[北周:大象二年 陳:太建十二年 後梁:天保十八年]

●天元帝発病
 甲午(5月10日)の夜、北周の天元帝が法駕(皇帝用の車)に乗って天興宮に赴いた。
 乙未(11日)、病気に罹り、長安宮に帰った。
 帝は御正中大夫の顔之儀と御正下大夫の劉昉を寝室に呼び、後事を託そうとしたが、もはや声が出せないほどに病状は悪化していたため、何も伝えることができなかった。
 昉らは帝に二言三言慰めの言葉をかけたのち、部屋から出た。昉は跡継ぎの静帝がまだ幼い(時に8歳)ことから、皇帝の任に堪えないと考え、〔之儀と別れたのち〕領内史事の宇文訳鄭訳・御飾大夫の柳裘・内史大夫の賀蘭謩韋謩)・御正下士の皇甫績らを集め、輔佐役を誰にするか協議した。その結果、静帝の后の父で名声のある普六茹堅楊堅。時に40歳を輔佐役とすることに決した。
 この時、堅は揚州(寿陽)総管とされていたが、突然発症した足の病気のため行くことができず、やむなく数日の間都に留まることにしていた。その間、堅は長安に留まることを天元帝に何度も伝えようとしたが、そのたびに怒りを買うことを恐れ、躊躇って実行できずにいた。
 この日、突然宇文訳が屋敷にやって来たのを聞くと、〔堅は遂に呼び出しが来たと勘違いし、〕急いで引き止めて密室に連れていき、留まっているのは二心のためではなく足の病気のためだということを訴えた。すると訳は言った。
「公の病気が今すぐ治ったとしても、南行は延期すれば宜しいでしょう。私は一大事を公に伝えに来ましたが、それは公にとっていい話です。」
 堅が何事かと問うと、訳は堅の耳に口を近づけて言った。
「昨夜、陛下は天興宮に御幸されましたが、すぐ体調を崩されてお戻りになられました。今、私がお見舞いに行った所、病状は非常に重く、十中八九助かる見込みは無いように見えました。陛下がもしお隠れになった場合、幼少の君主が立つことになり、人心が動揺することになります。宰相となってこれを抑える事ができるのは、公以外におりません。私が誰よりも先に公に大事を伝えたのはこのためです。もし朝廷から呼び出しが来たら、公はすぐさまこれに応じられますよう。ぐずぐず躊躇ったりなどして、千載一遇の好機をみすみす逃すような事をなさいませぬように。」
 言い終わると屋敷を立ち去った。堅はこれ以後、足の病気が消え去ったようになった。
 やがて果たして劉昉柳裘がやってきて、詔を見せて帝の看病を命ずると共に、宰相となるよう求めてくると、堅はこれを固辞した。
 すると、裘がこう言った。
「好機という物は取り逃してはならないものであり、今の事態はまさにその好機を得るか逃すかの瀬戸際に当たります。どうか早く決断を下されますよう。『天が与えた好機を取らなければ、却って咎を受ける』との諺もあります。ぐずぐずしていると後悔することになりますぞ。」
 また、昉が言った。
「公よ、宰相となりたいのなら早くなるべきです。なりたくないのであれば、私がなるまでです。」
 堅はそこでこれを聞き入れ、宮中に入った。
 また、静帝に詔を下し、〔正陽宮から出て〕露門学(露門に設立された国立学校)に泊まるよう命じた。

 柳裘は字を茂和といい、名門河東柳氏の出で、南斉の司空の柳世隆442~491)の曾孫、梁の尚書左僕射の柳惔の孫、太子舍人・義興太守の柳明の子である。
 若年の頃から頭が良く、令名を馳せた。梁に仕えて尚書郎・駙馬都尉を歴任した。梁の都の江陵が西魏の攻撃を受けると(554年)和平を求める使者とされたが、間もなく江陵は陥ち、そのまま関中に連行された。
 北周の明帝・武帝の在位期間(557~578)に麟趾学士とされ、次第に昇進して太子侍読・昌楽県侯とされ、天官府都上士とされた。宣帝が即位すると儀同三司とされ、爵位を公に進められ、御飾大夫とされた。

 甲辰(20日)、三斗(大きな枡)ほどの大きさの流星が太微端門より現れて翼宿に入った。その音は風が幡旗をはためかせているようなものだった。

○資治通鑑
 欲屬以後事,天元瘖,不復能言。
○周宣帝紀
 甲午夜,帝備法駕幸天興宮。乙未,帝不豫,還宮。詔隨國公堅入侍疾。甲辰,有星大如三斗,出太微端門,流入翼,聲若風鼓幡旗。
○周静帝紀
 二年夏五月乙未,宣帝寢疾,詔帝入宿於露門學。
○隋38劉昉伝
 及帝不悆,召昉及之儀俱入臥內,屬以後事。帝瘖不復能言。昉見靜帝幼沖,不堪負荷。然昉素知高祖,又以后父之故,有重名於天下,遂與鄭譯謀,引高祖輔政。高祖固讓,不敢當。昉曰:「公若為,當速為之;如不為,昉自為也。」高祖乃從之。
○隋38鄭訳伝
 行有日矣,帝不悆,遂與御正下大夫劉昉謀,引高祖入受顧託。
○隋38柳裘伝
 柳裘字茂和,河東解人,齊司空世隆之曾孫也。祖惔,梁尚書左僕射。父明,太子舍人、義興太守。裘少聰慧,弱冠有令名,在梁仕歷尚書郎、駙馬都尉。梁元帝為魏軍所逼,遣裘請和於魏。俄而江陵陷,遂入關中。周明、武間,自麟趾學士累遷太子侍讀,封昌樂縣侯。後除天官府都上士。宣帝即位,拜儀同三司,進爵為公,轉御飾大夫。及帝不悆,留侍禁中,與劉昉、韋謩、皇甫績同謀,引高祖入總萬機。高祖固讓不許。裘進曰:「時不可再,機不可失,今事已然,宜早定大計。天與不取,反受其咎,如更遷延,恐貽後悔。」
○隋38皇甫績伝
 宣帝崩,高祖總己,績有力焉,語在鄭譯傳。
○隋38韋謩伝
 韋謩者,京兆人也。仕周內史大夫。高祖以謩有定策之功。
○北史演義
 帝命速發。將行,忽起足疾,不能舉步,欲停留數日,懼帝見責。正懷疑慮,忽報鄭譯來謁,忙即留進密室,訴以足疾之故。譯曰:「公疾即愈,且緩南行。有一大事報公,焉知非公福耶?」堅問何事,譯屏退左右,撫耳語曰:「昨夜帝備法駕,將幸天興宮,去未逾時,不豫而還。今者進內請安,病勢沉重,殆將不起。帝若晏駕,主少國疑,秉衡之任,非公誰能當之?我故先以語公。倘有片紙來召,公即速來,慎勿徘徊,坐失機會。」言訖輒去。堅自是足疾若失。
○南北史演義
 璆等慰解數語,便即趨出。之儀自歸,璆獨與鄭譯等商議國事。

