┃警戒
 これより前、後主蘭陵王長恭に邙山での大勝(564年)についてこう尋ねて言った。
「何故敵陣に深入りしたのか。成功したからいいものの、失敗したら大惨事になっていたのだぞ。」
 長恭は答えて言った。
「我が家(高氏、北斉)の事を想う余り、気づいたら突っ込んでいました。」
 帝は長恭が『国家の事を』と言わず『我が家の事を』と言ったのが気に食わず、以後警戒するようになった[1]⑵

 長恭はかつて司州牧や青瀛二州の刺史を歴任した時、大いに賄賂を受け取り、行参軍の陽士深にその事を報告されて瀛州刺史を解任されるに至った。
 現在になって、部下の尉相願が長恭にこう言った。
「国家の重臣たる殿下が、こんな低俗なことをしていいものでしょうか?」
 長恭が答えないでいると、相願はこう言った。
「邙山での華々しい武功によって生じた警戒の念を解くため、わざとこんな低俗なことをして小人物のように見せかけているのではありませんか?」
 すると長恭は言った。
「その通りだ。」
 相願は言った。
「陛下がもし殿下を猜忌していらっしゃるのなら、この行為は警戒を解くどころか、逆に殿下を処刑するいい口実になってしまいます。生を求める余り、却って死を早めてどうなさいます。」
 長恭が泣いてどうしたらいいか聞くと、相願はこう言った。
「殿下は既に大功を立てていらっしゃるのに、今また大戦果を挙げてしまいましたから、武功が過大なものになっていて、〔非常に危険な状態になっております。〕ゆえに、ここは病気と称して家に引きこもり、これ以上国に関わらないようにするのが良いでしょう。」
 長恭はこれに頷いたが、結局引退できなかった。
 長恭は将軍となったのち職務に精励し、どんな些細なことでも自分で指示し、美味しいものが手に入るとそれが少量であっても必ず将兵と分かち合った。
 定陽(汾州)攻めの際、軍中に陽士深がいた。士深が仕返しを恐れているのを聞くと、長恭はこう言った。
「端からそんなつもりは無いぞ。」
〔それでも士深が心配して落ち着かないでいるのを見ると、〕長恭は仕方なく士深の些細な過失を見つけて二十の杖打ちを加え、それで安心させた。
 ある時、朝廷に参内した時、従者が皆はぐれて一人きりになって家に帰ったことがあったが、罰することはなかった。
 また、武成帝北斉四代皇帝。後主の父)が功績の褒美として、賈護という者に命じて二十人の妾を買わせて長恭に与えたが、長恭は一人しか受け取らなかった。

 相願は故司徒・海昌王の尉摽尉遅摽)の子である。能吏で、度胸と知略に優れていた。

○北斉11蘭陵武王長恭伝
 歷司州牧、青瀛二州,頗受財貨。…芒山之捷,後主謂長恭曰:「入陣太深,失利悔無所及。」對曰:「家事親切,不覺遂然。」帝嫌其稱家事,遂忌之。及在定陽 ,其屬尉相願謂曰:「王既受朝寄,何得如此貪殘?」長恭未答。相願曰:「豈不由芒山大捷,恐以威武見忌,欲自穢乎?」長恭曰:「然。」相願曰:「朝廷若忌王,於此犯便當行罰,求福反以速禍。」長恭泣下,前膝請以安身術。相願曰:「王前既有勳,今復告捷,威聲太重,宜屬疾在家,勿預事。」長恭然其言,未能退。…為將躬勤細事,每得甘美,雖一瓜數果,必與將士共之。初在瀛州,行參軍陽士深表列其贓,免官。及討定陽,士深在軍,恐禍及。長恭聞之曰:「吾本無此意。」乃求小失,杖士深二十以安之。嘗入朝而僕從盡散,唯有一人,長恭獨還,無所譴罰。武成賞其功,命賈護為買妾二十人,唯受其一。
○北斉19尉相願伝
 尉摽,代人也。大寧初,〔位司徒,〕封海昌王。〔卒,〕子相貴嗣,…弟相願,強幹有膽略。

