┃河間王孝琬の死
565年(河清四年→天統元年)武成帝太子緯に位を譲って太上皇帝となった。緯は即ち北斉の後主である。〕

 北斉の〔尚書令の〕河間王孝琬は、高澄の嫡子という出自に誇りを持っていたため、しばしば不遜な態度を取った。孝琬は庶兄の河南王孝瑜和士開ら権臣たちの讒言によって殺されたことを怨み、草の束で作った人形を射て鬱憤を晴らした。士開と祖珽はこれを上皇に讒言して言った。
「草人形は陛下に擬して作ったものです。また、むかし突厥が并州に侵攻してきた時(563年)、孝琬は兜を脱いで地に投げつけ、『婆さんがなんで兜を着ける必要があるのか!』と言いましたが、これは暗に陛下を謗ったものです。」
 また、これより前、魏(北魏か東魏)の時代にこのような歌が流行った。
『河南種穀河北生、白楊樹頭金鶏鳴。』
 珽はこれをこのように解釈して上皇に言った。
「河南と河北の間は『河間』であります。『金鶏鳴』というのは、孝琬が今まさに〔帝位に即いて〕金鶏を掲げ、天下に大赦を行なおうとしていることを指しているのです。」
 上皇はこれを聞くと、孝琬に疑いを抱くようになった。
 この時、孝琬はブッダの歯を手に入れた。それを邸内に置いた所、夜中に神々しい光を発した。昭玄都(僧官名)の法順が上皇に報告してはどうかと勧めたが、孝琬は拒否した。上皇が〔法順から?〕これを聞いて邸内を捜索させると、倉庫から矟(長矛)と旗数百が発見された。上皇はこれを聞くと、孝琬が叛乱を企んでいると考えた。そこで孝琬の妃たちに尋問すると、寵愛を受けていなかった陳氏という者が嘘をついてこう言った。
「孝琬は陛下の絵を書き、その絵の前で〔怨みの余り〕泣いていました。」
 しかし、実際の所は、書いていた絵は父の高澄の絵で、孝琬はただ父を慕って泣いていただけだった。
 しかし、上皇は陳氏の言葉を信じて激怒し、遂に武衛将軍の赫連輔玄に命じ、倒鞭[1]で孝琬を打ちのめさせた。その最中に孝琬が上皇のことを阿叔(叔父さん)と呼ぶと、上皇は怒ってこう言った。
「誰が叔父だ!? よくも皇帝たる俺のことを叔父と呼んだな!」(皇帝のことを陛下と呼ばず、叔父と呼ぶのは不敬
 孝琬は言った。
神武皇帝高歓。上皇の父)の嫡孫であり、文襄皇帝高澄)の嫡子であり、魏の孝静皇帝東魏の最初にして最後の皇帝)の外甥であるこの私が、なんでお前のことを叔父と呼んではいけないのか!」
 上皇はこれを聞くと激高し、遂にその両足を打ち砕いて殺した(享年26)。遺体は西山に埋めた。

〔孝琬の弟の〕安徳王延宗は兄が殺されたことを知ると号泣し、自分も草の束で草人形を作って上皇に見立て、これを鞭打ってこう言った。
「なんで兄貴を殺したのだ!」
 奴隷がこれを密告すると、上皇は延宗をうつ伏せにさせ、馬鞭で二百も打ち据えて半殺しにした。

 乙酉(9日)、兼尚書左僕射の武興王普(11)を〔孝琬の代わりに?〕尚書令とした。

○北斉後主紀
 五月乙酉,以兼尚書左僕射、武興王普為尚書令。...是歲,殺河間王孝琬。突厥、靺鞨國並遣使朝貢。
○北斉11河間王孝琬伝
 孝琬以文襄世嫡,驕矜自負。...又怨執政,為草人而射之。和士開與祖珽譖之,云:「草人擬聖躬也。又前突厥至州,孝琬脫兜鍪抵地,云『豈是老嫗,須著此』。此言屬大家也。」初,魏世謠言:「河南種穀河北生,白楊樹頭金雞鳴。」珽以說曰:「河南、河北,河間也。金雞鳴,孝琬將建金雞而大赦。」帝頗惑之。
 時孝琬得佛牙,置於第內,夜有神光。昭玄都法順請以奏聞,不從。帝聞,使搜之,得鎮庫矟幡數百。帝聞之,以為反。訊其諸姬,有陳氏者無寵,誣對曰「孝琬畫作陛下形哭之」,然實是文襄像,孝琬時時對之泣。帝怒,使武衞赫連輔玄倒鞭撾之。孝琬呼阿叔,帝怒曰:「誰是爾叔?敢喚我作叔!」孝琬曰:「神武皇帝嫡孫,文襄皇帝嫡子,魏孝靜皇帝外甥,何為不得喚作叔也?」帝愈怒,折其兩脛而死。瘞諸西山。
○北斉11・北52安徳王延宗伝
 河間死,延宗哭之淚亦甚(北史:延宗哭之淚赤)。又為草人以像武成,鞭而訊之曰:「何故殺我兄!」奴告之,武成覆臥延宗於地,馬鞭撾之二百,幾死。