 ⑴天元帝…宇文贇。もと北周の四代皇帝の宣帝。字は乾伯。生年559、時に22歳。武帝の長子。母は李氏。品行が良くなく、酒を好み、小人物ばかりを傍に近づけ、非行を繰り返したとされる。輔佐する者の賢愚によって品行が激変する事から『中人』と評された。561年に皇子時代の父と同じ魯国公とされた。565年に楽遜、568年に斛斯徴の授業を受けた。572年、太子とされた。574年、西方を巡視した。のち、帝が四方に赴くたびに長安に留まって政治を代行した。576年、吐谷渾の討伐に赴いたが、その間多くの問題行動を起こし、烏丸軌(王軌)と安化公孝伯にこの事を武帝に報告されて杖で打たれた。以後帝の威厳を恐れはばかり、うわべを繕うことに努めるようになった。578年、帝が死ぬと跡を継いで宣帝となり、斉王憲や烏丸軌ら功臣を次々と誅殺した。579年、7歳の幼子に譲位して天元帝を名乗り、一人称を『天』とすると、礼節に外れた行為を次々と繰り返した。南伐を敢行し、陳から淮南を奪取した。580年(1)参照。
 ⑵顔之儀…字は子升。顔之推の弟。読書家で、詞賦作りを好んだ。梁の元帝に仕え、西魏が江陵を陥とすと兄と共に長安に連行された。北周の明帝の時(557~560)に麟趾学士とされ、のち司書上士とされた。武帝が宇文贇を太子を立てると(572年)侍読とされた。577年、贇と共に吐谷渾の討伐に赴き、贇が軍中にてたびたび問題行動を起こすと一人諫言を行ない、武帝に気に入られて小宮尹とされた。贇が即位して宣帝となると上儀同・御正中大夫・平陽県公とされ、信任を受けた。帝が烏丸軌を誅殺しようとすると、これを諌めた。579年(1)参照。
 ⑶劉昉…西魏の東梁州刺史の劉孟良の子。軽はずみでずる賢く、悪知恵が働いた。武帝の時に功臣の子を以て太子贇の傍に仕え、非常に気に入られた。贇が即位すると小御正とされた。鄭訳が免官に遭うとその復帰を助けた。579年(3)参照。
 ⑷静帝…生年573、時に8歳。北周の五代皇帝。在位579~。天元帝(宣帝)の長子。母は朱満月(南方出身)。579年の1月に魯王→皇太子とされ、2月に帝位を譲られて静帝となった。579年(2)参照。
 ⑸宇文訳(鄭訳)…字は正義。生年540、時に41歳。北周の少司空の宇文孝穆(鄭孝穆)の子。幼い頃から聡明で、本を読み漁り、騎射や音楽を得意とした。一時宇文泰の妃の元后の妹の養子となり、その縁で泰の子どもたちの遊び相手とされた。輔城公邕に仕え、邕が即位して武帝となると左侍上士とされ、儀同の劉昉と共に常に帝の傍に侍った。帝が親政を行なうようになると御正下大夫とされ、非常な信任を受けた。魯公贇が太子とされると、太子宮尹下大夫とされてその傍に仕え、非常に気に入られた。573年、副使として北斉に赴いた。577年、贇と共に吐谷渾の討伐に赴いた。その間、贇の問題行動を止めることが無かったため、武帝の怒りを買って鞭打たれ、官爵を剥奪された。のち復職して吏部下大夫とされた。贇が即位して宣帝となると開府・内史中大夫・帰昌県公とされ、朝政を委ねられた。579年、内史上大夫・沛国公とされた。間もなく勝手に官有の木材を自分の邸宅の造営に使った事が原因で官爵を剥奪されたが、劉昉の説得によりすぐに復帰し、領内史事とされた。580年、普六茹堅と共に南征に向かうよう命ぜられた。580年(1)参照。
 ⑹皇甫績…字は功明。父は北周の湖州刺史・雍州都督。三歲の時に父を亡くし、外祖父の宇文孝寛(韋孝寛)に引き取られて育てられた。外兄たちと博奕をした時、自分だけ孤児だった事で孝寛から怒られなかったが、その事で逆に発奮し、学業に打ち込んで書物を広く読み漁った。のち、魯公時代の武帝に招かれて侍読(先生)とされ、建徳の初め(572)に宮尹中士とされた。574年、衛王直が叛乱を起こして太子贇が留守を預かる宮城を攻めると、危険をものともせずに城内に入って贇と合流し、非常に感謝された。この功により小宮尹とされ、贇が即位すると次第に昇進して御正下大夫とされた。574年(2)参照。
 ⑺普六茹堅(楊堅)…幼名は那羅延。生年541、時に40歳。父は故・隨国公の楊忠。母は呂苦桃。落ち着いていて威厳があった。宇文泰に「この子の容姿は並外れている」と評され、名観相家の趙昭に「天下の君主になるべきお方だが、天下を取るには必ず大規模な誅殺を行なわないといけない」と評された。また、非常な孝行者だった。晋公護と距離を置き、憎まれた。568年に父が死ぬと跡を継いで隨国公とされた。573年、長女が太子贇(のちの宣帝)に嫁いだ。575年の北斉討伐の際には水軍三万を率いて北斉軍を河橋に破った。576年の北斉討伐の際には右三軍総管とされた。577年、任城王湝と広寧王孝珩が鄴に侵攻すると、斉王憲と共にこれを討伐した。のち定州総管とされた。577年、南兗州(亳州)総管とされた。578年、宣帝が即位すると舅ということで上柱国・大司馬とされた。579年、大後丞→大前疑とされた。580年、揚州総管とされたが、足の病気のため長安に留まった。580年(1)参照。

●助かる見込み無し
 この年、〔名医で長寿県公の姚僧垣は〕太医下大夫とされた。
 間もなく天元帝が発病し、病状が次第に重篤なものとなると、僧垣は泊まり込みで看病に当たった。帝は隨国公の普六茹堅にこう言った(喋れる?)。
「今日、私が助かるかどうかはこの人(僧垣)如何にかかっている。」
 僧垣は帝を診察して助からない事を知ると、答えて言った。
「臣は既にかなりの恩を忝うしておりますゆえ、全力で治療に当たるつもりです。ただ、凡愚でふつつかな身であるため、上手くいかないかもしれませぬ。」
 帝は頷いた。

○周47姚僧垣伝
 大象二年,除太醫下大夫。帝尋有疾,至于大漸。僧垣宿直侍。帝謂隨公曰:「今日性命,唯委此人。」僧垣知帝診候危殆,必不全濟。乃對曰:「臣荷恩既重,思在效力。但恐庸短不逮,敢不盡心。」帝頷之。

 ⑴姚僧垣…字は法衛。生年499、時に82歳。南人。父の跡を継いで医者となり、梁に仕えて太医正とされた。侯景が建康を陥とすとその部下の侯子鑑に仕え、梁の湘東王繹(元帝)が建康を回復すると荊州に召されて晋安王諮議参軍とされた。繹が病気になるとこれを治した。西魏が江陵を陥とすと関中に入り、伊婁穆らの病気を治療した。566年に儀同、571年に遂伯中大夫とされた。叱奴太后が病気になると、ひとり容態が危険である事を武帝に伝えた。のち開府儀同三司とされた。575年、武帝の病気を治し、帝から非常な礼遇を受けた。578年に帝が病に倒れた時は助かる見込みが無いと判断した。太子贇の心痛も治療し、贇が即位して宣帝となると礼遇を受け、長寿県公とされた。578年(2)参照。

●五王入朝
 堅は封国にいる北周の諸王(579年〈2〉参照)が挙兵することを恐れ、訳らにこう言った。
「今、封国にいる諸王はおのおの土地と兵力を有しており、異姓の者が宰相となったのを聞けば、きっと服従せずに兵を挙げるだろう。ゆえに、ここは都に呼び、官位を上げて名目上は尊ぶように見せながら、実際は兵権を奪うのがいいだろう。さすれば、もしその後に反抗されたとしても、一人差し向けるだけで捕らえる事ができる。」
 訳らは皆これに賛同した。
 丁未(23日)趙王招の娘の千金公主が突厥に嫁ぎに行くのを見送るという口実で、招・陳王純・越王盛・代王達・滕王逌の五王らに参内を命じた。

○周宣帝紀
 丁未,追趙、陳、越、代、滕五王入朝。
○隋文帝紀
 周氏諸王在藩者,高祖悉恐其生變,稱趙王招將嫁女於突厥為詞以徵之。
○北史演義
 堅雖得政,猶以外戚專權,須防宗室之變,乃謂譯等曰:「今者諸王在外,各有土地兵力,吾以異姓當國,彼必不服,定生他變。不若征之來京,尊其爵位,使無兵權。苟不順命,執之一夫力耳。」譯等皆以為然。乃以千金公主將適突厥為辭,矯帝詔,悉征趙、越、陳、代、滕五王入朝。

