[隋:開皇二年 陳:太建十四年 後梁:天保二十年]

┃淮南文治
 5月、戊申(5日)、隋の上柱国(誤り?)・開府〔・揚州総管〕の長孫平を度支尚書とした。

 また(詳細な時期は不明)、〔柱国の〕元孝矩を寿州(揚州〈寿陽〉。寿州に改められたのは589年)総管とした。このとき帝は孝矩に璽書(御印を押した天子の詔書)を与えて言った。
「揚・越()の地は礼儀知らずの野蛮人どもが跋扈し、たびたび淮南の地を騒がしている。公は遠方の地の経略を志望していたゆえ、そこで今、この地の鎮守を任せる。礼節を以て人民を良く手懐け、朕の意志に沿うようにせよ。」

 己酉(6日)、隋は日照りに苦しめられていたが、文帝自ら囚人の審理を行なうとその日の内に大雨が降った。

○隋文帝紀
 五月戊申,以上柱國、開府長孫平為度支尚書。己酉,旱,上親省囚徒。其日大雨。
○隋46長孫平伝
 開皇三年,徵拜度支尚書。
○隋50元孝矩伝
 俄拜壽州總管,賜孝矩璽書曰:「揚、越氛祲,侵軼邊鄙,爭桑興役,不識大猷。以公志存遠略,今故鎮邊服,懷柔以禮,稱朕意焉。」時陳將任蠻奴等屢寇江北,復以孝矩領行軍總管,屯兵於江上。

 ⑴長孫平…字は処均。柱国の長孫倹の子。美男で非常な読書家だった。北周に仕え、衛公直の侍読とされた。のち、直が武帝に宇文護誅殺を勧める際に使者とされた。護が誅殺されると開府・楽部大夫とされ、宣帝が即位すると東京小司寇とされ、小宗伯の趙芬と六府を分掌した。楊堅と仲が良く、尉遅迥らが挙兵した際、揚州に赴いて賀若弼と総管を交代した。580年(7)参照。
 ⑵元孝矩…本名は矩。孝矩は字。北魏の雍州刺史の元修義の孫、西魏の安昌王の元均の子。祖父の爵位の始平県公を継ぎ、南豊州刺史とされた。元氏が窮状に陥ると宇文泰を討とうとしたが、兄に制止された。妹婿の宇文護と仲が良く、護が宰相となるとますます寵遇を受けた。護が誅殺されると蜀に流された。のち赦され、司憲大夫とされた。のち柱国・小冢宰・大司寇とされた。楊堅(文帝)にその血筋の良さを重んぜられ、娘がその子の楊勇の妻となった。隋が建国されると勇に代わって洛州を鎮守した。581年(1)参照。

┃高宝寧と突厥の侵攻
 己未(5月16日)、〔もと北斉の営州刺史の〕高宝寧が突厥と共に長城内に侵入し、隋の平州(北平)に侵攻した。
 幽州総管の李崇がこれを撃破すると(推定)、奚・霫・契丹らはその威略を恐れて争って隋に帰順した。

 庚申(17日)、〔大将軍・〕豫州刺史の皇甫績を都官尚書とした(前任は杜陽水を三畤原に灌ぐことを求めた元暉)。


○隋文帝紀
 己未,高寶寧寇平州,突厥入長城。庚申,以豫州刺史皇甫績為都官尚書。
○隋38皇甫績伝
 開皇元年,出為豫州刺史,增邑通前二千五百戶。尋拜都官尚書。
○隋37李崇伝
 既平尉迥,授徐州總管,尋進位上柱國。開皇三年,除幽州總管。突厥犯塞,崇輒破之。奚、霫、契丹等懾其威略,爭來內附。

 ⑴高宝寧…或いは保寧。北斉の皇室の遠戚。狡猾で智謀に富み、武平年間(570~576)の末に営州刺史とされ、黄龍(和龍)を鎮守し、その卓越した武威と信義によって中国人や異民族から非常に重んじられた。北周が鄴に進軍すると救援に赴こうとしたが、鄴が陥落した事を知ると即座に引き返した。のち北周に営州刺史とされたが、応じなかった。577年12月、反北周の兵を挙げ、突厥に亡命中の高紹義に書状を送って即位を勧め、紹義が即位すると丞相とされた。578年、范陽にて盧昌期が乱を起こすとその救援に赴いたが、鎮圧された事を知ると引き返した。尉遅迥が挙兵するとこれと手を組んだ。581年頃、臨渝鎮を攻め陥とした。581年(3)参照。
 ⑵李崇…字は永隆。生年536、時に47歳。李賢の子。李穆の甥。英明果断で智謀に優れ、度胸は人並外れていた。22歳の時に父の功により廻楽県侯とされると、「無勲・幼少の身にして侯爵に封ぜられたからには、命を賭けて国家に尽くさないといけません。そうなると、最後まで父上に孝行を尽くすことができない可能性があります。それが悲しいのです」と言い、以後、賢に一目置かれるようになった。武官を志願し、宇文護の伐斉(564年)に従軍して一番の功を立て、儀同三司とされた。武帝の平斉の際にはその謀議に加わり、その功によって開府・広宗県公とされた。普六茹堅が丞相となると上開府・左司武上大夫とされ、間もなく懐州刺史・郡公とされた。尉遅迥が挙兵するとこれに付こうとしたが、叔父で并州総管の李穆が堅に付いた事を知るとやむなく堅に付いた。迥が平定されると上柱国・徐州総管とされた。580年(9)参照。
 ⑶皇甫績…字は功明。父は北周の湖州刺史・雍州都督。三歲の時に父を亡くし、外祖父の宇文孝寛(韋孝寛)に引き取られて育てられた。外兄たちと博奕をした時、自分だけ孤児だった事で孝寛から怒られなかったが、その事で逆に発奮し、学業に打ち込んで書物を広く読み漁った。のち、魯公時代の武帝に招かれて侍読(先生)とされ、建徳の初め(572)に宮尹中士とされた。574年、衛王直が叛乱を起こして太子贇が留守を預かる宮城を攻めると、危険をものともせずに城内に入って贇と合流し、非常に感謝された。この功により小宮尹とされ、贇が即位すると次第に昇進して御正下大夫とされた。楊堅の宰相就任に貢献し、上開府・内史中大夫・郡公とされ、間もなく更に大将軍とされた。581年、豫州刺史とされた。580年(2)参照。

┃于翼の死
 壬戌(5月19日)于翼が逝去した。本官に加えて蒲晋懐絳邵汾六州諸軍事・蒲州刺史を追贈し、穆(徳義を守った者)と諡した。
 翼は恭しく慎み深く、人と競い合う事が無く、常に分をわきまえるよう自戒していた。そのため、高い地位を保持したまま生を終えることができたのだった。

○隋文帝紀
 壬戌,太尉、任國公于翼薨。
○周30于翼伝
 或有告翼,云往在幽州欲同尉遲迥者,隋文召致清室,遣理官按驗。尋以無實見原,仍復本位。三年五月,薨。贈本官、加蒲晉懷絳邵汾六州諸軍事、蒲州刺史,諡曰穆。翼性恭儉,與物無競,常以滿盈自戒,故能以功名終。

 ⑴《北史》隋文帝紀には『三年…五月癸卯,太尉、任城公于翼薨』とある。于翼伝には『三年五月,薨』とある。
 ⑵于翼…万紐于翼。字は文若。柱国・燕国公の于謹の子で、上柱国・燕国公の于寔の弟。美男子で、宇文泰の娘婿。武衛将軍とされ、西魏の廃帝の監視を任された。のち開府・渭州刺史とされ、吐谷渾と戦った。明帝が亡くなると晋公護と共に遺詔を受け、武帝を立てた。また、常山公とされた。人を見る目があったため、帝の弟や子どもの幕僚の選任を任された。のち大将軍・総中外宿衛兵事とされた。571年、柱国とされた。武帝が東討を図って国境の軍備を増強した時に反対し、国交を結んで油断させることを提言して許可された。573年、安州総管とされ、575年の東伐の際には事前に計画を相談され、荊・楚方面の兵を率いて北斉領を攻めた。576年、陜州総管とされ、武帝が再び東伐を行なうと洛陽を攻め陥とした。のち河陽総管→豫州総管とされた。579年、中央に呼び戻されて大司徒とされた。間もなく長城の修築を任され、そのまま幽定七州六鎮諸軍事・幽州総管とされた。尉遅迥が挙兵すると丞相の楊堅に付いた。のちその功により上柱国・任国公とされた。のち堅に皇帝となるよう勧めた。隋が建国されると太尉とされた。581年(3)参照。

