[496~549]

┃東朝に帰るべし

 羊侃は字を祖忻といい、泰山郡梁甫(鉅平?)県の人で、〔後〕漢の南陽太守の羊続の末裔である。
 祖父の羊規之?~473)は、宋の武帝劉裕)が徐州に赴任した時(404年)に祭酒従事・大中正に任じられた。のち、任城令を務めたが、北魏の太武帝が南征を行なって(450~451年)鄒山に赴いた時に降伏し、鉅平子・雁門太守とされた
 父の羊祉は侍中・金紫光禄大夫まで昇った。祉は常に南朝に帰ることを夢見ており、息子たちによくこう言い聞かせていた。
「人は、異域に長く留まってはならぬ。お前たちは東朝(南朝)に帰るのだぞ。」

○魏89羊祉伝
 羊祉,字靈祐,太山鉅平人,晉太僕卿琇之六世孫也。父規之 ,宋任城令。世祖南討至鄒山, 規之與魯郡太守崔邪利及其屬縣徐通、愛猛之等俱降,賜爵鉅平子,拜雁門太守。
○梁39羊侃伝
 羊侃字祖忻,泰山梁甫人,漢南陽太守續之裔也。祖規,宋武帝之臨徐州,辟祭酒從事、大中正。會薛安都舉彭城降北,規由是陷魏,魏授衞將軍、營州刺史。父祉,魏侍中,金紫光祿大夫。…初,其父每有南歸之志,常謂諸子曰:「人生安可久淹異域,汝等可歸奉東朝。」

 ⑴《梁書》には『薛安都が彭城と共に北魏に降ると(466年)、規之もこれに応じて北魏の臣となり、衛将軍・営州刺史にまで昇進した』とある。こちらの説だと380年代生まれと仮定しても80代のかなりの高齢という事になる。
 ⑵羊祉…字は霊祐。458~516。北魏に仕えて司空令輔国長史とされたが、汚職が酷く、孝文帝の時に流罪にされた。505年に伐蜀に加わり、秦梁二州刺史とされたが、良民を勝手に奴隷としたため免官にされた。514年に高肇が南征を行なった際、先鋒を務めた。のち撤退中に道に迷うと隊副を勝手に殺し、弾劾に遭ったが赦免された。

┃莫折天生を射殺す

 羊侃は容貌が逞しく立派で、七尺八寸(約190cm)の長身で、文学や歴史を愛好し、書物を読み漁り、特に左氏春秋と孫呉兵法を好んだ。若い頃から勇猛で人並み外れた筋力を持ち、十余石(一石は約26kg)の弓を引くことができ(南史では二十石)、馬上でも六石の弓を引く事ができた。〔北魏の〕兗州にいた時、堯廟の塀を五尋(9m80cm。一尋は1m96cm)に渡って駆け上ることができ、横にも七歩進むことができた。また、泗橋には高さ八尺・腰回り十囲の石像が数体置かれていたが、侃はこれを両手に持ってぶつけ、みな壊してしまった。

 父の梁州征討(514年)に従って武功を立てた。初め尚書郎とされ、膂力に優れている事で評判になった。魏帝(宣武帝?)はこう言った。
「郎官たちは卿の事を虎だと言っているが、羊が虎の皮をかぶっているだけではないか?試しに虎の真似をしてみよ。」
 侃はそこで虎のように伏せ、指で宮殿の床を抉ってみせた。魏帝はその勇壮さを褒め称え、珠剣を与えた。
 正光年間(520~525)に別将とされた。
 この時、秦州羌の莫折念生が叛乱を起こして皇帝を名乗り、弟()の莫折天生に岐州を陥とさせ、雍州にまで侵攻させた(525年)。この時、侃は偏将を務めて蕭宝寅の指揮のもと討伐に赴き、塹壕に身を潜め、天生がやって来たのを見るやこれを狙撃し、射殺した。すると賊軍は総崩れとなった。この功により使持節・征東大将軍・東道行台・領泰山太守・鉅平侯とされた。

