[北周:大定元年→隋:開皇元年 陳:太建十三年 後梁:天保十九年]

●蜀に皇族を置くべし
 隋が建国された時、帝は〔上柱国・潼州総管・建平郡公の〕于義の子で千牛備身の于宣敏を奉車都尉とし、巴・蜀の地の慰撫に向かわせていた(巴・蜀は王謙の乱によって乱れていた)。宣敏は任務を終えて帰還すると、上疏して言った。
『臣はこう聞いております。「一族を藩屏として国の基礎を盤石な物としたため、周や漢は長い命脈を保ち得た」と。一方、秦は牧守を置いて諸侯を廃止し、魏(曹魏)は奸臣たちを近付けて一族を遠ざけた結果、他族・異姓の者に国家を乗っ取られるに至りました。これは、火を見るよりも明らかな事実であります。しからば、地形の険しい要害の地に一族の者を置かないわけにはいきません。そもそも、蜀土は肥沃で、優れた人物(或いはただ単に人口?)も多く、西は邛・僰(中国西南部)、南(東の誤り?)は荊・巫に接する〔要地であります〕。周の徳が衰微したり、炎政(これも周? 漢も火徳だが、後述の『七百年以上』には合わない)が制御を失うと、この地はすぐさま叛乱が起こりました。〔ただ、〕明察な者が事が起きる前に予防を講じたり、能治の者が乱れが起こる前にこれを制止したりしたので〔克服でき〕、遂に七百年以上に亘る命脈を保ち得たのです(西周・東周は前1046年〜前256年)。
 謹んで考えますに、陛下は帝王となるべき貴相を備えておられ、人民からの厚い期待と天地に匹敵する気高い徳を以て、禅譲を受けるに至りました。人民の期待と天神の加護と受けて即位なされたからには、藩屏を建て、子孫をその主とし、周・漢の遠図を継ぎ、秦・魏の失敗を改め、近習(近臣)の権勢を抑えて本枝である皇族を尊重すべきであります。三蜀・三斉の地は古来より天険の地と称され、〔その重要さゆえに〕皇族が治めてきました。これに倣うのは、まさに今です。もし適切な人物を王となさってこの地を治めさせますれば、不埒な者どもも野心を抱かなくなり、国家の命脈は天地の長久と同じく、盛んさは日月の輝きと等しくなるでしょう。臣は浅学でございますが、国家を想う気持ちは深いものがあります。そこで愚見を申し上げましたが、〔出過ぎた事をしてしまったと〕深く恐懼するばかりであります。』
 帝はこの上表を読むとその内容を褒め称え、高熲にこう言った。
「于氏は代々人材ばかりだな。」
 帝は北周が一族を抑圧したために滅亡に至ったのを気にかけていたため、この提言を聞き入れた(既に今年に晋王広を并州総管にはしている)。
 辛未(25日)越王秀を蜀王に移し、柱国・益州刺史・総管・二十四州諸軍事として蜀を鎮守させた。
 
 于宣敏は字を仲達といい、若年の頃から大人しくて思慮深く、文才に優れた。十一歳の時に北周の趙王招の所に行くと、詩を作るよう命ぜられた。そこで詩を作ると、非常に奥深く淑やかな詩だったので、王やその場にいた人々はみな感嘆して褒め称えた。出仕すると右侍上士とされ、のち千牛備身とされた。
 宣敏は古の賢人たちが驕慢について深く戒めていたのを以て、常に控えめに暮らし、《述志賦》を書いてその志向を吐露した。
 この上疏をしたのち、間もなく在任中に亡くなった(享年29)。

 この時(墓誌では翌年)、上開府・宗正少卿の楊异を品行方正な事を以て益州総管府長史とし、更に銭二十万・縑(かとりぎぬ)三百疋・馬五十頭を与えた。
 异(生年533、時に49歳)は字を文殊といい、名門の弘農楊氏の出で、祖父は北魏の懐朔鎮将の楊鈞、父は西魏の華州刺史の楊倹。〔叔父に北周の梁州総管の楊寛、従兄弟の子に隋の上柱国の楊素がいる。〕
 美男で、思慮深く優れた才能と度量を有していた。幼い頃に学問を始めると、毎日非常に多くの文章を誦読し、見る者を驚かせた。九歲の時(541年)に父の死に遭うと非常に悲しみ、危うく死にかけるほどに痩せ細った。喪が開けた後も慶弔を絶って家に閉じこもり、読書に励んだ。かくて数年後には博識の士となった。
 輔国将軍・中散大夫・車騎将軍を歴任し、北周の孝閔帝の時(557年)に寧都(直州、漢中の東)太守とされると非常に素晴らしい統治を行なった。昌楽県子とされ、のち多くの戦功を立てて侯(公?邑千戸)とされた。この間、驃騎将軍・右光禄大夫・左旅下大夫を歴任した。文帝が丞相となると行済州事とされた。帝が即位すると上開府・宗正少卿とされた。

○隋文帝紀
 辛未,以越王秀為益州總管,改封為蜀王。
○隋39于宣敏伝
 于義…子宣敏…。宣敏字仲達,少沉密,有才思。年十一,詣周趙王招,王命之賦詩。宣敏為詩,甚有幽貞之志。王大奇之,坐客莫不嗟賞。起家右侍上士,遷千牛備身。高祖踐阼,拜奉車都尉,奉使撫慰巴、蜀。及還,上疏曰:臣聞開盤石之宗,漢室於是惟永,建維城之固,周祚所以靈長。昔秦皇置牧守而罷諸侯,魏后暱諂邪而疎骨肉,遂使宗社移於他族,神器傳於異姓。此事之明,甚於觀火。然山川設險,非親勿居。且蜀土沃饒,人物殷阜,西通卭(邛)、僰,南屬荊、巫。周德之衰,茲土遂成戎首,炎政失御,此地便為禍先。是以明者防於無形,治者制其未亂,方可慶隆萬世,年逾七百。伏惟陛下日角龍顏,膺樂推之運,參天貳地,居揖讓之期。億兆宅心,百神受職,理須樹建藩屏,封植子孫,繼周、漢之宏圖,改秦、魏之覆軌,抑近習之權勢,崇公族之本枝。但三蜀、三齊,古稱天險,分王戚屬,今正其時。若使利建合宜,封樹得所,巨猾息其非望,姦臣杜其邪謀。盛業洪基,同天地之長久,英聲茂實,齊日月之照臨。臣雖學謝多聞,然情深體國,輒申管見,戰灼惟深。
 帝省表嘉之,謂高熲曰:「于氏世有人焉。」竟納其言,遣蜀王秀鎮於蜀。宣敏常以盛滿之誡,昔賢所重,每懷靜退,著述志賦以見志焉。未幾,卒官,時年二十九。
○隋45庶人秀伝
 開皇元年,立為越王。未幾,徙封於蜀,拜柱國、益州刺史、總管,二十四州諸軍事。
○隋46楊异伝
 楊异字文殊,弘農華陰人也。祖鈞,魏司空。父儉,侍中。异美風儀,沉深有器局。髫齓就學,日誦千言,見者奇之。九歲丁父憂,哀毀過禮,殆將滅性。及免喪之後,絕慶弔,閉戶讀書。數年之間,博涉書記。周閔帝時,為寧都太守,甚有能名。賜爵昌樂縣子。後數以軍功,進為侯。高祖作相,行濟州事。及踐阼,拜宗正少卿,加上開府。蜀王秀之鎮益州也,朝廷盛選綱紀,以异方直,拜益州總管長史,賜錢二十萬,縑三百匹,馬五十匹而遣之。尋遷西南道行臺兵部尚書。
○大隋使持節上開府儀同三司工部尚書呉州総管昌楽県開国公楊使君墓誌銘
 歷官輔国将軍、中散大夫、車騎将軍、寧都太守。遷驃騎将軍,右光禄大夫,尋以本官為左旅下大夫,封昌樂縣開國公,食邑一千戸。開皇元年,為宗正少卿。二年,為益州總管府長史。
○隋62元巖伝
 時高祖初即位,每懲周代諸侯微弱,以致滅亡,由是分王諸子,權侔王室,以為磐石之固,遣晉王廣鎮并州,蜀王秀鎮益州。

