[隋:開皇二年 陳:太建十四年 後梁:天保二十年]

●輔導

 辛酉(正月17日)、隋が并州(晋陽)に河北道行台尚書を置き、〔柱国・武衞大将軍・并州総管の〕晋王広を上柱国とし、その尚書令とした。
 また、益州(成都)に西南道行台尚書省を置き、〔柱国・益州総管の〕蜀王秀を上柱国とし、その尚書令とした。

 この時、広も秀も幼かったため(晋王広は14歳で、越王秀はその弟であるため更に幼い)、忠義・誠実で名望のある者を大々的に選考して補佐役とした。
 この時、〔開府・兵部尚書の〕元巖と〔大将軍・霊州刺史の〕王韶は共に硬骨な事で有名であり、人々はこの二人を〔柱国・尚書左僕射の〕高熲に匹敵する才能の持ち主だと評した。文帝はそこで巖を益州総管府長史とし、韶を河北道行台右僕射とした。
 帝は巖に言った。
「公は天下の宰相となれる大器の持ち主であるが、今はそこを曲げて、曹参前漢の二代目宰相)が斉国の相国となった時のように、我が子の輔佐をしてもらいたい。」
 また、〔上開府・左武衛将軍〕の李徹を、北周の旧臣で何度も軍を率いて戦功を立てていた経歴を評価し、総晋王府軍事・斉安郡公とした。帝は侍臣にこう言った。
「どこに文の才能で王子相)に、武の才能で李広達)に敵う者がいようか?」
 その尊重ぶりはこの様だった。

 また、〔上開府・鴻臚卿の〕李子雄を河北行台兵部尚書とした。帝は子雄に言った。
「我が子はまだ若く経験が少ないが、文武両道の卿が輔佐すれば、北方の心配は無くなる。」
 子雄は平伏し、啜り泣いて言った。
「陛下は臣が不肖であるのにも関わらず、重任をお任せになりました。臣は愚かではございますが、木石のように感情が無いわけではありません。命を賭して職務に当たり、鴻恩(大恩)に応えたいと存じます。」
 帝は励ましの言葉をかけて送り出した。子雄は任に就くと身を顧みずにまっすぐ諫言した。広はその剛直さを非常に敬いかつ憚り、官民からその心意気を称賛した。

 晋王広は学問を好み、文才に優れ、落ち着いていて威厳があったので、官民から将来を期待された。帝はあるとき密かに凄腕の人相見の来和に子どもたちの人相を見せた事があった。すると和は言った。
「晋王の眉の上に二つの骨が隆起しておりますが、これはこの上なく貴い相であります。」
 間もなく、帝は広の屋敷に赴くと、楽器の多くが絃が切れていたり、ホコリをかぶっていたりして、まるで使っていないように見えたので、音楽にうつつを抜かしていないと考え、その心がけを良しとした。
 広は上辺を飾るのが上手く、優しい孝行者という評判を得た。あるとき、狩猟を見物した際、際雨に遭った。従者が油衣(雨合羽)を差し出すと、広はこう言った。
「兵たちがずぶ濡れなのに、どうして自分だけがこれを着れようか!」
 かくてその場から持ち去らせた。

 広は剛直な性格の王韶を恐れはばかり、常に可否を尋ねてから行動した。そのため、法度に背くことは無かった。韶が命を受けて長城の視察に赴いた時、広はその間に池を掘り三山を築いて〔壮大な庭園を作ろうとした。〕韶は帰ってこれを知ると、自ら鎖を付けて〔処罰覚悟で〕諌言した。すると広は非を認めて工事を中止した。帝はこれを聞くと賛嘆し、韶に金百両と後宮の美女四人を褒美として与えた。

 晋王広が并州に赴く時、隋は大規模な幕僚の選抜を行ない、張虔威を刑獄参軍とした。
 虔威は字を元敬といい、清河東武城の人である。父は北斉の北徐州刺史の張晏之。頭脳明晰で頭の回転が速く、大の読書家だった。世父(父の兄)の張暠之は人にこう言った。
「虔威は我が家の千里の駒である。」
 十二歳の時に州主簿(名ばかり?)、十八歳の時に太尉中兵参軍とされ、のち次第に昇進して太常丞とされた。北斉が滅亡すると(577年)北周に仕えて宣納中士とされた。隋の文帝が政権を握ると相府典籤とされた。
 虔威は晋王広の幕僚となると才能を高く評価され、府属に昇進した。広は河内の張衡と共に虔威を礼遇・重用し、晋王邸の人々は二人を『二張』と並び称した。

 元巖は益州に赴くと、法令を公明正大に用いたので、官民から支持を得た。
 蜀王秀は奢侈を好んだ。〔また、残忍で、〕ある時、獠人(中国西南部の異民族)を去勢して宦官にしようとし、ある時は死刑囚を生きたまま解剖し、その胆を取り出して薬にしようとした。巖はどちらとも命令を聞かず、強く諌めた。すると秀は非を認めて取り止めた。秀は巖の硬骨な性格を恐れはばかり、以後常に法度を遵守するようになった[1]。蜀での訴訟のうち、巖が裁定を下したものは誰もが納得して不満を抱かなかった。有罪とされた者は口々にこう言った。
「平昌公()が有罪としても、何を怨もうか。」
 帝は巖の仕事ぶりを激賞し、非常に多くの賞賜を与えた。

 また、上開府・益州総管府長史の楊异を西南道行台兵部尚書とした。
 
 また、洛州(洛陽)に河南道行台尚書省を置き、秦王俊を上柱国・洛州刺史とし、その尚書令として、関東の兵を統轄させた。この時俊は十二歳だった。
 この時、〔給事黄門侍郎(門下省次官)・兼検校太子左庶子(東宮版門下省長官)の〕柳雄亮を河南道行台左丞とした。
 また、〔度支尚書?の〕楊尚希(11)を河南道行台兵部尚書・銀青光禄大夫とした。

◯隋文帝紀
 辛酉,置河北道行臺尚書省於并州,以晉王廣為尚書令。置河南道行臺尚書省於洛州,以秦王俊為尚書令。置西南道行臺尚書省於益州,以蜀王秀為尚書令。
◯隋煬帝紀
 尋授武衞大將軍,進位上柱國、河北道行臺尚書令,大將軍如故。高祖令項城公韶、安道公李徹輔導之。上好學,善屬文,沉深嚴重,朝野屬望。高祖密令善相者來和徧視諸子,和曰:「晉王眉上雙骨隆起,貴不可言。」既而高祖幸上所居第,見樂器絃多斷絕,又有塵埃,若不用者,以為不好聲妓,善之。上尤自矯飾,當時稱為仁孝。嘗觀獵遇雨,左右進油衣,上曰:「士卒皆霑濕,我獨衣此乎!」乃令持去。
◯隋45秦孝王俊伝
 二年春,拜上柱國、河南道行臺尚書令、洛州刺史,時年十二。…領關東兵。
◯隋45庶人秀伝
 二年,進位上柱國、西南道行臺尚書令,本官如故。
○隋46楊尚希伝
 高祖受禪,拜度支尚書,進爵為公。歲餘,出為河南道行臺兵部尚書,加銀青光祿大夫。
◯隋46李雄伝
 後數年,晉王廣出鎮并州,以雄為河北行臺兵部尚書。上謂雄曰:「吾兒既少,更事未多,以卿兼文武才,今推誠相委,吾無北顧之憂矣。」雄頓首而言曰:「陛下不以臣之不肖,寄臣以重任。臣雖愚固,心非木石,謹當竭誠效命,以答鴻恩。」歔欷流涕,上慰諭而遣之。雄當官正直,侃然有不可犯之色,王甚敬憚,吏民稱焉。
○隋46楊异伝
 尋遷西南道行臺兵部尚書。
◯隋54李徹伝
 高祖受禪,加上開府,轉雲州刺史。歲餘,徵為左武衞將軍。及晉王廣之鎮并州也,朝廷妙選正人有文武才幹者,為之僚佐。上以徹前代舊臣,數持軍旅,詔徹總晉王府軍事,進爵齊安郡公。時蜀王秀亦鎮益州。上謂侍臣曰:「安得文同王子相,武如李廣達者乎?」其見重如此。
◯隋62王韶伝
 高祖受禪,進爵項城郡公,邑二千戶。轉靈州刺史,加位大將軍。晉王廣之鎮并州也,除行臺右僕射,賜綵五百匹。韶性剛直,王甚憚之,每事諮詢,不致違於法度。韶嘗奉使檢行長城,其後王穿池,起三山,韶既還,自鎖而諫,王謝而罷之。高祖聞而嘉歎,賜金百兩,并後宮四人。
○隋62元巖伝
 高祖為丞相,加位開府、民部中大夫。及受禪,拜兵部尚書,進爵平昌郡公,邑二千戶。巖性嚴重,明達世務,每有奏議,侃然正色,庭諍面折,無所迴避。上及公卿,皆敬憚之。時高祖初即位,每懲周代諸侯微弱,以致滅亡,由是分王諸子,權侔王室,以為磐石之固,遣晉王廣鎮并州,蜀王秀鎮益州。二王年並幼稚,於是盛選貞良有重望者為之僚佐。于時巖與王韶俱以骨鯁知名,物議稱二人才具侔於高熲,由是拜巖為益州總管長史,韶為河北道行臺右僕射。高祖謂之曰:「公宰相大器,今屈輔我兒,如曹參相齊之意也。」及巖到官,法令明肅,吏民稱焉。蜀王性好奢侈,嘗欲取獠口以為閹人,又欲生剖死囚,取膽為藥。巖皆不奉教,排閤切諫,王輒謝而止,憚巖為人,每循法度。蜀中獄訟,巖所裁斷,莫不悅服。其有得罪者,相謂曰:「平昌公與吾罪,吾何怨焉。」上甚嘉之,賞賜優洽。
○隋66張虔威伝
 張虔威字元敬,清河東武城人也。父晏之,齊北徐州刺史。虔威性聰敏,涉獵羣書。其世父暠之謂人曰:「虔威,吾家千里駒也。」年十二,州補主簿。十八為太尉中兵參軍,後累遷太常丞。及齊亡,仕周為宣納中士。高祖得政,引為相府典籤。開皇初,晉王廣出鎮并州,盛選僚佐,以虔威為刑獄參軍,累遷為屬。王甚美其才,與河內張衡俱見禮重,晉邸稱為「二張」焉。
○柳雄亮墓誌
 拝河南道行台左丞。

