●趙彦深左遷(571年11月)
 11月、北斉の〔秘書監の〕祖珽が〔女侍中の〕陸令萱を説得して協力を取り付け、〔侍中・〕司空〔・宜陽王〕の趙彦深と〔開府・山陽王の〕綦連猛琅邪王儼に肩入れしていたという罪で西兗州(済陰)刺史と光州(《北史》では定州)刺史とし、即日出立させた。北斉は代わりに武興王普を司空とし、珽を侍中とした。

 綦連猛は武将の中で最も悪事を憎み、時折政治について優れた意見を言った。趙彦深はこの点を評価し、和士開が死んだのち、猛を朝政に次第に参与させ、何か難題が持ち上がると意見を求めていた。
 この年、このような童歌が流行っていた。
「七月、禾()を刈る。早きを傷む。九月、餻(粉餅)を喫()む。未だ好()からず。十月、飯甕(飯釜)を洗蕩(洗浄)す。十一月、趙老を出却す。本は山を尋()ねて虎を射んと欲するも、激箭旁()らの趙老に中()たる。」
 この歌の通り、七月に和()士開が誅殺され、九月に琅邪王高()儼が殺され、〔十月に胡太后飯甕は母の隠喩?)が監禁され、〕十一月に猛(字は虎児)と彦深(時に65歳)が追放されたのだった(十月は謎)。
 猛が牛蘭()に到った時、ある者が突然朝廷にこう訴えた。
「猛は士開が殺されるのを事前に知っていました。」
 そこで朝廷は猛を呼び戻して拘禁し、家族をみな官奴としたが、間もなく釈放し、王爵を剥奪し、ただ開府の身分を以て州に赴任させた。猛は州にて清く思いやりのある政治を行ない、官民から称賛を受けた。

 祖珽趙彦深を失脚させる際、吏部尚書の段孝言の助けを借りた。孝言はこの功により兼侍中とされ、宮中に入って機密に携わった。間もなく正侍中とされ、吏部尚書を兼任した。
 孝言は人の才能を見抜く目が無く、不公平で、抜擢した者たちは大体賄賂を贈ってきた者か、仲良しの者かのどちらかだった。将作丞の崔成はこれに憤慨し、あるとき公衆の面前で突然孝言にこう言った。
「尚書は天下の尚書であって、段家の尚書ではありません!」
 孝言は激怒したが反論できず、結局、ただ人に命じて成をその場からつまみ出すことしかできなかった。間もなく中書監とされ、特進を加えられた。

 また、この時、黄門侍郎で彦深の腹心の宋士素も東郡守とされたが、中書侍郎の李徳林が珽に働きかけたおかげで再び黄門侍郎とされ、徳林と共に機密に参与した(571年〈3〉参照)。

○北斉14武興王普伝
 武平二年,累遷司空。
○北斉16・北54段孝言伝
 祖珽執政,將廢趙彥深,引孝言為助。除兼侍中,入內省,典機密,尋即正,仍吏部尚書。孝言既無深鑒,又待物不平,抽擢之徒,非賄則舊。有將作丞崔成,忽於眾中抗言曰:「尚書天下尚書,豈獨段家尚書也!」孝言無辭以答,惟厲色遣下而已。尋除中書監,加特進。
○北斉38趙彦深伝
 武平二年拜司空,為祖珽所間,出為西兗州刺史。
○北斉39祖珽伝
 和士開死後,仍說陸媼出彥深,以珽為侍中。
○北斉41・北53綦連猛伝
 猛自和士開死後,漸預朝政,疑議與奪,咸亦咨稟。趙彥深以猛武將之中,頗疾姦佞,言議時有可采,故引知機事。祖珽既出彥深,以猛為趙之黨與,乃除光州刺史(祖珽奏言猛與彥深前推琅邪王,事有意故。於是出猛為定州刺史,彥深為西兗州刺史)。〔即日首途。先是,謠曰:「七月刈禾,太早,九月噉餻,未好,本欲尋山射虎,激箭旁中趙老。」至是,其言乃驗。猛〕已發至牛蘭,忽有人告和士開被害日(時),猛亦知情,遂被追止。還,入內禁留,簿錄家口。尋見釋,削王爵,止以開府赴州。在任寬惠清慎,吏民稱之。
○北斉47宋士素伝
〔宋遊道…子…〕士素沉密少言,有才識。稍遷中書舍人。趙彥深引入內省,參典機密,歷中書、黃門侍郎,遷儀同三司、散騎常侍,常領黃門侍郎。自處機要近二十年,周慎溫恭,甚為彥深所重。初祖珽知朝政,出彥深為刺史。珽奏以士素為東郡守,中書侍郎李德林白珽留之,由是還除黃門侍郎,共參機密。
○隋五行志言咎
 是歲,又有童謠曰:「七月刈禾傷早,九月喫餻正好。十月洗蕩飯甕,十一月出却趙老。」七月士開被誅,九月琅邪王遇害,十一月趙彥深出為西兗州刺史。

