[北周:大象二年 陳:太建十二年 後梁:天保十八年]
 
●二教解禁
 庚申(6月6日)、北周が仏・道二教の禁令(574年5月参照)を解き、もと僧侶・道士のうち、まだ信仰を堅く守っている者がいれば、選別して再び僧侶や道士とした。

 辛酉(7日)、柱国の𣏌公椿、燕国公の万紐于寔于寔、郜国公の賀抜伏恩をみな上柱国とした。

 壬戌(8日)、建康にて強風が吹き荒れ、皐門(宮城の正面のいちばん外にある大きな門)の中闥(中門?)を破壊した。

○周静帝紀
 壬子,以上柱國、鄖國公韋孝寬為相州總管。罷入市稅錢。六月戊午,以柱國許國公宇文善、神武公竇毅、修武公侯莫陳瓊、大安公閻慶竝為上柱國。趙王招、陳王純、越王盛、代王達、滕王逌來朝。庚申,復行佛、道二教,舊沙門、道士精誠自守者,簡令入道。辛酉,以柱國𣏌國公椿、燕國公于寔、郜國公賀拔伏恩竝為上柱國。
○陳宣帝紀
 六月壬戌,大風壞皐門中闥。

 ⑴𣏌公椿…字は乾寿。もと永昌公。宇文導(晋公護の兄)の第四子。杞公亮の弟。保定年間(561~565)に開府儀同三司・宗師中大夫とされ、建徳元年(572)に大将軍とされた。間もなく岐州刺史とされた。575年、東伐が行なわれると斉王憲と共に武済など五城を陥とした。576年の東伐でも斉王憲と行動を共にし、鶏棲原を守備した。578年、大司寇とされた。580年、杞公亮が叛乱を起こして誅殺されると代わりに杞公とされた。580年(1)参照。
 ⑵万紐于寔(于寔)…字は賓実。柱国・太傅の万紐于謹の子。万紐于翼の兄、万紐于顗の父。温和な性格。開府儀同三司・渭州刺史を務め、555年に羌族の東念姐らの乱を平定した。北周建国後に大将軍・勲州刺史→小司寇とされ、567年に延州の郝三郎らの叛乱を平定し、延州刺史とされた。570年、父の爵位の燕国公を継ぎ、柱国とされた。571年、涼州総管とされた。575年、免官に遭った。のち復官して涼州総管とされた。575年(1)参照。
 ⑶賀抜伏恩…もと北斉の特進・開府・中領軍。572年、斛律光誅殺の際に幽州刺史の斛律羨の逮捕に赴いた。573年、陳が寿陽に攻めてくると皮景和と共に救援に赴いたが失敗した。576年、後主が晋州で大敗を喫すると北周に投降し、郜国公とされた。北周の武帝が晋陽で危機に陥ると、道案内をして脱出に貢献した。576年(5)参照。

●楊尚希逃亡
 これより前、北周は東京(洛陽)司憲中大夫の普六茹尚希楊尚希に〔もと北斉領の〕山東・河北の慰撫をさせていた。尚希が相州に到った時、天元帝の崩御の報が伝えられると、上柱国・相州()総管・蜀国公の尉遅迥は官邸にてこれを告示し、その死を悼んだ。尚希は官邸を出たのち、従者にこう言った。
「蜀公の泣き声には感情が籠っておらず、視線も定まっていなかった。きっと何か企んでいるに違いない。早くここから立ち去らないと災難が訪れるぞ。」
 かくて夜中に最短経路を通って急いで逃走した。夜明け頃になって迥はようやくこれに気づくと、数十騎に手分けして追跡させた。数十騎は駅馬が整備されている官道を通って尚希を追ったが、結局追いつくことはできなかった。尚希が長安に帰ると、仮黄鉞・左大丞相・隨国公の普六茹堅楊堅は尚希が楊氏一門の中で名声がある事と(堅は弘農楊氏では無いと思われるが)、迥を捨てて自分に付いた事を評価し、非常に手厚く遇した。
 
○隋46楊尚希伝
 東京司憲中大夫。宣帝時,令尚希撫慰山東、河北,至相州而帝崩,與相州總管尉迥發喪於館。尚希出謂左右曰:「蜀公哭不哀而視不安,將有他計。吾不去,將及於難。」遂夜中從捷徑而遁。遲明,迥方覺,分數十騎自驛路追之,不及,遂歸京師。高祖以尚希宗室之望,又背迥而至,待之甚厚。

 ⑴普六茹尚希(楊尚希)…生年534、時に47歳。名門の弘農楊氏の出で、東漢の太尉の楊震の十五世孫。幼い頃に父を喪った。十八(551)の時、釈奠(孔子などを祀る祭祀)にて《孝経》を講義した際、宇文泰に才能を認められ、普六茹氏の姓を与えられると共に、国子博士に抜擢された。のち次第に昇進して舍人上士とされ、明帝・武帝の代(557~578)に太学博士・太子宮尹・計部中大夫などを歴任した。574年、陳への使者とされた。574年(3)参照。
 ⑵天元帝…宇文贇。もと北周の四代皇帝の宣帝。字は乾伯。559~580。武帝の長子。母は李氏。品行が良くなく、酒を好み、小人物ばかりを傍に近づけ、非行を繰り返した。578年、武帝が死ぬと跡を継いで宣帝となり、斉王憲や烏丸軌ら功臣を次々と誅殺した。579年、7歳の幼子に譲位して天元帝を名乗り、一人称を『天』とすると、礼節に外れた行為を次々と繰り返した。南伐を敢行し、陳から淮南を奪取した。580年、突然病気に罹り、死去した。580年(2)参照。
 ⑶尉遅迥…字は薄居羅。宇文泰の姉の子。生年516、時に65歳。美男子。早くに父を亡くし、宇文家に引き取られて育てられた。頭脳明晰で文武に才能を発揮し、泰に非常に信任された。553年に蜀制圧という大功を立てた。558年、隴右の鎮守に赴いた。559年に蜀国公、562年に大司馬とされた。564年、洛陽攻めの総指揮官となったが、包囲が破られると数十騎を率いて殿軍を務めた。568年に太保とされ、のちに太傅とされた。572年に太師、575年に上柱国ととされた。578年、相州総管とされた。579年、大右弼→大前疑とされた。580年(2)参照。
 ⑷普六茹堅(楊堅)…幼名は那羅延。生年541、時に40歳。父は故・隨国公の楊忠。母は呂苦桃。落ち着いていて威厳があった。宇文泰に「この子の容姿は並外れている」と評され、名観相家の趙昭に「天下の君主になるべきお方だが、天下を取るには必ず大規模な誅殺を行なわないといけない」と評された。また、非常な孝行者だった。晋公護と距離を置き、憎まれた。568年に父が死ぬと跡を継いで隨国公とされた。573年、長女が太子贇(のちの宣帝)に嫁いだ。575年の北斉討伐の際には水軍三万を率いて北斉軍を河橋に破った。576年の北斉討伐の際には右三軍総管とされた。577年、任城王湝と広寧王孝珩が鄴に侵攻すると、斉王憲と共にこれを討伐した。のち定州総管とされた。577年、南兗州(亳州)総管とされた。578年、宣帝が即位すると舅ということで上柱国・大司馬とされた。579年、大後丞→大前疑とされた。580年、揚州総管とされたが、足の病気のため長安に留まった。天元帝が俄に亡くなるとその寵臣の鄭訳らに擁立されて左大丞相となった。580年(2)参照。
 