┃受命璽
 甲子(5月21日)、隋が『伝国璽』の名称を『受命璽』に改めた。
 丁卯(24日)、六十歳以上の者の課()を免除した。

〔これより前、陳の鎮西将軍(二品)・都督荊郢巴武湘五州諸軍事・郢州刺史・定襄県侯の孫瑒は北周と密貿易をした罪で罷免されていた(580年〈5〉参照)。後主が即位すると、明威将軍(五品)・通直散騎常侍・兼起部尚書とされた。〕
 6月、癸酉朔(1日)、瑒を中護軍とし、爵邑を元通りにした。のち度支尚書・領步兵校尉とし、間もなく散騎常侍を加え、侍中・祠部尚書とした。

○隋文帝紀
 甲子,改傳國璽曰受命璽。〔丁卯,制人年六十以上免課。〕
○陳後主紀
 六月癸酉朔,以明威將軍、通直散騎常侍孫瑒為中護軍。
○陳25孫瑒伝
 後主嗣位,復除通直散騎常侍,兼起部尚書。尋除中護軍,復爵邑,入為度支尚書,領步兵校尉。俄加散騎常侍,遷侍中、祠部尚書。

 ⑴孫瑒…字は徳璉。生年516、時に67歳。読書家で文書を作るのを得意とし、智謀に優れた。王琳の親戚でその副将を務めた。559年、王琳が陳討伐に赴くと、都督郢荊巴武湘五州諸軍事・郢州刺史とされて留守を託され、北周の侵攻に耐え切った。560年、王琳が陳に大敗して北斉に亡命すると、陳に降った。のち留異平定に貢献し、建安太守とされたが、免官に遭った。宣帝が即位すると信任を受けた。572年、荊州刺史とされた。577年、免官に遭った。578年、都督荊郢水陸諸軍事(督縁江水陸諸軍事。西部担当)・鎮西将軍とされた。間もなく都督荊郢巴武湘五州諸軍事・郢州刺史とされた。580年、北周と密貿易をした罪で罷免された。580年(5)参照。

┃能吏・蘇孝慈
 壬午(6月10日)、隋が太府卿の蘇孝慈を兵部尚書とした。
 蘇孝慈生年538、時に45歳)は本名を慈といい、孝慈は扶風の人である。元の姓は抜畧で、北魏の孝文帝の時に蘇に改めた。曽祖父の蘇強は北魏の恒州刺史、祖父の蘇樹仁は黒城鎮主、父の蘇武周武安?)は西魏・北周の驃騎大将軍・開府儀同三司・兗雲二州刺史・平遙郡開国公で、綏銀延三州刺史を追贈された。
 孝慈は若年の頃から大人しく控えめな性格で、優れた才能と容姿を有していた。
 西魏の初めに出仕して右侍中士とされ、〔廃帝?恭帝?〕三年(554?556?)に曠野将軍を加えられた。北周の初め(557年)の明帝の時に中侍上士とされ、天和二年(567)に右侍上士とされた。四年(569)、都督とされた。この時、北斉への使者とされると(569年正月に徒河綸を弔使として派遣している)良く任を果たし、五年(570)、仮の大都督とされ、前侍兵を統率(兼任?)した。六年(571)、正大都督とされ、依然として前侍兵を統率(兼任?)した。長期に亘って近衛兵の統率を任されたが、その間、典軍()の慎み深さを慕い、秺侯(金日磾。前漢の武帝に近侍して良く仕えた)の誠実さに倣った。この年、再び北斉への使者とされた(10月に右武伯の谷会琨と御正の蔡斌を北斉に派遣している)。帰ると宣納上士とされ、帝の言葉を近くで聞き、帝の命令を遠方に伝えた。七年(572年正月~3月)、勲衛都上士とされた。
 建徳元年(572年3月~12月)、夏官府都上士とされ、仮の中義都上士とされた。四年(575)、持節・車騎大将軍・儀同三司・大都督とされ、骨附禁兵を統率した。この年、左侍伯に改められて近衛兵を統率した。五年(576)、北周の武帝の伐斉(576~577年)に従軍し、北斉を滅ぼすと斉相の高阿那肱ら朝士数百人の受け入れを任された。帰ると開府儀同大将軍・瀛州の文安県開国公(邑千五百戸)とされた。間もなく臨水県公に改められ、千二百戸を加増された。宣政元年(578年3月~12月)に前侍伯中大夫とされ、この年に更に右侍伯中大夫とされた。この年の北周の宣帝の時(578年6月~12月)に更に右少司衛中大夫とされた。大象元年(579年2月~12月)に司衛上大夫とされた。
 二年(580)の靖帝静帝)の時(5月~12月)に工部上大夫(墓誌では『中大夫』)とされた。隋が建国されると(581年)沢州の安平郡開国公に進められ、太府卿とされた。この時、隋は建国されたばかりで、宮城などの施設が整っていなかった。そのため、国中から工匠を集めて工事に従事させたが、その際、〔頭数を確保するため〕ちょっとした技芸の持ち主であってもみな徴集した。孝慈はこれを良く取り捌き、能吏の評価を受けた。
 間もなく司農卿とされ、一年あまりののちの現在、兵部尚書とされると待遇はいよいよ親密な物となった。
 この時、太子勇は非常に政治に関与していた。文帝は東宮の官職の格を高めるため、その多くを朝廷の大臣に兼任させた。かくて孝慈も太子右衛率を兼任した。

○隋文帝紀
 六月壬午,以太府卿蘇孝慈為兵部尚書。
○隋46蘇孝慈伝
 蘇孝慈,扶風人也。父武周,周兗州刺史。孝慈少沉謹,有器幹,美容儀。周初為中侍上士。後拜都督,聘于齊,以奉使稱旨,遷大都督。其年又聘于齊,還授宣納上士。後從武帝伐齊,以功進位開府,賜爵文安縣公,邑千五百戶。尋改封臨水縣公,增邑千二百戶,累遷工部上大夫。高祖受禪,進爵安平郡公,拜太府卿。于時王業初基,百度伊始,徵天下工匠,纖微之巧,無不畢集。孝慈總其事,世以為能。俄遷大司農,歲餘,拜兵部尚書,待遇踰密。時皇太子勇頗知時政,上欲重宮官之望,多令大臣領其職。於是拜孝慈為太子右衞率,尚書如故。
○大隋安平安公故蘇使君墓誌銘
 公諱慈,字孝慈,其先扶風人也。…祖樹仁,黑城鎮主。父武,西魏驃騎大将軍,開府儀同三司,兗雲二州刺史,平遙郡開國公,贈綏銀延三州刺史。…公…後魏初,起家右侍中士,三年,加曠野将軍。周明革運,中侍上士。天和二年,右侍上士。四年,授都督,充使聘齊。五年,治大都督,領前侍兵。六年,授正大都督,仍領前侍兵。公久勞禁衛,頻掌親兵,慕典軍之慎密,似秺侯之純孝。其年,重出聘齊,受天子之命,問諸侯之俗,延誉而出周境,陳詩而察齊風。還授宣納上士,王言近納,帝命攸宣。…七年,授勲衛都上士。建徳元年,授夏官府都上士,治中義都上士。…四年,授持節、車騎大将軍、儀同三司、大都督,領骨附禁兵。其年,改領左侍伯禁兵。五年,周武帝治兵關隴,問罪漳鄴。…及偽徒平殄,齊相阿那肱巳下朝士数百人,公受詔慰納。…還授開府儀同大将軍,封瀛州文安縣開國公,邑一千五百戶。…宣政元年,授前侍伯中大夫。其年,右侍伯中大夫。其年,周宣帝授右少司衛中大夫。大象元年,授司衛上大夫。二年周靖,授工部中大夫。開皇元年,詔授太府卿。其年改封澤州安平郡開國公,尋轉司農卿。…二年,詔授兵部尚書,其年兼授太子右衞率。
○元和姓纂
 河南蘇氏 後魏官氏志:㧞畧氏改為蘇氏。後魏恒州刺史蘇強。孫武安,袁州(兗州?)刺史。生順、孝慈。順周眉州刺史、朝彤公。生沙羅。隋卭州刺史沙羅生康。唐右武衛將軍襄城男康生守忠、守儉。守忠駕部郎中。孝慈隋兵部尚書安平公。生㑹昌比部郎中。