 ⑴綦連猛…字は虎児。怪力の持ち主で、弓・馬の扱いに長けた。爾朱栄に親信とされ、爾朱氏に忠義を尽くした。爾朱氏が滅ぼされると高歓に仕えた。のち、中外府帳内都督→東秦州刺史→武衛将軍→武衛大将軍→領左右大将軍などを歴任し、禁軍を率いて数々の戦いに活躍した。北周が晋陽に攻めてくるとその勇将と一騎討ちをして勝利した。後主が即位すると右衛大将軍とされ、常に後主の傍に近侍し、朝廷内外の機密に関与した。567年に中領軍、568年に領軍将軍、569年に并省尚書左僕射、のち并省尚書令・領軍大将軍・山陽王とされた。
 ⑵武興王普…字は徳広。平秦王帰彦の兄の高帰義の子。温和で心が広かった。九歲の時に帰彦と共に河州より入洛し、武成帝(上皇)兄弟と生活を共にした。天保の初年(550)に武興郡王に封ぜられた。564年の3月に〔兼?〕尚書左僕射とされ、北周が洛陽に攻めてくると迎撃のため河陽まで赴いた。566~567年、尚書令とされた。
 ⑶段孝言…左丞相の段韶の弟。容姿が整っていて、若年の頃から頭が良かった。親や兄の勲功と帝室との血縁関係によって出世し、中書黄門侍郎とされ、機密に携わった。更に秘書監・度支尚書・清都尹を歴任し、儀同三司とされた。高官となると増長し、度を過ぎた贅沢や無法な振る舞いをするようになり、これらが全て発覚すると、中央から追放され、海州刺史とされた。間もなく段韶に忖度した朝廷によって中央に呼び戻され、都官尚書・食陽城郡幹・開府とされた。のち太常卿とされ、斉州刺史とされると贓賄の罪で御史から弾劾を受けたが、ちょうど上皇が崩御すると(568年)赦免された。のち太常卿・食河南郡幹とされ、吏部尚書とされた。
 ⑷宋士素…御史中尉の宋遊道の子。無口で才知と識見があった。次第に昇進して中書舍人となり、彦深に抜擢されて宮中に入り、機密事項に関与した。中書侍郎、黄門侍郎、儀同三司、散騎常侍を歴任し、常に黄門侍郎を兼任した。二十年近くに亘って要職に在ったが、図に乗る事が無く常に温和・謙虚であったため、彦深に非常に重用された。
 ⑸李徳林…字は公輔。生年532、時に40歳。博陵安平の人。祖父は湖州戸曹従事、父は太学博士。美男。幼い頃から聡明で書物を読み漁り、文才に優れた。高隆之から「天下の偉器」、魏収から「文才はいつか温子昇に次ぐようになる」と評され、いつか宰相になるということで収から公輔の字を授けられた。話術にも長けた。560年頃から次第に中央の機密に関わるようになり、565年には詔の作製にも携わるようになった。母が亡くなると悲しみの余り熱病に罹り、全身にできものができたが、すぐに平癒した。のち中書侍郎とされた。