●孝寛危うし
〔これより前、北周の左大丞相の普六茹堅楊堅)は、相州総管の尉遅迥の挙兵を恐れ、迥の子の尉遅惇に詔書を持たせて、天元帝の葬式に参加するように言っていた。
 壬子(5月28日)、上柱国の宇文孝寛韋孝寛を代わりに相州総管とした。また、小司徒の叱列長叉を相州刺史として孝寛より先に鄴に赴かせた。孝寛はその後に続いて出発した。〕
 迥は堅が実権を握った事を聞くと(26日に丞相に就任)、簒奪を行なうのではないかと疑っていた。間もなく(6月4日)更に北周の五王が長安に集められた事を聞くと、激怒してこう言った。
「堅は簒奪をしようとしているため、諸王を国から離して力を削ったのだ。私は国家が滅びようとしているのを座視する事はできぬ!」
 かくて挙兵を謀り、惇を引き止めて交代の命を拒否した。
 孝寛が〔鄴の南の〕朝歌に到った時、迥は大都督の賀蘭貴に書簡を持たせ、孝寛に届けさせた。孝寛は貴を引き止めて話をし、探りを入れた結果、迥に叛心があるのではないかと疑うようになり、病気と称して速度を緩めた。また、偵察のため、薬を求めるという名目で迥のもとに人を派した。
〔朝歌の北の〕湯陰に到った時、長叉が慌てて帰ってくるのに出くわした。
 この時、孝寛の兄の子の韋芸は魏(鄴の郡)郡守を務めていた。迥はこの芸に薬を持たせて孝寛のもとに見舞いに派し、鄴に着けばすぐ引き継ぎをすると言って孝寛を鄴に誘いこもうとした。孝寛は芸に会うと迥の動静について尋ねたが、芸は迥の徒党だったため[1]、本当のことを言わなかった。孝寛が嘘に気づいて怒り、斬首しようとすると、芸は恐懼して迥が叛乱を計画していることを白状した。孝寛はそこで芸と倶に西方に遁走した。孝寛は通過した橋を全て破壊し、更に亭駅(宿場)に到るたび全ての伝馬(乗り継ぎ用の馬)を駆り立てて去った。また、駅司にこう言った。
「もうすぐ蜀公がやってくるゆえ、速やかに酒食を用意せよ。」
 果たして迥は儀同の梁子康に数百騎を与えて孝寛を追わせたが、駅に到ればご馳走攻めに遭い、更に馬が無かったため、なかなか進むことができず、追いつくことができなかった。かくて孝寛と芸は逃れることができた。
 堅は孝寛に免じて芸の罪を不問とし、上開府とした。
 
 芸は字を世文といい、若年の頃に国子学にて授業を受けた。北周の武帝の時にしばしば軍功を立てて上儀同・左旅下大夫・修武県侯(邑八百戸)とされた。のち出向となって魏郡太守とされた。
 
○隋文帝紀
 相州總管尉遲迥自以重臣宿將,志不能平,遂舉兵東夏。
○周21・北62尉遅迥伝
 迥以隋文帝當權,將圖篡奪,遂謀舉兵,留惇而不受代。
○周31韋孝寛伝
 至朝歌,迥遣大都督賀蘭貴齎書候孝寬。孝寬留貴與語以察之,疑其有變,遂稱疾徐行。又使人至相州求醫藥,密以伺之。既到湯陰,逢長义奔還。孝寬兄子魏郡守藝又棄郡南走。孝寬審訐其狀,乃馳還。所經橋道,皆令毀撤,驛馬悉擁以自隨。又勒驛將曰:「蜀公將至,可多備餚酒及芻粟以待之。」迥果遣儀同梁子康將數百騎追孝寬,驛司供設豐厚,所經之處,皆輒停留,由是不及。
○隋47韋芸伝
 藝字世文,少受業國子。周武帝時,數以軍功,致位上儀同,賜爵修武縣侯,邑八百戶。授左旅下大夫。出為魏郡太守。
 及高祖為丞相,尉迥陰圖不軌,朝廷微知之。遣藝季父孝寬馳往代迥。孝寬將至鄴,因詐病,止傳舍,從迥求藥,以察其變。迥遣藝迎孝寬。孝寬問迥所為,藝黨於迥,不以實答。孝寬怒,將斬之,藝懼,乃言迥反狀。孝寬於是將藝西遁,每至亭驛,輒盡驅傳馬而去。復謂驛司曰:「蜀公將至,宜速具酒食。」迥尋遣騎追孝寬,追人至驛,輒逢盛饌,又無馬,遂遲留不進,孝寬與藝由是得免。高祖以孝寬故,弗問藝之罪,加授上開府。
○北史演義
 六月,五王皆至長安。迥聞之,大怒曰:「堅將不利於帝室,故欲削弱諸王,先使不得有其國也。宗社將傾,吾奚忍不救!」乃謀舉兵討之。…孝寬有兄子藝為魏郡守,在迥屬下。迥使之迎孝寬,且問疾。
○南北史演義
 迥得詔書,料知堅謀篡逆,未肯應召,但遣都督賀蘭貴,往候韋孝寬。孝寬行至朝歌,與貴相遇,晤談多時,見貴目動言肆,察知有變,因稱疾徐行,且使人至相州求取醫藥,陰伺動靜。迥即令魏郡太守韋藝,持送藥物,並促孝寬蒞鎮,以便交卸。藝系孝寬兄子,與迥相善,及見孝寬,但傳述迥命,未肯實言。孝寬再三研詰,仍然不答,乃拔劍起座,竟欲斬藝,藝不覺大駭,始言迥有詭謀,不如勿往。孝寬即挈藝西走,每過亭驛,盡驅傳馬而去。且語驛司道:「蜀公將至,宜速具酒食!」驛司依言照辦。過了一日,果有數百騎到來,為首的並非尉遲迥,乃是奉迥所遣的將軍梁子康,陽言來迎孝寬,實是追襲孝寬。驛中已無快馬,只有盛饌備著,子康也是個酒肉朋友,樂得過門大嚼,聊充一飽。那孝寬叔侄,已早馳入關中去了。孝寬不謂無智,但助堅篡周,終屬非是。

 ⑴宇文孝寛(韋孝寛)…本名叔裕。生年509、時に72歳。関中の名門の出身。華北の大名士かつ智謀の士の楊侃に才能を認められ、その娘婿となった。北魏時代に政治面で優れた手腕を示し、独孤信と共に「連璧」と並び称された。のち西魏に仕え、高歓の大軍から玉壁を守り切る大殊勲を立てた。のち、江陵攻略に参加し、宇文氏の姓を賜った。556年、再び玉壁の守備を任された。561年に勲州(玉壁)刺史、564年に柱国、570年に鄖国公とされた。572年、北斉に流言を放ち、斛律光を誅殺に導いた。また、武帝に伐斉三策を進言した。577年、北斉が滅ぶと長安に帰って大司空とされ、のち延州総管・上柱国とされた。579年、徐州総管とされた。南伐の際には行軍元帥とされ、淮南の平定に成功した。今年、杞公亮の乱を平定した。580年(2)参照。
 ⑵叱列長叉…北斉の開府儀同三司・兗州刺史の叱列平の子。文学の素養は無かったが、清廉で仕事ぶりが良かった。569年に北周に使者として派遣された。武平(570~576)の末に侍中・開府儀同三司・新寧王とされた。のち北周に降伏し、上大将軍・新寧公とされた。ある時北周の武帝に「こやつは城壁の上から朕を罵った者だ」と言われ、後梁の明帝に「長叉は桀(暴君。後主)を助けることもできなかったどころか、事もあろうに堯(名君。武帝)に吠えてしまったのですな」と言われた。580年(2)参照。
 [1]魏郡守は相州総管府と同じく治鄴を治所とし、職務的に関連性があった。また、迥は帝室に忠義であったので、その味方となるのが当然だったのである。
 
