[541?~573]


┃蘭陵王の登場
 高長恭は本名を肅、或いは孝瓘といい、長恭は字である。高澄の第四子で、母の詳細は不明
 長恭は肌が白く、美女のような顔立ちをしていて、声も綺麗だった。しかし、性格は男らしく、勇敢なものがあった。
549年、父の澄が膳奴に殺害された。〕
 天保八年(557)に出仕して通直散騎侍郎とされ、九年(558)に楽城県開国公(八百戸)に封じられた。十年(559)に儀同三司とされ、更に上儀同三司とされ、行肆州(晋陽の北)事とされた。その後、更に儀同三師とされた。

560年3月壬申(21日)、北斉が高澄の第二子の高孝珩母は王氏)を広寧王とし、第四子高長恭を蘭陵王とした。
 また、領左右大将軍とされ、食邑を加増されて千戸とされた。

 皇建元年(560年8月~12月)、加増を受けて計千五百戸とされ、開府・中領軍とされた。
 武成帝が即位すると(561年)、使持節・都督并州(晋陽)諸軍事・并州刺史とされ、他の官はそのままとされた。長恭は農業を奨励し、州民と労苦を共にし、朝夕その生活の向上について思慮した。
〔大寧?〕二年(562?河清二年だと563年)、別に鉅鹿郡開国公(千戸)の爵位を与えられ、領軍将軍に進められた。

○北斉廃帝紀
 壬申,封文襄第二子孝珩為廣寧王,第三子長恭為蘭陵王。
○北斉11蘭陵王長恭伝
 蘭陵王長恭不得母氏姓。...蘭陵武王長恭,一名孝瓘,文襄第四子也。...長恭貌柔心壯,音容兼美。
○蘭陵忠武王碑
 王諱肅,字長恭,勃海蓨人,高祖神武皇帝之孫,世宗文襄皇帝之第三子也。...天保八年,起家通直散騎侍郎。...九年封樂城縣開國公,食邑八百戸。...十年,除儀同三司。...其年,進上儀同三司。......仍以本官行肆州事。...又進儀同三師。乾明元年,除領左右大将軍,增邑一千戸。…其年三月,封徐州蘭陵郡王。…皇建元年,增邑通前一千五百戸,轉中領軍,加開府儀同三司。…世祖武成皇帝践祚,除使持節、都督并州諸軍事、并州刺史,餘官昔如故。而王乃勉其耕桑,又能均其勞逸,朝夕思念…。二年,别封鉅鹿郡開國公,食邑一千戸,進領軍将軍。
○隋唐嘉話巻下
 高齊蘭陵王長恭白類美婦人。
○教坊記
 北齊蘭陵王長恭,性膽勇而貌婦人。
○北史演義
 蘭陵王,文襄第四子,姬荀氏翠容所出。荀氏本爾朱后婢,性慧巧,年十四,常侍獻武,后疑其與獻武有私,欲置之死。獻武送之婁后處養之。婁以其眼秀神清,日後必生貴子,乃賜文襄為妾,而生蘭陵。美丰姿,狀貌如婦人好女。

 ⑴高澄...字は子恵。521~549。高歓の長子。女好きの美男子。厳格に法を執行したことが勲貴の心証を害し、侯景の離反を招いた。のち、奴隷の手によって殺害された。549年(6)参照。
 ⑵第四子…本当は第三子だが、恐らく、同じ年に生まれた?第四子の高孝琬の方が血筋が良く嫡子だったため、順番を逆にされたのだろう。孝琬は通鑑によれば541年生まれなので、この説を取ると長恭は時に20歳となる。
 ⑶《北史演義》には『蘭陵王は高澄の第四子で、母は姫妾の荀翠容。翠容は爾朱后(大爾朱氏)の下女で、聡明だった。十四歳の時に高歓の世話もするようになったが、爾朱后は翠容が歓と密通しているのではないかと疑い、殺そうとした。歓は正室の婁昭君の所に翠容を匿わせた。昭君は翠容が容姿・精神共に優れているのを見て必ず身分の高い者の子を産む運命にあると考え、我が子の澄の妾とした。すると果たして蘭陵王を産んだ』とある。
 ⑷儀同三師…北魏の前廃帝の時に、爾朱世隆が任じられた(531年7月22日)。格は上公(太師・太傅・太保)の下に位置する。
 ⑸広寧王…高孝珩は555年3月16日にも広寧王に封じられている。誤りか、一度剥奪されていたのか?
 ⑹武成帝…高湛。北斉の四代皇帝。生年537、時に27歳。在位561~。高歓の第九子。容姿が立派で、歓にもっとも可愛がられた。孝昭帝(高演)のクーデター成功に大きく貢献し、右丞相とされた。561年、帝が死ぬとその跡を継いだ。即位すると次第に享楽に溺れ、政治を疎かにするようになった。563年(3)参照。

┃河南王孝瑜の死
 武成帝はよく和士開胡后に握槊(胡人の博戯。バックギャモン、盤双六に似る?)をさせていた。〔蘭陵王の長兄で〕司州牧の河南王孝瑜はこれを諫めて言った。
「皇后は天下の母であります。臣下と手が触れることなどあってはなりません!」
 帝はこれを聞き入れた。
 孝瑜はまたこう言った。
「趙郡王()の父(高琛)は罪を犯して死にました。〔犯罪者の子を〕お近づけなさいませぬよう。」
〔尚書令の〕趙郡王叡と士開はこれを知ると孝瑜を恨み、二人して帝に讒言を行なった。士開は言った。
「河南王は分不相応な贅沢をしています。」
 叡は言った。
「山東(現在の河北省)の民は河南王のみを知り、陛下を知りません[1]。」
 以降、帝は孝瑜を憎むようになった。
 これより前、孝瑜は爾朱摩女という、もともと太后に仕えていた御女と関係を持っていた。孝瑜は太子緯の結婚式の夜にこの女性と密かに言葉を交わした。帝はこれを聞くと激怒した。
563年6月庚申(28日)、孝瑜に酒三十七盃を一気に飲ませた。これによって孝瑜の腹は十囲ほどまでに膨れ上がった。帝は婁子彦司徒の婁叡の子)に命じ、孝瑜を車に乗せて家まで送らせた。その途中、子彦は孝瑜に毒酒を飲ませた。西華門に到った所で孝瑜は悶え苦しみ、遂に水中に身を投げて死んだ。太尉・録尚書事を追贈した。宮中にいた諸侯はみな声を潜めたが、ただ〔弟の〕河間王孝琬のみ大声を上げて泣き、外に出た。

○北斉武成紀
 六月...乙卯,詔兼散騎常侍崔子武使于陳。庚申,司州牧、河南王孝瑜薨。
○北斉11河南康舒王孝瑜伝・資治通鑑
 武成常使和士開與胡后對坐握槊,孝瑜諫曰:「皇后天下之母,不可與臣下接手。」帝深納之。後又言:「趙郡王父死非命,不可親。」由是叡及士開皆側目。士開密告其奢僭,叡又言:「山東唯聞河南王,不聞有陛下。」帝由是忌之。尒朱御女名摩女,本事太后, 孝瑜先與之通,後因太子婚夜, 孝瑜竊與之言。武成大怒,頓飲其酒三十七盃。體至肥大,腰帶十圍。使〔左右〕婁子彥載以出,酖之於車。至西華門,煩熱躁悶,投水而絕。贈太尉、錄尚書事。
○北斉11河間王孝琬伝
 河南王之死,諸王在宮內莫敢舉聲,唯孝琬大哭而出。