 ⑴後主…高緯。北斉の五代皇帝。在位565~。生年556、時に16歳。四代武成帝の長子。端正な顔立ちをしていて頭が良く、文学を愛好した。また、音楽が好きで、《無愁曲》という様式の曲を多数制作したため、『無愁天子』と呼ばれた。ただ、非常に惰弱な性格で、口下手で人見知りが強く、自分の姿を見られるのを酷く嫌った。565年、父から位を譲られて皇帝となった。571年(1)参照。
 [1]考異曰く、『邙山の戦いは河清三年(564)の事であり、その時後主はまだ九歲で、しかも即位もしていない。それなのにこのような問いをするだろうか。また、「家事」という言葉が警戒に足るものとも思えない。』
 ⑵この出来事が起こった時期を邙山の戦い直後に限らなくてもいいような気がするが…。ある時ふと聞いてみたという事だってあるだろう。この出来事が小説の類であったなら、深く考える必要は無い。
 ⑶尉相願…故司徒・海昌王の尉摽(尉遅摽)の子。能吏で、度胸と知略に優れていた。蘭陵王長恭が大いに賄賂を受け取った時、朝廷の警戒の念を解くため、わざとこんな低俗なことをして少人物のように見せかけているのだと見抜き、 そんな事をするよりも病気と称して家に引きこもった方がいいと助言した。のち開府儀同三司・領軍大将軍とされた。晋州にて後主が敗北するとこれに見切りをつけ、その腹心の高阿那肱を殺害して広寧王孝珩の擁立を図ったが、失敗に終わった。鄴城が陥落すると任城王湝のいる瀛州に逃亡し、腹心とされた。北周の斉公憲が迫ると、偵察すると言って兵を率いて出かけ、そのまま降伏した。湝は激怒して相願の妻子を殺害した。577年(2)参照。

┃和士開・段韶の死
571年(武平二年)4月後主の弟の琅邪王儼が鄴にて挙兵し、録尚書事・淮陽王の和士開を殺害した。
 9月、己未(14日)、北斉の左丞相・平原王の段韶が逝去した。
 庚午(25日)劉桃枝に儼を殺害させた。〕

 ⑴琅邪王儼…字は仁威。生年558、時に14歳。後主の同母弟。母は胡太后。564年に東平王とされた。567年、司徒とされた。上皇と胡太后に可愛がられ、京畿大都督・領軍大将軍・御史中丞も兼任した。勝ち気な性格をしていて、喉の持病(ぜんそく?)を治すために鍼(はり)治療をしてもらった時、痛みを我慢し、目を見開いて一度も瞬きをしなかった。上皇と胡太后は後主を廃して儼を立てようと考えたが、結局実行しなかった。568年に大将軍とされ、569年に琅邪王・大司馬とされた。571年、太保とされた。571年(1)参照。
 ⑵和士開…字は彦通。生年524、時に48歳。本姓は素和氏。幼い頃から聡明で、理解が非常に早く、国子学生に選ばれると学生たちから尊敬を受けた。握槊(双六の一種)・おべっか・琵琶が上手く、武成帝(上皇)に非常に気に入られて世神(下界の神)と絶賛された。568年、尚書右僕射→左僕射とされた。上皇が死ぬ際看病をし、後事を託された。後主が即位すると趙郡王叡ら政敵を排除して朝廷の実権を握った。570年、尚書令とされた。571年(1)参照。
 ⑶段韶…字は孝先。婁太后(後主の祖母)の姉の子。知勇兼備の将だが、好色な所があった。邙山の戦いで高歓を危機から救った。また、東方光の乱を平定し、梁の救援軍も撃破した。560年、孝昭帝の権力奪取に貢献し、武成帝が即位すると大司馬とされた。562年、平秦王帰彦の乱を平定した。のち、563年の晋陽の戦い・564年の洛陽の戦いにて北周軍の撃退に成功し、その功により太宰とされた。567年、左丞相とされた。今年、病の床に就きながらも北周の汾州を陥とした。571年(1)参照。
 ⑷劉桃枝…高歓の時からいる高家の家奴。声相見から、『非常に富貴な身分となるが、多くの王侯将相を殺すだろう』と予言された。のち、その予言通りに永安王浚・上党王渙・尚書右僕射の高徳政・平秦王帰彦・趙郡王叡・胡長仁の殺害に関わった。571年(2)参照。