 ⑴武成帝…高湛。北斉の四代皇帝。生年537、時に29歳。在位561~。高歓の第九子。容姿が立派で、歓にもっとも可愛がられた。孝昭帝(高演)のクーデター成功に大きく貢献し、右丞相とされた。561年、帝が死ぬとその跡を継いだ。即位すると次第に享楽に溺れ、政治を疎かにするようになった。565年(1)参照。
 ⑵太子緯…高緯。字は仁綱。武成帝の長子。生年556、時に10歳。端正な顔立ちをしていて、帝に最も可愛がられた。565年(1)参照。
 ⑶河間王孝琬...武成帝の兄の高澄の第三子、嫡子。母は東魏の孝静帝の妹。生年541、時に26歳。中書監や尚書左僕射を歴任した。北周軍が晋陽に迫った際、逃走しようとした武成帝(上皇)を引き止めた。565年、尚書令とされた。565年(2)参照。
 ⑷高澄...字は子恵。521~549。高歓の長子。女好きの美男子。高歓が死ぬと跡を継いで東魏の実権を握った。厳格に法を執行したことが勲貴の心証を害し、侯景の離反を招いた。のち、奴隷の手によって殺害された。549年(6)参照。
 ⑸河南王孝瑜...字は正徳。生年537~563。高澄の長子。母は宋氏。堂々とした容姿と芯の通った精神を備え、控えめで優しく、文学を愛好した。十行を同時に読める速読の才能と抜群の記憶力を有した。上皇(武成帝)の幼馴染で親友。上皇から非常な信頼を受け、鄴の留守を任された。趙郡王叡と和士開に憎まれ、讒言されて殺された。563年(3)参照。
 ⑹和士開...字は彦通。生年524、時に43歳。本姓は素和氏。幼い頃から聡明で、理解が非常に早く、国子学生に選ばれると学生たちから尊敬を受けた。握槊(双六の一種)・おべっか・琵琶が上手く、武成帝に非常に気に入られて世神(下界の神)と絶賛された。565年(1)参照。
 ⑺祖珽...字は孝徴。名文家。頭の回転が早く、記憶力に優れ、音楽・語学・占術・医術などを得意とした。人格に問題があり、たびたび罪を犯して免官に遭ったが、そのつど溢れる才能によって復帰を果たした。546年、玉璧を死守する韋孝寛を説得する使者とされた。549年、瀕死となった友人の陳元康に遺書の代筆を依頼された。文宣帝時代には詔勅の作成に携わった。文宣帝が死ぬと長広王(上皇)に取り入り、王が即位すると重用を受けた。565年(1)参照。
 ⑻突厥が并州に侵攻してきた時、上皇(当時武成帝)は恐怖のあまり鎧兜に身を固めて完全防備をし、東方に逃走しようとした。孝琬はそんな惰弱ぶりを見て、上皇を『婆さん』になぞらえたのである。
 ⑼河清律曰く、『大赦を下した時は、武庫令に命じて金鶏と太鼓を閶闔門(宮殿の南門)外の右側に置き、囚徒を門前に集め、千回鼓を叩いたのち、枷や鎖を解いて釈放する。』
 [1]倒鞭...柔らかい鞭の先端を持って、硬い持ち手で打つのである。
 ⑽安徳王延宗...生年544、時に23歳。武成帝の兄の高澄の第五子。母はもと東魏の広陽王〔湛?〕の芸妓の陳氏。幼少の頃から文宣帝に養育され、「この世で可憐と言える者は、この子だけだ」と言われるほど可愛がられた。帝に何王になりたいか問われると「衝天王になりたい」と答えたが、衝天という郡名は無いという理由で結局安徳王とされた。定州刺史となると部下や囚人に狼藉を働き、孝昭帝や武成帝に鞭打たれた。側近の者九人が罰として殺されると、以後、行ないを慎むようになった。564年(6)参照。
 (11)武興王普...字は徳広。平秦王帰彦の兄の高帰義の子。温和で心が広かった。九歲の時に帰彦と共に河州より入洛し、武成帝(上皇)兄弟と生活を共にした。天保の初年(550)に武興郡王に封ぜられた。564年の3月に〔兼?〕尚書左僕射とされ、北周が洛陽に攻めてくると迎撃のため河陽まで赴いた。564年(5)参照。

┃叙任
〔洛陽の戦い(564年)ののち、〕蘭陵王長恭は司州()牧とされた。
 567年(天統三年)、北斉が長恭を使持節・都督青州諸軍事・青州刺史とした(時に27歳)。

568年(四年)8月、北周が北斉に使者を派遣し、国交を通じた。
 12月上皇が崩御した。〕
 569(五年)年、北斉が長恭を瀛州(幽州の南)刺史とした(時に29歳)。長恭は〔自分を小人物に見せかけるため〕州にて大いに賄賂を受け取り、行参軍の陽士深に報告されて免官とされた。
8月、北斉が北周の孔城(洛陽の南)を攻め、再び戦争状態に入った。〕
 12月、庚午(15日)、開府儀同三司の長恭を尚書令とした。


この月、北周の〔柱国・大司馬の〕斉公憲らが北斉の宜陽(洛陽の西南)を包囲し、糧道を断った(今年の9月に出発していた)。〕

 570年(武平元年)秋、7月、甲寅(3日)、尚書令の長恭を録尚書事とし(時に30歳)、和士開を尚書令とした。

○北斉後主紀
 十二月庚午,以開府儀同三司、蘭陵王長恭為尚書令。
 武平元年…秋七月…甲寅,以尚書令、蘭陵王長恭為錄尚書事,中領軍和士開為尚書令。
○蘭陵武王長恭伝
 為蘭陵王入陣曲是也。歷司州牧、青瀛二州,頗受財貨。…初在瀛州,行參軍陽士深表列其贓,免官。
○蘭陵忠武王碑
 三年,使持節都督青州諸軍事、青州刺史…五年,還□□瀛洲□□□于□,除尚書令。武平元年,轉録尚書事。

 ⑴斉公憲…字は毗賀突。宇文泰の第五子。生年544、時に26歳。母は達步干妃。聡明で器が大きく、幼い頃から気高い精神を備えていた。宇文泰が子どもたちに好きな良馬を選ばせて与えた時、ひとり駁馬を選び、泰に「この子は頭がいい。きっと大成するぞ」と評された。559年、益州刺史とされると、真摯に政務に取り組んで人心を掴んだ。562年、都に呼び戻された。564年、雍州牧とされた。洛陽攻めに参加し、包囲が破られたのちも踏みとどまって戦いを続けたが、達奚武に説得されるとやむなく撤退した。晋公護から信任を受け、賞罰の決定に常に関わることを許された。568年、大司馬・治小冢宰とされた。今年の9月、宜陽の攻略に赴いた。569年(2)参照。

┃斛律光、汾北を侵す

 これより前、北周と北斉は宜陽を巡って争っていた(北周が569年9月に出陣命令、12月に包囲)が、なかなか決着がつかずにいた。勲州(玉壁)刺史の宇文孝寛韋孝寛は部将たちにこう言った。
「宜陽の地に重要性は無いのに、両国はこれを巡って何年も争っている。だが、彼の国には智者が多いのだから、このまま宜陽に固執することは無いだろう。もし彼の国が崤山(弘農の南にある山)の地(宜陽)を放棄して汾水の北の地に攻撃をかけてきたら、我が国はきっと領土を失ってしまうことになる。それを防ぐには、先手を打って華谷と長秋に城を築き、敵の意図を挫くしかない。敵に先んぜられると、七面倒なことになるぞ。」
 かくて絵図を書いて朝廷に華谷と長秋に城を築くことの重要性を説いた。しかし、〔北周の〔太師・大冢宰の〕晋公護は長史の宇文協叱羅協に命じて、孝寛の使者にこう言わせた。
「韋公の子孫は多いが、百を超えるほどではない。汾北に城を築いても、守らせる者がいないではないか!」
 かくて築城は行なわれずじまいとなった。

 この年の冬、果たして北斉の〔右丞相・咸陽王の〕斛律光が五万の兵を率いて晋州より出撃し、玉壁方面に進んで汾北の華谷に城を築き、更に西に進んで龍門にも城を築いた。

 この時、光は孝寛にこう言った。
「宜陽は取るに足りぬ城であるのに、長らくこれを巡って争うことになってしまった。〔これでは無駄に消耗するだけである。そこで〕今、我が国は宜陽を貴国に譲る代わりに、汾北の地をいただくことにした。そういうわけであるから、どうか非難したりせぬよう。」
 孝寛は答えて言った。
「宜陽は貴国の要衝の地であるが、汾北は我が国が放棄していた無価値の場所である。さような所を取っても宜陽の補償にはならぬ。それに、貴君は名声も地位も高く、幼主を輔導する立場にあるのだから、当然、国家や人民の生活の安定を優先して内治に努めるべきである。それなのに、今あべこべに戦争を起こして災いを引き寄せようとしているのは何故か! それに、近ごろ貴国の滄州・瀛州では洪水が起こり、千里の地が無人の野となったというではないか。それなのに、今、更に汾州・晋州一帯を戦禍に巻き込み、死者で溢れかえらせようとするのは何故か! ありふれたつまらぬ土地(汾北)を得るために、疲れ切った貴国の人々を更に塗炭の苦しみに追いやるのは、貴君にとって良くないことのように思う。」