 ⑴和士開…字は彦通。生年524、時に40歳。本姓は素和氏。幼い頃から聡明で、理解が非常に早く、国子学生に選ばれると、学生たちから尊敬を受けた。握槊(双六の一種)・おべっか・琵琶が上手く、武成帝に非常に気に入られて世神(下界の神)と絶賛された。562年(3)参照。
 ⑵胡后…魏の中書令・兗州刺史の胡延之の娘。母は范陽の盧道約の娘。550年に武成帝に嫁いだ。562年(1)参照。
 ⑶河南王孝瑜...字は正徳。生年537、時に27歳。高澄の長子。母は宋氏。堂々とした容姿と芯の通った精神を備え、控えめで優しく、文学を愛好した。十行を同時に読める速読の才能と抜群の記憶力を有した。武成帝の幼馴染で親友。帝から非常な信頼を受け、鄴の留守を任された。561年(3)参照。
 ⑷趙郡王叡...高歓の弟の子。生年534、時に30歳。身長七尺の美男子。幼くして父の処刑に遭い、歓に引き取られて育てられた。常に深夜まで勉学に励み、定州刺史とされると良牧の評価を受けた。のち、長城の建設の監督を命じられた。孝昭帝が亡くなると、遺託を受けて武成帝を迎えた。去年、尚書令とされた。562年(4)参照。
 ⑸高琛...字は永宝(元宝)。512?~534? 高歓の弟。弓馬の扱いに長けた。533年、定州刺史・六州大都督とされると、非常な好評を博した。高歓が北魏の孝武帝を攻めると晋陽の留守を任された。のち、御史中尉とされると貴族でも容赦なく弾劾を行なった。のち、歓の妻の小爾朱氏と密通し、怒った歓に杖で殴り殺された。534年(4)参照。
 [1]武成帝は大体太行山脈の西の晋陽に住んでいた。
 ⑹分不相応な贅沢...孝瑜は屋敷内に水堂(池の上に張り出した建物)を建て、旗や矟(長矛)を立てた龍舟を浮かべ、諸弟と宴射をして楽しんだ。
 ⑺御女...妃嬪の一。北魏の孝文帝が置いた。武成帝は八十一人の御女を置いた。五品(北史では四品)に相当する。
 ⑻太子緯…字は仁綱。武成帝の長子。生年556、時に8歳。端正な顔立ちをしていて、帝に最も可愛がられた。
 ⑼婁叡...字は仏仁。婁太后の兄の子。若年の頃から弓や馬を好み武将としての才能があった。とりわけて優れた所は無かったが、外戚ということで富貴を得、財貨や女色をほしいままにした。武成帝が即位すると司空とされた。562年、平秦王帰彦の乱を平定し、その功により司徒とされた。562年(4)参照。
 ⑽河間王孝琬...武成帝の兄の高澄の第三子、嫡子。生年541、時に23歳。中書監や尚書左僕射を歴任した。562年(4)参照。

┃北斉討伐

〔北周が突厥と共に北斉を討伐する事を決意した。〕その際、高官たちは口を揃えてこう言った。
「斉氏(北斉)は天下の半ばを領有し、物資は豊富で、軍隊は精強であります。〔突厥と連合して〕漠北から并州に攻め入るにしても、その道のりは非常に険しく〔、攻め難いものがあります〕。その上、斉氏の大将には強敵の斛律明月がいるのです。ゆえに、本拠を突くには十万は必要だと考えます。」
 しかし、〔柱国大将軍・大司空・〕隨国公の普六茹忠楊忠のみこう言った。
「勝利に必要なのは和であって数ではありません。一万騎で充分であります。それに、明月はただの若僧です。一体何ができましょうや。」
563年9月戊子(27日)、忠を北斉討伐軍の元帥(総大将)とし、大将軍の楊纂・拓抜穆李穆・宇文傑王傑・爾朱敏および開府の拓跋寿元寿・紇干弘田弘・慕容延北史は『近』)ら十余人を指揮して、突厥と共に北道より北斉を討つように命じた。

○周武帝紀
 戊子,詔柱國楊忠率騎一萬與突厥伐齊。
○周11晋蕩公護伝
 是年,乃遣柱國楊忠與突厥東伐。
○周19楊忠伝
 時朝議將與突厥伐齊,公卿咸曰:「齊氏地半天下,國富兵強。若從漠北入幷州,極為險阻,且大將斛律明月未易可當。今欲探其巢窟,非十萬不可。」忠獨曰:「師克在和不在眾,萬騎足矣。明月豎子,亦何能為。」三年,乃以忠為元帥,大將軍楊纂、李穆、王傑、爾朱敏及開府元壽、田弘、慕容延等十餘人皆隸焉。
○周50突厥伝
 三年,詔隨公楊忠率眾一萬,與突厥伐齊。

 ⑴斛律光...字は明月。生年515、時に49歳。左丞相の斛律金の子。馬面で、彪のような体つきをしていた。生まれつき非凡で知勇に才を示し、寡黙で滅多に笑わなかった。騎射に巧みで、ある時一羽の大鷲(鵰)を射落としたことから『落鵰都督』と呼ばれるようになった。560年、孝昭帝のクーデターに協力した。562年、司空とされた。563年(1)参照。
 ⑵普六茹忠(楊忠)...字は揜于。生年507、時に57歳。武川出身。美髯で七尺八寸の長身。素手で虎を倒す怪力の持ち主。普六如氏の姓を賜った。梁に二度身を置いたことがある。のち西魏に帰国すると、梁から漢水東部を奪取し、邵陵王綸を攻め殺した。江陵攻めでは先鋒を務めた。北斉にて司馬消難が乱を起こすと、その保護に大きく貢献した。562年、大司空とされた。562年(4)参照。
 ⑶楊纂...広寧の人。もと東魏の安西将軍・武州刺史。武功に見合った褒賞を受けられなかったことを恨み、535年に西魏に寝返って征南将軍・大都督とされた。河橋・邙山の戦いで活躍し、莫胡盧氏の姓を賜り、561年、大将軍・隴東郡公とされた。561年(4)参照。
 ⑷拓抜穆(李穆)...字は顕慶。生年510、時に54歳。宇文泰に早くから仕えた。河橋の戦いにて窮地に陥った泰を救い、十度まで死罪を免除される特権を与えられた。のち江陵攻略に参加し、拓拔氏の姓を賜った。557年、甥の李植が宇文護暗殺を図って失敗すると、連座して平民に落とされた。のち、赦されて大将軍に復した。562年(5)参照。
 ⑸宇文傑(王傑)...もとの名は文達。生年515、時に49歳。宇文泰に「一万人を相手にすることができる」と評された。邙山の戦いに活躍し、傑の名を与えられた。また、宇文氏の姓を与えられた。漢中攻略・江陵攻略に加わり、江陵では敵の勇者を一矢で射倒し、于謹に「我が大事を成すものは、公のこの矢である」と絶賛された。のち、武功大なるを以て出身の河州の刺史とされた。554年(3)参照。
 ⑹紇干弘(田弘)...字は広略。生年510、時に54歳。智勇に優れ、宇文泰に才能を認められてその腹心となった。沙苑・河橋の戦いにて抜群の功を立て、泰に愛用の鎧を与えられ、「皆が弘のようであったら天下を早く平定できるだろう」と絶賛を受けた。紇干氏の姓を与えられ、のち、蜀東部の制圧に活躍した。561年、岷州刺史とされた。561年(4)参照。

┃北周軍、晋陽に迫る
 12月、辛卯(1日)武帝が同州から長安に帰還した。
 また、太保・柱国大将軍・鄭国公の達奚武に三万の兵を与え、南道より平陽(晋州)に進み、期日までに晋陽にて普六茹忠らと合流するよう命じた。