 ⑴于義…万紐于義。字は慈恭。北周の柱国・太傅・燕国公の万紐于謹(于謹)の子。若年の頃から慎み深くおごそかで、品行方正で、熱心に学問に励んだ。安武太守とされると良く恩徳を以て郡民を善導した。のち建平郡公とされ、明帝・武帝の代(557~578)に西兗・瓜・邵三州の刺史を歴任し、数々の戦功を立てて開府とされた。宣帝が数々の非行を働くと上疏して諌めた。可頻謙(王謙)が挙兵すると独孤熲(高熲)に行軍元帥に推されたが、劉昉の反対により行軍総管とされた。平定すると上柱国・潼州総管とされた。580年(8)参照。
 ⑵越王秀…楊秀。隋の文帝の第四子。母は独孤伽羅。581年に隋が建国されると越王とされた。581年(2)参照。
 ⑶趙王招…字は豆盧突。宇文泰の第七子で武帝の異母弟。母は王姫。文学を愛好し、著名な文人の庾信と布衣の交わりを結んだ。562年、柱国とされ、益州総管を570年まで務めた。572年に大司空→大司馬、574年に王・雍州牧とされた。575年の北斉討伐の際には後三軍総管とされた。576年、北斉の汾州の諸城を攻め、上柱国とされた。577年、行軍総管とされて稽胡を討伐し、皇帝の劉没鐸を捕らえた。宣帝が即位すると太師とされた。579年、突厥が婚姻を求めてくると、娘が千金公主とされてその相手とされた。間もなく趙国に赴くよう命ぜられた。580年、帝が死ぬと、挙兵を恐れた普六茹堅(のちの隋の文帝)によって長安に呼びつけられた。間もなく誅殺された。580年(4)参照。

●五銖銭鋳造
 これより前、北周と北斉が鋳造した貨幣は総じて四種類あり、更に民間の私鋳銭も含めるとかなりの数に上った。また、その形状材質もばらばらで統一されていなかった。
 隋はこれを問題視した。
 この月(9月、新たに五銖銭を鋳造した。
 穴の輪郭は裏面のみにあり、外周の輪郭は表裏どちらにも設けられていた。『五銖』と文字が記され、重量はその文字通りの重さとした(五銖は約3グラム)。千枚の重さは四斤二両あった(1斤=16両〈約224グラム〉、1両=24銖〈約14グラム〉なので、約900グラムか?)。これまでの貨幣と私鋳銭は全て禁止した。

©初心者のための古文銭


 冬、10月、癸未(7日)、陳が散騎常侍・丹陽尹の毛喜を吏部尚書とし、散騎常侍はそのままとした。また、護軍将軍の樊毅5月参照)を鎮西将軍・荊州(公安)刺史とした。
 また、鄱陽郡(柴桑の東南)を呉州とした。

 乙酉(9日)、隋に百済王の扶余昌威徳王)の祝賀の使者が到着した。隋は昌を上開府儀同三司・帯方郡公とした。

○資治通鑑
 初,周、齊所鑄錢凡四等,乃民間私錢,名品甚眾,輕重不等。隋主患之,更鑄五銖錢。…悉禁古錢及私錢。
○隋文帝紀
 是月,行五銖錢。冬十月乙酉,百濟王扶餘昌遣使來賀,授昌上開府、儀同三司、帶方郡公。
○陳宣帝紀
 冬十月癸未,以散騎常侍、丹陽尹毛喜為吏部尚書,護軍將軍樊毅為鎮西將軍、荊州刺史。改鄱陽郡為吳州。
○隋食貨志
 高祖既受周禪,以天下錢貨輕重不等,乃更鑄新錢。背面肉好,皆有周郭,文曰「五銖」,而重如其文。每錢一千,重四斤二兩。
○陳29毛喜伝
 十二年,加侍中。十三年,授散騎常侍、丹陽尹。遷吏部尚書,常侍如故。
○陳31樊毅伝
 尋遷護軍將軍、荊州刺史。

 ⑴四種類…北斉は『常平五銖』を作り、北周は『布泉銭』『五行大布銭』『永通万国銭』を作った。
 ⑵民間の私鋳銭…東魏では『私鋳銭は形状材質の違いによって、〔東?〕雍州では青赤、梁州では生厚・緊銭・吉銭、河陽では生渋・天柱・赤牽銭』と呼ばれた。北斉では『鄴で使われる銭には赤熟・青熟・細眉・赤生などの名称があり、河南では青・薄・鉛・錫の名称があった。青・斉・徐・兗・梁・豫州でも形状材質がそれぞれ異なっていた。』
 ⑶毛喜…字は伯武。生年516、時に66歳。幼い頃から学問を好み、達筆だった。梁の中衛西昌侯記室参軍。陳の武帝に才能を評価され、江陵に行く安成王頊(のちの宣帝)の世話役とされた。江陵が陥落すると関中に拉致された。561年に陳に返されると、文帝に北周と和を結ぶよう進言した。562年、帰国した頊の出迎えを任された。その後は頊の府諮議参軍・中記室とされ、文書の作成を一任された。文帝が死に廃帝が継ぎ、反頊派の到仲挙らが頊を宮廷から追い出そうとすると、その危険性を察知して頊に宮廷から出ないよう諌めた。また、反頊派の韓子高に精良な兵馬や鉄炭を送って油断させるよう勧めた。頊が即位して宣帝となると給事黄門侍郎・兼中書舍人とされ、国家の機密事項を司った。のち御史中丞や五兵尚書(のちの兵部尚書)を歴任した。宣帝が淮北攻めを企図した際、これを諌めたが聞き入れられなかった。淮北攻めが失敗すると謝罪を受け、ますます重用を受けるようになった。578年(1)参照。

●鄭訳除名
〔これより前、帝が大冢宰とされると(580年10月10日)、上柱国・沛国公の鄭訳は兼領天官都府司会とされ、六府の事務を総括した。ただ、訳は真面目に仕事に取り組まず、賄賂を貪るなどの不法行為を働いた。帝は内心訳を疎んじたが、自分を擁立してくれた恩があったため罷免する事ができず、ただ訳の部下たちに訳に指示を仰ぐのをやめさせるに留めた。以降、訳は役所にいてもする事が無くなった。訳は恐れて頓首して解任してくれるよう求めたが、堅は慰留し、これまで通りの礼遇を以て接した(580年〈8〉参照)。〕
 隋が建国されたのち、訳は罷免され、上柱国と沛国公の身分だけを残されて邸宅に帰された。ただ、手厚い賞賜は加えられ、子の鄭元璹は城臯郡公(邑二千戸)とされ、鄭元珣は永安男とされた。また、父と兄二人に刺史を追贈された。〔それでも〕訳は不安に感じ、密かに道士の章醮を呼び、神の加護を受けられるよう祈らせた。すると、下女が上奏してこう言った。
「鄭訳が道士を雇い、陛下に呪いをかけさせております。」
 帝は訳にこう言った。
「私は公に悪いことなどしていないのに、これは一体何のつもりか?」
 訳は何も弁解する事ができなかった。このとき、訳は母と別居しており、御史台はこれを不孝の行ないだとして弾劾を行なった。これにより、訳は遂に官爵を全て剥奪されるに至った。帝は詔を下して言った。
「訳が良い献策をした事はとんと聞かないのに、賄賂を取って判決を捻じ曲げたり官位を売ったりというような事は、耳に溢れるほど聞こえてくる。もしこれを生かすとこの世に不道の臣をのさばらせてしまうことになり、これを殺すとあの世に不孝の鬼をのさばらせてしまうことになる。まことに、どちらにも身を置かせる事のできぬ困った存在である。かくなる上は、《孝経》を与えて熟読させ、母と同居させて〔孝行を尽くさせ、改心を期待する他ない〕。」