 光が侵攻してきたのを知ると、晋公護斉公憲にこう尋ねて言った。
「連年辺境にて賊が跋扈し、民草が苦しんでいる。彼らが死滅していくのを黙って見ていることなどできぬ。何か良い手立てはないか?」
 憲は答えて言った。
「私の考えでは、〔従〕兄()が暫く同州に出陣して後方から威嚇し、その間に私が精鋭を率いて先鋒となって、機を見て賊を攻撃するのが良いと思います。この戦法はただ辺境を安寧にするだけでなく、別に大戦果を得る戦法でもあります。」
 護はこれを聞き入れた。

○資治通鑑
 周、齊爭宜陽,久而不決。勳州刺史韋孝寬謂其下曰:「宜陽一城之地,不足損益,兩國爭之,勞師爾年。彼豈無智謀之士,若棄崤東,來圖汾北,我必失地。今宜速於華谷及長秋築城以杜其意。脫其先我,圖之實難。」乃畫地形,具陳其狀。晉公護謂使者曰:「韋公子孫雖多,數不滿百,汾北築城,遣誰守之!」事遂不行。齊斛律光果出晉州道,於汾北築華谷、龍門二城。光至汾東,與孝寬相見,光曰:「宜陽小城,久勞爭戰。今已舍彼,欲於汾北取償,幸勿怪也。」孝寬曰:「宜陽,彼之要衝,汾北,我之所棄。我棄彼取,其償安在!君輔翼幼主,位望隆重,不撫循百姓而極武窮兵,茍貪尋常之地,塗炭疲弊之民,竊為君不取也!」光進圍定陽,築南汾城以逼之。
○周武帝紀
 是冬,齊將斛律明月寇邊,於汾北築城,自華谷至於龍門。
○北斉後主紀
 詔右丞相斛律光出晉州道,修城戍。
○周12斉煬王憲伝
 是歲,明月又率大眾於汾北築城,西至龍門。晉公護謂憲曰:「寇賊充斥,戎馬交馳,遂使疆埸之間,生民委弊。豈得坐觀屠滅,而不思救之。汝謂計將安出?」曰:「如憲所見,兄宜暫出同州,以為威勢,憲請以精兵居前,隨機攻取。非惟邊境清寧,亦當別有克獲。」護然之。
○周31韋孝寛伝
 後孔城遂陷,宜陽被圍。孝寬乃謂其將帥曰:「宜陽一城之地,未能損益。然兩國爭之,勞師數載。彼多君子,寧乏謀猷。若棄崤東,來圖汾北,我之疆界,必見侵擾。今宜於華谷及長秋速築城,以杜賊志。脫其先我,圖之實難。」於是畫地形,具陳其狀。晉公護令長史叱羅協謂使人曰:「韋公子孫雖多,數不滿百。汾北築城,遣誰固守?」事遂不行。天和五年,…是歲,齊人果解宜陽之圍,經略汾北,遂築城守之。其丞相斛律明月至汾東,請與孝寬相見。明月云:「宜陽小城,久勞戰爭。今既入彼,欲於汾北取償,幸勿怪也。」孝寬答曰:「宜陽彼之要衝,汾北我之所棄。我棄彼圖,取償安在?且君輔翼幼主,位重望隆,理宜調陰陽,撫百姓,焉用極武窮兵,搆怨連禍!且滄、瀛大水,千里無烟,復欲使汾、晉之間,橫屍暴骨?苟貪尋常之地,塗炭疲弊之人,竊為君不取。」
○北斉17斛律光伝
 其冬,光又率步騎五萬於玉壁築華谷、龍門二城。

 ⑴宇文孝寛(韋孝寛)...本名叔裕。生年509、時に62歳。関中の名門の出身。華北の大名士かつ智謀の士の楊侃に才能を認められ、その娘婿となった。北魏時代に政治面で優れた手腕を示し、独孤信と共に「連璧」と並び称された。のち、西魏に仕え、高歓の大軍から玉壁を守り切る大殊勲を立てた。のち、江陵攻略に参加し、宇文氏の姓を賜った。556年、再び玉壁の守備を任された。561年に勲州刺史、564年に柱国、570年に鄖国公とされた。570年(1)参照。
 ⑵《水経注》曰く、『汾水は南下して平陽県や臨汾県の東を過ぎ、屈従県の西南を流れ、西に流れて長修県の南を過ぎ、華谷から出た華水と合流したのち、皮氏県の南を過ぎ、汾陰県の北を過ぎて黄河に注ぐ。』《読史方輿紀要》曰く、『華谷は稷山県(付近に玉壁がある)の西北二十里にある。』『長秋は長修が転訛したものである。平陽府の南百五十里→絳州の西北二十一里にある。』
 ⑶晋公護…宇文護。字は薩保。宇文泰の兄の子。生年513、時に58歳。至孝の人。宇文泰に「器量が自分に似ている」と評された。泰が危篤となると幼い息子(孝閔王)の後見を託されたが、宰相となると瞬く間に権力を手中にし、孝閔王と明帝を毒殺して武帝を立てた。570年(1)参照。
 ⑷宇文協(叱羅協)…本名は邕。低い家柄の出。背が低く貧相で、言動はこせこせとしていた。恭謹な能吏で、北魏→葛栄を経て爾朱兆→竇泰に仕え、後者の二人から重用を受けた。竇泰が敗れると西魏に降り、宇文泰にも重用を受けた。家族は東魏のもとにあったが、河橋で西魏が敗れても東魏に奔らなかった。南岐州刺史とされると東益州の乱を平定した。のち、尉遅迥の長史として伐蜀に参加し、行潼州事とされると新・潼・始三州の乱を平定した。のち、宇文氏の姓を与えられた。晋公護が実権を握るとその腹心となって軍司馬→治御正→府長史とされ、傲慢なふるまいが目立つようになった。557年(3)参照。
 ⑸龍門…《読史方輿紀要》曰く、『龍門城は絳州稷山県の北にある。斛律光が汾北を争奪するために築いた城である。』また曰く、『龍門城は河津県(蒲州の東北二百十里・吉州の東南百八十里)の治所であり、皮氏城の西一里にある。』
 ⑹滄州・瀛州で洪水が起こり…北斉書や隋書にこの年に洪水が起きたとの記述は無い。

┃汾北の戦い

571年春、正月、己酉朔(1日)、北周が露門(皇宮最奥の門)の未成を理由に、新年を祝う朝会を取り止めた。
 また、柱国〔・大司馬〕の斉公憲に北斉の右丞相・咸陽王の斛律光の迎撃を命じた。

