┃生没年
・507?509?~556

○周文帝紀
 太祖時年十八【[六]按卷二稱宇文泰死時年五十二,北史卷九周本紀上作「五十」。魏書卷九肅宗紀孝昌二年五二六年七月,元洪業殺鮮于修禮,葛榮又殺洪業。周書文帝紀云葛榮殺修禮,不是事實。如孝昌二年,宇文泰年十八,由此下推到西魏恭帝三年五五六年止得四十八歲,與五十、五十二皆不合】…。

┃家族関係
・宇文肱の末っ子
・兄に宇文顥・宇文連・宇文洛生がいる。
母は楽浪の王氏。523年以前に亡くなり、宇文顥を酷く悲しませた。
賀蘭祥…姉の子。可愛がる

┃容姿
身長八尺
・額は角ばって(方顙、貴人の相)広い
・美しい髭
・髪は長く地まで届く
・手も膝まで届く
・背のホクロは龍がとぐろを巻いているように曲がりくねって点在
・顔からは紫色の霊気が発され、見る者を畏敬させる
・うなじにコブがありコンプレックス
 北周ではみな突騎帽をかぶった。今()の胡帽のようなもので、後ろ垂れがあり帯を覆っていた。恐らく索髮の名残が帽子に残ったものであろう。文帝宇文泰)はうなじにコブがあり、それを見られないようにするため、常にこれをかぶって〔隠し〕、西魏の宰相となった時もこれをかぶって魏帝に拝謁した。これがもとで、北周一代に亘って雅服(上品な衣服)とされ、小規模な朝会や宮宴の際でもかぶることが許された。

○周文帝紀
 太祖,德皇帝之少子也。母曰王氏,孕五月,夜夢抱子昇天,纔不至而止。寤而告德皇帝,德皇帝喜曰:「雖不至天,貴亦極矣。」生而有黑氣如蓋,下覆其身。及長,身長八尺,方顙廣額,美鬚髯,髮長委地,垂手過膝,背有黑子,宛轉若龍盤之形,面有紫光,人望而敬畏之。少有大度,不事家人生業,輕財好施,以交結賢士大夫。
○隋礼儀志衣冠
 後周之時,咸著突騎帽,如今胡帽,垂裙覆帶,蓋索髮之遺象也。又文帝項有瘤疾,不欲人見,每常著焉。相魏之時,著而謁帝,故後周一代,將為雅服,小朝公宴,咸許戴之。

┃性格・能力
・生まれつき度量が大きく、人を猜疑することが滅多に無かった。そのため、西魏の王族は殺されることなく、朝廷内外で任用を受けた。
・素朴を好んで華美を嫌い、常に浮薄虚偽の風潮を一掃していにしえの淳朴な気風に還すことを考えていた。
・家業に関わらず、金銭を軽んじて人に施すことを好み、人士と交際する事を楽しみとした。
・人の才能を見抜いてふさわしい職に就けるのが上手く、諫言を好み、儒学を尊び、政治に通暁し、西魏の人々はみなその恩恵にあずかった。
・英雄豪傑を良く使いこなすことができ、泰に会った者はみな彼のために死力を尽くした。沙苑にて捕虜となった東魏兵が、赦されて西魏の兵士となり、河橋の戦いにて奮戦したのがその良い例である。
・諸将が出征する際、自らはかりごとを授けたが、それで勝たないいくさは無かった。

┃人間関係
独孤信…幼馴染みで親友
侯莫陳順…親友
賀抜岳…同郷で上司
薛孝通…義兄弟

┃官歴
○528年(葛栄→爾朱栄)
 統軍(爾朱栄)
○529年
 鎮遠将軍(四品)・步兵校尉・寧都子(邑三百戸)
○530年
 征西将軍・金紫光禄大夫・直閣将軍・行原州事・寧都子(邑六百戸)
○532年(爾朱天光→賀抜岳)
 直閣将軍・行台左丞・寧都子(邑六百戸)
 →直閣将軍・大行台左丞・兼府司馬・寧都子(邑六百戸)
○533年
 武衛将軍(従三品)・直閣将軍・大行台左丞・兼府司馬・寧都子(邑六百戸)
 →使持節・衛将軍(二品)・直閣将軍・夏州刺史・寧都子(邑六百戸)