○隋38鄭訳伝
 及上受禪,以上柱國公歸第,賞賜豐厚。進子元璹爵城臯郡公,邑二千戶,元珣永安男。追贈其父及亡兄二人並為刺史。譯自以被疎,陰呼道士章醮以祈福助,其婢奏譯厭蠱左道。上謂譯曰:「我不負公,此何意也?」譯無以對。譯又與母別居,為憲司所劾,由是除名。下詔曰:「譯嘉謀良策,寂爾無聞,鬻獄賣官,沸騰盈耳。若留之於世,在人為不道之臣,戮之於朝,入地為不孝之鬼。有累幽顯,無以置之,宜賜以孝經,令其熟讀。」仍遣與母共居。

 ⑴鄭訳…宇文訳。字は正義。生年540、時に42歳。北周の少司空の宇文孝穆(鄭孝穆)の子。幼い頃から聡明で、本を読み漁り、騎射や音楽を得意とした。一時宇文泰の妃の元后の妹の養子となり、その縁で泰の子どもたちの遊び相手とされた。輔城公邕に仕え、邕が即位して武帝となると左侍上士とされ、儀同の劉昉と共に常に帝の傍に侍った。帝が親政を行なうようになると御正下大夫とされ、非常な信任を受けた。魯公贇が太子とされると、太子宮尹下大夫とされてその傍に仕え、非常に気に入られた。573年、副使として北斉に赴いた。577年、贇と共に吐谷渾の討伐に赴いた。その間、贇の問題行動を止めることが無かったため、武帝の怒りを買って鞭打たれ、官爵を剥奪された。のち復職して吏部下大夫とされた。贇が即位して宣帝となると開府・内史中大夫・帰昌県公とされ、朝政を委ねられた。579年、内史上大夫・沛国公とされた。間もなく勝手に官有の木材を自分の邸宅の造営に使った事が原因で官爵を剥奪されたが、劉昉の説得によりすぐに復帰し、領内史事とされた。580年、普六茹堅(楊堅)と共に南征に向かうよう命ぜられた。帝が死ぬと堅を丞相とし、その功により柱国・相府長史・治内史上大夫事とされた。のち更に上柱国とされ、死刑にされるような大罪を犯しても十回まで赦す特権も与えられた。尉遅迥が挙兵すると、堅に討伐軍の監軍となってくれるよう求められたが老母がいる事を以て辞退し、心証を非常に害した。堅が大冢宰とされると兼領天官都府司会とされたが、実権は無かった。581年(3)参照。

●新律
〔これより前(563年2月)、北周は大律を施行した。その内容は厳しく過酷で、北斉の法律と比べると、煩瑣で不要のものがあった(563年〈1〉参照)。
 北周が北斉を併呑したのち、武帝はその地に寛大な法律を布いて人心の収攬を図った。しかし、その乱れ切った習俗は変わらないままで、法律に従わず悪事を働く者がはびこっていたため、遂に新しい刑法である《刑書要制》を施行した(577年〈4〉参照)。その内容は非常に厳しいものだった。
 のち、宣帝が跡を継ぐと、帝は法律の用い方が厳しくては平定したばかりの人心が懐かないのを危惧し、《刑書要制》を廃止して法律を緩くし、更に何度も大赦を行なった。しかしその結果、悪人たちはみな軽々しく罪を犯すようになり、政治は無秩序な状態となって、人々は政府の命令に従わなくなった。帝はそこで《刑書要制》を更に厳しくした《刑経聖制》を作った(579年〈1〉参照)。その刑法は苛酷だったため、人心は恐懼して落ち着かなかった。
 隋の文帝が北周の丞相となると、寛大な政治を旨とし、煩雑過酷だった《刑経聖制》の条文を削り改めて簡素にし、新たな《刑書要制》を作った。新制は直ちに実行され、犯罪者のうちまだ罪科が定まっていない者は、みなこの新制に依って罪科を定めさせた(580年〈2〉参照)。〕

 この年、〔柱国・〕尚書左僕射・勃海公の高熲、開府・〔刑部尚書・兼納言・〕邳国公の蘇威、上柱国・沛国公の鄭訳、上柱国・清河郡公の楊素、大理前少卿・平源県公の常明、刑部侍郎・保城県公の韓濬、比部侍郎の李諤、兼考功侍郎の柳雄亮、上儀同・太子率更令(伎楽・漏刻の担当官)の裴政らに律の改定をさせた。
 政は上は魏・晋、下は斉(南斉、或いは北斉)・梁に至るまでの法律から良い所をまとめて一つとした。他の十余人は難題が持ち上がるとみな政に判断を仰いだ。
 戊子(10月12日)、新律を施行した。

 李諤は字を士恢といい、趙郡の人である。学問を好み、文才があった。北斉に仕えて中書舍人とされた。弁才があったので、常に陳の使者の接待を任された。
 北斉が北周に滅ぼされると北周に仕え、天官都上士とされた。この時、諤は帝の傑出した容姿を見て深く交際するようになった。帝が丞相となると非常に親密な待遇を受け、施策の可否について尋ねられた。この時、何度も戦いが繰り返された結果、国庫が底をつく事態となっていた。そこで諤は《重穀論》を献じて遠回しに諭し、帝はこれを深く聞き入れた。隋が建国されると比部・考功の二曹の侍郎とされ、南和伯とされた。諤は品行方正で事務の処理に通じていたため、人々から高い評価を受けた。のち治書侍御史とされた。帝は群臣にこう言った。
「朕は大司馬だった時、よく地方官の職を求めたものだったが、李諤は十二策を述べて強く反対したので、朕は中央に残る事を決めたのだ。今、朕が皇帝となれたのは諤のおかげなのだ。」
 かくて反物二千段を与えられた。

 刑の種類は五つあった。
 ①死刑。方法は絞首と斬首の二種類があった。
 ②流刑。〔畿内から〕千里・千五百里・二千里の三等級があった。配流された者は、千里なら二年の、千五百里なら二年半の、二千里なら三年の服役を命じられた。元の場所に留まって服役をする事を許された者は、どの等級でも三年の服役を命じられた。また、近流(千里)の者は杖打ち百回、中流の者は百三十、遠流の者は百六十を受けた。
 ③徒刑懲役刑)。一年・一年半・二年・二年半・三年の五等級があった。
 ④杖刑。六十・七十・八十・九十・百回の五等級があった。
 ⑤笞刑。十・二十・三十・四十・五十の五等級があった。
 前代の北周にあった鞭刑と梟首・轘裂の法は撤廃し、流刑・徒刑はみな刑の重さを軽くした(北周の律は563年〈1〉・北斉の律は564年〈1〉を参照)。


 また、家族に連座させるのは大逆・謀反・謀叛の罪を犯した者に限り、父子兄弟はみな斬首し、妻や娘は官奴とした。
 また、十悪の条目を立てた。これは北斉の法制を大いに参考としたが、かなりの取捨選択を加えた(北斉では反逆・大逆・叛・降・悪逆・不道・不敬・不孝・不義・内乱)。
 謀反(皇帝殺害を企む)・謀大逆(宮殿・陵墓・宗廟の破壊を企む)・謀叛(国家に害を及ぼすことを企む)・悪逆(目上の親族や夫を殺す)・不道(三人以上を殺す)・大不敬(皇帝の所有物を盗んだり偽造したりする)・不孝・不睦(家庭不和)・不義(一族以外の目上の者に対する罪)・内乱(一族の秩序を乱す)。十悪の罪を犯した者および殺人を犯した者は、大赦にあっても除名処分(官籍を剥奪し、庶民の身分に落とすこと)はそのままとされた。

