか? それは身にいわれのない罪を着せられ、生命・名声ともに失うのを恐れたからです。去年の暮れより尊王(高歓)が病気にかかると、その機に乗じて佞臣や宦官が跋扈し、あることないことを将軍(高澄)に吹き込むので、遂に腹心は心を離すようになりました。それがしの妻子が鄴の邸宅にていわれなく包囲されたのは段康(? 段孝先?)の計画でありましょうし、廬潜(?)がそれがしのもとにいきなり査察に赴いてきたのも不可解です。身に覚えもないのにそのようなことをされては、疑うなという方が難しいでしょう。長社(潁川)に包囲されるに及び、それがしは己の苦衷を述べた書簡を出しましたが、返書は無く、斧鉞が答えとして突きつけられるのみでした。城の周囲に堰を築かれて水攻めにされ、三板の高さを残して水没するに至り、座して死を待つに忍びず、遂に城下に出て戦うことになりました。秦人(西魏)に地を割いて救援を求めたのは、禽獸が死を嫌うように、人が生を好むように、仕方のないことだったのです。」
・「臣はむかし高歓と肩を並べて国家のために力を尽くし、中興以降はその出兵に常に従い、天平以降は常に先鋒を務めるまでになりました。臣は城を攻めれば必ず陥とし、野戦を行なえば必ず敵を殲滅したものです。臣が戦場に全身全霊を捧げたのは、ただただ国家を想う真心からでありました。しかし歓が病気になって代わりに全権を握った子の高澄は陰険で、佞臣を好んでその讒言をすぐ信じ、忠臣を排斥しました。澄は今、甘い言葉で臣を呼び寄せてきましたが、実際は臣を除こうという心づもりに決まっています。かくて臣はこれに応じませんでしたが、抗命した以上は、歓の病気が快癒したとしても、父子のもとに居続けることはできないでしょう。ゆえに、臣は兵を挙げ、周・韓の地(河南の西部を言う)に義の旗を建て、陛下に仕えることを決めたのです。臣は今、豫州刺史高〔元〕成・広州刺史暴顕・潁州刺史司馬世雲・〔東?〕荊州刺史郎椿・襄州刺史李密・兗州刺史邢子才(実際は協力をしていない)・南兗州刺史石長宣・済州刺史許季良・東豫州刺史丘元征・洛州刺史可朱渾願・陽州刺史楽恂・北荊州刺史梅季昌・北揚州刺史元神和ら河南の刺史たちの協力を得ることに成功しました。ゆえに、函谷関以東、瑕丘(兗州)以西の十三州は今より全て陛下のものであります。ただ、青・徐など数州からはまだ返事をもらっておりませんが、必ずやすぐ良い答えをもらえるだろうと考えております。何故なら、黄河以南は臣の庭のようなもので、これらを馭することは掌を返すように容易いものだからでございます。もし斉・宋が平定されましたら、燕・趙も自ずと陛下のもとに従うことでありましょう。天下一統の時は今です。良い返事をお待ちしております。」

┃政治
・侯景はまた、南人の奴隷となっていた北人の投降を誘い、やってきた者たちをことごとく良民とした。朱异の奴隷を得るとこれを儀同三司とし、异の家産を全て与えた。奴隷は良馬に乗り錦袍を着て、城下から异をこう罵って言った。
「お前は五十年も務めてようやく中領軍となったが、私は侯王に仕えた途端に儀同三司(北朝では濫授によって価値が暴落していたが、南朝では名誉職としての価値を保っていた)となったぞ!」
 以後、三日の間に景のもとに奔った城内の奴隸は千に及んだ。景はその全員を厚遇し、兵士とした。奴隸たちは感激し、景のために力を尽くすことを誓った。
・侯景は武帝と会ったのち、次いで永福省に赴いて太子綱に会ったが、太子もまた恐れる様子が無かった。このとき景が連れていた兵士はみな羌・胡の雑種で、誰彼構わず喧嘩を売るなど態度が非常に不遜だったため、侍衛(侍従と衛兵)は驚き恐れて逃げ散っていた。
