[北周:大定元年→隋:開皇元年 陳:太建十三年 後梁:天保十九年]

●官制を漢・魏に戻す
 隋の〔少内史の〕崔仲方文帝に六官の制度(大冢宰など古代の周の官制を真似た制度)を廃止して漢・魏の官制に戻すよう進言し、聞き入れられた。
 かくて隋は三師・三公(正一品)および尚書・門下・内史・秘書・内侍などの省と、御史・都水などの台、太常・光禄・衛尉・宗正・太僕・大理・鴻臚・司農・太府・国子・将作などの寺、左右衛・左右武衛・左右武候・左右領・左右監門・左右領軍などの府を置き、それぞれの職掌を管轄させた。

○隋文帝紀
 易周氏官儀,依漢、魏之舊。
○隋百官志
 高祖既受命,改周之六官,其所制名,多依前代之法。置三師、三公及尚書、門下、內史、祕書、內侍等省,御史、都水等臺,太常、光祿、衞尉、宗正、太僕、大理、鴻臚、司農、太府、國子、將作等寺,左右衞、左右武衞、左右武候、左右領、左右監門、左右領軍等府,分司統職焉。
○隋60崔仲方伝
 又勸上除六官,請依漢、魏之舊。上皆從之。

 ⑴崔仲方…字は不斉。生年539、時に43歳。開府の崔猷の子。若年の頃から読書好きで、文武に才能を示した。十五歳の時(553年)に宇文泰と会うと才能を認められ、子どもたちの学友とされた。このとき楊堅と親しい仲になった。のち晋公護の府の参軍事、次いで記室とされた。のち伐斉二十策を献じると武帝から非常な評価を受けた。576年の東伐の際には晋州城の城壁を登ってこれを陥とし、儀同とされた。呉明徹を捕らえる際も多くの献策をし、成功に繋げた。宣帝が即位すると小内史とされ、淮南への使者とされた。堅が丞相となると便宜十八事を献じ、その全てを嘉納された。尉遅迥が挙兵すると討伐軍の監軍とされたが、父の崔猷が山東にいる事を以て辞退した。のち堅に皇帝に即位するよう勧めた。581年(1)参照。
 ⑵文帝…楊堅。普六茹堅。幼名は那羅延。生年541、時に41歳。隋の初代皇帝。在位581~。父は故・隨国公の楊忠。母は呂苦桃。落ち着いていて威厳があった。宇文泰に「この子の容姿は並外れている」と評され、名観相家の趙昭に「天下の君主になるべきお方だが、天下を取るには必ず大規模な誅殺を行なわないといけない」と評された。また、非常な孝行者だった。晋公護と距離を置き、憎まれた。568年に父が死ぬと跡を継いで隨国公とされた。573年、長女が太子贇(のちの宣帝)に嫁いだ。575年の北斉討伐の際には水軍三万を率いて北斉軍を河橋に破った。576年の北斉討伐の際には右三軍総管とされた。577年、任城王湝と広寧王孝珩が鄴に侵攻すると、斉王憲と共にこれを討伐した。のち定州総管とされた。577年、南兗州(亳州)総管とされた。578年、宣帝が即位すると舅ということで上柱国・大司馬とされた。579年、大後丞→大前疑とされた。580年、揚州総管とされたが、足の病気のため長安に留まった。間もなく天元帝が亡くなるとその寵臣の鄭訳らに擁立され、左大丞相となった。間もなく尉遅迥の挙兵に遭ったが、わずか68日で平定に成功した。間もなく大丞相とされた。581年、禅譲を受けて隋を建国した。581年(1)参照。

●尚書省
 尚書省には令(正二品)・左右僕射(従二品)を一人ずつ置き、吏部・礼部・兵部・都官(刑部)・度支(民部)・工部などの六曹(正三品)の事務を総管した。令・僕射・六曹を合わせて八座とした。
 尚書省は属官として左・右丞一人ずつと都事八人を置いた。
 吏部尚書は属官として吏部侍郎二人、主爵侍郎一人、司勲侍郎二人、考功侍郎一人を置いた。
 礼部尚書は属官として礼部・祠部侍郎各一人と主客・膳部侍郎二人ずつを置いた。
 兵部尚書は属官として兵部・職方侍郎二人ずつと駕部・庫部侍郎一人ずつを置いた。
 都官尚書は属官として都官侍郎二人、刑部・比部侍郎一人ずつ、司門侍郎二人を置いた。
 度支尚書は属官として度支・民部侍郎二人ずつと金部・倉部侍郎一人ずつを置いた。
 工部尚書は属官として工部・屯田侍郎各二人、虞部・水部侍郎一人ずつを置いた。
 侍郎は合計三十六人置かれた。

○隋百官志
 尚書省,事無不總。置令、左右僕射各一人,總吏部、禮部、兵部、都官、度支、工部等六曹事,是為八座。屬官左、右丞各一人,都事八人,分司管轄。吏部尚書統吏部侍郎二人,主爵侍郎一人,司勳侍郎二人,考功侍郎一人。禮部尚書統禮部、祠部侍郎各一人,主客、膳部侍郎各二人。兵部尚書統兵部、職方侍郎各二人,駕部、庫部侍郎各一人。都官尚書統都官侍郎二人,刑部、比部侍郎各一人,司門侍郎二人。度支尚書統度支、戶部侍郎各二人,金部、倉部侍郎各一人。工部尚書統工部、屯田侍郎各二人,虞部、水部侍郎各一人。凡三十六侍郎,分司曹務,直宿禁省,如漢之制。

●門下省
 門下省には納言(侍中。父の楊忠の名を避く。正三品)二人、給事黄門侍郎四人、録事・通事令史六人ずつを置いた。
 また、散騎常侍・通直散騎常侍四人ずつ、諌議大夫七人、散騎侍郎四人、員外散騎常侍六人、通直散騎侍郎四人を置き、侍従・宿直の事を掌らせた。
 また、給事二十人、員外散騎侍郎二十人、奉朝請四十人を置き、散騎常侍らと同じ職掌と、それに加えて出使・労問の職務を兼任させた。
 門下省は城門・尚食・尚薬・符璽・御府・殿内などの六局を統括した。
 城門局には校尉二人、直長四人を置いた。
 尚食局には典御二人、直長四人、食医四人を置いた。
 尚薬局には典御二人、侍御医・直長四人ずつ、医師四十人を置いた。
 符璽・御府・殿内局には監を二人ずつ、直長を四人ずつ置いた。

○隋百官志
 門下省,納言二人,給事黃門侍郎四人,錄事、通事令史各六人。又有散騎常侍、通直散騎常侍各四人,諫議大夫七人,散騎侍郎四人,員外散騎常侍六人,通直散騎侍郎四人,並掌部從朝直。又有給事二十人,員外散騎侍郎二十人,奉朝請四十人,並掌同散騎常侍等,兼出使勞問。統城門、尚食、尚藥、符璽、御府、殿內等六局。城門局,校尉二人,直長四人。尚食局,典御二人,直長四人,食醫四人。尚藥局,典御二人,侍御醫、直長各四人,醫師四十人。符璽、御府、殿內局,監各二人,直長各四人。

●内史省
 内史省(中書省。父の楊忠の名を避く)には監・令(正三品)を一人ずつ置いたが、間もなく監は廃止し、令を二人置いた。また、侍郎四人、舍人八人、通事舍人十六人、主書十人、録事四人を置いた。