 ⑴高阿那肱…?~580。北斉の大丞相。後主が青州に追い詰められると北周に降り、大将軍・郡公とされ、間もなく隆州刺史とされた。可頻謙が挙兵するとこれに従い、三策を説いて積極的に打って出るよう勧め、利州を攻めたが、間もなく敗れて斬首された。580年(8)参照。
 ⑵太子勇…楊勇。字(或いは幼名、鮮卑名)は睍地伐。楊堅の長子。妻は元孝矩の娘。北周の代に祖父の楊忠の軍功によって博平侯とされ、堅が宰相となると世子とされ、大将軍・左司衛・長寧郡公とされた。この時、父の同母弟の楊瓚を宮中に呼ぶ役目を任されたが失敗した。尉遅迥の乱の平定後、洛州総管・東京小冢宰とされた。間もなく上柱国・大司馬・領内史御正とされ、近衛軍を統括した。のち再び洛州総管とされ、父の堅が隋を建国すると長安に呼び戻された。隋が建国されると皇太子とされた。581年(2)参照。
 ⑶文帝…楊堅。普六茹堅。幼名は那羅延。生年541、時に42歳。隋の初代皇帝。在位581~。父は故・隨国公の楊忠。母は呂苦桃。妻は独孤伽羅。落ち着いていて威厳があった。若い頃は不良で、書物に詳しくなかった。振る舞いはもっさりとしていたが、優れた頭脳を有した。宇文泰に「この子の容姿は並外れている」と評され、名観相家の趙昭に「天下の君主になるべきお方だが、天下を取るには必ず大規模な誅殺を行なわないといけない」と評された。また、非常な孝行者だった。晋公護と距離を置き、憎まれた。568年に父が死ぬと跡を継いで隨国公とされた。573年、長女が太子贇(のちの宣帝)に嫁いだ。575年の北斉討伐の際には水軍三万を率いて北斉軍を河橋に破った。576年の北斉討伐の際には右三軍総管とされた。577年、任城王湝と広寧王孝珩が鄴に侵攻すると、斉王憲と共にこれを討伐した。のち定州総管とされた。577年、南兗州(亳州)総管とされた。578年、宣帝が即位すると舅ということで上柱国・大司馬とされた。579年、大後丞→大前疑とされた。580年、揚州総管とされたが、足の病気のため長安に留まった。間もなく天元帝が亡くなるとその寵臣の鄭訳らに擁立され、左大丞相となった。間もなく尉遅迥の挙兵に遭ったが、わずか68日で平定に成功した。間もなく大丞相とされた。581年、禅譲を受けて隋を建国した。582年(2)参照。

┃馬邑の戦い

 また、〔上柱国・〕雍州牧の衛王爽を原州(平涼、或いは平高)総管とした(突厥対策の一環?衛昭王爽伝に記述は無い)。
 隋は〔この時?〕爽を行軍元帥とし、步騎七万を率いて突厥に当たらせた。爽は平涼(原州、或いは原州の南)に進軍した。しかし、既に突厥は北方に帰った後だったため引き返した。


 突厥が国境を侵すと(この時?)、隋は上柱国の郭衍を行軍総管として兵を率いて平涼に駐屯した。以後、数年に亘って(584年まで赴任)突厥が〔平涼に〕侵入するのを阻んだ。
 この時(推定)、上柱国の崔弘度を行軍総管として原州に出陣させ、突厥を迎撃させた。突厥が撤退すると、弘度は霊武(霊州。原州の北)に進軍して一ヶ月あまり駐屯したのち、帰還して華州(長安の東)刺史とされた。
 この時(推定)、柱国の李衍も行軍総管とされて突厥の討伐に赴いたが、会敵せずに引き返した。のち介州(もと北斉の南朔州。西河。晋陽の西南二百里、平陽の北三百九十里)刺史とされた。

 この時、突厥がたびたび国境を侵していたため、隋は〔柱国・左僕射の〕高熲に国境防衛の差配をさせた。熲は帰還すると馬百余頭と牛羊千余頭を与えられた。

 甲申(6月12日)、陳に弔問の使者を派遣した。
 乙酉(13日)、上柱国〔・朔州総管・武陽郡公?〕の李充節が馬邑(朔州)にて突厥を撃破した。
 これより前(581年?)、隋は〔柱国の〕于仲文を白狼塞(?《中国歴史地図集》では典拠は不明だが平城と馬邑の中間にある)に駐屯させて突厥の侵攻に備えさせていた。
 この年?、隋は仲文を行軍元帥とし、十二総管を率いて突厥を攻撃させた。仲文は〔北上して平城の西北の〕服遠鎮(伏遠鎮にて突厥軍と遭遇するとこれを撃破し、千余の首級と非常に多くの家畜を得た。ここにおいて〔西進して〕金河を〔遡って北方の〕白道に出、行軍総管の辛明瑾・元滂吐谷渾討伐の元帥を務めた元諧の従父弟・賀蘭志・呂楚・段諧らに二万の兵を与えて〔金河の東の〕盛楽道より那頡山に赴かせた。護軍川の北にて突厥軍と遭遇すると、可汗(沙鉢略?)は仲文軍の軍容が整っているのを見て戦わずして退却した。仲文は精騎五千を率いて〔陰〕山を越えて追撃したが、追いつくことができず引き返した。
 当時、尚書省の帳面はごちゃごちゃしていて、汚職の温床となっていた。帝がそこで仲文に尚書省を調査させると、非常に多くの問題を摘発したので、帝はその明断ぶりを褒め称え、手厚い慰労と賞賜を加えた。

 戊子(16日)、上柱国〔・新寧公〕の叱李長叉叱列長叉を蘭州(金城)総管とした。
 
 辛卯(19日)、上開府〔・都督金洵直上羅遷綬井八州諸軍事・金州総管・金州刺史・霊寿県公〕の爾朱敞(11)を都督徐邳兗沂泗海楚宋八州八鎮諸軍事・徐州総管とし、爵位を辺城郡開国公に改めた。敞は数年間の在職中、清明・厳正の評判を得、官民から恐れはばかられた。

○隋文帝紀
 雍州牧、衞王爽為原州總管。甲申,使使弔於陳國。乙酉,上柱國李充破突厥於馬邑。戊子,以上柱國叱李長叉為蘭州總管。辛卯,以上開府尒朱敞為徐州總管。
○隋41高熲伝
 時突厥屢為寇患,詔熲鎮遏緣邊。及還,賜馬百餘匹,牛羊千計。
○隋44衛昭王爽伝
 其年,以爽為行軍元帥,步騎七萬以備胡。出平涼,無虜而還。
○隋54李衍伝
 明年,突厥犯塞,以行軍總管率眾討之,不見虜而還。轉介州刺史。
○隋55爾朱敞伝
 拜金州總管,尋轉徐州總管。在職數年,號為明肅,民吏懼之。
○爾朱公墓誌
 二年,改封邊城郡開國公、都督徐邳兗沂泗海楚宋八州八鎮諸軍事、徐州總管。
○隋60于仲文伝
 未幾,詔仲文率兵屯白狼塞以備胡。明年,拜行軍元帥,統十二總管以擊胡。出服遠鎮,遇虜,破之,斬首千餘級,六畜巨萬計。於是從金河出白道,遣總管辛明瑾、元滂、賀蘭志、呂楚、段諧等二萬人出盛樂道,趨那頡山。至護軍川北,與虜相遇,可汗見仲文軍容齊肅,不戰而退。仲文率精騎五千,踰山追之,不及而還。上以尚書文簿繁雜,吏多姦計,令仲文勘錄省中事。其所發擿甚多,上嘉其明斷,厚加勞賞焉。
○隋61郭衍伝
 開皇元年,勑復舊姓為郭氏。突厥犯塞,以衍為行軍總管,領兵屯於平涼。數歲,虜不入。
○隋74崔弘度伝
 開皇初,突厥入寇,弘度以行軍總管出原州以拒之。虜退,弘度進屯靈武。月餘而還,拜華州刺史。