・梁の秦郡・陽平・盱眙の三郡が降ると、陽平を北兗州(通鑑では『北滄州』)、秦郡を西兗州とした(侯景伝では翌年7月の事だとしている)。
・549年5月、太子綱が皇帝の位に即き、簡文帝となると、景は〔昭陽殿から〕太極殿の左右にある朝堂に赴き、兵を分けて警戒に当たらせた。
・壬午(28日)、江南にて奴隷にされていた北人を解放した。これに該当した者は一万を数えた。景は更にその中から何人か大抜擢も行なったりして北人たちの歓心を買い、彼らが自分の忠実なしもべとなることを期待した。
・6月、元羅を西秦王に、元景龍(南史では『景襲』)を陳留王にするなど、元氏十余人を王とした【考異曰く、太清紀は8月28日の事とする。今は典略(侯景伝もそうである)の記述に従った】。
・7月、戊辰(15日)、呉郡を陥とすと呉州を置いた。
・549年に銭塘を陥とすと臨江郡に、富陽を陥とすと富春郡にそれぞれ改めた。
・549年に開府儀同三司の者には将軍号を加えない事とし、これより以後、開府儀同三司を授けられる者は、いちいち記すことができぬほどの数に及んだ(景のいた北朝ではこれが普通だった)。
・景は配下の者で辺境で軍務を兼ねている者を『行台』(軍政官)とし、帰順してきた者をみな『開府』とした。また、信任している者を『左右廂公』とし、並外れた勇猛さを持つ者を『庫真部督』とした。

┃文化の香り
王紘が十五歳の時、父の王基の刺史就任に従って北豫州に赴いた(538年?)。
 ある時、〔河南〕行台の侯景が言った。
「衣服は左前・右前、どちらで着るのが正しいのだろうか。」
 尚書の敬顕俊が答えて言った。
「孔子は『管仲がいなかったら我々は今ごろ〔夷狄に征服され、〕ザンバラ髪・左前の格好にさせられていただろう』(論語憲問18)と仰られました。つまり、右前が正しいのです。」
 すると、紘が進み出て言った。
「我が国は北方の原野より雄飛し、中原に覇を称えました。〔であれば、中原の伝統など関係がございません。それに、〕五帝であれ三王であれ、儀礼や制度は先代とは異なっていました。つまり、左前・右前の是非など決める必要など無いのです。」
 景はその早熟さに驚き、名馬を与えた。

┃勇士尊重
・侃の長子の羊鷟サク)は景の捕虜となっていた。景はこれを城下に引っ立てて侃に見せ、〔投降を呼びかけた。〕すると侃はこう答えて言った。
「一家全員の命を陛下に捧げてもまだ足りないくらいだというのに、どうして息子一人の命くらいで心を動かそうか! むしろ早く殺してほしいくらいだ!」
 数日後、景は諦めきれずに再び鷟を引っ立て、侃に見せると、侃は鷟にこう言った。
「とっくのとうに死んだと思っておったのに、まだ生きていたのか! わしは身命を国に捧げており、死ぬ時は戦場と心に決めている! お前が死のうとわしの決心は変わらぬ!」
 かくて弓を引き、鷟に向かって矢を射た。景は侃の忠義に感じ入り、遂に最後まで鷟に害を加えなかった。
・癸亥(6日)、子一は太子に許しを得ると、弟で尚書左丞の江子四・東宮直殿主帥の江子五と共に百余人を率い、承明門(台城北門。広莫門を改名)より城を出て景軍に戦いを挑んだ。子一は景軍の陣に直進したが、景兵は〔怪訝に思い、〕動こうとしなかった。子一はそこでこう叫んで言った。
「賊ども、なんで早くかかってこんのだ!」
 暫くして騎兵が左右から打ちかかってくると、 子一は迷いもなく直進し、槊を以てこれを突き殺した。しかし従者は震え上がってこれに続こうとしなかった。そのうち馬は倒れ槊は折れ、遂に肩を貫かれて死んだ(享年62)。子四と子五はこれを見てこう言い合った。
「兄と共に城を出た我らが、どの面下げて帰れようか!」