○隋百官志
 內史省,置監、令各一人。尋廢監。置令二人,侍郎四人,舍人八人,通事舍人十六人,主書十人,錄事四人。

●秘書省
 秘書省には監(正三品)・丞一人ずつ、郎四人、校書郎十二人、正字四人、録事二人を置き、著作・太史二曹を統括させた。
 著作曹には郎二人、佐郎八人、校書郎・正字二人ずつを置いた。
 太史曹には令・丞二人ずつ、司暦二人、監候四人を置いた。暦・天文・漏刻・視祲にはおのおの博士と生員を置いた。

○隋百官志
 祕書省,監、丞各一人,郎四人,校書郎十二人,正字四人,錄事二人。領著作、太史二曹。著作曹,置郎二人,佐郎八人,校書郎、正字各二人。太史曹,置令、丞各二人,司曆二人,監候四人。其曆、天文、漏刻、視祲,各有博士及生員。
 
●内侍省
 内侍省(中侍省。父の楊忠の名を避く)には内侍・内常侍二人ずつ、内給事四人、内謁者監六人、内寺伯二人、内謁者十二人、寺人六人、伺非八人を置いた。みな宦官を用いた。
 内侍省は内尚食・掖庭・宮闈・奚官・内僕・内府などの局を統括させた。
 尚食には典御と丞二人ずつを置いた。他はおのおの令・丞を二人ずつ置いた。宮闈・内僕には丞を一人ずつ加えた。掖庭には宮教博士二人を加えた。

○隋百官志
 內侍省,內侍、內常侍各二人,內給事四人,內謁者監六人,內寺伯二人,內謁者十二人,寺人六人,伺非八人。並用宦者。領內尚食、掖庭、宮闈、奚官、內僕、內府等局。尚食,置典御及丞各二人。餘各置令、丞,皆二人。其宮闈、內僕,則加置丞各一人。掖庭又有宮教博士二人。

●近衛軍
 左右衛・左右武衞・左右武候には大将軍一人ずつと将軍二人ずつ、長史・司馬・録事、功・倉・兵・騎曹参軍、法曹・鎧曹行参軍を一人ずつを置いた。行参軍は左右衛・左右武候に六人ずつ、左右武衛に八人ずつ置いた。
 左右衛は皇宮の警備と近衛軍の統括を担当した。おのおの直閤将軍六人、直寝十二人、直斎・直後十五人ずつを置いた。みな宿衛・侍從を掌った。
 また、奉車都尉六人を置いた。奉車都尉は副車の操縦を掌った。
 また、武騎常侍十人、殿内将軍十五人、員外将軍三十人、殿内司馬督二十人、員外司馬督四十人を置いた。みな参軍府に勤務し、労問の使者とされた。
 左右衛は更におのおの親衛を統べ、開府を置いた。左勲衛開府・左翊一開府・二開府・三開府・四開府および武衛・武候・領軍・東宮領兵開府がこれに准じた。
 開府は開府一人、長史・司馬・録事および倉・兵曹参軍、法曹行参軍一人ずつを置いた。また行参軍三人を置いた。
 また、儀同府を置いた。武衛・武候・領軍・東宮領兵儀同がこれに准じた。儀同は人員は開府と同じだったが、行参軍のみ置かなかった。
 儀同府はみな軍坊を置き、諸坊と東宮軍坊がこれに准じた。軍坊は坊主一人、佐二人を置いた。
 毎郷団と東宮郷団がこれに准じた。団主一人、佐二人を置いた。
 左右武衞府は直閤以下の人員は置かず、ただ外軍の宿衛を管轄した。
 左右武候は皇帝の外出の際、前後の警邏を行ない、怪しい者がいれば逮捕した。皇帝が狩猟や征伐に出かけた際は、陣屋の警邏を掌った。右武候は司辰師四人と漏刻生百一十人を置いた。
 左右領左右府はおのおの大将軍を一人、将軍を二人置いた。皇帝の周辺の警固および。千牛備身を十二人置いた。千牛備身は千牛刀(皇帝の刀)の管理を掌った。また、備身左右を十二人置いた。備身左右は皇帝の弓矢の管理を掌った。また、備身を六十人置いた。備身は宿衛・侍從を掌った。左右領左右府はおのおの長史・司馬・録事および倉・兵二曹参軍事、鎧曹行参軍を一人ずつ置いた。
 左右監門府はおのおの将軍を一人置いた。宮門の警備を掌った。おのおの郎将二人、校尉・直長を三十人ずつ、長史・司馬・録事および倉・兵曹参軍、鎧曹行参軍を一人ずつ、行参軍を四人置いた。
 左右領軍府はおのおの十二軍の籍帳(戸籍と帳簿)・差科(赋役)・訴訟を掌った。将軍は置かず、ただ長史・司馬・掾・属および録事、功・倉・戸・騎・兵曹参軍、法・鎧曹行参軍を一人ずつ、行参軍を十六人を置いた。また、明法四人を置いた。明法は法司に隷属し、軍の法律・法令を掌った。

○隋百官志
 左右衞,掌宮掖禁禦,督攝仗衞。又各有直閤將軍、六人。直寢、十二人。直齋、直後,各十五人。並掌宿衞侍從。奉車都尉,六人。掌馭副車。武騎常侍、十人。殿內將軍、十五人。員外將軍、三十人。殿內司馬督、二十人。員外司馬督,四十人。並以參軍府朝,出使勞問。左右衞又各統親衞,置開府。左勳衞開府,左翊一開府、二開府、三開府、四開府,及武衞、武候、領軍、東宮領兵開府准此。府置開府,一人。有長史,司馬,錄事,及倉、兵等曹參軍,法曹行參軍,各一人。行參軍。三人。又有儀同府。武衞、武候、領軍、東宮領兵儀同皆准此。儀同已下,置員同開府,但無行參軍員。諸府皆領軍坊。每坊東宮軍坊准此。置坊主、一人。佐。二人。每鄉團東宮鄉團准此。置團主、一人。佐。二人。
 左右武衞府,無直閤已下員,但領外軍宿衞。
 左右武候,掌車駕出,先驅後殿,晝夜巡察,執捕姦非,烽候道路,水草所置。巡狩師田,則掌其營禁。右加置司辰師、四人。漏刻生。一百一十人。
 左右領左右府,各大將軍、一人。將軍二人。掌侍衞左右,供御兵仗。領千牛備身,十二人。掌執千牛刀;備身左右,十二人。掌供御弓箭;備身,六十人。掌宿衞侍從。各置長史,司馬、錄事,及倉、兵二曹參軍事,鎧曹行參軍各一人。等員。
 左右監門府各將軍,一人。掌宮殿門禁及守衞事。各置郎將,二人。校尉,直長,各三十人。長史,司馬,錄事,及倉、兵曹參軍,鎧曹行參軍,各一人。行參軍四人。等員。
 左右領軍府,各掌十二軍籍帳、差科、辭訟之事。不置將軍。唯有長史,司馬,掾屬及錄事,功、倉、戶、騎、兵等曹參軍,法、鎧等曹行參軍,各一人。行參軍十六人。等員。又置明法,四人。隸於法司,掌律令輕重。

●勲官と散官
 帝は北周の勲官の制度を踏襲し、上柱国(従一品)・柱国(正二品)・上大将軍(従二品)・大将軍(正三品)・上開府儀同三司(従三品)・開府儀同三司(正四品)・上儀同三司(従四品)・儀同三司(正五品)・大都督(正六品)・帥都督(従六品)・都督(正七品)など十一等を置き、功労に報いるのに用いた。
 また、散官の特進(正二品)・左右光禄大夫(正二品)・金紫光禄大夫(従二品)・銀青光禄大夫(正三品)・朝議大夫(従三品)・朝散大夫(正四品)を置き、文武官のうち徳行の名声のある者に授けたが、どれも職務は無かった。
 六品以下の散官には翊軍など四十三号将軍が置かれ、その等級は十六等あり、散号将軍と呼んで広く加授した。

