[北周:大象二年 陳:太建十二年 後梁:天保十八年]


●突厥、公主の迎え入れを了承
 春、正月、丁亥(1日)、北周の天元帝が道会苑にて朝賀を受けた。
 癸巳(7日)、太廟を祀った。

 戊戌(12日)、陳が散騎常侍・左衛将軍の任忠を使持節・散騎常侍・都督南豫州(歴陽。陥落した今は再び姑孰に戻った?)諸軍事・平南将軍・南豫州刺史・督縁江軍防事とした。

 乙巳(14日)天元帝が太陽と月を描いた二つの玉扆(玉座の後ろに立てる屛風)を造らせ、左右に置いた。
 戊申(17日)、〔長安にて〕雪が降った。雪が止むと、細かい黄土が降り、暫くして止んだ(皇統が絶える予兆)。
 乙卯(24日)、新しく北周の支配下に入った淮南諸州の住民の税を二十年間免除した。
 この日、市門税を復活させ、市場に入る者に一律一銭を徴収した(557年に北周は市門税を撤廃していた)。
 2月、丁巳(1日)、露門学(567年に設置)に赴き、釈奠(孔子祭)を執り行なった。

〔これより前、突厥の他鉢可汗が北周に和平と婚姻を求めた(579年2月)。北周はそこで趙王招の娘を千金公主とし、突厥に嫁がせた。また、突厥に高紹義武平帝を捕らえて北周に送るよう要求した。しかし、結局交渉は決裂し、突厥は并州に侵攻した(579年5月)。北周はそこで山東諸州の人民を徴発して長城の修理をさせた(579年6月)。長城は万紐于翼于翼の監督宜しきを得て非常に堅固なものとなった。翼はそのまま幽定七州六鎮諸軍事・幽州()総管とされた。翼が幽州の総管となると、突厥はその赫々たる武名と隙の無さを憚り、以後北周領に侵入しなくなった。〕
 戊午(2日)、突厥が北周に特産品を献上した。また、千金公主を迎え入れる事を了承した。

○周宣帝紀
 二年春正月丁亥,帝受朝于道會苑。癸巳,祀太廟,乙巳,造二扆,畫日月之象,以置左右。戊申,雨雪。雪止,又雨細黃土,移時乃息。乙卯,詔江左諸州新附民,給復二十年,初稅入市者,人一錢。二月丁巳,帝幸露門學,行釋奠之禮。戊午,突厥遣使獻方物,且逆千金公主。
○陳宣帝紀
 十二年春正月戊戌,以散騎常侍、左衞將軍任忠為平南將軍、南豫州刺史,督緣江軍防事。
○隋五行志心咎
 後周大象二年正月,天雨黃土,移時乃息。與大同元年同占。時帝昏狂滋甚,期年而崩,至于靜帝,用遜厥位。絕道不嗣之應也。
○隋食貨志後周
 閔帝元年,初除市門稅。及宣帝即位,復興入市之稅。
○周50・北99突厥伝
 大象二年,始遣使奉獻,且逆(迎)公主〔為親〕。
○陳31任忠伝
 十二年,遷使持節、散騎常侍、都督南豫州諸軍事、平南將軍、南豫州刺史,增邑幷前一千五百戶。仍率步騎趣歷陽。周遣王延貴率眾為援,忠大破之,生擒延貴。