 また、士大夫を優遇し、八議(親〈宗室〉・故〈天子の旧知〉・賢〈徳行ある者〉・能〈才能ある者〉・功〈勲功ある者〉・貴〈高位の者〉・勤〈国事に尽力する者〉・賓〈外賓〉)の範疇に入る者や、官品が七品以上の者で罪を犯した者は、みな罪一等を減じられた。また、九品以上の者に、金品を払うことによって刑罰を免除される権利を与えた。この時、絹を銅銭に代えさせて納めさせた(北斉では絹)。銅一斤で一負とし、十負貯まると殿(一品降格)とした。
 笞十の者は銅一斤を、杖百の者は十斤を納めさせた。徒刑の一年の者は銅二十斤を納めさあえ、等級ごとに銅十斤を加え、三年の者は六十斤を納めさせた。流刑の千里の者は銅八十斤を納めさせ、等級ごとに銅十斤を加え、二千里の者は百斤を納めさせた。死刑の者には銅百二十斤を納めさせた。
〔また、官位と引き換えに刑罰を免除される権利も与え、〕私罪(公務とは関係ない所で犯した罪)を犯した者の内、徒刑の者は、五品以上の官一つで二年を、九品以上の官一つで一年を免除し、流刑の者はどれも徒刑三年分に換算して計算した。
 公罪(公務での罪)を犯した者は、徒刑の者はそれぞれ一年を加え、流刑の者はそれぞれ一等を加えてから計算した。多くの罪を重ねて徒刑の刑期が九年を超えた者は、二千里の流刑とした。

 新律を制定し終わると、詔を頒布して言った。
「帝王が法律を作る際、それぞれ前代から踏襲したり改めたりする所があって一様ではなかった。それはその時代時代に適応するために、取捨選択を行なったためである。そもそも、絞首は死に至らしめる刑罰で、斬首は〔それに首を切り離すという屈辱を加えた〕重い刑罰であり、悪人を死に追いやるやり方はこの二つの方法で既に事足りている。この道理から言って梟首や車裂きは採用するべきものでは無い。これらは抑止の役に立たず、ただ国の残酷さを天下に露呈するという短所の方が大きい代物である。鞭刑も、皮膚を剥ぎ取り骨を軋ませる物で、その残酷さは肉を細切れにするのと同様なものがある。これらは遠い昔からの伝統ではあるものの、仁者が行なう刑罰とは乖離している。ゆえにみな撤廃すべきである。また、《礪帯》の誓約書(国と諸侯の共存を誓ったもの)を尊重して無用な罰は加えず、恩蔭の制(父祖が高官だった場合、罪を犯しても特別な処遇を受ける特権)を拡大して恩恵を多くの者に及ぼすべきである。よって、流刑は六年から五年とし、徒刑は五年から三年とする。その他の刑罰もみな軽減し、死刑を回避できるようにした。条目は非常に多いが、詳しく説明してあるので安心せよ。これを天下に頒布し、世の軌範とせよ。雑多な格(律を補足する法令)や厳しい科令はみな撤廃する。先人が法令を作ったのは、犯罪を抑止させるためであり、また、国に法律があるのは、天子の私情によって誅殺が行なわれるのを防ぐためである。法律があっても用いる事の無くなる日が遠くない事を願う。天下の人民は自分のこの想いを良く知るように。」
 担当官の尋問の方法は、前代より引き続いてみな法に外れており、大棒・束杖・車輻・鞵底・壓踝・杖桄の類を用い、拷問を加えて偽りの自白をさせられる者や、法律上では正しいのに、都合のいいように解釈されて有罪とされ、訴える事ができない者が多数いた。そこで今、過酷な法を全て撤廃し、囚人の尋問の際二百以上叩く事を禁止し、枷や杖の大きさはみな規格に沿った物を使用させ、杖打ちを行なう者の途中交代を禁止させた。
 帝は、律令が施行されたばかりで民がまだその規定を知らないため、犯罪が多い事と、下吏が苛政の後を受けて人を罪に陥れる事に躍起になっている事を以て、天下に詔勅を下し、訴訟を慎重に処理するようにさせた。冤罪を訴えても県が正しく取り扱ってくれない場合は郡や州に訴えさせ、それでも駄目な場合は宮門にまで訴えさせた。それでも納得しない場合は登聞鼓(朝廷の外に置いてある太鼓)を打って、担当官経由で皇帝に訴える事を許した。
 この法制は後世の多くの王朝で踏襲して用いられた。

◯資治通鑑
 又制議、請、減、贖、官當之科以優士大夫。…自是法制遂定,後世多遵用之。
○隋文帝紀
 冬十月…戊子,行新律。
○隋刑法志
 高祖既受周禪,開皇元年,乃詔尚書左僕射、勃海公高熲,上柱國、沛公鄭譯,上柱國、清河郡公楊素,大理前少卿、平源縣公常明,刑部侍郎、保城縣公韓濬,比部侍郎李諤,兼考功侍郎柳雄亮等,更定新律,奏上之。其刑名有五:一曰死刑二,有絞,有斬。二曰流刑三,有一千里、千五百里、二千里。應配者,一千里居作二年,一千五百里居作二年半,二千里居作三年。應住居作者,三流俱役三年。近流加杖一百,一等加三十。三曰徒刑五,有一年、一年半、二年、二年半、三年。四曰杖刑五,自五十至于百。五曰笞刑五,自十至于五十。而蠲除前代鞭刑及梟首轘裂之法。其流徒之罪皆減從輕。唯大逆謀反叛者,父子兄弟皆斬,家口沒官。又置十惡之條,多採後齊之制,而頗有損益。一曰謀反,二曰謀大逆,三曰謀叛,四曰惡逆,五曰不道,六曰大不敬,七曰不孝,八曰不睦,九曰不義,十曰內亂。犯十惡及故殺人獄成者,雖會赦,猶除名。
 其在八議之科,及官品第七已上犯罪,皆例減一等。其品第九已上犯者,聽贖。應贖者,皆以銅代絹。贖銅一斤為一負,負十為殿。笞十者銅一斤,加至杖百則十斤。徒一年,贖銅二十斤,每等則加銅十斤,三年則六十斤矣。流一千里,贖銅八十斤,每等則加銅十斤,二千里則百斤矣。二死皆贖銅百二十斤。犯私罪以官當徒者,五品已上,一官當徒二年;九品已上,一官當徒一年;當流者。三流同比徒三年。若犯公罪者,徒各加一年,當流者各加一等。其累徒過九年者,流二千里。
 定訖,詔頒之曰:「帝王作法,沿革不同,取適於時,故有損益。夫絞以致斃,斬則殊刑,除惡之體,於斯已極。梟首轘身,義無所取,不益懲肅之理,徒表安忍之懷。鞭之為用,殘剝膚體,徹骨侵肌,酷均臠切。雖云遠古之式,事乖仁者之刑,梟轘及鞭,並令去也。貴礪帶之書,不當徒罰,廣軒冕之蔭,旁及諸親。流役六年,改為五載,刑徒五歲,變從三祀。其餘以輕代重,化死為生,條目甚多,備於簡策。宜班諸海內,為時軌範,雜格嚴科,並宜除削。先施法令,欲人無犯之心,國有常刑,誅而不怒之義。措而不用,庶或非遠,萬方百辟,知吾此懷。」自前代相承,有司訊考,皆以法外。或有用大棒束杖,車輻鞵底,壓踝杖桄之屬,楚毒備至,多所誣伏。雖文致於法,而每有枉濫,莫能自理。至是盡除苛慘之法,訊囚不得過二百,枷杖大小,咸為之程品,行杖者不得易人。帝又以律令初行,人未知禁,故犯法者眾。又下吏承苛政之後,務鍛鍊以致人罪。乃詔申勑四方,敦理辭訟。有枉屈縣不理者,令以次經郡及州,至省仍不理,乃詣闕申訴。有所未愜,聽撾登聞鼓,有司錄狀奏之。
○隋38鄭訳伝
 未幾,詔譯參撰律令。
○隋66李諤伝
 李諤字士恢,趙郡人也。好學,解屬文。仕齊為中書舍人,有口辯,每接對陳使。周武帝平齊,拜天官都上士。諤見高祖有奇表,深自結納。及高祖為丞相,甚見親待,訪以得失。于時兵革屢動,國用虛耗,諤上重穀論以諷焉。高祖深納之。及受禪,歷比部、考功二曹侍郎,賜爵南和伯。諤性公方,明達世務,為時論所推。遷治書侍御史。上謂羣臣曰:「朕昔為大司馬,每求外職,李諤陳十二策,苦勸不許,朕遂決意在內。今此事業,諤之力也。」賜物二千段。
◯隋66裴政伝
 高祖攝政,召復本官。開皇元年,轉率更令,加位上儀同三司。詔與蘇威等修定律令。政採魏、晉刑典,下至齊、梁,沿革輕重,取其折衷。同撰著者十有餘人,凡疑滯不通,皆取決於政。