 また、職務のある官を執事官、無い官を散官と呼んだ。
 また、上柱国以下を散実官、将軍を散号官と呼んだ。
 また、諸省と左右衛・武候・領左右監門府を内官、その他を外官と呼んだ。

○隋百官志
 …高祖又採後周之制,置上柱國、柱國、上大將軍、大將軍、上開府儀同三司、開府儀同三司、上儀同三司、儀同三司、大都督、帥都督、都督,總十一等,以酬勤勞。又有特進、左右光祿大夫、金紫光祿大夫、銀青光祿大夫、朝議大夫、朝散大夫,並為散官,以加文武官之德聲者,並不理事。六品已下,又有翊軍等四十三號將軍,品凡十六等,為散號將軍,以加汎授。居曹有職務者為執事官,無職務者為散官。戎上柱國已下為散實官,軍為散號官。諸省及左右衞、武候、領左右監門府為內官,自餘為外官。

●新体制
 柱国・相国司馬・義寧県公の高熲を尚書左僕射・兼納言〔・渤海郡公〕とし、相国司録・沁源県公の虞慶則を内史監・兼吏部尚書とし、相国従事内郎・咸安県男の李徳林を内史令とした。
 また、上開府・〔絳州刺史・〕漢安県公の韋世康を礼部尚書とし、上開府・義寧県公の元暉を都官尚書・兼領太僕とし、開府・民部尚書・昌国県公の元巖を兵部尚書とし、上儀同・司宗の長孫毗(?)を工部尚書とし、上儀同・司会中大夫の楊尚希を度支尚書とした。
 また、上柱国・雍州牧・邗国公の楊雄を左衛大将軍・兼宗正卿とした。


 禅譲の際の相国・九錫の詔策・牋表・璽書はみな李徳林の手によるものだった。

 韋世康は欲が少なく、出世を願わず、一度も地位や名望を鼻にかけなかった。他人の良い行ないを聞くと自分もかくありたいと思い、また、人の過失を暴き立てて名声を得ようとしなかった。間もなく上庸郡公とされ、加増を受けて二千五百戸とされた。

○隋文帝紀
 以柱國、相國司馬、渤海郡公高熲為尚書左僕射兼納言,相國司錄、沁源縣公虞慶則為內史監兼吏部尚書,相國內郎、咸安縣男李德林為內史令,上開府、漢安縣公韋世康為禮部尚書,上開府、義寧縣公元暉為都官尚書,開府、民部尚書、昌國縣公元巖為兵部尚書,上儀同、司宗長孫毗為工部尚書,上儀同、司會楊尚希為度支尚書,上柱國、雍州牧、邗國公楊惠為左衞大將軍。
○隋40虞慶則伝
 開皇元年,進位大將軍,遷內史監、吏部尚書、京兆尹,封彭城郡公,營新都總監。
○隋41高熲伝
 高祖受禪,拜尚書左僕射,兼納言,進封渤海郡公,
○隋42李徳林伝
 進授丞相府從事內郎。禪代之際,其相國總百揆、九錫殊禮詔策牋表璽書,皆德林之辭也。高祖登阼之日,授內史令。
○隋43観徳王雄伝
 高祖受禪,除左衞將軍,兼宗正卿。
○隋46元暉伝
 高祖總百揆,加上開府,進爵為公。開皇初,拜都官尚書,兼領太僕。
○隋47韋世康伝
 因授絳州刺史…在任數年,有惠政,奏課連最,擢為禮部尚書。世康寡嗜欲,不慕貴勢,未嘗以位望矜物。聞人之善,若己有之,亦不顯人過咎,以求名譽。尋進爵上庸郡公,加邑至二千五百戶。
○隋62元巖伝
 高祖為丞相,加位開府、民部中大夫。及受禪,拜兵部尚書,進爵平昌郡公,邑二千戶。

 ⑴高熲…字は昭玄。独孤熲。生年541、時に41歳。またの名を敏という。父は北周の開府・治襄州総管府司録の高賓。幼少の頃から利発で器量があり、非常な読書家で、文才に優れた。武帝の治世時(560~578)に内史下大夫とされた。のち、北斉討平の功を以て開府とされた。578年、稽胡が乱を起こすと越王盛の指揮のもとこれを討平した。この時、稽胡の地に文武に優れた者を置いて鎮守するよう意見して聞き入れられた。楊堅が丞相となり、登用を持ちかけられると欣然としてこれを受け入れ、相府司録とされた。尉遅迥討伐軍に迥の買収疑惑が持ち上がると、監軍とされて真贋の見極めを行ない、良く軍を指揮して勝利に導いた。この功により柱国・相府司馬・義寧県公とされた。581年(1)参照。
 ⑵虞慶則…本姓は魚。祖先は赫連氏に仕え、北辺の豪族となった。父は北周の霊武太守。八尺の長身で度胸があり、鮮卑語が得意で、左右どちらからも騎射する事ができた。初めは狩猟にばかり興じていたが、のち素行を改めて読書をするようになり、傅介子や班超の人となりを慕った。578年、儀同・并州総管長史とされ、のち開府とされた。稽胡を平定した際、文武に優れている事を以て石州総管とされ、良く飴と鞭を使い分けて州内を安定させた。楊堅が宰相となると相府司録とされた。581年(1)参照。
 ⑶李徳林…字は公輔。生年532、時に50歳。博陵安平の人。祖父は湖州戸曹従事、父は太学博士。美男。幼い頃から聡明で書物を読み漁り、文才に優れた。高隆之から「天下の偉器」、魏収から「文才はいつか温子昇に次ぐようになる」と評され、いつか宰相になるということで収から公輔の字を授けられた。話術にも長けた。560年頃から次第に中央の機密に関わるようになり、565年には詔の作成にも携わるようになった。北周の武帝はその詔を読むと「天上の人」と絶賛した。母が亡くなると悲しみの余り熱病に罹り、全身にできものができたが、すぐに平癒した。のち中書侍郎とされた。北斉が滅びると北周に仕えて内史上士とされ、詔勅や規則の作成および山東(北斉)の人物の登用を一任された。普六茹堅が丞相となるとその腹心とされ、堅に大丞相・仮黄鉞・都督内外諸軍事となるよう勧めた。のち堅が尉遅迥討伐軍の三将を交代しようとした際反対した。580年(5)参照。
 ⑷韋世康…生年531、時に51歳。名高い隠者の韋敻の子。韋孝寛の甥。宇文泰の娘の襄楽公主を娶った。父と同じく無欲で古人のような気高い道徳観を持ち、物を得たり失ったりする事に関心を持たなかった。北斉討平に従軍し、司州総管府長史とされ、平定したばかりの東中国を良く統治した。のち上開府・司会中大夫とされた。尉遅迥が挙兵すると丞相の楊堅に絳州(玉壁)刺史とされ、動揺の沈静化に成功した。580年(9)参照。
 ⑸元暉…字は叔平。拓跋什翼犍(北魏の道武帝の祖父)の七世孫。祖父は北魏の恒・朔二州刺史の元琛、父は西魏の尚書左僕射の元翌。絵に描いたような美しい髭と眉を持ち、立ち居振る舞いに気品があり、学究心が非常に強く、大の読書家だった。宇文泰に礼遇を受け、泰の息子たちの友達とされ、一緒に勉強した。博学・雄弁だったためよく使者を任され、突厥や北斉と友好を結ぶのに貢献した。北斉が滅亡すると河北の住民の安撫を命ぜられた。577年(4)参照。
 ⑹元巖…字は君山。父は西魏の敷州刺史の元禎。読書を好み、章句にこだわらず、大意を重視した。剛直な性格で器量があり、義人を自認し、若年の頃から渤海の高熲・太原の王韶ら志を同じくする者たちと親交を結んだ。大冢宰の宇文護に才能を認められて中外府記室とされ、のち次第に昇進して内史中大夫・昌国県伯とされた。楽運が北周の宣帝に諫言して処刑されそうになると弁護して救った。579年(1)参照。
 ⑺楊尚希…生年534、時に48歳。名門の弘農楊氏の出で、東漢の太尉の楊震の十五世孫。幼い頃に父を喪った。十八(551)の時、釈奠(孔子などを祀る祭祀)にて《孝経》を講義した際、宇文泰に才能を認められ、普六茹氏の姓を与えられると共に、国子博士に抜擢された。のち次第に昇進して舍人上士とされ、明帝・武帝の代(557~578)に太学博士・太子宮尹・計部中大夫などを歴任した。574年、陳への使者とされた。のち東京司憲中大夫とされ、もと北斉領の慰撫を命ぜられたが、尉遅迥が挙兵すると楊堅のもとに逃れ、潼関の守備を任された。間もなく司会中大夫とされた。580年(3)参照。
 ⑻楊雄…元の名は恵で、のち雄に改めた。字は威恵。叱呂引雄。生年542或いは540、時に40或いは42歳。楊堅の族子とされる。父は大将軍の楊紹で、母は蘭勝蛮。容貌美しく、優れた才能・人格を有し、物腰が上品で立ち居振る舞いが立派だった。非常な孝行者で、父が死んだ時には悲しみの余り死にかけた。太子右司旅下大夫とされ、574年に衛王直が叛乱を起こして宮城に攻めてくると、奮戦してこれを撃退した。のち右司衛上大夫とされた。579年、邗国公とされた。楊堅が丞相となると人材との折衝役を任された。のち雍州別駕とされると、雍州牧の畢王賢が叛乱を企てていることを密告し、その功により柱国・雍州牧・相府虞候(警備担当)とされた。また、天元帝の葬儀の警護を務めた。のち上柱国とされた。580年(9)参照。