 ⑴天元帝…宇文贇。もと北周の四代皇帝の宣帝。字は乾伯。生年559、時に22歳。武帝の長子。母は李氏。品行が良くなく、酒を好み、小人物ばかりを傍に近づけ、非行を繰り返したとされる。輔佐する者の賢愚によって品行が激変する事から『中人』と評された。561年に皇子時代の父と同じ魯国公とされた。565年に楽遜、568年に斛斯徴の授業を受けた。572年、太子とされた。574年、西方を巡視した。のち、帝が四方に赴くたびに長安に留まって政治を代行した。576年、吐谷渾の討伐に赴いたが、その間多くの問題行動を起こし、烏丸軌(王軌)と安化公孝伯にこの事を武帝に報告されて杖で打たれた。以後帝の威厳を恐れはばかり、うわべを繕うことに努めるようになった。578年、帝が死ぬと跡を継いで宣帝となり、斉王憲や烏丸軌ら功臣を次々と誅殺した。579年、7歳の幼子に譲位して天元帝を名乗り、一人称を『天』とした。また、南伐を敢行し、陳から淮南を奪取した。579年(3)参照。
 ⑵任忠…字は奉誠、幼名は蛮奴。汝陰(合肥)の人。幼い頃に親を喪って貧しい生活を送り、郷里の人から軽んじられたが、境遇にめげることなく努力して知勇に優れた青年に育った。梁の鄱陽王範→王琳に仕え、琳が東伐に向かった際、本拠襲撃を図った陳将の呉明徹を撃破した。王琳が敗れると降伏し、華皎の乱が起こるとこれに加わったが、陳と内通していたため、皎が敗北したのちも引き続き陳に用いられた。のち右軍将軍とされ、北伐が起こるとこれに参加し、歴陽〜合肥方面の城を次々と陥とした。更に霍州も陥とした。578年の北伐軍大敗の際は指揮下の軍を無事帰還させた。間もなく都督寿陽、新蔡、霍州等縁淮諸軍事・霍州刺史・寧遠将軍とされ、淮西の地の軍事を任された。のち中央に戻って左衛将軍とされた。579年、大閲兵式の際に陸軍十万を率いた。北周が淮南に侵攻してくると平北将軍・都督北討前軍事とされ、秦郡に赴いたが結局何もできずに引き返した。579年(3)参照。
 ⑶他鉢可汗…タトバル。姓は阿史那。突厥の三代可汗の木杆(ムカン)可汗の弟。572年に兄が死ぬと跡を継いで可汗となった。突厥の勢威を恐れてまめまめしく貢ぎ物を送ってくる北周と北斉の事を「二人の孝行息子」と呼んだ。北斉が滅ぶと亡命してきた高紹義を匿い、北周の幽州を襲って宇文雄(劉雄)を戦死させた。その後も盧昌期や稽胡を支援して北周を苦しめた。579年、北周と婚姻を求めたが紹義を引き渡さなかったため交渉決裂し、間もなく并州に侵攻した。579年(1)参照。
 ⑷趙王招…字は豆盧突。宇文泰の第七子で武帝の異母弟。母は王姫。文学を愛好し、著名な文人の庾信と布衣の交わりを結んだ。562年、柱国とされ、益州総管を570年まで務めた。572年に大司空→大司馬、574年に王・雍州牧とされた。575年の北斉討伐の際には後三軍総管とされた。576年、北斉の汾州の諸城を攻め、上柱国とされた。577年、行軍総管とされて稽胡を討伐し、皇帝の劉没鐸を捕らえた。宣帝が即位すると太師とされた。間もなく娘が千金公主とされ、突厥に嫁いだ。579年(2)参照。
 ⑸高紹義(武平帝)…北斉の文宣帝(初代皇帝)の第三子。初め広陽王とされたが、のちに范陽王に改められた。侍中・清都尹を歴任した。素行に問題があり、武成帝(北斉四代皇帝。高緯の父)や文宣帝の正室の昭信皇后(李祖娥)に杖で打たれた。後主が北周に敗れて晋陽から鄴に逃亡した際、定州刺史とされた。間もなく前北朔州長史の趙穆らに招かれて北朔州に赴き、北斉の旧臣を糾合して晋陽を奪取しようとしたが、周軍の逆襲に遭い、やむなく突厥に亡命した。間もなく皇帝に即位した。北周の幽州范陽にて盧昌期が叛乱を起こすと援軍に赴き、宇文恩の軍を大破したが、間もなく昌期が捕らえられた事を知ると撤退した。578年(3)参照。
 ⑹万紐于翼(于翼)…字は文若。柱国・燕国公の万紐于謹の子で、于寔の弟。美男子で、宇文泰の娘婿。武衛将軍とされ、西魏の廃帝の監視を任された。のち開府儀同三司・渭州刺史とされ、吐谷渾と戦った。明帝が亡くなると晋公護と共に遺詔を受け、武帝を立てた。また、常山公とされた。人を見る目があったため、帝の弟や子どもの幕僚の選任を任された。のち大将軍・総中外宿衛兵事とされた。571年、柱国とされた。武帝が東討を図って国境の軍備を増強すると、それでは警戒を呼んでしまうとして反対し、国交を結んで油断させることを提言して許可された。573年、安州総管とされ、575年の東伐の際には事前に計画を相談され、荊・楚方面の兵を率いて北斉領を攻めた。576年、陜州総管とされ、武帝が再び東伐を行なうと洛陽を攻め陥とした。のち河陽総管→豫州総管とされた。579年、中央に呼び戻されて大司徒とされた。間もなく長城の修築を任され、そのまま幽定七州六鎮諸軍事・幽州(薊)総管とされた。579年(2)参照。

●官民大酺と孔子追封
 乙丑(9日)天元帝が『制詔』を『天制詔』に改め、『勅』を『天勅』に改めた[1]
 壬午(26日)、天元皇太后の阿史那氏を天元上皇太后とし、天皇太后の李氏を天元聖皇太后とした。
 癸未(27日)、天元皇后の普六茹氏楊氏を天元大皇后とし、天皇后の朱氏を天大皇后とし、天右皇后の拓跋氏元氏を天右大皇后とし、天左皇后の陳氏を天左大皇后とした。
 また、正陽宮皇后(静帝の皇后)の司馬氏をただ単に皇后と呼ぶことにした。
 この日、洛陽にて禿鶖鳥(ハゲコウ)が新しく造営したばかりの洛陽宮の太極殿の前に集った。
 また、滎州にて黒龍が現れ、汴水の傍で赤龍と闘って死んだ
 3月、丁亥(1日)、北周が百官および〔長安の住〕民に酒食をふるまい、宴会を開くことを許した。
 また、詔を下して言った。
「孔子に鄒国公を追封し、邑数はこれまでの国公に準ずることとする。また、子孫を後継に立てて爵位を継がせる。また、都に孔子廟を建て、定期的に祭祀を行なうこととする。」