○梁39・南63羊侃伝
 侃少而瑰偉,身長七尺八寸,雅愛文史,博涉書記,尤好左氏春秋及孫吳兵法。弱冠隨父在梁州立功。〔初為尚書郎,以力聞。魏帝常謂曰:「郎官謂卿為虎,豈羊質虎皮乎?試作虎狀。」侃因伏,以手抉殿沒指。魏帝壯之,賜以珠劍。〕魏正光中,稍為別將。時秦州羌有莫遮(折)念生者,據州反,稱帝,仍遣其弟天生率眾功陷岐州,遂寇雍州。侃為偏將,隸蕭寶夤往討之,潛身巡壍,伺射天生(射殺天生),應弦即倒,其眾遂潰。以功遷使持節、征東大將軍、東道行臺,領泰山太守,進爵鉅平侯。…侃少而雄勇,膂力絕人,所用弓至十餘石(二十石)〔,馬上用六石弓〕。嘗於兗州堯廟蹋壁,直上至五尋,橫行得七跡。泗橋有數石人,長八尺,大十圍,侃執以相擊,悉皆破碎。

 ⑴莫折念生…秦帝。秦州にて自立し、秦王となった莫折大提の第四子。天子を称し、百官を置き、年号を天建とした。525年に北魏軍に大敗を喫してから衰え、527年、部下に裏切られて殺された。
 ⑵莫折天生…秦州の群雄の莫折念生の弟(孝明帝紀や崔延伯伝では「兄」とある)。念生が即位すると高陽王とされ、関中攻略に向かい、元志の軍を破り、岐州を陥として、長安に迫ったが、黒水にて戦死した。
 ⑶蕭宝寅…字は智亮。486~530。南斉の明帝の第六子。501年に北魏に亡命し、斉王に封ぜられた。北魏が乱れると関中方面にて莫折念生や万俟醜奴と戦った。527年、長安にて叛乱を起こし斉を復興して皇帝となったが、翌年北魏に敗れて万俟醜奴のもとに亡命した。530年、醜奴が北魏に敗れると捕らえられ、処刑された。
 ⑷525年の黒水の戦いの後に『天生退走入隴西』とあり、526年9月に『是月,莫折天生請降,蕭寶夤使行臺左丞崔士和入據秦州。 天生復叛,送士和於胡琛,殺之』とある。ただ、9月の記事は『念生』を書き間違えている可能性が大きい。

┃叛乱計画
 のち(528年)、并州刺史の爾朱栄が挙兵して洛陽を陥とし、朝士を殺害すると、徐紇羊侃のもとに逃れた。侃は紇に挙兵を勧められると、遂に父の遺志に従い、黄河・済水一帯を手土産に梁に降ろうとした。
 侃の従兄で広平(鄴の東北)太守羊敦は密かに侃の異志を察すると、一門に災いが及ぶのを恐れ、従弟の羊烈と共に洛陽に馳せ到って告発した。朝廷がその心がけを嘉し、厚賞を加えようとすると、烈はある者にこう告げて言った。
「例えて言えば、今回の一件は手を斬って命を全うしたようなもので、残る物が大きいからやったまでの事。どうして従兄の失敗と引き換えに利益を求めたりしようか?」
 かくて何も受けなかった。

 羊敦生年488?、時に41歳)は字を元礼といい、羊祉の弟の羊霊引の子である。質素を尊び、書物を読み漁った。父の霊引が京兆王愉の乱に遭って殺されると給事中とされた。地方に出て本州(兗州)別駕とされると公平正直を旨とし、法律に背く物には絶対に署名しなかった。のち尚書左侍郎・徐州撫軍長史とされた。永安年間(528~530)に廷尉司直とされたが、辞退した。のち洛陽令→鎮南将軍・金紫光禄大夫→太府少卿とされた。のち衛将軍・広平太守とされると、敏腕の評判を得、姦吏は身の置きどころを無くし、ほんの少しの汚職もできなくなった。清廉で、飢饉になって家に食べ物が足りなくなると、家人に沢の水や藕根(蓮根)を採らせてそれを食べた。病気で苦しんでいる者がいれば、家人に衣服を解かせて米と交換して送った。このようにその治政は〔優しい所があったが、〕締める所はきちんと締めていた。朝廷はその清廉さを嘉し、穀物千斛と絹百疋を与えた。

