[北周:大定元年→隋:開皇元年 陳:太建十三年 後梁:天保十九年]

┃長城修築

 この月(4月、隋が北方の長城の修築を行なった。二十日にて終了した。
 動員した丁男は三万で、〔上儀同・司農少卿の〕崔仲方の監督のもと、朔方(夏州)・霊武(霊州)に長城を築いた。長城は東(西?)は黄河、西(東?)は綏州、南は勃出嶺まで七百里に亘って綿々と連なった
 この時、南汾州(文城。晋州の西)の稽胡族を徴発して工事に当たらせたが、彼らはみな道中にて逃亡してしまった。
 文帝が開府・兼散騎常侍の韋沖にどうしたら良いか尋ねると、沖は言った。
「夷狄が反抗的になる原因は、全て地方長官の失政にあります。私に説得をお命じくだされば、兵を労さずに問題を解決してみせましょう。」
 帝がそこで沖に説得を命じると、逃亡していた稽胡族は一ヶ月余りでみな帰って長城に赴いた。帝は書簡を送って沖を慰労し、更に忠勤に努めるよう激励した。間もなく石州(離石。晋陽の西)刺史とすると、稽胡族から非常な支持を得た。

 沖(生年540、時に42歳)は字を世沖といい、〔韋敻の子で、韋孝寛の甥で、韋世康韋芸の弟である。〕若年の頃に名家の子を以て北周の衛公(宇文直)府の礼曹参軍とされた。のち、大将軍の拓跋定元定)に従って長江を渡って陳を討伐した(567年)が、敗れて捕虜となった。のち金品と引き換えに帰還を許された。武帝は沖に馬千頭を与えて陳に派遣し、開府の賀抜華ら五十人と定の柩を贖わせた。沖は弁才があったため、良く使者の任をこなした。
 のち、次第に昇進して少御伯下大夫・上儀同とされた。この時、稽胡族がたびたび叛乱を起こすと、沖は自らその安撫を志願し、汾州(定陽。のちの南汾州。北中国統一後なら龍泉で、定陽の北)刺史とされた。
 隋が建国されると都に呼び戻されて開府・兼散騎常侍・安固県侯とされた。


○隋文帝紀
 是月,發稽胡修築長城,二旬而罷。
○隋47韋沖伝
〔韋〕沖字世沖,少以名家子,在周釋褐衞公府禮曹參軍。後從大將軍元定渡江伐陳,為陳人所虜,周武帝以幣贖而還之。帝復令沖以馬千匹使於陳,以贖開府賀拔華等五十人及元定之柩而還。沖有辭辯,奉使稱旨,累遷少御伯下大夫,加上儀同。于時稽胡屢為寇亂,沖自請安集之,因拜汾州刺史。高祖踐阼,徵為兼散騎常侍,進位開府,賜爵安固縣侯。歲餘,發南汾州胡千餘人北築長城,在塗皆亡。上呼沖問計,沖曰:「夷狄之性,易為反覆,皆由牧宰不稱之所致也。臣請以理綏靜,可不勞兵而定。」上然之,因命沖綏懷叛者。月餘皆至,並赴長城,上下書勞勉之。尋拜石州刺史,甚得諸胡歡心。
○隋60崔仲方伝
 尋轉司農少卿,進爵安固縣公。令發丁三萬,於朔方、靈武築長城,東至黃河,西拒綏州,南至勃出嶺,緜亙七百里。

 ⑴崔仲方…字は不斉。生年539、時に43歳。開府の崔猷の子。若年の頃から読書好きで、文武に才能を示した。十五歳の時(553年)に宇文泰と会うと才能を認められ、子どもたちの学友とされた。このとき楊堅と親しい仲になった。のち晋公護の府の参軍事、次いで記室とされた。のち伐斉二十策を献じると武帝から非常な評価を受けた。576年の東伐の際には晋州城の城壁を登ってこれを陥とし、儀同とされた。呉明徹を捕らえる際も多くの献策をし、成功に繋げた。宣帝が即位すると小内史とされ、淮南への使者とされた。堅が丞相となると便宜十八事を献じ、その全てを嘉納された。尉遅迥が挙兵すると討伐軍の監軍とされたが、父の崔猷が山東にいる事を以て辞退した。のち堅に皇帝に即位するよう勧めた。隋が建国されると六官の廃止や正朔(暦法)・服色について議論し、「車服旗牲はみな赤色を用いるべき」と進言して聞き入れられた。また、上開府(儀同?)・司農少卿とされた。581年(2)参照。
 ⑵勃出嶺…《読史方輿紀要》曰く、『綏徳州(綏州。延安府の東北三百六十里)の東南に勃出嶺がある。』
 ⑶581年4月の長城修築と崔仲方の長城建設は別物の可能性もある。資治通鑑は崔仲方の長城建設を585年の事とするが、長城建設の記事は584年の父の死の前に置かれているので違う可能性が高い?このような大規模な工事が本紀に書かれていないのも考えづらいので、今ここに置いた。


 ⑷隋の文帝…楊堅。普六茹堅。幼名は那羅延。生年541、時に41歳。隋の初代皇帝。在位581~。父は故・隨国公の楊忠。母は呂苦桃。落ち着いていて威厳があった。書物に詳しくはなかった。宇文泰に「この子の容姿は並外れている」と評され、名観相家の趙昭に「天下の君主になるべきお方だが、天下を取るには必ず大規模な誅殺を行なわないといけない」と評された。また、非常な孝行者だった。晋公護と距離を置き、憎まれた。568年に父が死ぬと跡を継いで隨国公とされた。573年、長女が太子贇(のちの宣帝)に嫁いだ。575年の北斉討伐の際には水軍三万を率いて北斉軍を河橋に破った。576年の北斉討伐の際には右三軍総管とされた。577年、任城王湝と広寧王孝珩が鄴に侵攻すると、斉王憲と共にこれを討伐した。のち定州総管とされた。577年、南兗州(亳州)総管とされた。578年、宣帝が即位すると舅ということで上柱国・大司馬とされた。579年、大後丞→大前疑とされた。580年、揚州総管とされたが、足の病気のため長安に留まった。間もなく天元帝が亡くなるとその寵臣の鄭訳らに擁立され、左大丞相となった。間もなく尉遅迥の挙兵に遭ったが、わずか68日で平定に成功した。間もなく大丞相とされた。581年、禅譲を受けて隋を建国した。581年(3)参照。
 ⑸韋敻…字は敬遠。502~578。宇文孝寛(韋孝寛)の兄。名誉や金に興味を示さなかった。二十歳の時(521年)に招聘されて雍州中従事とされたが、性に合わず、遂に病と称して職を去った。その後、十度に渡って招聘を受けたが、皆断った。のち、宇文泰からも丁重な招きを受けたが、これも断った。人々は敻のことを『居士』(有能なのに隠居して仕官しない者)と呼んだ。北周の明帝に尊重され、『逍遙公』(世間から離れて自由を楽しむ者)と呼ばれた。宰相の晋公護に政治について意見を問われると、「酒食に溺れる声色に溺れる。豪華な家屋を建てる。この内一つでも行なって滅ばなかった者は無い」と答えて護を不快にさせた。
 ⑹韋孝寛…本名叔裕。509~580。関中の名門の出身。華北の大名士かつ智謀の士の楊侃に才能を認められ、その娘婿となった。北魏時代に政治面で優れた手腕を示し、独孤信と共に「連璧」と並び称された。のち西魏に仕え、高歓の大軍から玉壁を守り切る大殊勲を立てた。のち、江陵攻略に参加し、宇文氏の姓を賜った。556年、再び玉壁の守備を任された。561年に勲州(玉壁)刺史、564年に柱国、570年に鄖国公とされた。572年、北斉に流言を放ち、斛律光を誅殺に導いた。また、武帝に伐斉三策を進言した。577年、北斉が滅ぶと長安に帰って大司空とされ、のち延州総管・上柱国とされた。579年、徐州総管とされた。南伐の際には行軍元帥とされ、淮南の平定に成功した。580年、杞公亮の乱を平定した。天元帝が崩御して楊堅が丞相となり、尉遅迥が挙兵すると、堅に付いて行軍元帥とされ、討平に成功した。
 ⑺韋世康…生年531、時に51歳。名高い隠者の韋敻の子。韋孝寛の甥。宇文泰の娘の襄楽公主を娶った。父と同じく無欲で古人のような気高い道徳観を持ち、物を得たり失ったりする事に関心を持たなかった。北斉討平に従軍し、司州総管府長史とされ、平定したばかりの東中国を良く統治した。のち上開府・司会中大夫とされた。尉遅迥が挙兵すると丞相の楊堅に絳州(玉壁)刺史とされ、動揺の沈静化に成功した。581年、隋が建国されると礼部尚書とされた。581年(2)参照。
 ⑻韋芸…字は世文。名高い隠者の韋敻の子。韋世康の弟。北周の武帝の時にしばしば軍功を立てて上儀同・左旅下大夫・修武県侯とされた。のち魏郡太守とされた。580年、尉遅迥が挙兵するとこれに従い、叔父の韋孝寛のもとに派遣された。このとき孝寛に迥が叛乱を計画していることを白状し、一緒に西方に遁走した。間もなく上開府とされた。のち軍功によって上大将軍とされ、隋が建国されると魏興郡公とされ、斉州刺史とされた。580年(3)参照。