┃祖珽の台頭と斛律光の死
10月、己亥(25日)胡太后を北宮に幽閉した。
 11月、北斉の秘書監の祖珽が女侍中の陸令萱を説得し、琅邪王儼に肩入れしていたという罪で侍中・司空・宜陽王の趙彦深を西兗州(済陰)刺史に左遷した。
 572年(武平三年)2月、庚寅(18日)、北斉が侍中の祖珽を左僕射とした。
 珽は陸令萱を太后にしようとし、令萱も珽を尊重して『国師』と呼んだり『国宝』と呼んだりした。
 3月、北周の武帝晋公護を誅殺し、親政を開始した。
 7月、戊辰(28日)後主祖珽と侍中の穆提婆の勧めに応じ、劉桃枝に左丞相・咸陽王の斛律光を殺害させた。〕

 8月蘭陵王長恭を大司馬とした(時に32歳

○北斉後主紀
 八月…蘭陵王長恭為大司馬。
○蘭陵忠武王碑
 三年,除□□□□□大司馬。

 ⑴胡太后…もと上后。魏の中書令・兗州刺史の胡延之の娘。母は范陽の盧道約の娘。550年に後主の父の武成帝(上皇)に嫁いだ。淫乱で、和士開などと関係を持った。571年(2)参照。
 ⑵祖珽…字は孝徴。名文家。頭の回転が早く、記憶力に優れ、音楽・語学・占術・医術などを得意とした。人格に問題があり、たびたび罪を犯して免官に遭ったが、そのつど溢れる才能によって復帰を果たした。546年、玉璧を死守する韋孝寛を説得する使者とされた。549年、瀕死となった友人の陳元康に遺書の代筆を依頼された。文宣帝時代には詔勅の作成に携わった。文宣帝が死ぬと長広王(上皇)に取り入り、王が即位すると重用を受けた。565年、太子(後主)の地位や生命の保全のために太子に帝位を譲るよう勧めた。太子が即位して後主となると秘書監とされた。566年、河間王孝琬を讒言して死に至らしめた。のち和士開を讒言したが失敗して光州に流され、長い牢屋生活の内に盲目となった。569年、士開に赦されて政界に復帰し、秘書監とされた。571年(2)参照。
 ⑶陸令萱…母は元氏。駱超の妻で、駱提婆の母。夫が謀叛の罪で誅殺されると後宮の下女とされた。頭の回転が早く、あらゆる手を使って胡太后に取り入り、後主が産まれるとその養育を任された。やがて後主の信頼を勝ち取り、後宮内で非常な権勢を誇るようになった。後主が弘徳夫人を寵愛するようになるとこれに近付き、自分の養女とした。今年、琅邪王儼がクーデターを起こした時、標的の一人に挙げられた。571年(2)参照。
 ⑷趙彦深…本名隠。生年507、時に65歳。能吏で後主八貴の一人。高歓の時、陳元康と共に機密に携わり、『陳・趙』と並び称された。高歓死後も高澄・文宣帝に重用を受け、依然として機密に携わった。555年、東南道行台とされて梁の秦郡などを攻略した。楊愔が誅殺されると(560年)代わりに宰相とされた。565年、尚書左僕射とされた。567年、尚書令とされた。のち并省録尚書事とされ、今年、司空とされた。571年(2)参照。
 ⑸武帝…宇文邕。北周の三代皇帝。在位560~。生年543、時に30歳。宇文泰の第四子。聡明・沈着で将来を見通す識見を持ち、泰に「我が志を達成してくれる者」と評された。文学を愛好した。560年、帝位に即いた。571年(3)参照。
 ⑹晋公護…宇文護。字は薩保。宇文泰の兄の子。生年513、時に60歳。至孝の人。宇文泰に「器量が自分に似ている」と評された。泰が危篤となると幼い息子(孝閔王)の後見を託されたが、宰相となると瞬く間に権力を手中にし、孝閔王と明帝を毒殺して武帝を立てた。571年(1)参照。
 ⑺穆提婆…もと駱提婆。父は駱超、母は陸令萱。父が謀反の罪で誅殺されると官奴とされたが、母が胡太后に取り入って出世すると幼い後主の遊び相手とされ、非常に気に入られた。のち、義妹の弘徳夫人が穆姓を与えられると、自分も姓を穆に改めた。寵用をいいことに身分不相応の贅沢をして琅邪王儼に睨まれ、そのクーデターの際に目標の一人とされた。571年(1)参照。
 ⑻斛律光…字は明月。生年515、時に58歳。北斉の名将。左丞相の斛律金の子。馬面で、彪のような体つきをしていた。生まれつき非凡で知勇に才を示し、寡黙で滅多に笑わなかった。騎射に巧みで、ある時一羽の大鷲(鵰)を射落としたことから『落鵰都督』と呼ばれるようになった。560年、孝昭帝のクーデターに協力した。563年、突厥・北周連合軍が晋陽に攻めてくると、晋州の守備を任された。564年、司徒とされ、突厥を討った。北周が洛陽に攻めてくると五万騎を率いて救援に赴き、これを大破し、王雄を自らの手で射殺した。その功により大尉とされた。565年に大将軍、567年に太保・咸陽王、569年に太傅、570年に右丞相とされた。宜陽が包囲されると救援に赴いた。570~571年、北周領の汾北に侵攻した。琅邪王儼が乱を起こすとその鎮圧に貢献した。571年、左丞相とされた。571年(3)参照。