 ⑴晋王広…別名は英、幼名は阿〔麻+女〕。生年569、時に14歳。隋の文帝の第二子。母は独孤伽羅。美男で幼少の頃から利発だったため、両親から特に可愛がられた。北周の代に父の勲功によって雁門郡公とされた。帝が即位すると晋王・并州総管とされた。581年(3)参照。
 ⑵蜀王秀…楊秀。隋の文帝の第四子。母は独孤伽羅。581年に隋が建国されると越王とされた。間もなく柱国・益州刺史・総管・二十四州諸軍事・蜀王とされ、蜀の鎮守を任された。581年(4)参照。
 ⑶元巖…字は君山。父は西魏の敷州刺史の元禎。読書を好み、章句にこだわらず、大意を重視した。剛直な性格で器量があり、義人を自認し、若年の頃から渤海の高熲・太原の王韶ら志を同じくする者たちと親交を結んだ。大冢宰の宇文護に才能を認められて中外府記室とされ、のち次第に昇進して内史中大夫・昌国県伯とされた。楽運が北周の宣帝に諫言して処刑されそうになると弁護して救った。帝が王軌を殺そうとした時も諫言し、怒りを買って宦官に顔を殴られ、官爵を剥奪された。楊堅が丞相とされると開府・民部中大夫とされ、隋が建国されると兵部尚書とされた。581年(2)参照。
 ⑷王韶…字は子相。幼い頃から生真面目で、他人に真似のできぬような行ないを非常に好み、有識者から一目置かれた。北周に仕えて数多くの軍功を立て、車騎大将軍・儀同三司とされ、のち軍正とされた。伐斉の際、武帝の撤退を諌めた。北斉が滅ぶと開府・晋陽県公とされ、のち内史中大夫とされた。宣帝が即位すると豊州刺史・昌楽県公とされた。隋が建国されると大将軍・霊州刺史とされた。576年(3)参照。
 ⑸李徹…宇文徹。字は広達。柱国の宇文意(李意)の子。剛毅な性格で才幹を有し、立派な容貌をしていて、多くの武芸に巧みだった。大冢宰の晋公護に用いられて親信とされ、殿中司馬→奉車都尉(儀仗職)とされた。控えめ・温厚なうえ才能もあったため、護から非常な礼遇を受け、子の中山公訓を蒲州刺史とする際、随行を命ぜられた。間もなく儀同三司とされた。576年、吐谷渾討伐に赴いた。北斉討伐では斉王憲に従って殿軍を務め、力戦して憲を無事撤退させた。その功により開府とされた。淮南平定戦では常に先鋒を務めて活躍し、その功により淮州刺史とされると善政を布いた。隋が建国されると上開府・雲州刺史→左武衛将軍とされた。576年(3)参照。
 ⑹李子雄…字は毗盧。名門の趙郡李氏の出。父は東魏の陝州刺史の李徽伯(裔)。父が西魏の攻撃に遭って捕らえられると、父と共に長安に連行された。李家は代々学問で身を立てていたが、一人騎射を習い、兄に責められると「歴史の偉人たちを見るに、文武両道で無い者が功業を成した例は少のうございます。私は馬鹿ですが、ちゃんと書物は読み漁っております。既に文武両道であるなら、兄上が心配する必要は無いでしょう!」と言って黙らせた。漢中平定などに功を立てて儀同三司とされた。のち、達奚武の指揮のもと北斉と邙山に戦い(564年)、北周軍が大敗を喫する中、一人損害を出さずに撤退する事に成功した。北周の武帝の時に陳王純と共に突厥に后を迎えに行き(565~8年)、のち硤州(夷陵)刺史や涼州総管府長史を務めた。のち滕王逌の指揮のもと青海にて吐谷渾を破り(576年)、その功によって上儀同とされた。淮南平定戦では軽騎数百を率いて硤石に到り、十余城を説得して降らせた。この功により豪州刺史とされた。隋の文帝が丞相となると上開府・司会中大夫とされ、隋が建国されると鴻臚卿とされた。579年(3)参照。
 ⑺来和…字は弘順。若年の頃から観相を好み、たびたび人の性質や運命を言い当てた。北周の大冢宰の晋公護に気に入られて傍に置かれ、それから大臣たちの家に出入りするようになった。あるとき普六茹堅(楊堅)に観相を頼まれると「公は天下の王となるべきお方です」と言った。また、紇豆陵栄定(竇栄定)に堅の相について問われると「公の眼は明けの明星のようにキラキラと輝いて、照らさない所は無いほどです。〔そこから考えるに、〕公はきっといつか天下の王となられるお方でしょう。どうか、〔小心翼々として〕誅殺の危険に耐え忍ばれますよう」と答えた。北周の武帝に堅の相が危険か問われると「隨公は臣節を守る人で〔謀叛など考えないお方ですので、〕一地方を任せるのに適任なお方です。将軍とすれば、常勝将軍となるでしょう」と答えて安心させ、堅に「この恩は一生忘れぬ」と感謝された。堅が丞相となると儀同とされ、隋が建国されると子爵とされた。575年(1)参照。
 [1]隋の文帝は良い輔佐官を子に付けて用心していたが、結局広も秀も良い終わりを迎えなかった。これは何故であろうか?中人以下の者はきつく矯正しても、一旦緩めてしまうと元に戻らなくなってしまうからであろう。
 ⑻楊异…字は文殊。生年533、時に50歳。名門の弘農楊氏の出で、祖父は北魏の懐朔鎮将の楊鈞、父は西魏の華州刺史の楊倹。叔父に北周の梁州総管の楊寛、従兄弟の子に隋の上柱国の楊素がいる。美男で、思慮深く優れた才能と度量を有していた。幼い頃に学問を始めると、毎日非常に多くの文章を誦読し、見る者を驚かせた。九歲の時(541年)に父の死に遭うと非常に悲しみ、危うく死にかけるほどに痩せ細った。喪が開けた後も慶弔を絶って家に閉じこもり、読書に励んだ。かくて数年後には博識の士となった。557年に寧都太守とされると非常に素晴らしい統治を行なった。隋の文帝が丞相となると行済州事とされた。帝が即位すると上開府・宗正少卿とされた。蜀王秀が益州総管とされると、品行方正を評価されて益州総管府長史とされた。
 ⑼秦王俊…字は阿祗。生年571、時に12歳。隋の文帝の第三子。母は独孤伽羅。隋が建国されると秦王とされた。581年(2)参照。
 ⑽柳雄亮…字は信誠。生年540(墓誌)、時に43歳。西魏の華陽郡守の柳桧の次子。552~3年頃に父が黄衆宝の乱に遭って殺されると死にかけるほど嘆き悲しんだ。勉強家で、梁州総管の蔡公広(559~561)の記室参軍とされると若年にして府中の書類作成の殆どを任された。562年、広が秦州総管とされたのちも引き続き記室とされた。のち相府礼曹参軍とされた。武帝の代(560~)に衆宝が配下と共に帰順してくると、白昼堂々長安城中にて斬り殺して復讐を果たした。のち賓部下大夫→納言下大夫→儀同・内史中大夫とされた。580年、司馬消難が乱を起こすと丞相の楊堅の命によって陳に赴いた。帰還した時ちょうど隋が建国されており、尚書考功侍郎とされた。間もなく律の改定に携わった。間もなく東京吏部侍郎→給事黄門侍郎(門下省次官)とされた。尚書省の上奏文の多くの誤りを正し、大臣たちから憚られた。間もなく兼検校太子左庶子(東宮版門下省長官)とされた。581年(5)参照。
 (11)楊尚希…生年534、時に49歳。名門の弘農楊氏の出で、東漢の太尉の楊震の十五世孫。幼い頃に父を喪った。十八(551)の時、釈奠(孔子などを祀る祭祀)にて《孝経》を講義した際、宇文泰に才能を認められ、普六茹氏の姓を与えられると共に、国子博士に抜擢された。のち次第に昇進して舍人上士とされ、明帝・武帝の代(557~578)に太学博士・太子宮尹・計部中大夫などを歴任した。574年、陳への使者とされた。のち東京司憲中大夫とされ、もと北斉領の慰撫を命ぜられたが、尉遅迥が挙兵すると楊堅のもとに逃れ、潼関の守備を任された。間もなく司会中大夫とされた。隋が建国されると度支尚書とされた。581年(2)参照。