○周宣帝紀
 乙丑,改制詔為天制詔,敕為天敕。壬午,尊天元皇太后為天元上皇太后,天皇太后李氏曰天元聖皇太后。癸未,立天元皇后楊氏為天元大皇后,天皇后朱氏為天大皇后,天右皇后元氏為天右大皇后,天左皇后陳氏為天左大皇后。正陽宮皇后直稱皇后。是日,洛陽有禿鶖鳥集於新營太極殿前。滎州有黑龍見,與赤龍鬭於汴水之側,黑龍死。三月丁亥,賜百官及民大酺。詔曰:「…孔子…可追封為鄒國公,邑數准舊。并立後承襲。別於京師置廟,以時祭享。」
○隋五行志皇之不極
 後周建德五年, 黑龍墜於亳州而死。龍,君之象。黑,周所尚色。墜而死,不祥之甚。

 [1]制は大賞罰・大除授・赦宥・慮囚・慰勞の時に用いる。勅は廃置州県・増減官吏・除免官爵・授六品以上官・発兵・施行百官奏請・戒約臣下の時に用いる。
 ⑴阿史那氏…生年551、時に30歳。突厥の木扞可汗の娘。美人で立ち居振る舞いにも品があった。568年、武帝に嫁いだ。578年、帝が死に、宣帝が即位すると皇太后とされた。579年、帝が譲位して天元皇帝となると天元皇太后とされた。579年(2)参照。
 ⑵李氏…名は娥姿。楚(江陵)の人。生年536、時に45歳。西魏が江陵を陥とした時に、一家もろとも長安に連行され、宇文邕(のちの武帝)に嫁がされた。次第に寵愛を得て、贇(のちの宣帝)を産んだ。宣帝が即位すると帝太后とされた。579年、帝が譲位して天元皇帝となると天元帝太后→天皇太后とされた。579年(2)参照。
 ⑶普六茹氏(楊氏)…名は麗華。生年561、時に20歳。北周の上柱国・隨国公の普六茹堅(楊堅)の長女。573年に太子贇の妃とされた。贇が即位して宣帝となると皇后とされた。帝が譲位して天元皇帝となると天元皇后とされた。579年(2)参照。
 ⑷朱氏…生年547、時に34歳。名は満月。南人。家が事件に連座したことで太子贇の下女とされ、贇の衣服管理を任された。のち贇と関係を持ち、573年に衍(静帝)を産んだ。贇が即位して宣帝となり、のち譲位して天元皇帝となると天元帝后→天皇后とされた。579年(2)参照。
 ⑸拓跋氏(元氏)…名は楽尚。開府の拓跋晟(元晟)の第二女。十五歳の時に宣帝に嫁ぎ、貴妃とされた。帝が譲位して天元皇帝となると天右皇后とされた。579年(2)参照。
 ⑹陳氏…名は月儀。大将軍の陳山提の第八女。579年6月、天元帝(宣帝)に嫁いで徳妃とされた。間もなく天左皇后とされた。579年(2)参照。
 ⑺静帝…生年573、時に8歳。天元帝(宣帝)の長子。母は朱満月(南方出身)。579年の1月に魯王→皇太子とされ、2月に帝位を譲られて静帝となった。579年(2)参照。
 ⑻司馬氏…名は令姫。大後丞・柱国・滎陽公の司馬消難の娘。579年7月に静帝に嫁いで皇后とされた。579年(2)参照。
 ⑼滎州…成臯。虎牢。北斉の北豫州。洛陽の東およそ二百里。
 ⑽北周は木徳だが黒を尊んだ。龍は皇帝の象徴。木徳の王朝の次に興る王朝は火徳。ちなみに、隋五行志では建徳五年(576)にも『黒龍が亳州(南兗州)に墜ちて死んだ』とある。この時、南兗州の地域は北斉が支配していた。翌年に普六茹堅(楊堅)が総管となる。