〔北道より晋陽に進軍していた〕普六茹忠は、爾朱敏に什賁を占拠させ、黄河一帯を守備させた。武川に到り、自宅のあった地を通ると、祖先の祭祀を行ない、将兵に酒食をふるまった。忠が陥とした砦は二十余に達した。
 己酉(19日)、恒州に到ると軍を分かち、三道より晋陽に進軍した。北斉軍が陘嶺の要害を守ると、忠は奇兵を用いてこれを大破した。この時、楊纂を霊丘に留めて後方の防衛を任せた。また、この時、木汗可汗地頭可汗・步離可汗らを連れ、十万騎を率いて忠軍に合流した[1]⑸。北斉の官民は殺人・略奪の悲運に遭った。
 武成帝はこの報を聞くと、鄴を発って晋陽に急行した。
 戊午(28日)、晋陽に到着した。
 これより前、帝は唐邕を晋陽に急派し、兵馬を集合させていた。邕は道中にて突厥の侵攻が速いことを耳にすると、命令書に書かれていた期日よりも早めに兵士を集合させた。手遅れになる前に兵士の集結を完了できたのは、邕の力によるものだった。
 また、〔司空の〕斛律光に三万の兵を与え、平陽を守らせた。また、開府儀同三司・梁州(陳留)刺史の皮景和を鄴に急行させ、後軍を率いて并州(晋陽)に赴くよう命じた。
 また、〔儀同三司の〕封子絵を行懐州(河内。洛陽の東北)事とし、〔兵などの〕輸送を任せた。
 己未(29日)、北周軍と突厥軍が晋陽に迫った。突厥の陣営は広大で、東は汾河(晋陽の近くを流れる川)、西は風谷山にまで及んだ。一方、北斉軍は慌てて出陣したため、迎撃態勢が整っていなかった。武成帝はこれを見ると、宮女を連れて東に逃走しようとした。すると、趙郡王叡河間王孝琬は馬首を叩いてこれを止め、孝琬がこう言った。
「趙郡王に差配を任せれば、直ちに態勢が整うでしょう。」
 帝はこれを聞き入れ、叡に軍の配置などを任せ、〔太傅・〕并州刺史〔・平原王〕の段韶に戦いの指揮を任せた。
 この時、并州は寒気厳しく、大雪が月を跨いで降り続いており、南北千余里に渡って平地にも雪が数尺(一尺は約30cm。1〜2メートル)も積もっていた。


○資治通鑑
 周楊忠拔齊二十餘城。齊人守陘嶺之隘,忠擊破之。突厥木桿、地頭、步離三可汗以十萬騎會之。己丑,自恒州三道俱入。時大雪數旬,南北千餘里,平地數尺。齊主自鄴倍道赴之,戊午,至晉陽。斛律光將步騎三萬屯平陽。己未,周師及突厥逼晉陽。齊主畏其彊,戎服率宮人東走,欲避之。趙郡王睿、河間王孝琬叩馬諫。孝琬請委睿部分,必得嚴整。帝從之,命六軍進止皆取睿節度,而使并州刺史段韶總之。
○周武帝紀
 十有二月辛卯,至自同州。遣太保、鄭國公達奚武率騎三萬出平陽以應楊忠。
○北斉武成紀
 冬十二月癸巳,陳人來聘。己酉,周將楊忠帥突厥阿史那木汗等二十餘萬人自恒州分為三道,殺掠吏人。是時,大雨雪連月,南北千餘里平地數尺,霜晝下,雨血於太原。戊午,帝至晉陽。己未,周軍逼并州,又遺大將軍達奚武帥眾數萬至東雍及晉州,與突厥相應。
○周11晋蕩公護伝
 是年,乃遣柱國楊忠與突厥東伐。破齊長城。
○周19達奚武伝
 其年,大軍東伐。隨公楊忠引突厥自北道,武以三萬騎自東道,期會晉陽。
○周19・隋1楊忠伝
 又令達奚武帥步騎三萬,自南道而進,期會晉陽。忠乃留敏據什賁,遊兵河上。忠出武川,過故宅,祭先人,饗將士,席卷二十餘鎮(城)。齊人守陘嶺之隘,忠縱奇兵奮擊,大破之。又留楊纂屯靈丘為後拒。突厥木汗可汗控地頭可汗、步離可汗等,以十萬騎來會。...是時大雪數旬,風寒慘烈。
○周50突厥伝
 忠軍度陘嶺,俟斤率騎十萬來會。
○北斉11河間王孝琬伝
 初,突厥與周師入太原,武成將避之而東。孝琬叩馬諫,請委趙郡王部分之,必整齊,帝從其言。孝琬免冑將出,帝使追還。
○北斉16段韶伝
 十二月,周武帝遣將率羌夷與突厥合眾逼晉陽,世祖自鄴倍道兼行赴救。突厥從北結陣而前,東距汾河,西被風谷。時事既倉卒,兵馬未整,世祖見如此,亦欲避之而東。尋納河間王孝琬之請,令趙郡王盡護諸將。
○北斉17斛律光伝
 三年正月,周遣將達奚成興等來寇平陽,詔光率步騎三萬禦之。
○北斉21封絵伝
 後突厥入逼晉陽,詔子繪行懷州事,乘驛之任。
○北斉41皮景和伝
 尋加開府。二年,出為梁州刺史。三年,突厥圍逼晉陽,令景和馳驛赴京,督領後軍赴并州。
○北51趙郡王叡伝
 河清三年,周師及突厥至并州,武成戎服,將以宮人避之,叡叩馬諫,乃止。帝親御戎,六軍進止,並令取叡節度,而使段孝先總焉。
○北55唐邕伝
 河清元(三?)年,突厥入寇,遣邕驛赴晉陽,纂集兵馬。在路聞虜將逼,邕斟酌事宜,改敕,更促期會,由此兵士限前畢集。

 ⑴達奚武…字は成興。生年504、時に60歳。沙苑の戦いでは敵陣に大胆不敵な偵察を敢行し、河橋の戦いでは先鋒を任されて莫多婁貸文・高敖曹を斬り、邙山の戦いでは東魏軍の追撃を食い止めた。552年、漢中を陥とす大功を立てた。553年、玉壁の鎮守を任された。558年、司馬消難を迎え入れる役目を任された。今年、太保とされた。563年(2)参照。
 ⑵什賁...《読史方輿紀要》曰く、『《括地志》曰く、「夏州朔方県の北に什賁城がある。前漢の武帝が蘇建に築かせた城である。什賁の呼称は、恐らく異民族の言葉から来たものであろう。」宋白曰く、「什賁故城は徳静県の治所である。」』
 ⑶陘嶺…《読史方輿紀要》曰く、『陘嶺は、太原府の代州の西北二十五里にある。勾注山のことである。雁門山ともいう。《唐志》曰く、「西陘は関名である。雁門山の上にある。高い山々の間に険しく曲がりくねった一本の道があり、その一番高い所に関を置いた。これを西陘関といい、また雁門関と言った。西北七十里に朔州馬邑県が、南三十里に代州がある。」』
 ⑷霊丘...《読史方輿紀要》曰く、『大同府(平城)の東南三百五十里→蔚州の西南百五十里にある。西南二百三十里に代州繁峙県がある。漢の時、代郡に属した。趙の武霊王がここに埋葬されたという言い伝えから霊丘と名付けられた。』
 [1]木杆は国を三部に分けた。木杆は中央を統べ、於都斤(ウトゥカン)山に居住した。地頭可汗は東方を、步離可汗は西方を統べた。
 ⑸北斉武成紀には北周軍・突厥軍合わせて『二十余万』とある。
 ⑹唐邕...字は道和。記憶力抜群の能吏。歩兵の維持管理を任された。文宣帝に『唐邕の敏腕は千人に匹敵する』『判断力・記憶力に優れ、軍務を処理する際、文書を書くこと、命令を言うこと、報告を聞くことを同時に行なうことができる。天下の奇才』『金城湯池』と評された。563年(3)参照。
 ⑺皮景和...生年521、時に43歳。騎射の名手で、山胡を討伐した際一人で数十人を射殺した。身軽ですばしこく、軍事の才能があったため、戦いに出るたび戦功を挙げた。親信副都督→庫直正都督とされ、北斉が建国されると左右大都督とされた。560年に武衛将軍、561年に武衛大将軍・開府、562年に梁州刺史とされた。563年(4)参照。551年(5)参照。
 ⑻封子絵...字は仲藻。高歓の挙兵に大きく貢献した封隆之の子。気遣いが上手く、器量があった。邙山の戦いで勝利した際、長安まで攻め込むことを主張したが聞き入れられなかった。高歓の臨終の際、山東の巡撫を託された。556年、合州刺史とされると、直ちに防備を完璧なものとし、遠征軍の大敗によって動揺した州の人心を落ち着けた。557年には陳の侵攻を退けた。562年に冀州にて平秦王帰彦が叛乱を起こすと、冀州に派遣されて住民の説得に当たった。562年(4)参照。
 ⑼風谷山...《読史方輿紀要》曰く、『太原県の西十五里にある。』
 ⑽段韶...字は孝先。婁太后(武成帝の母)の姉の子。知勇兼備の将。邙山の戦いで高歓を危機から救った。また、東方光の乱を平定し、梁の救援軍も撃破した。560年、孝昭帝の権力奪取に貢献し、武成帝が即位すると大司馬とされた。562年、平秦王帰彦の乱を平定した。562年(4)参照。