●垂簾聴政
 乙丑(正月21日)、陳が柳皇后を皇太后とし、その住居を弘範宮と名付けた。
 当時、陳は淮南の地を失い、隋軍に長江沿岸まで迫られていた。そのような状況下で宣帝は崩御したが、跡を継いだ後主はまだ傷が癒えず承香殿に臥し、政治を執る事ができなかった。そのため、始興王叔陵の誅殺・宣帝の葬儀・国境の防衛や内政の指図は、全て后が皇后の正殿である柏梁殿にて決定し、後主の命という形で実行した。帝の傷が癒えると、政権を返した。

 丙寅(22日)、冠軍将軍(四品)の晋熙王叔文を宣恵将軍(四品)・丹陽尹(前任は長沙王叔堅)とした。
 丁卯(23日)、皇弟の陳叔重を始興王とし、〔叔陵の代わりに〕昭烈王(陳道談)の祭祀を執り行なわせた。
 叔重は字を子厚といい、宣帝の第十四子である。母は呉姫。素朴な性格で、秀でたものは無かった。

◯陳後主紀
 乙丑,尊皇后為皇太后,宮曰弘範。景寅,以冠軍將軍晉熙王叔文為宣惠將軍、丹陽尹。丁卯,立弟叔重為始興王,奉昭烈王祀。
◯陳7高宗柳皇后伝
 後主即位,尊后為皇太后,宮曰弘範。當是之時,新失淮南之地,隋師臨江,又國遭大喪,後主病瘡(患創)不能聽政,其誅叔陵、供大行喪事、邊境防守及百司眾務,雖假以後主之命,實皆決之於后。後主瘡(創)愈,乃歸政焉。
 …史臣侍中鄭國公魏徵考覽記書,參詳故老,云後主初即位,以始興王叔陵之亂,被傷臥于承香閣下,時諸姬竝不得進,唯張貴妃侍焉。而柳太后猶居柏梁殿,即皇后之正殿也。
◯陳28晋熙王叔文伝
 尋為侍中、散騎常侍、宣惠將軍,置佐史。
◯陳28始興王叔重伝
 吳姬生始興王叔重…始興王叔重字子厚,高宗第十四子也。性質朴,無伎藝。高宗崩,始興王叔陵為逆,誅死,其年立叔重為始興王,以奉昭烈王後。

 ⑴柳皇后…諱は敬言。生年533、或いは531〈墓誌〉、時に50、或いは52歳。名門の河東柳氏の出。容貌美しく、身長は七尺二寸(約176cm)もあり、手も膝まで届くほど長かった。母は梁の武帝の娘の長城公主。552年頃に陳頊(宣帝)に嫁いだ。西魏が江陵が陥とした際に夫と共に長安に連行され、夫の帰国後も人質として北周国内に留められた。562年、帰国を許され、安成王妃とされた。569年、陳頊が即位すると皇后とされた。582年、宣帝が死んで始興王叔陵が後主に斬りつけた際、身を以て庇った。582年(1)参照。
 ⑵陳の宣帝…陳頊(キョク)。陳の四代皇帝。在位569~582。もと安成王。字は紹世。陳の二代皇帝の文帝の弟。530~582。八尺三寸の長身の美男子だが、賢そうには見えなかった。幼少の頃より寬大で、智勇に優れ、騎・射に長けた。552年に人質として江陵に送られ、江陵が陥落すると関中に拉致された。562年に帰国すると侍中・中書監・司空とされて非常な権勢を誇った。文帝が死ぬと驃騎大将軍・司徒・録尚書事・都督中外諸軍事とされ、間もなくクーデターを起こして実権を握った。568年、太傅とされ、569年、皇帝に即位した。573年、北伐を敢行して淮南の地を制圧した。その後もたびたび北伐を行なったが、578年、北周に大敗を喫し、精鋭を全て喪失した。579年、北周の攻撃を受け淮南を喪失した。582年、隋の南伐中に死去した。582年(1)参照。
 ⑶陳の後主…陳叔宝。字は元秀。幼名は黄奴。宣帝の嫡長子。生年553、時に30歳。在位582~。554年、西魏が江陵が陥とした際に父と共に長安に連行され、父の帰国後も人質として北周国内に留められた。562年、帰国を許され、安成王世子に立てられた。569年、父が即位して宣帝となると太子とされた。のち周弘正から論語と孝経の講義を受けた。582年、宣帝が死ぬと棺の前で弟の叔陵に斬られて重傷を負い、即位後も暫く政治を執る事ができなかった。582年(1)参照。
 ⑷晋熙王叔文…字は子才。宣帝の第十二子。母は袁昭容。軽率・陰険・見栄っ張りな性格だったが、非常な読書家という一面もあった。575年に晋熙王とされた。575年(3)参照。
 ⑸陳道談…陳の武帝の兄で、文帝と安成王頊の父。梁代に東宮直閤将軍にまで昇り、侯景の乱が起こると弩手二千を率いて建康に入り、景軍と戦ったが、その最中に流れ矢に当たって戦死した。

●陳、隋に和を求める
 戊辰(24日)、陳が隋に使者を派して和を求め、胡墅(石頭城の対岸)を返還した(去年の9月に陳が占拠していた)。
 隋の〔上柱国・東南道行軍元帥の〕長孫覧は陳の宣帝が死んだ事を知るとこの機に乗じて一気に陳を滅ぼそうと考えたが、監軍で柱国・尚書左僕射の高熲は喪中に攻め込むのは礼儀にもとると言って反対し、文帝に上奏して撤退の許可を求めた。

◯隋文帝紀
 戊辰,陳遣使請和,歸我胡墅。辛未,高麗、百濟並遣使貢方物。甲戌,詔舉賢良。
◯隋41高熲伝
 開皇二年,長孫覽、元景山等伐陳,令熲節度諸軍。會陳宣帝薨。熲以禮不伐喪,奏請班師。
○隋51長孫覧伝
 會陳宣帝卒,覽欲乘釁遂滅之,監軍高熲以禮不伐喪而還。