●孝寛、河陽を確保す
 この時、ある者が孝寛に勧めて言った。
「洛京は〔まだ建設途上で〕守りが薄弱でありますが、河陽(洛陽の近北)の鎮防はみな関東の鮮卑人によって守られ、非常に強固であります。迥がもし我らよりも先に河陽を占拠してしまうと、非常に厄介な事になります。」
 そこで孝寛は河陽に入って守りを固めた。この時、河陽城内には北斉時代からいる鮮卑人が八百人おり、彼らはみな家族が鄴にいたため、孝寛が僅かな従者を連れてやってきたのを見ると、これを捕らえて迥に付こうとした。孝寛はこれを察知すると、密かに東京(洛陽)の役所に到って、彼らに鄴に帰らせるという偽りの命令を発し、分散して洛陽に赴かせ、餞別の品を与えた。彼らが洛陽に到ると、みな拘留して帰さなかった。かくして彼らは離ればなれになり、挙兵することができなくなった。
 
○周31韋孝寛伝
 時或勸孝寬,以為洛京虛弱,素無守備,河陽鎮防,悉是關東鮮卑,迥若先往據之,則為禍不小。乃入保河陽。河陽城內舊有鮮卑八百人,家竝在鄴,見孝寬輕來,謀欲應迥。孝寬知之,遂密造東京官司,詐稱遣行,分人詣洛陽受賜。既至洛陽,竝留不遣。因此離解,其謀不成。
 
●尉遅迥挙兵


 堅は更に候正の破六韓裒を迥のもとに派して説得させた。このとき、堅は密かに裒に迥の総管府長史の晋昶らに書簡を与えさせ、彼らと〔款を通じる事で〕有事に備えようとした。迥はこれを察知すると昶と裒を殺した。迥はここに至って配下の文武官や統治下の住民を集め、鄴城の北櫓の上からこう言った。
普六茹堅は凡庸の身であるのに、后の父という地位を笠に宰相となり、幼主に強制して己の都合のいいように天下に命令を下し、賞罰を与えた。その簒奪の意志は誰の目にも明らかである。私は帝室の親戚であり外戚であり(迥は宇文泰の姉の子で、天元帝の后の祖父)、しかも官職は将軍の任にある(迥は相州総管)のだから、まさに一心同体のようなものである。先帝(天元帝)が私をここに配したのは、もとより国家が危急となった際の頼みとするためであった。今、私は諸君と共に義勇の士を糾合し、国や民を救おうと思う。成功すれば美名を得ることができ、失敗しても臣節を全うすることができる。諸君の考えは如何!」
 人々はみな迥の言葉に感激し、命に従った。ここにおいて迥は大総管(全総管の最高司令)を自称し、便宜的に皇帝権を行使し、朝廷のような政治機関を設置した。
 
 この時、〔迥の一番近くに封国(襄国にある)がある〕趙王招は既に長安に呼びつけられていて不在だったため、迥は国に残っていたその幼子を擁立し、彼の名を用いて天下に号令を下した。
 
○周21尉遅迥伝
 隋文帝又使候正破六汗裒詣迥喻旨,密與總管府長史晉昶等書,令為之備。迥聞之,殺長史及裒。乃集文武士庶,登城北樓而令之曰:「楊堅以凡庸之才,藉后父之勢,挾幼主而令天下,威福自己,賞罰無章,不臣之迹,暴於行路。吾居將相,與國舅甥,同休共戚,義由一體。先帝處吾於此,本欲寄以安危。今欲與卿等糾合義勇,匡國庇人,進可以享榮名,退可以終臣節。卿等以為何如?」於是眾咸從命,莫不感激。乃自稱大總管,承制署置官司。于時趙王招已入朝,留少子在國,迥又奉以號令。

 ⑴趙王招…字は豆盧突。宇文泰の第七子で武帝の異母弟。母は王姫。文学を愛好し、著名な文人の庾信と布衣の交わりを結んだ。562年、柱国とされ、益州総管を570年まで務めた。572年に大司空→大司馬、574年に王・雍州牧とされた。575年の北斉討伐の際には後三軍総管とされた。576年、北斉の汾州の諸城を攻め、上柱国とされた。577年、行軍総管とされて稽胡を討伐し、皇帝の劉没鐸を捕らえた。宣帝が即位すると太師とされた。579年、突厥が婚姻を求めてくると、娘が千金公主とされてその相手とされた。間もなく趙国に赴くよう命ぜられた。580年、帝が死ぬと、挙兵を恐れた普六茹堅によって長安に呼びつけられた。580年(2)参照。
 
●討伐軍出撃
 甲子(6月10日)、堅が孝寛を行軍元帥(李徳林伝では東道元帥)とし、陰寿を監諸軍とし、郕国公の梁士彦・楽安公の拓跋諧元諧・化政公の宇文忻・濮陽公の宇文述・武鄉公の宇文弘度崔弘度・清河公の楊素・隴西公の拓抜詢李詢をみな行軍総管として関中の兵を率いさせ、迥を討たせた。
 

 また、普六茹尚希楊尚希)に普六茹氏の私兵三千を与えて潼関を守らせた。

 堅は丞相となると、李礼成を司武上大夫として腹心とした。礼成は妻の竇氏を早くに亡くした後、堅の容貌が傑出した物だと知ると、堅の妹を後妻に迎え、堅と非常に親しく付き合った。

○周静帝紀
 甲子,相州總管尉遲迥舉兵不受代。詔發關中兵,即以孝寬為行軍元帥,率軍討之。
○周21・北62尉遅迥伝
 隋文帝於是徵兵討迥,即以韋孝寬為元帥〔,陰羅雲監諸軍,郕國公梁士彥、樂安公元諧、化政公宇文忻、濮陽公宇文述、武鄉公崔弘度、清河公楊素、隴西公李詢、延壽公于仲文等皆為行軍總管。
○隋46楊尚希伝
 及迥屯兵武陟,遣尚希督宗室兵三千人鎮潼關。
○隋50李礼成伝
 禮成妻竇氏早沒,知高祖有非常之表,遂聘高祖妹為繼室,情契甚歡。及高祖為丞相,進位上大將軍,遷司武上大夫,委以心膂。