┃晋陽城西の戦い
 北斉の武成帝が宮女と共に深紅の鎧をまとい、晋陽の故・北城に登り、自軍の様子を視察した。この時、北斉軍の陣容はすっかり整っていた。
564年、〕春、正月、庚申朔(1日)、突厥・北周連合軍が步兵を先頭にして(大雪により騎兵に不利な地形となっていた)西山を下り、晋陽城まで二里の距離に迫った。北斉の諸将は口々に迎撃するべきだと主張した。しかし、〔太傅・并州刺史・平原王の〕段韶はこう言った。
「歩兵は〔騎兵と比べ、〕体力の限界が速い。〔その上、〕今は雪が非常に降り積もっている時なのだ。そんな時に出撃して戦えば、〔歩兵は疲れ果て、使い物にならなくなるだろう。〕それなら、堅陣を築いて待ち受けた方が良い。疲労した敵軍を気力充分の味方が撃てば、勝利間違いなしだ。」
 連合軍がやってくると、北斉軍の精鋭は一斉に出撃し、陣太鼓の音の下敵陣に突貫した。突厥人はその勢いに恐れをなし、北周人にこう言った。
「お前たちが『斉は乱れている』と言ったから兵を起こしたのに、〔実際はどうだ〕。眼中に鉄の意志が宿っているではないか。勝ち目は無いぞ!」
 かくて北周軍を置いて西山に退却した。北周軍はみな顔面蒼白となった。その時、〔北周の柱国大将軍・大司空・隨国公の〕普六茹忠楊忠)は兵にこう言った。
「勝敗は天が決めることだ! 兵の多寡など関係ない!」
 かくて七百人の歩兵を率いて激闘を繰り広げた。しかし、やがて周軍は北斉軍に十重二十重に包囲され、北斉の蘭陵王長恭などの猛攻の前に前衛は一人残らず斃され、軍の四・五割が戦死した。北周の開府の権襲慶は矢が尽きると白兵戦を行なって多くの斉兵を殺傷したが、刀も矟(長柄の矛)もみな折れると、兜を脱いで地に投げ、斉兵を大いに罵って言った。
「〔腰抜けどもが!〕どうして首を斬りに来ないのだ!」
 かくて斉兵に殺された。
 忠は〔南道より晋陽に向かっているはずの〕達奚武の軍がやってこないのを見ると、遂に夜陰に紛れて撤退した。この時、開府・金州総管の賀若敦が殿軍を務めた。

 権襲慶は天水の人で、父の権超は秦州刺史を務めた。

 突厥は逃走の際大略奪を行ない、晋陽以北七百余里にいた人や家畜をみな拉致した。陘嶺を越える際には滑落を防止するため、毛織の敷物を敷いて進んだ。軍馬は寒さのために瘦せ衰え、膝下の毛は全て抜け落ち、長城に着いた頃にはほぼ死に絶えてしまった。そのため、矟を短く切ったものを杖代わりにしてなんとか帰還した。段韶は騎兵を率いてこれを追撃し、長城以北にまで到ったが、慎重を期していたため、遂に戦うことはなかった。

 この時、〔北斉の太保・柱国大将軍・鄭国公の〕達奚武は平陽にまで進んでいたが、まだ忠が退却したことを知らなかった。〔武と対峙していた司空の〕斛律光は、武に書簡を送って言った。
「鴻鵠(大鳥)すでに寥廓(天空)を翔るに、羅者(鳥網を張る者)なお沮沢(水草の生えた湿地)を視る。」(司馬相如伝。ここでは恐らく『晋陽は既に平穏無事となったのに、まだ狙おうとしているのか』と言わんとしているのであろう
 武はこれを読むと、撤退を開始した。光はこれを追って北周領内に入り、二千余の住民を拉致して晋陽に帰った。大敵の侵攻に恐懼していた帝は、光を見ると思わずその頭を掻き抱いて号泣した。すると任城王湝が進み出て言った。
「何をしているのですか!」
 すると帝ははたと我に返り、泣くのをやめた。

○周武帝紀
 四年春正月庚申,楊忠破齊長城,至晉陽而還。
○北斉武成紀
 三年春正月庚申朔,周軍至城下而陳,戰於城西。周軍及突厥大敗,人畜死者相枕,數百里不絕。詔平原王段韶追出塞而還。
○周19達奚武伝
 武至平陽,後期不進,而忠已還,武尚未知。齊將斛律明月遺武書曰:「鴻鶴已翔於寥廓,羅者猶視於沮澤也。」武覽書,乃班師。
○周19楊忠伝
 四年正月朔,攻晉陽。是時大雪數旬,風寒慘烈,齊人乃悉其精銳,鼓噪而出。突厥震駭,引上西山不肯戰。眾皆失色。忠令其眾曰:「事勢在天,無以眾寡為意。」乃率七百人步戰,死者十四五。以武後期不至,乃班師。齊人亦不敢逼。突厥於是縱兵大掠,自晉陽至平城七百餘里,人畜無孑遺,俘斬甚眾。高祖遣使迎勞忠於夏州。及至京師,厚加宴賜。高祖將以忠為太傅,晉公護以其不附己,難之,乃拜總管涇豳靈雲鹽顯六州諸軍事、涇州刺史。
○周28賀若敦伝
 三年,從柱國楊忠引突厥破齊長城,至幷州而還,以敦為殿。
○周50・北99突厥伝
 明年正月,攻齊主於晉陽,不尅。俟斤遂縱兵大掠而還。
○北斉11蘭陵武王長恭伝
 突厥入晉陽,長恭盡力擊之。
○北斉16段韶伝
 時大雪之後,周人以步卒為前鋒,從西山而下,去城二里。諸將咸欲逆擊之。韶曰:「步人氣勢自有限,今積雪既厚,逆戰非便,不如陣以待之。彼勞我逸,破之必矣。」既而交戰,大破之,敵前鋒盡殪,無復孑遺,自餘通宵奔遁。仍令韶率騎追之,出塞不及而還。
○北斉17斛律光伝
 三年正月,周遣將達奚成興等來寇平陽,詔光率步騎三萬禦之,興等聞而退走。光逐北,遂入其境,獲二千餘口而還。
○隋65権武伝
 權武字武挵,天水人也。祖超,魏秦州刺史。父襲慶,周開府,從武元皇帝與齊師戰于并州,被圍百餘重。襲慶力戰矢盡,短兵接戰,殺傷甚眾,刀矟皆折,脫冑擲地,向賊大罵曰:「何不來斫頭也!」賊遂殺之。
○北51趙郡王叡伝
 帝與宮人被緋甲,登故北城以望,軍營甚整。突厥咎周人曰:「爾言齊亂,故來伐之;今齊人眼中亦有鐵,何可當邪!」乃還,至陘嶺,凍滑,乃鋪氊以度。胡馬寒瘦,膝已下皆無毛,比至長城,死且盡,乃截矟杖之以歸。是役也,段孝先持重,不與賊戰,自晉陽失道,為虜所屠,無遺類焉。斛律光自三堆還,帝以遭大寇,抱其頭哭。任城王湝進曰:「何至此!」乃止。