 ⑴長孫覧…字は休因。本名は善。西魏の太師の長孫稚の孫で、北周の小宗伯の長孫紹遠の子。上品で穏やかな性格で識見・度量に優れ、多くの書物を読み漁り、特に音律に通暁した。質朴温和な性格を買われて魯公邕(武帝)の世話係とされ、帝が即位すると重用を受けて覧の名を与えられ、上奏文を先に閲読する権利を与えられた。また、弁才があり、語勢が勇壮だったため、詔の読み上げ係も任された。のち右宮伯とされ、571年、薛国公とされた。574年、帝が雲陽宮に赴いた時に留守を任されたが、衛王直が乱を起こすと帝のもとに逃走した。のち小司空とされ、北斉を滅ぼすと柱国とされた。のち司衛とされ、武帝が死ぬと諸王の動静を探った。間もなく上柱国・大司徒とされた。579年、涇州(安定)総管・涇州刺史とされた。581年、東南道行軍元帥とされ、八総管を統率して寿陽より陳を攻めた。582年(1)参照。
 ⑵高熲…字は昭玄。独孤熲。生年541、時に42歳。またの名を敏という。父は北周の開府・治襄州総管府司録の高賓。幼少の頃から利発で器量があり、非常な読書家で、文才に優れた。武帝の治世時(560~578)に内史下大夫とされた。のち、北斉討平の功を以て開府とされた。578年、稽胡が乱を起こすと越王盛の指揮のもとこれを討平した。この時、稽胡の地に文武に優れた者を置いて鎮守するよう意見して聞き入れられた。楊堅が丞相となり、登用を持ちかけられると欣然としてこれを受け入れ、相府司録とされた。尉遅迥討伐軍に迥の買収疑惑が持ち上がると、監軍とされて真贋の見極めを行ない、良く軍を指揮して勝利に導いた。この功により柱国・相府司馬・義寧県公とされた。堅が即位して文帝となると尚書左僕射・兼納言・渤海郡公とされた。帝に常に『独孤』とだけ呼ばれ、名を呼ばれないという特別待遇を受けた。左僕射の官を蘇威に譲ったがすぐに復職を命ぜられた。また、新律の制定に携わった。間もなく伐陳の総指揮を任された。582年(1)参照。
 ⑶隋の文帝…楊堅。普六茹堅。幼名は那羅延。生年541、時に42歳。隋の初代皇帝。在位581~。父は故・隨国公の楊忠。母は呂苦桃。落ち着いていて威厳があった。書物に詳しくはなかった。宇文泰に「この子の容姿は並外れている」と評され、名観相家の趙昭に「天下の君主になるべきお方だが、天下を取るには必ず大規模な誅殺を行なわないといけない」と評された。また、非常な孝行者だった。晋公護と距離を置き、憎まれた。568年に父が死ぬと跡を継いで隨国公とされた。573年、長女が太子贇(のちの宣帝)に嫁いだ。575年の北斉討伐の際には水軍三万を率いて北斉軍を河橋に破った。576年の北斉討伐の際には右三軍総管とされた。577年、任城王湝と広寧王孝珩が鄴に侵攻すると、斉王憲と共にこれを討伐した。のち定州総管とされた。577年、南兗州(亳州)総管とされた。578年、宣帝が即位すると舅ということで上柱国・大司馬とされた。579年、大後丞→大前疑とされた。580年、揚州総管とされたが、足の病気のため長安に留まった。間もなく天元帝が亡くなるとその寵臣の鄭訳らに擁立され、左大丞相となった。間もなく尉遅迥の挙兵に遭ったが、わずか68日で平定に成功した。間もなく大丞相とされた。581年、禅譲を受けて隋を建国した。582年(1)参照。

●沈婺華と張麗華
 己巳(25日)、陳の後主が妃の沈婺華を皇后とした。
 帝は后が好きではなく、張貴妃を非常に寵愛していた。帝は始興王叔陵によって重傷を負った時(582年〈1〉参照)、承香殿にて静養したが、その際后を含む妃たちに入室を許さず、ただ張貴妃のみを入室させて傍に侍らせた。后は求賢殿に別居して暮らした。
 後宮は全て貴妃に取り仕切られる事となったが、后は恬淡として全く恨みに思わなかった。倹約に努め、衣服は錦繡の装飾を施さず、近侍は百人ばかりしか置かず、読書や読経をして過ごした。あるとき陳が日照りに遭うと、自分の身を粗末にして読経に励んだ。するとすぐさま雨が降った。后は子が無く、孫姫の子の陳胤を引き取って養子とした。
 后は何度も上書して帝を諌めたため、帝は后を追い出して張貴妃を后にしようとしたが、その時ちょうど国が滅びたため果たせずに終わった。

 張貴妃生年560、時に23歳)は名を麗華といい、兵家の娘である。七尺の長髪は漆のように黒く、鏡のように光沢があった。聡明で優れた精神を備え、立ち居振る舞いには品があり、容姿は端麗だった。目からは光が溢れ、周囲を見渡すごとに辺りが照り映えた。家は貧しく、父や兄はむしろ織りをして糊口をしのいだ。帝が太子とされた時(569年)、選ばれてその後宮に入り、このとき良娣(太子妃の次の位)とされていた龔貴嬪帝の第五子の南海王虔と第十一子の銭塘王恬を産んだ。貴嬪は三夫人の一)の給仕を務めた。このとき十歳だった。のち帝に一目で気に入られて寵愛を受け、妊娠して陳淵を産んだ(575年)。帝が即位すると貴妃(皇后の次の位。三夫人の一)とされた。
 聡明で話が上手く、記憶力に優れ、帝の気持ちを良く汲み取る事ができたため、非常な寵愛を受けた。帝はいつも貴妃を連れて賓客と酒宴をして楽しんだが、このとき貴妃は帝に勧めて他の宮女も参加させたので、後宮の女性たちはみな貴妃に恩を感じ、競って帝に貴妃の良い所を言い合った。そのため、後宮一の寵愛を受けるに至った。
 また、貴妃はまじないに巧みで、妖術を以て帝の心を操った。いかがわしい神を祀った社を宮中に建て、巫女たちを集めて楽舞をさせた。この時、彼女たちに宮外の事について尋ね、どんな噂や出来事も帝よりも先に知って伝えたので、ますます尊重されるようになり、その一門は父方母方を問わず大半が登用を受けた。
 貴妃はいつも楼閣上にて化粧をし、欄干に寄りかかって宮中を遠望したが、その飄々とした様子はまるで神仙のように浮き世離れしていた。

 陳淵生年575、時に8歳)は字を承源といい、帝の第四子である。若年の頃から頭が良く、志操堅固で、立ち居振る舞いには威厳があり、いつも傍にいる従者でさえ彼の感情の変化を見た事が無かった。張貴妃の子であることを以て帝に特に可愛がられた。

 辛未(27日)、皇弟の陳叔儼を尋陽王とし、陳叔慎を岳陽王とし、陳叔達を義陽王とし、陳叔熊を巴山王とし、陳叔虞を武昌王とした。
 叔儼は字を子思といい、宣帝後主の父)の第十五子である。厳かな性格で、品行方正だった。
 叔慎(生年572、時に11歳)は字を子敬といい、宣帝の第十六子である。若年の頃から頭が良く、十歲にして優れた文章を書く事ができた。母は淳于姫
 叔達は字を子聡といい、宣帝の第十七子である。母は袁昭容
 叔熊(雄?)は字を子猛といい、宣帝の第十八子である。母は袁昭容
 叔虞は字を子安といい、宣帝の第十九子である。母は王修華