 ⑴趙王招…字は豆盧突。宇文泰の第七子で武帝の異母弟。母は王姫。文学を愛好し、著名な文人の庾信と布衣の交わりを結んだ。562年、柱国とされ、益州総管を570年まで務めた。572年に大司空→大司馬、574年に王・雍州牧とされた。575年の北斉討伐の際には後三軍総管とされた。576年、北斉の汾州の諸城を攻め、上柱国とされた。577年、行軍総管とされて稽胡を討伐し、皇帝の劉没鐸を捕らえた。宣帝が即位すると太師とされた。579年、突厥が婚姻を求めてくると、娘が千金公主とされてその相手とされた。間もなく趙国に赴くよう命ぜられた。580年(1)参照。
 ⑵千金公主…趙王招の娘。突厥が579年に北周に和平を求めてくると千金公主とされて突厥に嫁ごうとしたが、交渉が難航してなかなか実現に至らなかった。580年2月、ようやく交渉がまとまった。580年(1)参照。
 ⑶陳王純…字は堙智突。宇文泰の第九子。母は不明で、武帝の異母弟。559年に陳国公とされた。のち、保定年間(561~565)に岐州刺史とされた。565年、可汗の娘を迎えるため突厥に赴いたが抑留された。568年に解放され、可汗の娘を連れて帰国し、秦州(天水)総管とされた。570年、陝州(弘農)総管とされ、田弘と共に宜陽の攻略に向かった。574年、王とされた。575年の北斉討伐の際には前一軍総管とされた。576年の北斉討伐の際にも前軍とされ、二万の兵を率いて千里径を守備した。晋陽を攻略すると上柱国・并州総管(576年12月~577年12月)とされた。578年、雍州牧とされた。宣帝が即位すると太傅とされた。579年、封国に赴いた。579年(2)参照。
 ⑷越王盛…字は立久突。宇文泰の第十子。母は不明で、武帝の異母弟。宣帝の叔父。571年に柱国とされた。晋公護誅殺の際、蒲州に行って護の子の中山公訓を長安に呼ぶ役目を任された。574年、王とされた。575年の北斉討伐の際、後一軍総管とされた。576年の北斉討伐の際には右一軍総管とされ、斉王憲の指揮のもと晋州の救援に赴いた。のち上柱国とされた。577年正月、相州総管とされた。578年、大冢宰とされ、稽胡が叛乱を起こすと行軍元帥とされ、これを討平した。579年、大前疑→太保とされ、間もなく封国に赴いた。579年(2)参照。
 ⑸代王達…字は度斤突。宇文泰の第十一子。母は不明。果断な性格で、騎射を得意とし、倹約を好んだ。柱国の李遠に養育された。559年に代国公とされ、566年に大将軍・右宮伯とされ、のち左宗衛とされた。572年、荊州総管とされると善政を行なった。575~577年、益州総管とされた。北斉を滅ぼすと緯の妃の馮小憐を妃とした。宣帝が即位すると上柱国とされた。579年、大右弼とされ、間もなく封国に赴いた。579年(2)参照。
 ⑹滕王逌…字は爾固突。宇文泰の十三子で武帝の異母弟。幼い頃から読書を好み、詩文を理解した。571年に大将軍、572年に柱国、574年に王とされた。576年、吐谷渾の討伐に赴いた。577年、行軍総管とされて稽胡を討伐した。帰還したのち河陽総管とされた。578年、上柱国とされた。南伐が開始されると行軍元帥とされた。579年、封国に赴いた。579年(2)参照。

●天元帝崩御

 己酉(25日)天元帝が天徳殿にて崩御した(享年22[1]

 令狐徳棻曰く…武帝は天元帝に才能が無いことを知りながら、帝位を継がせてしまった。その溺愛ぶりは西晋の武帝司馬炎)に同じく(恵帝が無能だと知りながら跡を継がせ、国を誤らせた)、その理性は宋の宣公に異なった(『兄が死ねば弟に継がせるのは天下の通義である』と言って、子ではなく弟に跡を継がせた)。ただ、これをしつけるのに鞭を用いた事だけは、伝統のしつけの方法に背いていた(ちなみに顔之推は鞭打ち容認派)。かくて遂に暗君に帝位を継がせ、暴虐をほしいままにさせてしまった。天元は善行は小さい事しかやらず、悪行は大きな事しかやらなかった。〔終?〕南山の木全てを用いて作った木簡を書き尽くしてもなおその過失を書くには足らず、東観(史家)にある筆を全て使い果たしてもなおその罪過を記すことができないほどだった。それなのに、自らは斬首されずに死に、子が殺されることになったのは、もっけの幸いと言うべきだろう。

 昉と訳は帝の詔を偽造し、堅を仮黄鉞・丞相にし、幼い静帝の輔佐をさせようとした。昉らは詔書の草案に署名し終わり、次いで顔之儀に署名させようとしたが、之儀はこの命令が帝の意志で無いことを知っていたため拒否し、声を荒げて昉らにこう言った。
「主上(陛下)がお隠れになられ、跡継ぎが幼少である今、宰相の任は宗室の英俊に任せるのが筋である! 現在、宗室の英俊の内、趙王が最も年長で、血筋の良さ(趙王招は太祖宇文泰の子で、一番の年長)においても名声の高さにおいても、重任を受けるのに相応しい人物である! 公らは先帝からつぶさに大恩を受けた身であるのだから、国家に忠義を尽くすべきなのに、どうして今出し抜けに大権を宗室以外の者に与えようとするのか! 私は死ぬことになろうとも、先帝に背くことはできぬ!」
 ここにおいて昉らは之儀の説得を諦め、之儀の署名を偽造した。
 堅が〔詔を偽造するため之儀に〕玉璽を要求すると(之儀が管理していたのであろう)、之儀は顔つきを厳しくしてこう言った。
「これは天子の物であり、主人が決まっている物である。宰相ふぜいが何故これを求めるのか?」
 堅は激怒し、捕らえて斬ろうとしたが、之儀が民衆から人気があるのを考慮し、思いとどまった。〔ただ、玉璽は手に入れた。〕

○周宣帝紀
 己酉,大漸。御正下大夫劉昉,與內史上大夫鄭譯矯制,以隨國公堅受遺輔政。是日,帝崩於天德殿。時年二十二,諡曰宣皇帝。…史臣曰:高祖識嗣子之非才,顧宗祏之至重,滯愛同於晉武,則哲異於宋宣。但欲威之以檟楚,期之於懲肅,義方之教,豈若是乎。卒使昏虐君臨,姦回肆毒,善無小而必棄,惡無大而弗為。窮南山之簡,未足書其過;盡東觀之筆,不能記其罪。然猶獲全首領,及子而亡,幸哉。
○周静帝紀
 己酉,宣帝崩。
○隋文帝紀・北史隋文帝紀
 乙未,帝崩。時靜帝幼沖,未能親理政事。〔前〕內史上大夫鄭譯、御正大夫劉昉以高祖皇后之父,眾望所歸,遂矯詔引高祖入〔侍疾,〕總朝政(因受遺輔政),都督內外諸軍事。丁未,發喪(己酉,周宣崩)。
○周40顔之儀伝
 宣帝崩,劉昉、鄭譯等矯遺詔,以隋文帝為丞相,輔少主。之儀知非帝旨,拒而弗從。昉等草詔署記,逼之儀連署。之儀厲聲謂昉等曰:「主上升遐,嗣子冲幼,阿衡之任,宜在宗英。方今賢戚之內,趙王最長,以親以德,合膺重寄。公等備受朝恩,當思盡忠報國,奈何一旦欲以神器假人! 之儀有死而已,不能誣罔先帝。」於是昉等知不可屈,乃代之儀署而行之。隋文帝後索符璽,之儀又正色曰:「此天子之物,自有主者,宰相何故索之?」於是隋文帝大怒,命引出,將戮之,然以其民之望也,乃止。
○隋38鄭訳伝
 既而譯宣詔,文武百官皆受高祖節度。
○隋42李徳林伝
 劉昉、鄭譯初矯詔召高祖受顧命輔少主,總知內外兵馬事。