●保太后と国師(572年2月)
572年2月辛巳(9日)、并省吏部尚書の高元海を尚書右(通鑑は『左』)僕射とした。
元海が再び任用されたのは、後妻が〔女侍中の〕陸令萱の姪だったからであった。
 庚寅(18日)、北斉が尚書左僕射の唐邕を尚書令とし、侍中の祖珽を左僕射とした。
 珽は元海と共に朝政を取り仕切った。


 これより前、胡太后が北宮に幽閉されたのち、祖珽陸令萱を太后にしようと考え、北魏の保太后の故事をあちこちに宣伝して回った。また、こう言った。
「太姫(陸令萱)は女性であるのに、傑出した才智を備えていらっしゃる。まさに、女媧(神話の女神)以来とんと見かけなかった女傑である。」
 令萱も珽を尊重し、『国師』と呼んだり『国宝』と呼んだりした。このため、珽は左僕射とされたのだった。
 珽は燕郡公とされ、太原郡に食幹(食邑)を与えられ、〔護衛〕兵七十人も与えられた。珽は義井坊(北魏の洛陽では宮城の近東南にあった)にある自分の住居の隣家を打ち壊して増築を行なった。令萱はその屋敷の中を見物して回った(572年〈1〉参照

○北斉後主紀
 二月…辛巳,以并省吏部尚書高元海為尚書右僕射。庚寅,以左僕射唐邕為尚書令,侍中祖珽為左僕射。
○北斉14高元海伝
 元海後妻,陸太姬甥也,故尋被追任使。武平中,與祖珽共執朝政。
○北斉39祖珽伝
 又太后之被幽也,珽欲以陸媼為太后,撰魏帝皇太后故事,為太姬言之。謂人曰:「太姬雖云婦人,寔是雄傑,女媧已來無有也。」太姬亦稱珽為國師、國寶。由是拜尚書左僕射,監國史,加特進,入文林館,總監撰書,封燕郡公,食太原郡幹,給兵七十人。所住宅在義井坊,旁拓隣居,大事修築,陸媼自往案行。

 ⑴高元海…高歓の甥の子。かつて林慮山に引きこもり、二年に渡って仏典の研究に打ち込んだが、結局諦めて俗界に復帰した。知恵者を自認した。武芸に通じておらず軟弱者と言われていたが、柔然征伐の際に文宣帝が奇襲を受けると、奮戦して危機から救った。560年、孝昭帝のクーデターに協力し、鄴の留守を任された。帝が死ぬと武成帝の即位に貢献し、宰相とされた。のち、平秦王帰彦の追放に貢献した。563年、和士開と対立し、兗州刺史に左遷された。
 ⑵陸令萱…母は元氏。駱超の妻で、駱提婆の母。夫が謀叛の罪で誅殺されると後宮の下女とされた。頭の回転が早く、あらゆる手を使って胡太后に取り入り、後主が産まれるとその養育を任された。やがて後主の信頼を勝ち取り、後宮内で非常な権勢を誇るようになった。後主が弘徳夫人を寵愛するようになるとこれに近付き、自分の養女とした。去年、琅邪王儼がクーデターを起こした時、標的の一人に挙げられた。
 ⑶唐邕…字は道和。記憶力抜群の能吏。中央以外の歩兵の維持管理を任された。文宣帝に『唐邕の敏腕は千人に匹敵する』『判断力・記憶力に優れ、軍務を処理する際、文書を書くこと、命令を言うこと、報告を聞くことを同時に行なうことができる。天下の奇才』『金城湯池』と評された。北周軍が晋陽に迫ると、臨機応変に対応して瞬時に兵馬を集結させた。568年、右僕射とされたが、569年12月頃に人を冤罪に陥れた罪で除名された。のち復帰を許され、570年に右僕射とされた。去年、左僕射とされた。
 ⑷保太后…北魏の太武帝が425年に保母(乳母)の竇氏を保太后とし、432年に皇太后とした。また、文成帝も452年に保母の常氏を保太后とし、453年に皇太后とした。