┃祖珽の失脚と三貴
この月、北周と陳が手を結び、協力して北斉を討つことを約束した。
 祖珽が宦官など皇帝に群がる俗物たちを排除しようとしたが、陸令萱・穆提婆母子の抵抗に遭って失脚した。
 573年(武平四年)、閏正月(北斉暦では正月)、北斉が高阿那肱を録尚書事とした。後主が阿那肱の識見・度量を高く評価し、和士開の後継に足ると考えたからであった。
 阿那肱は中央以外の軍事と宮中の重要機密を司り、侍中・城陽王の穆提婆と領軍大将軍・昌黎王の韓長鸞と共に中枢の要職に就き、『三貴』と号された。彼らは日増しに増長し、国を乱し民を傷つけた。〕

 ⑴高阿那肱…もとの姓は是樓?で、晋州刺史・常山郡公の高市貴の子。騎射と追従を得意とした。550年に庫直都督とされ、契丹・柔然討伐では迅速な行軍ぶりを示した。柔然討伐では寡兵を以て柔然の退路を遮断し、見事大破した。武成帝(上皇)と和士開に大いに気に入られ、565年に開府・侍中・驃騎大将軍・領軍・并省右僕射とされ、『八貴』の一人となった。大体後主の侍衛を任されたので、その関係で後主にも大いに気に入られた。570年、并省尚書左僕射・淮陰王とされた。のち并省尚書令・領軍大将軍・并州刺史とされた。570年(2)参照。
 ⑵韓長鸞…本名は鳳。長鸞は字。步大汗氏の出で、祖父は東魏の洛州刺史の韓賢、父は北斉の開府・青州刺史・高密郡公の韓永興。若年の頃から頭脳明晰で、膂力にも優れて騎射を得意とした。次第に昇進して烏賀真・大賢真正都督とされた。後主の太子時代(562~565年)に侍衛の任に充てられると、一目で気に入られてしばしば遊び相手となった。後主が即位すると高密郡公の爵位を継ぎ、開府儀同三司とされた。琅邪王儼の乱後、侍中・領軍とされた。571年(2)参照。

┃陳の北伐
3月、壬午(16日)、陳が呉明徹を北討大都督とし、北斉を討伐させた。〕
 戊申(13日)、北斉が大司馬の蘭陵王長恭を太保とした(時に33歳)。


○北斉後主紀
 夏四月戊午,以大司馬、蘭陵王長恭為太保。

 ⑴呉明徹…字は通炤。生年512、時に62歳。周弘正に天文・孤虚・遁甲の奥義を学んだ。非常な孝行者。陳覇先の熱い求めに応じてその配下となり、幕府山南の勝利に大きく貢献した。のち、沌口の決戦に敗北し、王琳の部将の曹慶との戦いにも敗北を喫した。王琳が東伐に向かうと湓城の留守を狙ったが、迎撃に遭って敗走した。560年、武州刺史とされたが、北周軍がやってくると城を捨てて逃走した。561年に南荊州刺史、562年に江州刺史とされて周迪の討伐を命じられたが、軍を良くまとめられず更迭された。564年に呉興太守、565年に中領軍とされた。廃帝が即位すると領軍将軍、次いで丹陽尹とされ、安成王頊がクーデターを図るとこれに賛同した。567年、湘州刺史とされ、華皎討伐に赴いてこれを平定した。のち後梁領の河東を陥とし、次いで江陵を攻めたが撃退された。去年、都に呼び戻されて侍中・鎮前将軍とされた。572年(1)参照。