 ⑴隋の文帝…楊堅。普六茹堅。幼名は那羅延。生年541、時に41歳。隋の初代皇帝。在位581~。父は故・隨国公の楊忠。母は呂苦桃。落ち着いていて威厳があった。書物に詳しくはなかった。宇文泰に「この子の容姿は並外れている」と評され、名観相家の趙昭に「天下の君主になるべきお方だが、天下を取るには必ず大規模な誅殺を行なわないといけない」と評された。また、非常な孝行者だった。晋公護と距離を置き、憎まれた。568年に父が死ぬと跡を継いで隨国公とされた。573年、長女が太子贇(のちの宣帝)に嫁いだ。575年の北斉討伐の際には水軍三万を率いて北斉軍を河橋に破った。576年の北斉討伐の際には右三軍総管とされた。577年、任城王湝と広寧王孝珩が鄴に侵攻すると、斉王憲と共にこれを討伐した。のち定州総管とされた。577年、南兗州(亳州)総管とされた。578年、宣帝が即位すると舅ということで上柱国・大司馬とされた。579年、大後丞→大前疑とされた。580年、揚州総管とされたが、足の病気のため長安に留まった。間もなく天元帝が亡くなるとその寵臣の鄭訳らに擁立され、左大丞相となった。間もなく尉遅迥の挙兵に遭ったが、わずか68日で平定に成功した。間もなく大丞相とされた。581年、禅譲を受けて隋を建国した。581年(4)参照。
 ⑵高熲…字は昭玄。独孤熲。生年541、時に41歳。またの名を敏という。父は北周の開府・治襄州総管府司録の高賓。幼少の頃から利発で器量があり、非常な読書家で、文才に優れた。武帝の治世時(560~578)に内史下大夫とされた。のち、北斉討平の功を以て開府とされた。578年、稽胡が乱を起こすと越王盛の指揮のもとこれを討平した。この時、稽胡の地に文武に優れた者を置いて鎮守するよう意見して聞き入れられた。楊堅が丞相となり、登用を持ちかけられると欣然としてこれを受け入れ、相府司録とされた。尉遅迥討伐軍に迥の買収疑惑が持ち上がると、監軍とされて真贋の見極めを行ない、良く軍を指揮して勝利に導いた。この功により柱国・相府司馬・義寧県公とされた。堅が即位して文帝となると尚書左僕射・兼納言・渤海郡公とされた。帝に常に『独孤』とだけ呼ばれ、名を呼ばれないという特別待遇を受けた。左僕射の官を蘇威に譲ったがすぐに復職を命ぜられた。581年(4)参照。
 ⑶蘇威…字は無畏。生年542、時に40歳。西魏の度支尚書で宇文泰の腹心の蘇綽の子。北周の大冢宰の宇文護に礼遇を受けて娘の新興公主を嫁にもらった。ただ、山寺に暮らして仕官せず、隠遁生活を送った。のち高熲の推挙を受けて楊堅に会い、楊堅が即位して文帝となると太子少保・邳国公とされた。間もなく納言・度支尚書・大理卿・京兆尹・御史大夫の五職を兼任し、税を軽くする事と法律を寛大にする事を提言して聞き入れられた。間もなく刑部尚書とされ、少保・御史大夫の官を解かれた。のち京兆尹が廃止されると検校雍州別駕とされた。581年(3)参照。
 ⑷楊素…字は処道。生年544、時に38歳。名門弘農楊氏の出で、故・汾州刺史の楊敷の子。若年の頃から豪放な性格で細かいことにこだわらず、大志を抱いていた。西魏の尚書僕射の楊寛に「傑出した才器の持ち主」と評された。多くの書物を読み漁り、文才を有し、達筆で、風占いに非常な関心を持った。髭が美しく、英傑の風貌をしていた。 北周の大冢宰の晋公護に登用されて中外府記室とされた。武帝が親政を始めると死を顧みずに父への追贈を強く求め、許された。のち儀同とされた。詔書の作成を命じられると、たちまちの内に書き上げ、しかも文章も内容も両方素晴らしい出来だったため、帝から絶賛を受けた。575年の北斉討伐の際には志願して先鋒となった。576年に斉王憲が殿軍を務めた際、奮戦した。578年、王軌に従って呉明徹を大破し、治東楚州事とされた。のち陳の清口城を陥とした。楊堅が実権を握るとこれに取り入り、汴州刺史とされたが、滎州刺史の邵公冑の挙兵に遭って進めなくなり、そこで大将軍・行軍総管とされて討伐を命ぜられ、平定に成功した。のち柱国・徐州総管・清河郡公とされ、隋が建国されると上柱国とされた。581年(3)参照。
 ⑸柳雄亮…字は信誠。生年539或いは541、時に43或いは41歳。西魏の華陽郡守の柳桧の次子。父が黄衆宝の乱に遭って殺されると死にかけるほど嘆き悲しんだ。勉強家で、梁州総管の蔡公広(559~561)の記室参軍とされると若年にして府中の書類作成の殆どを任された。武帝の代(560~)に衆宝が配下と共に帰順してくると、白昼堂々長安城中にて斬り殺して復讐を果たした。のち内史中大夫とされた。580年、司馬消難が乱を起こすと丞相の楊堅の命によって陳に赴いた。帰還した時ちょうど隋が建国されており、尚書考功侍郎とされた。564年(2)参照。
 ⑹裴政…字は徳表。祖父は梁の名将裴邃。父は裴之礼。酒豪の能吏。音楽にも通じた。西魏が江陵を攻めた際、王琳の使者として江陵に派遣されたが、中途で捕らえられ、嘘を言って城内の士気を下げるよう命じられたが真実を言い、口を打たれたが屈しなかった。のち長安に連行され、朝廷の制度や律の制定に大きく貢献した。刑部下大夫→少司憲とされ、判決が公平妥当だったため支持を得た。北周の宣帝の時に意に逆らって免職に遭った。
 
●法律の遵守
 帝はある時、一人の郎(侍郎?)に怒り、殿前にて笞(竹の板)で打ち据えようとした。この時、黄門侍郎の劉行本が進み出て言った。
「この人は元来清廉で、今回の過失も小さい物でありますゆえ、どうかご容赦を願います。」
 帝は無視した。すると行本は帝の前に立ち塞がって言った。
「陛下は臣が無才の身であるにも関わらず、お傍に置かれました。であるなら今、臣の言葉が正しい場合、陛下がお聞き入れにならないのはおかしゅうございます。また、臣の言葉が間違いである場合でも、彼を大理寺(最高裁判所)に送致して、きちんと法に照らして裁くべきであります。 臣の言葉を無視するのは道理に合っていません! 臣は私情から言っているのではありません!」
 かくてその場に笏を置いて退出しようとした。帝は〔己の非を悟り、〕怒りを収めて謝罪し、笞打つはずだった者を赦した。