 ⑴賀若敦...生年521?、時に44歳。騎射に長けた。もと東魏の臣。537年に父の統と共に西魏に付いた。蜀東北部の攻略・信州の回復・譙淹の討伐・文子栄の討伐に活躍した。560年、陳の侵攻に遭った湘州の救援に赴き、一年以上に渡って対峙したが勝つことができず、失地無功を以て除名された。562年(6)参照。
 ⑵任城王湝...高歓の第十子で武成帝の異母弟。母は小爾朱氏。聡明で、孝昭帝・武成帝が晋陽から鄴に赴いた時、常にその留守を任された。562年に司徒とされた。562年(1)参照。

┃出陣


10月、北周は突厥に強要されて再び北斉討伐に赴いた。〕
 この時、〔北周の大冢宰の〕晋公護は北斉に母を返してもらったばかりだったので、気乗りしなかった。しかし、断ると突厥の機嫌を損ね、侵攻を受ける危険性があることを鑑み、やむなく出陣することにしたのだった。
 かくて北周は二十四軍[1]および左右廂の兵(近衛兵)、秦隴巴蜀の兵、異民族の兵、総じて二十万人を動員し、東伐の軍を起こした。
 甲子(10日)武帝が宗廟にて護に斧鉞を貸し与えた。
 丁卯(13日)、帝が沙苑に赴き、東伐軍を労った。
 癸酉(19日)、帝が皇宮に帰った。

 護は潼関に到ると、柱国の尉遅迥に精兵十万を与えて先鋒とし、柱国・雍州牧の斉公憲や〔涇州総管?の〕可頻雄王雄らと共に洛陽に向かわせた。また、大将軍〔・基鄀硤平四州五防諸軍事・江陵防主〕の権景宣に山南の兵(荊、襄之兵)を率いて懸瓠(豫州)に向かうよう命じた。また、〔開府儀同三司・〕少師〔・邵州刺史〕の楊檦に軹関(去年、北斉が築いていた)に出撃させた。また、柱国〔・涇州総管・涇豳霊雲塩顕六州諸軍事・涇州刺史?〕の普六茹忠楊忠)に沃野に出撃して突厥と合流するように命じた。

 太傅・柱国の万紐于謹于謹は高齢かつ病身の身だったが、護に請われて同行し、作戦の相談に乗った。
 柱国・岐州刺史の豆盧寧は病身を押して車に乗って従軍した。
 柱国の可頻雄も道中に病にかかったが、気を奮い立たせて従軍した。
 柱国・陝州総管の尉遅綱は兵を与えられて長安の留守を任されたが、綱は長安は天子がいるため心配ないと考え、外に出ることを求めて許され、咸陽(長安の近西北)に駐屯した。

○周武帝紀
 甲子,詔大將軍、大冢宰、晉國公護率軍伐齊,帝於太廟庭授以斧鉞。於是護總大軍出潼關,大將軍權景宣率山南諸軍出豫州,少師楊檦出軹關。丁卯,幸沙苑勞師。癸酉,還宮。
○北斉武成紀
 周軍三道並出,使其將尉遲迥寇洛陽,楊檦入軹關,權景宣趣懸瓠。
○周11晋蕩公護伝
 是年也,突厥復率眾赴期。護以齊氏初送國親,未欲即事征討,復慮失信蕃夷,更生邊患。不得已,遂請東征。九月,…於是徵二十四軍及左右廂散隸、及秦隴巴蜀之兵、諸蕃國之眾(羌、胡內附者)二十萬人。十月,帝於廟庭授護斧鉞。出軍至潼關,乃遣柱國尉遲迥率精兵十萬為前鋒,大將軍權景宣率山南之兵出豫州,少師楊檦出軹關。
○周15于謹伝
 及晉公護東伐,謹時老病,護以其宿將舊臣,猶請與同行,詢訪戎略。
○周19豆盧寧伝
 保定四年,授岐州刺史。屬大兵東討,寧輿疾從軍。
○周19・北11楊忠伝
 乃拜〔涇州〕總管、涇豳靈雲鹽顯六州諸軍事、涇州刺史。是歲,大軍又東伐,晉公護出洛陽,令忠出沃野以應接突厥。
○周19王雄伝
 保定四年,從晉公護東征。雄在塗遇病,乃自力而進。
○周20尉遅綱伝
 二年,出為陝州總管、七州十三防諸軍事、陝州刺史。四年,晉公護東討,乃配綱甲士,留鎮京師。綱以天子在宮,必無內慮,乃請出外,頓於咸陽。
○周50突厥伝
 是歲,俟斤復遣使來獻,更請東伐。詔楊忠率兵出沃野,晉公護趣洛陽以應之。
○北斉17斛律光伝
 是年冬,周武帝遣其柱國大司馬尉遲迥、齊國公宇文憲、柱國庸國公可叱雄等,眾稱十萬,寇洛陽。
○北62尉遅迥伝
 及晉公護東伐,迥帥師攻洛陽。齊王憲等軍於芒山。

 ⑴晋公護...宇文護。字は薩保。宇文泰の兄の子。生年513、時に52歳。宇文泰に「器量が自分に似ている」と評された。泰が危篤となると幼い息子(孝閔王)の後見を託されたが、宰相となると瞬く間に権力を我が物とし、孝閔王と明帝を毒殺して武帝を立てた。564年(3)参照。
 [1]二十四軍...六柱国および十二大将軍が率いる関中諸府の兵の事である。宇文泰が西魏の丞相となった時、左右十二軍、計二十四軍を置いて丞相府に所属させた。
 ⑵武帝...宇文邕。北周の三代皇帝。宇文泰の第四子。生年543、時に22歳。聡明・沈着で将来を見通す目を持ち、泰に「我が志を達成してくれる者」と評された。文学を愛好した。560年、帝位に即いた。564年(3)参照。
 ⑶尉遅迥...字は薄居羅。宇文泰の姉の子。生年516、時に49歳。美男子。早くに父を亡くし、宇文家に引き取られて育てられた。頭脳明晰で文武に才能を発揮し、泰に非常に信任された。553年に蜀制圧という大功を立てた。558年、隴右の鎮守に赴いた。562年、大司馬とされた。562年(4)参照。 
 ⑷斉公憲...字は毗賀突。宇文泰の第五子。生年544、時に21歳。母は達步干妃。聡明で器が大きく、幼い頃から気高い精神を備えていた。宇文泰が子どもたちに好きな良馬を選ばせて与えた時、ひとり駁馬を選び、泰に「この子は頭がいい。きっと大成するぞ」と評された。559年、益州刺史とされると、真摯に政務に取り組んで人心を掴んだ。562年、都に呼び戻された。今年、雍州牧とされた。564年(2)参照。
 ⑸可頻雄(王雄)...字は胡布頭。生年507、時に58歳。堂々とした容姿をしていた。十二大将軍の一人。魏興・上津を攻略し、可頻氏の姓を賜った。558年、柱国大将軍とされた。559年(5)参照。
 ⑹権景宣...字は暉遠。軍略に優れ、主に東南方面にて活躍した。のち、その軍事を一任された。のち、基鄀硤平四州五防諸軍事・江陵防主とされ、大將軍に任ぜられた。
 ⑺楊檦...字は顕進。河東の豪族。義侠心に厚く、北魏の城陽王徽を匿ったことで名を上げた。梁将の陳慶之が洛陽を占拠した際には爾朱栄に船を提供し、その勝利に貢献した。のち宇文泰に仕え、537年以降、河東方面の軍事を一任された。
 ⑻万紐于謹(于謹)...字は思敬。生年493、時に72歳。八柱国の一人で、北周の元勲。冷静沈着の名将。姓を元の万紐于氏に復した。554年、梁の首都の江陵を陥とす大功を挙げた。563年、三老に任ぜられた。563年(2)参照。
 ⑼豆盧寧...字は永安。生年500、時に65歳。前燕慕容氏の末裔で、八尺の長身の美男子。劉平伏・鄭五醜の乱を平定した。また、侯平の侵攻も撃退した。563年(2)参照。
 ⑽尉遅綱...字は婆羅。生年517、時に48歳。宇文泰の姉の子で、尉遅迥の弟。膂力があり、騎射に長けた。528年に宇文泰が関中に赴いた後も晋陽に留まり、のちに合流した。河橋の戦いにて宇文泰を救う大功を挙げた。のち、領軍将軍→中領軍となって西魏の廃帝や趙貴・独孤信・孝閔王の企みを阻止した。557年に小司馬・柱国大将軍とされ、559年に呉国公とされ、561年に少傅→大司空とされた。562年、陝州総管とされた。562年(4)参照。