●上辺だけの敬意
 乙丑(2月14日)、父の楊忠を武元皇帝とし、廟号を太祖とした。また、母の呂苦桃を元明皇后とした。
 また、八大使を天下に派遣して巡察させた。
 丙寅(15日)、廟社を修築した。

 この時、英国公の宇文忻の弟で上開府・匠師中大夫・安平郡公の宇文愷生年555、時に27歳。忻と32歳差)を営宗廟副監・太子左庶子とした。廟が完成すると、別に甑山県公(邑千戸)とした。
 愷は字を安楽という。北周に仕え、功臣(宇文貴)の子を以てわずか三歲(557)で双泉伯とされ、七歲(561)のとき安平郡公(邑二千戸)とされた。若年の頃から才能と度量があり、家は代々武将を輩出し、兄たちもみな武人となったが、愷のみ学問を好んで書物を読み漁り、文才など多くの技芸に優れたため、名公子と呼ばれた。初め千牛備身とされ、のち次第に昇進して御正中大夫・儀同三司とされた。堅が丞相となると上開府・匠師中大夫とされた。

 また、王后の独孤伽羅を皇后とし、王太子の楊勇を皇太子とした。
 丁卯(16日)、大将軍・〔相州刺史・〕金城郡公の趙煚を故事に通じているという理由で尚書右僕射とした。
 また、上開府・済陽侯の伊婁彦恭を左武候大将軍とした。
 己巳(18日)、もと北周の静帝宇文闡を介国公(邑五千戸〈周静帝紀では一万戸〉)とした。その旌旗・車服・礼楽は北周の時と同じ物を用いる事を許し、更に上書した時は『上表』と称さず、これに答える書状も『詔命』と称さない事として尊重した。ただ、実際はその通りには行なわれなかった。
 また、北周の諸王をみな公とした。

◯周静帝紀
 隋氏奉帝為介國公,邑萬戶,車服禮樂一如周制,上書不為表,答表不稱詔。有其文,事竟不行。
○隋文帝紀
 乙丑,追尊皇考為武元皇帝,廟號太祖,皇妣為元明皇后。遣八使巡省風俗。丙寅,修廟社。立王后獨孤氏為皇后,王太子勇為皇太子。丁卯,以大將軍、金城郡公趙煚為尚書右僕射,上開府、濟陽侯伊婁彥恭為左武候大將軍。己巳,以周帝為介國公,邑五千戶,為隋室賓。旌旗車服禮樂,一如其舊。上書不為表,答表不稱詔。周氏諸王,盡降為公。
○隋46趙煚伝
 拜相州刺史。朝廷以煚曉習故事,徵拜尚書右僕射。
○隋68宇文愷伝
 宇文愷字安樂,杞國公忻之弟也。在周,以功臣子,年三歲,賜爵雙泉伯,七歲,進封安平郡公,邑二千戶。愷少有器局。家世武將,諸兄並以弓馬自達,愷獨好學,博覽書記,解屬文,多伎藝,號為名父公子。初為千牛,累遷御正中大夫、儀同三司。高祖為丞相,加上開府中大夫。…後拜營宗廟副監、太子左庶子。廟成,別封甑山縣公,邑千戶。