○隋62劉行本伝
 拜儀同,賜爵文安縣子。及踐阼,徵拜諫議大夫,檢校治書侍御史。未幾,遷黃門侍郎。上嘗怒一郎,於殿前笞之。行本進曰:「此人素清,其過又小,願陛下少寬假之。」上不顧。行本於是正當上前曰:「陛下不以臣不肖,置臣左右。臣言若是,陛下安得不聽?臣言若非,當致之於理,以明國法,豈得輕臣而不顧也!臣所言非私。」因置笏於地而退,上斂容謝之,遂原所笞者。

 ⑴劉行本…劉璠の甥。剛直な性格。梁の武陵王紀に仕え、漢中が西魏に降った際(552年)、叔父と共に長安に赴いた。毎日読書に打ち込み、生活がいくら苦しくなっても平然としていた。武帝の代に掌朝下大夫とされた。この時、承御大夫から刀を貰わなかった事を以て承御に筆を渡すのを拒否した。宣帝が即位すると、強く諫言して不興を買い、河内太守に左遷された。尉遅迥が挙兵するとこれに従うのを拒否し、城を守り抜いた。のち儀同とされ、隋が建国されると黄門侍郎とされた。580年(5)参照。

●賢后・独孤伽羅
 帝は皇后の独孤伽羅を非常に寵愛すると同時に敬い憚った。帝が朝堂に行って政務を執る際、后は輦(輿)を並べて門の前まで付き従った。そののちは宦官を通じて帝がどのような政治をしているかを伺わせ、悪いと思う所があれば諫言した。后は読書家で、古今の事に通暁していたので、その多くが国の利益に繋がった。宮中の人々は帝と后を『二聖』と並び称した。のち、帝が朝堂から退出する時間になると、これを迎えて一緒に寝殿に帰った。この時、二人は顔を見合わせると嬉しそうな表情を見せた。

 后は早くに両親を亡くし、いつも恋しく思っていたので、両親がまだ健在な高官に会うと、常にその両親への贈り物を渡して大切にした。
 ある時、担当官が上奏して言った。
「《周礼》には、百官の妻は王后の命に従うとあります。いにしえにそう決められているのですから、どうか古の制度に従い、百官の妻に命令を下されますよう。」
 すると后は答えて言った。
「これが原因で女性が政治に関与するようになるかもしれません。きっかけを作ってはなりません。」
 かくて許さなかった。后はいつも公主()たちにこう言った。
「周家の公主たちは婦人の徳が無く、夫の両親に礼を欠いていました。夫の両親は大事にしなければなりません。あなた達は彼女たちを戒めとしなさい。」
 后の兄の娘の夫が并州で死んだ時、后の兄嫁は娘が妊娠している事を理由に、葬儀に行かなくてもいい許可を求めた。すると后は言った。
「夫人は夫にお仕えする者。どうして行かない事が許されましょうか! あなた(后の兄の娘)には姑(夫の母)がいるのだから、彼女に可否を尋ねなさい。」
 姑は許さず、娘はかくて葬儀に行く事になった。

 大都督の崔長仁は后の叔母の子だったが、斬刑に相当する罪を犯した。帝は后に忖度し、その罪を赦そうとした。すると后は言った。
「国家の事に、どうして私情を挟めましょうか!」
 長仁はかくて死刑に処せられた。
 后の異母弟の独孤陀は猫鬼の呪法を用いて后を呪詛し、その罪は死刑に相当した。后は三日間絶食し、陀の助命を求めて言った。
「陀が政道を妨げて民を苦しめているのなら、私は何も言いません。ただ、今回は私のみに関わっている事でありますゆえ、敢えて助命を求めるのです。」
 陀はかくて死一等を減ぜられ、〔遷州刺史に左遷された〕。

 后は倹約家だった。帝はいつも下痢止めの薬を作るために胡粉(おしろい)を一両探し求めたが、后が後宮で使うのを禁じていたため、手に入れる事ができなかった。また、帝は柱国の劉嵩の妻に織成(采糸と金縷で織り上げた色あざやかな織物)の襟を与えようとしたが、これも後宮に無かったので与えることができなかった。帝は后が華美を好まない事から、精巧・華麗を極めた北斉製の七宝車と鏡台を壊してボロボロにしてから后に与えた。
 突厥があるとき中国に交市(互市。国境に設けた公認の交易場)を開き、明珠(真珠?)一箱を八百万銭で売りに出した。幽州総管の陰寿は后に使者を遣り、買うかどうか尋ねた。すると后は言った。
「要りません。そもそも今は戎狄がたびたび侵攻して、将兵が疲れている時です。八百万銭は功労のある者への褒賞に使った方がいいでしょう。」
 百官はこれを聞くとみな賞賛した。

 ある夜、后は夢にて北周の阿史那皇后に会い、こう言われた。
『あの世で罰を受けて辛いので、寺を建てて冥福を祈ってくださいませんか。』
 翌日、この事を帝に言うと、帝は阿史那皇后のために寺を建てて冥福を祈った。

 ただ、帝は北周の滅亡を教訓として、外戚に権力を与えず、后の兄弟は将軍か刺史止まりで終わった。

 独孤陁は字を黎邪といい、北周に仕えて胥附上士とされたが、父の罪に連座して蜀郡に十余年間流刑に遭い、宇文護が誅殺されるとようやく長安に帰った。隋が建国されると上開府・右領左右将軍とされ、暫くして上大将軍・郢州刺史とされ、のち延州刺史とされた。
 外祖母の高氏が猫鬼の術を得意とし、 その舅の郭沙羅を呪い殺していた。陁は呪術を好んでいたので、その術法を受け継いだ。帝はおぼろげにこれを聞いたが、信じる事は無かった。のち后と楊素の妻の鄭氏が共に病気となると、帝は医者を呼んで診察させた。するとどちらも診断結果は同じだった。
「これは猫鬼による病であります。」
 帝は陁が后の異母弟である事と、陁の妻が楊素の異母妹である事を以て陁がやったものだと思い、その兄で左監門郎将の独孤穆に諭させると共に、自らも人払いをしてそれとなく問い質したが、陁は自供しなかった。そのため帝は気を害し、陁を遷州(房陵)刺史に左遷した。