 羊烈生年513、時に16歳)は字を信卿といい、羊祉の弟の羊霊珍瑩。霊引の弟)の子である。霊珍は北魏に仕えて兗州別駕従事とされた。
 烈は若年の頃から聡明で、身を正しく修め、成人の雰囲気があった。読書を好み、名家の論理を語ることができ、玄学(老荘)の知識で名を知られた。

○魏88羊敦伝
 羊敦,字元禮,太山鉅平人,梁州刺史祉弟子也。性尚閑素,學涉書史。以父靈引死王事,除給事中。出為本州別駕。公平正直,見有非法,敦終不判署。後為尚書左侍郎、徐州撫軍長史。永安中,轉廷尉司直,不拜。拜洛陽令。後為鎮南將軍、金紫光祿大夫,遷太府少卿,轉衞將軍、廣平太守。治有能名,姦吏跼蹐,秋毫無犯。雅性清儉,屬歲饑饉,家餽未至,使人外尋陂澤,採藕根而食之。遇有疾苦,家人解衣質米以供之。然其為治,亦尚威嚴。朝廷以其清白,賜穀一千斛、絹一百匹。
○魏93徐紇伝
 東走兗州。紇弟獻伯為北海太守,獻伯弟季彥先為青州長史,紇使人告之,亦將家南走。羊侃時為太山太守,紇往投之,說侃令舉兵。侃從之,遂聚兵反,共紇圍兗州。
○北斉43・北39羊烈伝
〔靈引弟瑩,字靈珍,兗州別駕從事。子烈。〕羊烈,字信卿,太山鉅平人也。晉太僕卿琇之八世孫,魏梁州刺史祉之弟子。父靈珍,魏兗州別駕。烈少通敏,自修立,有成人之風。好讀書,能言名理,以玄學知名。魏孝昌中,烈從兄侃為〔太山〕太守,據郡起兵外叛。烈潛知其謀,深懼家禍,與從兄廣平太守敦馳赴洛陽告難。朝廷將加厚賞,烈告人云:「譬如斬手全軀,所存者大〔〕爾,豈有幸從兄之敗,以為己利乎?」卒無所受。
○梁39羊侃伝
 初,其父每有南歸之志,常謂諸子曰:「人生安可久淹異域,汝等可歸奉東朝。」侃至是將舉河濟以成先志。兗州刺史羊敦,侃從兄也,密知之,據州拒侃。

 ⑴爾朱栄…字は天宝。493~530。色白の美男子。果断な性格で、将略を有していた。契(稽)胡族の酋長の家柄の出で、肆州秀容の地に隠然たる勢力を有した。六鎮の乱が起こると家畜を散じて兵を集め、并・肆州に割拠した。528年、胡太后が孝明帝を殺すと洛陽に攻め入って太后と文武百官を河陰にて虐殺し、次いで河北の大群雄の葛栄を一戦で滅ぼした。529年には洛陽を陥とした梁の陳慶之も一蹴し、関中も平定していよいよ皇帝となろうとしたが、530年、孝荘帝に殺された。
 ⑵徐紇…字は武伯。代々貧しい家柄の出。若くして学問を好み、論理学に造詣が深く、優れた文章を書いた。機知に富んだ会話ができ、精力旺盛で、ほとんど休むこと無く一日中ぶっ通しで仕事をする事ができた。孝文帝の代に主書(文書管理官)に抜擢され、宣武帝の初めに中書舍人となった。趙修におもねって出世したが、脩が誅殺されると連座に遭って枹罕に流罪とされた。しかしそこで労役逃れの者などを捕らえた功によって流刑を免じられた。のち再び中書舍人とされたが、上役の太傅・清河王懌が元叉に殺されると雁門太守に左遷された。のち太后が摂政の座に復帰すると、再び中書舍人に任じられた。このとき太后の大のお気に入りの鄭儼にすり寄って給事黄門侍郎とされ、中書舍人も兼任して中書・門下の事務を全て取り仕切った。儼と共に表裏一体となって宮廷内外を支配し、当時の人々に『徐鄭』と呼ばれた。
 ⑶広平太守…《梁書》羊侃伝では兗州刺史とある。羊敦伝には兗州刺史に就いたという記述は無い。また、広平でも、このとき広平は葛栄の領土となっているか戦争中なので怪しい。兗州の南にある高平の誤りなのかもしれない。
 ⑷洛陽に馳せ到って告発した…《梁書》羊侃伝では『直ちに州城の守りを固めた』とある。
 ⑸京兆王愉…488~508。宣武帝の異母弟。母は袁貴人。文学を愛好し、仏教を信じて施しを好んだ。ただ弟の広平王懐と贅沢さを競い、多くの不法行為を働いたため五十の杖打ちを受けた。徐州刺史→中書監→冀州刺史とされた。508年に高肇の専横に怒り、叛乱を起こして皇帝となり、年号を建平としたが、敗れて死んだ。