●離間策

〔これより前、突厥の他鉢可汗が北周に和平と婚姻を求めた。北周はそこで趙王招の娘を千金公主とし、突厥に嫁がせた。当時、北周と突厥は互いに見栄を張り合い、勇士を選び抜いて使者に充てていた。北周は大将軍の汝南公神慶を正使、司衛上士の長孫晟を副使として公主を突厥まで送らせた。〕
 この前後に数十人の使者が突厥に派遣されたが、摂図のちの沙鉢略可汗。摂図が中国の使者の接待を任されていた?)はその多くを軽く扱った。〔しかし〕晟に会うと、常に一緒に狩猟に出かけるほどの気に入りようを見せた。晟は突厥領内に留められ、そこで年を越した。ある時、二羽の鵰(クマタカ)が空中で肉を取り合って喧嘩しているのに会った。この時、摂図は二本の矢を晟に与えてこう言った。
「これで射止めてみてはくれぬか。」
 晟がそこで弓を引きながら馬を飛ばして鵰のもとに向かうと、ちょうど鵰が取っ組み合いをしている最中だったので、上手く一矢で二羽を射抜く事に成功した。摂図は喜び、自分の子どもたちや貴人たちに晟と親交を結ばせ、晟の弾弓と通常の弓の技術を学ばせた。
 摂図の弟の処羅侯は官名を突利設(テリス〈東面〉・シャド〈諸侯〉)といい、突厥の人々から最も人気があったので摂図から危険視されていた。そこで処羅侯は密かに腹心を介して晟と盟約を結び〔、支援を行なった〕。晟はこれ(腹心?)と狩猟に出かけた際に、突厥領内の山川の地勢や部落の強弱を全て知ることに成功した。〔のち、北周に帰ると、〕その宰相を務めていた帝にそれらを仔細に報告した。帝は大いに喜び、晟を奉車都尉とした。
 この時、突厥は摂図沙鉢略可汗)・玷厥テンケツ。達頭可汗) ・阿波〔可汗〕(大邏便)・突利〔可汗〕(処羅侯)らによって分割統治され、彼らはそれぞれ可汗を称して強兵を擁し、各地に分居していた。晟は、彼らは表面上こそ仲良くしているものの、内心は猜疑し合っているのを以て、正面堂々と討伐するのは難しいが、離間するのは容易いと考え、帝に上書してこう言った。
「臣はこう聞いております。『喪乱が極まれば、必ず泰平が招来する』と。上天は喪乱が極まった時、聖人を助けて世を泰平にする務めを成さしめるものです。謹んで考えますに、皇帝陛下は歴代の帝王の跡を継ぎ、千年に一度の機会に乗じて中国を安んじられましたが、戎夷はまだ統治に服しておりません。〔しかし現在、〕戎夷を討伐するのは時期尚早であります。かといって、放置すれば〔図に乗って〕辺境を乱してくるので〔それもできません〕。ゆえに、ここは秘密裏に計略をめぐらして、少しずつその勢力を削ぐのが宜しいと思います。この計策が失敗すれば人民の安全は守られなくなりますが、成功すればとこしえに亘って幸いを享受できます。これは誠に吉凶の分岐点でありますので、謹んで熟考を願い申し上げます。
 臣は周末に外国の使者の任を承りましたので、匈奴の実情について知悉しております。玷厥摂図と比べて兵は強いのに地位は低いので、表面上は従ってはいるものの、内心は不満で一杯であり、その心を焚き付ければ、必ずや争ってくれるでしょう。処羅侯摂図の弟で、野心は大きいものの兵力が微弱です。そこで人気取りに努め、人々から愛されるようになりましたが、兄から警戒を受けるようになり、表面上は平静を装ってはいるものの、内心は非常な不安を抱いております。また、阿波は三者にどっち付かずの態度を取り、今の所は摂図を恐れてその指図に従っていますが、摂図よりも強い者が現れればそちらに付くといった感じで、まだ心は定まっておりません。ゆえに、今は遠交近攻策を行ない、強者を分裂させ、弱者を連合させ、玷厥に使者を送って阿波と連合するように説得すれば、摂図は兵を返して西方(玷厥は西面可汗)の防衛に追われるでしょう。また、処羅侯と結んで彼に奚・霫族と連合させれば、摂図は兵を分けて東方の防衛に追われるでしょう。〔このようにして〕彼らの心をバラバラにし、十数年後にその疲弊に乗ずれば、必ずや一度の討伐によって平定する事ができるでしょう。」
 帝は大いに喜び、晟を呼んで突厥対策について語り合った。すると晟は突厥の情勢について述べ、手ずから山川の地勢を描き、真実の姿をありありと記した。それらはみなとても分かりやすかった。帝は非常に驚いて感嘆し、晟の策を全て採用した。
 かくて太僕の元暉に伊吾道より達頭可汗玷厥)のもとに到らせ、 狼頭纛(狼の頭を尖端に飾った大旗[1]を与え、尊んでいるふりをして非常に礼を尽くして接した。達頭の使者が隋にやってくると、沙鉢略可汗摂図)の使者より上位に置いた。すると果たして両者は対立するようになった。
 晟は車騎将軍とされ、黄龍方面より奚・霫・契丹らのもとに赴いた。晟は彼らに金品を与えて突利可汗処羅侯)の所まで道案内をさせ、突利のもとに到ると腹を割ってこれと話し、味方に付くよう誘いをかけた。

○隋51長孫晟伝
 因遣晟副汝南公宇文神慶送千金公主至其牙。前後使人數十輩,攝圖多不禮,見晟而獨愛焉,每共遊獵,留之竟歲。嘗有二鵰,飛而爭肉,因以兩箭與晟曰:「請射取之。」晟乃彎弓馳往,遇鵰相攫,遂一發而雙貫焉。攝圖喜,命諸子弟貴人皆相親友,冀昵近之,以學彈射。其弟處羅侯號突利設,尤得眾心,而為攝圖所忌,密託心腹,陰與晟盟。晟與之遊獵,因察山川形勢,部眾強弱,皆盡知之。時高祖作相,晟以狀白高祖。高祖大喜,遷奉車都尉。…晟先知攝圖、玷厥 、阿波、突利等叔姪兄弟各統強兵,俱號可汗,分居四面,內懷猜忌,外示和同,難以力征,易可離間,因上書曰:「臣聞喪亂之極,必致升平,是故上天啟其機,聖人成其務。伏惟皇帝陛下當百王之末,膺千載之期,諸夏雖安,戎埸尚梗。興師致討,未是其時,棄於度外,又復侵擾。故宜密運籌策,漸以攘之,計失則百姓不寧,計得則萬代之福。吉凶所係,伏願詳思。臣於周末,忝充外使,匈奴倚伏,實所具知。玷厥之於攝圖,兵強而位下,外名相屬,內隙已彰,鼓動其情,必將自戰。又處羅侯者,攝圖之弟,姦多而勢弱,曲取於眾心,國人愛之,因為攝圖所忌,其心殊不自安,迹示彌縫,實懷疑懼。又阿波首鼠,介在其間,頗畏攝圖,受其牽率,唯強是與,未有定心。今宜遠交而近攻,離強而合弱,通使玷厥,說合阿波,則攝圖廻兵,自防右地。又引處羅,遣連奚、霫,則攝圖分眾,還備左方。首尾猜嫌,腹心離阻,十數年後,承釁討之,必可一舉而空其國矣。」上省表大悅,因召與語。晟復口陳形勢,手畫山川,寫其虛實,皆如指掌。上深嗟異,皆納用焉。因遣太僕元暉出伊吾道,使詣玷厥,賜以狼頭纛,謬為欽敬,禮數甚優。玷厥使來,引居攝圖使上。反間既行,果相猜貳。授晟車騎將軍,出黃龍道,齎幣賜奚、霫、契丹等,遣為嚮導,得至處羅侯所,深布心腹,誘令內附。