 ⑴衛王爽…字は師仁。幼名は明達。生年563、時に20歳。隋の文帝の異母弟。母は李氏。美男。優れた才能と度量を有した。北周の代に父の楊忠の軍功によって同安郡公とされた。六歲の時(568年)に忠が亡くなると、帝の妻の独孤伽羅のもとで養育され、これが縁で帝の弟たちの中で特に寵愛を受けるようになった。十七歳の時(579年)に内史上士とされた。帝が宰相となると(580年)大将軍・秦州総管とされたが、赴任する前に蒲州刺史とされ、更に柱国とされた。帝が即位すると雍州牧・領左右将軍とされた。間もなく右領軍大将軍・権領并州総管とされ、一年余りののちに上柱国・涼州総管とされた。581年(3)参照。
 ⑵郭衍…叱羅衍。字は彦文。自称太原の人。父は北魏の侍中の郭崇。若年の頃から勇猛で、騎射を得意とした。北周の陳公純に登用されて従者とされ、純が陝州総管とされるとこれに付き従い、斉軍の侵攻を何度も撃退して純から信任を受けた。建徳年間(572~578)に武帝に謁見して北斉討伐を望み、その際には先鋒となる事を申し出た。576年、陳王純と共に千里径を守備した。のち晋州・高壁・并州の戦いに参加して、開府・武強県公とされ、叱羅氏の姓を与えられた。578年、右中軍熊渠中大夫とされた。尉遅迥が挙兵すると、宇文孝寛(韋孝寛)に従って武陟に戦い、相州に進撃した。尉遅勤らが青州に逃走すると精騎一千を率いて追撃して捕らえ、上柱国・武山郡公とされた。間もなく楊堅(隋の文帝)に禅譲を受けるよう勧め、大いに気に入られた。581年(1)参照。
 ⑶崔弘度…宇文弘度。字は摩訶衍。敷州刺史の宇文説(崔説)の子。人並み外れた筋力と逞しい体躯を持ち、髭や容貌は非常に立派だった。また、非常に厳しい性格をしていた。十七歳の時に北周の大冢宰の宇文護に引き立てられて親信とされた。護の子の中山公訓が蒲州刺史とされた時(566年?)、望楼から飛び降りて傷一つ負わなかった。のち北斉討伐に参加して上開府・鄴県公とされた。間もなく汝南公神挙と共に范陽の盧昌期の乱(578年)を平定した。579年、淮南を攻め、肥口・寿陽などを陥とした。この功により上大将軍とされた。尉遅迥が挙兵すると行軍総管とされて討伐に赴いた。妹が迥の子に嫁いでおり、迥から金品を貰ったと疑われたが、肝心の戦いでは長安の勇士数百人を率いて大いに活躍し、尉遅迥の首を取る大功を挙げ、上柱国とされたが、迥に堅を罵らせる時間を与えたのを問題視され国公にはされなかった。580年(9)参照。
 ⑷李衍…徒河衍。字は抜豆。北周の柱国・太師・趙国公の徒河弼(李弼)の第三子。若年の頃から武芸を得意とし、気概があって大志を抱いていた。宇文泰の時に出仕して千牛備身とされ、のち開府・普寧県公とされ、義州(弘農の南)刺史とされた。間もなく宇文孝寛(韋孝寛)の玉壁城の鎮守に従い、東魏・北斉軍と何度も戦って活躍し、敵を畏怖させた。のち北斉平定の際に功を挙げて大将軍・真鄕郡公・左宮伯とされた。のち定・鄜二州の刺史を歴任した。580年、行軍総管とされて可頻謙を討伐し、上大将軍とされた。581年、蛮族を討伐し、柱国とされ、検校利州総管事とされた。580年(5)参照。
 ⑸高熲…字は昭玄。独孤熲。生年541、時に42歳。またの名を敏という。父は北周の開府・治襄州総管府司録の高賓。幼少の頃から利発で器量があり、非常な読書家で、文才に優れた。武帝の治世時(560~578)に内史下大夫とされた。のち、北斉討平の功を以て開府とされた。578年、稽胡が乱を起こすと越王盛の指揮のもとこれを討平した。この時、稽胡の地に文武に優れた者を置いて鎮守するよう意見して聞き入れられた。楊堅が丞相となり、登用を持ちかけられると欣然としてこれを受け入れ、相府司録とされた。尉遅迥討伐軍に迥の買収疑惑が持ち上がると、監軍とされて真贋の見極めを行ない、良く軍を指揮して勝利に導いた。この功により柱国・相府司馬・義寧県公とされた。堅が即位して文帝となると尚書左僕射・兼納言・渤海郡公とされた。帝に常に『独孤』とだけ呼ばれ、名を呼ばれないという特別待遇を受けた。左僕射の官を蘇威に譲ったがすぐに復職を命ぜられた。また、新律の制定に携わった。間もなく伐陳の総指揮を任された。陳の宣帝が死ぬと喪中に攻め込むのは礼儀に悖るとして中止を進言し聞き入れられた。582年(2)参照。
 ⑹李充節…北魏の三荆二郢大行台の李琰之(?~533)の曾孫で、西魏の儀同・宜州刺史の李綱の子。若年の頃から気概があり、才略を有していた。上柱国・武陽郡公・朔州総管にまで昇進した。582年4月、突厥を河北山にて撃破した。582年(2)参照。
 ⑺于仲文…万紐于仲文。字は次武。生年545、時に38歳。太傅・柱国・燕国公の万紐于謹(于謹)の孫で、上柱国・燕国公の万紐于寔(于寔)の子。若年の頃から聡明で、父に「きっと我が一族を栄えさせてくれるだろう」と評された。九歲の時に宇文泰に「本を読むのが好きだと聞いているが、本にはどんな事が書いてあるのかな?」と問われると、「忠孝の一事のみであります」と答えて感嘆を受けた。のち《周易》・《三礼》の授業を受け、その大義に通じた。成長すると非凡な風格の青年に育ち、人々から『名公子』と呼ばれた。安固太守とされると、牛がどちらの家の物か当てる名裁きを見せた。また、権力者の宇文護の党人を捕らえる豪胆さも示し、「明断無双は于公(仲文)に有り、不避強禦(権勢家)は次武(仲文)に有り」と評された。間もなく中央に呼ばれて御正下大夫・延寿郡公とされた。のち、数々の征伐に参加して勲功を立て、儀同三司とされた。宣帝(天元帝)の時、東郡太守とされた。迥が挙兵すると普六茹堅に付き、敗れると長安に遁走し、家族を皆殺しにされた。間もなく大将軍・河南道行軍総管とされ、洛陽に赴いて檀讓を討伐するよう命ぜられ、平定に成功した。その途中、宇文忻を説得して安堵させた。功により柱国・河南道大行台とされたが、禅定の時期と重なったため赴任しなかった。のち叔父の于翼が疑われて捕らえられると弁護して解放させる事に成功した。581年(6)参照。
 ⑻服遠鎮(伏遠鎮)…《読史方輿紀要》曰く、『伏遠鎮は大同府の西北にある。』
 ⑼金河…《読史方輿紀要》曰く、『金河城は故・勝州の黄河東岸にある』『勝州は榆林鎮の東北四百五十里にある。北五里と東五十里に黄河がある。』川の金河は『大同府の西北にある』。
 ⑽叱列長叉…北斉の開府儀同三司・兗州刺史の叱列平の子。文学の素養は無かったが、清廉で仕事ぶりが良かった。569年に北周に使者として派遣された。武平(570~576)の末に侍中・開府儀同三司・新寧王とされた。のち北周に降伏し、上大将軍・新寧公とされた。ある時北周の武帝に「こやつは城壁の上から朕を罵った者だ」と言われ、後梁の明帝に「長叉は桀(暴君。後主)を助けることもできなかったどころか、事もあろうに堯(名君。武帝)に吠えてしまったのですな」と言われた。普六茹堅が宰相となると相州刺史とされたが、尉遅迥が挙兵したため引き返した。迥を平定すると上柱国とされた。580年(9)参照。
 (11)爾朱敞…字は乾羅。生年519、時に64歳。北魏の司徒・博陵王の爾朱彦伯の子。宮中にて育てられ、532年、父が高歓に殺されると逃走し、長孫氏に匿われた。追及が厳しくなると道士のふりをして嵩山に隠遁し、書物を読み漁る生活を送った。のち復讐を志して西魏に仕え、礼遇を受けた。のち開府・公とされ、北周の武帝が東征に赴くと付き従い、戦功を立てて上開府とされた。のち膠州刺史とされると長孫氏とその弟を家に招き、多くの贈り物を与えて恩に報いた。隋が建国されると黔安蛮を討伐し、申州刺史→金州総管とされた。581年(6)参照。
 