 ⑴周宣帝紀・隋文帝紀・北史隋文帝紀のうち、隋文帝紀のみ『乙未(11日),帝崩。…丁未(23日),發喪』とある。これだと五王に入朝を命じた日に死を公表した事になり、理由が千金公主が突厥に嫁ぎに行くのを見送るというものでは無くなる。北史隋文帝紀は『乙未(11日),周宣不悆。…己酉(25日),周宣崩』とある。
 [1]考異曰く、『周宣帝紀曰く、「乙未(11日)、帝が病気に罹り、皇宮に帰った。詔を下し、隨国公堅に看病をさせた。丁未(23日)、五王を参内させた。己酉(25日)、帝が危篤に陥った。昉と訳が詔を偽造し、堅に静帝の政治の輔佐をさせた。この日、帝が崩御した。」帝の発病と死が極めて短期間であったため、堅は外部の横槍を入れられずに、詔命を偽造して宰相となる事ができたのである。もし帝が病気に罹ってから死ぬまでの期間が、乙未から己酉に至るまでのおよそ十五日間もあったとしたら、変事が外に漏れないはずが無い!』

●顔之儀の抵抗
 この日、御正中大夫の顔之儀は宦官と結託し、〔密かに〕大将軍の宇文仲詳細不明)を宰相に擁立した。仲が静帝の御前に到った時、〔領内史事の〕宇文訳はその企みを知ると、急いで開府〔・右司衛上大夫?・邗国公〕の叱呂引恵楊恵。楊雄の初名および劉昉・皇甫績・柳裘らを引き連れて入室した。仲は之儀と共に訳らの姿を見ると愕然とし、慌てふためいて逃げ出そうとしたが、堅に捕らえられた[1]
 之儀は〔西辺の〕西疆郡守に飛ばされた。
 ここにおいて堅は詔を偽造し、訳を内史上大夫に復帰させた。

○周40顔之儀伝
 出為西疆郡守。
○隋38鄭訳伝
 時御正中大夫顏之儀與宦者謀,引大將軍宇文仲輔政。仲已至御坐,譯知之,遽率開府楊惠及劉昉、皇甫績、柳裘俱入。仲與之儀見譯等,愕然,逡巡欲出,高祖因執之。於是矯詔復以譯為內史上大夫。明日,高祖為丞相…。

 ⑴叱呂引恵(楊恵)…叱呂引雄(楊雄)。元の名は恵で、のち雄に改めた。字は威恵。生年542或いは540、時に39或いは41歳。普六茹堅(楊堅)の族子とされる。父は大将軍の叱呂引紹(楊紹)で、母は烏洛蘭勝蛮(蘭勝蛮)。容貌美しく、優れた才能・人格を有し、物腰が上品で立ち居振る舞いが立派だった。非常な孝行者で、父が死んだ時には悲しみの余り死にかけた。太子右司旅下大夫とされ、574年に衛王直が叛乱を起こして宮城に攻めてくると、奮戦してこれを撃退した。のち右司衛上大夫とされた。579年、邗国公とされた。579年(2)参照。
 [1]之儀がこのような事をしたのなら、生きていられる筈が無い! 鄭訳伝の記述より之儀伝の記述を信じるべきであろう(この不安定な時期に衆望のある之儀を殺すことはできないのだし、天元帝ですら殺さなかったのであるから、不思議はないように思う。きっと裏表が無く憎み切れない好漢だったのであろう)。
 ⑵西疆郡…《読史方輿紀要》曰く、『河州の南三百十里→洮州衛(洮州)の南百八十里の合川廃県に北周は疊州と疊川県を置き、合川県に西疆郡を置いた。』

●堅、丞相となる
 堅は静帝の居所を正陽宮から天台(天元帝の居所)に移し、正陽宮を廃止した。また、天下に大赦を行ない、洛陽宮の造営(579年2月に着工)を中止した。
 庚戌(26日)、天元上皇太后の阿史那氏を太皇太后とし、天元聖皇太后の李氏を太帝太后とし、天元大皇后の普六茹氏楊氏。名は麗華を皇太后とし、〔帝の生母で〕天大皇后の朱氏を帝太后とした。
 天中大皇后の陳氏、天右大皇后の拓跋氏元氏、天左大皇后の尉遅氏はみな後宮から出して尼とした。陳氏(月儀)は華光、拓跋氏(楽尚)は華勝、尉遅氏(繁熾)は華首にそれぞれ名を改めた。

 麗華(普六茹氏)は弘聖宮に住んだ。
 麗華は昉・訳らの堅の擁立計画には関与せず、天元帝が病に倒れた時、跡継ぎの静帝が幼いことを以て、他族に国を乗っ取られるのではないかと心配していたが、昉・訳らが堅を宰相に擁立したのを知ると、〔自分の父である堅なら国を乗っ取るような真似はしないと考え、〕非常に喜んだ。

 また、〔天元帝の同母弟で〕柱国の漢王賛を上柱国・右大丞相とし、上柱国・揚州総管・隨国公の堅を仮黄鉞・左大丞相とし、〔天元帝の異母弟で〕柱国の秦王贄を上柱国とした。
 賛を右大丞相としたのは人心の反発を和らげるためで、実権は与えなかった。
 帝は喪に服し、その間、百官は左大丞相()の命に従った。また、禁裏の諸衛(各近衛軍)もみな堅の指図に従った。

 漢王賛は宮中に居住し、常に堅と同じ帳の中に座った。劉昉は飾り立てた美しい妓女を賛に進上し、非常に喜ばせた。それから昉は賛にこう言った。
「大王()は先帝の弟であり、人々に仰ぎ慕われておりますが、一方、陛下は幼く、とうてい皇帝の大任には堪えられません。〔ゆえに、大王こそが天子の位に就くに相応しい人物なのです。ただ、〕今は先帝が崩御したばかりで、人心が動揺している所でありますので、王は一旦屋敷にお帰りになり、人心が落ち着いたのを見計らって皇宮に入り、天子となるのが宜しいでしょう。これこそ万全の計であります。」
 賛はこの時まだ二十歳に満たず、知性や見識も凡人以下だったため、昉の話を簡単に信じてしまい、皇宮から離れて屋敷に帰ってしまった。
 
○周静帝紀
 己酉,宣帝崩,帝入居天臺,廢正陽宮。大赦天下,停洛陽宮作。庚戌,上天元上皇太后尊號為太皇太后。天元聖皇太后李氏為太帝太后,天元大皇后楊氏為皇太后,天大皇后朱氏為帝太后。其天中大皇后陳氏、天右大皇后元氏、天左大皇后尉遲氏竝出俗為尼。柱國、漢王贊為上柱國、右大丞相,上柱國、揚州總管、隨國公楊堅為假黃鉞、左大丞相,柱國、秦王贄為上柱國。帝居諒闇,百官總己以聽於左大丞相。
○隋文帝紀
 庚戌,周帝拜高祖假黃鉞、左大丞相,百官總己而聽焉。
○周9宣帝楊皇后伝
 帝崩,靜帝尊后為皇太后,居弘聖宮。初,宣帝不豫,詔后父入禁中侍疾。及大漸,劉昉、鄭譯等因矯詔以后父受遺輔政。后初雖不預謀,然以嗣主幼冲,恐權在他族,不利於己,聞昉、譯已行此詔,心甚悅之。
○周9宣帝陳皇后伝
 帝崩,后出家為尼,改名華光。
○周9宣帝元皇后伝
 帝崩,后出俗為尼,改名華勝。
○周9宣帝尉遅皇后伝
 帝崩,后出俗為尼,改名華首。
○周13漢王賛伝
 大象末,隋文帝輔政,欲順物情,乃進上柱國、右大丞相。外示尊崇,寔無〔所〕綜理。
○隋38劉昉伝
 及高祖為丞相,以昉為司馬。時宣帝弟漢王贊居禁中,每與高祖同帳而坐。昉飾美妓進於贊,贊甚悅之。昉因說贊曰:「大王,先帝之弟,時望所歸。孺子幼沖,豈堪大事!今先帝初崩,群情尚擾,王且歸第。待事寧之後,入為天子,此萬全之計也。」贊時年未弱冠,性識庸下,聞昉之說,以為信然,遂從之。
○隋38鄭訳伝
 明日,高祖為丞相。
○隋42李徳林伝
 劉昉、鄭譯初矯詔召高祖受顧命輔少主,總知內外兵馬事。諸衞既奉勑,並受高祖節度。