 ⑴陰寿…字は羅雲。生年543、時に38歳。文武両道の能吏。宇文護の内親信とされ、のち大都督・中外府騎兵曹とされた。567年、南伐軍の監軍とされた。575年、普六茹堅(楊堅)の指揮のもと河陰にいる北斉の艦船を焼き払った。のち晋州の戦いに大いに活躍し、開府・東光県公とされた。のち并州長史とされた。577年(4)参照。
 ⑵梁士彦…字は相如。生年515、時に66歳。安定烏氏の人。若い頃は不良で州郡に仕えず、剛毅果断な性格で悪人を懲らしめる事を好んだ。また、読書家で、特に兵法書を好んだ。武帝に勇猛果断さを評価されて九曲(洛陽の西南)鎮将・上開府・建威県公とされ、のち熊州刺史とされた。帝が北斉の晋州を陥とすと晋絳二州諸軍事・晋州刺史とされ、晋州の防衛を託された。間もなく北斉の後主自らが攻撃を仕掛けてきたが、武帝の救援軍が来るまで見事に耐え切った。北斉が滅ぶと柱国・郕國公・雍州主簿とされた。のち東南道行台・徐州総管・三十二州諸軍事・徐州刺史とされた。間もなく陳が攻めてくると野戦を挑んで敗れ、籠城戦に切り替えた。間もなく援軍の王軌と共に陳軍を大破した。579年、淮南を攻めて広陵などを陥とした。579年(3)参照。
 ⑶拓跋諧(元諧)…河南洛陽の人で、富貴な家柄の出。普六茹堅(楊堅)とは親友で、国子学で共に授業を受けた。のち軍功を挙げて大将軍まで出世した。堅が丞相となるとで側近とされた。この時、堅に「公は孤立無援の身で、言うなれば奔流を前にした一枚の塀のようなものであり、大変に危険な状態に置かれている。頑張ってこの窮地を切り抜けられよ」と発破をかけた。580年(2)参照。
 ⑷宇文忻…字は仲楽。生年523、時に58歳。大司馬・許国公の宇文貴の子。幼い頃から利発で、左右どちらからでも騎射する事ができ、「韓信・白起らは大したことがない。自分の方が上手くやれる」と大言壮語した。542年、韋孝寛が玉壁の鎮守を任されると、そこで数多くの戦功を立てて開府・化政郡公とされた。576年、東伐中にたびたび退却しようとする武帝を何度も諌めた。北斉を滅ぼすと大将軍とされた。陳が徐州に侵攻してくると精鋭の騎兵を率いて蕭摩訶と戦った。間もなく王軌と共に陳軍を大破し、柱国・豫州総管とされた。579年、宇文弘度(崔弘度)や賀婁子幹らと共に淮南を攻め、肥口などを陥とした。579年(3)参照。
 ⑸宇文弘度(崔弘度)…字は摩訶衍。敷州刺史の宇文説(崔説)の子。人並み外れた筋力と逞しい体躯を持ち、髭や容貌は非常に立派だった。また、非常に厳しい性格をしていた。十七歳の時に北周の大冢宰の宇文護に引き立てられて親信とされた。護の子の中山公訓が蒲州刺史とされた時(566年?)、望楼から飛び降りて傷一つ負わなかった。のち北斉討伐に参加して上開府・鄴県公とされた。間もなく汝南公神挙と共に范陽の盧昌期の乱(578年)を平定した。579年、淮南を攻め、肥口・寿陽などを陥とした。この功により上大将軍とされた。579年(3)参照。
 ⑹楊素…字は処道。生年544、時に37歳。名門弘農楊氏の出で、故・汾州刺史の楊敷の子。若年の頃から豪放な性格で細かいことにこだわらず、大志を抱いていた。西魏の尚書僕射の楊寛に「傑出した才器の持ち主」と評された。多くの書物を読み漁り、文才を有し、達筆で、風占いに非常な関心を持った。髭が美しく、英傑の風貌をしていた。 北周の大冢宰の晋公護に登用されて中外府記室とされた。武帝が親政を始めると死を顧みずに父への追贈を強く求め、許された。のち儀同とされた。詔書の作成を命じられると、たちまちの内に書き上げ、しかも文章も内容も両方素晴らしい出来だったため、帝から絶賛を受けた。575年の北斉討伐の際には志願して先鋒となった。576年に斉王憲が殿軍を務めた際、奮戦した。578年、烏丸軌(王軌)に従って呉明徹を大破し、治東楚州事とされた。のち陳の清口城を陥とした。579年(3)参照。
 ⑺拓抜詢(李詢)…生年540、時に41歳。字は孝詢。大将軍の李賢の第五子。大の読書家で、冷静で頭が良く回った。出仕して納言上士とされ、間もなく内史上士・兼掌吏部とされ、能吏としての評判を得た。574年、武帝が雲陽宮に赴くと司衛上士とされて留守を任された。衛王直が叛乱を起こして長安宮を攻め、門に火を放つと、尉遅運に「消火をするより、むしろ火の勢いを増す手伝いをした方が良い」と進言して敵の侵入を防いだ。この功により儀同三司・長安令とされた。のち英果中大夫とされ、軍功を立てて大将軍・平高郡公とされた。574年(2)参照。
 ⑻李礼成…字は孝諧。生年528、時に46歳。西涼の武昭王の李暠の六世孫。祖父は北魏の司徒で孝荘帝の母の兄の李延寔で、父は侍中で孝荘帝の姉の夫の李彧。彧の五子として生まれ、七歲(534年)の時に入関した時、叔母に「この子はこれまで一度も後ろ(あるいは過去?)に振り返った事が無い。将来きっと大物になる」と評された。落ち着いていて品行正しく、むやみに人と付き合わなかった。貴公子たちが軍服を着る中、ゆったりとした儒服を着た。遷州刺史とされると北周の武帝の強制徴発に反対して聞き入れられた。576年、晋陽の戦いの際には南門を陥とした。のち開府・北徐州刺史→民部中大夫とされた。576年(5)参照。
 
●宇文護の懐刀・陰寿
 この時、孝寛は病気に罹っていたため陣頭に立って指揮を執る事ができず、常に帳中に臥せって、女性を介して指示を伝えるのがやっとの状態だった。そのため、全軍の統御は全て羅雲によって決せられた。
 陰寿生年543、時に38歳。墓誌では雲)は字を羅雲といい、武威(涼州)の人である。曽祖父の陰志足は北魏に仕えて鎮遠将軍・武威太守とされた。祖父の陰買仁は銀州(延州の北、夏州の東)刺史とされ〔、このときから延州(延安)の西北の金明広楽に居住するようになっ〕た。父の陰嵩孝武帝の西遷に従って関中に入り、宇文泰の武将として活躍し、北周の代に使持節・驃騎大将軍・開府儀同三司・夏州刺史・利仁県公とされた。
 寿は若年の頃から勇猛果敢で、武の才能があった。性格は真面目・温厚で、信義を重んじた。また、汝郁後漢の魯相)のように孝行者で、顧雍孫呉の二代丞相)のように博識だった。
 晋公の宇文護が宰相となると(556年)、その内親信とされ、間もなく都督、次いで大都督とされた。中外府(護。都督中外諸軍事)騎兵曹とされると、官馬の品種改良・繁殖を任され、良馬を牧場に充溢させた。陳の湘州刺史の華皎が叛乱を起こして北周に付くと(567年)、護は柱国の歩六孤通陸通。墓誌には『陸騰』とあるが誤りだろう)を総大将として南伐を行なわせ、羅雲を監軍としてその行動を監督させた(このとき25歳)。間もなく使持節・車騎大将軍・儀同三司とされ、次いで中外府掾とされた。
〔護が武帝に誅殺された(572年)のちも任用を受け、〕帝が東伐を行なって河陰に出兵した際(575年)は一艘の小舟を放って北斉の艦船を全て焼き払った。北斉討平(576~7年)にも従軍し、晋州の戦いに大いに活躍し、使持節・開府儀同大将軍・東光県開国公(邑千戸)とされ、反物千段と奴隷百人、妓女二十人を与えられた。
 清河公神挙が并州刺史とされると(576年12月)、その府長史とされ、刑罰を緩くして新しい土地の住民を手懐け、政・軍両面から神挙を良く補佐した。また、神挙に従って突厥を三埠(埠は十無し)に撃破した(578年)。
 普六茹堅が丞相となるとその掾とされた。
 