 かくて兜を脱いで景軍に打ってかかった。子四は槊に胸を貫かれて死に、子五は首筋に傷を受け、塹壕に還った所で大声一つ上げて死んだ。景は子一の勇気に感じ入り、遺体を城内に帰した。その顔はまだ生きているかのようだった。
侯景は建康に帰ると邵陵王綸軍から得た首級や捕虜・鎧・武器を台城城下に並べ、捕虜らにこう言わせた。
「邵陵王は既に捕らえられました!」(通鑑では『「邵陵王は既に乱兵によって殺されました!」』となっている
 しかし、霍俊のみこう叫んだ。
「王はただ小さな敗北を喫しただけであり、軍は無事であります! 京口に還ったのも兵糧が続かなかったためです! それがしがこうなったのも大敗したからではなく、ただ巡邏の兵に捕らえられてしまったからに過ぎません!城中は〔安心して今まで通り、〕城を堅く守っていてくだされ! 援軍は間もなく到着いたします!」景兵は俊がその言葉を言い終わる前に刀〔の柄〕でその口を傷つけたが(通鑑では背中を打っている)、俊は顔色を変えず、むしろますます声を張り上げた。景は俊を義人と見て釈放したが、皇帝の蕭正徳はこれを許さず、殺してしまった。
・台城からの使者の沈浚の言葉に侯景が激昂して佩刀を膝の上に持ち出し、目を怒らせて叱咤すると、浚は「天子の使いとしてここに来ているのだ。そのような者が、どうして逆臣の刀など恐れようか!」と言って一度も振り返ることなく〔憤然として〕退出した。景は感嘆して言った。
「これぞ、真の司直(裁判官。御史中丞)である。」
 しかし、内心では含むところがあった。

┃軍事と北人文化
・軍人の戦袍(軍服)を整えるため、建康に一万疋の錦を所望すると、中領軍の朱异は錦を蔵から出すのは賞賜の時だけだとしてこれを断り、代わりに青布を支給させた。侯景はこれを全て戦袍とし、以後青色をたっとぶようになった。
・これより前、大同年間(535~546)にこのような童謠が流行った。
「青絲白馬、寿陽より〔建康に〕来たる。」
 景はこれを耳にすると、乗馬を白馬とし、手綱を青絲で作って験を担ごうとした。
・このとき正徳軍は紅色の戦袍を着ていたが、その裏地は青色で、景軍と合流すると尽く戦袍を裏返して景軍の戦袍の色と同じくした。
・壬子(25日)、景軍の黒旗が台城を取り囲んだ。
・景軍は台城を包囲すると、地を震わせるほどに盛大に軍鼓や口笛を鳴らし、四方八方から一斉に攻撃をかけた。
・景は儀式が終わると太極前殿に入り、数万の家臣たちから口笛や歓呼の声を受けながら階段を登った。

┃攻城兵器
・木驢
・尖頂(頭)木驢…轒轀車(攻城兵器の一)に似、石を投げても壊すことはできなかった。


・登城楼車…十余丈の高さがある。これを用いて城内に矢を射込もうとしたが転倒した。
・百尺楼車…約25メートルも高さがある楼車。これを用いて東府城の城堞(城壁の上にある、身を隠すための凸凹)を鈎で全て地に落とした。
・飛楼
・橦車
・登城車
・鉤堞車
・階道車
・火車…台城東南の大櫓を焼いた。
 飛楼〜火車はどれも高さは数丈(一丈は約2m50cm)あり、二十の車輪が取り付けられていた。
・蝦鞾(ガマ。ガマガエル)車…土石を運び、堀を埋める

┃不遜
・侯景は軍士を役所の中に寝泊まりさせていたが、その内のある者は驢馬に乗ったまま、ある者は弓や刀を帯びたまま宮庭の中に出入りした。武帝はこれを〔苦々しく思い、〕制局監(通鑑では『直閤将軍』)の周石珍にこう尋ねて言った。
「この〔無礼な〕奴らは何者か?」
 石珍は答えて言った。
「丞相の手の者であります。」
 武帝はとぼけてこう尋ねた。
「丞相とは誰か?」
 石珍は答えて言った。
「侯丞相のことであります。」
 武帝は怒って言った。