┃新都造営
 文帝はもともと長安の台城(宮城)が狭小である事や、怪奇現象が多発している事を以て嫌っていた。ただ、蘇威から遷都を進言された時は、まだ建国したばかりである事を以て聞き入れなかった。
 のち、ある日の夜に高熲蘇威の二人と遷都について話し合った。その翌朝に開府・通直散騎常侍・太史〔令?〕の庾季才がこう上奏して言った。
「臣が天象を観察し、予言書を研究しました所、今は必ず遷都が行なわれる時期であるという結論で一致しました。また、堯は平陽に、舜は冀土(蒲坂)にそれぞれ都を置いたように、帝王の住む場所は王朝によって変化していくものです。また、漢がここに城を築いてからおよそ八百年が経っており、水質は塩気の多いものに劣化し、人の住む場所に非常に適さなくなっております。どうか陛下、天・人の心に応え遷都なされますよう。」
 帝はこれを読むと〔あまりの奇遇さに〕愕然とし、熲らにこう言った。
「なんとも不思議な事があったものだ!」
 帝の心はこれ以後遷都の実行に傾き始めた。
 のち、太師〔・上柱国・申国公〕の李穆が上表して言った。
「帝王の住処は随時移り変わるものであり、三皇の御代から両漢に至るまで、王朝が代わるごとに遷都が行なわれました。ただ、曹(曹魏)・馬(西晋)は共に洛陽に都を置き、魏(西魏)・周(北周)は共に長安に都を置きましたが、それは、曹の時は三国が鼎立し、馬の時はまだ天下が分かれており、魏と周の時はなんとか国を維持している有様だったため、遷都する暇が無かっただけであり、古に倣わなかったわけではありません。昔、周(北周)の国運が衰えた時、朝臣たちの多くが二心を抱いて忠臣が殆どいなくなり、国中には叛逆者がはびこって城邑の殆どを喪いました。しかし、陛下が人君の徳を隠して宰相となるや、内では朝廷内の凶徒どもを翦除し、外では巨悪どもを誅滅し、瞬く間に天下を祓い清められ、そのまま天・人の期待を一身に受けて皇帝の位に即かれました。新しく国家を建てられた今、都を遷して人々の耳目を一新させるべきであると考えます。また、今の都は漢以来しばしば争乱の地となったうえ、占いによって吉凶を観たわけでも、天象を観て日取りを決めた場所でもありませぬので、聖主や大隋の素晴らしさを表現するという点でも不適当かと存じます。」
 帝はこれを読んで言った。
「明敏なる天が既に予兆を示している中で、民からの支持厚い太師からもこのような請願を受けてしまったからには、遷都を実行しないわけにはいくまい。」

 丙申(6月24日)、詔を下して言った。
「朕は上天の命を受けて天下に君臨するに当たり、人民の疲弊を鑑みて前朝の宮城に引き続き居住した。常に『住む者は楽だが、工事をする者は大変だ』と考え、改修は考えもしなかった。しかし、王公大臣が『伏羲・神農以降、姫()、劉()に至るまで、革命により王朝が代わるごとに必ず都が遷されており、曹・馬ののちは時に前代の都を踏襲するようになったが、それは末世に一時の安逸を求めただけの物であって、聖王たちの定めた大きな道理に沿った物では無い。また、今の宮城は遥か昔の漢の時に建てられたもので、しかもしばしば戦場となっているため、劣化の度合いが甚だしい。また、今、宮城をここに置いているのは便宜的な物で、占いを経て吉凶を観たわけでも、天象を観て日取りを決めたわけでもないため、皇帝の住む場所としても、大衆の住む場所としても不適当である』と、臨機応変の道理と幽顕(目に見えるもの見えないものの事情)について詳しく述べ、心を合わせて懇請してきた。そもそも、都というのは百官の住む所であり、天下の人々が拠り所とする所であって、朕一人の所有物ではない。ゆえに、遷都が人々に利益をもたらすというのなら、反対するわけにもいくまい!それに、殷が五回も都を遷したのは〔不吉な土地に住み続ける事で〕国民全員から不平を抱かれるのを恐れたからであり、都のある土地の吉凶によって国家の寿命の長短を制する事ができるのなら、この点でも遷都は実行すべきであろう。新しきを図って古きを去るのは、言わば農民が秋の収穫を期待するようなもので、一時的に苦労(開墾など)するものの、結局は安定した生活を得られるのである。今、天下は治まり、陰陽の気も調和している。この安らかな時に遷都をするのであるから、人々はゆめゆめ怨みを抱かぬように。龍首山(長安の東南十三里[1]は景観が良く、地味も豊かで、都を建てるのに恰好な土地である。ここに都を建てれば、国家の基礎は確固たるものとなり、永遠の物となろう。官民の邸宅の規模や配置、建設にかかる費用などは、隨事上奏して報告するように。」
 かくて〔柱国・〕左僕射の高熲を営新都大監、〔大将軍・内史監・吏部尚書・京兆尹の〕虞慶則を営新都総監、〔右衛将軍・〕将作大匠の劉龍、〔上大将軍・〕鉅鹿郡公の賀婁子幹、太府少卿の高龍叉)、宇文愷らを営新都副監として新都の造営を命じた。
 愷は創造力に優れており、高熲が総責任者を務めたものの、実際の設計は全て愷が行なった。

 劉龍は河間楽城の人で、東魏の殷州刺史の劉豊の第三子である。実行力があり聡明で、創造力に優れていた。北斉の後主はこれを知ると龍に三爵台(金鳳・聖応・崇光?)の改修を命じた。龍がこの期待に完璧に応えると、以降出世街道に入った。隋が建国されると非常な重用を受け、右衛将軍・兼将作大匠とされた。龍は高熲と共に新都の設計に携わり、人々から能吏の評判を得た。のち領軍大将軍にまで至って死去した。

 隋は山東(もと北斉領)の丁(18~60歳の男)を徴発し、宮殿を解体させた。この時、北周の制度(561年〈3〉3月参照)を踏襲し、人夫は十二組にして月ごとに交代させ、工匠は六組にして二ヶ月ごとに交代させて働かせた。

 新都造営が始まると、臨潁県伯の庾季才は絹三百段・馬二頭を与えられ、爵位を公に進められた。帝は季才に言った。
「朕は今より以後、天の存在を信じるぞ。」
 また、季才と子の庾質に《垂象志》・《地形志》などを編纂させた。帝は季才に言った。
「天や地の奥深い所を推測するには多くの方法があって、人によって見解が異なり、時に〔それによって〕錯誤が生じることがある。ゆえに、朕は他の者たちには任せず、公父子〔二人だけ〕に作らせるのだ。」
 のち《垂象志》百四十二(八?)巻・《地形志》八十七(八十?)巻が完成すると、米千石と絹六百段を与えた。