┃賜死
 北斉の太保の蘭陵王長恭は、洛陽と汾州で大功を立てて以来、常に誅殺の恐怖に怯え、一線から退こうと考えていた。現在、陳との戦いが始まると、長恭は再び将軍に起用されるのを恐れ、嘆息してこう言った。
「去年は面腫(帯状疱疹?)になったのに、なんで今に限ってならないのか!」(病気になれば将軍に起用されないと思ってこう言ったのである
 以後、病気になっても治さず、そのままにするようになった。
 5月後主徐之範を派し、長恭に毒薬を飲むよう命じた。長恭は妃の鄭氏にこう言った。
「私は陛下に忠義を尽くしてきた。何の罪があって毒を飲まねばならないのか!」
 妃は言った。
「どうして陛下に会って弁明なさらないのですか。」
 長恭は言った。
「どうして陛下にお会いできようか。」
 かくて毒薬を飲んで亡くなった。仮黄鉞・使持節・并青瀛□定等五州諸軍事・録尚書事・太師・太尉公・并州刺史を追贈され、忠武と諡された。
 長恭は千金の額の債券(借用証文)を所有していたが、死んだ日にそれらを全て焼き払い、〔借金を帳消しにしてやった〕。

 長恭が死んだのち、妃の鄭氏は頸珠(ネックレス)を寺に布施しようとした。〔長恭の兄の〕広寧王孝珩がこれを買おうとすると、〔長恭の弟の〕安徳王延宗は自ら手紙を書いて諫めた。その手紙は涙で濡れそぼっていた。

○北斉後主紀
 是月,殺太保、蘭陵王長恭。
○北斉11蘭陵武王長恭伝
 及江淮寇擾,恐復為將,歎曰:「我去年面腫,今何不發。」自是有疾不療。武平四年五月,帝使徐之範飲以毒藥。長恭謂妃鄭氏曰:「我忠以事上,何辜於天,而遭鴆也。」妃曰:「何不求見天顏。」長恭曰:「天顏何由可見。」遂飲藥薨。贈太尉。…有千金責券,臨死日,盡燔之。
○北斉11安徳王延宗伝
 及蘭陵死,妃鄭氏以頸珠施佛。廣寧王使贖之。延宗手書以諫,而淚滿紙。
○斉故仮黄鉞太師太尉公蘭陵忠武王碑
 四年,…賜假黃鉞,持使節并青瀛□定等五州諸軍事、録尚書事、太師、太尉公、并州刺史…。

 ⑴徐之範…名医。太子太師の徐之才の弟。太常卿にまで昇り、之才が死ぬと特別にその爵位の西陽王を継ぐことを許された。
 ⑵広寧王孝珩(コウ)…高澄(高歓の長子)の第二子。後主の従兄。母は王氏。読書家で文章を書くことを趣味とし、絵画の才能は超一流だった。568年に尚書令→録尚書事とされた。570年に司空→司徒とされた。のち、徐州行台とされた。571年、録尚書事→司徒とされた。572年、大将軍とされた。572年(4)参照。
 ⑶安徳王延宗…生年544、時に30歳。高澄(高歓の長子)の第五子。後主の従兄。母はもと東魏の広陽王〔湛?〕の芸妓の陳氏。幼少の頃から文宣帝に養育され、「この世で可憐と言える者は、この子だけだ」と言われるほど可愛がられた。帝に何王になりたいか問われると「衝天王になりたい」と答えたが、衝天という郡名は無いという理由で結局安徳王とされた。定州刺史となると部下や囚人に狼藉を働き、孝昭帝や武成帝(上皇)に鞭打たれた。側近の者九人が罰として殺されると、以後、行ないを慎むようになったが、兄の孝琬が上皇に誅殺されると憤激し、上皇に擬した藁人形を作ってこれに矢を射、上皇の怒りを買って半殺しにされた。572年、司徒とされた。今年、太尉とされた。573年(1)参照。