 この時、光は〔華谷・龍門の他に〕更に平隴・衛壁・統戎など〔汾北の〕十三ヶ所に砦を築いていた。北周が動かないのを見ると、光は定陽(北周の汾州)に進軍し、南汾城を築いて攻囲した。すると漢蛮一万余戸が帰順した。北周の柱国・〔小司馬?・〕枹罕公の普屯威辛威、柱国の宇文孝寛韋孝寛)らが〔光の不在を突いて〕一万余を率いて平隴に迫ると、光は〔すぐさま引き返して〕汾水の北にてこれを大破し、千に上る首級・捕虜を得た。この功により、光は咸陽王の爵位とは別に中山郡公にも封ぜられ、千戸を加増された。光は十三城を築く際、馬上から鞭を用いて指示したが、その選定した地はみな光の言う通り重要な地形だった。光はこのとき五百里もの地を北斉の版図としたが、全く鼻にかけようとしなかった。

 斉公憲が〔宜陽の攻囲を取り止め、〕柱国・大司空・申国公の拓抜穆李穆と共に二万の兵を率いて出陣し、光と〔汾水を挟んで?〕対峙した。
 北周は光に書簡を送り、この問題について話し合いを求めた。北斉はそこで馮子琮を急派し、孝寛と交渉させた。その結果、〔もと北周所有の〕龍門など五城は北斉の手に帰することが決まった。北斉はこれを子琮の功だとみなし、子琮を昌黎郡公とした。

 この月、北斉の左丞相・平原王の段韶が晋州道より定隴に到り、威敵・平寇の二城を築いて帰還した。

 2月、壬寅(24日)、録尚書事の蘭陵王長恭を太尉とした(時に31歳)。

○資治通鑑
 周人釋宜陽之圍以救汾北。…齊斛律光築十三城於西境,馬上以鞭指畫而成,拓地五百里,而未嘗伐功。又與周韋孝寬戰於汾北,破之。齊公憲督諸將東拒齊師。
○周・北史周武帝紀
 六年春正月己酉朔,廢朝,以露(路)門未成故也。詔柱國、齊國公憲率師禦斛律明月。
○北斉後主紀
 二年春…二月壬寅,以錄尚書事、蘭陵王長恭為太尉。
○北斉11蘭陵武王長恭伝
 後為太尉。
○北斉16段韶伝
 武平二年正月,出晉州道,到定隴,築威敵、平寇二城而還。
○北斉17・北54斛律光伝・通志
 與憲、顯敬等相持,憲等不敢動。光乃進圍定陽,仍築南汾城,置州以逼之,夷夏萬餘戶並來內附。二年,率眾築平隴、衛壁、統戎等鎮戍十有三所。周柱國枹罕公普屯威、柱國韋孝寬等,步騎萬餘,來逼平隴,與光戰於汾水之北,光大破之,俘斬千計。又封中山郡公,增邑一千戶。〔…在西境築定誇諸城,馬上以鞭指畫,所取地皆如其言,拓地五[百]里而未嘗伐功。〕
○北55馮子琮伝
 斛律光將兵度玉壁,至龍門。周有移書,別須籌議。詔子琮乘傳赴軍,與周將韋孝寬面相要結。龍門等五城,因此內附。後主以為子琮之功,封昌黎郡公。
○南北史演義
 光得拓地五百里,就西境築十三城,立馬舉鞭,指畫基址,數日告成。

 ⑴南汾城…《読史方輿紀要》曰く、『南汾城は吉州(汾州)の南にある。斛律光が定陽を攻囲するために築いた城である。州の西南十里にある倚梯城が南汾城だという説もある。』
 ⑵普屯威(辛威)…生年512、時に60歳。隴西の人。祖父の大汗は北魏の渭州刺史・武川太守、父の辛生は河州四面〔総管・〕大都督。宇文泰が賀抜岳の兵を受け継いだとき、優秀さを認められてその帳内とされ、数々の戦いに活躍した。のち、鄜州刺史・河州刺史を務めた。558年、北斉の司馬消難が北周に降ると、その迎えに赴いた。561年、丹州の叛胡を討った。564年、寧州総管とされ、洛陽攻めに参加した。西魏の文帝の娘を賜った。565年に小司馬とされ、阿史那皇后を迎えに西涼州に赴いた。566年に柱国とされた。のち、綏・銀諸州の叛胡を討伐した。566年(2)参照。
 ⑶拓抜穆(李穆)…字は顕慶。生年510、時に62歳。宇文泰に早くから仕えた。河橋の戦いにて窮地に陥った泰を救い、十度まで死罪を免除される特権を与えられた。のち江陵攻略に参加し、拓抜氏の姓を賜った。557年、甥の李植が宇文護暗殺を図って失敗すると、連座して平民に落とされた。のち、赦されて大将軍に復し、楊忠の東伐に加わった。564年に柱国大将軍、565年に大司空とされた。567年、申国公とされた。569年、宜陽の攻略に赴いた。570年(1)参照。
 ⑷馮子琮…字は子琮。北燕の君主の馮弘の後裔。読書家で、頭の回転が早く、記憶力に優れた。皇建元年(560)に領軍府法曹(尚書駕部郎中)とされて機密事項に関わることを許され、庫部郎中を兼ねた。孝昭帝に帳簿の内容について尋ねられると、何も見ずに答えたが、一つも間違いが無かった。武成帝が即位すると、胡后の妹を妻としていたことを以て、胡長粲と共に太子緯(後主)の教育を任された。後主が即位すると給事黄門侍郎・兼主衣都統とされ、自由に宮中に出入りし、後主への報告を全て受け持った。のち、晋陽の大明宮の建設の監督を任された。568年、鄭州刺史に左遷された。570年頃、中央に復帰し吏部尚書とされた。570年(3)参照。
 ⑸段韶…字は孝先。婁太后(後主の祖母)の姉の子。知勇兼備の将だが、好色な所があった。邙山の戦いで高歓を危機から救った。また、東方光の乱を平定し、梁の救援軍も撃破した。560年、孝昭帝の権力奪取に貢献し、武成帝が即位すると大司馬とされた。562年、平秦王帰彦の乱を平定した。のち、563年の晋陽の戦い・564年の洛陽の戦いにて北周軍の撃退に成功し、その功により太宰とされた。567年、左丞相とされた。570年(2)参照。

┃北周の反撃と栢谷の陥落

 この月、北周の斉公憲が二万の兵を率い、龍門より汾北を攻めた。北斉の新蔡王の王康徳は憲がやってきたのを知ると夜陰に紛れて逃走した。
 王康徳は代の人で、戦功を挙げて数々の州刺史や并省尚書左僕射・開府儀同三司を歴任し、新蔡郡王に封ぜられた。

 北斉は左丞相の段韶・右丞相の斛律光・太尉の蘭陵王長恭に迎撃を命じた。

 3月、己酉(1日)、憲が柱国の普屯威辛威)、開府・左武伯中大夫・軍司馬の尉遅運、開府の宇文雄劉雄趙仲卿らを率いて再び龍門より黄河を渡り、北斉領に侵攻した。北斉はまたちょっかいをかけに来ただけだろうと思っていたため、警戒を緩めていた。憲はその隙を突き、姚襄付近に新たに築かれていた伏龍・臨秦・統戎・威遠の四城をたった二日で全て陥とした。更に張壁城も攻め陥とし、多くの軍需物資を獲得した。斛律光らはこの時華谷にいたため救援することができなかった。