┃叛乱


 8月、侃は挙兵し、精兵三万を率いて州城(瑕丘)を襲撃した。しかし陥とす事ができなかったため、周囲に十余の付け城を築いて持久戦に切り換えると共に、梁に使者を派遣して投降の意を示し、支援を要請した。梁の武帝元法僧と同等の賞授を与えると共に、広晋県侯で泰山の人の羊鴉仁王弁を援軍に向かわせ、かつ李元履李安民の子?)に兵站を取り仕切らせた。北魏は侃を驃騎大将軍・司徒・泰山公とし、長子(羊鷟)を兗州刺史として(原文『長為兗州刺史』。或いは終身兗州刺史?)引き止めにかかったが、侃は使者を斬って拒絶した。

 王弁が北魏の徐州に侵入すると、蕃郡民の続霊珍が梁から平北将軍・番州刺史の官位を受けて一万の兵を率いて呼応し、蕃城を攻めた。これに対し北魏の鎮東将軍・仮車騎将軍・東南道都督・徐州刺史の楊昱は別将の劉馘を派してこれを討たせた。馘が霊珍を斬ると、弁は退却した。
 この時、侃の兄の羊深は(侃は深の七弟)徐州行台として彭城に在った。侃は彼のもとにも使者を送り呼応してくれるよう求めたが、深は憤りの余り涙を流したのち、使者を斬り捨てて拒絶の意を示した。そしてその書状を朝廷に送ると共に、自ら連座を朝廷に求めた。一方、楊昱の属官たちはなおも深を疑い、これを監禁するよう昱に求めたが、昱は首を振ってこう言った。
「昔、叔向(春秋晋の大夫、羊舌肸の字)は鮒(羊舌鮒、字は叔魚。肸の弟)が親族だからといって庇うような事をせず、《春秋》から賞賛を受けた。いまの彼の態度はそれに通ずるものがある。その彼をどうして侃の兄弟というだけで処罰できようか。ここは朝廷の判断を待つべきである。」
 孝荘帝は深の書簡を読むと、詔を下して言った。
羊侃は瑕丘にて不逞のやからを集めて叛乱を起こし、辺境を騒がした。傾宗之禍,侃乃自貽,累代の忠勤を一朝にして汚損した。羊深は尽忠奉国の士であり、志操堅固で二心を抱かず、弟が叛乱を起こした事を聞くと、自らを責めて処罰を求めてきた。この忠義の行ないは、誠に怒りを収めるに足るものである。そもそも、叔向〔の弟の叔虎が罪を犯した時、晋が連座を赦して〕復位させた事は《春秋》が賞賛しているものである。深の気概はかのいにしえの烈士と同等のものがあり、その忠義心は既に明らかである。朝廷に帰還し、朕の面前で沙汰を受けよ。」
 深が参内してくると、帝は処分を除名のみに留めた。