●杞公亮の乱

 北周の〔上柱国・相州総管・〕蜀国公の尉遅迥の孫娘の尉遅熾繁《北史》では繁熾。生年566、時に15歳。尉遅順の子)は美人で、杞公亮の子の西陽公温に嫁いでいた。
 当時、皇族の妻は参内するのが決まりだった。ある時、熾繁はその慣例に従って参内した。彼女の美貌を知っていた帝はこれと関係を持ちたいと考え、妃の司馬氏司馬氏は天元帝の息子の静帝の皇后。天元帝の皇后は普六茹氏・朱氏・拓跋氏・陳氏。誤りであろう)にこう言った。
「天は尉遅夫人(熾繁)の艶美さを愛している。どうにかして我が物にしたい。この事を代わりに言ってくれ。」
 司馬妃は言った。
「尉遅夫人は恥ずかしがり屋でありますから、この事を直接言うと恥ずかしがって、引っ込んでしまうでしょう。酒で酔わせた後に襲えば、陛下の思い通りになると思います。」
 帝はこれに賛成し、遂に熾繁を酒宴に招き、司馬妃にその相手をさせた。司馬妃は宮女に大觥(酒器)を持たせ、次々と熾繁に酒を勧めさせた。熾繁はもともと酒に弱かったので、知らず知らずのうちに酔いつぶれ、机に寄りかかって寝てしまった。司馬妃は宮女たちに熾繁を担がせて寝台に寝させ、それから帝にこう報告して言った。
「万事整いました。」
 帝は大いに喜び、〔寝台を囲む〕帳を持ち上げて寝姿を見ると、ますます愛おしくなり、そのまま裸にして犯した。熾繁は眠りから醒めると、体が既に汚されているのに気づいたが、もはやどうしようもなく、跪いて家に帰ることを求めるほか無かった。帝は言った。
「お前はまだ家に未練があるのか? それならお前の一家を皆殺しにして、お前を妃にしよう。」
 熾繁は恐れおののき、泣いてこう言った。
「私は下賤な身でありますゆえ、もとから陛下のお相手には相応しくありません。もし私のせいで一門が皆殺しにされたら、私一人どうしておめおめと生きていられましょうか。陛下、どうかお慈悲をくださいませ!」
 帝はその恐怖の表情を見ると、落ち着かせるためにこう言った。
「そんなに怖がるな。さっきの言葉はただの冗談だ。ただ、今後、呼び出しには絶対に応じるように。」
 熾繁は再拝して外に出ると、家に帰って夫の西陽公温に皇宮での出来事を語った。温は大いに驚き、密かに父の杞公亮にこの事を伝えた
 この時、亮は淮南に出征していて、行軍総管として一方面の指揮官を務め、宇文孝寛(韋孝寛)は行軍元帥として南征軍の総指揮官を務めていた。両軍は前後に並んで行軍し、その距離は数里ほど離れていた。亮は息子からの報告を聞くと誅殺の恐れを抱き、こう言った。
「天元の無道さはこの通りだ。天元はただ我が家の名声を傷つけただけでなく、我が家族全員の生命をも奪おうとしている。私は座して死を待つことはできぬ!」
 かくて腹心たちと叛乱の計画を練った。この時、ある者が言った。
「暴政によって臣民の心は離れておりますゆえ、その破滅は近うございます。ゆえに、ここは暫く江南に亡命して、変事が起こるのを待つのが良いでしょう。」
 亮は言った。
「我が家族は長安におり、見捨てることはできぬ。それに、一度国境を出たら、帰るのは難しいのではないか?」
 ある者が言った。
「無防備につけこんで長安に討ち入り、無道を廃して有徳の者を立てたなら、それは世にも稀な偉大な功績となるでしょう。」
 亮は言った。
「これこそ我が本懐であるが、ただ、私の軍は孝寛の軍と並んで行軍しており、その様子は一括りにされた鶏のようで、長安に進むなら必ずこれと共に進んで事を起こさねばならぬ。しかし、彼は天元に信任されているのであるから、私と共に叛いてくれるわけが無い。私が叛けば、彼はすぐに討伐に赴いてくるだろう。」
 亮は豫州(汝南)に到った際、密かに長史の杜士峻にこう言った。
「主上の無道さは日増しに激しくなり、国家の命脈は風前の灯となっている。私は皇族の末席を連ねさせていただいている身であるゆえ、国家が滅亡するのを座視することはできぬ。今、もし鄖国公(宇文孝寛)を奇襲して捕らえてその兵を手に入れ、叔父たち(趙王招などの宇文泰の子どもたち。このとき各封国に派遣されていた)の誰かを推戴して君主とし、長安に進めば、みな喜んで味方に付くだろう。」
 かくて夜に数百騎を率いて宇文孝寛の陣営を襲った。しかし、その前に亮の国官の普六茹寛茹寛)が計画を察知して孝寛に急報していたため、陣営の守りは固くなっていた。そのため亮は勝つことができず、逃走を余儀なくされた。孝寛は拓跋景山元景山)に鉄騎三百を与えて追撃させた。
 戊子(2日)、亮を捕らえて斬った。
 亮の子の宇文明西陽公温もこのとき誅殺された。帝は熾繁を後宮に入れ、長貴妃とした。
 また、熾繁の父で開府・安固郡公の尉遅順迥の第三子)を上柱国・胙国公とした。
 辛卯(5日)、亮の弟の永昌公椿を代わりに杞国公とした。