 趙仲卿生年541、時に31歳)は大将軍(開府?)の趙剛の次子で、粗暴な性格だったが膂力に優れていたため憲から非常に礼遇を受けた。

 この月の末段韶・長恭らが西境(汾北)に到着した。汾北にはまだ栢()谷城⑸[1]という北周方の城があった。韶はこれを攻めようとしたが、諸将はみな反対して言った。
〔「栢谷城は天険の地に建てられており、一朝一夕には陥とせません。その間に敵の援軍が来たら、どうなさいます。」〕
 しかし、韶はこう言った。
「汾北と河東は我が国の生命線の地であり、栢谷はそこに巣食う悪性の腫瘍である。これを除去せねば、我が国はいずれ滅亡してしまうだろう。〔ゆえに、我らは栢谷を陥とさねばならぬのだ。諸君は攻めている内に援軍が来たらどうするのかと言うが、〕私が推測するに、敵の援兵は必ず南方から来るのだから、今我らが前もってその要路を遮断しておけば、敵は栢谷まで来れぬ。それに、栢谷の城壁は高いと言うが、その中は非常に狭隘である。火弩を用いて攻撃すれば、瞬く間に焼き尽くすことができよう。」
 諸将が納得すると、韶は栢谷城に猛攻を仕掛けた。すると果たして城は陥落し、儀同の薛敬礼などの捕虜と首級を多数得ることに成功した。韶は華谷に城を築き、砦を置いて凱旋した。北斉は韶に平原王とは別に広平郡公の爵位を与えた。

 この月、北斉の右丞相の斛律光と特進・中領軍の皮景和が五万を率いて汾北に出陣した。のちになって段韶も志願して汾北に出陣した。

 夏、4月甲午(17日)、陳が北斉に使者を派し、共同して北周を討つことを提案した。北斉はこれを拒否した。

○資治通鑑
 周齊公憲自龍門渡河,斛律光退保華谷,憲攻拔其新築五城。齊太宰段韶、蘭陵王長恭將兵禦周師,攻柏谷城,拔之而還。
○周武帝紀
 三月己酉,齊國公憲自龍門度河,斛律明月退保華谷,憲攻拔其新築五城。
○北斉後主紀
 夏四月…甲午,陳遣使連和,謀伐周,朝議弗許。
○周12斉煬王憲伝
 六年,乃遣憲率眾二萬,出自龍門。齊將新蔡王王康德以憲兵至,潛軍宵遯(遁)。憲乃西歸。仍掘移汾水,水南堡壁,復入於齊。齊人謂略不及遠,遂弛邊備。憲乃渡河,攻其伏龍等四城,二日盡拔。又進攻張壁,克之,獲其軍實,夷其城壘。斛律明月時在華谷,弗能救也,北攻姚襄城,陷之。
○周27辛威伝
 六年,從齊王憲東伐,拔伏龍等五城。
○周29劉雄伝
 齊人又於姚襄築伏龍等五城,以處戍卒。雄從齊公憲攻之,五城皆拔。
○周40尉遅運伝
 齊將斛律明月寇汾北,運從齊公憲禦之,攻拔其伏龍城。進爵廣業郡公,增邑八百戶。
○隋74趙仲卿伝
 趙仲卿,天水隴西人也。父剛,周大將軍。仲卿性粗暴,有膂力,周齊王憲甚禮之。從擊齊,攻臨秦、統戎、威遠、伏龍、張壁等五城,盡平之。
○北斉11蘭陵武王長恭伝
 後為太尉,與段韶討栢谷。
○北斉16段韶伝
 二月,周師來寇,遣韶與右丞相斛律光、太尉蘭陵王長恭同往捍禦。以三月暮行達西境。有栢谷城者,乃敵之絕險,石城千仞,諸將莫肯攻圍。韶曰:「汾北、河東,勢為國家之有,若不去栢谷,事同痼疾。計彼援兵,會在南道,今斷其要路,救不能來。且城勢雖高,其中甚狹,火弩射之,一旦可盡。」諸將稱善,遂鳴鼓而攻之,城潰,獲儀同薛敬禮,大斬獲首虜,仍城華谷,置戍而還。封廣平郡公。
 是月,周又遣將寇邊。右丞相斛律光先率師出討,韶亦請行。
○北斉19・北53王康徳伝
 王康德…代人也。歷數州刺史、幷省尚書〔左僕射、開府儀同三司〕,封新蔡郡王。…以軍功至大官。

 ⑴尉遅運…生年539、時に33歳。大司空・呉国公の尉遅綱の子。557年、明帝が即位する際岐州まで迎えに行った。560年、開府とされた。563年、晋陽を攻めた。569年に隴州刺史、570年に小右武伯とされた。今年、左武伯中大夫・軍司馬とされた。570年(3)参照。
 ⑵宇文雄(劉雄)…字は猛雀。臨洮の人。幼少の頃から口が達者だった。西魏の大統年間(535~551)に出仕して宇文泰の親信となり、そののち給事中・兼中書舍人となり、宇文氏の姓を与えられた。北周が建国されると司市下大夫・斉右下大夫・治小駕部を歴任し、儀同三司とされた。564年に治中外府属とされ、洛陽征伐に従軍した。567年、駕部中大夫とされ、569年、兼斉公憲府掾とされた。斛律光が盟約を破って北周に攻めてくるとこれを責める使者とされ、良く任をこなして兼中外府掾・開府とされた。去年、綏州に赴き、黄河流域に住む稽胡族を撃破した。570年(1)参照。
 ⑶姚襄城…《元和郡県図志》曰く、『姚襄城は吉昌県の西五十二里にある。姚襄が〔357年頃に〕築いた城である。西は黄河に接し、龍門山・孟門山の要害を帯びた要所で、周・斉の争奪の地となった。武平二年に右丞相の斛律明月と左丞相・平原王の段孝先が北周軍をこの城にて撃破し、記念碑を立てた。これは現在でも残っている。』《通典》曰く、『吉昌県の西にあり、今の文城郡の西城である。』《読史方輿紀要》曰く、『城壁の周長は五里(約2km?)で、高さは二丈(約60m?)あった。』
 ⑷趙剛…字は僧慶。曽祖父は北魏の并州刺史、祖父は高平太守、父は寧遠将軍。孝武帝と高歓が対立すると、帝のために東荊州の説得に赴いた。のち西魏に仕え、梁との折衝に当たった。のち河南方面を任され、侯景と激闘を繰り広げた。550年、西方の渭州にて鄭五醜が叛乱を起こすとこれを討伐した。北周が建国されると利州総管・利沙方渠四州諸軍事とされ、沙州氐を討服した。のち信州蛮の討伐に赴いたが失敗し、失意の内に死去した。566年(2)参照。
 ⑸栢谷城…《読史方輿紀要》曰く、『稷山県の県境にある。河南偃師の柏谷城ではない。』
 [1]栢谷城攻め…北斉が段韶らを伊・洛の地に出陣させて汾北〔を奪回しようとする北周〕を牽制したのである。
 ⑹皮景和…生年521、時に51歳。騎射の名手で、山胡を討伐した際一人で数十人を射殺した。身軽ですばしこく、軍事の才能があったため、戦いに出るたび戦功を挙げた。親信副都督→庫直正都督とされ、北斉が建国されると左右大都督とされた。560年に武衛将軍、561年に武衛大将軍・開府、562年に梁州刺史とされた。563年に北周が晋陽を攻めると後軍を率いて援軍に赴き、領左右大将軍とされた。吏務にも通じ、公正な性格だったため、のち并省五兵尚書・殿中尚書・侍中とされた。北斉が北周と国交を通じると、北周の使節がやってくるたびに接待を任された。その際、競射を行なって百発百中の腕前を披露すると尊敬を受けた。568年(2)参照。