○隋文帝紀
 丙申,詔曰:「朕祗奉上玄,君臨萬國,屬生人(靈)之敝(弊),處前代之宮。常以為作之者勞,居之者逸,改創之事,心未遑也。而王公大臣陳謀獻策,咸云羲、農以降,至于姬、劉,有當代(世)而屢遷,無革命而不徙。曹、馬之後,時見因循,乃末代之宴安,非往聖之宏義。此城從漢,彫殘日久,屢為戰場,舊經喪亂。今之宮室,事近(近代)權宜,又非謀筮從龜,瞻星揆日,不足建皇王之邑,合大眾所聚。論變通之數,具幽顯之情,同心固請,詞情深切。然則京師百官之府,四海歸向,非朕一人之所獨有。苟利於物,其可違乎!且殷之五遷,恐人盡死(怨),是則以吉凶之土,制長短之命。謀新去故,如農望秋,雖暫劬勞,其究安宅。今區宇寧一,陰陽順序,安安以遷,勿懷胥怨。龍首山川原秀麗,卉物滋阜,卜食相土,宜建都邑,定鼎之基永固,無窮之業在斯。公私府宅,規模遠近,營構資費,隨事條奏。」仍詔左僕射高熲、將作大匠劉龍、鉅鹿郡公賀婁子幹、太府少卿高龍叉等創造新都。
○隋食貨志
 及受禪,又遷都,發山東丁,毀造宮室。仍依周制,役丁為十二番,匠則六番。
○隋37李穆伝
 時太史奏云,當有移都之事。上以初受命,甚難之。穆上表曰:
 帝王所居,隨時興廢,天道人事,理有存焉。始自三皇,暨夫兩漢,有一世而屢徙,無革命而不遷。曹、馬同洛水之陽,魏、周共長安之內,此之四代,蓋聞之矣。曹則三家鼎立,馬則四海尋分,有魏及周,甫得平定,事乃不暇,非曰師古。
 往者周運將窮,禍生華裔,廟堂冠帶,屢覩姦回,士有苞藏,人稀柱石。四海萬國,皆縱豺狼,不叛不侵,百城罕一。伏惟陛下膺期誕聖,秉籙受圖,始晦君人之德,俯從將相之重。內翦羣兇,崇朝大定,外誅巨猾,不日肅清。變大亂之民,成太平之俗,百靈符命,兆庶謳歌。幽顯樂推,日月填積,方屈箕、潁之志,始順內外之請。自受命神宗,弘道設教,陶冶與陰陽合德,覆育共天地齊旨。萬物開闢之初,八表光華之旦,視聽以革,風俗且移。至若帝室天居,未議經創,非所謂發明大造,光贊惟新。自漢已來,為喪亂之地,爰從近代,累葉所都。未嘗謀龜問筮,瞻星定鼎,何以副聖主之規,表大隋之德?
 竊以神州之廣,福地之多,將為皇家興廟建寢,上玄之意,當別有之。伏願遠順天人,取決卜筮,時改都邑,光宅區夏。任子來之民,垂無窮之業,應神宮於辰極,順和氣於天壤,理康物阜,永隆長世。臣日薄桑榆,位高軒冕,經邦論道,自顧缺然。丹赤所懷,無容噤默。
 上素嫌臺城制度迮小,又宮內多鬼妖,蘇威嘗勸遷,上不納。遇太史奏狀,意乃惑之。至是,省穆表,上曰:「天道聰明,已有徵應,太師民望,復抗此請,則可矣。」遂從之。
○隋40虞慶則伝
 開皇元年,進位大將軍,遷內史監、吏部尚書、京兆尹,封彭城郡公,營新都總監。
○隋41高熲伝
 領新都大監,制度多出於熲。熲每坐朝堂北槐樹下以聽事,其樹不依行列,有司將伐之。上特命勿去,以示後人。其見重如此。又拜左領軍大將軍,餘官如故。母憂去職,二旬起令視事。熲流涕辭讓,優詔不許。
○隋53賀婁子幹伝
 徵授營新都副監,尋拜工部尚書。
○隋68宇文愷伝
 及遷都 ,上以愷有巧思,詔領營新都副監。高熲雖總大綱,凡所規畫,皆出於愷。
○隋68・北53劉龍伝
 開皇時,有劉龍者,河間人也。性強明,有巧思。齊後主知之,令修三爵臺,甚稱旨,因而歷職通顯。及高祖踐阼,大見親委,拜右衞將軍,兼將作大匠。遷都之始,與高熲參掌制度,代號為能。
〔劉豐…第三子龍,有巧思,位亦通顯。隋開皇中,歷將作大匠,卒於領軍大將軍。〕
○隋78庾季才伝
 開皇元年,授通直散騎常侍。高祖將遷都,夜與高熲、蘇威二人定議,季才旦而奏曰:「臣仰觀玄象,俯察圖記,龜兆允襲,必有遷都。且堯都平陽,舜都冀土,是知帝王居止,世代不同。且漢營此城,經今將八百歲,水皆鹹鹵,不甚宜人。願陛下協天人之心,為遷徙之計。」高祖愕然,謂熲等曰:「是何神也!」遂發詔施行,賜絹三百段,馬兩匹,進爵為公。謂季才曰:「朕自今已後,信有天道矣。」於是令季才與其子質撰垂象、地形等志,上謂季才曰:「天地祕奧,推測多途,執見不同,或致差舛。朕不欲外人干預此事,故使公父子共為之也。」及書成奏之,賜米千石,絹六百段。…垂象志一百四十二卷,地形志八十七卷,並行於世。