〔柱国・豫州総管の〕宇文忻は堅が丞相となる前から非常に仲が良く、堅が丞相となるとますます目をかけられるようになった。
 
 宇文述生年546、時に35歳)は字を伯通といい、上柱国の宇文盛の子である。
 若年の頃から勇猛で、騎・射を得意とした。十一歳の時(556年)、ある人相見が述にこう言った。
「公子よ、よくよくご自愛なされませ。将来きっと位人臣を極められましょう。」
 北周の武帝の時に父の軍功を以て開府とされた。謙虚で沈着な性格だったため、大冢宰の宇文護に非常に目をかけられ、本官のまま護の親信を兼任した。武帝が親政を行なうと左宮伯とされ、のち次第に昇進して英果中大夫()・博陵郡公とされ、間もなく濮陽郡公に改められた。
 
〔上開府・治東楚州事の〕楊素は堅が丞相となると熱心にこれに取り入った。堅は素の才能を高く評価し、〔洛陽の東の〕汴州(もと北斉の梁州)刺史とした。
 
 堅は〔大将軍・英果中大夫の〕拓抜詢を腹心とし、元帥(韋孝寛)長史とした。
 
○隋37李詢伝
 高祖為丞相,尉迥作亂,遣韋孝寬擊之,以詢為元帥長史,委以心膂。
○隋39陰寿伝
 陰壽字羅雲,武威人也。父嵩,周夏州刺史。壽少果烈,有武幹,性謹厚,敦然諾。周世屢以軍功,拜儀同。從武帝平齊,進位開府,賜物千段,奴婢百口,女樂二十人。及高祖為丞相,引壽為掾。尉迥作亂,高祖以韋孝寬為元帥擊之,令壽監軍。時孝寬有疾,不能親總戎事,每臥帳中,遣婦人傳教命。三軍綱紀,皆取決於壽。
○大隋使持節柱国司空公趙郡武公陰使君墓誌銘
 公諱雲,字羅雲,金明廣樂人也。…曾祖志足,魏鎮遠將軍、武威太守。祖買仁,銀州刺史。…父嵩,周使持節、驃騎大將軍、開府儀同三司、夏州刺史、利仁縣公。…魏武遷播,頗勞羈靮,周文匡弼,亦寄爪牙。…孝敬純深,得汝郁之字,藝業周備,如顧雍之名。長社橫前,朝聞精義,下邳氾上,夜授兵書。晉蕩公宇文護,周之宰輔,引公爲内親信,俄授都督。…尋轉大都督,内外府騎兵曹。既領馬政,亦禁蝅書,故以驊騄繁滋,坰栘充溢。巫俠夐嶮,夷蜑逆命,柱國陸騰,總兵南伐,晉公遣公監軍,爲其進止。…尋除使持節、車騎大將軍、儀同三司。…未幾,除内外府掾。…從周武帝東伐,師出河陰,彼以山川形勝,水陸抗拒,公率一舸,乱流而出,焼其舩艦,無復遺餘。…又從平齊,晉州力戰,摩壘致師,陵城折馘,次勳居最,復超榮序,授使持節、開府儀同大將軍、東光縣開國公,邑一千戸。…宇文神舉之鎭并州,詔授公總府長史,用茲輕典,緝彼新邦,軍謀政績,實資毗贊。又随神舉破突厥於三埠(埠は十無し)。…俄而木德將謝,…皇上初開霸基,夢想英傑,馳驛召公,授相府掾,…尉迥煽動清齊,居有彰鄴,遣鄖國公寛勒兵問罪,令公總護,諸將咸取節焉。
○隋40宇文忻伝
 高祖龍潛時,與忻情好甚協,及為丞相,恩顧彌隆。尉迥作亂,以忻為行軍總管,從韋孝寬擊之。
○隋48楊素伝
 及高祖為丞相,素深自結納,高祖甚器之,以素為汴州刺史。
○隋61宇文述伝
 宇文述字伯通,代郡武川人也。本姓破野頭,役屬鮮卑俟豆歸,後從其主為宇文氏。父盛,周上柱國。述少驍銳,便弓馬。年十一時,有相者謂述曰:「公子善自愛,後當位極人臣。」周武帝時,以父軍功,起家拜開府。述性恭謹沈密,周大冢宰宇文護甚愛之,以本官領護親信。及帝親總萬機,召為左宮伯,累遷英果中大夫,賜爵博陵郡公,尋改封濮陽郡公。高祖為丞相,尉迥作亂相州,述以行軍總管率步騎三千,從韋孝寬擊之。

 ⑴武威(涼州)の人…前涼の時代に、その立役者として涼州の豪族の陰澹の名が見える。
 
●畢王賢誅殺
 北周の上柱国・太師・雍州牧の畢王賢は敏腕で、威勢と智略を有していた。賢は堅が国家を乗っ取ろうとしているのを憂慮し、所構わず憂憤の言葉を発していた。雍州別駕の叱呂引雄楊雄はこれを聞くと、堅に賢が趙王招ら五王と叛乱を企てていると告げた。
 この日、堅は賢をその屋敷にて誅殺した(享年22)。その子の宇文弘義・宇文恭道・宇文樹嬢らも誅殺し、更に畢国も廃止した。ただ、趙王らの罪は不問とした。
 雄はこの功により柱国・雍州牧とされ、相府虞候(警備担当)を兼任した。
 
 また、上柱国の秦王贄を大冢宰とし、杞公椿を大司徒とした。
 己巳(15日)、〔江夏付近の〕南定(もと陳の定州)・北光()・衡・巴四州の住民のうち、故・杞公亮に拉致されて奴隷とされた(579年〈3〉参照)者を、みな解放して平民とし、本業に復させた。
 甲戌(20日)、赤気(オーロラ。大戦の予兆)が長安の西方より現れ、少しずつ東に動き、長安の上空全体に広がった。
 庚辰(26日)、養魚池および山林や川沢の立ち入り禁止区域を撤廃し、民間の者にも立ち入ることを許した。
 また、柱国・蒋国公の紇豆陵睿梁睿を益州総管とした。
 
○周静帝紀
 上柱國、畢王賢以謀執政,被誅。以上柱國秦王贄為大冢宰,𣏌國公椿為大司徒。己巳,詔南定、北光、衡、巴四州民為宇文亮抑為奴婢者,竝免為民,復其本業。甲戌,有赤氣起西方,漸東行,遍天。庚辰,罷諸魚池及山澤公禁者,與百姓共之。以柱國、蔣國公梁睿為益州總管。
○隋文帝紀
 雍州牧畢王賢及趙、陳等五王,以天下之望歸於高祖,因謀作亂。高祖執賢斬之,寢(掩)趙王等之罪。
○周13畢剌王賢伝
 大象初,進位上柱國、雍州牧、太師。明年,宣帝崩。賢性強濟,有威略。慮隋文帝傾覆宗社,言頗泄漏,尋為所害,并其子弘義、恭道、樹孃等,國除。
○大周故畢国公墓誌
 大象二年歳次庚子六月乙卯朔十七日辛未薨于第,春秋廿二。
○隋43観徳王雄伝
 高祖為丞相,雍州牧畢王賢謀作難,雄時為別駕,知其謀,以告高祖。賢伏誅,以功授柱國、雍州牧,仍領相府虞候。