┃姚襄の陥落と宜陽の戦い

 北斉の右丞相の斛律光と特進・中領軍の皮景和が平陽道を通って北周の姚襄城と白亭城を攻めて陥とし、城主の儀同や大都督ら九人を捕らえ、数千人を捕虜とした。この功により景和は領軍将軍とされた。

 この月、北周の〔柱国・陝州総管の〕陳公純と〔柱国・仁寿城主・〕鴈門公の紇干弘田弘)が北斉の宜陽を包囲した。段韶・斛律光・皮景和は五万を率いて定隴経由で救援に赴き、宜陽城下にて大いに戦った。光は北周の建安など四つの砦を陥とすことに成功し、千余人を捕虜とした〔が、決定的な勝利を収めることはできなかった。〕弘は洛水を背面に、熊耳山を正面にして布陣し、機を捉えて一戦で宜陽など九城を陥落させた
 
 光が帰還の途に就くと(時期不明)、朝廷は光が鄴に帰る前に勅令を下して軍を解散させた。光は将兵たちの多くが勲功を立てているのに、慰労することなく解散させるのはおかしいと言ってこれを拒否し、慰労の使者を要求しつつ鄴に向かった。朝廷が慰労の使者を出すのを躊躇っている内に、光の軍は鄴の〔西北五里にある〕紫陌の手前にまで到り、そこで使者を待った。後主は光が〔命令を拒否して〕鄴近くまでやってきているのに内心非常に不快を感じつつ、急いで中書舍人を光のもとに派し、光を皇宮に呼んで会見したのち、兵に慰労を行なって解散させた。

○周・北史周武帝紀
 陳國公純、鴈門公田弘率師取齊宜陽等九城。五月癸卯(亥),遣納言鄭詡使於陳。
○周27田弘伝
 尋以弘為仁壽城主,以逼宜陽。齊將段孝先、斛律明月出軍定隴以為宜陽援,弘與陳公純破之,遂拔宜陽等九城。以功增邑五百戶,進位柱國大將軍。
○北斉16段韶伝
 是月,周又遣將寇邊。右丞相斛律光先率師出討,韶亦請行。
○北斉17斛律光伝
 軍還,詔復令率步騎五萬出平陽道,攻姚襄、白亭城戍,皆克之,獲其城主儀同、大都督等九人,捕虜數千人。是月,周遣其柱國紇干廣略圍宜陽。光率步騎五萬赴之,大戰於城下,乃取周建安等四戍,捕虜千餘人而還。軍未至鄴,勑令便放兵散。光以為軍人多有勳功,未得慰勞,若即便散,恩澤不施,乃密通表請使宣旨,軍仍且進。朝廷發使遲留,軍還,將至紫陌,光仍駐營待使。帝聞光軍營已逼,心甚惡之,急令舍人追光入見,然後宣勞散兵。
○北斉41皮景和伝
 又隨斛律光率眾西討,剋姚襄 、白亭二城,別封永寧郡開國公。又除領軍將軍。又除領軍將軍。又從軍拔宜陽城,封開封郡開國公。
○紇干弘神道碑
 齊將段孝先、斛律明月出軍定隴,以為宜陽之援。公背洛水而面熊山,陳中軍而疏行首,乗機一戰,宜陽銜璧。

 ⑴陳公純…字は堙智突。宇文泰の第九子。母は不明で、武帝の異母弟。559年に陳国公とされた。のち、保定年間(561~565)に岐州刺史とされた。565年、可汗の娘を迎えるため突厥に赴いたが抑留された。567年、柱国とされた。568年に可汗の娘を連れて帰国し、秦州総管とされた。570年、陝州総管とされた。570年(1)参照。
 ⑵熊耳山…《読史方輿紀要》曰く、『宜陽県の西百里にあり、洛水の北にある。二つの峰が熊の耳のように並んでいることからこう名付けられた。』
 ⑶皮景和伝では北斉が宜陽城を陥としている。『建安等四戍』の誤りか?

┃姚襄城南の戦い

 当時、汾州は長らく北斉の包囲に遭い、援路が途絕し、困窮の極みにあった。
 北周の大冢宰の晋公護は汾州の苦境を聞くと、黄河に浮き橋を作って斉公憲らを渡河させ、救援に赴かせた。憲は両乳谷に入って柏社城を陥とし、姚襄を攻めたが、こちらは陥とすことができなかった。憲は柱国の譚公会に〔汾州の近くに?〕石殿城を築かせ、汾州を支援させた。また、柱国の宇文盛に定陽への兵糧輸送を命じた。盛は北斉の長城以西に陣を連ねて輸送の機を窺った。

 この月(5月段韶・蘭陵王長恭が大軍を率いて服秦(臨秦?)城に到った。憲は諸将に出撃を禁じ、持ち場の陣を守るよう命じた。
 これより前、晋公護は北斉がたびたび国境を侵している事を憂慮し、〔中外府水曹参軍〕郭栄に汾州の様子を調査させ、防衛態勢を強化させた。栄は汾州城と姚襄鎮の二城の距離が遠く、有時の際に助け合うことができないと見て、州と鎮の間に更に一城を築いて防衛の助けにするよう護に進言した。護はこれを聞き入れ、姚襄城の南・定陽の西に新しい城と深い堀を築き、姚襄を孤立させた。
 すると韶は兵を派して密かに黄河を渡らせて姚襄城内に潜入させ、城内に時が来たら出撃して内外より敵を挟撃するよう伝えさせた。渡河して潜入した者が千余人に達した時、北周はようやくこれに気づいた。
 また、韶は上流より大筏を放して浮き橋を壊そうとしたが、郭栄が泳ぎの上手な者を集めて筏を手前で除去させたので失敗した。
 やがて韶は勇士を選り抜き、密かに防衛線を大きく迂回して北方より北周軍を奇襲した。北周軍は塹壕を利用して防戦したが、大将軍の匹婁歓韓歓)が流れ矢に当たって重傷を負うと混乱し、遂に総崩れとなった。北斉軍は北周の儀同の若干顕宝らを捕虜とした。この時、宇文雄劉雄は自ら盾を持ち、配下の兵二十余人を率いて塹壕に留まって奮戦した。宇文盛も力戦した。憲も自ら殿軍を務め、陣頭に立って兵を激励した。すると韶らは少し退却し、たまたま日が暮れると各自兵を収めた。
 盛は大寧城を築いたのち帰途に就いた。
 北斉の諸将は口を揃えて新城を攻撃するよう主張した。すると韶は言った。
「この城は一方は黄河、三方は険しい地形によって守られているゆえ、攻めるべきではない。それに、たとい陥とすことができたとしても、この城にそこまで重要性があるわけではないから、骨折り損というものである。ゆえに、ここは一城を築いて城を封鎖しておいてから、服秦城を陥として定陽を全力で攻めることのできる環境を整えた方が良い。これが最上の計である。」
 将兵たちはみなこれに賛同した。