 この日、高句麗・百済が隋に特産品を献じた。

○資治通鑑
【厭魅,所謂婦人媚道也。】
◯隋文帝紀
 戊辰,陳遣使請和,歸我胡墅。辛未,高麗、百濟並遣使貢方物。
◯陳後主紀
 己巳,立妃沈氏為皇后。辛未,立皇弟叔儼為尋陽王,皇弟叔慎為岳陽王,皇弟叔達為義陽王,皇弟叔熊為巴山王,皇弟叔虞為武昌王。
〔…禎明…三年,…太子深年十五。〕
◯陳7・南12後主沈皇后伝
 後主遇后既薄,而張貴妃寵傾後宮,後宮之政竝歸之,后澹然未嘗有所忌怨。而居處儉約,衣服無錦繡之飾,左右近侍纔百許人,唯尋閱圖史、誦佛經(釋典)為事。〔嘗遇歲旱,自暴而誦佛經,應時雨降。無子,養孫姬子胤為己子。數上書諫爭,後主將廢之,而立張貴妃,會國亡不果。〕
◯陳7・後主張貴妃伝
 後主張貴妃名麗華,兵家女也。家貧,父兄以織席為事。後主為太子,以選入宮。是時龔貴嬪為良娣,貴妃年十歲,為之給使,後主見而說焉,因得幸,遂有娠,生太子深。後主即位,拜為貴妃。性聰惠,甚被寵遇。後主每引貴妃與賓客遊宴,貴妃薦諸宮女預焉,後宮等咸德之,競言貴妃之善,由是愛傾後宮(冠絕後庭)。又好(工)厭魅之術,假鬼道以惑後主,置淫祀於宮中,聚諸妖(女)巫使之鼓舞,因參訪外事,人閒有一言一事,妃必先知之,以白後主,由是益重妃(加寵異),內外宗族,多被引用。
 …史臣侍中鄭國公魏徵考覽記書,參詳故老,云後主初即位,以始興王叔陵之亂,被傷臥于承香閣下(殿),時諸姬竝不得進,唯張貴妃侍焉。〔而柳太后猶居栢梁殿,即皇后之正殿也。而沈皇后素無寵於後主,不得侍疾,別居求賢殿。〕…而張貴妃髮長七尺,鬒黑如漆,其光可鑒。特聰惠,有神采,進止閑暇(華),容色端麗。每瞻視盼睞,光采溢目,照暎左右。常(嘗)於閣上靚粧,臨于軒檻,宮中遙望,飄若神仙。才辯彊記,善候人主顏色。
○陳28高宗二十九王伝
 袁昭容生…義陽王叔達,…巴山王叔雄,徐姬生尋陽王叔儼,淳于姬生岳陽王叔慎,王脩華生武昌王叔虞。
 …尋陽王叔儼字子思,高宗第十五子也。性凝重,舉止方正。後主即位,立為尋陽王。
 …岳陽王叔慎字子敬,高宗第十六子也。少聰敏,十歲能屬文。太建十四年,立為岳陽王,時年十一。
 …義陽王叔達字子聰,高宗第十七子也。太建十四年,立為義陽王。
 …巴山王叔雄字子猛,高宗第十八子也。太建十四年,立為巴山王。
 …武昌王叔虞字子安,高宗第十九子也。太建十四年,立為武昌王。
◯陳28皇太子深伝
 皇太子深字承源,後主第四子也。少聰惠,有志操,容止儼然,雖左右近侍,未嘗見其喜慍。以母張貴妃故,特為後主所愛。…禎明…三年,深時年十餘歲。

 ⑴沈婺華…陳の尚書右僕射・領吏部・駙馬都尉の沈君理(525~573)の娘。母は陳の武帝の娘の会稽穆公主。幼い時に母が亡くなると非常に嘆き悲しみ、喪が明けた後も毎月の一日と十五日に一人位牌の前に座って涙を流した。お淑やかで欲が薄く、識見と度量があり、聡明で記憶力に優れ、大の読書家で立派な文章を書いた。569年、太子叔宝(のちの後主)の妃とされた。569年(2)参照。
 ⑵陳胤…字は承業。生年573、時に10歳。後主の嫡長子。母は孫姫だが、姫が産褥死すると沈皇后に引き取られて育てられた。578年に永康公とされた。573年(1)参照。

●新体制

 壬申(28日)、陳が侍中・中権将軍・開府儀同三司の鄱陽王伯山を中権大将軍とし、軍師将軍・尚書左僕射の晋安王伯恭を翊前将軍・侍中とし、翊右(左?)将軍・中領軍の廬陵王伯仁を安前将軍とし、鎮南将軍・江州刺史の豫章王叔英を征南将軍とし、平南将軍・湘州刺史の建安王叔卿を安南将軍とした。
 また、侍中・中書監・〔右光禄大夫・〕安右将軍〔・領太子詹事〕の徐陵を左光禄大夫・領太子少傅とした。他はそのままとした。
 甲戌(30日)、太極前殿にて無遮大会(僧俗・男女の別無く施しを与える催し。約5年ごとに開く。前回は563年)を催した

 この日、隋が国内の人々に賢良の者を推挙させた。

◯隋文帝紀
 甲戌,詔舉賢良。
◯陳後主紀
 壬申,侍中、中權將軍、開府儀同三司鄱陽王伯山進號中權大將軍,軍師將軍、尚書左僕射晉安王伯恭進號翊前將軍、侍中,翊右將軍、中領軍廬陵王伯仁進號安前將軍,鎮南將軍、江州刺史豫章王叔英進號征南將軍,平南將軍、湘州刺史建安王叔卿進號安南將軍。以侍中、中書監、安右將軍徐陵為左光祿大夫,領太子少傅。甲戌,設無㝵大會於太極前殿。
○陳26徐陵伝
 後主即位,遷左光祿大夫、太子少傅,餘如故。

 ⑴鄱陽王伯山…字は静之。生年550、時に33歳。陳の二代文帝(宣帝の兄)の第三子。立派な容姿をしていて立ち居振る舞いに品があり、喜怒の感情を表に出さなかったので、文帝に非常に可愛がられた。560年、鄱陽王とされた。565年に縁江都督・平北将軍・南徐州刺史とされ、567年に鎮東将軍・東揚州刺史、569年に中衛将軍・中領軍・揚州刺史とされた。574年、征北将軍・南徐州刺史とされた。575年、江州刺史とされた。579年、中央に呼ばれて中権将軍・護軍将軍とされた。581年、開府とされた。581年(1)参照。
 ⑵晋安王伯恭…字は肅之。文帝(宣帝の兄)の第六子。母は厳淑媛。565年に晋安王に封ぜられた。のち呉郡太守とされると、十余歳の身ながら職務に精励して役所をよく治めた。569年に中護軍・安南将軍とされ、のち中領軍→中衛将軍・揚州刺史とされたが、事件に連座して免官となった。572年、復帰して安左将軍→鎮右将軍・特進とされた。574年、安南将軍・南豫州刺史とされた。577年、安前将軍・祠部尚書とされた。579年、軍師将軍・尚書右僕射とされた。580年、僕射とされた。581年、左僕射とされた。581年(1)参照。
 ⑶廬陵王伯仁…字は寿之。文帝(宣帝の兄)の第八子。母は王充華。565年に廬陵王とされた。576年、中領軍とされた。578年、南徐州刺史とされた。580年、中領軍とされた。578年(1)参照。
 ⑷豫章王叔英…字は子烈。宣帝の第三子。母は曹淑華。幼少の頃からおおらかで優しかった。560年に建安侯とされ、569年に都督東揚州諸軍事・東揚州刺史・豫章王とされた。法律を守らず、人や馬を勝手に自分のものにしたため、弾劾を受けて官位を剥奪された。573~4年、南徐州刺史とされた。579年、江州刺史とされた。579年(2)参照。
 ⑸建安王叔卿…字は子弼。宣帝の第五子。母は魏昭容(華)。非常に立派な容姿をしていて、性格は飾り気が無く真面目で、才能を有していた。572年、建安王・東中郎将・東揚州刺史とされた。575年、雲麾将軍・郢州刺史とされた。577年、湘州刺史とされた。577年(2)参照。
 ⑹徐陵…字は孝穆。名文家の徐摛の子。生年507、時に76歳。もと梁の臣。文才があり、庾信と並び称された。また、弁舌にも長けた。548年に東魏に使者として派遣され、宴席で魏収をやり込めた。派遣中に梁国内で侯景の乱が勃発すると抑留され、555年に帰国を許された。565年に御史中丞とされると、権勢を誇っていた安成王(宣帝)の部下を容赦なく弾劾した。566年、吏部尚書とされると公平な任用を行ない、曹魏の毛玠に比せられた。569年に右僕射、570年に尚書僕射、572年に左僕射とされた。陳が北伐を行なうと、呉明徹を元帥に推薦した。575年、仕事上のいざこざにより、侍中・僕射を解任された。間もなく領軍将軍→太子詹事とされた。578年、再び領軍将軍とされた。間もなく丹陽尹とされた。581年、中書監・領太子詹事とされた。高齢を理由に引退を求めたが、宣帝に引き止められ、大斎法会を行なう建物の工事監督を命ぜられ、執務を自邸にて行なう事を許された。581年(1)参照。
 ⑺梁の武帝が行なった他、陳の武帝が557・558年に、文帝が563年に行なっている。