○資治通鑑
 獨孤皇后,家世貴盛,而能謙恭,雅好讀書。然帝懲周氏之失,不以權任假借外戚,后兄弟不過將軍、刺史。
○隋36文献独孤皇后伝
 突厥嘗與中國交市,有明珠一篋,價值八百萬,幽州總管陰壽白后市之。后曰:「非我所須也。當今戎狄屢寇,將士罷勞,未若以八百萬分賞有功者。」百僚聞而畢賀。高祖甚寵憚之。上每臨朝,后輒與上方輦而進,至閣(閤)乃止。使宦官伺上,政有所失,隨則匡諫,多所弘益。候上退朝而同反燕(宴)寢,相顧欣然。后早失二親,常懷感慕,見公卿有父母者,每為致禮焉。有司奏:「以周禮百官之妻,命於王后,憲章在昔,請依古制。」后曰:「以婦人與政,或從此漸,不可開其源也。」不許。后每謂諸公主曰:「周家公主,類無婦德,失禮於舅姑,離薄人骨肉,此不順事,爾等當誡之。」大都督崔長仁,后之中外兄弟(后姑子)也,犯法當斬。高祖以后之故,欲免其罪。后曰:「國家之事,焉可顧私!」長仁竟坐死。后異母弟陀,以猫鬼巫蠱,咒詛於后,坐當死。后三日不食,為之請命曰:「陀若蠧政害民者,妾不敢言。今坐為妾身,敢請其命。」陀於是減死一等。〔后雅性儉約,帝常合止利藥,須胡粉一兩,宮內不用,求之竟不得。又欲賜柱國劉嵩妻織成衣領,宮內亦無。上以后不好華麗,時齊七寶車及鏡臺絕巧麗,使毀車而以鏡臺賜后。后雅好讀書,識達今古,〕后每與上言及政事,往往意合,宮中稱為二聖。〔嘗夢周阿史那后,言受罪辛苦,求營功德。明日言之,上為立寺追福焉。后兄女,夫死於并州,后嫂以女有娠,請不赴葬。后曰:「婦人事夫,何容不往!其姑在,宜自諮之。」姑不許,女遂行。〕
○隋79独孤羅伝
 初,信入關之後,復娶二妻,郭氏生子六人,善、穆、藏、順、陁、整,崔氏生獻皇后。
○隋79独孤陁伝
 獨孤陁字黎邪。仕周胥附上士,坐父徙蜀郡十餘年。宇文護被誅,始歸長安。高祖受禪,拜上開府、右領左右將軍。久之,出為郢州刺史,進位上大將軍,累轉延州刺史。
〔陁性〕好左道。其妻母(外祖母高氏)先事猫鬼 ,〔已殺其舅郭沙羅,〕因轉入其家。上微聞而不之信也。會獻皇后及楊素妻鄭氏俱有疾,召醫者視之,皆曰:「此猫鬼疾也。」上以陁后之異母弟,陁妻楊素之異母妹,由是意陁所為,陰令其兄〔左監門郎將〕穆以情喻之。上又避左右諷陁,陁言無有。上不悅,左轉遷州刺史。

 ⑴独孤伽羅…生年544、時に38歳。北周の太保・柱国・衛国公の独孤信の第七女。母は崔氏。557年に楊堅に嫁ぎ、おしどり夫婦になった。結婚当初は従順・控えめで堅の両親に孝行を尽くし、婦道から外れなかった。独孤一族は当時外戚として比肩する者が無いほどの盛んさを誇ったが、伽羅は驕ることなく謙虚にふるまったので、人々から賢婦人と讃えられた。娘の楊麗華が天元帝に殺されそうになると、娘に代わって陳謝し、額から血が出るほどに叩頭して助命を勝ち取った。堅が宰相となった時、行く所まで行くよう発破をかけた。隋が建国されると皇后とされた。581年(2)参照。
 ⑵父の独孤信は后が14歳の時に宇文護に自殺させられている。母の崔氏については良く分からない。
 ⑶陰寿…生年543、時に39歳。本名は墓誌では雲、字は羅雲。祖父は北魏の銀州刺史、父は北周の開府・夏州刺史。若年の頃から勇猛果敢で、軍事の才能があった。真面目・温厚で、信義を重んじ、孝行者で博識だった。宇文護が宰相となると内親信とされ、大都督とされた。中外府騎兵曹とされると良馬を牧場に充溢させた。陳の湘州刺史の華皎が叛乱を起こして北周に付くと、その救援軍の監軍とされた。間もなく儀同・中外府掾とされた。護が武帝に誅殺されたのちも任用を受け、河陰や晋州の戦いに大いに活躍し、開府・東光県公とされた。清河公神挙が并州刺史とされるとその府長史とされ、政・軍両面から神挙を良く補佐した。楊堅(のちの隋の文帝)が丞相となるとその掾とされ、尉遅迥が挙兵すると討伐軍の監軍とされた。間もなく上柱国・趙郡公とされ、相府司録・少司空を務め、一万の兵を率いて山東を鎮めた。581年(3)参照。
 ⑷阿史那皇后…551~582。突厥の木扞可汗の娘。美人で立ち居振る舞いにも品があった。568年、武帝に嫁いだ。578年、帝が死に、宣帝が即位すると皇太后とされた。579年、帝が譲位して天元皇帝となると天元皇太后とされた。580年、天元上皇太后とされ、帝が死ぬと太皇太后とされた。580年(2)参照。
 ⑸阿史那皇后は開皇二年(582)に32歳で死去した。

●愚劣外家
 帝の母の呂苦桃は済南の生まれで、その家柄は恐らく良くなかった。帝は北斉平定ののちに母の家族を探し求めたが、見つけることはできなかった。開皇の初め(581年)になって、済南郡がこう報告した。
呂永吉という男がこう言っています。『自分には字を苦桃という叔母がいて、楊忠帝の父)という者の妻となった』と。」
 調査してみると、果たしてその言葉通り、帝の舅子(母の兄弟姉妹の息子)である事が分かった。そこで外祖父の呂双周に上柱国・太尉・八州諸軍事・青州刺史を追贈し、斉郡公を追封し、敬と諡した。また、外祖母の姚氏に斉敬公夫人と諡した。また、改葬を命じ、斉州に廟を建てさせ、十家にその墓守をさせた。また、永吉に斉郡公の爵位を継がせ、長安に住まわせた。のち、大業年間(605~616)に上党郡太守とされたが、無能で政務をみることはできなかった。辞職したのちの経歴は不明。
 一族のうち、永吉の従父の呂道貴が最も愚鈍で物言いが下品だった。初め、郷里から出て長安に行き、帝と会った時、帝は涙を流したが、道貴は殆ど感動の色を見せず、ただ帝の名前を連呼して言った。
「本当に苦桃姉ちゃんの子かは知らんが、結構似てはいるな。」
 こののちもたびたび帝の諱を言ったり、礼儀にもとった振る舞いをしたりしたので、帝は非常に恥ずかしく思った。そこで高熲に命じて生活に必要な物は充分与えつつ、朝士と会うことは厳禁とした。〔間もなく〕上儀同三司・済南太守とし、即座に任に就かせ、参内することを禁じた。道貴は出身の郡に帰ると尊大に振る舞い、人と話す時、自分の事を『皇舅』と称した。たびたび儀衛(警護兵)を引き連れて故郷の村に遊びに行き、友人たちとどんちゃん騒ぎをし、官民ともに迷惑した。のち郡が廃されると官職を与えられず、実家暮らしで生を終えた。子孫に名のある者は出なかった。

○隋79高祖外家呂氏伝
 高祖外家呂氏,其族蓋微,平齊之後,求訪不知所在。至開皇初,濟南郡上言,有男子呂永吉,自稱有姑字苦桃,為楊忠妻。勘驗知是舅子,始追贈外祖雙周為上柱國、太尉、八州諸軍事、青州刺史,封齊郡公,諡曰敬,外祖母姚氏為齊敬公夫人。詔並改葬,於齊州立廟,置守冢十家。以永吉襲爵,留在京師。大業中,授上黨郡太守,性識庸劣,職務不理。後去官,不知所終。
 永吉從父道貴,性尤頑騃,言詞鄙陋。初自鄉里徵入長安,上見之悲泣。道貴略無戚容,但連呼高祖名,云:「種末定不可偷,大似苦桃姊。」是後數犯忌諱,動致違忤,上甚恥之。乃命高熲厚加供給,不許接對朝士。拜上儀同三司,出為濟南太守,令即之任,斷其入朝。道貴還至本郡,高自崇重,每與人言,自稱皇舅。數將儀衞出入閭里,從故人遊宴,官民咸苦之。後郡廢,終於家,子孫無聞焉。