○周宣帝紀
 戊子,行軍總管、𣏌國公亮舉兵反,襲行軍元帥、鄖國公韋孝寬於豫州。亮不勝,孝寬獲而殺之。辛卯,以永昌公椿為𣏌國公,紹簡公連後。…西陽公溫,𣏌國公亮之子,即帝之從祖兄子也。其妻尉遲氏有容色,因入朝,帝遂飲之以酒,逼而淫之。亮聞之,懼誅,乃反。纔誅溫,即追尉遲氏入宮,初為妃,尋立為皇后。
○周9宣帝尉遅皇后伝
 宣帝尉遲皇后名熾繁(繁熾),蜀國公迥之孫女。有美色。初適𣏌國公亮子西陽公溫,以宗婦例入朝,帝逼而幸之。及亮謀逆,帝誅溫,進后入宮,拜為長貴妃。大象二年三月,立為天左大皇后。
○周10杞公亮伝
 軍還至豫州,亮密謂長史杜士峻曰:「主上淫縱滋甚,社稷將危。吾既忝宗枝,不忍坐見傾覆。今若襲取鄖國公而并其眾,推諸父為主,鼓行而前,誰敢不從。」遂夜將數百騎襲孝寬營。會亮國官茹寬知其謀,先以馳告,孝寬乃設備。亮不克,遯走,孝寬追斬之。子明坐亮誅。詔以亮弟椿為烈公後。
○周31韋孝寛伝
 軍還,至豫州,宇文亮舉兵反,潛以數百騎襲孝寬營。時亮圉(國)官茹寬密白其狀,孝寬有備。亮不得入,遁走,孝寬追獲之。詔以平淮南之功,別封一子滑國公。
○隋39元景山伝
 宣帝嗣位,從上柱國韋孝寬經略淮南。鄖州總管宇文亮謀圖不軌,以輕兵襲孝寬。孝寬窘迫,未得整陣,為亮所薄。景山率鐵騎三百出擊,破之,斬亮傳首。
○北62尉遅順伝
 寬弟順,以迥平蜀功,授開府、安固郡公。後以女為宣帝皇后,拜上柱國,封胙國公。
○北史演義
 有杞公宇文亮,於天元為從祖兄,其子西楊公溫,妻尉遲氏,天元之姪婦也,有美色。一日,以宗婦入朝,天元悅其美,欲私幸之,謂其妃司馬氏曰:「朕愛尉遲夫人嬌好,欲使從我。卿盍為我言之。」司馬妃曰:「尉遲夫人面重,直言之,恐其羞怯,不能如陛下意。不如醉以酒而就之,一任帝所欲為矣。」天元稱善,乃賜宴宮中,命司馬妃陪飲。尉遲氏不敢辭,只得坐而飲。司馬妃命宮女輪流勸盞,又請以大觥敬之。尉遲氏酒量本淺,又連飲數杯,不覺沉醉,坐不能起,倚桌而臥。司馬妃命宮女卸其妝束,扶上御榻安寢,報帝曰:「事諧矣。」天元大喜,搴幃視之,益覺可愛,遂裸而淫之。及尉遲氏醒,身已被污,只索無奈,跪而乞歸。天元曰:「爾不忘家耶?我將殺爾一家,納爾為妃。」尉遲氏懼且泣曰:「妾體鄙陋,本不足以辱至尊。若以妾故,而戮及一門,妾亦不能獨生矣。乞至尊哀之。」天元見其有怖色,慰之曰:「汝勿懼,吾言戲耳。今後召汝,慎毋違也。」尉遲氏再拜而出,歸語其夫。夫大驚,密以其事報於父。時值淮南用兵,亮為行軍總管,韋孝寬為行軍元帥。兩軍前後行,相違數里。亮聞報大懼,曰:「天元無道若此,不唯辱我家風,且將滅我門戶,我豈可坐而待死!」乃與左右心腹謀之。或曰:「朝廷暴政橫行,臣民解體,危亡可待。不如暫投江南,以觀其變。」亮曰:「我家在長安,棄之不忍。且一出此境,安能復返?」或曰:「乘其無備,殺入長安,廢此無道,另立有德,此不世之功也。」亮曰:「此固吾志,但吾與孝寬並行,勢若連雞。必與之俱西,方可成事。而彼方得君,安肯與我同反?吾朝叛,彼夕討矣。為今之計,必先襲而執之,並其眾,然後可以鼓行而西。」左右皆稱善。乃定計於是夜之半,先襲破孝寬營。