 ⑴阿史那氏…生年551、時に30歳。突厥の木扞可汗の娘。美人で立ち居振る舞いにも品があった。568年、武帝に嫁いだ。578年、帝が死に、宣帝が即位すると皇太后とされた。579年、帝が譲位して天元皇帝となると天元皇太后とされた。今年、天元上皇太后とされた。580年(1)参照。
 ⑵李氏…名は娥姿。楚(江陵)の人。生年536、時に45歳。西魏が江陵を陥とした時に、一家もろとも長安に連行され、宇文邕(のちの武帝)に嫁がされた。次第に寵愛を得て、贇(のちの宣帝)を産んだ。宣帝が即位すると帝太后とされた。579年、帝が譲位して天元皇帝となると天元帝太后→天皇太后とされた。今年、天元聖皇太后とされた。580年(1)参照。
 ⑶普六茹氏(楊氏)…名は麗華。生年561、時に20歳。北周の上柱国・隨国公の普六茹堅(楊堅)の長女。573年に太子贇の妃とされた。贇が即位して宣帝となると皇后とされた。帝が譲位して天元皇帝となると天元皇后とされた。四皇后、五皇后と他にも皇后が立てられたが嫉妬せず、後宮中から敬愛を受けた。従順な性格だが芯は強く、帝に処罰されそうになっても全く恐れの色を見せなかった。今年、天元大皇后とされた。580年(1)参照。
 ⑷朱氏…生年547、時に34歳。名は満月。南人。家が事件に連座したことで太子贇の下女とされ、贇の衣服管理を任された。のち贇と関係を持ち、573年に衍(静帝)を産んだ。贇が即位して宣帝となり、のち譲位して天元皇帝となると天元帝后→天皇后とされた。今年、天大皇后とされた。580年(1)参照。
 ⑸陳氏…名は月儀。大将軍の陳山提の第八女。生年565、時に16歳。579年6月、天元帝(宣帝)に嫁いで徳妃とされた。間もなく天左皇后とされた。今年、天左大皇后→天中大皇后とされた。580年(1)参照。
 ⑹拓跋氏(元氏)…名は楽尚。生年565、時に16歳。開府の拓跋晟(元晟)の第二女。十五歳の時に宣帝に嫁ぎ、貴妃とされた。帝が譲位して天元皇帝となると天右皇后とされた。同年の陳氏と特に親しくした。今年、天右大皇后とされた。580年(1)参照。
 ⑺尉遅氏…《北史》では繁熾。生年566、時に15歳。上柱国・蜀国公の尉遅迥の孫娘。美人で、杞公亮の子の西陽公温に嫁いだ。慣例に従って参内した時、天元帝に無理矢理犯された。亮が叛乱を起こして一家皆殺しにされると後宮に入れられ、天左大皇后とされた。580年(1)参照。
 ⑻漢王賛…字は乾依。天元帝の同母弟。母は李氏。才能に欠けており、帝が太子時代に廃されそうになった時、後任候補から外された。譙王倹が益州総管だった時(570~575年)、益州刺史を務めた。576年(2)参照。
 ⑼秦王贄…字は乾信。母は厙汗姫。武帝の第三子。秦国公とされ、574年に王とされた。武帝に可愛がられた。烏丸軌(王軌)は事あるごとに太子贇(のちの天元帝)を廃して贄を立てるよう求めたが、幼いことを以て実現しなかった。576年(2)参照。

●堅、丞相府に入る
 丞相となる前、堅は邗国公の叱呂引恵楊恵。楊雄)を御正下大夫の李徳林のもとに派してこう言わせた。
「朝廷は隨公に軍事・政治の全権をお委ねになられた。宰相の職は責任重大な職務であり、俊才たちの輔佐を受けなければ職務を全うすることはできない。そこで隨公は今、貴公と共に職務に当たることに決められた。絶対に辞退してはならぬぞ。」
 徳林はこれを聞くと非常に喜び、こう答えて言った。
「私は凡庸で軟弱でありますが、忠誠心という物を少しは持ち合わせているつもりです。もし私ごときを任用してくださるのなら、必ずや命を賭して奉公いたしましょう。」
 堅はこれを聞くと大いに喜び、即座に徳林を呼んで話をした。
 初め、宇文訳劉昉は堅を大冢宰にし、訳自身は大司馬を兼任、昉自身は小冢宰になろうと考えていた。堅は密かに徳林にこう尋ねて言った。
「貴公は私が何になるのが良いと思うか?」
 徳林は言った。
「〔大冢宰は六官の長の一人に過ぎません。〕民心を抑えつけるには、〔誰をも優越する〕大丞相・仮黄鉞・都督内外諸軍事になるしかありません。」
 堅はこれに従い、天元帝の死を公表するとこれらの職に就き、もと正陽宮(静帝のもと居所)を丞相府とした。

 この時、人心はまだ定まっていなかったため、堅は開府・司武上士の盧賁を任用して護衛とした。堅が東第(丞相府)に赴こうとした時、百官は皆これに付いて行くべきか迷った。堅はそこで密かに賁に近衛兵を集合させたのち、高官たちにこう言った。
「富貴を求める者は、私に付いてこい!」
 高官たちはあちこちで付いて行くべきか留まるべきか相談し合った。その時、賁が近衛兵を引き連れてやってくると、高官たちはみな堅に従った。
 堅らが崇陽門(長安宮の東門)を出て東宮に到った時、門番の制止に遭った。賁が中に入れるよう諭しても、門番は頑として去ろうとしなかった。そこで賁が目を見開いて叱り飛ばすと、門番は遂に退いて道を開けた。かくて堅は中に入ることができた。堅は丞相府の衛兵の指揮を常に賁に任せた。

 賁(生年541、時に40歳)は字を子徵といい、名門の范陽盧氏の出で、北周の開府・燕郡公の盧光の子である。
 大の読書家で、〔父と同じく〕音楽に造詣が深かった。北周の武帝の時(恐らく567年)に燕郡公(邑千九百戸)の爵位を継ぎ、魯陽太守・太子小宮尹・儀同三司を歴任した。のち、北斉平定の功により四百戸の加増を受け、司武上士とされた。この時、大司武だった堅の才能を見抜き(《北史》だと大司武ではなく大司馬。堅は大司馬なら578年に、右司武上大夫なら579年にそれぞれ就任している)、心を込めてこれと付き合うようになった。宣帝が即位すると(578年)、開府儀同大将軍とされた。

 堅は訳を柱国・丞相府長史(文官のまとめ役)とし、内史上大夫を兼任させ、昉を上大将軍・丞相府司馬(武官のまとめ役)・黄国公とした。訳と昉は希望の官職に就けなかったため、李徳林に怨みを抱いた。
 堅は徳林を丞相府属とし、儀同大将軍とした。

 堅は前々から内史下大夫の独孤熲高熲が能吏かつ軍事にも通じ、智謀に優れているのを知っていたため、これを丞相府に入れようとして、邗国公の叱呂引恵楊恵。楊雄)を派してその意志を伝えた。すると熲は喜んでこう言った。
「思う存分こき使ってください。たとえ公の大業が成らなかったとしても、甘んじて族滅を受ける覚悟です。」
 堅は熲を丞相府司録(書類作成のまとめ役)とした。

 また、御飾大夫の柳裘を上開府・内史大夫とし、機密事項に携わらせた。
 また、御正下大夫の皇甫績を上開府・内史中大夫・郡公(邑千戸)とし、間もなく更に大将軍とした。