●文林館(572年)
 後主は俗物どもを溺愛していたが、風雅を愛する心もあった。帝は詩作を好み、幼い時に詩賦を詠んだ時、人にこう語って言った。
「自分は死ぬまでに詩賦の道を極めることができるだろうか?」
 帝は成長してもこの志をいささか心に留めており、最初の屏風には、通直郎で蘭陵の人の蕭放字は希逸。梁の定襄侯祗の子)と晋陵の人の王孝式に選ばせたいにしえの名賢・烈士と近代の軽艶な諸詩を題材とした絵で満たし、愛用した。のち、更に斉州録事参軍の蕭愨字は仁祖。梁の上黄侯曄の子)と趙州功曹参軍で琅邪の人の顔之推を呼んで書物の編纂に当たらせた。二人は覇朝時代(東魏)の前例に倣い、『館客』と呼ばれた。放と之推はこの館客の制度を更に拡大したいと考えた。祖珽は宰相となると之推を重用し、帝お気に入りの宦官の鄧長顒を介して帝の心を少しずつ文学に向かわせた。
 この年、珽が文林館の設置を提案し、許可された。珽は監国史・特進とされ、文林館に入って書物編纂の監修をするよう命ぜられた。文林館には崔季舒封孝琰など多数の文学の士が集められ、彼らは『待詔』と呼ばれた。総判館事には侍書の張景仁、判館事には中書侍郎で博陵の人の李徳林と黄門侍郎の之推が選ばれた。之推は判署文書(文書管理官)にも任ぜられた。

 季舒はもともと学問が好きだったが、晩年になると一層熱を入れるようになった。また、同時に人材の発掘や文学(あるいは学問)の発展に努めたので、天下の人々から称賛を受けた。

 孝琰は文才はそこまで高くなかったが、風流で、談謔(ユーモア)に富み、立ち居振る舞いに趣があったため、人々から慕われた。

 景仁が総判館事に選ばれたのは鄧長顒が帝の意を汲んで上奏した結果だった。また、このとき、景仁は侍中とされた。

 之推は聡明博識で、文章の才能と弁論の才能に優れていたため、祖珽から非常な重用を受けた。之推は間もなく通直散騎常侍・領中書舍人とされた。帝は文書を求める際、常に使者を通じて判署文書(文書管理官)の之推にその事を伝え、館内の者全てをその指示に従わせた。之推は〔文書を得ると(文書は作成する際、控えを作って保管しておく)これに〕封印をしたのち、進賢門より文書を献上し、返事を得るとようやく帰途に就いた。また、文字(漢字)に堪能で、文書の繕写(文書を後世に残すため、破損部を補修したり、筆写・校正して正確な写本を作ったりすること)の作業を素早く終わらせていったので、文書管理官に適任な人物だと称賛された。帝は之推を非常に厚遇し、その待遇は時が経つにつれてよりいっそう手厚いものとなった。

 待詔文林の中には、浅学なのに親が偉いということだけで採用された者たちが三、四割もいた。之推はもともと真に能力のある者たちだけを集めようと考えていたが、権力者におもねった陽休之によって押し切られた。
 休之の子の陽辟彊字は君大)はぞんざいな性格で無芸無才といい所が一つも無かったのに、休之はこれを文林館に入れたので、人々から嘲笑の対象となった。
 一応、北斉国内の文人という文人は殆ど集められたが、選ばれなかった広平の宋孝王、信都の劉善経ら数人の才能や人格は、縁故採用の者たちより優れていた。ただ、国内の文人たちが一堂に会する組織が作られたのは、まさしく一代の盛事であった(572年〈1〉参照