「そやつの名は景であろう! それをどうして丞相などと言うのか!」
 左右の者はこれを聞くと〔侯景の怒りを恐れて〕みな震え上がった。これよりのち、武帝の要求は大体拒否されるようになり、提供される飲食物も日に日に少なくなっていった。武帝は憂憤の余り病気となった。
・550年3月、甲申(? 壬子〈3日〉?)、簡文帝に楽遊苑【玄武湖の南にある】にて禊宴(三月三日に行なう厄払いの宴会)を開くよう求め、帳幕の中で三日間酒を飲んで楽しんだ。景の部下たちはみな妻子を連れてこれに参加した。景は皇太子(大器)以下全員に騎射をするよう命じ、良く的に射当てた者には金銭を褒美として与えた。翌日(2日目?)の早朝、帝は皇宮に帰った。景は拝伏して留まるよう懇請したが、聞き入れられなかった。帝がその場を離れると、景はすぐに溧陽公主と共に御牀(皇帝用の座具・寝具)に南面して座り、正面の東西に文武百官を列座させて宴に同席させた。
・4月、辛卯(12日)〈通鑑では『丙午(27日)』。簡文紀では2月?の丙午(26日)とする〉、梁の丞相の侯景(字は万景。時に48歳。東魏から梁に降ったが、叛乱を起こして首都の建康を攻め陥とした。550年〈1〉参照)が簡文帝(蕭綱)を連れて西州〔城?〕(建康の西にある城)に遊んだ。
 帝は飾り気の無い輦(手車、人力車)に乗り、四百余人の侍衛に護衛をさせたが、景は〔それを上回る〕数千の浴鉄【鉄騎兵のことを指す。戦馬が鉄甲を着ているのを、鉄を浴びているように喩えたのである】に己の護衛をさせた。帝が西州に到ると、景らはこれに逆拜(迎拝)を行なった。帝は下屋(逆さま)の白色の紗帽(絹紗を用いた帽子)と白布の裙襦(スカート状の礼服)、景は紫色の紬褶(紬糸で織った絹布製の軍服。褶は騎乗に適した服で、下はズボンだった)に帝から下賜された金帯をそれぞれ身につけていた。景の儀同の陳慶(549年〈4〉参照)・索超世らは西面して座し、溧陽公主とその母の范淑妃は東面して座した。帝は絲竹(楽曲の演奏)を聞いても、悲しみに打ち沈んでただただ泣くばかりだった。景は立ち上がって謝り、こう尋ねた。
「陛下、どうして楽しまれていないのですか?」
 帝は無理に笑って言った。
「丞相、索超世に何の音楽を流しているか聞いてみてくれぬか?」
 景は答えて言った。
「臣が知らないのですから、超世だって知らないでしょう。」
 帝が景に舞を舞うよう命じると、景は直ちに席を立ち、演奏に合わせて舞を舞い歌を歌った。帝は范淑妃にも舞をするように言ったが、淑妃が固辞したのでやめた。景は帝にお辞儀をしたのち、帝にも舞を舞わせた。宴がお開きになり、人々がいなくなると、帝は牀(寝具・座具)の上で景を抱いて言った。
「わしは丞相を大切に思っておるぞ。」
 景も答えて言った。
「陛下が臣を大切になさらなければ、臣は丞相になれなかったでしょう。」
 帝は筌蹄(払子。説法の時に威儀を正すためのもの)を人に持ってこさせて言った。
「一つ、丞相に説法をしてやろう。」
 かくて景に席を外し、お経を唱えるよう命じた。景は超世に一番短いお経は何か尋ねた。超世は答えて言った。
「観世音(観音経)が一番短こうございます。」
 景はそこで直ちにこれを読んで言った。
「『爾時無尽意菩薩(ちょうどその時、無尽意菩薩は…)』。」
 帝はこれを聞くと大いに笑った。夜になって散会した。
 
┃暴虐
・東宮の妓女数百人を捕らえて軍士に分け与えた。
・東府城を陥とすと、儀同の盧暉略に命じ、長刀を持たせた数千人を城門の両側に立たせ、裸にした城内の文武官をそこに追い立てて虐殺した。死者は二千余人(南史では『三千余人』)にも上った。南浦侯推・中軍司馬の楊暾も同じ日に殺された。景はその遺体を杜姥宅に集め、台城内に向けてこう言った。