 堅は国子学で共に授業を受けた親友で大将軍の拓跋諧元諧)を側近とした。この時、諧は堅にこう言った。
「公は孤立無援の身で、言うなれば奔流の中に立つ一枚の塀のようなものであり、大変危険な状態に置かれております。公よ、頑張ってこの窮地を切り抜けられませ。」
 諧は河南洛陽の人で、富貴な家柄の出である。勇敢で義侠心があり、気概があった。軍功を挙げて大将軍まで出世した。

 天元帝の時、刑法が苛酷だったため、人心は恐懼して落ち着かなかった。堅は丞相となると寛大な政治を旨とし、煩雑過酷だった旧律の《刑経聖制》の条文を削り改めて簡素にし、〔新たな〕《刑書要制》を作った。新制は直ちに実行され、犯罪者のうちまだ罪科が定まっていない者は、みなこの新制に依って罪科を定めさせた。
 また、帝と違って倹約に努めたので、天下の人々から支持を得た。

○隋文帝紀
 以正陽宮為丞相府,以鄭譯為長史,劉昉為司馬,具置僚佐。宣帝時,刑政苛酷,羣心崩駭,莫有固志。至是,高祖大崇惠政,法令清簡,躬履節儉,天下悅之。
○隋刑法志周
 隋高祖為相,又行寬大之典,刪略舊律,作刑書要制。既成奏之,靜帝下詔頒行。諸有犯罪未科決者,並依制處斷。
○隋38劉昉伝
 及高祖為丞相,以昉為司馬。…高祖以昉有定策之功,拜上大將軍,封黃國公,與沛國公鄭譯皆為心膂。
○隋38鄭訳伝
 明日,高祖為丞相,拜譯柱國、相府長史、治內史上大夫事。
○隋38柳裘伝
 進位上開府,拜內史大夫,委以機密。
○隋38皇甫績伝
 加位上開府,轉內史中大夫,進封郡公,邑千戶。尋拜大將軍。
○隋38・北30盧賁伝
 盧賁字子徵,涿郡范陽人也。父光,周開府、燕郡公。賁略涉書記,頗解鍾律。周武帝時,襲爵燕郡公,邑一千九百戶。後歷魯陽太守、太子小宮尹、儀同三司。平齊有功,增邑四百戶,轉司武上士。時高祖為大司武(馬),賁知高祖為非常人,深自推結。宣帝嗣位,加開府。
 及高祖初被顧託,羣情未一,乃引賁置於左右。高祖將之東第,百官皆不知所去。高祖潛令賁部伍仗衞,因召公卿而謂曰:「欲求富貴者,當相隨來。」往往偶語,欲有去就。賁嚴兵而至,眾莫敢動。出崇陽門,至東宮,門者拒不內。賁諭之,不去,瞋目叱之,門者遂却。既而高祖得入。賁恒典宿衞。
○隋40元諧伝
 元諧,河南洛陽人也,家代貴盛。諧性豪俠,有氣調。少與高祖同受業於國子,甚相友愛。後以軍功,累遷大將軍。及高祖為丞相,引致左右。諧白高祖曰:「公無黨援,譬如水間一堵牆,大危矣。公其勉之。」
○隋41高熲伝
 高祖得政,素知熲強明,又習兵事,多計略,意欲引之入府。遣邗國公楊惠諭意,熲承旨欣然曰:「願受驅馳。縱令公事不成,熲亦不辭滅族。」於是為相府司錄。
○隋42李徳林伝
 宣帝大漸,屬高祖初受顧命,〔令〕邗國公楊惠謂德林曰:「朝廷賜令總文武事,經國任重,非羣才輔佐,無以克成大業。今欲與公共事,必不得辭。」德林聞之甚喜,乃答云:「德林雖庸愞,微誠亦有所在。若曲相提奬,必望以死奉公。」高祖大悅,即召與語。…鄭譯、劉昉議,欲授高祖冢宰,鄭譯自攝大司馬,劉昉又求小冢宰。高祖私問德林曰:「欲何以見處?」德林云:「即宜作大丞相,假黃鉞,都督內外諸軍事。不爾,無以壓眾心。」及發喪,便即依此。以譯為相府長史,帶內史上大夫,昉但為丞相府司馬。譯、昉由是不平。以德林為丞相府屬,加儀同大將軍。

 ⑴李徳林…字は公輔。生年532、時に49歳。博陵安平の人。祖父は湖州戸曹従事、父は太学博士。美男。幼い頃から聡明で書物を読み漁り、文才に優れた。高隆之から「天下の偉器」、魏収から「文才はいつか温子昇に次ぐようになる」と評され、いつか宰相になるということで収から公輔の字を授けられた。話術にも長けた。560年頃から次第に中央の機密に関わるようになり、565年には詔の作成にも携わるようになった。北周の武帝はその詔を読むと「天上の人」と絶賛した。母が亡くなると悲しみの余り熱病に罹り、全身にできものができたが、すぐに平癒した。のち中書侍郎とされた。北斉が滅びると北周に仕えて内史上士とされ、詔勅や規則の作成および山東(北斉)の人物の登用を一任された。577年(3)参照。
 ⑵盧光…字は景仁。幼名は伯。506~567。盧弁の弟。温和で謙虚な性格だった。大の読書家で、三礼に通暁し、陰陽や鐘律(音楽)に造詣が深く、哲学談義を好んだ。540年に一家を引き連れて東魏から西魏に亡命すると、宇文泰から非常な厚遇を受け、行台郎中とされて文書作成を司った。のち行台右丞→華州長史→将作大匠→儀同→京兆郡守→侍中→小匠師下大夫→開府→匠師中大夫→工部中大夫とされた。幼少時の北周の武帝の先生になった事もあった。大司馬の賀蘭祥が吐谷渾討伐に赴いた際、長史とされた。のち燕郡公とされた。のち監營宗廟の造営の監督を任され、虞州刺史→治陝州総管府長史とされた。
 ⑶独孤熲(高熲)…字は昭玄。生年541、時に40歳。またの名を敏という。父は北周の開府儀同三司・治襄州総管府司録の独孤賓(高賓)。幼少の頃から利発で器量があり、非常な読書家で、文才に優れた。武帝の治世時(560~578)に内史下大夫とされた。のち、北斉討平の功を以て開府とされた。578年、稽胡が乱を起こすと越王盛の指揮のもとこれを討平した。この時、稽胡の地に文武に優れた者を置いて鎮守するよう意見して聞き入れられた。579年(1)参照。

●義臣裴粛
 御正下大夫の裴粛は堅が丞相となったことを聞くと、嘆息して言った。
武帝さまが傑出した才能を以て天下を平定なされたというのに、その崩御ののち幾ばくもせずにはや革命が起きようとしている。これも天命というものか!」
 堅はこれを聞くと非常に気分を害し、粛の官爵を剥奪した。
 粛は字を神封といい、北周の開府・工部中大夫の裴侠の子である。若年の頃から剛直で、度量があり、安定の梁毗字は景和。武蔵大夫)と志を同じくして親しく付き合った。天和年間(566~572)に秀才に挙げられて給事中士とされ、次第に昇進して御正下大夫とされた。のち(579~580年)、行軍長史とされて宇文孝寛韋孝寛)の淮南征伐に従軍した。

 堅は丞相となる前、世子の普六茹勇楊勇)に〔同母弟で〕上儀同・吏部中大夫の普六茹瓚楊瓚を宮中に呼ばせ、謀議をしようとした。しかし瓚はもともと堅を嫌っていたので、呼び出しを拒否し、こう言った。
「堅は恐らく失敗するだろう。どうして族滅が確定しているような事に加担できようか?」
 堅は丞相となると、瓚を大将軍とした。