 ⑴畢王賢…字は乾陽。生年559、時に22歳。北周二代皇帝の明帝(武帝の兄)の長子。母は徐妃。564年に畢国公とされ、574年に王に進められた。のち華州刺史とされた。575年、荊州総管とされた。578年、大司空とされた。579年、上柱国・雍州牧→太師とされた。579年(2)参照。
 ⑵叱呂引雄(楊雄)…元の名は恵で、のち雄に改めた。字は威恵。生年542或いは540、時に39或いは41歳。普六茹堅(楊堅)の族子とされる。父は大将軍の叱呂引紹(楊紹)で、母は烏洛蘭勝蛮(蘭勝蛮)。容貌美しく、優れた才能・人格を有し、物腰が上品で立ち居振る舞いが立派だった。非常な孝行者で、父が死んだ時には悲しみの余り死にかけた。太子右司旅下大夫とされ、574年に衛王直が叛乱を起こして宮城に攻めてくると、奮戦してこれを撃退した。のち右司衛上大夫とされた。579年、邗国公とされた。普六茹堅が丞相となると人材との折衝役を任された。580年(2)参照。
 ⑶大周故畢国公墓誌には『十七日辛未』とある。
 ⑷秦王贄…字は乾信。母は厙汗姫。武帝の第三子。秦国公とされ、574年に王とされた。武帝に可愛がられた。烏丸軌(王軌)は事あるごとに太子贇(のちの天元帝)を廃して贄を立てるよう求めたが、幼いことを以て実現しなかった。580年、普六茹堅が丞相となると上柱国とされた。576年(2)参照。
 ⑸𣏌公椿…字は乾寿。もと永昌公。宇文導(晋公護の兄)の第四子。杞公亮の弟。保定年間(561~565)に開府儀同三司・宗師中大夫とされ、建徳元年(572)に大将軍とされた。間もなく岐州刺史とされた。575年、東伐が行なわれると斉王憲と共に武済など五城を陥とした。576年の東伐でも斉王憲と行動を共にし、鶏棲原を守備した。578年、大司寇とされた。580年、杞公亮が叛乱を起こして誅殺されると代わりに杞公とされた。普六茹堅が丞相となると上柱国とされた。580年(2)参照。
 ⑹杞公亮…字は乾徳。晋公護の兄の宇文導の次子。同じ宇文顥系の子孫であることから護から重用を受け、護の子どもたちと共に贅沢をほしいままにした。563年~568年頃に梁州総管を務め、のち宗師中大夫とされた。571~574年、秦州総管とされ、亡兄の豳公広の部下を全て配されたが、全く政績を挙げることができなかった。のち、柱国とされた。護が誅殺されると不安を覚え、酒に溺れた。576年の東伐の際、右二軍総管とされた。晋陽を陥とすと上柱国とされた。577年、大司徒とされた。579年、安州総管とされた。間もなく行軍総管とされて南伐に赴き、陳の黄城を陥とした。580年、長安への帰還中に叛乱を起こしたが失敗し、殺された。580年(1)参照。
 ⑺紇豆陵睿(梁睿)…字は恃徳。生年531、時に50歳。西魏の開府・東雍州刺史の梁禦の子。幼い頃から落ち着いていて頭が良く、品行方正だった。8歳の時に父を喪うと宇文泰の家で数年に亘って養育され、泰の子どもたちと非常に仲良しになった。中州刺史とされると北斉の侵攻を即座に撃退し、非常な嘉賞を受けた。570年、大将軍・蒋国公とされ、司会とされた。のち小冢宰→敷州刺史→涼・安二州総管とされ、仁政を行なった。のち柱国とされた。570年(2)参照。
 
●高紹義の死
 これより前、北周の〔大将軍の〕汝南公神慶は行軍総管とされて陳の討伐に赴いていた(普六茹堅の南伐未遂の時?)が、白帝(信州)に到った所で長安に呼び戻され(堅が宰相となった時に呼び戻した?)、功労を以て上大将軍とされた。神慶は堅と昔からの友人であったため、非常な厚遇を受け、丞相府の軍事を任せ、腹心とした。間もなく柱国とされた。

〔これより前(今年の2月)、突厥の他鉢可汗が北周に使者を送り、千金公主を迎え入れることを了承した。
 今年の5月、堅は公主が突厥に嫁ぎに行くのを見送るという名目で、趙王招ら五王に参内を命じた。
 今年の6月、五王が長安に到った。〕
 当時、北周と突厥は互いに見栄を張り合い、勇士を選び抜いて使者に充てていた。北周は〔大将軍の〕汝南公神慶を正使、〔司衛上士の〕長孫晟を副使として公主を突厥まで送らせた。
 
 晟(生年552、時に29歳)は字を季晟といい、〔御正上士の?〕長孫熾の弟で、〔大司徒・上柱国・薛国公の〕長孫覧の甥である。聡明で、大の読書家で、弾弓と通常の弓の扱いに長け、素早さは人並み外れていた。当時、北周では尚武の気風があり、貴族の子弟はみな弓の扱いに長けていたが、騎射の腕比べをすると晟に負けるのが常だった。十八歳の時(569)に司衛上士とされた。この時、晟はまだ世間に名を知られていなかったが、〔・隨国公の〕堅(このとき左小宮伯?)は晟に一度会っただけでその才能を見抜き、その手を取って人にこう言った。
「長孫郎の武芸が抜群の腕前だというのは知っていたが、今話してみると頭脳も明晰なのが分かった。未来の名将は、この子ではないか?」
 
 ただ、突厥は〔北斉滅亡時に自国に亡命していた〕高紹義北斉の武平帝を北周に送る事は依然として肯んじなかった。北周はそこで更に賀若誼を他鉢のもとに派して代金を払い、紹義の身柄を引き渡すよう要求した。他鉢は渋々これを認めたものの、なおも公式的に引き渡す事は拒み、紹義と共に南境の馬邑(北周の北朔州)付近まで狩猟に赴き、そこで誼に捕らえさせる形を取った。
 秋、7月、甲申(1日)、紹義が長安に到った。北周はこれを蜀に流した。
 のち、紹義の妃だった封氏封孝琬の娘)が突厥から中国に逃亡した。紹義は蜀から彼女に手紙を書いてこう言った。
「夷狄が裏切って、私をここに追いやったのだ。」
 紹義はそのまま蜀にて死去した。
 
 誼は紹義を捕らえた功により大将軍とされた。
 
○周静帝紀
 秋七月甲申,突厥送齊范陽王高紹義。
○周50・北99突厥伝
 大象二年,始遣使奉獻,且逆(迎)公主〔為親〕,而紹義尚留不遣。帝又令賀若誼往諭之,始送紹義云。
○隋39賀若誼伝
 齊范陽王高紹義之奔突厥也,誼以兵追之,戰於馬邑,遂擒紹義。以功進位大將軍。高祖為丞相,拜亳州總管,馳驛之部。西遏司馬消難,東拒尉迥。申州刺史李慧反,誼討之,進爵范陽郡公,授上大將軍。
○隋50宇文慶伝
 俄轉寧州總管。高祖為丞相,復以行軍總管南征江表。師次白帝,徵還,以勞進位上大將軍。高祖與慶有舊,甚見親待,令督丞相軍事,委以心腹。尋加柱國。
○隋51長孫晟伝
〔長孫熾弟〕晟字季晟,性通敏,略涉書記,善彈工射,趫捷過人。時周室尚武,貴遊子弟咸以相矜,每共馳射,時輩皆出其下。年十八,為司衞上士,初未知名,人弗之識也。唯高祖一見,深嗟異焉,乃攜其手而謂人曰:「長孫郎武藝逸羣,適與其言,又多奇略。後之名將,非此子邪?」
 宣帝時,突厥攝圖請婚于周,以趙王招女妻之。然周與攝圖各相誇競,妙選驍勇以充使者,因遣晟副汝南公宇文神慶送千金公主至其牙。
○北斉12高紹義伝
 周人購之於他鉢,又使賀若誼往說之。他鉢猶不忍,遂偽與紹義獵於南境,使誼執之。流于蜀。紹義妃渤海封孝琬女,自突厥逃歸。紹義在蜀,遺妃書云:「夷狄無信,送吾於此。」竟死蜀中。