○魏孝荘帝紀
 八月,太山太守羊侃據郡引蕭衍將軍王辯攻兗州。
○魏58楊昱伝
 轉撫軍、徐州刺史,尋除鎮東將軍、假車騎將軍、東南道都督,又加散騎常侍。後太山太守羊侃據郡南叛,蕭衍遣將軍王辯率眾侵寇徐州,番郡人續靈珍受衍平北將軍、番郡刺史,擁眾一萬,攻逼番城。昱遣別將劉馘擊破之,臨陳斬靈珍首,王辯退走。侃兄深,時為徐州行臺,府州咸欲禁深。昱曰:「昔叔向不以鮒也見廢,春秋貴之,奈何以侃罪深也。宜聽朝旨。」不許羣議。還朝。
○魏77羊深伝
 孝昌末,徐方多事,以深為東道慰勞使,即為二徐行臺。莊帝踐祚,除安東將軍、太府卿,又為二兗行臺。深處分軍國,損益隨機,亦有時譽。初,尒朱榮殺害朝士,深第七弟侃為太山太守,性粗武,遂率鄉人外託蕭衍。深在彭城,忽得侃書,招深同逆。深慨然流涕,斬侃使人,并書表聞。莊帝乃下詔曰:「羊侃作逆,霧起瑕丘,擁集不逞,扇擾疆埸,傾宗之禍,侃乃自貽,累世之節,一朝毀汙。羊深血誠奉國,秉操罔貳,聞弟猖勃,自劾請罪。此之丹款,實戢于懷。且叔向復位,春秋稱美,深之慷慨,氣同古人。忠烈遠彰,赤心已著。可令還朝,面受委敕。」乃歸京師,除名。
○魏93徐紇伝
 侃從之,遂聚兵反,共紇圍兗州。
○梁39羊侃伝
 侃乃率精兵三萬襲之,弗剋,仍築十餘城以守之。朝廷賞授,一與元法僧同。遣羊鴉仁、王弁率軍應接,李元履運給糧仗。魏帝聞之,使授侃驃騎大將軍、司徒、泰山郡公,長為兗州刺史,侃斬其使者以徇。

 ⑴梁の武帝…蕭衍。字は叔達。464~549。梁の初代皇帝。博学多才で、弓馬の扱いにも長けた。南斉の時に雍州刺史として襄陽を守っていたが、500年に叛乱を起こして建康を陥とし、502年に梁を建国した。その後約半世紀に亘って江南に平和をもたらしたが、仏教に傾倒して仏寺に捨身したり、子どもたちに寛容すぎてわがままにさせたりと問題も起こした。548年、東魏の降将の侯景に叛乱を起こされ、翌年建康を陥とされ、餓死に追い込まれた。
 ⑵元法僧…454~536。道武帝の子孫で、江陽王鍾葵の子。 益州刺史とされると気の赴くままに人を殺し、感情が一定しなかった。王・賈ら地元の名士を兵士にするなどして反感を買い、梁の侵攻を許した。元叉に付き、徐州刺史とされたが、あまりの驕恣ぶりにいつか破滅して自分にも災いが訪れるのを恐れ、525年に叛乱を起こし、皇帝となって年号を天啓としたが、討伐軍を派遣されると三千余の兵の額に焼印を押して奴隷とし、梁に降って侍中・司空・始安郡公(王?)→宋王とされ、立派な邸宅や女楽隊、金帛など数え切れぬ賞賜を受けた。法僧長期に亘って梁と戦い怨まれていたため、護衛を連れて宮中を出入りすることを求めて許された。532年に太尉とされ、のち郢州刺史とされた。536年、再び太尉とされた。
 ⑶羊鴉仁…字は孝穆。?~549。勇猛果敢。普通年間(520~527)に梁に降り、広晋県侯とされた。532年に譙州刺史とされ、541年に太子左衛率とされ、のち北司州刺史とされた。侯景が降ると東魏の豫州を接収し、司豫二州刺史とされた。侯景が敗れると北司州に逃げ帰り、武帝に激怒された。侯景が叛乱を起こすと台城の救援に赴いたが、東府城にて敗北を喫した。台城が陥ちると景に五兵尚書とされたが、549年に脱走し、江陵に赴く途中で殺害された
 ⑷王弁…527年に北魏の琅邪を攻めたが、鹿悆に撃破された。のち北魏の汝南王悅が降り、魏主とされるとこれを国境まで護送し、侵攻の機会を窺った。
 ⑸蕃郡…《読史方輿紀要》曰く、『兗州府の東南百四十里の滕県に北魏は孝昌二年(526)に蕃郡の治所を置いた。
 ⑹楊昱…字は元略。478~531。名門恒農楊氏の出。525年頃に中書侍郎→給事黄門侍郎とされ、北鎮の飢民二十余万を冀・定・瀛三州に就食させる差配をした。豳州が襲われると北海王顥の監軍とされて救援に赴いた。その間に長安が危急に陥ると李叔仁らと共に救援に赴いたが、もとの命令遂行を怠ったとして免官に遭った。蕭宝寅が大敗を喫すると長安の防衛を任されたが、賊に敗れて引き返した。のち徐州刺史・東南道都督とされた。羊侃が乱を起こし、番郡民の続霊珍が呼応するとこれを討平した。元顥が洛陽に進軍してくると南道大都督とされて滎陽を守ったが、敗れて捕らえられた。のち孝荘帝が爾朱栄を誅殺した際、東道行台とされて爾朱仲遠に当たった。爾朱兆が入洛すると洛陽に引き返し、のち故郷に帰った所で爾朱天光に殺された。
 ⑺羊深…字は文淵。476~535。羊祉の第二子。読書家で文才があり、事務仕事を得意とした。521年(正光二年),魏孝明帝行释奠之礼,羊深講《孝经》,被时論称美。524~525年に北海王顥に軍司とされて豳夏諸州の救援に赴いた。蕭宝寅が叛乱を起こすと兼給事黄門侍郎とされ、大行台僕射の長孫稚と共に討伐に赴いた。胡太后に「 真の忠臣」と絶賛された。孝昌の末(527年頃)に東道慰労使・二徐行台とされた。528年、弟の羊侃が乱を起こすと誘いを断って北魏に忠を貫いた。528年に元顥が入洛すると兼黄門郎とされ、顥が敗れると免官とされた。のち大鴻臚卿とされた。孝武帝が即位すると中書令とされ、534年6月に兼御史中尉・東道軍司とされた。孝武帝が高歓によって関中に逐われると、樊子鵠らと共に兗州にて挙兵し、歓と戦ったが、535年正月、敗れて戦死した。
 ⑻孝荘帝…元子攸。北魏の九代皇帝。507~530。在位528~530。五代献文帝の孫で、彭城王勰第三子。もと長楽王。超が付くほどの美男だった。孝明帝と仲が良かった。爾朱栄が洛陽を攻めた際、宮中から脱走して合流し、皇帝とされた。530年、栄を誅殺したが余党の逆襲に遭い殺された。