○隋44滕穆王瓚伝
 宣帝即位,遷吏部中大夫,加上儀同。未幾,帝崩,高祖入禁中,將總朝政,令廢太子勇召之,欲有計議。瓚素與高祖不協,聞召不從,曰:「作隋國公恐不能保,何乃更為族滅事邪?」高祖作相,遷大將軍。
○隋62裴肅伝
 裴肅字神封,河東聞喜人也。父俠,周民部大夫。肅少剛正,有局度(貞亮有才藝),少與安定梁毗同志友善。仕周,釋褐給事中士(天和中,舉秀才),累遷御正下大夫。以行軍長史從韋孝寬征淮南。屬高祖為丞相,肅聞而歎曰:「武帝以雄才定六合,墳土未乾,而一朝遷革,豈天道歟!」高祖聞之,甚不悅,由是廢于家。

 ⑴裴侠…本名は協。字は嵩和。?~559。名門の河東裴氏の出。北魏に仕えて左中郎将とされ、孝武帝が宇文泰のもとに逃れるとこれに付き従った。沙苑にて奮戦し、泰から侠の名を与えられた。河北郡守となると清廉で慈愛に満ちた政治を行ない、泰に「裴侠の滅私奉公ぶりは天下一である。この中で侠に比肩できると思う者がおれば、侠と共に立つが良い!」と言われた際、誰も立つ者がいなかったため『独立君』と呼ばれるようになった。のち郢州刺史とされると、帰順してきた梁の太守が再び寝返ることを見抜いた。のち開府儀同三司・公とされ、民部中大夫とされると。姦吏を一掃した。工部中大夫とされるとその清廉さを恐れた姦吏が自ら罪を白状した。
 ⑵普六茹瓚(楊瓚)…字は恒生。またの名を慧という。生年550、時に31歳。美男。普六茹堅(楊堅)の同母弟。北周の武帝の妹の順陽公主を娶った。そのうえ、教養があって、才能のある者を愛したので、世間から非常に高い評判を得、『楊三郎』(楊家の三番目の若君様)と称された。武帝も瓚に非常な親愛の情を抱いた。北斉討伐の際、長安の留守を任され、「遠く東方の討伐に向かっても、卿がいるなら西方に不安は抱かぬ」と言われた。576年(2)参照。

●騎虎の勢い
 堅が宰相となった時、妃の独孤伽羅は人を派して堅にこう言った。
「こんな大それた事をしてしまったのなら、後はもう騎虎の勢い(虎に乗った場合、降りれば食べられてしまうので、そのまま行く所まで行くしかない)というもので、もう途中で投げ出すことはできませんよ! 頑張ってください!」

 堅はある夜、太史大夫(天文・暦法などを司る)の庾季才を呼んでこう尋ねた。
「私は凡愚の身なのに先帝から後事を託されてしまったが、これは果たして天時・人事にかなった行ないだろうか?」
 季才は言った。
「天の御心は神秘的な物でありますゆえ、推察する事は難しいですが、人事ならば、私が占いますに、その兆しが既に明らかなものになっているのが分かります。そもそも、たとえ今更私が良くないと言っても、公が許由堯に禅譲を持ちかけられた時、これを辞退して隠遁した)のように全てを投げ出して隠遁できるわけが無いのではありませんか。」
 堅は〔図星を突かれ、〕暫くの間押し黙ったのち、顔を上げてこう言った。
「私は今、たとえて言うなら虎に跨っているようなものだ。卿の言う通り、もはや投げ出すことはできぬ。」
 かくて種々の色の織物五十疋と絹二百段を与えてこう言った。
「公のお考えにはただ恥じ入るばかりである。ただ、どうかよくよく私の立場を理解していただきたい。」

○隋36文獻独孤皇后伝
 及周宣帝崩,高祖居禁中,總百揆,后使人謂高祖曰:「大事已然,騎獸之勢,必不得下,勉之!」
○隋78庾季才伝
 及高祖為丞相,嘗夜召季才而問曰:「吾以庸虛,受茲顧命,天時人事,卿以為何如?」季才曰:「天道精微,難可意察,切以人事卜之,符兆已定。季才縱言不可,公豈復得為箕、潁之事乎?」高祖默然久之,因舉首曰:「吾今譬猶騎獸,誠不得下矣。」因賜雜綵五十匹,絹二百段,曰:「愧公此意,宜善為思之。」

 ⑴独孤伽羅…生年544、時に37歳。北周の太保・柱国・衛国公の独孤信の第七女。母は崔氏。557年に普六茹堅(楊堅)に嫁ぎ、おしどり夫婦になった。結婚当初は従順・控えめで堅の両親に孝行を尽くし、婦道から外れなかった。独孤一族は当時外戚として比肩する者が無いほどの盛んさを誇ったが、伽羅は驕ることなく謙虚にふるまったので、人々から賢婦人と讃えられた。娘の普六茹皇后が天元帝に殺されそうになると、娘に代わって陳謝し、額から血が出るほどに叩頭して助命を勝ち取った。580年(1)参照。
 ⑵庾季才…字は叔弈。生年515、時に66歳。天文に通じ、梁の元帝に都を江陵から建康に遷すよう進言したが聞き入れられなかった。江陵が陥ちると長安に連行され、非常な厚遇を受けて太史とされた。多くの下賜品を受けると奴隷となっていた親類や旧友を救うのに使い、更に宇文泰を説得して、多くの江陵の士大夫を解放に導いた。のち、宰相の晋公護に引退を勧めたが拒否され、以後疎まれるようになった。護が武帝に誅殺されると帝にその事を評価され、「至誠・至慎の人だ。人臣の鑑だ」と絶賛を受け、太史中大夫とされ、《霊台秘苑》の編纂を任された。宣帝が即位すると開府とされた。572年(3)参照。

●尉遅迥徴召

 堅は上柱国・相州()総管・蜀国公の尉遅迥が官位も声望も高いのを以て、挙兵されては面倒な事になると考え、迥の第四子で軍正下大夫・魏安公の尉遅惇に詔書を持たせ、天元帝の葬式に参加するように言わせた。
 壬子(28日)、上柱国・鄖国公の宇文孝寛韋孝寛を代わりに相州総管とした。また、小司徒〔・上大将軍・新寧公〕の叱列長叉を相州刺史として孝寛より先に鄴に赴かせた。孝寛はその後に続いて出発した。

 また、〔天元帝が復活させていた〕入市税を廃止した。

○周静帝紀
 壬子,以上柱國、鄖國公韋孝寬為相州總管。罷入市稅錢。
○周21尉遅迥伝
 宣帝崩,隋文帝輔政,以迥望位夙重,懼為異圖,乃令迥子魏安公惇齎詔書以會葬徵迥。尋以鄖公韋孝寬代迥為總管。
○周31・北64韋孝寛伝
 及宣帝崩,隋文帝輔政,時尉遲迥先為相州總管,詔孝寬代之。又以小司徒叱列長义(叉)為相州刺史,先令赴鄴。孝寬續進。

 ⑴尉遅迥…字は薄居羅。宇文泰の姉の子。生年516、時に65歳。美男子。早くに父を亡くし、宇文家に引き取られて育てられた。頭脳明晰で文武に才能を発揮し、泰に非常に信任された。553年に蜀制圧という大功を立てた。558年、隴右の鎮守に赴いた。559年に蜀国公、562年に大司馬とされた。564年、洛陽攻めの総指揮官となったが、包囲が破られると数十騎を率いて殿軍を務めた。568年に太保とされ、のちに太傅とされた。572年に太師、575年に上柱国ととされた。578年、相州総管とされた。579年、大右弼→大前疑とされた。580年(1)参照。
 ⑵宇文孝寛(韋孝寛)…本名叔裕。生年509、時に72歳。関中の名門の出身。華北の大名士かつ智謀の士の楊侃に才能を認められ、その娘婿となった。北魏時代に政治面で優れた手腕を示し、独孤信と共に「連璧」と並び称された。のち西魏に仕え、高歓の大軍から玉壁を守り切る大殊勲を立てた。のち、江陵攻略に参加し、宇文氏の姓を賜った。556年、再び玉壁の守備を任された。561年に勲州(玉壁)刺史、564年に柱国、570年に鄖国公とされた。572年、北斉に流言を放ち、斛律光を誅殺に導いた。また、武帝に伐斉三策を進言した。577年、北斉が滅ぶと長安に帰って大司空とされ、のち延州総管・上柱国とされた。579年、徐州総管とされた。南伐の際には行軍元帥とされ、淮南の平定に成功した。今年、杞公亮の乱を平定した。580年(1)参照。
 ⑶叱列長叉…北斉の開府儀同三司・兗州刺史の叱列平の子。文学の素養は無かったが、清廉で仕事ぶりが良かった。569年に北周に使者として派遣された。武平(570~576)の末に侍中・開府儀同三司・新寧王とされた。のち北周に降伏し、上大将軍・新寧公とされた。ある時北周の武帝に「こやつは城壁の上から朕を罵った者だ」と言われ、後梁の明帝に「長叉は桀(暴君。後主)を助けることもできなかったどころか、事もあろうに堯(名君。武帝)に吠えてしまったのですな」と言われた。577年(2)参照。