┃宇文泰前史

 宇文氏は匈奴の南単于の後裔である。
 また言う、宇文氏は炎帝神農氏の後裔で、黄帝に滅ぼされると子孫は北方の地に逃れ住んだ。
 その子孫に葛烏菟)という者がおり、雄武にして知略に優れていた。葛烏菟は鮮卑族に慕われてその部族長となり、十二部落を統べるに至った。その子孫も代々大人(部族長)を務めた。
 のち、普回という者が狩猟の際に玉璽を三つ手に入れた。その玉璽には『皇帝璽』という文字が彫られていた。普回はこれを不思議に思い、天からの授かり物だと考えた。鮮卑では天の事を『宇』といい、君()の事を『文』といったので、そこで部族名を宇文部とし、またこれを氏とした。
 また言う、鮮卑では草の事を『俟汾』と言い、神農氏が草の薬効の特定に功を立てた事にちなんで俟汾氏を号したが、のち音が訛って宇文氏となった。
 宇文普回の子の宇文莫那は陰山山脈(中国とモンゴル高原の堺にある山脈)の南方に移って初めて遼西(北京の東)に住むようになり、代(のちの北魏)の異姓諸侯国となって、のち北周の代に献侯と諡された。
 莫那の子の宇文可地汗は莫何単于を号し、西は玉門(敦煌の西北)、東は遼水まで版図を広げた。
 孫は宇文普撥といい、普撥は宇文丘不勤を生み、丘不勤は宇文莫珪を生み、莫珪は宇文遜昵延を生み、遜昵延は宇文逸豆帰晋書載記。周書では『侯豆帰』。北史では『侯帰豆』。新唐書では『佚豆帰』。周書では『莫那から九代ののち』とあるが、新唐書で数えると七代)を生んだ。逸豆帰は大単于を自称したが、慕容皝前燕)に滅ぼされた。
 逸豆帰には六子がおり、それぞれ宇文抜抜陵陵周書では『宇文陵』・宇文抜抜瓌・宇文紇闍・宇文目原・宇文紇闍俟直・宇文目陳といった。
 抜抜陵陵は阿若諺を号し、前燕に仕えて駙馬都尉・玄菟公とされた。北魏の道武帝が中山に侵攻した時(397年)、陵は慕容宝に従ってこれを迎撃したが、宝が敗れると甲騎五百と共に北魏に帰順し、都牧主・開府儀同三司・安定侯とされた。のち、天興(398~404年)の初めに豪傑を以て武川に遷された。死後、忠と諡された。
 子の宇文系は内阿干とされた。系は宇文韜・宇文阿頭を生んだ(或いは韜の鮮卑名が阿頭?)。系と韜の二人は共に武略の高さを賞賛された。そして韜が宇文肱を生んだ(新唐書では韜が宇文肱・宇文顥・宇文泰を生んだとしている)。
 肱は任侠を好み気骨があった。肱は楽浪(朝鮮半島辺り)の王氏楽浪王氏は名門)を妻に娶り、王氏宇文顥・宇文連・宇文洛生・宇文泰を産んだ。

 宇文阿頭宇文仲を生んだ。仲は宇文興を生み、興は宇文洛を生んだ。
 
 王氏の六世祖の王波は前燕の太宰で、祖父の王珍は北魏の黄門侍郎で、のち并州刺史・楽浪公を追贈された。父の王羆は伏波将軍で、良家の子を以て武川の鎮守を命じられ、そのまま居を構えるようになった。
 兄の王盟は立ち居振る舞いが上品で、謙虚で誰にも優しく接した。