 ⑴楊忠…字は揜于。普六茹忠。507~568。武川出身。美髯で七尺八寸の長身。素手で虎を倒す怪力の持ち主。普六如氏の姓を賜った。梁に二度身を置いたことがある。のち西魏に帰国すると、梁から漢水東部を奪取し、邵陵王綸を攻め殺した。江陵攻めでは先鋒を務めた。北斉にて司馬消難が乱を起こすと、その保護に大きく貢献した。563年、突厥と共に晋陽を攻めた。のち、涇州総管とされた。564年、再度北方より侵入を図った。
 ⑵宇文忻…字は仲楽。生年523、時に59歳。大司馬・許国公の宇文貴の子。幼い頃から利発で、左右どちらからでも騎射する事ができ、「韓信・白起らは大したことがない。自分の方が上手くやれる」と豪語した。542年、韋孝寛が玉壁の鎮守を任されると、そこで数多くの戦功を立てて開府・化政郡公とされた。576年、東伐中にたびたび退却しようとする武帝を何度も諌めた。北斉を滅ぼすと大将軍とされた。陳が徐州に侵攻してくると精鋭の騎兵を率いて蕭摩訶と戦った。間もなく王軌と共に陳軍を大破し、柱国・豫州総管とされた。579年、崔弘度や賀婁子幹らと共に淮南を攻め、肥口などを陥とした。楊堅と仲が良く、堅が宰相となると重用を受けた。尉遅迥が挙兵すると行軍総管とされ、討伐に向かったが、その際迥から金品を貰ったと疑われ、堅に一度疑いを抱いた。疑いが解けたのちは知勇を発揮して次々と勝利をおさめ、鄴の決戦では観戦している一般民衆を射て迥軍の混乱を誘い、劣勢を覆す大功を挙げた。この功により上柱国・英国公とされた。580年(7)参照。
 ⑶独孤伽羅…生年544、時に38歳。北周の太保・柱国・衛国公の独孤信の第七女。母は崔氏。557年に楊堅に嫁ぎ、おしどり夫婦になった。結婚当初は従順・控えめで堅の両親に孝行を尽くし、婦道から外れなかった。独孤一族は当時外戚として比肩する者が無いほどの盛んさを誇ったが、伽羅は驕ることなく謙虚にふるまったので、人々から賢婦人と讃えられた。娘の楊麗華が天元帝に殺されそうになると、娘に代わって陳謝し、額から血が出るほどに叩頭して助命を勝ち取った。堅が宰相となった時、行く所まで行くよう発破をかけた。581年(1)参照。
 ⑷楊勇…字(或いは幼名、鮮卑名)は睍地伐。楊堅の長子。北周の代に祖父の楊忠の軍功によって博平侯とされ、堅が宰相となると世子とされ、大将軍・左司衛・長寧郡公とされた。この時、父の同母弟の楊瓚を宮中に呼ぶ役目を任されたが失敗した。尉遅迥の乱の平定後、洛州総管・東京小冢宰とされた。間もなく上柱国・大司馬・領内史御正とされ、近衛軍を統括した。のち再び洛州総管とされ、父の堅が隋を建国すると長安に呼び戻された。580年(9)参照。
 ⑸趙煚…字は賢通。生年532、時に50歳。天水西県の人。幼少の頃に父を喪い、母に養われ、良く孝行を尽くした。宇文泰に用いられて丞相府参軍事となり、河南方面で北斉軍と戦った。北周が建国されると硤州(夷陵)刺史とされ、蛮族の酋長の向天王が叛乱を起こし、信陵・秭歸を攻めると(566~567年頃?)、手勢五百を率いて奇襲して破り、二郡を守り抜いた。のち硤州の西南岸にある安蜀城を蛮族や陳将の呉明徹から守り切り、その功により開府・荊州総管府長史とされた。のち、民部中大夫とされた。武帝が河南を攻めようとした際、晋陽を攻めた方がいいと提言した。のち斉州刺史とされた時、罪を犯して牢屋に入れられたが脱獄し、武帝に上奏をして赦された。楊堅が宰相となると上開府→大将軍・大宗伯とされた。禅譲の際には皇帝の璽紱を堅に届ける役目を任された。間もなく相州刺史とされた。581年(1)参照。
 ⑹伊婁彦恭(謙)…本名は謙。彦恭は字。生年535、時に47歳。北魏の支流の出。兄に襄州や荊州総管府の長史などを務めた伊婁穆がいる。 忠義・実直な性格で、騎射や弁舌を得意とし、読書を好んだ。貴族の子弟であることを以て親信→直寝→直閤将軍とされた。威厳があり、宮廷の人々から敬い憚られた。北周が建国されると内侍上士とされ、のち舍人上士→宣納上士とされ、朝廷の事務に関わった。のち儀同とされた。武帝の信任厚く、候正とされて警護を任された。575年、北斉の内情を探るため副使として派遣されたが、配下の高遵の裏切りにあって捕らえられた。晋陽が陥落して救出されると遵に報復する権利を与えられたが行使しなかった。上儀同・候正とされ、のち前駆中大夫とされ、579年に済陽県公、580年に開府とされた。楊堅が丞相となると亳州総管とされたが、すぐ呼び戻された。王謙が挙兵すると叛乱者と同名である事を恥じて字を名前のように用いるようになった。580年(8)参照。
 ⑺宇文闡…元の名は衍。生年573、時に9歳。もと北周の五代皇帝の静帝。在位579~581。天元帝(宣帝)の長子。母は朱満月(南方出身)。579年の1月に魯王→皇太子とされ、2月に帝位を譲られて静帝となった。580年、父が死に、楊堅が丞相となると尉遅迥・司馬消難・王謙の乱に遭った。581年、堅に帝位を譲った。581年(1)参照。

●昔日の言葉
 これより前、堅は丞相となった時、車騎将軍の龐晃を開府として非常に重用し、身辺の事務を監督させた。

 晃(生年532? 時に50歳?)は字を元顕といい、榆林の人である。父の龐虬は北周の驃騎大将軍。
 晃は若年の頃に良家の子を以て〔夏州?〕刺史の杜達に召されて州の都督とされた。のち、既に関中を支配していた宇文泰によって大都督とされ、親信の兵の統率を任され、常に身辺に置かれた。これを機に住居を関中に移した。のち驃騎将軍とされ、比陽侯の爵位を継いだ。
 衛王直が襄州(襄陽)総管とされると(565年)、本官のままこれに従って襄陽に赴いた。間もなく長湖公の拓抜定元定と共に陳を攻めたが、深入りし過ぎて孤立し、捕虜とされた(567年)。数年後、直が晃の弟で車騎将軍の龐元儁に絹八百疋を持たせて晃の身を贖うと、陳はこれを受け入れて晃を北周に帰国させた。晃は帰ると上儀同とされ、綵二百段を与えられ、再び直に仕えた。
 この時、文帝は隨州刺史とされて隨州に赴任中だった。帝が襄陽(襄州)にやってくると、直は晃を帝のもとに赴かせた。晃は帝に会って帝が非凡な人物である事を知ると、以後心を込めて付き合うようになり、帝が長安に帰る際に襄邑(襄陽)を通った時も出迎えの役を買って出た。帝が非常に喜んで一緒に食事を摂ると、晃はこれを機にこう言った。
「公の容貌は只者では無く、しかもその名前は預言書に載っております。きっといつか天子になられる事でしょう。どうかその時までこの言葉を覚えておいてください。」
 帝は笑って言った。
「どうしてそんなでまかせを言うのだ!」
 間もなく一羽の雄雉が庭に飛んできて鳴くと、帝は晃にこう言った。
「射当てたら褒美をやろう。また、もし私が将来富貴の身となったら、それを公の矢が当たったおかげと思おう。」
 晃はこれに応じて雉に矢を射た。すると矢は見事に命中した。帝は手を打って大笑して言った。
「これは天のご意志である! 公はそれに良く応じて射当てたのである!」
 かくて二人の下女を褒美として与え、帝と晃の仲は非常に親密な物となった。
 のち、武帝の時に晃が常山(定州の南。鄴の北)太守に、帝が定州(中山)総管にされると(577年2月)、何度も往来し合った。間もなく帝が亳州(南兗州)総管とされて(577年12月)赴任しに行こうとした時、晃はこれを喜ばず、帝にこう言った。
「燕・代の地は精兵がいる場所でありますゆえ、今もしこの兵を動員して事を起こせば、容易に天下を取れるでしょう。」(燕・代の地は定州総管の管轄ではなく幽州総管の管轄
 帝は晃の手を握って言った。
「まだその時では無い。」
 この時、晃も車騎将軍とされた。
 のち、帝は揚州(寿陽)総管とされると(580年)、上奏して晃を同行させた。

 帝は即位すると、晃にこう言った。
「雉を射たのが皇帝となる瑞兆であった事が、今日証明されたのではないか?」
 晃は再拝して言った。
「陛下は天意・民心に従われて天下の君主となられましたが、それでもなお昔の言葉を覚えていらっしゃいますとは、慶賀に堪えません。」
 帝は笑って言った。
「公の言葉を、どうして忘れられようか!」
 間もなく晃を上開府・右衛将軍・公(邑千五百戸)とした。

 これより前、帝は丞相となった時、国子学で共に授業を受けた親友で大将軍の元諧を側近としていた。この時、諧は堅にこう言った。
「公は孤立無援の身で、言うなれば奔流の中に立つ一枚の塀のようなものであり、大変危険な状態に置かれております。公よ、頑張ってこの窮地を切り抜けられませ。」
 帝は即位すると笑って諧にこう言った。
「奔流の中の塀は結局どうなったか?」
 かくて諧を酒宴に招き、思う存分楽しんだ。また、上大将軍・楽安郡公(邑千戸)とした。