 ⑴郡が廃されると…《隋書地理志》曰く、『斉郡歷城にむかし済南郡が置かれたが、開皇の初め(581)に廃された。大業の初め(605)に斉郡が置かれた』とある。

●岐州行幸
 この年、帝は岐州(長安と天水の中間)に出かけようとした。すると王誼が諌めて言った。
「陛下は天下を統治するようになられたばかりで、人心はまだ定まっておりません。今回の行幸は本当に今やらなければならないことでしょうか?」
 帝はこう冗談を言った。
「公は昔、私と地位と声望が同等であったのに、ある日急に私の臣下となったゆえ、もしかすると恥に感じて〔不満を抱いて〕いるかもしれぬ。このたびの行幸の目的は、ただ我が威武を宣揚して、公を心から従わせようとしただけに過ぎぬ。」
 誼は笑って引き下がった。
 間もなく突厥への使者とされ、良くその任を果たした。帝はこれを称えて誼を郢国公とした。

 壬辰(16日)、帝が岐州に赴いた。

○隋文帝紀
 壬辰,行幸岐州。
○隋40王誼伝
 開皇初,上將幸岐州。誼諫曰:「陛下初臨萬國,人情未洽,何用此行?」上戲之曰:「吾昔與公位望齊等,一朝屈節為臣,或當恥愧。是行也,震揚威武,欲以服公心耳。」誼笑而退。尋奉使突厥,上嘉其稱旨,進封郢國公。

 ⑴王誼…拓王誼。字は宜君。生年540、時に42歳。父は北周の大将軍・鳳州刺史の拓王顕(王顕)、従祖父は開府・太傅の拓王盟(王盟。宇文泰の母の兄)。 若年の頃から文武に優れた。北周の孝閔帝の時に左中侍上士とされ、大冢宰の晋公護が実権を握っている時でも帝を尊重した。のち、御正大夫とされた。父が亡くなると度を越した悲しみようを見せて痩せ細った。武帝が即位すると儀同とされ、のち次第に昇進して内史大夫・楊国公とされた。575年の北斉討伐の際には事前に帝に計画を相談された。576年の北斉討伐の際には六軍の監督を任され、晋州城を攻めた。のち斉王憲と共に殿軍を務めた。晋陽の戦いでは危機に陥った武帝を救う大功を挙げた。北斉を滅ぼすと相州刺史とされ、間もなくまた中央に呼ばれて内史とされた。武帝は臨終の際、「拓王誼は国家の柱石たる人物であるから、近くに置いて機密を任せよ。遠方の任務には就かせるな」と太子贇(宣帝)に遺言した。宣帝が即位すると大司空とされ、間もなく剛直さを嫌われて襄州総管とされた。司馬消難が挙兵すると行軍元帥とされて討伐に赴き、平定に成功して上柱国・大司徒とされた。楊堅(隋の文帝)と昔から親交があったこともあり重用を受け、堅の第五女が子の王奉孝に嫁いだ。のち律令の修訂を行なった。581年(4)参照。

●高山清風
 これより前(581年)、隋は上大将軍の梁彦光を岐州刺史・兼岐州宮監としていた。彦光は着任すると非常に思いやりのある政治を行ない、州内にて〔吉兆である〕嘉禾(多くの穂が実った稲)や連理木(二本の木の枝、或いは二本の木がくっついて木目が通じ合うこと)が現れるほどになった。
 帝は岐州に赴くとその統治ぶりを褒め称え、詔を下して言った。
「賞賜を与えて善行を勧めるのは、人民の教化も兼ねている。彦光は平素から公平・正直で、見識と才能は奥深く、岐州の統治を行なうや厳しさと優しさを上手く使い分け、立派な統治を行なった。〔ただ、〕天下に知れ渡るほど清廉で慎み深いので、三年後に任期を終えた時、その暮らしが窮乏していないか心配である。そこで、善行を表彰する事を兼ねて、賞賜として穀物五百斛・反物三百段・御傘(皇帝用の傘)一本を与える。どうか朕のこの心に感奮して、日ごとにその美点に磨きをかけるようにせよ。全国の官吏たちは、この高山を仰ぎ慕い、この清風を聞いて〔自らを律し、〕努力するようにせよ。」
 間もなく、更に銭五万枚を与えた。

 梁彦光生年534、時に48歳)は字を修芝といい、安定(涇州)烏氏の人である。祖父の梁茂は〔西?〕魏の秦・華二州刺史、父の梁顕は北周の荊州刺史。
 若年の頃から大人びていて頭脳明晰だった。父はよく親しい者にこう言った。
「この子には只者ではない雰囲気を持っている。きっと我が家を栄えさせてくれるぞ。」
 七歲の時、父が重病に罹った。この時、医者は五石(不老長生の薬の原料として道士が用いた薬石の総称。丹砂・雄黄・雲母・石英・鍾乳など)を食べれば治ると言った。そこで紫石英を探し求めたが、手に入れることができなかった。彦光は心配の余り憔悴し、どうすればいいか分からずにいたが、そのとき突然庭に何か初めて見る知らない物を見つけ、怪訝に思いつつも持って帰って家族に見せると、紫石英だという事が分かった。親族一同はみな驚き不思議がり、彦光の孝心が天に通じたのだろうと考えた。
 西魏の大統年間(535~551)の末に太学に入り、書物を読み漁った。また、校則を遵守し、所作全てが礼儀にかなっていた。のち出仕して秘書郎とされた。このとき十七歳だった(550年)。
 北周が建国されると(557年)舍人上士とされた。武帝の時(560~578年)に数々の職を歴任したのち小馭下大夫とされた。母が亡くなると辞職し、礼に外れるほどの悲しみようを見せた。間もなく復職を命じられて参内すると、帝はその尋常ではないやつれようを見て暫くの間感嘆し、その後何度も労りや励ましの言葉をかけた。
 のち小内史下大夫(側近官。詔勅の作成や政策の決定に関与)とされ、建徳年間(572~578)に御正下大夫(側近官。内史に似る)とされた。のち帝の北斉平定戦(576~577年)に付き従い、功を挙げて開府・陽城県公(邑千戸)とされた。
 宣帝が即位すると(578年)華州刺史・華陽郡公とされ、五百戸の加増を受け、陽城公の爵位を息子に転授する事を許された。間もなく上大将軍・御正上大夫とされた。間もなく柱国・、青州刺史とされたが、そのとき帝が崩御した(580年)ため赴任しなかった。

○隋73梁彦光伝
 梁彥光字修芝,安定烏氏人也。祖茂,魏秦、華二州刺史。父顯,周荊州刺史。彥光少岐嶷,有至性,其父每謂所親曰:「此兒有風骨,當興吾宗。」七歲時,父遇篤疾,醫云餌五石可愈。時求紫石英不得。彥光憂瘁不知所為,忽於園中見一物,彥光所不識,怪而持歸,即紫石英也。親屬咸異之,以為至孝所感。魏大統末,入太學,略涉經史,有規檢,造次必以禮。解褐祕書郎,時年十七。周受禪,遷舍人上士。武帝時,累遷小馭下大夫。母憂去職,毀瘁過禮。未幾,起令視事,帝見其毀甚,嗟歎久之,頻蒙慰諭。後轉小內史下大夫。建德中,為御正下大夫。從帝平齊,以功授開府、陽城縣公,邑千戶。宣帝即位,拜華州刺史,進封華陽郡公,增邑五百戶,以陽城公轉封一子。尋進位上大將軍,遷御正上大夫。俄拜柱國、青州刺史,屬帝崩,不之官。
 及高祖受禪,以為岐州刺史,兼領岐州宮監,增邑五百戶,通前二千戶。甚有惠政,嘉禾連理,出於州境。開皇二年,上幸岐州,悅其能,乃下詔曰:「賞以勸善,義兼訓物。彥光操履平直,識用凝遠,布政岐下,威惠在人,廉慎之譽,聞於天下。三載之後,自當遷陟,恐其匱乏,且宜旌善。可賜粟五百斛,物三百段,御傘一枚,庶使有感朕心,日增其美。四海之內,凡曰官人,慕高山而仰止,聞清風而自勵。」未幾,又賜錢五萬。


 581年(6)に続く