○周文帝紀
 太祖文皇帝姓宇文氏,諱泰,字黑獺,代武川人也。其先出自炎帝神農氏,為黃帝所滅,子孫遯居朔野。有葛烏菟者,雄武多算略,鮮卑慕之,奉以為主,遂總十二部落,世為大人。其後曰普回,因狩得玉璽三紐,有文曰皇帝璽,普回心異之,以為天授。其俗謂天曰宇,謂君曰文,因號宇文國,并以為氏焉。
 普回子莫那,自陰山南徙,始居遼西,是曰獻侯,為魏舅生(甥)之國。九世至侯豆歸(侯歸豆),為慕容晃所滅。其子陵仕燕,拜駙馬都尉,封玄菟公。魏道武將攻中山,陵從慕容寶禦之。寶敗,陵率甲騎五百歸魏,拜都牧主,賜爵安定侯。天興初,徙豪傑於代都,陵隨例遷武川焉。陵生系,系生韜,並以武略稱。韜生肱。肱任有俠有氣幹。
○新唐世系表
 宇文氏出自匈奴南單于之裔。有葛烏兔為鮮卑君長,世襲大人,至普迴,因獵得玉璽,自以為天授也,俗謂「天子」為「宇文」,因號宇文氏。或云神農氏為黃帝所滅,子孫遁居北方。鮮卑俗呼「草」為「俟汾」,以神農有嘗草之功,因自號俟汾氏,其後音訛遂為宇文氏。普迴子莫那自陰山徙居遼西,至後周追謚曰獻侯。獻侯生可地汗,號莫何單于,闢地西出玉門,東踰遼水。孫普撥,普撥生丘不勤,丘不勤生莫珪,莫珪生遜昵延,遜昵延生佚豆歸,自稱大單于,為慕容晃所滅。生六子:一曰拔拔陵陵,二曰拔拔瓌,三曰紇闍,四曰目原,五曰紇闍俟直,六曰目陳。拔拔陵陵號阿若諺,仕後魏,都牧主、開府儀同三司、安定忠侯,以豪傑徙居代州武川。生系,位至內阿干。二子:韜、阿頭。韜三子:肱、顥、泰。泰,後周太祖文皇帝。阿頭生仲,贈大司徒、虞公。生興,襲虞公,生洛。
○周20王盟伝
 王盟字子仵,明德皇后之兄也。其先樂浪人。六世祖波,前燕太宰。祖珍,魏黃門侍郎,贈幷州刺史、樂浪公。父羆,伏波將軍,以良家子鎮武川,因家焉。…盟姿度弘雅,仁而汎愛。雖位居師傅,禮冠羣后,而謙恭自處,未嘗以勢位驕人。

┃英雄宇文泰の誕生

 宇文泰、字は黒獺は、宇文肱の末子である。母は楽浪の王氏で、妊娠して五ヶ月の時に、夜、抱いていた赤ん坊が天に昇り、あともう少しという所で止まった夢を見た。王氏が目を覚ましてこの事を肱に告げると、肱は喜んでこう言った。
「天に届かずとはいえ、この子は極めて富貴の身分となるだろう。」
 泰が生まれると、黒気が華蓋(古代、天子が乗る車についていた傘状の遮蔽物)のようにその体を覆った。成人すると身長八尺、額は角ばって(方顙、貴人の相)広く、ひげ美しく、髪は長く地にまで届き、手も膝まで届く偉丈夫となった。背のホクロは龍がとぐろを巻いているように曲がりくねって点在していた。顔からは紫色の霊気が発され、見る者を畏敬させずにはおかなかった。また、うなじにコブがあり、それを見られないようにするためにいつも突騎帽(帯まで覆う長さの後ろ垂れがある)をかぶった。
 若くして大きな度量を持ち、家業には関わらず、金銭を軽んじて人に施すことを好み、人士と交際する事を楽しみとした。

◯周文帝紀
 太祖文皇帝姓宇文氏,諱泰,字黑獺,代武川人也。…太祖,德皇帝之少子也。母曰王氏,孕五月,夜夢抱子昇天,纔不至而止。寤而告德皇帝,德皇帝喜曰:「雖不至天,貴亦極矣。」生而有黑氣如蓋,下覆其身。及長,身長八尺,方顙廣額,美鬚髯,髮長委地,垂手過膝,背有黑子,宛轉若龍盤之形,面有紫光,人望而敬畏之。少有大度,不事家人生業,輕財好施,以交結賢士大夫。
○隋礼儀志衣冠
 後周之時,咸著突騎帽,如今胡帽,垂裙覆帶,蓋索髮之遺象也。又文帝項有瘤疾,不欲人見,每常著焉。