 ⑴尉遅迥…字は薄居羅。宇文泰の姉の子。生年516、時に65歳。美男子。早くに父を亡くし、宇文家に引き取られて育てられた。頭脳明晰で文武に才能を発揮し、泰に非常に信任された。553年に蜀制圧という大功を立てた。558年、隴右の鎮守に赴いた。559年に蜀国公、562年に大司馬とされた。564年、洛陽攻めの総指揮官となったが、包囲が破られると数十騎を率いて殿軍を務めた。568年に太保とされ、のちに太傅とされた。572年に太師、575年に上柱国ととされた。578年、相州総管とされた。579年、大右弼→大前疑とされた。579年(2)参照。
 ⑵杞公亮…字は乾徳。晋公護の兄の宇文導の次子。同じ宇文顥系の子孫であることから護から重用を受け、護の子どもたちと共に贅沢をほしいままにした。563年~568年頃に梁州総管を務め、のち宗師中大夫とされた。571~574年、秦州総管とされ、亡兄の豳公広の部下を全て配されたが、全く政績を挙げることができなかった。のち、柱国とされた。護が誅殺されると不安を覚え、酒に溺れた。576年の東伐の際、右二軍総管とされた。晋陽を陥とすと上柱国とされた。577年、大司徒とされた。579年、安州総管とされた。間もなく行軍総管とされて南伐に赴き、陳の黄城を陥とした。579年(3)参照。
 ⑶《南北史演義》には『十日後にようやく帰ることを許された』とある。
 ⑷宇文孝寛(韋孝寛)…本名叔裕。生年509、時に72歳。関中の名門の出身。華北の大名士かつ智謀の士の楊侃に才能を認められ、その娘婿となった。北魏時代に政治面で優れた手腕を示し、独孤信と共に「連璧」と並び称された。のち西魏に仕え、高歓の大軍から玉壁を守り切る大殊勲を立てた。のち、江陵攻略に参加し、宇文氏の姓を賜った。556年、再び玉壁の守備を任された。561年に勲州(玉壁)刺史、564年に柱国、570年に鄖国公とされた。572年、北斉に流言を放ち、斛律光を誅殺に導いた。また、武帝に伐斉三策を進言した。577年、北斉が滅ぶと長安に帰って大司空とされ、のち延州総管・上柱国とされた。579年、徐州総管とされた。南伐の際には行軍元帥とされた。579年(3)参照。
 ⑸永昌公椿…字は乾寿。宇文導(晋公護の兄)の第四子。杞公亮の弟。保定年間(561~565)に開府儀同三司・宗師中大夫とされ、建徳元年(572)に大将軍とされた。間もなく岐州刺史とされた。575年、東伐が行なわれると斉王憲と共に武済など五城を陥とした。576年の東伐でも斉王憲と行動を共にし、鶏棲原を守備した。578年、大司寇とされた。578年(3)参照。

●戦争と統治
 拓跋景山はこの功により亳州(南兗州〈陳留〉)総管とされた。
 景山(生年532、時に49歳)は字を珤(ホウ)岳といい、祖父は北魏の華州刺史の安定王燮、父は西魏の宋安王の拓跋琰元琰、字は伏宝)。
 若年の頃から器量が大きく、才略に優れていた。北周の孝閔帝明帝の誤り)の時(557)に大司馬の賀蘭祥の吐谷渾討伐(558年)に加わり、戦功を挙げて撫軍将軍とされた。その後もしばしば征伐に加わって、その功により儀同三司・文昌県公・亹()川防主とされた。のち北斉と北邙にて戦い(564年)、非常に多くの首級を挙げて開府・建州刺史・宋安郡公(邑三千戸)とされた。のち武帝の平斉(576~577年)に加わり、戦うたびに戦功を立てて大将軍・平原郡公(邑二千戸。減っている)とされ、女楽隊一部・絹六千疋・奴隷二百五十人・牛羊数千頭を与えられた。
 のち、治亳州総管とされた。これより前、州民の王迴洛張季真らは流民を集めて強盗行為を働いていたが、これまでの長官たちはこれを鎮圧する事ができなかった。景山は着任すると鎮圧に赴き、迴洛・季真を陳に追いやり、その徒党数百人を皆殺しにした。景山の出した法令は明快で厳しかったため、盗賊は姿を消した。人々は景山が州内を良く安定させたことを称賛した。
 陳人の張景遵が淮南の地〔の一部〕と共に北周に帰順すると、陳将の任蛮奴任忠はこれを攻め、数ヶ所の砦を陥とした。しかし、景山が救援のために譙・潁の兵を発したのを知ると退却した
 のち、中央に呼ばれて候正(巡回警備を担当)とされた。

 壬辰(6日)、陳が平北将軍〔・南徐州刺史〕の廬陵王伯仁を翊左将軍・中領軍とした。

○陳宣帝紀
 三月壬辰,以平北將軍廬陵王伯仁為翊左將軍、中領軍。
○隋39元景山伝
 元景山字珤岳,河南洛陽人也。祖燮,魏安定王。父琰,宋安王。景山少有器局,幹略過人。周閔帝時,從大司馬賀蘭祥擊吐谷渾,以功拜撫軍將軍。其後數從征伐,累遷儀同三司,賜爵文昌縣公,授亹川防主。後與齊人戰於北邙,斬級居多,加開府,遷建州刺史,進封宋安郡公,邑三千戶。從武帝平齊,每戰有功,拜大將軍,改封平原郡公,邑二千戶,賜女樂一部,帛六千匹,奴婢二百五十口,牛羊數千。治亳州總管。先是,州民王迴洛、張季真等聚結亡命,每為劫盜。前後牧守不能制。景山下車,逐捕之,迴洛、季真挺身奔江南。禽其黨與數百人,皆斬之。法令明肅,盜賊屏迹,稱為大治。陳人張景遵以淮南內屬,為陳將任蠻奴所攻,破其數柵。景山發譙、潁兵援之,蠻奴引軍而退。徵為候正。宣帝嗣位,從上柱國韋孝寬經略淮南。鄖州總管宇文亮謀圖不軌,以輕兵襲孝寬。孝寬窘迫,未得整陣,為亮所薄。景山率鐵騎三百出擊,破之,斬亮傳首。以功拜亳州總管。