●隋軍の撤退
 2月、己丑(15日)、隋が高熲ら南伐軍に撤退を命じた(もともと突厥との戦いの前に陳に一撃加えて黙らせておくのが目的だったのだろう)。

 文帝はあるとき安德王雄広平王雄)、上柱国の長孫覧・元諧・李充節、左僕射の高熲、右衛大将軍の虞慶則、呉州総管の賀若弼らと共に酒宴を開いた事があった。このとき帝は言った。
「朕はむかし周朝に仕えていた時、忠節を尽くしたが、何度も周主から疑いをかけられ、いつも身の縮む思いをしていた。臣下がこのような境遇となってしまっては、もはや天下に寄り所を失ってしまう。朕と公らは、名目上は君臣だが、実際は父子のような関係にある。朕は公らと共に良い終わりを迎えたいと考えている。そこで、公らが罪を犯したとしても、それが謀逆の罪でない限り、全て不問にする。また、朕は公らの至誠を知っているゆえ、特別に太子と交際する事を許す。何度も太子のもとを訪れ、親睦を深めるよう。これも全ては公らが国家の柱臣であり、声望があるからだ。どうか朕の衷心を分かってくれ。」
 覧らの厚遇ぶりはこのようだった。また、覧の娘を〔上柱国・西南道行台尚書令の〕蜀王秀の妃とした。

○隋文帝紀
 二月己丑,詔〔以陳有喪,〕高熲等班師。
○隋51長孫覧伝
 上常命覽與安德王雄、上柱國元諧、李充、左僕射高熲、右衞大將軍虞慶則、吳州總管賀若弼等同宴,上曰:「朕昔在周朝,備展誠節,但苦猜忌,每致寒心。為臣若此,竟何情賴?朕之於公,義則君臣,恩猶父子。朕當與公〔等〕共享終吉,罪非謀逆,一無所問。朕亦知公至誠,特付太子,宜數參見之,庶得漸相親愛。柱臣素望,實屬於公,宜識朕意。」其恩禮如此。又為蜀王秀納覽女為妃。

 ⑴広平王雄…楊雄。元の名は恵で、のち雄に改めた。字は威恵。叱呂引雄。生年542或いは540、時に40或いは42歳。楊堅の族子とされる。父は大将軍の楊紹で、母は蘭勝蛮。容貌美しく、優れた才能・人格を有し、物腰が上品で立ち居振る舞いが立派だった。非常な孝行者で、父が死んだ時には悲しみの余り死にかけた。太子右司旅下大夫とされ、574年に衛王直が叛乱を起こして宮城に攻めてくると、奮戦してこれを撃退した。のち右司衛上大夫とされた。579年、邗国公とされた。楊堅が丞相となると人材との折衝役を任された。のち雍州別駕とされると、雍州牧の畢王賢が叛乱を企てていることを密告し、その功により柱国・雍州牧・相府虞候(警備担当)とされた。また、天元帝の葬儀の警護を務めた。のち上柱国とされた。隋が建国されると左衛大将軍・兼宗正卿とされ、朝政に参与した。間もなく広平王とされた。581年(4)参照。
 ⑵元諧…河南洛陽の人で、富貴な家柄の出。楊堅(文帝)とは国子学で共に授業を受けた昵懇の仲。軍功を挙げて大将軍まで出世した。堅が丞相となると側近とされた。この時、堅に「公は孤立無援の身で、言うなれば奔流中の一枚の塀のようなもの。頑張って窮地を切り抜けられよ」と発破をかけた。尉遅迥が挙兵すると行軍総管とされ、小郷を奪還した。尉遅迥を平定すると上大将軍・楽安郡公とされた。581年、行軍元帥とされて吐谷渾討伐に赴いて見事大勝し、その功により柱国とされた。581年(4)参照。
 ⑶虞慶則…本姓は魚。祖先は赫連氏に仕え、北辺の豪族となった。父は北周の霊武太守。八尺の長身で度胸があり、鮮卑語が得意で、左右どちらからも騎射する事ができた。初めは狩猟にばかり興じていたが、のち素行を改めて読書をするようになり、傅介子や班超の人となりを慕った。578年、儀同・并州総管長史とされ、のち開府とされた。稽胡を平定した際、文武に優れている事を以て石州総管とされ、良く飴と鞭を使い分けて州内を安定させた。楊堅が宰相となると相府司録とされた。隋が建国されると内史監・兼吏部尚書とされた。高宝寧が突厥と共に中国に侵攻してくると并州の鎮守を命じられた。581年(3)参照。
 ⑷賀若弼…字は輔伯。生年544、時に39歳。父は北周の開府・中州刺史の賀若敦。若年の頃から気骨があり文武に才能があった。父が愚痴を言って晋公護の怒りを買い、自殺させられた際、江南平定の夢を託された。また、錐で舌を刺されて口を慎むよう戒められた。のち斉王憲に用いられて記室とされ、間もなく当亭県公・小内史とされた。烏丸軌(王軌)と一緒に太子贇(天元帝)の悪行を告発した時、途中で態度を変えて軌に詰られた。579年の淮南平定の際には多くの計策を立てて成功に大きく貢献し、その功により揚州総管・揚州刺史とされ、襄邑県公に改められた。尉遅迥が挙兵したのに乗じて陳が侵攻してくるとこれを撃退したが、丞相の楊堅に疑われて無理矢理交代させられた。581年、呉州総管とされた。581年(3)参照。
 ⑸蜀王秀…楊秀。隋の文帝の第四子。母は独孤伽羅。581年に隋が建国されると越王とされた。間もなく柱国・益州刺史・総管・二十四州諸軍事・蜀王とされ、蜀の鎮守を任された。582年、上柱国・西南道行台尚書令とされた。奢侈を好み、残忍で、獠人を去勢して宦官にしたり、死刑囚を生きたまま解剖したりしようとしたが、目付役の元巖に諌められると取りやめた。581年(4)参照。

●李充節
 李充節は北魏の三荆二郢大行台の李琰之?~533)の曾孫である。父の李綱孝武帝に従って関中に入り、西魏にて儀同・宜州刺史となった。
 充節は若年の頃から気概があり、才略を有していた。隋の開皇年間(581~600)に行軍総管とされて何度も突厥を破る功績を立て、突厥を恐れ憚らせた。上柱国・武陽郡公・朔州総管にまで昇進した。

○隋53辺将伝
 開皇時,…李充、…俱為邊將,名顯當時。…充,隴西成紀人也。少慷慨,有英略。開皇中,頻以行軍總管擊突厥有功,官至上柱國、武陽郡公,拜朔州總管,甚有威名,為虜所憚。
○北100序伝
〔李…琰之…二子綱、慧,並從孝武帝入關中。綱位宜州刺史,儀同三司。〕子充節,少慷慨,有英略。隋開皇中,頻以行軍總管擊突厥有功,位上柱國,武陽郡公、朔州總管。甚有威名,為虜所憚。
○旧唐62李大亮伝
 李大亮,雍州涇陽人。後魏度支尚書琰之曾孫也。其先本居隴西狄道,代為著姓。祖綱,後魏南岐州刺史。父充節,隋朔州總管、武陽公。

●黄砂
 庚寅(16日)、〔上柱国・武衛大将軍・河北行台尚書令の〕晋王広を左武衛大将軍、〔上柱国・洛州刺史・河南道行台尚書令の〕秦王俊を右武衛大将軍とした。他の官職はそのままとした。
 辛卯(17日)文帝が趙国公の独孤陀の屋敷に赴いた(趙国公は独孤羅)。
 庚子(26日)、長安に黄砂が降った。
 この時、帝は北周が諸侯の微弱さゆえに天下を喪ったのを教訓とし、諸子に封地を分け与え、行台として各地方にて専制を許した。領土を失ったため、土気の祥が表れたのである。のち、諸王はおのおの叛乱を企てる事となった。
 京房の《易飛候》曰く、『黄砂が降るのは、人民が非常な苦労をしている事に天が反応したものである。』
 この時、隋は都邑を建設中で、のち更に仁寿宮を造営した(593年)。山や谷を平らにするほどの大工事を行なった結果、人夫や工匠の大半が死んだ。