┃文化の香り
 北斉の諸王たちは補佐官の大半に豪商や鷹犬(武将? 使用人?)の子弟を用いたが、襄城王淯広寧王孝珩・蘭陵王長恭だけは文才や識見のある者を任用したので称賛を受けた。

 顔氏家訓…投壺の遊戯は近世になっていよいよ盛んに行なわれるようになった。昔は壺の中に小豆を入れ、矢が壺の中から飛び出さないようにしていたが、今は跳ね返って戻ってくる()回数が多ければ多いほど良いとされ、倚竿(斜めに入れる)・帯剣(壺の耳に入れる)・狼壺(壺の口に回らせて入れる)・豹尾(向こう側に傾かせて入れる)・龍首(投げた側に傾かせて入れる)という役も考案された。最上の役名を蓮花驍と言った。



 汝南の人で周弘正の子の周璝と会稽の人で賀革の子の賀徽は共に一矢で四十余驍(投げて・跳ね返って・それを掴んで・また投げるを四十回)の記録を叩き出した。賀徽はあるとき小さいついたての向こうに壺を置いて矢を投げたが、一度も外れる事が無かった。
 顔之推は鄴にやってきて以降、広寧王孝珩・蘭陵王長恭の邸宅に投壺の道具があるのを見たが、結局北斉では一驍さえ出来る者を見なかった。弾棋(駒を盤上で弾いて技能を争うもの?)も近世になってから広まった遊戯である。こういう遊戯をして憂さを晴らすのもいいだろう。

 蘭陵王は創造力が豊かで、『舞胡子』(酒胡子?)という人形(或いは雅楽?)を作った。胡子は〔尻のとがったコマの形をしており、舞うようにくるくると回り、〕王が酒を勧めようと思っている者〔の方を向いて〕盞(酒盃)を捧げ持つ形で倒れた。人々はその仕組みが分からなかった。

○北斉10襄城景王淯伝
 齊氏諸王選國臣府佐,多取富商羣小、鷹犬少年,唯襄城、廣寧、蘭陵王等頗引文藝清識之士,當時以此稱之。
○顔氏家訓雑芸
 投壺之禮,近世愈精。古者,實以小豆,為其矢之躍也。今則唯欲其驍,益多益喜,乃有倚竿、帶劍、狼壺、豹尾、龍首之名。其尤妙者,有蓮花驍。汝南周璝,弘正之子,會稽賀徽,賀革之子,並能一箭四十餘驍。賀又嘗為小障,置壺其外,隔障投之,無所失也。至鄴以來,亦見廣寧、蘭陵諸王,有此校具,舉國遂無投得一驍者。彈棋亦近世雅戲,消愁釋憒,時可為之。
○太平広記伎巧一
 北齊蘭陵王有巧思,為舞胡子。王意欲所勸,胡子則捧盞以揖之。人莫知其所由也。出《朝野僉載》

 ⑴襄城王淯...字は修延。536~551。高歓の第八子。高澄・文宣帝の同母弟。容貌が非常に美しく、才能に優れ、若い頃から令名を馳せた。551年(1)参照。
 ⑵顔之推…字は介。名門琅邪顔氏の出身で名文家。生年531、時に47歳。祖父の代に没落し、父が亡くなると更に苦境に立った。早くに梁の湘東王繹(元帝)に仕え、文才を以て名を知られた。侯景の乱が起こると郢州において捕らえられたが、間もなく建康にて救出された。元帝が即位すると中書舎人とされたが、554年、西魏の江陵攻略に遭遇し、関中に拉致された。間もなく北斉に亡命し、文宣帝に重用された。のち後主や祖珽の重用を受け、文林館の設立に関わり、知館事・判署文書とされた。文林党粛清の際には上手く災禍を逃れた。575年、多くの新税を提案して聞き入れられた。577年、北周軍が鄴に迫ると平原太守とされ、黄河の渡し場の守備を任された。577年(1)参照。