┃敗北

9月、壬申(18日)爾朱栄葛栄を滅ぼした。〕
 10月丁亥(3日)、梁が北魏の北海王顥を魏王に封じ、東宮直閤将軍の陳慶之の軍の護衛のもと北に帰還させた。
 この月、顥が北魏の南兗州にある銍城を陥とした。〕

 庚戌(26日)、北魏が侍中・鎮南将軍・太原郡開国公の于暉を東南道行台左僕射とし、〔銅鞮伯の〕高歓と共に羊侃を討伐させた。また、安南将軍・光禄大夫・徐兗行台尚書の崔孝芬を散騎常侍・鎮東将軍・金紫光祿大夫・東道行台(徐兗行台)尚書とし、大都督の刁宣と共に〔別道より〕救援に赴かせた。
 于暉・高歓・刁宣・爾朱陽都らが十万(《南史》。《梁書》では『数十万』)の兵を率いて瑕丘を攻めた。
 徐紇は北魏に捕らえられるのを恐れ、梁へ援軍を求めに行ってくると言ったきり、そのまま梁に亡命してしまった。
 暉らは侃を十余重に逆包囲し、その兵を多く殺傷した。侃軍は矢尽き、梁の援軍も進軍を止めてやって来なかった。
 11月、癸亥(10日)、侃は夜陰に紛れて包囲を突き破って逃走し、戦いながら一昼夜で国境の渣口に到った。この時侃軍はなお一万余の兵と二千頭の馬を擁していたが、士卒がみな夜に故郷を想って悲歌を歌ったので、侃はそこで彼らに謝ってこう言った。
「そなたらが故郷を想う気持ちは良く分かった。去就の判断は各自に委ねる。南に行きたくない者はここで別れよ。」
 そこで士卒らはおのおの侃に暇ごいをしてその場を去った。
 かくて北魏は再び泰山郡を回復した。