○隋文帝紀
 庚寅,以(加)晉王廣為左武衞大將軍,秦王俊為右武衞大將軍,餘官並如故。辛卯,幸趙國公獨孤陀第。庚子,京師雨土。
○隋五行志心咎
 開皇二年,京師雨土。是時,帝懲周室諸侯微弱,以亡天下,故分封諸子,並為行臺,專制方面。失土之故,有土氣之祥,其後諸王各謀為逆亂。京房易飛候曰:「天雨土,百姓勞苦而無功。」其時營都邑。後起仁壽宮,頹山堙谷,丁匠死者太半。

 ⑴晋王広…楊広。別名は英、幼名は阿〔麻+女〕。生年569、時に14歳。隋の文帝の第二子。母は独孤伽羅。美男で幼少の頃から利発で、学問を好み、文才に優れ、落ち着いていて威厳があり、上辺を飾るのが上手かったので、両親から特に可愛がられ、官民からも将来を期待された。北周の代に父の勲功によって雁門郡公とされた。帝が即位すると晋王・并州総管とされた。582年、上柱国・河北道行台尚書令とされた。目付役の王韶を恐れはばかり、常に可否を尋ねてから行動した。韶の出張中に壮大な庭園を作ろうとしたが、帰ってきた韶に諌められると非を認めて工事を中止した。582年(1)参照。
 ⑵秦王俊…字は阿祗。生年571、時に12歳。隋の文帝の第三子。母は独孤伽羅。隋が建国されると秦王とされた。582年、上柱国・洛州刺史・河南道行台尚書令とされた。582年(1)参照。
 ⑶独孤陀…字は黎邪。北周に仕えて胥附上士とされたが、父の罪に連座して蜀郡に十余年間流刑に遭い、宇文護が誅殺されるとようやく長安に帰る事を許された。隋が建国されると上大将軍・郢州刺史とされ、のち延州刺史とされた。猫鬼の術を得意とし、 后と楊素の妻の鄭氏が共に病気となった時に疑われ遷州刺史に左遷された。581年(5)参照。

●農業奨励
 3月、隋が初めて、宮殿の門に入るとき通籍(宮門に入る際に姓名・年齢・身分を書いた竹片を提出させ、照合して合致していた者のみ出入りを許す制度)を行なわせた。
 戊申(4日)、〔上開府・都官尚書・兼領太僕の〕元暉の奏請を聞き入れ、〔上柱国の〕李詢の監督の下、運河を掘って杜陽水を三畤原に灌ぎ、塩分の多い痩せた地数千頃を耕作可能な土地とし、人民はその利益を享受した。

 辛亥(7日)、陳が詔を下して言った。
「今、春の暖かい季節となり、気候も順調であるゆえ、大規模に春耕を行なえば大いに秋の収穫を期待できる。そこで新田開発を奨励し、新しく開墾した田地には検地を行なわず、徴税も行なわぬ事とする。荒廃していた私田や公田を再生した物もその範疇に含める。もし瞠るべき結果を出した地方官や農民がいれば、査定したのち抜擢や賞賜を行なう。」
 癸亥(19日)、朝廷内外の九品以上の官吏に一人ずつ人材を推挙させた。
 また、政治について忌憚無く意見させた。
 己巳(25日)、侍中・尚書左僕射・新除翊前将軍の晋安王伯恭を(正月に翊前将軍・侍中とされていた)〔建安王叔卿に代わって〕安南将軍・湘州刺史とし(拝命せず)、新除翊左将軍・永陽王伯智を尚書僕射とし、中護軍の章大宝を豊州(中国の東南部)刺史とした(正月に豊州刺史から中護軍とされたばかりだった)。


○隋文帝紀
 三月〔,初命入宮殿門通籍。〕戊申,開渠,引杜陽水於三畤原。
○陳後主紀
 三月辛亥,詔曰:「…今陽和在節,膏澤潤下,宜展春耨,以望秋坻。其有新闢塍畎,進墾蒿萊,廣袤勿得度量,征租悉皆停免。私業久廢,咸許占作,公田荒縱,亦隨肆勤。儻良守教耕,淳民載酒,有茲督課,議以賞擢。…」癸亥,詔曰:「…應內外眾官九品已上,可各薦一人。…」又詔曰:「各進忠讜,無所隱諱。…」己巳,以侍中、尚書左僕射、新除翊前將軍晉安王伯恭為安南將軍、湘州刺史,新除翊左將軍、永陽王伯智為尚書僕射,中護軍章大寶為豐州刺史。
○隋37李詢伝
 開皇元年,引杜陽水灌三畤原,詢督其役,民賴其利。
○隋46元暉伝
 開皇初,拜都官尚書,兼領太僕。奏請(奉詔)決杜陽水灌三畤原,溉舄鹵之地數千頃,民賴其利。
○陳28永陽王伯智伝
 尋為侍中,加明威將軍,置佐史。尋加散騎常侍,累遷尚書左僕射。

 ⑴元暉…字は叔平。拓跋什翼犍(北魏の道武帝の祖父)の七世孫。祖父は北魏の恒・朔二州刺史の元琛、父は西魏の尚書左僕射の元翌。絵に描いたような美しい髭と眉を持ち、立ち居振る舞いに気品があり、学究心が非常に強く、大の読書家だった。宇文泰に礼遇を受け、泰の息子たちの友達とされ、一緒に勉強した。博学・雄弁だったためよく使者を任され、突厥や北斉と友好を結ぶのに貢献した。北斉が滅亡すると河北の住民の安撫を命ぜられた。隋が建国されると都官尚書・兼領太僕とされた。のち突厥の達頭可汗のもとに到り、 離間策を行なった。581年(4)参照。
 ⑵李詢…拓抜詢。生年540、時に43歳。字は孝詢。大将軍の李賢の第五子。大の読書家で、冷静で頭が良く回った。出仕して納言上士とされ、間もなく内史上士・兼掌吏部とされ、能吏としての評判を得た。574年、武帝が雲陽宮に赴くと司衛上士とされて留守を任された。衛王直が叛乱を起こして長安宮を攻め、門に火を放つと、尉遅運に「消火をするより、むしろ火の勢いを増す手伝いをした方が良い」と進言して敵の侵入を防いだ。この功により儀同三司・長安令とされた。のち英果中大夫とされ、軍功を立てて大将軍・平高郡公とされた。普六茹堅が丞相となると腹心とされ、尉遅迥挙兵の際に元帥長史とされ、討伐に赴いた。その際、梁士彦らが迥から金を貰ったと堅に訴えた。その後も鄴城の戦いの際に観戦者たちに射る事を決める謀議に加わるなどして、迥討伐に大きく貢献した。この功により上柱国とされた。580年(9)参照。
 ⑶杜陽水…《読史方輿紀要》曰く、『杜水は鳳翔府(岐州)の東北百二十里→麟游県の西南を流れる。水源は鳳翔県の杜陽山で、そこから東北に流れて県境に入る。またの名を杜陽川という。』
 ⑷三畤原…《元和郡県志》曰く、『京兆府(長安)の西百四十里→武功県の西南二十里にある。五十丈の高さがある。』
 ⑸永陽王伯智…字は策之。文帝(陳二代皇帝)の第十二子。母は江貴妃。若年の頃より誠実で優しく、才能や度量があり、読書を好んだ。568年(2)参照。
 ⑹章大宝…陳の名将の章昭達の子。父が死ぬと邵陵郡公の爵位を継ぎ、のち仁武将軍・豊州刺史とされた。582年正月、中護軍とされた。582年(1)参照。

●隋、突厥と全面戦争となる

 これより前、隋は〔上開府・〕右武候大将軍の竇栄定を建国を輔佐した功を以て上柱国・寧州(もと豳州。安定の東北)刺史としていた。
 4月、丁丑(4日)、栄定を左武候大将軍とした(竇栄定伝では右武候大将軍)。
 