┃六鎮の乱起こる



 正光五年(524)、沃野鎮民の破六韓抜陵が人々を集めて叛乱を起こし、鎮将を殺して年号を真王と定めた。諸鎮の民は華夷を問わず皆次々とこれに呼応した(魏孝明紀は翌年の3月の事とする)。

○資治通鑑
 武衛將軍于景,忠之弟也...執景,殺之。未幾,沃野鎮民破六韓拔陵聚眾反,殺鎮將,改元真王,諸鎮華、夷之民往往響應。
○魏孝明紀
 沃野鎮人破落汗拔陵聚眾反,殺鎮將,號真王元年。
○周文帝紀
 正光末,沃野鎮人破六汗拔陵作亂,遠近多應之。其偽署王衞可孤徒黨最盛。
○魏103蠕蠕伝
 五年,…是歲,沃野鎮人破六韓拔陵反,諸鎮相應。

 ⑴破六韓抜陵…沃野鎮民。附化の人で、匈奴単于の末裔。代々酋長を務めて部衆を率いた。

┃武川鎮の戦い

 抜陵は兵を率いて南下を開始し、別帥・王の衛可鮮卑衛氏に武川鎮を攻囲させ、のちに懐朔鎮も攻撃させた。
 この時、宇文肱は武川鎮の南河においてこの侵攻に抵抗した。その戦いの最中、肱は落馬したが、長子の宇文顥が数騎と共に助けに駆けつけ、数十人を撃殺して敵を怯ませたため、その間に馬に跨り逃れることができた。しかし顥の方はまもなくやってきた大勢の追騎に敗れ、戦死した。
 保定元年(561)に太師・柱国大将軍・大冢宰・大都督・恒朔等十州諸軍事・恒州刺史を追贈され、邵国公(邑万戸)を追封され、恵と諡された。顥には宇文什肥・宇文導・宇文護の三子がいた。


○資治通鑑
 拔陵引兵南侵,遣別帥衛可孤圍武川鎮。
○周文帝紀
 肱任有俠有氣幹。正光末,沃野鎮人破六汗拔陵作亂,遠近多應之。其偽署王衞可孤徒黨最盛。
○周10邵恵公顥伝
 邵惠公顥,太祖之長兄也。德皇帝娶樂浪王氏,是為德皇后。生顥,次𣏌簡公連,次莒莊公洛生,次太祖。顥性至孝,德皇后崩,哀毀過禮,鄉黨咸敬異焉。德皇帝與衛可孤戰於武川南河,臨陣墜馬,顥與數騎奔救,擊殺數十人,賊眾披靡,德皇帝乃得上馬引去。俄而賊追騎大至,顥遂戰歿。保定初,追贈太師、柱國大將軍、大冢宰、大都督、恆朔等十州諸軍事、恆州刺史。封邵國公,邑萬戶。諡曰惠。顥三子什肥、導、護。
○周20王盟伝
 魏正光中,破六汗拔陵攻陷諸鎮,盟亦為其所擁。

 ⑴衛可瓌…魏書・北史では『衛可瓌』、周書では『衛可孤』、北斉書では『衛可肱』とある。瓌と肱は北斉書高阿那肱伝には『『肱』の字は、当時の人々は『瓌』と同じ音で読んでいた』とある。周書は宇文肱の諱を避けたのかもしれない。今は魏書・北史の『衛可瓌』を採った。


┃衛可瓌襲殺
〔のち(524年5月頃)、武川鎮は陥落し、宇文肱父子は捕虜となった。〕
 肱はのち鄉里の豪傑の賀抜度抜・輿珍・念賢・乙弗庫根・尉遅真檀・独孤如願のちの独孤信)らと共に義勇兵を集め、協力して衛可瓌を襲って殺害した

○周文帝紀
 肱乃糺合鄉里斬可孤,其眾乃散。
◯魏80賀抜度抜伝
 殺賊王衞可瓌。度拔尋為賊所害,孝昌中,追贈安遠將軍、肆州刺史。
○周14賀抜度抜伝
 後隨度拔與德皇帝合謀,率州里豪傑輿珍、念賢、乙弗庫根、尉遲真檀等,招集義勇,襲殺可孤。朝廷嘉之,未及封賞,會度拔與鐵勒戰沒。孝昌中,追贈安遠將軍、肆州刺史。
○周14念賢伝
 後以破衞可孤功,除別將。
○周16独孤信伝
 正光末,與賀拔度等同斬衞可孤,由是知名。
◯北斉19賀抜允伝
 與弟岳殺賊帥衛可肱,仍奔魏。廣陽王元深上允為積射將軍,持節防滏口。深敗…。