 ⑴長孫晟…字は季晟。生年552、時に30歳。上儀同の長孫熾の弟で、上柱国・薛国公の長孫覧の甥。聡明で、大の読書家だった。また、弾弓と通常の弓の扱いに長け、当時の北周の貴族の子弟の中で一番の騎前を誇った。早くに楊堅に才能を認められ、「長孫郎の武芸が抜群の腕前だというのは知っていたが、今話してみると頭脳も明晰なのが分かった。未来の名将は、この子ではないか?」と絶賛を受けた。580年、千金公主が突厥に赴く際、その副使とされた。580年(3)参照。
 ⑵沙鉢略可汗…イシュバラ。本名は摂図。突厥の木杆可汗の兄の子。他鉢可汗が即位すると爾伏可汗とされ、東方を統べた。他鉢可汗が死ぬとその子の菴羅を可汗に立てたが、間もなく位を譲られて沙鉢略可汗となった。581年(3)参照。
 ⑶その宰相を務めていた帝に…580年6月に突厥に赴き、そこで越年したのち帰国したとすると、その帰国時期は581年正月〜2月に限られる(581年2月に隋が堅国)。交渉が開始した579年2月頃に突厥に赴いたとも考えられるが、そうすると長孫晟伝の『因遣晟副汝南公宇文神慶送千金公主至其牙』の記述と食い違う事になる。
 ⑷伊吾…《読史方輿紀要》曰く、『哈密(ハミ)衛は肅州衛の西北千五百十里、北京から七千四百里の地にある。いにしえの伊吾廬の地である。』
 [1]狼頭纛…突厥は先祖を狼だと自称していた。子孫たちは君主の立場となると、門に狼頭纛を建て、出自を忘れていない事を示したのである。

●宇文闡の死
 5月、丙辰(8日、陳が前鎮西将軍の樊毅を中護軍とした。

 戊午(10日)、隋が〔上柱国・左衛大将軍・兼宗正卿の〕邗公雄を広平王(食邑五千戸)とし、〔大将軍の〕永康公弘を河間王〔・右衛大将軍〕とした。
 また、邗国公の爵位を雄の一子に与えた。雄は弟の楊士貴に与えてくれるよう求め、許された。

 辛未(23日)、隋が介国公の宇文闡を殺害した(享年9)。文帝は朝堂にて哀悼の儀式を行ない、静帝と諡し、恭陵に埋葬した。また、族人の宇文洛に跡を継がせ、隋の賓客とした。
 洛は宇文仲宇文泰の父の従父兄)の孫で、〔大将軍・虞国公の〕宇文興の子である。字を永洛といい、九歲の時に虞国公世子とされた。〔父が天和二年(567)に亡くなると、喪が開けた〕四年(569)に爵位を継いだ。建徳の初め(572年)に使持節・車騎大将軍・儀同三司とされた。

 令狐徳棻曰く…静帝宇文闡)は幼冲の身で衰微した国家を継承し、内部には孫資・劉放の如き奸臣(鄭訳・劉昉)を抱え(孫資・劉放は曹魏の能吏。明帝の死の際、私情を以て曹宇より司馬懿に後事を託すよう勧めた)、藩屏には〔前漢の〕斉王(劉襄。朱虚侯の劉章と共に呂氏を除くのに大いに貢献した)・代王(劉恒。のちの前漢の文帝)のような強固さが無かった。隋氏はこれらを利用して帝位を簒奪することに成功したのである。岷峨(岷山と蛾眉山。共に蜀にある山で、蜀に割拠していた王謙のことを指す)が袂を振るって決起しても簒奪の流れを覆すことはできず、漳滏(鄴付近に流れる川。そこに割拠していた尉遅迥のことを指す)が勤王の軍を起こしても、宗周(周王朝)を滅亡から救うことはできなかった。ああ、太祖(宇文泰)の打ち立てた国家は、二紀(24年)も経ずに(北周は557~581の25年なので少しは越えている)瞬時に滅んでしまった。思うに、これは〔先代の〕宣帝の余殃(悪事の報いを子孫が受けること)のせいであって、子どもの身である静帝のせいでは無い。

◯周静帝紀
 開皇元年五月壬申,崩,時年九歲,隋志也。諡曰靜皇帝,葬恭陵。史臣曰:靜帝越自幼冲,紹茲衰緒。內相挾孫、劉之詐,戚藩無齊、代之彊。隋氏因之,遂遷龜鼎。雖復岷峨投袂,翻成陵奪之威;漳滏勤王,無救宗周之殞。嗚呼,以太祖之克隆景業,未踰二紀,不祀忽諸。斯蓋宣帝之餘殃,非孺子之罪戾也。
◯隋文帝紀
 五月戊子(午),封邗國公楊雄為廣平王,永康郡公楊弘為河間王。辛未,介國公薨,上舉哀於朝堂,〔諡曰周靜帝。〕以其族人洛嗣焉。
○陳宣帝紀
 五月景辰,以前鎮西將軍樊毅為中護軍。
○周10宇文洛伝
〔虞國公仲,德皇帝從父兄也。…子興嗣。興…子洛嗣。〕洛字永洛。九歲,命為虞國公世子。天和四年,詔襲興爵。建德初,拜使持節、車騎大將軍、儀同三司。及靜帝崩,隋文帝以洛為介國公,為隋室賓云。
○隋43河間王弘伝
 其年立弘為河間王,拜右衞大將軍。
○隋43観徳王雄伝
 俄遷右衞大將軍,參預朝政。進封廣平王,食邑五千戶,以邗公別封一子。雄請封弟士貴,朝廷許之。