○北斉後主紀
〔武平四年二月〕丙午,置文林館。
○隋42李徳林伝
 尋除中書侍郎,仍詔修國史。齊主留情文雅,召入文林館。又令與黃門侍郎顏之推二人同判文林館事。
○北斉21封孝琰伝
 祖珽輔政,又奏令入文林館,撰御覽。孝琰文筆不高,但以風流自立,善於談謔,威儀閑雅,容止進退,人皆慕之。
○北斉39崔季舒伝
 待詔文林館,監撰御覽。加特進、監國史。季舒素好圖籍,暮年轉更精勤,兼推薦人士,奬勸文學,時議翕然,遠近稱美。
○北斉42・北47陽休之伝
 及鄧長顒、顏之推奏立文林館,之推本意不欲令耆舊貴人居之,休之便相附會,與少年朝請、參軍之徒同入待詔。〔…子辟彊,字君大,性疏脫,又無藝,休之亦引入文林館,為時人所嗤鄙。
○北斉44・北81張景仁伝
 及立文林館,中人鄧長顒希旨,奏令總制(判)館事,除侍中。
○北斉45文苑伝
 後主雖溺於羣小,然頗好諷詠(詠詩),幼稚時,曾讀詩賦,語人云:「終有解作此理不?」及長亦少留意。初因畫屏風,敕通直郎蘭陵蕭放及晉陵王孝式錄古名賢烈士及近代輕豔諸詩以充圖畫,帝彌重之。後復追齊州錄事參軍蕭愨、趙州功曹參軍顏之推同入撰次(),猶依霸朝,謂之館客。放及之推意欲更廣其事,又祖珽輔政,愛重之推,又託鄧長顒漸說後主,屬意斯文。三年,祖珽奏立文林館,於是更召引文學士,謂之待詔文林館焉。…凡此諸人,亦有文學膚淺,附會親識,妄相推薦者十三四焉。雖然,當時操筆之徒,搜求略盡。其外如廣平宋孝王、信都劉善經輩三數人,論其才性,入館諸賢亦十三四不逮之也。待詔文林,亦是一時盛事,故存錄其姓名。
○北斉45・北83顔之推伝
 河清末,被舉為趙州功曹參軍,尋待詔文林館,除司徒錄事參軍。之推聰穎機悟,博識有才辯,工尺牘,應對閑明,大為祖珽所重,令掌知館事,判署文書。尋遷通直散騎常侍,俄領中書舍人。帝時有取索,恒令中使傳旨,之推稟承宣告,館中皆受進止。所進文章(),皆是其封署,於進賢門奏之,待報方出。兼善於文字,監校繕寫,處事勤敏,號為稱職。帝甚加恩接,顧遇逾厚。