 ⑴賀抜度抜…鮮卑人。武川の人。勇猛果断で、武川鎮軍主とされた。破六韓抜陵が叛乱を起こすと懐朔鎮将の楊鈞に招聘を受けて統軍とされ、迎撃に当たった。
 ⑵念賢…字は蓋盧。鮮卑人で、金城枹罕の人。父の代に大家の子を以て武川鎮の防衛を任され、居住するようになった。美男で非常な読書家。子どもの時に学校にて読書中、人相見の得意な者が学校の傍を通り過ぎると、一人見てもらわず、「男児の死生富貴は天命によって定まっているものだ」と言った。若年の頃に父が亡くなると良く喪に腹し、孝子と称賛された。
 ⑶独孤信…字は期弥頭。もとの名は如願。503~557。おしゃれ好きの美男子で、若い時に『独孤郎』と呼ばれた。武川出身で、宇文泰の幼馴染み。爾朱氏に仕え、韓婁討伐の際、漁陽王の袁肆周を一騎打ちで倒して捕らえた。530年、
荊州の新野鎮将・新野郡守とされ、間もなく荊州防城大都督・南郷守とされると、その両方において政績を挙げ、淅陽郡守の韋孝寛と共に『連璧』と並び称された。賀抜勝が南道大行台・荊州刺史とされると大都督とされた。間もなく孝武帝の信任を受け、帝が関中に逃れるとこれに付き従って入関し、宇文泰の配下となった。のち荊州攻略を任されたが、東魏の反撃に遭って梁への亡命を余儀なくされた。3年後の537年、西魏に帰還した。540年、隴右十一州大都督・秦州刺史とされ、以後長く西魏の西境を守った。557年、宇文護との政争に敗れ、自殺に追い込まれた。
 ⑷周16独孤信伝では、この出来事が起こったのは『正光(520〜525)の末』とある。また、周20閻慶伝には『衛可孤が叛乱し、盛楽(雲中)を攻囲した。』とあるから、総合すると、この事件は524年の冬から、正光が改められる525年6月までに起こったものと思われる。ちなみに魏本紀は525年4月に抜陵が懐朔鎮を陥としたと記述している。

┃抜陵の死



孝昌元年(525)6月、柔然の頭兵可汗破六韓抜陵を大破した。抜陵は度重なる柔然の猛攻を避けるため、南下して黄河を渡ったが、やがて殺された。
 この前後に二十万人が北魏に降り、広陽王淵六鎮討伐司令官)はその扱いについて上表して言った。
「恒州(平城)の北部に別に郡県を設置し、そこに降戸を住まわせて、適宜これに支援をしてやれば、叛心も鎮まるかと思います。」
 朝廷はこれに従わず、彼らを冀・定・瀛(河北平野部)の三州に居住させることにした。淵はこの処置を聞いて纂にこう言った。
「彼らは再び乞活(賊徒)となる。禍乱はここから起こるだろう。」

◯魏孝明紀
 六月癸未,大赦,改年。…蠕蠕主阿那瓌率眾大破拔陵,斬其將孔雀等。
○隋食貨志魏
 尋而六鎮擾亂,相率內徙,寓食於齊、晉之郊。
○魏18広陽王淵伝
 及李崇徵還,深專總戎政。拔陵避蠕蠕,南移渡河。先是,別將李叔仁以拔陵來逼,請求迎援,深赴之,前後降附二十萬人。深與行臺元纂表求恒州北別立郡縣,安置降戶,隨宜賑賚,息其亂心。不從,詔遣黃門郎楊昱分散之於冀、定、瀛三州就食。深謂纂曰:「此輩復為乞活矣,禍亂當由此作。」
◯稽古録
 普通…六…蠕蠕殺破六韓拔陵。