 ⑴樊毅…字は智烈。樊文熾の子で、樊文皎の甥。武芸に優れ、弓技に長けた。陸納の乱の際には巴陵の防衛に活躍した。江陵が西魏に攻められると救援に赴いたが捕らえられ、後梁の臣下となった。556年に梁の武州を攻めて刺史の衡陽王護を殺害したが、王琳の討伐を受けて捕らえられた。その後は琳に従った。560年、王琳が敗れると陳に降った。のち荊州攻略に加わり、次第に昇進して武州刺史とされた。569年、豊州(福建省東部)刺史とされた。のち左衛将軍とされた。573年、北伐に参加し、大峴山にて高景安の軍を大破した。また、広陵の楚子城を陥とし、寿陽の救援に来た援軍も撃破した。また、済陰城を陥とした。575年、潼州・下邳・高柵など六城を陥とした。578年、朱沛清口上至荊山縁淮諸軍事とされ、淮東の地の軍事を任された。清口に城を築いて北周と戦ったが撃退された。のち中領軍とされた。北周が淮南に攻めてくると安北将軍・都督北討諸軍事とされた。のち鎮西将軍・都督荊郢巴武四州水陸諸軍事とされ、580年、司馬消難が帰順してくると督沔漢諸軍事とされた。580年(7)参照。
 ⑵邗公雄…元の名は恵で、のち雄に改めた。字は威恵。叱呂引雄。生年542或いは540、時に40或いは42歳。楊堅の族子とされる。父は大将軍の楊紹で、母は蘭勝蛮。容貌美しく、優れた才能・人格を有し、物腰が上品で立ち居振る舞いが立派だった。非常な孝行者で、父が死んだ時には悲しみの余り死にかけた。太子右司旅下大夫とされ、574年に衛王直が叛乱を起こして宮城に攻めてくると、奮戦してこれを撃退した。のち右司衛上大夫とされた。579年、邗国公とされた。楊堅が丞相となると人材との折衝役を任された。のち雍州別駕とされると、雍州牧の畢王賢が叛乱を企てていることを密告し、その功により柱国・雍州牧・相府虞候(警備担当)とされた。また、天元帝の葬儀の警護を務めた。のち上柱国とされた。隋が建国されると左衛大将軍・兼宗正卿とされ、朝政に参与した。581年(2)参照。
 ⑶永康公弘…字は辟悪。楊堅の従祖弟。北斉が北周に滅ぼされると初めて関中に入った。堅に生い立ちを憐れまれ、農地と住居を買い与えられた。生まれつき聡明で、文武に才能を有した。のち数々の戦いで功を立てて開府とされた。堅が丞相となると腹心とされた。趙王招が堅を屋敷に招いて暗殺を企んだ際、部屋の外に控えた。間もなく上開府・永康県公とされた。隋が建国されると大将軍・郡公とされた。580年(4)参照。
 ⑷宇文闡…元の名は衍。生年573、時に9歳。もと北周の五代皇帝の静帝。在位579~581。天元帝(宣帝)の長子。母は朱満月(南方出身)。579年の1月に魯王→皇太子とされ、2月に帝位を譲られて静帝となった。580年、父が死に、楊堅が丞相となると尉遅迥・司馬消難・王謙の乱に遭った。581年、堅に帝位を譲り、介国公とされた。581年(3)参照。
 ⑸宇文興…?~567。宇文仲(宇文泰〈武帝の父〉の父・宇文肱の従父兄)の子。おおらかで優しく、人物が大きかった。幼い頃に戦乱に遭って家族と離ればなれになり、宇文泰たち親戚の事を知らずに育った。沙苑の決戦(537年)の際、東魏軍に属して西魏と戦って捕虜となり、兵士とされた。のち賢良に挙げられて長隰県令とされた。保定二年(562)、初めて宇文仲の子孫と認められて皇籍に編入され、開府儀同三司・宗師中大夫・大寧郡公とされた。564年、涇州刺史とされた。565年、宗師中大夫・大将軍・虞国公とされた。567年(4)参照。
 ⑹父の宇文興が虞国公とされたのは565年なので、このとき同時に世子とされたのなら、宇文洛は557年生まれということになる。

●正朔・服色の議
 隋の文帝は〔柱国・尚書左僕射・兼納言の〕高熲と〔上開府・司農少卿の〕崔仲方を呼んで、新国家の正朔(暦法)・服色について議論した。仲方は言った。
「晋は金徳、後魏(北魏)は水徳、周(北周)は木徳の国家であり、皇家は火徳を以て木徳を継承し、天子の位に即かれました。また、聖躬(陛下)がお生まれになった際、赤光の瑞祥がありました。ゆえに、車・服・旗・牲はみな赤色を用いるのが宜しいと思います。」
〔帝はこれを聞き入れた。〕
 6月、癸未(5日)、詔を下して言った。
「正朔については、夏暦が気候の周期と合致する暦であり、歴代に亘って用いられてきた(王莽と曹魏の明帝の時のみ殷正が用いられた)ものである〔ので、これを踏襲して一月を正月とする(建寅)。ただ、〕服色については、漢は赤を尊び、魏は黄を尊んだにも関わらず、乗馬や生贄は〔漢は〕黒色を用い、〔魏は白色を用いた。〕(古代の周は儀式用の旗には赤、軍事用の旗には先代の殷の色の白を用いた。北周は木徳であったのにも関わらず、軍事用には先代の魏の色の黒を用いた。
 朕が天命を受ける際、赤雀がやってくる瑞兆があった(禅譲の際の奉冊書に『近者赤雀降祉』とある)。また、姫周(火徳)以降、六代を数えている(秦〈水徳〉→漢〈火徳〉→曹魏〈土徳〉→司馬晋〈金徳〉→北魏〈水徳〉→北周〈木徳〉?)事から、三正廻復説と五徳相生説から言って、火色を用いるべきである。郊丘や廟社で行なう祭祀に着る衣服については〔《周礼》の〕袞冕の規定に従う事とし、朝会で着る衣装についてはみな赤色を用いる事とする。〔ただ、〕昔、姫周は木運であったのに大白の旂を用い、曹魏は土徳であったのに黒首の馬を用いたように、尊ぶ色は祭祀と軍事で異なっていた。そこで今、軍服の色は〔赤ではなく〕黄色を用いる事にする。日常で着る普段着に関しては、諸種の色を用いる事とする。祭祀の服〔の形式〕については、礼経の内容に合致するようにせねばならぬゆえ、博識の学者を集めて改めて詳しく審議させる事とする。」

 辛卯(13日)、陳が新除中護軍(5月8日参照)の樊毅を護軍将軍とした。

 秋、7月、乙卯(8日)、隋の文帝が〔朝会にて〕初めて黄色の服を着、百官は総出でこれを祝った。
 
 これより前、普段着は、江南では巾褐(粗い布製の頭巾)・裙襦(漢服)を着、北朝は戎夷の服制が混ざったものを着た。北斉では長帽をかぶり、短靴を履き、袷袴(裏地のあるズボン)・襖子(胡服)を着た。

○襖子

 服の色は朱・紫・玄・黄から好きな色を選んだ。皇帝に謁見する際や官庁に出入りする際も、元日の朝会で無ければみなその格好で通した。北斉の皇帝たちは日常では緋袍(緋色の上着)を着た。
 隋代の皇帝や高官たちは大体黄色(《新唐書》では赭黄〈黄土色〉)の鮮やかな綾絹製の袍(上着)を着、烏紗帽(烏帽子の原型?)をかぶり、九環帯(九つの輪っかが吊るされたベルト)を着け、烏皮六合靴(七枚の皮革を縫い合わせた黒い靴)を履いた。

○烏皮六合靴

 百官の普段着は庶民と同じ黄袍で、官庁を出入りさせた。帝の朝服も同様だったが、十三環金帯を身に着けている所だけが異なっていた。恐らく、合理性を追求したものであろう。のち、烏紗帽は次第にかぶられなくなり、身分の高低に関わらず折上巾(幞頭・襆頭)をかぶるようになった。これは北周の武帝の建徳年間(572~578)に発明されたものだった(578年〈1〉参照)。

○折上巾

 また、晋公の宇文護の時、袍の下に襴(裾に足さばきのよいようにつけた横ぎれ)が付け加えられた。

○隋文帝紀
 六月癸未,詔以初受天命,赤雀降祥,五德相生,赤為火色。其郊及社廟,依服冕之儀,而朝會之服,旗幟犧牲,盡令尚赤。戎服以黃。秋七月乙卯,上始服黃,百僚畢賀。
○陳宣帝紀
 六月辛卯,以新除中護軍樊毅為護軍將軍。
○隋衣冠志
 高祖初即位,將改周制,乃下詔曰:「…今雖夏數得天,歷代通用,漢尚於赤,魏尚於黃,驪馬玄牲,已弗相踵,明不可改,建寅歲首,常服於黑。朕初受天命,赤雀來儀,兼姬周已還,於茲六代。三正廻復,五德相生,總以言之,並宜火色。垂衣已降,損益可知,尚色雖殊,常兼前代。其郊丘廟社,可依袞冕之儀,朝會衣裳,宜盡用赤。昔丹烏木運,姬有大白之旂,黃星土德,曹乘黑首之馬,在祀與戎,其尚恒異。今之戎服,皆可尚黃,在外常所著者,通用雜色。祭祀之服,須合禮經,宜集通儒,更可詳議。」…百官常服,同於匹庶,皆著黃袍,出入殿省。高祖朝服亦如之,唯帶加十三環,以為差異。蓋取於便事。
○旧唐輿服志
 讌服,蓋古之䙝服也,今亦謂之常服。江南則以巾褐裙襦,北朝則雜以戎夷之制。爰至北齊,有長帽短靴,合袴襖子,朱紫玄黃,各任所好。雖謁見君上,出入省寺,若非元正大會,一切通用。高氏諸帝,常服緋袍。隋代帝王貴臣,多服黃文綾袍,烏紗帽,九環帶,烏皮六合靴。百官常服,同於匹庶,皆著黃袍,出入殿省。天子朝服亦如之,惟帶加十三環以為差異,蓋取於便事。其烏紗帽漸廢,貴賤通服折上巾,其製周武帝建德年所造也。晉公宇文護始命袍加下襴。
○新唐車服志
 初,隋文帝聽朝之服,以赭黃文綾袍,烏紗冒,折上巾,六合鞾,與貴臣通服。唯天子之帶有十三鐶,文官又有平頭小樣巾,百官常服同於庶人。
○隋60崔仲方伝
 及受禪,上召仲方與高熲議正朔服色事。仲方曰:「晉為金行,後魏為水,周為木。皇家以火承木,得天之統。又聖躬載誕之初,有赤光之瑞,車服旗牲,並宜用赤。」又勸上除六官,請依漢、魏之舊。上皆從之。進位上開府,尋轉司農少卿,進爵安固縣公。