 ⑴顔之推…字は介。名門琅邪顔氏の出身で名文家。生年531、時に42歳。祖父の代に没落し、父が亡くなると更に苦境に立った。早くに梁の湘東王繹(元帝)に仕え、文才を以て名を知られた。侯景の乱が起こると郢州において捕らえられたが、間もなく建康にて救出された。元帝が即位すると中書舎人とされたが、554年、西魏の江陵攻略に遭遇し、関中に拉致された。間もなく北斉に亡命し、文宣帝に重用された。
 ⑵この年…北斉後主紀では来年の2月の事となっているが、文苑伝序には今年の事となっている。また、文苑伝序には『祖珽奏立文林館,…珽又奏撰御覽』とあり、この記述を信じれば開館は今年2月の事となる。また、張景仁伝には『及立文林館,…奏令總制館事,除侍中。四年,封建安王』とある。来年開館だと記述に齟齬が生じる。
 ⑶崔季舒…字は叔正。名門博陵崔氏の出。読書家で、事務仕事に長けた。また、音楽や女色を好んだ。東魏の丞相の高澄の腹心。澄の意を汲んで崔暹と共に勲貴を弾圧した。澄が奴隷に殺された時その場にいたが、助けることなく逃亡した。のち勲貴の反撃に遭い、暹と共に流刑に遭ったが、のち文宣帝に赦され、重用を受けた。帝の死後は不遇をかこったが、武成帝が即位すると、過去に病気を治療した縁を以て重用を受け、度支尚書・開府儀同三司とされた。のち胡長仁に讒言されて西兗州刺史→膠州刺史とされた。帝の死後中央に復帰し、侍中・待詔文林館とされ、御覧の編纂に関わった。のち特進・監国史とされた。学問を好み、その発展に力を尽くしたため、大いに称賛を受けた。
 ⑷封孝琰…字は士光。生年523、時に50歳。功臣の封隆之の甥。美男で、非常に高慢な性格。562年に陳に派遣されたが、そこで魏収の犯罪に加担したことで除名処分とされた。567年、并省吏部郎中・南陽王友とされ、晋陽にて機密を掌った。のち、和士開と対立して閑職に追いやられた。士開の死後、兼尚書左丞とされると、後主の意向に沿った弾劾を行ない、曇献を死に追い込んだことが評価されて正式な尚書左丞とされた。帝の重用を受けるとますます高慢になり、動作はみな勿体ぶり、頭は一切下げないようになった。のち、副使として北周に赴いた。
 ⑸張景仁…済北の人。幼くして父を喪い、貧困の中で育ったが、字の練習に勤しんで達筆となり、それと誠実な人となりを評価されて武成帝の時に太子緯の侍書(書記)とされた。緯に慎み深い人柄を愛され、博士と呼ばれた。緯が即位して後主となったのちも変わらずに話し相手とされ、博士と呼ばれた。後主のお気に入りの胡人の何洪珍と婚姻関係を結び、その口添えを得て更に重用されるようになった。病気がちで、病気になるたびに後主から手厚い配慮を受けた。

●御覧編纂(572年2月)
 この月後主が勅を下し、祖珽・特進の魏収・太子太師の徐之才・中書令の崔劼・散騎常侍の張雕虎・中書監の陽休之〔・通直散騎常侍の封孝琰・侍中の〕らに類書(多くの書物からジャンルごとに抜き書きしてまとめたもの)の『玄洲苑御覧』の編纂を命じた。のちに書名を『聖寿堂御覧』に改めた572年〈1〉参照

○北斉後主紀
 是月,勑撰玄洲苑御覽,後改名聖壽堂御覽。
○北斉21封孝琰伝
 祖珽輔政,又奏令入文林館,撰御覽。
○北斉45文苑伝
 珽又奏撰御覽,詔珽及特進魏收、太子太師徐之才、中書令崔劼、散騎常侍張雕、中書監陽休之監撰。