 ⑴汝南公神慶…宇文神慶。本名は慶といい、神慶は字。宇文顕和の子で、東平公神挙の弟。冷静沈着で器量があり、若年の頃から聡明なことで名を知られた。また、壮志があって武芸の腕前が人並み外れ、弓を得意とした。また、度胸があり、虎と格闘することを好んだ。事務仕事を嫌って槍働きを志願し、文州の住民が叛乱を起こすと(560年?)その討伐に参加し、奇襲して撃破した。その功により都督とされた。衛公直が山南を治めるようになると(565年)、その側近とされた。のち次第に昇進して儀同三司・柱国府掾とされ、武帝が晋公護を誅殺する際、その計画に関与した。成功すると開府とされた。伐斉の際に斉王憲と共に殿軍を務め、汾橋にて斉兵を次々と射斃した。そののちも非常に多くの武功を立て、大将軍・汝南郡公とされた。577年(2)参照。
 ⑵他鉢可汗…タトバル。姓は阿史那。突厥の三代可汗の木杆(ムカン)可汗の弟。572年に兄が死ぬと跡を継いで可汗となった。突厥の勢威を恐れてまめまめしく貢ぎ物を送ってくる北周と北斉の事を「二人の孝行息子」と呼んだ。北斉が滅ぶと亡命してきた高紹義を匿い、北周の幽州を襲って宇文雄(劉雄)を戦死させた。その後も盧昌期や稽胡を支援して北周を苦しめた。579年、北周と婚姻を求めたが紹義を引き渡さなかったため交渉決裂し、間もなく并州に侵攻した。580年、千金公主を迎え入れる事を了承した。580年(1)参照。
 ⑶千金公主…北周の趙王招の娘。突厥が579年に北周に和平を求めてくると千金公主とされて突厥に嫁ごうとしたが、交渉が難航してなかなか実現に至らなかった。580年2月、ようやく交渉がまとまった。580年(2)参照。
 ⑷長孫熾…字は仲光。生年553、時に27歳。西魏の上党文宣王の長孫稚の曾孫。父は開府・熊絳二州刺史の長孫兕。聡明な美男子で、文武に優れた。北周の武帝が通道観を建てるとその学士とされた。建徳二年(573)に雍州の倉城令→盩厔令→崤郡守とされ、最高の政績をあげた。のち御正上士とされた。574年(2)参照。
 ⑸長孫覧…字は休因。本名は善。西魏の太師の長孫稚の孫で、北周の小宗伯の長孫紹遠の子。上品で穏やかな性格で識見・度量に優れ、多くの書物を読み漁り、特に音律に通暁した。質朴温和な性格を買われて魯公邕(武帝)の世話係とされ、帝が即位すると重用を受けて覧の名を与えられ、上奏文を先に閲読する権利を与えられた。また、弁才があり、語勢が勇壮だったため、詔の読み上げ係も任された。のち右宮伯とされ、571年、薛国公とされた。574年、帝が雲陽宮に赴いた時に留守を任されたが、衛王直が乱を起こすと帝のもとに逃走した。のち小司空とされ、北斉を滅ぼすと柱国とされた。のち司衛とされ、武帝が死ぬと諸王の動静を探った。間もなく上柱国・大司徒とされた。579年、涇州(安定)総管・涇州刺史とされた。579年(2)参照。
 ⑹高紹義(北斉の武平帝)…北斉の文宣帝(初代皇帝)の第三子。初め広陽王とされたが、のちに范陽王に改められた。侍中・清都尹を歴任した。素行に問題があり、武成帝(北斉四代皇帝。高緯の父)や文宣帝の正室の昭信皇后(李祖娥)に杖で打たれた。後主が北周に敗れて晋陽から鄴に逃亡した際、定州刺史とされた。間もなく前北朔州長史の趙穆らに招かれて北朔州に赴き、北斉の旧臣を糾合して晋陽を奪取しようとしたが、周軍の逆襲に遭い、やむなく突厥に亡命した。間もなく皇帝に即位した。北周の幽州范陽にて盧昌期が叛乱を起こすと援軍に赴き、宇文恩の軍を大破したが、間もなく昌期が捕らえられた事を知ると撤退した。578年(3)参照。
 ⑺賀若誼…字は道機。開府・中州刺史の故・賀若敦の弟。宇文泰の左右に侍り、柔然への使者とされ、同盟締結に成功した。儀同三司とされた。北周が建国されると開府とされ、霊・邵二州の刺史や原・信二州の総管を務め、好評を得た。兄の敦が誅殺されると連座して免職となった。武帝が親政を始めると復帰して治熊州刺史とされた。576年、帝が北斉を攻めると洛陽を攻め、のち洛州刺史・建威県侯とされた。577年(1)参照。
 ⑻封孝琬…字は子蒨。516~551。東魏の建国の功臣の封隆之の弟の子。物静か・無欲で、詩作を好んだ。従事中郎将・領東宮洗馬まで昇った。邢卲や王昕という名高い文人たちに才能を認められ親交を深め、死の際に二人に深く嘆かれた。

●東夏、尉遅迥に付く

 庚寅(7日)、〔汝南の西南の〕申州(もと北斉の郢州)刺史の李慧が挙兵して尉遅迥に付いた。堅は賀若誼を亳州総管として直ちに任地に急行させ、これを討伐させた。
 
 辛卯(8日)、月が氐宿の東南星を覆った(『將有徭役(軍役)之事,氐先動』)。
 甲午(11日)、月が南斗の第六星を覆った(『芒角(光芒)動搖,天子愁,兵起移徙,其臣逐』)。
 
 丙申(13日)天元帝を定陵に埋葬した。この時、堅は趙王招ら五王の叛乱に備え、叱呂引雄楊雄)に六千騎を与えて帝の亡骸を陵墓まで護送させた。
 庚子(17日)、五王に入朝不趨・剣履上殿の特典を与えた。
 
 滎州(もと北斉の北豫州。虎牢)刺史の邵公冑が挙兵して迥に付いた。
 
 大将軍・青州総管・成平郡公の尉遅勤尉遅迥の弟(尉遅綱)の子だったが、迥から味方に付くよう書簡を送られても拒否し、これを朝廷に提出して二心の無いことを示していた。
 この日、結局挙兵して迥に付いた。
 迥の所管の相・衛(もと北斉の義州。汲郡)・黎・毛[1]・洺・貝・趙・冀・瀛・滄州と、勤の所管の青・膠・光・莒(もと北斉の南青州)州は皆二人に付き従い、叛乱軍の兵は十余万(尉遅迥伝では数十万)にまで膨れあがった。
〔徐州の東南の〕東楚州(宿豫)刺史の費也頭利進北史では利進国)、東潼州(夏丘)刺史の曹孝達通鑑では孝遠)がそれぞれ州を挙げて迥に呼応した。
 また、徐州総管府司録の席毗羅もと北斉の臣。晋陽の戦いの際南門を守ったが、周将の李礼成に敗れた)が〔徐州の西の〕沛郡を、毗羅の弟の席叉羅が兗州を、前東平郡守の畢義緒もと北斉の徐州都督府長史)が徐州の〔東北の〕蘭陵郡に拠って迥に呼応した。
〔洛陽の東北の〕懐県の永橋鎮将の紇豆陵恵は城と共に迥に降った。
 迥は北は高宝寧と結んでそれを仲介に突厥と通じ、南は陳に子どもを人質に送り、江・淮の地の割譲を約束して援軍を求めた。
 