 ⑴高熲…字は昭玄。独孤熲。生年541、時に41歳。またの名を敏という。父は北周の開府・治襄州総管府司録の高賓。幼少の頃から利発で器量があり、非常な読書家で、文才に優れた。武帝の治世時(560~578)に内史下大夫とされた。のち、北斉討平の功を以て開府とされた。578年、稽胡が乱を起こすと越王盛の指揮のもとこれを討平した。この時、稽胡の地に文武に優れた者を置いて鎮守するよう意見して聞き入れられた。楊堅が丞相となり、登用を持ちかけられると欣然としてこれを受け入れ、相府司録とされた。尉遅迥討伐軍に迥の買収疑惑が持ち上がると、監軍とされて真贋の見極めを行ない、良く軍を指揮して勝利に導いた。この功により柱国・相府司馬・義寧県公とされた。堅が即位して文帝となると尚書左僕射・兼納言・渤海郡公とされた。帝に常に『独孤』とだけ呼ばれ、名を呼ばれないという特別待遇を受けた。左僕射の官を蘇威に譲ったがすぐに復職を命ぜられた。581年(3)参照。
 ⑵崔仲方…字は不斉。生年539、時に43歳。開府の崔猷の子。若年の頃から読書好きで、文武に才能を示した。十五歳の時(553年)に宇文泰と会うと才能を認められ、子どもたちの学友とされた。このとき楊堅と親しい仲になった。のち晋公護の府の参軍事、次いで記室とされた。のち伐斉二十策を献じると武帝から非常な評価を受けた。576年の東伐の際には晋州城の城壁を登ってこれを陥とし、儀同とされた。呉明徹を捕らえる際も多くの献策をし、成功に繋げた。宣帝が即位すると小内史とされ、淮南への使者とされた。堅が丞相となると便宜十八事を献じ、その全てを嘉納された。尉遅迥が挙兵すると討伐軍の監軍とされたが、父の崔猷が山東にいる事を以て辞退した。のち堅に皇帝に即位するよう勧めた。581年(2)参照。

●王誼と蘇威
〔これより前(579年2月)、北周は相州六府を洛陽に移転して東京六府(天・地・春・夏・秋・冬官府)としていた。のち隋は東京六府を東京尚書省と改めた。〕
 8月、壬午(5日)、隋が東京尚書省を廃止した。
 東京左僕射の趙芬は尚書右僕射とされ、〔上柱国・〕郢国公の王誼と共に律令の修訂を行なった。
 右僕射の趙煚文帝の意に逆らい、陝州(弘農)刺史に左遷されていた。


〔これより前、王誼は北周の武帝の時からだった事と、文帝と昔から親交があった事から帝に非常な礼遇を受けていた。〕
 帝が即位すると、帝自ら誼の屋敷に赴いて心ゆくまで楽しむなど、礼遇は更に手厚いものとなった。
 ある時、太常卿の蘇威が提議して言った。
「多い人口に対して、耕作地の数が足りていません。功臣に与えた土地を削減して民に与えてはいかがでしょうか。」
 すると誼は上奏して言った。
「功臣たちが封土を受けたのは、先朝の時から陛下に尽力したからです。その封土をここに来ていきなり削ってしまわれますのは、適切でないと思います。臣が気にかけるのはただ朝臣の支持を失うかどうかだけであり、〔それに比べれば〕民の耕作地の不足問題は問題にするに足りません」
 帝はもっともだと思い、かくて威の意見を採用しなかった。

 この日、突厥の阿波可汗の使者が隋に到着した。

○隋文帝紀
 八月壬午,廢東京官。突厥阿波可汗遣使貢方物。
○隋地理志
 後周置東京六府、洛州總管。開皇元年改六府,置東京尚書省。其年廢東京尚書省。
○隋40王誼伝
 及上受禪,顧遇彌厚,上親幸其第,與之極歡。太常卿蘇威立議,以為戶口滋多,民田不贍,欲減功臣之地以給民。誼奏曰:「百官者,歷世勳賢,方蒙爵土。一旦削之,未見其可。如臣所慮,正恐朝臣功德不建,何患人田有不足?」上然之,竟寢威議。
○隋46趙煚伝
 徵拜尚書右僕射。視事未幾,以忤旨,尋出為陝州刺史。
○隋46・北75趙芬伝
 遷東京左僕射,…開皇初,罷東京官,拜尚書左(右)僕射,與郢國公王誼修律令。

 ⑴趙芬…字は士茂。名門の天水趙氏の出。若年の頃から聡明で、大の読書家だった。大冢宰の宇文護に招かれて中外府掾→吏部下大夫とされ、武帝が親政を始めると(572年)内史下大夫→少御正→司会(財務)とされた。実行力があったため、どの職でも好評を得た。また、故事に明るかったため、朝廷にて難題が持ち上がるたびに判断を下し、称賛を受けた。申国公の李穆が北斉討伐に赴いた際(575年)、行軍長史とされた。のち東京小宗伯とされ、洛陽を鎮守した。尉遅迥と司馬消難が密かに使者を往來させているのを察知すると、宰相の楊堅に密告し、信任を受けて東京左僕射とされた。580年(4)参照。
 ⑵王誼…拓王誼。字は宜君。生年540、時に42歳。父は北周の大将軍・鳳州刺史の拓王顕(王顕)、従祖父は開府・太傅の拓王盟(王盟。宇文泰の母の兄)。 若年の頃から文武に優れた。北周の孝閔帝の時に左中侍上士とされ、大冢宰の晋公護が実権を握っている時でも帝を尊重した。のち、御正大夫とされた。父が亡くなると度を越した悲しみようを見せて痩せ細った。武帝が即位すると儀同とされ、のち次第に昇進して内史大夫・楊国公とされた。575年の北斉討伐の際には事前に帝に計画を相談された。576年の北斉討伐の際には六軍の監督を任され、晋州城を攻めた。のち斉王憲と共に殿軍を務めた。晋陽の戦いでは危機に陥った武帝を救う大功を挙げた。北斉を滅ぼすと相州刺史とされ、間もなくまた中央に呼ばれて内史とされた。武帝は臨終の際、「拓王誼は国家の柱石たる人物であるから、近くに置いて機密を任せよ。遠方の任務には就かせるな」と太子贇(宣帝)に遺言した。宣帝が即位すると大司空とされ、間もなく剛直さを嫌われて襄州総管とされた。司馬消難が挙兵すると行軍元帥とされて討伐に赴き、平定に成功して上柱国・大司徒とされた。楊堅(隋の文帝)と昔から親交があったこともあり重用を受け、堅の第五女が子の王奉孝に嫁いだ。580年(7)参照。
 ⑶趙煚…字は賢通。生年532、時に50歳。天水西県の人。幼少の頃に父を喪い、母に養われ、良く孝行を尽くした。宇文泰に用いられて丞相府参軍事となり、河南方面で北斉軍と戦った。北周が建国されると硤州(夷陵)刺史とされ、蛮族の酋長の向天王が叛乱を起こし、信陵・秭歸を攻めると(566~567年頃?)、手勢五百を率いて奇襲して破り、二郡を守り抜いた。のち硤州の西南岸にある安蜀城を蛮族や陳将の呉明徹から守り切り、その功により開府・荊州総管府長史とされた。のち民部中大夫とされた。武帝が河南を攻めようとした際、晋陽を攻めた方がいいと進言した。のち斉州刺史とされた時、罪を犯して牢屋に入れられたが脱獄し、武帝に上奏をして赦された。楊堅が宰相となると上開府→大将軍・大宗伯とされた。禅譲の際には皇帝の璽紱を堅に届ける役目を任された。間もなく相州刺史とされたが、すぐ故事に通じているという理由で尚書右僕射とされた。581年(2)参照。
 ⑷蘇威…字は無畏。生年542、時に40歳。西魏の度支尚書で宇文泰の腹心の蘇綽の子。北周の大冢宰の宇文護に礼遇を受けて娘の新興公主を嫁にもらった。ただ、山寺に暮らして仕官せず、隠遁生活を送った。のち高熲の推挙を受けて楊堅に会い、楊堅が即位して文帝となると太子少保・邳国公とされた。