「早く降らぬと、こうしてくれるぞ!」
・乙丑(11月8日)、景は攻城のために台城の東西に土山を築いた。景はこの工事を短期間で終わらせるため、建康の市民を貴賤の別なく動員して、これに昼夜兼行で工事を行なわせ、ちょっとでも怠慢が見えれば拳や棍棒で殴りつけ、疲れ弱った者がいれば殺して土山に埋めた。人々の泣声は天地を震わせた。人々は〔恐怖の余り、〕逃げ隠れもせず黙ってこれに従ったため、人夫は十日のうちに数万人に達した。
・台城陥落後、侯景は台城内の死体の山に火を放ち、まだ息がある重傷病者たちも集めて焼き払った。その臭いは十余里向こうにも届いた。重病者の尚書外兵郎の鮑正は景兵に引っ立てられて焼かれ、長い間火中にてのたうち回ったのち、死んだ。
・549年、呉興にて長期に亘って抵抗した張嵊を降すと、侯景はその忠節を褒め称え、生かそうとした。しかし嵊は断って言った。
「わしは朝廷に一郡を任せていただいたというのに、その危難をお救いすることができなかった(出典不明)。〔そのような恥辱は一日でも耐え難い。〕早く殺すがよい。」
 景はせめて嵊の一子を生かそうとしたが、嵊はこれも断って言った。
「我が一門は既に鬼録(籍)に入っておる。胡虜の情けを受ける必要は無い!」
 景は大いに怒り、嵊やその子弟十余人を市場(刑場)に送って皆殺しにした。
・550年、祖皓・来嶷が広陵にて挙兵し、侯景の南兗州刺史の菫紹先を殺すと、侯景自らその討伐に赴き、祖皓を捕らえると〔木の柱に〕縛りつけて全身に矢を射かけさせ、次いで車裂きの刑に処して見せしめとした。また、来嶷も捕らえて、その兄弟子姪十六人と共に殺害した。また、城内の人民も、老いも若きもみな地に〔半身を〕埋めて〔身動きを取れなくさせたのち、〕騎射の的にして殺した【考異曰く、太清紀には『城中数百人』とあり、典略には『死者八千人』とある。今は南史(南72祖皓伝)の記述に従った】。
・景は疑り深く残忍な性格で殺戮を好み、常に手ずから人を斬って娯楽とした。食事をする時は面前で人を斬らせ、その間いつものように談笑し、飲み食いをやめなかった。ある者はまず手足と舌と鼻を切断し、それから日を置いたのちに殺した。
 また、石頭に大舂碓(大きな杵臼)を置き、法を犯した者がいればこれを臼の中に入れて搗き殺した。また、諸将にいつもこう言いつけていた。
「砦や城を陥としたら、住民を皆殺しにして、わしの威名を天下に知らしめよ。」
 故に、諸将は戦いに勝つたび放火や略奪に勤しみ、人命を軽視し、遊び感覚で人を殺した。この行為に民衆はひどく反発し、死んでも景に付こうとはしなくなった。
 ある時、東陽の人の李瞻は景に対して兵を挙げたが捕らえられ、建康に送られた。すると景はまずこれを市中引き回しにし、それからその手足を切断させ、更に腹をかっさばいて肝や腸を取り出させた。しかし瞻は最後まで泰然自若とし、痛がるそぶりを見せるどころか笑みすら浮かべていた。取り出された肝を見た者は、まるで枡のように大きかったと言い合った。
 また、景は人々が話をすることや酒宴をすること(人が集まる)を禁じ、違反した者は外族(親戚)まで皆殺しにした。
・劉神茂が叛乱を起こすと、討伐軍を送る。建徳を守備していた元頵・李占が敗れて建康に送られてくると、その手足を斬って晒し者にした。頵らは数日後に死んだ。
・劉神茂の身柄が建康に送られてくると、景は大剉碓(北魏の汝南王悦も使用した刑具。悦は泥棒の手を斬るのに用いた。剉は切り刻むの意、碓は臼、或いは円筒状の物を指す。大舂碓〈臼の中に入れて搗き殺す刑。550年(2)参照〉もある)を用いてこれを殺すよう命じた。神茂は足から頭まで順々に切り刻まれた。