 ⑴魏収…字は伯起。生年507、時に66歳。温子昇や邢子才に並ぶ名文家。鉅鹿魏氏の出で、驃騎大将軍の魏子建の子。頭脳明晰で非常に優れた文章を書いたが、人格に問題があった。初め騎射を習ったが、のち文事に勤しむようになった。中書令などを務めた。551~554年に亘って魏書を編纂したが、記述に問題があり『穢史』と糾弾された。557年、太子少傅とされた。563年、年齢の詐称を見過ごしたかどで除名処分となった。のち、上皇が亡くなる(568年)前に開府・中書監とされた。569年に右僕射とされ、のち特進とされた。
 ⑵徐之才…字は士茂。生年493(或いは505)、時に80(或いは68)歳。幼い頃から利発で、神童と称された。口が達者で、父と同じく医術を得意とした。また、天文の事象や預言書に精通した。梁の豫章王綜に仕えたが、525年に綜が徐州から脱走して北魏に亡命すると、その混乱に巻き込まれて北魏に捕らえられ、そのままその臣下となった。その後は溢れる才技によって人気の的になり、東魏の丞相となった高歓からも非常な礼遇を受けた。のち秘書監とされたが、南人という理由で魏収と交代させられた。のち、高洋に多くの証例を持ち出して禅譲を受けるように勧め、洋が即位して文宣帝となると重用を受けた。帝が暴君となると危険を感じ、地方勤務を志願して趙州刺史とされた。561年に西兗州刺史とされ、赴任前に婁太后が病気となると、これを治して多くの賞賜を受けた。567年に尚書右僕射、568年に左僕射とされた。上皇が病気になるとこれを治療し、重用された。のち和士開に疎まれて兗州刺史に左遷されたが、569年の冬に鄴に呼び戻され、570年に左僕射、571年に尚書令・西陽王とされた。
 ⑶崔劼…字は彦玄。名門清河崔氏の出で、北魏の名臣の崔光の子。清廉・謹慎の人。541年、使者として梁に赴いた。北斉が建国されると給事黄門侍郎・国子祭酒とされ、文宣帝に気に入られた。のち南青州刺史とされ、皇建年間(560~561)に秘書監とされ、た。のち、鴻臚卿→并省度支尚書→五兵尚書とされ、武成帝の譲位を諌めて南兗州刺史に左遷された。のち度支尚書→中書令とされた。
 ⑷張雕虎…生年519、時に54歳。中山北平の大学者。美男で能弁。貧賎の家に生まれたが、強い向上心を以て学問に打ち込み、五経と春秋三伝に精通した。、彼らはみなその能弁さに感服した。高歓の子どもたちの教師とされ、文宣帝が崩御すると葬儀を司った。乾明(560)の初めに国子博士とされ、のち平原太守とされたが、贓賄の罪で免官となった。のち琅邪王儼(後主の同母弟)の教師とされた。後主の侍講の馬敬徳が亡くなると代わりに授業を行ない、非常に気に入られて侍読とされ、侍書の張景仁と同等の手厚い待遇を与えられ、『二張博士』と呼ばれた。のちに国子祭酒・仮儀同三司・待詔文林館とされた。のち帝の大のお気に入りの胡人の何洪珍に近づき、その助言者となった。のち監国史・侍中・開府・奏度支事とされて重用を受け、発言の多くが聞き入れられ、特別に『奏事不趨』の権利と公式の場で『博士』と呼ばれる権利を与えられた。
 ⑸陽休之…字は子烈。生年509、時に64歳。北平陽氏の出で、名文家の陽固の子。博学で、典雅純正な文章を書いた。賀抜勝と共に梁に亡命したが、のち袂を分かって東魏に属した。石にあった『六王三川』の字の解釈を高歓に行なった。武定七年(549)に給事黄門侍郎とされたが、文宣帝が東魏に禅譲を迫る際、生来のおしゃべりを発揮して計画を鄴中に漏らしてしまったことで一時左遷された。政治の才能に優れ、中山太守や西兗州刺史を務めると住民に慕われ、孝昭帝が即位すると才能を買われて相談役となった。天統元年(565)に光禄卿・監国史とされ、間もなく吏部尚書とされた。570年、中書監→兼尚書右僕射とされた。571年、兼中書監とされた。
 ⑹後主紀の8月の条に『聖寿堂御覧が完成した。のちに修文殿御覧に名を改めた』とある。また、新唐書経籍志の「類書(多くの書物からジャンルごとに抜き書きしてまとめたもの)類」の項に、『祖孝徵等修文殿御覧三百六十卷』とある。

●思い出せない事
 祖孝徴祖珽)・魏収・陽休之らがある時、昔の事について論じて、思い出せない事があり、書物を読んでも見つからない事があった。孝徴らがそこで待詔文林館の王劭を呼び出してどこに載っているか尋ねると、劭はこの本のこの箇所に〇〇と書かれていますと詳しく答えた。孝徴らがその本を手に取って調べてみると、全くその通りだった。これ以降、劭は人々から一目も二目も置かれるようになり、博識さを称賛された。