 迥の大将軍の石愻が〔洛陽の北の〕建州を攻めると、刺史の宇文弁は州城と共に降伏した。
 また、西道行台の韓長業が潞州(上党)を攻め陥とし、刺史の趙威を捕らえた。迥は州城民の郭子勝を刺史とした。
 また、上儀同の赫連士猷が晋州を攻め、小郷城を占拠した。堅は拓跋諧元諧)に討伐させた。

 また、紇豆陵恵が定州の鉅鹿郡を奇襲して陥とし、そのまま〔北の〕恒州(常山、恒山)を包囲した。
 この時、恒州は迥の同族で儀同の尉遅崇が鎮守していた。
 崇は堅が北周の定州総管とされたとき(577年)、その容貌が並外れているのを知って親しく交際し、堅も非常に親しみを込めてもてなしていた。堅が丞相となり、迥が挙兵すると、崇は宗族が叛乱を起こした事を以て自ら牢屋に入り、長安にいる堅のもとに使者を派し、処罰を求めた。堅は書を下して慰め諭し、即座に早馬に乗って参内するよう命じた。崇が到着すると(包囲される前に長安に赴いた?)常に傍に置いて〔信任した〕。

 また、上大将軍の宇文威が汴州を攻めた。
 また、上開府・莒州刺史の烏丸尼、開府の尉遅儁が膠・光・青・斉・莒・兗州の兵を率いて沂州(琅邪。もと北斉の北徐州)を包囲した。
 また、大将軍の檀讓が曹(もと北斉の西兗州)・亳二州を攻め、〔その中間の〕梁郡に進駐した。
 また、大将軍・東南道行台の席毗羅が八万の兵を率いて〔徐州の北の〕蕃城に進駐し、〔徐州付近の〕昌慮・下邑・豊県を攻め陥とした。
 また、李恵が〔汝南の西南の〕申州より〔北の〕永州を攻め、これを焼いて帰った。
 また、邵公冑が〔虎牢の西の〕洛口に進駐した。
 また、開府の梁子康逃げる韋孝寛を追ったが取り逃がした。その時は儀同)・儀同の薛公礼らが〔洛陽の北の〕懐州を攻めた。
 また、魏安公の尉遅惇が十万の兵を率いて〔洛陽の東北の〕武徳に入り、沁水の東に進駐した。
 
○周宣帝紀
 七月丙申,葬定陵。
○周静帝紀
 庚寅,申州刺史李慧起兵。辛卯,月掩氐東南星。甲午,月掩南斗第六星。庚子,詔趙、陳、越、代、滕五王入朝不趨,劍履上殿。滎州刺史、邵國公宇文冑舉兵,遣大將軍、清河公楊素討之。青州總管尉遲勤舉兵。
○隋文帝紀
 相州總管尉遲迥自以重臣宿將,志不能平,遂舉兵東夏。趙、魏之士,從者若流,旬日之間,眾至十餘萬。又宇文冑以滎州,石愻以建州,席毗以沛郡,毗弟叉羅以兗州,皆應於迥。迥遣子質於陳請援。
○周10宇文冑伝
 尋除宗師中大夫,進位大將軍,出為原州刺史,轉滎州刺史。大象末,隋文帝輔政,冑舉州兵應尉遲迥,與清河公楊素戰。
○周21・北62尉遅迥伝
 迥弟子〔大將軍、成平郡公〕勤,時為青州總管,〔初得迥書表送之,尋〕亦從迥。迥所管相、衞、黎、毛、洺、貝、趙、冀、瀛、滄,勤所統青、膠、光、莒諸州,皆從之。眾數十萬。滎州刺史邵〔國〕公宇文冑、申州刺史李惠、東楚州刺史費也利進〔國〕、東潼州刺史曹孝達,各據州以應迥。〔徐州總管司錄席毗與前東平郡守畢義緒據兗州及徐州之蘭陵郡,亦以應迥。永橋鎮將紇豆陵惠以城降迥。〕迥又北結高寶寧以通突厥;南連陳人,許割江、淮之地。…迥遣所署大將軍石愻攻建州,刺史宇文弁以州降愻。迥又遣西道行臺韓長業攻陷潞州,執刺史趙威,署城人郭子勝為刺史。上儀同赫連士猷攻晉州,即據小鄉城。紇豆陵惠襲陷定州之鉅鹿郡,遂圍恒州。上大將軍宇文威攻汴州,上開府莒州刺史烏丸尼、開府尉遲儁率膠、光、青、齊、莒、兗之眾圍沂州。大將軍檀讓攻陷曹、亳二州,屯兵梁郡。大將軍、東南道行臺席毗眾號八萬,軍於藩城,攻陷昌慮、下邑、豐縣。李惠自申州攻永州,焚之而還。宇文冑軍於洛口。開府梁子康攻懷州〕。〔魏安公〕惇率眾十萬入武德,軍於沁東。
○周31韋孝寛伝
 迥所署儀同薛公禮等圍逼懷州。
○隋39賀若誼伝
 高祖為丞相,拜亳州總管,馳驛之部。西遏司馬消難,東拒尉迥。申州刺史李慧反,誼討之,進爵范陽郡公,授上大將軍。
○隋40元諧伝
 尉迥作亂,遣兵寇小鄉,令諧擊破之。
○隋43観徳王雄伝
 周宣帝葬,備諸王有變,令雄率六千騎送至陵所。
○隋63楊義臣伝
 楊義臣,代人也,本姓尉遲氏。父崇,仕周為儀同大將軍,以兵鎮恒山。時高祖為定州總管,崇知高祖相貌非常,每自結納,高祖甚親待之。及為丞相,尉迥作亂,崇以宗族之故,自囚於獄,遣使請罪。高祖下書慰諭之,即令馳驛入朝,恒置左右。

 ⑴邵公冑…宇文泰の兄の宇文顥の子の宇文什肥の子。泰が関中に赴いたのちも父と共に晋陽に留まり、泰が高歓と対立すると父を殺され、自身は幼かったため死は免ぜられ、去勢に留められた。極貧生活を送ったものの、挫けることなく、非常に才能に溢れた青年に育った。570年、北周と北斉が国交を通じるとようやく北周に行くことを許され、北周に到ると邵国公とされた。のち宗師中大夫とされ、大将軍とされ、原州刺史→滎州刺史とされた。570年(1)参照。
 ⑵尉遅勤…柱国・陝州刺史・呉国公の尉遅綱の第二子で、盧国公の尉遅運の弟。大将軍とされ、伐斉の際には二千騎を率いて北斉の上皇を追撃し、青州にて捕らえる大功を立てた。577年(1)参照。
 [1]考異曰く、『毛州は迥の滅亡後に置かれたものである。迥伝の記述は誤っている。
 
 
 580年(4)に続く