●吐谷渾討伐

 これより前、吐谷渾が隋の涼州と弘州に侵攻した。隋の文帝は、弘州の地が広い上に人々が反抗的であることを以て、州を廃止した。
 帝は上大将軍・楽安公の元諧を行軍元帥、〔上儀同の〕令狐熙を行軍長史とし、〔上開府の〕賀婁子幹・郭竣・元浩らを行軍総管とし、数万の兵を以て迎え撃つよう命じた。この時、帝は諧にこう言った。
「公は今、朝廷の期待を背負って西下するが、その目的は国境を安寧にし、住民を保全する事にあり、無用の地を貪ったり(吐谷渾の地を奪うこと)、荒服(化外の地)の民を害する事では無い。王者の軍というのは仁義の軍という意味である。渾賊が国境にやってきても、公は寛大に取り扱え。さすれば、誰が我が国家に心服せずにいられようか!」
 この時、吐谷渾は国中の兵を総動員しており、曼頭から樹敦に到るまで騎兵の行進が絶え間なく続いた。
 吐谷渾の河西総管・定城王の鍾利房が三千騎を率いて渡河し、党項(タングート)羌軍と合流した。諧は鄯州(河州の西北二百五十里)を出て青海(鄯州の西三百余里、吐谷渾の国都の伏俟城の東十五里にある湖)に赴き、その帰路に待ち受けた。鍾利房は兵を率いて諧の攻撃に向かい、豊利山にて遭遇した。吐谷渾・党項連合軍は二万の鉄騎を率いていたが、諧はこれと会戦を行なって撃退に成功した。
 吐谷渾軍は青海に駐屯し、太子の可博汗が精鋭の騎兵五万を率いて諧を奇襲した。
 甲午(17日)、諧はこれも撃退し、三十余里も追撃を行なって万にも上る捕虜・首級を得た。吐谷渾はこれを知ると非常に震え上がり、夸呂可汗《隋書》には『呂夸』とあるは親兵(護衛兵)を連れて遠方に遁走した。諧が吐谷渾の人々に書簡を送って利害を教え諭すと、名王十七人・公侯十三人が配下を連れて投降してきた。
 帝はこれを聞くと大いに喜び、投降してきた吐谷渾の王侯のうち、一番人気のあった高寧王の移茲裒を大将軍・河南王として投降者たちの統治を任せた。また、他の者たちにもそれぞれ差をつけて賞賜を与えた。
 また、諧に詔を下して言った。
「善行を褒め功労に酬いるという事は、史籍に記載されている事である。諧は見識・才能に共に優れ、頭の回転が速く、文武の両面において名声を博して〔いたが、今、更に〕辺境において赫々たる武功を立てた。その深遠なる智謀と見事な志節は、まことに朕の心にかなうものであり、子孫にまで及ぶ賞典を加えるのが妥当である。よって今、諧を柱国とし、一子に封爵を与え、県公とする。」
 また、諧を寧州(もと豳州。安定の東北)刺史とすると、飴と鞭を使い分けて非常に上手に州を統治した。ただ、諧は剛情な性格で悪口を好み、〔帝の〕近臣たちに媚を売る事ができなかった。あるとき帝にこう言った。
「臣は真心を以て陛下にお仕えいたしますが、同僚に迎合する事はできません。」
 帝は答えて言った。
「その言葉を終生貫くが良い。」
 のち、諧は公的な理由で免職となった。

 賀婁子幹は一番の武功を立て、褒詔を受けた。帝は吐谷渾との国境がまだ不安定な事から、子幹に涼州を鎮守させた。

 令狐熙は上開府とされた。
 熙は字を長熙といい、北周の大将軍・彭陽県公の令狐整の子で〔、《周書》の編纂者の令狐徳棻の父で〕ある。厳格な性格で、自室においても一日中しゃんとし、無闇に客と会わず、当代の名士とのみ交際した。ただ他人に対してはおおらかだった。大の読書家で、特に三礼(礼記・周礼・儀礼)に通じ、音楽にも造詣が深かった。また、騎射も得意とした。出仕すると経典に詳しい事を評価されて吏部上士とされ、間もなく帥都督・輔国将軍とされ、のち夏官府都上士とされたが、どの職でも有能さを見せた。母が亡くなると辞職し、〔悲しみに打ちひしがれて、〕喪服の重みにすら堪えられないほどに痩せ細った。父の整は戒めて言った。
「本当の孝というのは、親を安心させ、血を絶やさぬ事を言う。私がまだ生きているというのにそんなに痩せ細っていたりしていては、孤児となった時どうするのか。これではおちおち死ぬ事もできぬ!」
 熙はそこで次第に食事の量を増やした。喪が明けると小駕部とされた。のち父が死ぬと(573年)杖が無ければ立ち上がれないほどになり、その泣き声を聞いた者は貰い泣きせずにはいられなかった。
 河陰の戦い(575)では喪服のまま従軍するよう命ぜられ、帰還すると職方下大夫とされ、彭陽県公(邑二千百戸)の爵位を継いだ。武帝の北斉討平(576~577)の際には留守の功を以て六百戸を加増され、儀同とされた。のち司勲・吏部の二曹の中大夫を歴任すると、その仕事ぶりを絶賛された。
 隋が建国されると本官のまま行納言事とされ、間もなく上儀同・司徒左長史・河南郡公とされた。