○隋40元諧伝
 及高祖受禪,上顧諧笑曰:「水間牆竟何如也?」於是賜宴極歡。進位上大將軍,封樂安郡公,邑千戶。
○隋50・北75龐晃伝
 龐晃字元顯,榆林人也。父虬,周驃騎大將軍。晃少以良家子,刺史杜達召補州都督。周太祖既有關中,署晃大都督,領親信兵,常置左右。晃因徙居關中。後遷驃騎將軍,襲爵比陽侯。衞王直出鎮襄州,晃以本官從。尋與長湖公元定擊江南,孤軍深入,遂沒於陣。數年,衞王直遣晃弟車騎將軍元儁齎絹八百匹贖焉,乃得歸朝。拜上儀同,賜綵二百段,復事衞王。時高祖出為隨州刺史,路經襄陽,衞王令晃詣高祖。晃知高祖非常人,深自結納。及高祖去官歸京師,晃迎見高祖於襄邑。高祖甚歡,〔與晃同飯,〕晃因白高祖曰:「公相貌非常,名在圖籙。九五之日,幸願不忘。」高祖笑曰:「何妄言也!」頃之,有一雄雉鳴於庭,高祖命晃射之,曰:「中則有賞。然富貴之日,持以為驗。」晃既射而中,高祖撫掌大笑曰:「此是天意,公能感之而中也。」因以二婢賜之,情契甚密。武帝時,晃為常山太守,高祖為定州總管,屢相往來。俄而高祖轉亳州總管,將行,意甚不悅。晃因白高祖曰:「燕、代精兵之處,今若動眾,天下不足圖也。」高祖握晃手曰:「時未可也。」晃亦轉為車騎將軍。及高祖為揚州總管,奏晃同行。既而高祖為丞相,進晃位開府,命督左右,甚見親待。及踐阼,謂晃曰:「射雉之符,今日驗不?」晃再拜曰:「陛下應天順民,君臨宇內,猶憶曩時之言,不勝慶躍。」上笑曰:「公之此言,何得忘也!」尋加上開府,拜右衞將軍,進爵為公,邑千五百戶。

 ⑴衛王直…字は豆羅突。宇文泰の第六子、北周の武帝の同母弟。母は叱奴氏。もと秦郡公。559年に蒲州の守備を任され、561年に雍州牧、562年に柱国大将軍、564年に大司空とされた。565年、襄州総管とされた。567年、陳の湘州刺史の華皎が叛乱を起こすとその援軍の総指揮官となったが、大敗を喫した。570年、後梁が陳に攻められると援軍を派遣し、撃退に成功した。初め晋公護に近づいたが、のち仲違いして武帝に付き、護誅殺の際には自らの手で護を斬り殺した。その功により大司徒とされたが、大冢宰の職が望みだったため不満を抱き、574年、叛乱を起こして誅殺された。574年(2)参照。
 ⑵拓抜定(元定)…字は願安。北魏の宗室の出。口数が少なく、誠実で人情に厚かった。爾朱天光→賀抜→宇文泰に従い、数々の戦いにおいて先鋒を務め、戦えば必ず敵陣を陥としたが、その手柄を一度たりとも主張しなかったため泰に重んじられ、諸将からもその長者ぶりを称賛された。邙山の戦いでは多くの敵兵を殺傷して一番の功を立てた。549年に開府儀同三司とされ、553年、宗室であることから建城郡王とされたが、554年、周礼の施行によって長湖郡公に改められた。557年に岷州刺史とされると善政を行なった。保定年間に左宮伯中大夫→左武伯中大夫とされ、大将軍とされた。567年、陳にて華皎の乱が起こると陸軍を率いて郢州に迫ったが、水軍が大敗すると敵中に孤立し、捕らえられ憤死した。567年(3)参照。
 ⑶元諧…河南洛陽の人で、富貴な家柄の出。楊堅(文帝)とは国子学で共に授業を受けた昵懇の仲。軍功を挙げて大将軍まで出世した。堅が丞相となると側近とされた。この時、堅に「公は孤立無援の身で、言うなれば奔流中の一枚の塀のようなもの。頑張って窮地を切り抜けられよ」と発破をかけた。尉遅迥が挙兵すると行軍総管とされ、小郷を奪還した。580年(3)参照。

●禅譲への非難

 これより前、北周の太后の楊麗華は〔夫の〕天元帝が病に倒れた時、跡継ぎの静帝が幼いことを以て、他族に国を乗っ取られるのではないかと心配していたが、父の堅が宰相となったのを知ると、〔父なら国を乗っ取るような真似はしないと考え、〕非常に喜んだ。
 しかし、のちに父の二心を知ると、言動に出るほどの非常な不満を抱き、禅譲が行なわれるとその態度はますます甚だしいものとなった。しかし、帝は後ろめたさからそれを叱ることができなかった。
 のち、帝は開皇六年(586)に麗華を楽平公主とし、のち再婚させようとしたが、強く拒絶されたため取り止めた。

 これより前、北周の儀同・載師下大夫の栄建緒文帝と旧友だったため、帝が丞相となった時、開府・息州(汝南の南)刺史とされた。赴任しに行く直前、密かに禅譲の計画を練っていた帝は建緒にこう言った。
「卿がここに留まれば、私と共に富貴の身となれるぞ。」
 建緒は自分が北周の大夫である事を以て、義心を露わにしてこう言った。
「明公が言ったことは、私の聞かぬ所であります!」
 帝は不機嫌になった。建緒はそのまま赴任した。
 隋が建国されたのち、建緒が参内すると、帝は建緒にこう言った。
「卿よ、後悔しているのではないか?」
  建緒は額を床に着けて言った。
「臣の官位は徐広ほどではございませんが、心情は楊彪と同じであります。」
 帝は笑って言った。
「朕は本の内容に疎いが、卿の言葉が不遜である事は分かるぞ。」
 帝は建緒を始州(剣閣)や洪州(豫章。陳平定後に置く)の刺史とした。建緒はその両方で能吏の評判を得た。 
 建緒は正義感に溢れた人物で、更に深い学識を備えていた。北周に仕えて儀同・載師下大夫とされ、北斉が平定されると鄴に留まり、そこで《斉紀》三十巻を著した。

 上柱国の竇毅の娘の竇氏は、叔父で北周の皇帝の武帝に溺愛され、宮中で養育されるなど特別待遇を受けていた。帝が崩御すると(578年)まるで父親を亡くしたかのように嘆き悲しみ、痩せ細った。
 現在、文帝が禅譲を受けて北周を滅ぼすと竇氏は涙を流し、牀(座具・寝具になる細長い台)から床に身を投げ出してこう言った。
「ああ!なんで私は男じゃないんだろう!〔男だったら〕叔父さまの家を救えていたのに!」
 父の毅はこれを聞くと妻の襄陽長公主武帝の姉)と一緒に慌ててその口を塞いで言った。
「こら!滅多な事を言うな!一族を滅ぼす気か!」
 のち、毅は長公主にこう言った。
「あの子は美人で、頭も良い。どこぞの馬の骨にはやれぬ。相応しい夫を見繕ってやらねばならぬ。」
 かくて門屏(門の向こうにある塀)に二面の孔雀を描かせ、求婚してくる公子たちにその目を二本の矢で射させ、当てた者に結婚を許す事にした。数十人の公子たちがこれに挑戦したが失敗した。しかし、のちにやってきた李淵が二本の矢でそれぞれの目に射当てた。毅は大いに喜び、淵に竇氏を嫁がせた。