 郭栄生年547、時に25歳)は字を長栄といい、自称太原の人である。父の郭徽は西魏の大統年間(535~551)の末に同州司馬とされた。この時、同州刺史は普六茹忠楊忠)だった(554年に行同州事とされた記述はある)。この関係で徽は普六茹堅楊堅)と知り合いになった。徽はのちに洵州(漢中の東?)刺史・安城県公にまで至った。
 栄は逞しい姿形をしていて、ぞんざいのように見えて実は細やかな気配りができたので、彼と付き合った者たちはみな好感を抱いた。晋公護の親信とされると真面目で誠実な仕事ぶりが評価され、中外府水曹参軍に抜擢された。
 
 匹婁歓生年510、時に62歳)は字を屯歓といい、雲州盛楽の人である。気高く聡明で、穏やかで慎重だったが、ひとたび合戦となれば先頭に立って勇猛果断に戦った。戦場にて育ったため兵法を知悉しており、臨機応変に戦うことができた。
 北魏に仕えて統軍・襄威将軍・奉朝請・別将・上谷県開国男とされ、永安三年(530)に都督とされた。高歓が洛陽を攻めて孝武帝が関中に亡命するとこれに付き従い、侯に進められ、安東将軍とされた。大統三年(537)に沙苑にて戦功を立てて公に進められ、衛大将軍・帥都督・恒農郡守とされた。間もなく大都督、次いで車騎大将軍・儀同三司とされ、匹婁の姓を与えられた。北周が建国されると使持節・驃騎大将軍・開府儀同三司・普安県開国公とされ、加増を受けて計三千六百戸とされた。のち鄧州(武都・陰平の西)諸軍事・鄧州刺史とされ、次いで民部中大夫とされた。天和五年(570)、大将軍とされた。

○周12斉煬王憲伝
 時汾州又見圍日久,糧援路絕。憲遣柱國宇文盛運粟以饋之。憲自入兩乳谷,襲克齊柏社城,進軍姚襄。齊人嬰城固守。憲使柱國、譚公會築石殿城,以為汾州之援。齊平原王段孝先、蘭陵王高長恭引兵大至,憲命將士陣而待之。大將軍韓歡為齊人所乘,遂以奔退,憲身自督戰,齊眾稍卻。會日暮,乃各收軍。
○周29宇文盛伝
 六年,與柱國王傑從齊公憲東討。時汾州被圍日久,憲遣盛運粟以給之。仍赴姚襄城,受憲節度。齊將段孝先率兵大至,盛力戰拒之。孝先退,乃築大寧城而還。
○周29劉雄伝
 憲復遣雄與柱國宇文盛於齊長城已西,連營防禦。齊將段孝先等率眾圍盛。營外先有長塹,大將軍韓歡與孝先交戰不利,雄身負排,率所部二十餘人,據塹力戰,孝先等乃止。
○隋50郭栄伝
 郭榮字長榮,自云太原人也。父徽,魏大統末,為同州司馬。時武元皇帝為刺史,由是與高祖有舊。徽後官至洵州刺史、安城縣公。…榮容貌魁岸,外疎內密,與其交者多愛之。周大冢宰宇文護引為親信。護察榮謹厚,擢為中外府水曹參軍。時齊寇屢侵,護令榮於汾州觀賊形勢。時汾州與姚襄鎮相去懸遠,榮以為二城孤迥,勢不相救,請於州鎮之間更築一城,以相控攝,護從之。俄而齊將段孝先攻陷姚襄、汾州二城,唯榮所立者獨能自守。護作浮橋,出兵渡河,與孝先戰。孝先於上流縱大筏以擊浮橋,護令榮督便水者引取其筏。以功授大都督。
○隋74趙仲卿伝
 又擊齊將段孝先於姚襄城,苦戰連日,破之。以功授大都督,尋典宿衞。
○北斉16・北54段韶伝
 五月,攻(到)服秦城。周人於姚襄城南更起城鎮,東接定陽,又作深塹,斷絕行道。韶乃密抽壯士,從北襲之。又遣人潛渡河,告姚襄城中,令內外相應,渡者千有餘人,周人始覺。於是合戰,大破之,獲其儀同若干顯寶等。諸將咸欲攻其新城。韶曰:「此城一面阻河,三面地險,不可攻,就令得之,一城地耳。不如更作一城,壅其路(要道),破服秦,併力以圖定陽,計之長者。」將士咸以為然。
○大周普安壮公墓志銘
 公諱歡,字屯歡,雲州盛樂人也。公資靈峻岳,禀氣中和,体識詳明,志尚雄果。…属魏道云季,中原幅裂,…解褐授統軍、襄威将軍、奉朝請,加別将,封上谷县開國男。永安三年,轉都督。及晋陽甲起,魏主西遷。公時陪奉輿輪,…進爵為侯,加安東将軍。…公結發戎旅,妙善孫吳。如雲如鳥之形,因山背水之勢,莫不深明權變,躬先士卒。…大統三年中,征沙苑有功,加封八百,進爵為公,授衛大将軍、帥都督,除恒農郡守。…俄轉大都督,尋加車騎大将軍、儀同三司,賜姓匹婁氏。…皇周應歴,大弘褒賞。授使持節、驃騎大将軍、開府儀同三司,改封普安县開國公,食邑通所合三千六百戸,除鄭州諸軍事、鄭州刺史。還朝補民部。天和五年,授大将軍。属東齊背約,竟我汾方。…於姚襄交戰,為流矢所中。

 ⑴詳細な時期は不明。『汾州は長らく北斉の包囲に遭い、援路が途絕していた』とあるので、本格的な汾州の包囲が始まった6月の事かもしれないが、6月には段韶と斉公憲が戦った記述が無いので、今仮にここに置いた。
 ⑵両乳谷…《読史方輿紀要》曰く、『両乳山は吉州(汾州)の東南六十里→郷寧県の西南七十里にある。二つの峰が乳房のようであったので、そう名付けられたのである。また、両乳嶺ともいう。』
 ⑶宇文盛…字は保興。勇猛で、宇文泰の帳内となると数々の戦いで功を立てて開府・塩州刺史にまで昇った。のち趙貴の陰謀を宇文護に告発し、その功により大将軍・忠城郡公・涇州都督とされた。のち、吐谷渾討伐に参加し、延州総管とされた。564年、柱国とされた。567年、銀州に城を築き、稽胡族の白郁久同・喬是羅・喬三勿同らを討伐した。570年、都に呼び戻されて大宗伯とされた。570年(1)参照。
 ⑷宇文雄(劉雄)…字は猛雀。臨洮子城の人。幼少の頃から口が達者で、気概があり、大志を抱いていた。西魏の大統年間(535~551)に出仕して宇文泰の親信となり、そののち統軍・子城令・都督・兼中書舍人を歴任し、宇文氏の姓を与えられた。557年に大都督とされ、司市下大夫・斉右下大夫・治小駕部を歴任し、儀同三司とされた。564年に治中外府属とされ、洛陽征伐に従軍した。567年に駕部中大夫とされ、569年に兼斉公憲府掾とされた。北斉が盟約を破って宜陽に攻めてくるとその軍中に使者として赴き、約を違えたことを堂々と責め立てた。のち兼中外府掾・開府儀同三司とされた。570年、稽胡を綏州にて撃破した。570年(1)参照。