 ⑴亹川…西寧衛(鄯州。涼州の南)に浩亹川がある。また、浩亹城がある。恐らくこれのことか?
 ⑵任蛮奴(任忠)…字は奉誠、幼名は蛮奴。汝陰(合肥)の人。幼い頃に親を喪って貧しい生活を送り、郷里の人から軽んじられたが、境遇にめげることなく努力して知勇に優れた青年に育った。梁の鄱陽王範→王琳に仕え、琳が東伐に向かった際、本拠襲撃を図った陳将の呉明徹を撃破した。王琳が敗れると降伏し、華皎の乱が起こるとこれに加わったが、陳と内通していたため、皎が敗北したのちも引き続き陳に用いられた。のち右軍将軍とされ、北伐が起こるとこれに参加し、歴陽〜合肥方面の城を次々と陥とした。更に霍州も陥とした。578年の北伐軍大敗の際は指揮下の軍を無事帰還させた。間もなく都督寿陽、新蔡、霍州等縁淮諸軍事・霍州刺史・寧遠将軍とされ、淮西の地の軍事を任された。578年(1)参照。
 ⑶この記事は北斉平定から宣帝即位までの間に置かれている。北斉を平定したのが577年2月、陳と戦争状態になったのが10月、普六茹堅が南兗州総管とされたのが12月であるため、この事が起きたのは10~12月の事か?或いは、宣帝即位の後のことになるが、普六茹堅の大司馬就任の578年7月以降の事か。こちらならそのとき任忠は淮西の守備に就いているし、陳が劣勢に立っているため張景遵が帰順してくるのも自然である。
 ⑷廬陵王伯仁…字は寿之。文帝(宣帝の兄)の第八子。母は王充華。565年に廬陵王とされた。576年、中領軍とされた。578年、平北将軍・南徐州刺史とされた。578年(1)参照。
 
●無軌道
 この日天元帝が同州に赴いた。この時、候正(天子の外出の際、前方の警戒を担当する)を増員し、先払いの者たちの横列は三百六十に達し、応門(応天門。皇宮の南門)から赤岸沢(同州の西南)に到るまでの数十里の間、旗はひしめき合い、軍楽が響き続けた。また、虎賁(衛士)に手鉾を持たせて馬に乗せ、同州に着くまで先払いの声を上げさせた。
 乙未(9日)、同州宮を天成宮に改めた。
 庚子(14日)、同州より長安に帰還した。また、詔を下し、天台(天元帝の居所)の侍衛官の服の色を五色(青・黄・赤・白・黒のどれか)および紅・紫・緑のいずれかにし、それ以外の色で縁取りをさせた。これを『品色衣』と名付けた。大きな行事に出席する際は朝服を与えて着替えさせた。
 壬寅(16日)、内命婦(五品以上の女官)と外命婦(五品以上の官人の妻)に笏を持たせ、宗廟および天台(天元帝の宮殿)を拝する時にはみな男子のように俛伏(手に笏を持ち、腰を折って深く礼をする)させることとした。

○周宣帝紀
 行幸同州。增候正,前驅戒道,為三百六十重,自應門至於赤岸澤,數十里間,幡旗相蔽,鼓樂俱作。又令武賁持鈒馬上,稱警蹕,以至於同州。乙未,改同州宮為天成宮。庚子,至自同州。詔天臺侍衛之官,皆著五色及紅紫綠衣,以雜色為緣,名曰品色衣。有大事,與公服間服之。壬寅,詔內外命婦皆執笏,其拜宗廟及天臺,皆俛伏。

●五皇后
 天元帝が皇后を五人にしようと考え、儒者で少宗伯の辛彦之に是非を問うた。彦之は答えて言った。
「皇后と天子は等しく尊貴の身分でございますゆえ、〔数は釣り合っていなければなりません。〕五人にするのは宜しくありません。」
 この時、太学博士の何妥が反論して言った。
帝嚳には四妃(姜嫄・簡狄・慶都・常儀)がおり、舜にも二妃(娥皇・女英)がおりました。数が釣り合っている必要はありません。」
 帝は大いに喜び、妥を襄城県伯に封じ、彦之を免官にした