 庚寅(17日)、大将軍〔・熊州刺史?〕の韓僧寿が突厥を鶏頭山(牽屯山にて撃破した。
 また、上柱国の李充節2月参照)が突厥を河北山[1]にて撃破した。

 また(詳細な時期は不明)、突厥が蘭州に侵攻した。〔上開府・涼州総管の〕賀婁子幹がその迎撃に向かい、〔涼州の東南の〕可洛峐山にて突厥軍と遭遇した。突厥軍は非常に大軍だったが、子幹が川を遮るように陣を構築すると、水不足に苦しみ、人馬ともに疲弊した。数日後に子幹が攻撃をかけると、突厥軍は大敗を喫した。
 帝は勅書を下して子幹を上大将軍とし、こう言った。
「ああ!謹んで朕の命を聴け。汝は卓越した才能と剛毅果断な性格を有し、武将となると次々と武功を立て、その評判は朕の耳にまで届くほどとなった。凶醜(突厥)は未だ我が朝の統治に服せず、しばしば国境を侵したが、汝は賊徒を撃破して国土を奪還するのに非常に貢献した。そこで今この勅書を下し、汝の勲階を上げる事とした。謹んで受けるように!」

○隋文帝紀
 四月丁丑,以寧州刺史竇榮定為左武候大將軍。庚寅,大將軍韓僧壽破突厥於雞頭山,上柱國李充破突厥於河北山。
○隋39竇栄定伝
 以佐命功,拜上柱國、寧州刺史。未幾,復為右武候大將軍。
○隋52韓僧寿伝
 後轉蔚州刺史,進爵廣陵郡公。尋以行軍總管擊突厥於雞頭山,破之。
○隋53賀婁子幹伝
 明年,突厥寇蘭州,子幹率眾拒之,至可洛峐山,與賊相遇。賊眾甚盛,子幹阻川為營,賊軍不得水數日,人馬甚敝,縱擊,大破之。於是冊授子幹為上大將軍曰:「於戲!敬聽朕命。唯爾器量閑明,志情強果,任經武將,勤績有聞。往歲凶醜未寧,屢驚疆埸,拓土靜亂,殊有厥勞。是用崇茲賞典,加此車服,往欽哉!祗承榮冊,可不慎歟!」

 ⑴竇栄定…紇豆陵栄定。生年530、時に53歳。開府・永富県公の紇豆陵善の子で、上柱国・鄧国公の紇豆陵熾の兄。冷静沈着で器量があり、逞しく立派な容姿をしていて、美しい髭を蓄え、弓馬を得意とした。宇文泰が東魏と北邙で戦って(邙山の戦い?)敗北した時(543年)、宇文神慶と共に精鋭の騎兵二千を率い、東魏の追撃部隊を撃退した。のち楊忠が突厥と共に北斉の并州を攻めるのに参加した(563~564年)。のち開府・永富県公とされた。妻は楊堅の姉で、これが縁で堅と非常に仲良くなった。北斉平定後、上開府とされた。堅が宰相となると領左右宮伯とされた。尉遅迥の乱が平定されると洛州総管とされた。のち、罪を犯して官爵を剥奪されたが、妻が訴えてくれたため復帰し、右武候大将軍とされた。帝にしばしば訪問を受け、多くの下賜を受けた。581年(5)参照。
 ⑵韓僧寿…字は玄慶。韓雄(河南で活躍)の子。韓擒虎の同母弟。兄と同じく勇敢さで名を知られた。北周の武帝の時(560~578)に侍伯中旅下大夫とされた。のち尉遅迥の乱の平定に参加し、どの戦いでも功を挙げて大将軍・昌楽公とされた。開皇の初め(581年)に安州刺史とされたが、兄が廬州総管とされると熊州刺史に転任させられた。581年(3)参照。
 ⑶鶏頭山…《読史方輿紀要》曰く、『平涼府(原州の東南)の西四十里にある。大隴の異名。涇水の水源がある。』
 [1]河北山…北山は恐らく北河(黄河屈曲部にて分かれた流れの北のほう)の北にある(陰山山脈?)。
 ⑷賀婁子幹…字は万寿。生年534、時に49歳。祖父は西魏の侍中・太子太傅、父は北周の右衛大将軍。北周の武帝の時(560~578)に出仕して司水上士とされると能吏の評判を得た。のち昇進して小司水とされると、これまでの勤務態度を評価されて思安県子とされた。間もなく儀同とされ、579年、軍器監を兼任し、淮南攻略に加わった。580年、尉遅迥が挙兵すると討伐に向かい、懐州の包囲を破って丞相の楊堅から激賞を受けた。武陟の決戦では先鋒を務め、鄴城の戦いでも先んじて城壁を登った。これらの功により上開府・武川県公とされた。隋が建国されると鉅鹿郡公とされた。間もなく行軍総管とされて吐谷渾討伐に参加し、一番の武功を立て、涼州総管とされた。581年(4)参照。
 ⑸可洛峐山…《読史方輿紀要》曰く、『可落峐山は涼州衛(涼州)の東南にある。山に草木が生えていなかったため、峐(禿山)と呼んだ。』

●倹約と人質返還
 丙申(23日)、皇子の永康公胤正月25日参照)を皇太子とした。跡継ぎの者に爵位(二十等爵)を一級上げ、朝廷内外の文武官に差をつけて絹を与えた(573年に胤が誕生した時と同じ)。
 胤は聡明で学問を好み、一日中書物を読んでも飽きることを知らず、広く大義に通じ、優れた文章を書いた。
 庚子(27日)、詔を下して言った。
「朕は天下を統治するに当たり、万民の生活をより良くし、困窮している者を救いたいと思っている。そこで冗費を節減し、常識外れの奢侈を禁止する事とする。金銀の彫刻や装飾が施された神像・土像・木像・造花(綵花。《南史》では綵華。色鮮やかな衣料?)や、布帛の幅尺が短狭・軽疎な物(薄くて軽い布帛?)はみないたずらに出費を促し家を滅ぼす最も害悪のある物である。また、戒律を守らず邪道に走った僧尼・道士および人々を惑わすような民間の淫祀・妖書も、詳密な法令を作って禁止する事とする。」
 癸卯(30日)、詔を下して言った。
「むかし、我が朝が淮・泗を平定した時、青・一帯の土豪はよしみを通じ、人質として親族を送ってきた。〔しかし、〕現在、淮・泗が再び異国の手に落ちると、土豪と親族は南北に大きく隔てられ、会う事ができなくなってしまった。朕はその事を考えると、非常に胸が痛む。夷狄も中国人もみな同じ人間であり、夷狄だけが家族と会えないままにさせられる道理は無い。担当官は速やかに任子館および東館にいる人質たちを調査し、国外から来た者にみな衣服や酒食を与えて故郷に帰らせよ。故郷が遠く険しい場所にある場合は、船や護衛を用意して護送し、必ず無事に送り届けよ。ただ、既に我が朝に仕官していたり、別の理由によって帰りたくない者がいるなら、その意志を尊重せよ。」

○陳後主紀
 夏四月景申,立皇子永康公胤為皇太子,賜天下為父後者爵一級,王公已下賚帛各有差。庚子,詔曰:「朕臨御區宇,撫育黔黎,方欲康濟澆薄,蠲省繁費,奢僭乖衷,實宜防斷。應鏤金銀薄及庶物化生土木人綵花(華)之屬,及布帛幅尺短狹輕疎者,竝傷財廢業,尤成蠹患。又僧尼道士,挾邪左道,不依經律,民間淫祀祅書諸珍怪事,詳為條制,竝皆禁絕。」癸卯,詔曰:「中歲克定淮、泗,爰涉青、徐,彼土酋豪,竝輸罄誠款,分遣親戚,以為質任。今舊土淪陷,復成異域,南北阻遠,未得會同,念其分乖,殊有愛戀。夷狄吾民,斯事一也,何獨譏禁,使彼離析?外可即檢任子館及東館並帶保任在外者,竝賜衣糧,頒之酒食,遂其鄉路,所之阻遠,便發遣船仗衛送,必令安達。若已預仕宦及別有事義不欲去者,亦隨其意。」
◯陳28呉興王胤伝
 吳興王胤字承業,後主長子也。…十年,封為永康公。後主即位,立為皇太子。胤性聰敏,好學,執經肄業,終日不倦,博通大義,兼善屬文。


 582年(3)に続く