┃洛陽包囲
 北周軍は陣屋を〔何十里にも亘って〕連ね、ゆっくりと進軍した。
 甲午(11月10日)、北周の大冢宰の晋公護が弘農(陝州)に進んだ。尉遅迥は洛陽を包囲し、斉公憲達奚武可頻雄王雄)は邙山に陣を布いた。他の諸軍は各自要害を守備した。

○周武帝紀
 十一月甲午,柱國、蜀國公尉遲迥率師圍洛陽,柱國、齊國公憲營於邙山,晉公護次於陝州。
○北斉武成紀
 冬十一月甲午,迥等圍洛陽。
○周11晋蕩公護伝
 護連營漸進,屯軍弘農。迥攻圍洛陽。柱國齊公憲、鄭國公達奚武等營於邙山。
○周12斉煬王憲伝
 及晉公護東伐,以尉遲迥為先鋒,圍洛陽。憲與達奚武、王雄等軍於邙山。自餘諸軍,各分守險要。
○北62尉遅迥伝
 及晉公護東伐,迥帥師攻洛陽。齊王憲等軍於芒山。

┃洛陽の攻防
 これより前、北周軍が洛州に攻め入るとの見方が強まると、北斉の河陽道行台尚書の独孤永業は洛陽に急行し、金墉城(洛陽城内西北にある小城)に入って洛州刺史の段思文と共に守りを固めていた。
 北周軍は洛陽を包囲すると、土山を築き、坑道を掘って間断無く攻め立てたが、永業が二(三?)百の精鋭を率い、常に矢面に立って奮戦したため、一ヶ月経っても陥とすことができなかった。
 北周軍がこうも苦戦したのは、総指揮官の晋公護に生まれつき戦争の才能が無かったことと、今回の戦争が突厥の強要によって仕方なく行なわれたものだったことの二つに原因があった[1]
 護は諸将に対し、河陽方面の援路を封鎖し、守りを固めてから洛陽を攻めるよう下知していたが、諸将は北斉軍は絶対にやってこないと高を括り、防備を固めず、ただ斥候を出すだけに留めていた。

○周11晋蕩公護伝
 護性無戎略,且此行也,又非其本心。故師出雖久,無所克獲。護本令壍斷河陽之路,遏其救兵,然後同攻洛陽,使其內外隔絕。諸將以為齊兵必不敢出,唯斥候而已。
○北斉41独孤永業伝
 至河清三年,周人寇洛州,永業恐刺史段思文不能自固,馳入金墉助守。周人為土山地道,曉夕攻戰,經三旬,大軍至,寇乃退。永業久在河南,善於招撫,歸降者萬計。選其二百人為爪牙,每先鋒以寡敵眾,周人憚之。
○三国典略
 五八、獨孤永業恐洛州刺史段思文不能自固,馳入金墉助守。尉遲迥為土山地道,曉夕攻戰。永業選其三百人為爪牙,每先鋒死戰,迥不能克。

 ⑴独孤永業...字は世基。本姓は劉。弓と馬の扱いに長け、晋陽(覇府)の宿衛(近衛兵)とされた。のち、高澄から抜擢を受け、中外府外兵参軍とされた。天保元年(550)に中書舍人・豫州司馬とされた。読み書きや計算が達者で、しかも歌や舞が上手だったので、文宣帝に非常に気に入られた。智謀に優れ、洛州刺史とされるとたびたび意表を突いた侵攻を行なった。乾明元年(560)に河陽行台右丞とされ、のち(562年以降?)洛州刺史・左丞→尚書とされた。562年(6)参照。
 [1]『大義名分が無い軍事行動は必ず失敗する』(《漢書高帝紀》)とは、まさにこの事を指しているのだ!

┃北周こそ膏肓の病なり
 この時、北斉は〔開府儀同三司・領軍将軍の〕蘭陵王長恭と大将軍(司徒?)の斛律光に五万の騎兵を与え、洛陽の救援に向かわせていたが、二人は北周軍の強大さを恐れ、邙山の麓にまで到った所で進軍を停止した。
 武成帝は太師・平原王の段韶を晋陽に呼ぶと、こう言った。
「今、王に洛陽を救ってもらいたいのだが、突厥の侵攻も気がかりだ。どうしたらいいものだろうか。」
 韶は答えて言った。
「北虜(突厥)が北辺を荒らすのは疥癬のような小さなわずらいにしか過ぎませんが、西羌(北周)が鄴都に迫るのは膏肓(心腹)の病のような大きなわずらいであります。どうか洛陽に向かわせてくださいますよう。」
 帝は言った。
「朕もそのように考えていた。」
 かくて韶に精騎千を与え、洛陽に向かわせた。
 丁巳(3日)、帝も洛陽に向かった。

○北斉武成紀
 丁巳,帝自晉陽南討。
○北斉16段韶伝・資治通鑑
 護既得母,仍遣將尉遲迥等襲洛陽。詔遣蘭陵王長恭、大將軍斛律光率眾擊之,軍於邙山之下,〔畏周兵之彊,〕逗留未進。世祖召〔并州刺史段韶,〕謂曰:「〔洛陽危急,〕今欲遣王赴(救)洛陽之圍,但突厥在此,復須鎮禦,王謂如何?」韶曰:「北虜侵邊,事等疥癬,今西羌窺逼,便是膏肓(腹心)之病,請奉詔南行。」世祖曰:「朕意亦爾。」乃令韶督精騎一千,發自晉陽。
○北斉17斛律光伝
 光率騎五萬馳往赴擊。


┃決戦

〔北斉の太師の〕段韶は晋陽を発つと、五日後には黄河を渡り、洛陽近辺に到って蘭陵王長恭たちと作戦を練った。
 この時、洛陽の一帯では濃霧が連日に亘って発生していた。
 壬戌(12月8日)の早朝、韶は麾下の兵二百騎(資治通鑑では『三百』)を率いて諸将と共に邙山に登り、北周軍の様子を偵察しようとした。すると、太和谷に到った所で北周軍と遭遇した。韶は即座に諸軍に伝令を急派し、兵馬を集め、陣を布いて来攻を待ち受けた。韶は左軍を、長恭は中軍を、〔司徒の〕斛律光は右軍をそれぞれ指揮した。北周軍はまさかの北斉軍の来襲に動揺を隠せなかった。
 韶は遠くから叫んで言った。
「お前たちの主君の宇文護は、我が朝より母を返してもらったばかり(今年の9月)なのだぞ! それなのに、これに報いることをせず、却って兵を寄越してくるとは何事か!」
 周人は答えて言った。
「天が我らをここに遣わしたのだ! なんの問題があるか!」
 韶は言った。
「天は善を賞し悪を罰するものだ! 本当に天がお前らをここに遣わしたのだとすれば、それはお前らを死なせるためだ!」
 北周軍は〔憤激し、〕步兵を前にして邙山上にいる北斉軍に攻めかかった。
 韶は敵が歩兵でこちらは騎兵であることを活かし、戦っては退き、山を登らせることで疲弊を誘った。それから騎兵に下馬させて攻撃を仕掛けると、北周軍は瞬く間に総崩れとなった。長恭が指揮する中軍の攻撃を受けた北周軍も一瞬にして瓦解し、溪谷に身を投げて死んだ者は非常な数に上った。