 9月、戊申(12日)、戦没者の遺族に食料や衣料の支援を行なった。

 癸亥(17日)の夜、建康の西北から強風が吹き荒れ、屋根や樹木を吹き飛ばした。また、大量に雷が落ち、雹が降った。

○隋文帝紀
 甲午,遣行軍元帥樂安公元諧,擊吐谷渾於青海,破而降之。九月戊申,戰亡之家,遣使賑給。
○陳宣帝紀
 秋九月癸亥,夜,大風至自西北,發屋拔樹,大雷震雹。
○隋40元諧伝
 時吐谷渾寇涼州,詔諧為行軍元帥,率行軍總管賀婁子幹、郭竣、元浩等步騎數萬擊之。上勑諧曰:「公受朝寄,總兵西下,本欲自寧疆境,保全黎庶,非是貪無用之地,害荒服之民。王者之師,意在仁義。渾賊若至界首者,公宜曉示以德,臨之以教,誰敢不服也!」時賊將定城王鍾利房率騎三千渡河,連結党項。諧率兵出鄯州,趣青海,邀其歸路。吐谷渾引兵拒諧,相遇於豐利山。賊鐵騎二萬,與諧大戰,諧擊走之。賊駐兵青海,遣其太子可博汗以勁騎五萬來掩官軍。諧逆擊,敗之,追奔三十餘里,俘斬萬計,虜大震駭。於是移書諭以禍福,其名王十七人、公侯十三人,各率其所部來降。上大悅,下詔曰:「褒善疇庸,有聞前載,諧識用明達,神情警悟,文規武略,譽流朝野。申威拓土,功成疆埸,深謀大節,實簡朕心。加禮延代(世),宜隆賞典。可柱國,別封一子縣公。」諧拜寧州刺史,頗有威惠。然剛愎,好排詆,不能取媚於左右。嘗言於上曰:「臣一心事主,不曲取人意。」上曰:「宜終此言。」後以公事免。
○隋53賀婁子幹伝
 開皇元年,進爵鉅鹿郡公。其年,吐谷渾寇涼州,子幹以行軍總管從上柱國元諧擊之,功最優,詔褒美。高祖慮邊塞未安,即令子幹鎮涼州。
○隋56令狐熙伝
 令狐熙字長熙,燉煌人也,代為西州豪右。父整,仕周,官至大將軍、始、豐二州刺史。熙性嚴重(方雅),有雅(度)量,雖在私室,終日(容止)儼然。不妄通賓客,凡所交結,必一時名士(非一時賢俊,未嘗與之遊處。)。博覽羣書,尤明三禮,善騎射,頗知音律。起家以通經為吏部上士,尋授帥都督、輔國將軍,轉夏官府都上士,俱有能名。以母憂去職,殆不勝喪。其父戒之曰:「大孝在於安親,義不絕嗣。吾今見存,汝又隻立,何得過爾毀頓,貽吾憂也!」熙自是稍加饘粥。服闋,除小駕部,復丁父憂,非杖不起,人有聞其哭聲,莫不為之下泣。河陰之役,詔令墨縗從事,還授職方下大夫,襲爵彭陽縣公,邑二千一百戶。及武帝平齊,以留守功,增邑六百戶。進位儀同,歷司勳、吏部二曹中大夫,甚有當時之譽。
 高祖受禪之際,熙以本官行納言事。尋除司徒左長史,加上儀同,進爵河南郡公。時吐谷渾寇邊,以行軍長史從元帥元諧討之,以功進位上開府。
○隋83吐谷渾伝
 其主呂夸,在周數為邊寇,及開皇初,以兵侵弘州。高祖以弘州地曠人梗,因而廢之。遣上柱國元諧率步騎數萬擊之。賊悉發國中兵,自曼頭至於樹敦,甲騎不絕。其所署河西總管、定城王鍾利房及其太子可博汗,前後來拒戰。諧頻擊破之,俘斬甚眾。呂夸大懼,率其親兵遠遁。其名王十三人,各率部落而降。上以其高寧王移茲裒素得眾心,拜為大將軍,封河南王,以統降眾,自餘官賞各有差。

 ⑴弘州…577年6月に北周が河州の広州防に弘州を置いた。《隋書地理志》曰く、『臨洮郡帰政県に北周は弘州と開遠・河浜二郡を置いた。』
 ⑵涼州と弘州に侵攻した…元諧伝と賀婁子幹伝には『涼州に侵攻した』とあり、吐谷渾伝には『弘州に侵攻した』とある。今は両方の記述を採用した。
 ⑶元諧…河南洛陽の人で、富貴な家柄の出。楊堅(文帝)とは国子学で共に授業を受けた昵懇の仲。軍功を挙げて大将軍まで出世した。堅が丞相となると側近とされた。この時、堅に「公は孤立無援の身で、言うなれば奔流中の一枚の塀のようなもの。頑張って窮地を切り抜けられよ」と発破をかけた。尉遅迥が挙兵すると行軍総管とされ、小郷を奪還した。尉遅迥を平定すると上大将軍・楽安郡公とされた。581年(2)参照。
 ⑷賀婁子幹…字は万寿。生年534、時に48歳。祖父は西魏の侍中・太子太傅、父は北周の右衛大将軍。北周の武帝の時(560~578)に出仕して司水上士とされると、能吏の評判を得た。のち昇進して小司水とされると、これまでの勤務態度を評価されて思安県子とされた。間もなく儀同とされ、579年、軍器監を兼任し、淮南攻略に加わった。580年、尉遅迥が挙兵すると討伐に向かい、懐州の包囲を破って丞相の楊堅から激賞を受けた。武陟の決戦では先鋒を務め、鄴城の戦いでも先んじて城壁を登った。これらの功により上開府・武川県公とされた。隋が建国されると鉅鹿郡公とされた。580年(6)参照。
 ⑸曼頭…《隋書地理志》曰く、『雍州河源郡(黄河の水源がある地。)に曼頭城がある。』《読史方輿紀要》曰く、『西寧衛(鄯州。臨洮府河州の西北二百五十里)の西北に曼頭山がある。』
 ⑹樹敦…《読史方輿紀要》曰く、『西寧衛の西にある曼頭山の北にある。吐谷渾の旧都である(現都は伏俟城)。』
 ⑺豊利山…《読史方輿紀要》曰く、『西寧衛の西、青海の東にある。』
 ⑻夸呂(カロ)可汗…慕容夸呂。吐谷渾可汗。初めて可汗を名乗って伏俟城を本拠とし、王・公・僕射・尚書・郎中・将軍などの中国風の官名を用いた。556年、突厥・西魏連合軍が攻めてくると賀真に避難し、妻子を捕虜とされた。559年、北周の涼州を攻めたが、討伐を受けて洮陽・洪和の地を失った。以降は使者を派遣して北周と友好関係を結んだが、576年に国内が乱れると討伐を受けて再び都を捨てて避難した。576年(1)参照。
 ⑼令狐整…本名は延、字は延保。513~573。河右の名士の出身。謙虚・清廉な性格で、先見の明があった。瓜州の乱の平定に大いに貢献したことや、宇文泰の呼びかけに応じて一族や郷里の者ニ千余人と共に長安に赴いたことが評価され、宇文氏の姓と整の名を与えられた。北周の孝閔王が即位すると司憲中大夫とされ、公平妥当に法を執行したので称賛を受けた。のち宇文護が実権を握ると腹心となるよう求められたが、任に堪えないとして辞退して気を害し、豊州刺史とされた。州では善政を行ない、州民から非常に慕われた。のち御正中大夫→中華郡守→同州司会→始州刺史とされた。

●陳、隋に侵攻

 庚午(9月24日)、陳の将軍の周羅睺が隋の胡墅(石頭城の対岸)を攻め陥とし、蕭摩訶が長江以北の地を攻めた。

 これより前、隋の文帝司馬消難が江北にて叛乱を起こした時(580年〈4〉参照)に柳雄亮を陳に派遣するなど友好関係を結ぶ姿勢を見せたが、陳の宣帝はなおも侵略をやめなかった

 壬申(26日)、上柱国・〔宜州刺史・〕薛国公の長孫覧を東南道行軍元帥、上柱国・〔安州総管・〕宋安公の元景山を〔南道?〕行軍元帥とし、陳を討伐させた。また、尚書左僕射の高熲に諸軍の総指揮をさせた。
 長孫覧は八総管を統率して寿陽(揚州)より出撃し、水陸より同時に進軍した。
 元景山は行軍総管の韓延・呂哲を率いて漢口(長江と漢水の合流地点。郢州付近)より出撃し、同時に、上開府の鄧孝儒に精鋭四千を与えて甑山鎮(安州の南、郢州の西。580年の司馬消難の乱の際に奪取されていた)を攻めさせた。

 この時、帝は頭脳明晰な元寿を淮浦に派遣して船艦の修理や建造の監督をさせた。寿は着任すると能吏の評判を得た。
 寿(生年550、時に32歳)は字を長寿といい、北周の大将軍・涼州刺史の是云宝の子である。優しく親思いで、九歲(559年の時に父を亡くすと、痩せ細るまでに嘆き悲しみ、宗族や故郷の人々から一目置かれるようになった。その後は母に孝行を尽くし、成長すると品行方正の大の読書家となった。北周の武成年間(559~560)の初めに隆城県侯(邑千戸)とされた。保定四年(564)、儀隴県侯に改められ、儀同三司とされた。