┃江南の荒廃
・侯景は当初、建康はすぐに陥とせると楽観視しており、〔その余裕から〕士卒に軍律を徹底させ、略奪などを一切禁じていた。しかし、幾度もの攻撃を撃退され、梁の援兵に逆包囲される危険性が高まると、景は兵士に疑惑の目を向けられるようになり、焦り始めた。また、このとき景軍は石頭・常平などの諸倉から兵糧を得ていたが、それも攻城が長期に渡ったことで食い尽くしてしまっていた。そこで遂に景は禁令を撤廃し、兵に略奪を許した。景兵は民間の米や金・絹、子女妻妾を手当たり次第奪った。こののち、市中の米価は一升十八万銭にまで暴騰し、市民は飢餓の余り互いに食らい合うようになり、己の子さえも食う者が出る有り様となった。
・包囲が始まった当初(548年の10月)、台城内には十余万の民衆と二万余【考異曰く、南80侯景伝には『三万』とあるが、今は典略の記述に従った】の兵士がいた。しかし包囲が長期に渡ると、景軍が貯水池に毒を投げ込んだこともあって、城内は体がむくんで呼吸困難に陥る疫病が流行り(むくみは水腫。水腫は栄養失調により起こる。呼吸困難は水腫の症状。毒を投げ込んだのは流言の類い?)、八・九割が死に、守兵は四千人以下にまで激減した。その守兵も、一様に痩せ衰えてしまっていた。
 死体は埋葬されることも無く城中の到る所に打ち捨てられ、その死体から出る臭気は台城の数里先まで及び、腐汁は溝渠に満ち溢れた。
・武帝の治世の末の頃になると、建康の士民の衣服や食事、調度品の類はどれもこれも華美に流れた。食糧の備蓄は半年分しか無く、食糧は完全に四方からの供給に依存していた。景が建康を包囲して輸送路が断絶すると、住民は数ヶ月の間に相い食むまでに至り、餓死を免れ得た者は百人の内一人か二人しかいない惨状に陥った【金陵記曰く、梁が建康を都とした時、その人口は二十八万を数えた。〔その城域の範囲は〕西は石頭城、東は倪塘、南は石子岡、北は蔣山にまで及び、南北の長さはそれぞれ四十里あった。侯景の乱から陳の代に至るまで、中外の人物は劉宋・南斉の時の半分にまで減少した】。それは貴族や金持ちでさえ例外でなく、辺りに生えているひこばえの稲まで食べたものの、結局飢え死にした者は数知れなかった。
・549年7月、梁の九江(江州)にて大飢饉が発生した。
・549年、百済が建康に朝貢の使者を派遣した。使者は建康が荒れ果て、以前見た姿とあまりに異なっているのを見ると、〔悲しみがこみ上げて〕端門【台城正南門の中門】にて慟哭した。侯景は怒り、これを荘厳寺【建康の南の郊壇にある】に押し込めて監禁した(梁56侯景伝では12月の事だとする)。
・近年、江南は旱害や蝗害に悩まされていたが、特に江州・揚州が最も酷く(梁簡文紀には『この年の春から夏まで大飢饉〈南史では『大旱魃』〉が起こり、人間同士が相食む惨状となった。その様は、建康が最も酷かった』とある)、年貢は納められず、人民は逃亡し、山谷や江湖に入って草の根や葉っぱ、菱角(沼地に育つヒシの種子。ふかして食べる)や芡(鬼蓮。浮水性の水草)の実を採って〔飢えをしのいだが、〕全て食べ尽くしてしまうと、餓死者が野に満ち満ちるようになった。富裕の者も例外ではなく、みな顔や体が鳥か白鳥のように痩せこけ(原文『鳥面鵠形』)、立派な衣服を着、珠玉を持ちながら、天蓋付きの寝具に倒れ伏して死んでいった。炊煙は千里四方に渡って絶え、足跡を見るのは稀で、白骨は丘陵のように積み重なった。
・東晋以降、三呉の地は最も繁栄し、天下の貢賦(年貢)や商旅(行商)は皆ここから出た。しかし侯景が叛乱を起こすと、三呉の地は徹底的な略奪に遭い、金目の物は全て無くなり、人は殆ど食われるか北辺に売られるかして、〔すっかり荒廃してしまった〕。