 ⑴蘇威…字は無畏。生年542、時に40歳。西魏の度支尚書で宇文泰の腹心の蘇綽の子。北周の大冢宰の宇文護に礼遇を受けて娘の新興公主を嫁にもらった。ただ、山寺に暮らして仕官せず、隠遁生活を送った。のち高熲の推挙を受けて楊堅に会い、楊堅が即位して文帝となると太子少保・邳国公とされた。間もなく納言・度支尚書・大理卿・京兆尹・御史大夫の五職を兼任し、税を軽くする事と法律を寛大にする事を提言して聞き入れられた。間もなく刑部尚書とされ、律令の改訂に携わった。のち少保・御史大夫の官を解かれ、京兆尹が廃止されると検校雍州別駕とされた。581年(5)参照。
 ⑵庾季才…字は叔弈。生年515、時に68歳。天文に通じ、梁の元帝に都を江陵から建康に遷すよう進言したが聞き入れられなかった。江陵が陥ちると長安に連行され、非常な厚遇を受けて太史とされた。多くの下賜品を受けると奴隷となっていた親類や旧友を救うのに使い、更に宇文泰を説得して、多くの江陵の士大夫を解放に導いた。のち、宰相の晋公護に引退を勧めたが拒否され、以後疎まれるようになった。護が武帝に誅殺されると帝にその事を評価され、「至誠・至慎の人だ。人臣の鑑だ」と絶賛を受け、太史中大夫とされ、《霊台秘苑》の編纂を任された。宣帝が即位すると開府とされた。楊堅が即位する際2月13日に即位するのが良いと進言した。581年(1)参照。
 ⑶前漢の高祖五年(前202)に長安に都を遷す事を決め、七年(前200)に実際に都を遷した。五年から数えると784年となり、七年から数えると782年となる。
 ⑷李穆…字は顕慶。生年510、時に73歳。北周の武帝の養父の李賢の弟。宇文泰に早くから仕えた。河橋の戦いにて窮地に陥った泰を救い、十度まで死罪を免除される特権を与えられた。江陵攻略に参加し、拓抜氏の姓を賜った。557年、甥の李植が宇文護暗殺を図って失敗すると、連座して平民に落とされた。のち、赦されて大将軍に復し、楊忠の東伐に加わった。564年に柱国大将軍、565年に大司空とされた。567年、申国公とされた。569年に宜陽の攻略に赴き、570年には汾北の救援に赴いた。572年、太保とされた。一年あまりののち原州総管とされた。575年の東伐の際には軹関・柏崖および河北の諸県の攻略に赴いた。577年、上柱国・并州総管とされた。579年、大左輔とされた。尉遅迥が挙兵すると楊堅に付き、その功によって太傅とされた。のち堅に皇帝となるよう勧めた。堅が即位すると太師とされ、更に賛拝不名の特権を与えられた。581年(3)参照。
 [1]《三秦記》曰く、『龍首山は六十里の長さがあり、首の部分は渭水、尾の部分は樊川に達し、頭の部分の高さは二十丈あり、尾に行くにつれて低くなり、六七丈になった。色は赤く、〔不毛だった。〕言い伝えでは、黒龍が終南山より出でて渭水の水を飲んだ際、その移動した跡が龍首山になったという。〔またの名を龍首原という。〕』
 ⑸虞慶則…本姓は魚。祖先は赫連氏に仕え、北辺の豪族となった。父は北周の霊武太守。八尺の長身で度胸があり、鮮卑語が得意で、左右どちらからも騎射する事ができた。初めは狩猟にばかり興じていたが、のち素行を改めて読書をするようになり、傅介子や班超の人となりを慕った。578年、儀同・并州総管長史とされ、のち開府とされた。稽胡を平定した際、文武に優れている事を以て石州総管とされ、良く飴と鞭を使い分けて州内を安定させた。楊堅が宰相となると相府司録とされた。隋が建国されると内史監・兼吏部尚書とされた。高宝寧が突厥と共に中国に侵攻してくると并州の鎮守を命じられた。581年(3)参照。
 ⑹賀婁子幹…字は万寿。生年534、時に49歳。祖父は西魏の侍中・太子太傅、父は北周の右衛大将軍。北周の武帝の時(560~578)に出仕して司水上士とされると能吏の評判を得た。のち昇進して小司水とされると、これまでの勤務態度を評価されて思安県子とされた。間もなく儀同とされ、579年、軍器監を兼任し、淮南攻略に加わった。580年、尉遅迥が挙兵すると討伐に向かい、懐州の包囲を破って丞相の楊堅から激賞を受けた。武陟の決戦では先鋒を務め、鄴城の戦いでも先んじて城壁を登った。これらの功により上開府・武川県公とされた。隋が建国されると鉅鹿郡公とされた。間もなく行軍総管とされて吐谷渾討伐に参加し、一番の武功を立て、涼州総管とされた。突厥が蘭州に侵攻してくると可洛峐山にて大破し、上大将軍とされた。582年(2)参照。
 ⑺宇文愷…字は安楽。生年555、時に28歳。上柱国・英国公の宇文忻の弟。若年の頃から才能と度量があり、武将の家に生まれたが一人学問を好んで書物を読み漁った。文才など多くの技芸に優れ、名公子と呼ばれた。初め千牛備身とされ、のち次第に昇進して御正中大夫・儀同三司とされた。堅が丞相となると上開府・匠師中大夫とされ、間もなく営宗廟副監・太子左庶子とされた。宇文氏が誅殺された時、処刑されかかった(眉唾?)。581年(2)参照。
 ⑻劉豊…字は豊生。?~549。立派な容姿。剛毅果断な性格で弁才もあり、軍事について議論する事を好んだ。本貫は河間だが、のち普楽(薄骨律鎮→霊州)に移住した。六鎮の乱が起こると鎮城を守り抜いた功績により普楽太守・山鹿県公とされた。のち528年に霊州鎮城大都督とされた。のち涼州刺史とされた。535年、西魏の渭州刺史の可朱渾道元が東魏に亡命するのを助けた。536年、霊州刺史で岳父の曹泥が西魏に攻められた時、衛大将軍とされたが拒絶し、包囲を受けたが東魏の救援が来るまで守り抜いた。間もなく数万戸(五千戸?)と共に東魏に亡命し、儀同?・平西将軍・南汾州刺史とされた。538年の河橋の戦いでは一番の武功を挙げ、高歓に感嘆された。543年の邙山の戦いでは河橋を守備し、数千騎を率いて宇文泰を追撃したが、恒農にて王思政に阻まれ帰還した。のち左衛将軍とされ、547年に侯景が叛乱を起こすと慕容紹宗と共に討伐に赴いたが、一時敗北を喫して負傷した。のち殷州刺史とされ、潁川の王思政の討伐に赴き戦死した。武忠と諡された。
 
┃開皇新令の施行
 秋、7月、癸巳(?日)、新都の墓地を建設させ、今の墓地にある墓は家族たちに祭祀を執り行なわせたのち全て新しい墓地に改葬させた。〔同時に、改葬の際に必要な〕人夫も支給した。無縁仏については国が代わりに祭祀・改葬を行なった。
 甲午(?日)、新令を施行した。
〔畿内の〕人民五家を保とし、保長を置いた。また、五保を閭とし、四閭を族とし、閭正・族正を置いた。畿外の人民は閭正の代わりに里正を、族正の代わりに党長を置き、人民を互いに監視させた。
 また、男女ともに三歲以下を黄、十歲以下を小、十七歳以下を中、十八歳以上を丁とした。丁には力役・租税を課した。六十歳以上を老とし、老には力役・租税を免除した(5月24日参照)。
 また、諸王以下、都督に至るまでの全ての者に差をつけて永業田を支給した。一番多い者は百頃、一番少ない者は四十畝が支給された。
 また、丁男・中男に永業田と露田(死んだ時か70歳の時に国に返さないといけない土地)を支給した。その制度は北斉に倣った。同時に桑・榆(ニレ)・棗を栽培させた。
 宅地は一律三人ごとに一畝を支給し、奴婢には五人ごとに一畝を支給した。
 丁男の一牀(夫婦)に、租は粟三石を納めさせ、調は桑の育つ地域では絹絁(太絹)を、麻の育つ地域では麻布を納めさせ、絹絁の場合は一疋と綿三両、麻布の場合は一端と麻三斤を納めさせた。単丁(独身者)と奴隷はこれらの半分の量を納めさせた。
 まだ土地を支給されていない者には税を免除した。また、品階・爵位を持つ者や、孝子・順孫・義夫・節婦と認められた者にも税を免除した。
 京官(中央の官に就いている者)には更に職分田を支給した。一品の者には五頃の田を支給し、品が下がるごとに五十畝の差をつけ、五品の者には三頃の田を支給し、六品の者には二頃五十畝を支給し、九品の者には一頃の田を支給した。外官(地方官)にも職分田を支給した。〔開皇十四年(594)に〕更に公廨田を支給し、収穫物を官庁の経費に充てさせた。

○北史隋文帝紀
 秋七月癸巳,詔新置都處墳墓,令悉遷葬設祭,仍給人功,無主者,命官為殯葬。甲午,行新令。
○隋食貨志
 及頒新令,制人五家為保,保有長。保五為閭,閭四為族,皆有正。畿外置里正,比閭正,黨長比族正,以相檢察焉。男女三歲已下為黃,十歲已下為小,十七已下為中,十八已上為丁。丁從課役,六十為老,乃免。自諸王已下,至于都督,皆給永業田,各有差。多者至一百頃,少者至四十畝。其丁男、中男永業露田,皆遵後齊之制。並課樹以桑榆及棗。其園宅,率三口給一畝,奴婢則五口給一畝。丁男一牀,租粟三石。桑土調以絹絁,麻土以布絹。絁以疋,加綿三兩。布以端,加麻三斤。單丁及僕隸各半之。未受地者皆不課。有品爵及孝子順孫義夫節婦,並免課役。京官又給職分田。一品者給田五頃。每品以五十畝為差,至五品,則為田三頃,六品二頃五十畝。其下每品以五十畝為差,至九品為一頃。外官亦各有職分田。又給公廨田,以供公用。