┃唐河の難



8月、北魏の柔玄鎮民の杜洛周吐斤洛周)が徒党を集めて上谷にて叛し、真王と改元して近隣の郡県を攻略した。これに高歓・蔡俊・尉景・段栄・彭楽らが皆従った。〕


孝昌二年(526)正月、五原降戸(五原にて投降した六鎮の人々)の鮮于修礼・毛普賢らが北鎮の流民を率いて定州(中山)の西北の左人城にて叛し、魯興と改元して、道々略奪を行ないながら州城へ進軍を開始した。

 これより前、宇文肱は一家や部衆を引き連れて中山に身を寄せていたが(北魏は525年に六鎮の乱を平定させると、降伏者たちを冀・定・瀛の三州に移住させていた。宇文一家の移住もこの一環か?)、このとき鮮于修礼の傘下に入り、そのまま部衆の統率を任された。しかし定州攻めの途中、唐河(滱水。中山近辺を流れるにて官軍に敗れ、第二子の宇文連と共に戦死した。
 肱はのち、武成元年(559)に徳皇帝と追尊された。
 連は幼い頃から謙虚・温厚だったが、いざ戦場に出ると勇猛果断さを発揮した。保定元年(561)に使持節・太傅・柱国大将軍・大司徒・大都督・定冀等十州諸軍事・定州刺史を追贈され、杞国公(邑五千戸)を追封され、簡と諡された。

 この時、宇文顥の妻閻氏とその子の宇文護宇文の妻の賀抜氏とその子の宇文元宝、第三叔の宇文洛生の妻の紇干氏とその子の宇文菩提の六人が共に捕らえられて定州城に連行された。間もなく、護は母の閻氏と共に元宝掌元麗)のもとに送られ、賀抜氏親子・紇干氏親子もそれぞれ違う者の所に送られた。
 宝掌は三日間唐城(定州の北六十里)に駐屯したのち、護たちを含めた男女六・七十人を洛陽に送った。護たちが定州城の南に到った時、同郷の姫庫根の家に泊まった。この時、宇文家の柔然の奴隷が鮮于修礼軍の篝火を遠くに見つけ、閻氏にこう言った。
今から本陣に伝えに行ってまいります!
 奴隷はその言葉通りに見事に修礼軍の本陣に辿り着き、護たちの所在を修礼軍に伝えた。すると、翌日の早朝、護の叔父(宇文洛生宇文泰)が兵を率いて奇襲をかけ、護たちを救出した。

 宇文洛生・宇文泰は引き続き修礼の傘下に残った。


 ○魏孝明紀
 二年春正月…是月,…五原降戶鮮于脩禮反於定州,號魯興元年。
○周文帝紀
 後避地中山,遂陷於鮮于修禮。修禮令肱還統其部眾。後為定州軍所破,歿於陣。武成初,追尊曰德皇帝。…少隨德皇帝在鮮于修禮軍。
○魏68甄楷伝
 肅宗末,定州刺史、廣陽王淵被徵還朝,時楷丁憂在鄉,淵臨發,召楷兼長史,委以州任。尋值鮮于脩禮、毛普賢等率北鎮流民反於州西北之左人城,屠村掠野,引向州城。
○周10杞簡公連伝
 杞簡公連,幼而謹厚,臨敵果毅。隨德皇帝逼定州,軍於唐河,遂俱歿。保定初,追贈使持節、太傅、柱國大將軍、大司徒、大都督、定冀等十州諸軍事、定州刺史;封杞國公,邑五千戶;諡曰簡。
○周11晋蕩公護伝
 鮮于修禮起日,吾之闔家(合家)大小,先在博陵郡住。相將欲向左人城,行至唐河之北,被定州官軍打敗。汝祖及〔第〕二叔,時俱戰亡。汝(《北史》無し)叔母賀拔及兒元寶,汝叔母紇干及兒菩提,并吾與汝六人,同被擒捉入定州城。未幾間,將吾及汝送與元寶掌。賀拔、紇干,各別分散。寶掌見汝云:「我識其祖翁,形狀相似。」時寶掌〔軍〕營在唐城內。經停三日,寶掌所掠得男夫、婦女,可六七十(千)人,悉送向京。吾時與汝同被送限。至定州城南,夜宿同鄉人姬庫根家。茹茹奴望見鮮于修禮營火,語吾云:「我今走向本軍。」既至營,遂告吾輩在此。明旦日出,汝叔將兵邀截,吾及汝等,還得向營。
○周20王盟伝
 拔陵破後,流寓中山。