○周武帝紀
 壬戌,齊師渡河,晨至洛陽,諸軍驚散。
○北斉武成紀
 壬戌,太師段韶大破尉遲迥等,解洛陽圍。
○周11晋蕩公護伝
 值連日陰霧,齊騎直前,圍洛之軍,一時潰散。唯尉遲迥率數十騎扞敵,齊公憲又督邙山諸將拒之,乃得全軍而返。權景宣攻克豫州,尋以洛陽圍解,亦引軍退。楊於軹關戰沒。護於是班師。以無功,與諸將稽首請罪,帝弗之責也。
○北斉11蘭陵武王長恭伝
 芒山之敗,長恭為中軍。
○北斉16段韶伝・資治通鑑
 五日便濟河,與大將共量進止。韶旦將帳下二(三)百騎與諸軍(將)共登邙阪,聊觀周軍形勢。至大(太)和谷,便值周軍,即遣馳告諸營,追集兵馬(騎士)。仍與諸將結陣以待之。韶為左軍,蘭陵王為中軍,斛律光為右軍,與周人相對。韶遙謂周人曰:「汝宇文護幸(纔)得其母,不能懷恩報德,今日之來,竟何意也?」周人曰:「天遣我來,有何可問。」韶曰:「天道賞善罰惡,當遣汝送死來耳。」周軍仍以步人在前,上山逆戰。韶以彼徒我騎,且却且引(且戰且卻),待其力弊,乃遣下馬擊之。短兵始交,周人大潰。其中軍所當者,亦一時瓦解,投墜溪谷而死者甚眾。
○北斉17斛律光伝
 戰於邙山,迥等大敗。


 ⑴太和谷...《読史方輿紀要》曰く、『邙山の東辺にある。』

┃蘭陵王入陣曲
 長恭は五百騎を率いて洛陽の包囲を突破し、金墉城(洛陽城内西北にある堅城)の下に到った。長い攻囲に苦しみ余裕の無くなっていた城兵は、突如現れた長恭軍を敵とみなして弩を向けた。すると長恭は仮面の付いた兜を脱いで顔を見せた(長恭は常に仮面を付けて戦っていた)。〔その時、城内のある者がこう叫んだ。
「蘭陵王殿下だ!」
 城内は歓声を上げ、〕弩手を城下に下ろして長恭を援護した。
〔内外から攻撃を受けて〕総崩れとなった包囲軍は、陣地を捨てて逃走した。邙山から穀水に到るまでの三十里にある川や沢は、遺棄された軍需物資で溢れかえった。
 この一連の戦いにおいて、長恭は軍中随一の武勇を示した。北斉の人々はこれを讃え、その戦いぶりを真似て作った大()面舞という舞を、曲に乗せて舞った。これを『蘭陵王入陣曲』という。
 長恭は天性軍事の才能に優れていただけでなく、容貌も美しく、肌の色は白く、まるで美女のような顔立ちをしていた。ただ、それでは敵を威圧することができないと考え、戦場では仰々しい仮面を付けて敵と対したのである。

○北斉11蘭陵武王長恭伝
 芒山之敗,長恭為中軍,率五百騎再入周軍,遂至金墉之下,被圍甚急,城上人弗識,長恭免冑示之面,乃下弩手救之,於是大捷。武士共歌謠之,為蘭陵王入陣曲是也。
○北斉16段韶伝・資治通鑑
 洛城之圍,亦即奔遁,盡棄營幕,從邙山至穀水三十里中,軍資器物彌滿川澤。
○楽府雑録
 神武弟有膽勇,善鬥戰,以其顏貌無威,每入陣即著面具,後乃百戰百勝。
○隋唐嘉話巻下
 高齊蘭陵王長恭白類美婦人。
○旧唐音楽志
 大面出於北齊。北齊蘭陵王長恭,才武而面美,常著假面以對敵。嘗擊周師金墉城下,勇冠三軍,齊人壯之,為此舞以效其指麾擊刺之容,謂之蘭陵王入陣曲。
○海録砕事16代面
 北齊蘭陵王,體身白哲,面夫風姿。乃著假面以對敵,數立奇功。齊人作舞以効之,號代面舞。
○北史演義
 每臨陣,恐無以威敵,帶面具出戰,匹馬直前,萬人辟易。是役也,功最著。奏凱後,齊人作蘭陵王樂以榮之。

 ⑴穀水...《読史方輿紀要》曰く、『水源は澠池県の南山中の穀陽谷で、そこから東北に流れて新安県の南を経、更に東に流れて澗水と合流する。その後、更に東に流れて洛陽城の広莫門(洛陽の北門の一。最右に位置する)の北を経、更に東南に流れて洛水と合流する。』

┃反撃
 北斉軍の奇襲に北周軍は総崩れとなったが、〔総指揮官の〕尉遅迥は麾下の数十騎を率いて反撃し、斉公憲達奚武可頻雄王雄)・達奚震らも邙山に踏みとどまって北斉軍の進軍を阻んだ。
 その際、雄は馬に乗って斛律光の陣に突入し、三人を殺した。光が逃げると、雄はこれを追った。やがて光の護衛は家奴一人を残してみな逃げ散り、矢も残り一本となるに至った。雄は矟(長矛。馬上槍)を手に光まで一丈余(約三メートル)の距離にまで迫った所でこう言った。
「貴様は殺すには惜しい。生け捕りにし、天子にお見せしよう!」
 その時、光はサッと雄の方に振り向き、雄に矢を射た。矢は雄の額に突き立った。雄は馬首にもたれながら逃走し、陣に戻った所で亡くなった(享年58)。使持節・太保・同華等二十州諸軍事・同州刺史を追贈され、忠と諡された。
 雄の死に軍中は動揺したが、憲が叱咤するとやや落ち着きを取り戻した。
 この戦いの最中、数人の周兵が捕らえられ、二百余步(約350メートル)の距離まで連れ去られた。北周の大将軍の賀蘭台梁台はこれを遠方から発見すると激怒し、単騎敵中に突入して斉兵二人を射殺した。すると斉兵は恐れをなして逃走した。そのため、捕らえられた周兵は帰還することができた。憲は感嘆して言った。
「梁(賀蘭?)台の肝っ玉にはかなわぬ。」
 夜になると、両軍は一旦それぞれの陣地に戻った。憲は戦闘の継続を、達奚武は撤退を主張して譲らなかった。やがて、武はこう言った。
「包囲軍が敗れ去ったため、兵は浮き足立っております。この夜闇を逃せば、〔明日には大敗し、〕生還は望めなくなります。私は戦いを何度も経験しておりますから、それが分かるのです。公は若年にして経験も浅うございますから、分からないのです。大勢の兵たちを虎口に捨てるようなことをしてはなりません!」
 憲はこれを聞き入れた。かくて、殿軍は帰還することができた。斛律光は首級・捕虜三千余を得、死骸を積み上げて京観()を築〔き、戦勝を記念し〕た。
 北周の軍で全く損害を出さなかったのは、達奚震と柱国大将軍・少師の歩大汗果韓果だけだった。