 ⑴北斉の制度…鄴都の四方百里の外の地域については、男一人につき露田(耕作に適するよう木を伐採した地)八十畝を、女一人につき露田四十畝を与えた。また、露田の他に、永業田二十畝を与え、桑田(果樹園用の土地)とさせた。桑田には桑五十株(絹を作るための蚕の餌)と榆(ニレ)三株・棗五株(木材などに使用)を植えさせた。この田地の返還の義務は無いものとした。露田には例外なく返還の義務を課した。桑を育てるのに適していない土地には麻田を与え、〔桑の代わりに麻(布の原料)を育てさせ〕た。麻田の規定は、桑田の規定と同様とした。564年(1)参照。

┃凶兆相次ぐ
 この月、陳の荊州(公安)から建康までの長江の水の色が血のような赤色に染まった。
 洪範の《五行伝》曰く、
『火は水に負けるが、厳しい刑罰を行なうと水の性が傷つけられ、〔火の色である赤が水に現れ〕る。五行や陰陽や気色の乱れは、全て滅亡の予兆である。』
 京房の《易占》曰く、
『水が血に変化するのは、兵乱が起きる前触れである。』
 この時、陳では後主が厳しい刑罰を用いており、長江の色の変化は天がこれに応じたものであった。
 辛未(29日)、陳が天下に大赦を行なった。
 8月、癸未(12日)の夜、〔建康の〕上空で風と水(雨?)がぶつかり合うような音が聞こえた(580年9月にも同様な事があった)。
 乙酉(14日)の夜にも同様な事が発生した。
 丙戌(15日)、使持節・都督縁江諸軍事・安西将軍の魯広達を安左将軍とした。

 癸巳(22日)、隋が左武候大将軍の竇栄定を秦州(天水)総管とした。

 9月、丙午(5日)、陳の後主が太極殿にて無遮大会(僧俗・男女の別無く施しを与える催し。約5年ごとに開く。前回は582年正月を行なうと同時に、捨身(出家を行ない、乗輿・御服を喜捨し、天下に大赦を行なった。
 辛亥(10日)の夜、〔建康の〕東北の空にて虫の大群が飛んでいるような音が聞こえた。音は次第に西北に去っていった。
 乙卯(14日)、太白(金星)が昼に現れた(政治や君主が変わる予兆)。
 丙寅(25日)、驃騎将軍・開府儀同三司・揚州刺史の長沙王叔堅を司空とし(前任は司馬消難)、将軍・刺史はそのままとした。また、征南将軍・江州刺史の豫章王叔英を開府儀同三司とした。

○隋文帝紀
 秋八月癸巳,以左武候大將軍竇榮定為秦州總管。
○陳後主紀
 秋七月辛未,大赦天下。是月,江水色赤如血,自京師至于荊州。八月癸未夜,天有聲如風水相擊。乙酉夜亦如之。景戌,以使持節、都督緣江諸軍事、安西將軍魯廣達為安左將軍。九月景午,設無㝵大會於太極殿,捨身及乘輿御服,大赦天下。辛亥夜,天東北有聲如蟲飛,漸移西北。乙卯,太白晝見。景寅,以驃騎將軍、開府儀同三司、揚州刺史長沙王叔堅為司空,征南將軍、江州刺史豫章王叔英即本號開府儀同三司。
○隋五行志聴咎
 陳太建十四年七月,江水赤如血,自建康,西至荊州。…洪範五行傳曰:「火沴水也。法嚴刑酷,傷水性也。五行變節,陰陽相干,氣色繆亂,皆敗亂之象也。」京房易占曰:「水化為血,兵且起。」是時後主初即位,用刑酷暴之應。
○陳28長沙王叔堅伝
 尋遷司空,將軍、刺史如故。

 ⑴後主…陳叔宝。字は元秀。幼名は黄奴。宣帝の嫡長子。生年553、時に30歳。在位582~。554年、西魏が江陵が陥とした際に父と共に長安に連行され、父の帰国後も人質として北周国内に留められた。562年、帰国を許され、安成王世子に立てられた。569年、父が即位して宣帝となると太子とされた。のち周弘正から論語と孝経の講義を受けた。582年、宣帝が死ぬと棺の前で弟の叔陵に斬られて重傷を負い、即位後も暫く政治を執る事ができなかった。582年(2)参照。
 ⑵魯広達…字は遍覧。群雄の魯悉達の弟。生年約531、時に約52歳。王僧弁の侯景討伐に従軍した。562年、周迪討伐に参加し、一番の武功を立てて呉州刺史とされた。567年、南豫州刺史とされた。華皎との決戦の際には先陣を切って奮戦し、戦後に巴州刺史とされた。570年、青泥にある後梁・北周の船を焼き払った。巴州では善政を行ない、官民の請願によって任期が二年延長された。北伐では大峴城にて北斉軍を大破し、西楚州を陥として北徐州刺史とされた。のち右衛将軍とされ、576年に北兗州刺史とされ、のち晋州刺史とされた。578年、合州刺史とされた。のち仁威将軍・右衛将軍とされ、579年、北周が淮南に侵攻してくると救援に赴いたが何もできずに引き返し、免官とされた。580年、北周の郭黙城を陥とした。間もなく平西将軍・都督郢州以上十州諸軍事とされ、隋の南伐時には溳口を守備したが、元景山に敗れ逃走した。のち(?)都督縁江諸軍事とされた。582年(1)参照。
 ⑶竇栄定…紇豆陵栄定。生年530、時に53歳。開府・永富県公の紇豆陵善の子で、上柱国・鄧国公の紇豆陵熾の兄。冷静沈着で器量があり、逞しく立派な容姿をしていて、美しい髭を蓄え、弓馬を得意とした。宇文泰が東魏と北邙で戦って(邙山の戦い?)敗北した時(543年)、宇文神慶と共に精鋭の騎兵二千を率い、東魏の追撃部隊を撃退した。のち楊忠が突厥と共に北斉の并州を攻めるのに参加した(563~564年)。のち開府・永富県公とされた。妻は楊堅の姉で、これが縁で堅と非常に仲良くなった。北斉平定後、上開府とされた。堅が宰相となると領左右宮伯とされた。尉遅迥の乱が平定されると洛州総管とされた。のち、罪を犯して官爵を剥奪されたが、妻が訴えてくれたため復帰し、右武候大将軍とされた。帝にしばしば訪問を受け、多くの下賜を受けた。のち上柱国・寧州刺史とされ、582年4月に左武候大将軍とされた。582年(2)参照。
 ⑷無遮大会…梁の武帝が行なった他、陳の武帝が557・558年に、文帝が563年に、後主が582年正月に行なっている。
 ⑸捨身…梁の武帝が行なった他、陳の武帝が558年に、文帝が563年に行なっている。文帝は無遮大会と共に行なっている。
 ⑹長沙王叔堅…字は子成。宣帝の第四子。母は酒家の下女の何淑儀。幼少の頃から悪賢く、乱暴で非常に酒癖が悪かったので兄弟たちから距離を置かれた。占いごとや風占い・お祓いなど神秘的なものを好み、金や玉の加工の技を極めた。始興王叔陵と仲が悪かった。天嘉年間(560~566)に豊城侯とされ、569年、長沙王・呉郡太守とされた。572年、宣毅将軍・江州刺史とされた。575年、雲麾将軍・平越中郎将・広州刺史とされた。576年、平北将軍・合州刺史→平西将軍・郢州刺史とされた。579年、翊左將軍・丹陽尹とされた。582年に宣帝が亡くなって小斂の儀式が執り行なわれた際、始興王叔陵が太子叔宝を襲うと、背後から叔陵を羽交い締めにして刀を奪い取った。この功により驃騎将軍(一品)・開府儀同三司・揚州刺史とされた。582年(1)参照。
 ⑺豫章王叔英…字は子烈。宣帝の第三子。母は曹淑華。幼少の頃からおおらかで優しかった。560年に建安侯とされ、569年に都督東揚州諸軍事・東揚州刺史・豫章王とされた。法律を守らず、人や馬を勝手に自分のものにしたため、弾劾を受けて官位を剥奪された。573~4年、南徐州刺史とされた。579年、江州刺史とされた。582年に後主が即位すると征南将軍とされた。582年(2)参照。


 582年(4)に続く