 突厥の沙鉢略可汗が特産品を献上してきた。
 
○隋文帝紀
 庚午,陳將周羅睺攻陷胡墅,蕭摩訶寇江北。…壬申,以上柱國、薛國公長孫覽,上柱國、宋安公元景山,並為行軍元帥,以伐陳,仍命尚書左僕射高熲節度諸軍。突厥沙鉢略可汗遣使貢方物。是月,行五銖錢。
○南史陳後主紀
 初隋文帝受周禪,甚敦鄰好,宣帝尚不禁侵掠。太建末,隋兵大舉。
○隋39元景山伝
 高祖受禪,拜上柱國。明年,大舉伐陳,以景山為行軍元帥,率行軍總管韓延、呂哲出漢口。遣上開府鄧孝儒將勁卒四千,攻陳甑山鎮。
○隋47柳雄亮伝
 司馬消難作亂江北,高祖令雄亮聘于陳,以結鄰好。及還,會高祖受禪,拜尚書考功侍郎,尋遷給事黃門侍郎。尚書省凡有奏事,雄亮多所駁正,深為公卿所憚。俄以本官檢校太子左庶子,進爵為伯。
○隋51長孫覧伝
 高祖為丞相,轉宜州刺史。開皇二年,將有事於江南,徵為東南道行軍元帥,統八總管出壽陽,水陸俱進。
○隋63元寿伝
 元壽字長壽,河南洛陽人也。祖敦,魏侍中、邵陵王。父寶,周涼州刺史。壽少孤,性仁孝,九歲喪父,哀毀骨立,宗族鄉黨咸異之。事母以孝聞。及長,方直,頗涉經史。周武成初,封隆城縣侯,邑千戶。保定四年,改封儀隴縣侯,授儀同三司。開皇初,議伐陳,以壽有思理,奉使於淮浦監修船艦,以強濟見稱。

 ⑴周羅睺…字は公布。生年542、時に40歳。九江尋陽の人。父は梁の南康内史。騎・射を得意とし、狩猟を好み、義侠心があって気ままに振る舞い、逃亡者を集めて私兵とし、密かに兵法を勉強した。従祖父に戒められても品行を改めなかった。陳の宣帝の時に軍功を挙げて開遠将軍・句容令とされた。のち北伐に参加し、広陵戦で流れ矢によって左目を失った。575年、北斉軍が明徹を宿預に包囲した時、敵陣に突進して斉兵を次々と蹴散らし、蕭摩訶に武勇を認められて副将とされた。577年、徐州にて北周の梁士彦と戦った際、落馬した摩訶を重囲から救い出した。578年、呉明徹が大敗を喫した際、軍を全うして帰った。579年、都督霍州諸軍事とされ、山賊を平定し、右軍将軍とされた。のち総管検校揚州内外諸軍事とされた。金銀を与えられると全て部下たちに分け与えた。のち晋陵太守→太僕卿とされた。北周が乱れると呉州に侵攻したが撃退された。580年(7)参照。
 ⑵蕭摩訶…字は元胤。生年532、時に50歳。口数が少なく、穏やかで謙虚な性格だったが、戦場に出ると闘志満々の無敵の猛将となった。もと梁末の群雄の蔡路養の配下で、陳覇先(陳の武帝)が路養と戦った際(550年)、少年の身ながら単騎で覇先軍に突撃して大いに武勇を示した。路養が敗れると降伏し、覇先の武将の侯安都の配下とされた。556年、幕府山南の決戦では落馬した安都を救う大功を挙げた。のち留異・欧陽紇の乱平定に貢献し、巴山太守とされた。573年、北伐に参加すると、北斉の勇士を次々と討ち取って決戦を勝利に導く大功を挙げた。その後も数々の戦功を立てた。578年、呉明徹が大敗を喫した際、騎兵を率いて包囲を突破した。579年、北周が淮南に侵攻してくると歴陽に赴いたが、結局何もできずに引き返した。北周が乱れると和州・呉州に侵攻したが撃退された。580年(7)参照。
 ⑶柳雄亮…字は信誠。生年539或いは541、時に43或いは41歳。西魏の華陽郡守の柳桧の次子。父が黄衆宝の乱に遭って殺されると死にかけるほど嘆き悲しんだ。勉強家で、梁州総管の蔡公広(559~561)の記室参軍とされると若年にして府中の書類作成の殆どを任された。武帝の代(560~)に衆宝が配下と共に帰順してくると、白昼堂々長安城中にて斬り殺して復讐を果たした。のち内史中大夫とされた。580年、司馬消難が乱を起こすと丞相の楊堅の命によって陳に赴いた。帰還した時ちょうど隋が建国されており、尚書考功侍郎とされた。564年(2)参照。
 ⑷王誼伝によると581年にも陳は隋に侵攻したが撃退されたという。


 ⑸長孫覧…字は休因。本名は善。西魏の太師の長孫稚の孫で、北周の小宗伯の長孫紹遠の子。上品で穏やかな性格で識見・度量に優れ、多くの書物を読み漁り、特に音律に通暁した。質朴温和な性格を買われて魯公邕(武帝)の世話係とされ、帝が即位すると重用を受けて覧の名を与えられ、上奏文を先に閲読する権利を与えられた。また、弁才があり、語勢が勇壮だったため、詔の読み上げ係も任された。のち右宮伯とされ、571年、薛国公とされた。574年、帝が雲陽宮に赴いた時に留守を任されたが、衛王直が乱を起こすと帝のもとに逃走した。のち小司空とされ、北斉を滅ぼすと柱国とされた。のち司衛とされ、武帝が死ぬと諸王の動静を探った。間もなく上柱国・大司徒とされた。579年、涇州(安定)総管・涇州刺史とされた。579年(2)参照。
 ⑹元景山…字は珤(ホウ)岳。生年532、時に50歳。祖父は北魏の華州刺史の安定王燮、父は西魏の宋安王の拓跋琰(元琰)。吐谷渾討伐(558年)に加わり、のち儀同・亹(ビ)川防主とされた。のち北斉と北邙にて戦い(564年)、非常に多くの首級を挙げて開府・建州刺史・宋安郡公とされた。のち武帝の平斉(576~577年)に加わり、戦うたびに戦功を立てて大将軍・平原郡公とされた。のち、治亳州総管とされると、王迴洛ら強盗を平定し、明快な法令を厳格に適用して盗賊を一掃した。また、陳の侵攻も撃退した。のち、中央に呼ばれて候正(巡回警備を担当)とされた。のち淮南平定に参加し(579年)、杞公亮が乱を起こすと(580年)鉄騎三百を率いてこれを斬った。この功により亳州総管とされた。のち上大将軍・黄州総管?とされ、司馬消難が挙兵するとその討伐に大いに貢献した。581年、隋が建国されると上柱国・安州総管とされた。581年(3)参照。
 ⑺韓延…同一人物かは不明だが、北斉の斛律光が北周の宇文憲と宜陽で戦った際、捕えた都督の一人に『韓延』の名が見える。570年(1)参照。
 ⑻淮浦…《読史方輿紀要》曰く、『安東県は淮安府(楚州。もと淮州)の東北九十里、海州の南二百八十里にある。漢の淮浦県の地である。』
 ⑻是云宝…《元和姓纂》によると北魏の任城王澄の子孫。《王使君夫人元氏墓誌銘并序》によると祖父の元万は北魏の西平簡王、父の元敦は邵陵王。爾朱栄の乱(河陰の変?)の時に是云家に逃げ隠れ、以後その姓を名乗るようになったという。統軍とされ、527年、陳郡が叛乱を起こすと曹世表の指揮のもと迅速にこれを平定し、梁の介入を防いだ。のち東魏に仕えたが、537年、揚州刺史の那椿を捕らえて西魏に降り、儀同とされた。538年に洛陽を陥とした。のち侍中・魏寧王とされ、北周の時に大将軍・都督涼甘瓜州諸軍事・涼州刺史・洞城郡公とされた。559年、吐谷渾の攻撃を受け戦死した。559年(1)参照。
 ⑼元寿伝には『大業八年(612)に63歳で亡くなった』とあり、逆算すると550年生まれとなる。父の是云宝が涼州で戦死したのは武成初(559)の事である。63歳で亡くなったのを信じると、このときは10歳である。


 581年(5)に続く