 ⑴高歓…字(鮮卑名)は賀六渾。496~547。懐朔鎮の出身。頭が長く頬骨は高く、綺麗な歯をしていた。貧しい家に生まれたが、大豪族の娘の婁昭君の心を射止めて雄飛のきっかけを得た。杜洛周→葛栄→爾朱栄に仕えて親信都督→晋州刺史とされ、栄が死ぬと紇豆陵步蛮を大破して栄の後継の爾朱兆の信を得、もと六鎮兵の統率を任された。その後冀州にて叛乱を起こし、爾朱氏を滅ぼして北魏の実権を握った。534年、孝武帝が関中の宇文泰のもとに逃れると孝静帝を擁立して東魏を建て、その大丞相となり、西魏と長きに亘って激闘を繰り広げた。
 ⑵左人城…《読史方輿紀要》曰く、『定州の北六十里→唐県の西北四十里にある。』
 ⑶唐河…《水経注》曰く、『滱水は左人城の南を流れる。応劭曰く、「左人城は唐県の西北四十里にある。」唐県には雹水があり、またの名を唐水という。水は中山城の西北より出でる。』《読史方輿紀要》曰く、『滱水は定州の北八里を流れ、東に進んで唐県を通過する。これを唐河という。』『唐河は古の嘔夷水で、渾源州界の恒山谷中に水源がある。山西の霊丘県の東南→倒馬関→唐県境→東南→曲陽県→定州界を流れ、これを滱水という。《水経注》の記述は誤りであろう。』
 ⑷元麗…字は宝掌。景穆太子の孫。秦州の呂苟児・涇州の陳瞻が叛乱を起こすと、その討伐を命じられ、良く平定した。のち雍州刺史→冀州刺史→尚書左僕射とされた。良民を勝手に奴隷にしたり、道人を殺したりするなど、問題行動が目立った。

┃葛栄時代


 北魏の定州刺史の楊津が、賊帥の元洪業らに書を与えて説得し、爵位を与える代わりに鮮于修礼毛普賢を殺すよう求めた。

 8月、癸巳(27日)、洪業らがこれに応じ、修礼と普賢を斬り、北魏に投降を申し出た。すると今度は同じく修礼の将だった葛栄本姓は賀葛? 梁書では修礼と同じくもと懐朔鎮将とある)が洪業を殺し、修礼の跡を継いだ⑴⑵

 洛生と泰は栄に従って将軍とされ、洛生は宇文肱の部衆の統率を任された。


9月、辛亥(15日)、栄が北魏の討伐軍を白牛邏にて大破した。ここにおいて栄は自ら天子を称し、国号を『斉』と定め、年号を広安と改めた。〕


 宇文洛生は漁陽王とされ、人々はみな彼の事を洛生王と呼んだ。

 洛生は若くして任侠を好み、武芸を尊び気力に溢れ、大きな度量があって施しを楽しみ人士を愛した。北辺の俊才はみな彼と交遊し、そのもとで才覚を現した。

 洛生は将兵を統率するのが上手く、麾下の者たちの殆どが驍勇の士で占められていた。戦場で洛生の鋭鋒に敵う者無く、勝利して戦利品を得ること常に諸軍の最上位にあった。


武泰元年(528)2月葛栄杜洛周を滅ぼした。高歓らは栄に降った。〕

 

○魏孝明紀

 八月…癸巳,賊帥元洪業斬鮮于脩禮,請降,為賊黨葛榮所殺。

○周文帝紀

 及葛榮殺修禮,太祖時年十八,榮遂任以將帥。

○魏58楊津伝

 津與賊帥元洪業及與賊中督將尉靈根、程殺鬼、潘法顯等書,曉喻之,并授鐵券,許以爵位,令圖賊帥毛普賢。洪業等感悟,…朝廷初以鐵券二十枚委津分給,津隨賊中首領,間行送之,脩禮、普賢頗亦由此而死。