●汾州包囲

 6月(或いは5月?)、北斉の左丞相・平原王の段韶太尉の蘭陵王長恭が五万を率いて定陽を包囲した。
 この年、北周は開府・司木中大夫・軍器副監の楊敷を汾州諸軍事・汾州刺史とし、守りを固めていた。韶は近くの山に登って城勢を調査したのち、雲梯や衝車、地下道を用いて昼夜の別無く猛攻を仕掛けた。敷は矢石をものともせずに陣頭に立って指揮を執り、臨機応変に防衛して数十日に亘って持ち堪えた。

○周34楊敷伝
 天和六年,出為汾州諸軍事、汾州刺史,進爵為公,增邑一千五百戶。齊將段孝先率眾五萬來寇,梯衝地道,晝夜攻城。敷親當矢石,隨事扞禦,拒守累旬。
○北斉11蘭陵武王長恭伝
 又攻定陽。
○北斉16段韶伝
 六月,徙圍定陽,其城主開府儀同楊範固守不下。韶登山望城勢,乃縱兵急攻之。

 ⑴楊敷…字は文衍。華山公の楊寛の兄の子。性格優良の能吏。若年の頃から高潔な志操を備え、約束は必ず守り、忠臣の列伝を愛読した。廷尉少卿とされると公正に判決を下した。558年、北斉にて叛乱を起こした司馬消難を迎えに行き、帰ると蒙州刺史とされて善政を行なった。保定年間に司水中大夫とされ、東討の際水上輸送の監督を任された。陳公純が陝州総管とされるとその長史となり、570年に司木中大夫・軍器副監とされた。
 
┃段韶の病臥と汾州の陥落
 やがて、北斉軍が外城を陥とし、多くの首級と捕虜を得た。この時城中の兵は二千に満たず、戦死者は既に四・五割に達し、兵糧も尽き果て、官民ともに困窮の極みにあった。北周の〔柱国国・大司馬の〕斉公憲は救援に赴いたが、段韶の武威を憚って汾州に近づくことができなかった。
 楊敷は城が必ず陥落するのを知ると、部下を集めてこう言った。
「私と卿らは共に辺鎮に在って、一致団結して敵を撃退し、城を守り抜こうと誓った。しかし、敵は予想外に強く、長らく四方より攻囲を受けた結果、食糧は既に尽き、援軍の望みも無くなった。無援の城と心中するのは丈夫のやることではない。今、城内にはまだ数百人の精鋭がいる。私は彼らを率い、一か八か包囲の突破を試みようと思う。もし仮に突破できたとしても、朝廷にて処刑されるかもしれないが、賊の手にかかって死ぬよりかは断然良い。我が計は決まった。諸君はどう思うか?」
 部下たちは泣いて命に従った。
 この時、韶は軍中にて病の床に就いていたが、内城がまだ陥とせていなかったため、〔鄴に帰ろうとはしなかった。〕韶は軍権を蘭陵王長恭に委ね、こう言った。
「定陽城は三方が深い渓谷となっていて地勢が険しく、逃げ道に適しているのはただ東南の一箇所だけであります。賊がもし包囲を突破しようとしてくるなら、必ずこの方向からでありましょう。精鋭を選り抜いてそこに待ち伏せさせておけば、必ず捕らえることができます。」
 長恭はそこで勇士千余人を東南の渓谷の出入り口に伏せさせた。
 夜、敷は出撃して斉兵数十人を殺し、斉軍がやや退いた所を見計らって突破に成功した。しかし間もなく伏兵に遭って激戦となり、刀折れ矢尽きて遂に兵たちと共に捕らえられた。北斉は敷を任用しようとしたが、敷はこれを拒否し、鄴にて憂憤の中に死んだ[1]
 乙巳(29日)、北斉が汾州を陥とした[2]。この時点で、汾北に残った北周の城は郭栄の築いた城だけとなった。
 韶は病状が悪化したため、長恭よりも先に帰還した。
 北斉は汾州を西汾州とした。

○資治通鑑
 乙巳,齊取周汾州及姚襄城,唯郭榮所築城獨存。
○周武帝紀
 是月,齊將段孝先攻陷汾州。
○北斉後主紀
 六月,段韶攻周汾州,剋之,獲刺史楊敷。
○周34楊敷伝
 孝先攻之愈急。時城中兵不滿二千,戰死者已十四五,糧儲又盡,公私窮蹙。齊公憲總兵赴救,憚孝先,不敢進軍。敷知必陷沒,乃召其眾謂之曰:「吾與卿等,俱在邊鎮,實願同心戮力,破賊全城。但彊寇四面攻圍日久,吾等糧食已盡,救援斷絕。守死窮城,非丈夫也。今勝兵之士,猶數百人,欲突圍出戰,死生一決。儻或得免,猶冀生還受罪闕庭,孰與死於寇乎(手)!吾計決矣,於諸君意何如?」眾咸涕泣從命。敷乃率見兵夜出,擊殺齊軍數十人。齊軍眾稍卻。俄而孝先率諸軍盡銳圍之,敷殊死戰,矢盡,為孝先所擒。齊人方欲任用之,敷不為之屈,遂以憂懼(憤)卒於鄴。
○北斉11蘭陵武王長恭伝
 又攻定陽。韶病,長恭總其眾。前後以戰功別封鉅鹿、長樂、樂平、高陽等郡公。
○北斉16段韶伝
 七月,屠其外城,大斬獲首級。時韶病在軍中,以子城未克,謂蘭陵王長恭曰:「此城三面重澗險阻,並無走路,唯恐東南一處耳。賊若突圍,必從此出,但簡精兵專守,自是(此必)成擒。」長恭乃令壯士千餘人設伏於東南澗口。其夜果如所策,賊遂出城,伏兵擊之,大潰,範等面縛,盡獲其眾。韶疾甚,先軍還。
○隋書地理志冀州
 文城郡東魏置南汾州,後周改為汾州,後齊為西汾州。

 [1]楊敷は〔北斉のもと宰相の〕楊愔の族子である。愔は北斉に尽くして命を落とし、敷も北周に尽くして命を落とした。二人ともそれぞれ仕える国家に忠義を尽くしたのである。
 [2]考異曰く、『段韶伝には「七月、外城を陥とした」とあり、周武帝紀・北斉後主紀には「六月、汾州を陥とした」とある。今は後者の記述に従った。』


 蘭陵王伝(3)に続く