┃評価
斛斯椿…「景は人傑であるのに、どうして放してしまわれるのですか。」
高歓…「景に河南の兵権を委ねてから(534~)もう十四年になる。その間、景は常に勝手気ままにふるまった(飛揚跋扈)が、わしはこれを良く押さえることができた。しかし、お前では景を使いこなせぬだろう。…侯景になんとか渡り合えるのは、ただ慕容紹宗だけだが、わしはこれをわざと重用しなかった(紹宗は徐州刺史とはなったが、開府にも公にもなっていない)。お前はこれに深く礼を尽くして〔感激させ、それから〕、国家の大事を任せるのだぞ。」
于謹…西魏の尚書左僕射。「景は年少の頃から権謀術数に長けた、海千山千で信頼の置けぬ男です。ひとまず彼には充分な官爵を与えてやるだけにしておいて、兵を送るのはその挙動を見定めてからにした方がいいでしょう。」
裴寛…西魏の同軌防長史。「侯景は狡猾な男でありますから、〔絶対に我らのもとには付かず、〕入関もしないでしょう。ですから、近づいてきても信用してはなりません。」
王悦…西魏の大行台左丞。「侯景は初め高歓の同郷(懐朔鎮)の親友でありましたが、のち君臣の間柄になり、歓の元で上将・三公の位にまで登りつめました。思うに、二人の間柄は水魚の交わり(劉備と諸葛亮の関係)と同じものがあったのです。そのような関係であったのに、景は歓が死んだ途端叛乱を起こすに至りました。どうして景は君臣の道や忠義の礼を守らなかったのでしょうか? 思うに、景は野心家で、己の野望の達成のためには非難など全く顧みない男なのです。そのような男が、どうして我が朝に忠誠を尽くしましょうか! いま彼に官爵を与えてその威勢を拡張し、兵を派遣してその軍勢を増強したりなどなされば、きっと後世の物笑いの種になりましょう。」
高澄…「先王(高歓)と司徒(侯景)は長期に渡って苦楽を共にした仲ゆえ、私も司徒に対しては親族以上の期待をかけていた。司徒も最上の官爵を受け、恩義に感じていたはずである。しかし今、司徒は期待や恩義に背いて叛逆を起こしてしまった。だが、司徒は力や勢いが足らぬまま実行してしまったため、その状態は累卵のように非常に危うい状態にある。また、救いを求めたのはよいものの、西は黒泰(黒獺、宇文泰の字)、南は蕭氏とどちらともに秋波を送るというどっちつかずの態度を取ったため、結局、秦(西魏)人には容れられず、呉人(梁)にも不信の念を抱かれることになってしまった。…今もし本隊が出発すれば、その挙げる土煙は天を覆い、司徒の軍勢をまるで湯で雪を溶かすように、水で蛍火を消すように(注蛍沃雪)容易に滅ぼすであろう。そもそも、賢者は危険を回避して安全に就くものであり、智者は禍いを転じて福と為すものである。今もし司徒が武装を解いて上京してくれば、豫州刺史の身分を終身保証し、囚禁されている愛妻・愛子も帰し、配下の者も罪に問わぬことにする。」
杜弼…「貴様たちは愚かにも一介の凡人にしか過ぎぬ侯景の求めに従い、この和平を破ったのである。」
「侯景は一介の凡夫にしか過ぎなかったが、戦乱に乗じて三公に名を連ね、万戸を数える封邑を持つに至った者である。景はここで己の分をよくわきまえて、満足するべきであったが、常に野心を抱いてやまず、遂にこたびの叛乱を起こしたのである。その勃勃たる野心は、彼が何もしていなくともはっきりと分かる。しかるに、貴様たちはあろうことか景に利器(兵権)を与え、不用心にこれを受け入れようとしている。それは景の野心を焚き付けるばかりか、機に乗じて実現させるのに充分な行為である。老賊(侯景)は今、南風が競わず(梁が衰え)、滅亡に瀕しているのを見て、再び野心を起こすだろう。