○周武帝紀
 尉遲迥率麾下數十騎扞敵,得卻,至夜引還。柱國、庸國公王雄力戰,死之。遂班師。楊於軹關戰沒。權景宣亦棄豫州而還。
○周11晋蕩公護伝
 值連日陰霧,齊騎直前,圍洛之軍,一時潰散。唯尉遲迥率數十騎扞敵,齊公憲又督邙山諸將拒之,乃得全軍而返。
○周12斉煬王憲伝
 齊兵數萬,奄出軍後,諸軍恇駭,竝各退散。唯憲與王雄、達奚武率眾拒之。而雄為齊人所斃,三軍震懼。憲親自督勵,眾心乃(小)安。
○周19達奚武伝・資治通鑑
 時尉遲迥圍洛陽,為敵所敗。武與齊王憲於邙山禦之。至夜,收軍。憲欲待明更戰,武欲還,固爭未決。武曰:「洛陽軍散,人情駭動。若不因夜速還,明日欲歸不得。武在軍旅久矣,備見形勢。大王(公)少年未經事,豈可將數營士眾,一旦棄之乎(委之虎口乎)。」憲從之,遂全軍而返。
○周19達奚震伝
 保定四年,大軍東討,諸將皆奔退,震與敵交戰,軍遂獨全。
○周19・北60王雄伝
 至邙山,與齊將斛律明月接戰。雄馳馬衝之,殺三人,明月退走,雄追之。明月左右皆散,矢又盡,惟餘一奴一矢在焉。雄按矟不及明月者丈餘,曰:「惜爾,不殺得,但任(生)〔生將〕爾見天子。」明月乃(反)射雄,中額,抱馬退走,至營而薨。時年五十八。贈使持節、太保、同華等二十州諸軍事、同州刺史,諡曰忠。
○周27韓果伝
 四年,從尉遲迥圍洛陽。軍退,果所部獨全。
○周27梁台伝
 保定四年,拜大將軍。時大軍圍洛陽,久而不拔。齊騎奄至,齊公憲率兵禦之。乃有數人為敵所執,已去陣二百餘步,臺望見之,憤怒,單馬突入,射殺兩人,敵皆披靡,執者遂得還。齊公憲每歎曰:「梁臺果毅膽決,不可及也。」
○北斉17斛律光伝
 戰於邙山,迥等大敗。光親射雄,殺之。斬捕首虜三千餘級,迥、憲僅而獲免,盡收其甲兵輜重,仍以死者積為京觀。
○北62尉遅迥伝
 齊眾度河,諸軍驚散。迥率麾下反行却敵,於是諸將遂得全師而還。

 ⑴達奚震...字は猛略。達奚武の子。馬と弓の扱いに長け、駿馬のような脚力と人並み外れた筋力を有し、巻狩りの際、宇文泰の前で兎を一矢で仕留めた。559年、華州(華山。長安の東)刺史とされると善政を行なった。559年(6)参照。
 ⑵賀蘭台(梁台)...字は洛都。賀蘭氏の姓を賜った。爾朱天光・賀抜岳に仕え、文武に活躍して信任を受けた。のち宇文泰に仕え、莫折後熾・劉平伏の乱の平定に活躍した。559年、吐谷渾の討伐に加わった。今年、大将軍とされた。559年(2)参照。
 ⑶歩大汗果(韓果)...字は阿六抜。本姓は恐らく歩大汗。若くして勇猛で、騎射に長け、並外れた体力を有した。また、抜群の記憶力と智謀を有し、通った所の地勢をつぶさに記憶し、敵の動きを推察し把握することができた。そのため、宇文泰に虞候都督とされて斥候の騎兵を任され、小関の勝利に大きく貢献した。548年、北山の稽胡族の乱の平定に活躍し、稽胡族から『著翅人』と呼ばれて恐れられた。559年、吐谷渾の討伐に加わり、560年、稽胡族を討伐した。563年、柱国大将軍・少師とされた。563年(2)参照。

┃四兄、大丈夫に非ず
 丁卯(13日)武成帝が洛陽に到った。北斉は北周軍の侵攻を受けた地域に一年間租税を免除し、州城にいる囚人に特赦を行なった。

 己巳(15日)、帝が自ら将兵たちをねぎらい、河陰にて宴会を開いた。帝は将兵たちの勲功を記録して任命・褒賞を行ない、太師の段韶を太宰とし、司徒の斛律光を太尉とし、并州刺史の蘭陵王長恭を尚書令とした。
 また、〔都官尚書の〕王峻を南道行台とし、〔大司馬(大将軍?)の〕婁叡と共に兵を率いて懸瓠(豫州)を奪還するよう命じた。到着する前に周軍が城を棄てて逃走すると、帝は峻に永・郢(義陽。永州の近南)二州を慰撫させた。
 
 壬申(18日)、帝が虎牢(北豫州)に到った。帝はその後、滑台(西兗州)、黎陽に赴き、通過した郡県にいた罪人に減刑を行なった。
 丙子(22日)、鄴に到着した。

 長恭は凱旋すると、兄弟たちに戦いの様子を語った。兄弟たちはみな長恭の戦いぶりを立派だと褒め称えたが、安徳王延宗だけはこう言った。
「四兄(長恭は高澄の第四子、延宗は第五子)は大丈夫ではない! 大丈夫なら、勝ちに乗じて一気に長安を突くはずだ! 自分が四兄だったら、今頃関西(北周)は滅んでいたであろうに!」

 癸未(29日)、北斉の使者(劉逖)が陳に到着した(11月14日鄴を出立)。

○北斉武成紀
 丁卯,帝至洛陽,免洛州經周軍處一年租賦,赦州城內死罪已下囚。己巳,以太師段韶為太宰,以司徒斛律光為太尉,并州刺史蘭陵王長恭為尚書令。壬申,帝至武牢,經滑臺,次於黎陽,所經減降罪人。丙子,車駕至自洛陽。
○陳文帝紀
 癸未,齊遣使來聘。
○北斉11安徳王延宗伝
 蘭陵王芒山凱捷,自陳兵勢,諸兄弟咸壯之。延宗獨曰:「四兄非大丈夫,何不乘勝徑入?使延宗當此勢,關西豈得復存。」
○北斉15婁叡伝
 武成至河陽,仍遣總偏師赴懸瓠。
○北斉16段韶伝
 車駕幸洛陽,親勞將士,於河陰置酒高會,策勳命賞,除太宰,封靈武縣公。
○北斉17斛律光伝
 世祖幸洛陽,策勳班賞,遷太尉,又封冠軍縣公。
○北斉25王峻伝
 車駕幸洛陽,以懸瓠為周人所據,復詔峻為南道行臺,與婁叡率軍南討。未至,周師棄城走,仍使慰輯永、郢二州。

 ⑴王峻...字は巒嵩。長年営州刺史を務め、伏兵を設けて失韋(室韋)や柔然を大破した。のち秘書監とされ、廃帝が即位すると(559年)洛州刺史・河陽道行台左丞とされた。皇建年間(560~561)、洛州の西境に三百里に渡る長大な塹壕を掘り、城戍を置いて間諜の侵入を防いだ。のち都官尚書とされ、北周が侵攻してくると河陽に赴いてこれを迎撃した。564年(5)参照。
 ⑵安徳王延宗...生年544、時に21歳。武成帝の兄の高澄の第五子。母はもと東魏の広陽王〔湛?〕の芸妓の陳氏。幼少の頃から文宣帝に養育され、「この世で可憐と言える者は、この子だけだ」と言われるほど可愛がられた。帝に何王になりたいか問われると「衝天王になりたい」と答えたが、衝天という郡名は無いという理由で結局安徳王とされた。555年(1)参照。


 蘭陵王伝(2)に続く