◯周10莒荘公洛生伝

 莒莊公洛生,少任俠,尚武藝,及壯,有大度,好施愛士。北州賢俊,皆與之遊,而才能多出其下。及葛榮破鮮于修禮,乃以洛生為漁陽王,仍領德皇帝餘眾。時人皆呼為洛生王。洛生善將士,帳下多驍勇。至於攻戰,莫有當其鋒者,是以克獲常冠諸軍。

○梁56侯景伝

 魏孝昌元年,有懷朔鎮兵鮮于脩禮,於定州作亂,攻沒郡縣;又有柔玄鎮兵吐斤洛周,率其黨與,復寇幽、冀,與脩禮相合,眾十餘萬。後脩禮見殺,部下潰散,懷朔鎮將葛榮因收集之,攻殺吐斤洛周,盡有其眾,謂之「葛賊」。


 ⑴魏18元淵伝では『修礼は常に葛栄なる者と大事を相談していたが、のち次第に朔州の人の毛普賢のほうを信任するようになったため、栄は不満を抱くようになった。普賢は昔淵の統軍だった経緯があり、両軍が交津に到ると、淵は密使を派遣して説得し、投降の確約を得た。更に録事参軍の元晏に命じて程殺鬼を説得させ、二心を抱かせた。葛栄はかくて普賢・修礼を殺して自立した。』とある。司馬光は考異にて、この内容が魏本紀と全く食い違うこと、また文章の乱雑で分かりにくいことを指摘している。常景伝とも食い違う内容がある。元融伝・宇文泰伝・宇文洛生伝では葛栄が修礼を殺したとある。
 ⑵この時、宇文泰は『年十八』だったと周文帝紀にある。これを信じると509年生まれとなる。


┃葛栄の滅亡と洛生の死


高歓らが秀容の爾朱栄のもとに逃亡した。〕
 宇文泰葛栄では天下は取れぬと見ると、兄たちと共に逃亡しようとした。


建義元年(528)9月、壬申(18日)爾朱栄が滏口にて葛栄を大破して捕らえ、葛栄軍はことごとく降伏した。
 


 爾朱栄葛栄の配下の豪傑たちを晋陽(爾朱栄の本拠)に連行した。宇文洛生・宇文泰も晋陽に連行された。

 栄は泰兄弟の雄才が傑出しているのを見て御しがたいと思い、まず他罪にかこつけて洛生を殺し、次いで泰を殺そうとした。しかし泰の弁明がとても堂々としていたので、感服して取りやめ、統軍に任じて手厚くもてなした。

 洛生は保定元年(561)に使持節・太保・柱国大将軍・大冢宰・大宗伯・大都督・并肆等十州諸軍事・并州刺史を追贈され、莒国公(邑五千戸)を追封され、荘と諡された。


○魏孝荘紀

 九月…壬申,柱國大將軍尒朱榮率騎七萬討葛榮於滏口,破擒之,餘眾悉降。冀、定、滄、瀛、殷五州平。

○周文帝紀

 太祖知其無成,與諸兄謀欲逃避,計未行,會爾朱榮擒葛榮,定河北。太祖隨例遷晉陽。榮以太祖兄弟雄傑,懼或異己,遂託以他罪,誅太祖第三兄洛生,復欲害太祖。太祖自理家冤,辭旨慷慨,榮感而免之,益加敬待。

◯周10莒荘公洛生伝

 爾朱榮定山東,收諸豪傑,遷於晉陽,洛生時在虜中。榮雅聞其名,心憚之。尋為榮所害。


 ⑴爾朱栄…字は天宝。493~530。色白の美男子。果断な性格で、将略を有していた。契(稽)胡族の酋長の家柄の出で、肆州秀容の地に隠然たる勢力を有した。六鎮の乱が起こると家畜を散じて兵を集め、并・肆州に割拠した。528年、胡太后が孝明帝を殺すと洛陽に攻め入って太后と文武百官を河陰にて虐殺し、次いで河北の大群雄の葛栄を一戦で滅ぼした。529年には洛陽を陥とした梁の陳慶之も一蹴し、関中も平定していよいよ皇帝となろうとしたが、530年、孝荘帝に殺された。


 
 周文帝紀⑵に続く