 淵は字を叔徳といい、北周の柱国の李虎の孫で、柱国・唐国公の李昞の子である。天和元年(566)に長安にて生まれた。体には三つの乳があった。七歲の時に〔父が亡くなると〕唐国公の爵位を継いだ。成長すると才気・度量に溢れ、飾り気が無く素直で優しく、貴賤の区別無く愛される立派な青年となった。文帝が北周の丞相となると、姓を大野から李に戻した。隋が建国されると千牛備身とされた。帝の皇后の獨孤伽羅は淵の叔母だったため、その関係で特に親愛を受け、譙・隴・岐三州刺史を歴任した。ある時、史世良という優れた人相見が淵にこう言った。
「公の骨格は非常に優れておりますので、必ず君主となられる事でしょう。どうかご自愛して、私めの言葉をお忘れなさいませぬよう。」
 淵は以後非常に自信を抱くようになった。

○資治通鑑
 上柱國竇毅之女,聞隋受禪,自投堂下,撫膺太息曰:「恨我不為男子,救舅氏之患!」
○旧唐高祖紀
 高祖神堯大聖大光孝皇帝姓李氏,諱淵。〔字叔德。〕…高祖以周天和元年生於長安,〔體有三乳,〕七歲襲唐國公。及長,倜儻豁達,任性真率,寬仁容眾,無貴賤咸得其歡心。〔文帝相周,復高祖姓李氏。隋受禪,補千牛備身。文帝獨孤皇后,即高祖從母也,由是特見親愛,累轉譙、隴、岐三州刺史。有史世良者,善相人,謂高祖曰:「公骨法非常,必為人主,願自愛,勿忘鄙言。」高祖頗以自負。
○周9宣帝楊皇后伝
 後知其父有異圖,意頗不平,形於言色。及行禪代,憤惋逾甚。隋文帝既不能譴責,內甚愧之。開皇六年,封后為樂平公主。後又議奪其志,后誓不許,乃止。
○隋66栄建緒伝
〔榮〕毗〔…父權,魏兵部尚書。…〕兄建緒,性甚亮直,兼有學業。仕周為載師下大夫、儀同三司。及平齊之始,留鎮鄴城,因著齊紀三十卷。建緒與高祖有舊,及為丞相,加位開府,拜息州刺史,將之官,時高祖陰有禪代之計,因謂建緒曰:「且躊躇,當共取富貴。」建緒自以周之大夫,因義形於色曰:「明公此旨,非僕所聞。」高祖不悅。建緒遂行。開皇初來朝,上謂之曰:「卿亦悔不?」 建緒稽首曰:「臣位非徐廣,情類楊彪。」上笑曰:「朕雖不解書語,亦知卿此言不遜也。」歷始、洪二州刺史,俱有能名。
○旧唐51・新唐76高祖太穆皇后竇氏伝
 毅聞之,謂長公主曰:「此女才貌如此(有奇相,且識不凡),不(何)可妄以許(與)人,當為求賢夫。」乃於門屏畫二孔雀,諸公子有求婚者,輒與兩箭射之,潛約中目者許之。前後數十輩莫能中,高祖後至,兩發各中一目。毅大悅,遂歸於我帝。及周武帝崩,后追思(哀毀)如(同)喪所生。隋文帝受禪,后聞而流涕,自投於牀〔下〕曰:「恨我不(非)為男〔子〕,〔不能〕以救舅氏(家)之難(禍)。」毅與長公主遽掩口曰:「汝勿妄言,滅吾族矣!」

 ⑴楊麗華…生年561、時に21歳。楊堅の長女。573年に北周の太子贇の妃とされた。贇が即位して宣帝となると皇后とされた。帝が譲位して天元皇帝となると天元皇后とされた。四皇后、五皇后と他にも皇后が立てられたが嫉妬せず、後宮中から敬愛を受けた。従順な性格だが芯は強く、帝に処罰されそうになっても全く恐れの色を見せなかった。580年、天元大皇后とされ、帝が亡くなると皇太后とされた。580年(2)参照。
 ⑵徐広…東晋の秘書監。劉宋に禅譲が行なわれた際、涙を流した。
 ⑶楊彪…後漢の太尉→太常。曹操の専横が酷くなると隠居し、曹魏に禅譲が行なわれると太尉とされたが断った。
 ⑷竇毅…字は天武。紇豆陵毅。生年519、時に63歳。柱国・鄧国公の竇熾の兄の子。温和・控えめで度量があり、孝行者だった。宇文泰の第五女の襄陽公主(武帝の姉。李世民の母を産む)を娶り、重用を受けた。554年に豳州刺史とされ、北周が建国されると神武公とされた。562年、左宮伯とされ、のち小宗伯・大将軍とされた。565年、可汗の娘を迎えるために突厥に赴いたが、抑留されると臆することなく背信行為を責めた。571年、柱国とされた。のち同州刺史→蒲州総管→金州総管とされた。楊堅が宰相となると上柱国・大司馬とされた。580年(7)参照。
 ⑸竇氏…父は北周の上柱国・神武公の竇毅、母は北周の武帝の姉の襄陽長公主。生まれた時から髪が首の下まであり、三歲になると身長と同じくらいにまで伸びた。女誡(女訓書)や列女伝などを読んだが、一読しただけでもう記憶してしまい、一生忘れなかった。武帝に非常に可愛がられ、宮中で養育され、他の甥・姪たちとは異なる待遇を受けた。幼い時に帝と突厥から来た阿史那后が不仲なのを知ると、帝に対し突厥の助けを得るため后と仲良くするよう進言し、聞き入れられた。572年(5)参照。
 ⑹李虎…大野虎。?~551。字は文彬。八柱国の一人。豹に打ち勝てるほどの武勇の持ち主で、宇文泰に「虎の名は伊達ではないな」と賞された。初め賀抜岳に仕え、左廂大都督・東雍州刺史とされた。岳が死ぬと賀抜勝を後継に押したが、泰が後継となるとこれに仕え、大野氏の姓を賜り、位は右軍大都督・柱国大将軍・少師・隴西公まで昇った。
 ⑺李昞…大野昞。?~572。西魏の柱国・太尉の李虎の子。思慮深く、識見・度量があった。柱国の独孤信の第四女(隋の文帝の妻の独孤伽羅の姉)を娶った。564年に唐国公とされた。571年、柱国とされた。571年(1)参照。

●宇文氏殺害
 これより前、禅譲を行なう直前、〔相国司録の〕虞慶則楊堅文帝)に宇文氏を皆殺しにするよう勧めた。〔相国司馬の〕高熲と〔相国虞候の〕楊恵)は曖昧な態度を取ったものの、反対はしなかった。ただ〔相国従事内郎の〕李徳林のみ強く反対した。すると堅は怒って言った。
「読書人の貴君には分からぬ事だ!」
 かくて宇文泰の孫で譙国公の宇文乾惲・冀国公の宇文絢
 孝閔帝の子で紀国公の宇文湜
 明帝の子で酆国公の宇文貞・宋国公の宇文寔
 貞の子で済陰郡公の宇文徳文
 武帝の子で漢国公の宇文賛・秦国公の宇文贄・曹国公の宇文允・道国公の宇文充・蔡国公の宇文兌・荊国公の宇文元
 賛の子で淮陽公の宇文道徳・宇文道智・宇文道義
 贄の子で忠誠公の宇文靖智・宇文靖仁
 天元帝の子で萊国公の宇文衎・郢国公の宇文術を殺害した
 帝の意に逆らった徳林は以後出世の道が閉じられ、熲と慶則の下風に立つこととなった。ただ、全員に分賜が行なわれた際、上儀同・子爵とされた。

 この時、英国公の宇文忻の弟で上開府の宇文愷2月15日参照)も処刑されることになったが、堅は愷の出自が北周の宇文氏とは別であることと、兄の忻が多大な功績を挙げていた事を以て、急使を派してすんでの所でこれを赦した(未遂とはいえ、宇文忻の弟にこのような目に遭わせるだろうか?)。