○魏孝荘帝紀
 冬十月…庚戌,以侍中、鎮南將軍、太原郡開國公于暉兼尚書左僕射,為行臺,與齊獻武王討羊侃。…十有一月…癸亥,齊獻武王、行臺于暉,與徐兗行臺崔孝芬、大都督刁宣大破羊侃於瑕丘,侃奔蕭衍。兗州平。
○魏57崔孝芬伝
 建義初,太山太守羊侃據郡反,遠引南賊,圍逼兗州。除孝芬散騎常侍、鎮東將軍、金紫光祿大夫,仍兼尚書東道行臺,大都督刁宣馳往救援,與行臺于暉接,至便圍之。侃突圍奔蕭衍,餘悉平定。
○魏93徐紇伝
 孝莊初,遣侍中于暉為行臺,與齊獻武王督諸軍討之。紇慮不免,說侃請乞師於蕭衍。侃信之,遂奔衍。文筆駁論數十卷,多有遺落,時或存於世焉。
○梁39羊侃伝
 魏人大駭,令僕射于暉率眾數十萬(眾十萬),及高歡、尒朱陽都等相繼而至,圍侃十餘重,傷殺甚眾。柵中矢盡,南軍不進,乃夜潰圍而出,且戰且行,一日一夜乃出魏境。至渣口,眾尚萬餘人,馬二千匹,將入南,士卒並竟夜悲歌。侃乃謝曰:「卿等懷土,理不能見隨,幸適去留,於此別異。」因各拜辭而去。

 ⑴銍城…《読史方輿紀要》曰く、『徐州の南百五十里、或いは蒙城県の北百二十里→宿州の南四十六里にある。』
 ⑵于暉…?~529。字は宣明。定州刺史の于勁の子。宣武帝の妃の順皇后の同母弟。若くして気骨・才能があった。父の爵位の太原郡公を継ぎ、汾州刺史に任じられた。人の機嫌を取るのが上手だったため、爾朱栄に気に入られ、その娘を子の嫁に貰った。のち侍中・河南尹とされ、間もなく東南道行台僕射とされて羊侃を討伐し、次いで邢杲の討伐に赴いたが、部下の彭楽が叛くと引き返した。元顥が入洛すると殺害された。
 ⑶高歓…字(鮮卑名)は賀六渾。496~547。北魏末に群雄の爾朱栄に仕えて晋州刺史とされ、栄が殺されると次第に頭角を現し、531年、信都にて挙兵して爾朱氏を撃ち破り、532年に華北東半部を制した。534年、擁立した孝武帝が宇文泰のもとに逃れると孝静帝を擁立して東魏を建て、その大丞相となり、西魏と長きに亘って激闘を繰り広げた。
 ⑷崔孝芬…字は恭梓。485~534。名門博陵崔氏の出。光州刺史の崔挺の子。博識で文才があり、孝文帝に才能を認められた。廷尉少卿とされ、裴邃討伐に躊躇っている河間王琛らの督促役を任された。荊州刺史の李神俊が包囲されると、代わりに荊州刺史とされ、南道行台とされて救援に赴いた。のち元叉に連座して除名された。527年、梁が北伐してくると徐州行台とされ、撃退に成功して徐兗行台とされた。528年に羊侃が叛乱を起こすとこれを討伐した。北海王顥が洛陽を陥とすと雎陽を急攻して陥とした。のち西兗州刺史とされたが、戦場に倦んでいたため固辞し、太常卿とされた。530年に趙修延が荊州城を襲うと再び荊州刺史・南道行台とされ討伐に赴いた。のち西兗州刺史とされた。532年、兼殿中尚書とされ、のち兼吏部尚書とされた。534年、高歓が洛陽を陥とすと殺害された。
 ⑸刁宣…字は季達。北魏の洛州刺史の刁遵の子、滄冀瀛三州刺史の刁整の弟。妻は東平王略の娘。略が梁に亡命すると一時逮捕された。功を挙げて高城県侯とされ、都官尚書・衛大将軍・滄州刺史を歴任した。崔孝芬と共に羊侃や北海王顥を討伐した。
 ⑹爾朱陽都…528年6月に葛栄の僕射の任褒が沁水に迫ると、上党王天穆らと共に討伐に赴いた。車騎将軍とされ、530年、孝荘帝が爾朱栄を誅殺した時に同時に殺害された。
 ⑺渣口…《読史方輿紀要》曰く、『渣口戍は兗州府の東南二百六十里→嶧県の東南にある。


 羊侃伝(2)に続く