野心は猛き者相手には役に立たぬが、弱き者に対しては大毒である。思うに、侯景自身はもともと孫子・呉起のような名将でもなく、配下の兵も燕・趙のような精兵ではなかったが、戦陣に長らく身を置いていたため、戦いに習熟し、剽悍で強靭な部隊となった。それでも、猛き我が軍の攻撃を防ぐには力不足だが、弱き貴様たちを攻めるのは、朝飯前なのだ。その侯景はいずれ、貴様たちのもとで己の味方を増やし、いよいよ手がつけられなくなる。ゆえに、もしこれにすぐ入京を要求すれば、直ちに叛乱は起こされるが、〔勢力が扶植されていないため〕被害は最小限に留まろう。しかし、ぐずぐずとして要求しないでいると、叛乱の勃発は遅くなるものの、被害は最大限のものになるだろう。侯景は必ず〔蘇峻(東晋の権臣。328年に叛乱を起こした)のように〕従容として命には応じず、〔黥布(前漢の功臣。前196年に叛乱を起こした)のように〕淮南に拠って皇帝を自称するはずだ。我々はただ、楚王が逃げた猿を探すために森を切り払い、城門の火を消すために池の水を全て使い、池に住んでいた魚を死なせた(淮南子説山訓)ように、江・淮の人士や荊・揚の人物たちを、あたら矢石の下や、霧露の中に死なせるような事態になりはしないかと危惧するだけである。」
慕容紹宗…「侯景は詭計を弄する奴で、人の裏をかくのを好むゆえ、用心せよ。」「わしは多くの戦いを経験してきたが、景のような難敵に遭ったのは初めてだ。君らも試しに手合わせしてみると良い!」
何敬容…「景が死んだ方が、朝廷にとっては幸せだったのですが。」「景は反復常なき叛臣で、いずれ必ず国家に禍乱をもたらすからです。」
蕭介…「侯景は呂布・劉牢之のような狼虎のたぐい。生来の奸智で高歓に取り入り、宰相(司徒)・方伯(地方長官。河南大行台のこと)にまで引き立てられた者だったのに、歓が死ぬと景はその恩を綺麗に忘れ、その墓の盛り土がまだ乾かぬ内に叛乱を起こしました。景は決して江・淮(梁)の純臣とはなりません! 」
謝挙・朱异…「惨敗を喫して命からがら逃れてきた弱将など、使者一人のみで捕らえることができます!」
梁の武帝…「景は進退窮まって身を寄せてきた者で、言うなれば乳を求める赤子だ。その赤子がどうして叛乱など企てようか!」
「景に何ができよう! 半分に折った杖だけで〔ひっ捕らえて〕鞭打てるぞ(短い杖で倒せるほど容易な敵だということ)。」
王偉…「王は人臣の身を以て勝手に兵を挙げ、皇宮を包囲し、妃主を陵辱し、宗廟を蹂躪しました。王の犯した罪は、その髪を全て抜いても数え上げられぬほどです【史記范雎列伝の須賈の言を用いたのである】。その王を受け入れる場所がどこにありましょう! 盟約に背いて勝利を得た例は古より多くあります。しばし静観し、形勢が変わるのを待たれては如何でしょうか。」「興廃は時の運だが、事が上手く行くか行かないかは人の責任だ。漢帝がそれがしの献言を早く用いていれば、貴公の今は無かったはず。〔そのような君主に義理立てする必要はない。〕」
沈浚…「河南王は人臣の分際で兵を皇宮に向ける大逆を犯し、陛下がその罪を赦して盟約をお結びになられても、口血(誓いの時にすすった生贄の血)乾かぬ内にその内容に違背された。そのような者を、天地が許すと思うてか! 」
永安侯確…「侯景は不用心な男でありますゆえ、〔軍勢に頼ることなく〕一人の力でこれを殺すことができます。」
曲江侯勃…「侯景は驍雄で天下無敵〔の難敵〕である。〔景が台城を囲んだ時〕、救援軍は十万にも及び、しかも精強であったが、それでも勝つことができず、羯賊(北方の胡虜。侯景)に志を得さしむる結果に終わってしまった。」