○周13宋献公震伝
〔宋獻公震…以世宗第三子寔為嗣。寔字乾辯,建德三年,進爵為王。大象中,為大前疑。尋為隋文帝所害,國除。
○周13譙孝王倹伝
〔譙孝王儉…子乾惲嗣。大定中,為隋文帝所害,國除。
○周13冀康公通伝
〔冀康公通…〕子絢嗣。建德三年,進爵為王。大象中,為隋文帝所害,國除。
○周13紀厲王康伝
〔紀厲王康…〕子湜嗣。大定中,為隋文帝所害,國除。
○周13酆王貞伝
〔酆王貞…〕後為隋文帝所害,并子濟陰郡公德文,國除。
○周13漢王賛伝
 尋為隋文帝所害,并其子淮陽公道德、弟道智、道義等,國除。
○周13秦王贄伝
 尋為隋文帝所害,并其子忠誠公靖智、弟靖仁等,國除。
○周13武帝諸子伝
 曹王允,字乾仕。初封曹國公。建德三年,進爵為王。道王充,字乾仁。建德六年,封王。蔡王兌,字乾俊。建德六年,封王。荊王元,字乾儀。宣政元年,封王。元及兌、充、允等竝為隋文帝所害,國除。
○周13宣帝諸子伝
 鄴(萊)王衎,大象二年,封王。郢王術,大象二年,封王。與衎並為隋文帝所害,國除。
○隋42李徳林伝
 初,將受禪,虞慶則勸高祖盡滅宇文氏,高熲、楊惠亦依違從之。唯德林固爭,以為不可。高祖作色怒云:「君讀書人,不足平章此事。」於是遂盡誅之。自是品位不加,出於高、虞之下,唯依班例授上儀同,進爵為子。
○隋68宇文愷伝
 及踐阼,誅宇文氏,愷初亦在殺中,以其與周本別,兄忻有功於國,使人馳赦之,僅而得免。

 ⑴宇文貞…字は乾雅。北周の明帝の第二子で、畢王賢の弟。初め酆国公とされ、建徳三年(574)に爵位を王に進められた。579年、大冢宰とされた。579年(3)参照。
 ⑵宇文寔…明帝の第三子。字は乾弁。早死にした宇文震(宇文泰の第二子)の跡を継いで宋国公とされ、建徳三年(574)に爵位を王に進められた。580年に大前疑とされた。580年(7)参照。
 ⑶宇文賛…字は乾依。北周の武帝の第二子で、天元帝の同母弟。母は李氏。才能に欠けており、帝が太子時代に廃されそうになった時ですら後任候補から外された。譙王倹が益州総管だった時(570~575年)、益州刺史を務めた。580年、帝が死ぬと上柱国・右大丞相とされた。この時、左大丞相の普六茹堅に「今は帝が崩御したばかりで、人心が動揺している所なので、一旦屋敷にお帰りになり、人心が落ち着いたのを見計らって皇宮に入り、天子となるのが宜しいでしょう」と言われたのを鵜呑みにし、皇宮から離れた。間もなく太師とされた。580年(7)参照。
 ⑷宇文贄…字は乾信。母は厙汗姫。北周の武帝の第三子。秦国公とされ、574年に王とされた。武帝に可愛がられた。烏丸軌(王軌)は事あるごとに太子贇(のちの天元帝)を廃して贄を立てるよう求めたが、幼いことを以て実現しなかった。580年、楊堅が丞相となると上柱国・大冢宰とされた。580年、大右弼とされた。580年(7)参照。
 ⑸宇文氏は北周建国の際に元氏は殺さなかったが、北斉を滅ぼした際に高氏を殆ど殺した。そのたった4年後に宇文氏も同じ運命を辿ることとなった。ただ、楊氏も618~619年に族滅される事となる。

●楊広の登場
 辛未(20日)、異母弟で柱国の同安公爽を雍州牧・領左右将軍とした。
 爽(生年563、時に19歳)は字を師仁、幼名を明達という。帝の異母弟(22歳差)で、母は李氏。美男で、才能と度量に優れていた。北周の代に、父の楊忠の軍功によって赤子の身でありながら同安郡公とされた。六歲の時(568年)に忠が亡くなると、帝の妻の独孤伽羅のもとで養育され、これが縁で帝の弟たちの中で特に寵愛を受けるようになった。十七歳の時(579年)に内史上士とされた。
 帝が宰相となると(580年)大将軍・秦州総管とされたが、赴任する前に蒲州(河東。尉遅迥対策か)刺史とされ、柱国とされた。

 乙亥(24日)、同母弟で上柱国の邵公慧を滕王とし、異母弟で柱国の同安公爽を衛王とし、子の雁門公広を晋王とし、楊俊を秦王とし、楊秀を越王とし、楊諒を漢王とした。
 広(生年569、時に13歳)はまたの名を英といい、幼名を阿〔麻+女〕といい、帝の第二子である。母は皇后の独孤伽羅。美男で幼少の頃から利発だったため、子どもたちの中で特に両親から可愛がられた。北周の代に父の勲功によって雁門郡公とされた。
 俊は字を阿祗といい、帝の第三子である。母は独孤伽羅
 秀は帝の第四子である。母は独孤伽羅
 諒は字を徳章といい、またの名を傑といい、帝の第五子である。母は独孤伽羅

○隋文帝紀
 辛未,以皇弟同安郡公爽為雍州牧。乙亥,封皇弟邵國公慧為滕王,同安公爽為衞王;皇子雁門公廣為晉王,俊為秦王,秀為越王,諒為漢王。
○隋煬帝紀
 煬皇帝諱廣,一名英,小字阿𡡉,高祖第二子也。母曰文獻獨孤皇后。上美姿儀,少敏慧,高祖及后於諸子中特所鍾愛。在周,以高祖勳,封雁門郡公。開皇元年,立為晉王,拜柱國、并州總管,時年十三。
○隋44滕穆王瓚伝
 進位上柱國、邵國公。瓚見高祖執政,羣情未一,恐為家禍,陰有圖高祖之計,高祖每優容之。及受禪,立為滕王。後拜雍州牧。
○隋44・北71衛昭王爽伝
 衞昭王爽字師仁,小字明達,高祖異母弟也。周世,在襁褓中,以太祖軍功,封同安郡公。六歲而太祖崩,為獻皇后之所鞠養,由是高祖於諸弟中特寵愛之。十七為內史上士(大夫)。高祖執政,拜大將軍、秦州總管。未之官,轉授蒲州刺史,進位柱國。及受禪,立為衞王〔,所生李氏為太妃〕。尋遷雍州牧,領左右將軍。…爽美風儀,有器局。
○隋45秦孝王俊伝
 秦孝王俊字阿祗,高祖第三子也。開皇元年立為秦王。
○隋45庶人秀伝
 庶人秀,高祖第四子也。開皇元年,立為越王。
○隋45庶人諒伝
 庶人諒字德章,一名傑,開皇元年,立為漢王。

 ⑴邵公慧(瓚)…字は恒生。またの名を慧という。生年550、時に32歳。美男。楊堅の同母弟。北周の武帝の妹の順陽公主を娶った。そのうえ、教養があって、才能のある者を愛したので、世間から非常に高い評判を得、『楊三郎』(楊家の三番目の若君様)と称された。武帝も瓚に非常な親愛の情を抱いた。北斉討伐の際、長安の留守を任され、「遠く東方の討伐に向かっても、卿がいるなら西方に不安は抱かぬ」と言われた。580年、兄の堅が丞相となる前に謀議に呼ばれたが、仲が悪かったため拒否した。間もなく大将軍・大宗伯とされた。580年(7)参照。


 581年(3)に続く