○隋69王劭伝
 時祖孝徵、魏收、陽休之等嘗論古事,有所遺忘,討閱不能得,因呼劭問之。劭具論所出,取書驗之,一無舛誤。自是大為時人所許,稱其博物。

●徐之才の死(572年6月)
 これより前、祖珽が執政となると、尚書令・特進・驃騎大将軍・開府儀同三司・兗州大中正・食高平郡幹・池陽県開国伯・安定県開国子・西陽王の徐之才は尚書令から侍中・太子太師に〔降格〕された(恐らく今年の2月18日頃)。すると之才はこう恨み言を言った。
「子野(盲目の琴の名手・師曠の字)がわしを除け者にしおった。」
 師曠になぞらえたのは、珽が盲目だったためであった。
 6月、甲戌(4日)、之才が清風里の邸宅にて逝去した(享年80、或いは68)。使持節・都督兗斉徐三州諸軍事・兗州刺史・録尚書事・司徒を追贈し、将軍・開府・王はそのままとした。また、文明と諡した(572年〈3〉参照

○北斉33・北90徐之才伝
 祖珽執政,除之才侍中、太子太師。之才恨曰:「子野沙汰我。」珽目疾,故以師曠比之。…年八十,卒。贈司徒公、錄尚書事,諡曰文明。
○西陽王徐君誌銘
 武平三年歲次壬辰六月辛未朔四日甲戌,遘疾薨于清風里第,春秋六十八。…故太子太師侍中特進驃騎大將軍開府儀同三司兖州大中正食高平郡幹池陽縣開國伯安定縣開國子西陽王徐之才,…廉誠效節,歷奉六君:春煦秋凄,年移三紀。…可贈使持節都督兖齊徐三州諸軍事兖州刺史録尚書事司徒,□將軍開國王如故,禮也。

●北斉の社交界
 この時、北斉の高官の常連には邢子才・魏収・陽休之・崔劼・徐之才・許季良らがいて、経典・史書の内容について談義したり、詩賦を詠んだり、〔高度な〕からかいをしたりして楽しんだ。しかし、その中で許季良のみ、劇談素早い切り返しを楽しむ会話が苦手で、教養も無かったため、最後まで一言も発しなかったり、机に寄りかかって眠っていたりしたので、名士たちから非常に軽蔑された(572年〈3〉参照

○北斉43許惇伝
 歷官清顯,與邢卲、魏收、陽休之、崔劼、徐之才之徒比肩同列,諸人或談說經史,或吟詠詩賦,更相嘲戲,欣笑滿堂,惇不解(好)劇談,又無學術,或竟坐杜口,或隱几而睡,深為勝流所輕。

 ⑴邢子才…本名は卲といい、子才は字。496?~?。河間邢氏の出。温子昇や魏収と並ぶ名文家。頭が良く記憶力に優れ、万余言を暗誦することができ、王粲に比せられた。また、速読ができ、漢書を五日で読破した。李神儁に気に入られ、忘年の交わりを結んだ。文章を書けば写す人が続出し、瞬く間に遠近に膾炙した。西兗州刺史や太常卿・兼中書監・国子祭酒を務めた。
 ⑵許季良…本名は惇といい、季良は字。高陽許氏の出。父は〔北〕魏の高陽・章武二郡太守。高い見識を持ち、頭の回転が速かった。行政手腕に優れて司徒主簿とされると思い切りのいい判断で『入鉄主簿』と呼ばれ、陽平太守とされると天下第一の治績を挙げた。のち大司農とされ、王思政討伐の際には補給を担当し、最後まで兵糧を途絶えさせなかった。また、水攻めの提案も行なった。帯まで届く長く美しいひげを備え、人々から『長鬣公』と呼ばれたが、文宣帝に一握り分だけを残して刀で切り取られると、以後、敢えてひげを伸ばさず、『斉鬚公』と呼ばれた。のち次第に昇進して尚書右僕射(571~572?)→特進とされた。若年の頃は純朴で正直だったが、晚年になると軽薄になった。邢子才と中正の座を争った際、権力者の宋欽道に擦り寄って中正の座を勝ち取った。


 祖珽伝(4)に続く