●五王、長安に到る
 6月、戊午(4日)、柱国で許国公の宇文善、〔金州総管・〕神武公の紇豆陵毅竇毅、修武公の侯莫陳瓊、大安公の大野慶閻慶をみな上柱国とした。

 北周の陳王純の封国は済南で、斉州の治所にあった。堅はそのため挙兵をされては面倒なことになると考え、門正上士の宇文彭崔彭)に二人の騎兵を連れて純を長安に呼びに行かせた(5月23日参照)。
 彭は斉州まであと三十里の距離の所で仮病を使って伝舍(駅舍)に留まり、人を派して純にこう言った。
「王宛ての詔書を持ってきたのですが、病気のためにこれ以上歩くことができません。すみませんが、王にご足労を願います。」
 純はきな臭いものを感じ、多くの騎兵を引き連れて彭の所に到った。彭は伝舍からこれを出迎えると、呼び出しに応じないことを察し、純にこう嘘をついて言った。
「王よ、人払いをなされませ。秘密の話がございます。」
 純がこれに応じて従騎を退がらせると、彭は更にこう言った。
「詔を読み上げますので、下馬していただきたい。」
 純が慌てて下馬すると、彭は自分の騎兵の方に振り返ってこう言った。
「陳王が呼び出しの命に従わなかった。逮捕せよ。」
 騎兵はそこで純を捕らえて鎖を付けた。彭はそれから大声でこう言った。
「陳王は罪を犯し、朝廷に呼びつけられた! 従者の者たちは立ち去るがよい!」
 従者たちは愕然としてその場から立ち去った。

 この日趙王招・陳王純・越王盛・代王達・滕王逌ら五王が長安に到った。
 堅は彭に会うと非常に喜び、上儀同とした。

 彭は字を子彭といい、北周の荊州総管の宇文謙崔謙の子である。若年の頃に父を亡くし、母に孝行を尽くした。剛毅な性格で武勇に優れ、騎射を得意とした。また、《周官(周礼)》・《尚書》の大義に通じた。北周の武帝の時(560~578年)に侍伯上士とされ、更に門正上士とされた。

○周静帝紀
 六月戊午,以柱國許國公宇文善、神武公竇毅、修武公侯莫陳瓊、大安公閻慶竝為上柱國。趙王招、陳王純、越王盛、代王達、滕王逌來朝。
○隋文帝紀
 六月,趙王招、陳王純、越王盛、代王達、滕王逌並至于長安。
○隋54崔彭伝
 崔彭字子彭,博陵安平人也。祖楷,魏殷州刺史。父謙,周荊州總管。彭少孤,事母以孝聞。性剛毅,有武略,工騎射。善周官、尚書,略通大義。周武帝時,為侍伯上士,累轉門正上士。
 及高祖為丞相,周陳王純鎮齊州,高祖恐純為變,遣彭以兩騎徵純入朝。彭未至齊州三十里,因詐病,止傳舍,遣人謂純曰:「天子有詔書至王所,彭苦疾,不能強步,願王降臨之。」純疑有變,多將從騎至彭所。彭出傳舍迎之,察純有疑色,恐不就徵,因詐純曰:「王可避人,將密有所道。」純麾從騎,彭又曰:「將宣詔,王可下馬。」純遽下,彭顧其騎士曰:「陳王不從詔徵,可執也。」騎士因執而鎖之。彭乃大言曰:「陳王有罪,詔徵入朝,左右不得輒動。」其從者愕然而去。高祖見而大悅,拜上儀同。

 ⑴宇文善…北周の柱国・太保の宇文貴の子。571年に柱国とされた。また、洛州刺史とされた。574年、罪を犯して免官に遭ったが、間もなく元の官爵に戻された。579年、大宗伯とされた。579年(1)参照。
 ⑵紇豆陵毅(竇毅)…字は天武。生年519、時に62歳。柱国・鄧国公の紇豆陵熾(竇熾)の兄の子。温和・控えめで度量があり、孝行者だった。宇文泰の第五女の襄陽公主(武帝の姉。李世民の母を産む)を娶り、重用を受けた。554年に豳州刺史とされ、北周が建国されると神武公とされた。562年、左宮伯とされ、のち小宗伯・大将軍とされた。565年、可汗の娘を迎えるために突厥に赴いたが、抑留されると臆することなく背信行為を責めた。571年、柱国とされた。のち同州刺史→蒲州総管→金州総管とされた。577年(3)参照。
 ⑶侯莫陳瓊…字は世楽。故・柱国の侯莫陳崇の弟。良く母や兄に仕えた。梁仚定の討伐に参加し、のち、北秦州刺史→郢州刺史とされた。560年に金州総管、561年に大将軍、569年に荊州総管、571年に柱国、573年に大宗伯、574年に秦州総管とされた。575年の東伐の際、後二軍総管とされた。575年(2)参照。
 ⑷大野慶(閻慶)…字は仁慶。生年506、時に75歳。河陰の人だが、曾祖父の代に盛楽郡に居住するようになった。容貌が整っていて威厳があり、幼い頃から聡明で、信義を重んじた。おおらかで兵の心を摑むのが上手く、良く死力を尽くさせることができた。六鎮の乱が起こると父と共に盛楽を三年に亘って守り抜いた。537年に西魏に帰順し、河橋・邙山の戦いで活躍し、開府儀同三司とされ、大野氏の姓を与えられた。北周が建国されるととされ、善政を行なった。のち大将軍・太安郡公とされ、のち小司空、寧州刺史とされ、善政を行なった。571年、柱国とされた。宰相の晋公護の母は慶の叔母だったが、一度も護におもねらなかったため、武帝に重んじられ、第十二子の毗に帝の娘が嫁いだ。573年、引退した。571年(1)参照。
 ⑸宇文謙(崔謙)…北史では崔士謙。字は士遜。名門の博陵崔氏出身。父は北魏の兼吏部尚書で、高歓に殺された崔孝芬。幼い頃から聡明で、容貌が立派だった。長じると冷静で見識・度量に優れた青年となった。読書を好んだが、字句にはこだわらず、経世済民の箇所を愛読した。孝昌年間(525~528)に出仕し、賀抜勝が荊州に赴任すると行台左丞とされ、政治の一切を任された。孝武帝が関中に逃れると、勝にそのもとに馳せ参じるよう主張したが聞き入れられなかった。のち勝と共に梁に亡命した。やがて帰国を許されて西魏に行くと、宇文泰から礼遇を受けた。のち数々の戦いに参加し、尚書右丞→開府儀同三司・直州刺史とされ、宇文氏の姓を賜った。554年に利州刺史とされ、556年に叛乱が起こるとこれを平定した。政術に通暁し、政務に精励して倦むことを知らなかったので州民から敬愛を受けた。562年、安州総管とされた。566年、江陵総管とされた。568年、荊州総管とされると良牧の評価を受けた。政績評価では常に一位を取った。569年、在任中に死去した。569年(3)参照。


 580年(3)に続く