 甲辰(18日)、詔を下して言った。
「皇帝と皇后の関係は人民教化の基礎であり、皇后の制度というのは代々特別な物とされてきた。〔ただ、〕軒轅黄帝)と帝嚳は即位すると四人の妃(軒轅は嫘祖・女節・彤魚・嫫母)を娶り、虞舜は天子となると三人(二人?)の妃を娶った。このように、皇后の制度というのは不変なものでは無く、随時変わっていくものなのだ。よって、朕は皇帝となった今、現今の制度を改め、先古の制度をも超越することにした。天元(北極星)は極点に居るため、五帝(五帝座)の仰ぎ崇める所となった。朕は天元帝を称したのであるから、后の数もこれと同じにしなければならぬ。また、坤儀(皇后)の徳は〔五行で言う所の〕土徳で(坤は土の意)、その順番は五に当たる(金・木・水・火・土)。このように既に超自然的な物が定めているのであるから、これに従うのは当然のことであろう。よって今、四大皇后の他に天中大皇后を増置することとした。」
 かくて天左大皇后の陳氏を天中大皇后とし、妃の尉遅氏を天左大皇后とした。

 帝は人に五つの下帳(陵墓の中に作られる前室)を作らせ、五皇后にそれぞれ住まわせた。その見た目は葬送の器物のようであり、帝は宗廟の祭器をその前に並べ、自ら祝詞を読み上げて〔祖先を祀るように五皇后を〕祀った。
 また、五輅(五種類の車。玄輅・夏篆・夏縵・墨車・輚車がある)に五皇后を乗せ、帝自ら衛士たちを引き連れて歩いて付き従った。
 また、車の上に逆さまに吊るした鶏や砕けた瓦を置き、それらが出す音を聞くのを楽しみとした。

○周宣帝紀
 甲辰,初置天中大皇后。立天左大皇后陳氏為天中大皇后,立妃尉遲氏為天左大皇后。
○周9宣帝陳皇后伝
 三月,又詔曰:「正內之重,風化之基,嘉耦之制,代多殊典。軒、嚳繼軌,次妃並四;虞舜受命,厥娶猶三。禮非相襲,隨時不無。朕祗承寶圖,載弘徽號,自我改作,超革先古。曰天元居極,五帝所以仰崇;王者稱尊,列后於焉上儷。且坤儀比德,土數惟五,既縟恆典,宜取斯儀。四大皇后外,可增置天中大皇后一人。天中大皇后爰主粢盛,徽音日躋,肇建嘉名,宜膺顯冊。」於是以后為天中大皇后。
○隋五行志服妖
 又造下帳,如送終之具,令五皇后各居其一,實宗廟祭器於前,帝親讀版而祭之。又將五輅載婦人,身率左右步從。又倒懸鷄及碎瓦於車上,觀其作聲,以為笑樂。
○隋75・北82辛彦之伝
 宣帝即位,拜少宗伯。〔時帝立五皇后,彥之切諫,由是忤旨,免官。
○隋75何妥伝
 授太學博士。宣帝初欲立五后,以問儒者辛彥之,對曰:「后與天子匹體齊尊,不宜有五。」妥駁曰:「帝嚳四妃,舜又二妃,亦何常數?」由是封襄城縣伯。

 ⑴辛彦之…隴西狄道の人。祖父は涼州刺史、父は渭州刺史。読書家で学問に打ち込み、宇文泰に才能を認められて中外府礼曹とされ、西魏の儀礼制度の整備を任された。のち中書侍郎とされ、北周が建国されると少宗伯の盧弁と共に儀礼制度を管掌した。明帝・武帝の時(557~578)に典祀・太祝・楽部・御正の四曹の大夫を歴任し、開府儀同三司とされた。565~568年に突厥に赴いて阿史那皇后を連れて帰り、龍門県公とされ、のち五原郡公とされた。宣帝が即位すると少宗伯とされた。のち小礼部とされ、572年に使者として北斉に赴いた。572年(3)参照。
 ⑵この出来事は、皇后を4→5人にした時より、1→4人にした時の方がしっくりくるような気がする。

●商胡、俊才を生む
 何妥は字を栖鳳といい、西域の人である。父の何細胡北史では『何細脚胡』)は商いのために蜀に入り、郫県(成都の西二十五里)に住んだ。それから梁の武陵王紀に仕え、金や絹の交易を一手に任され、それによって巨万の富を築くことに成功し、『西州大賈(西域の大商人)』と呼ばれた。
 妥は若年の頃から頭が良く、八歲の時に国子学に赴いて勉強した。この時、助教の顧良がふざけてこう言った。
「汝の姓は『カ』だが、これは荷葉(蓮の葉)の荷なのか、それとも河水の河なのか?」
 すると妥は即座にこう答えて言った。
「先生の姓は『コ』ですが、これは眷顧の顧なのでしょうか、それとも新故の故なのでしょうか?」
 人々はこの話を聞くとみなその優れた才能に驚いた。
 十七歳の時に学問の造詣の深さを認められて湘東王繹のちの元帝)に仕え、のち繹にその頭の良さを知られて近侍とされ、書籍の朗読を任された。この時、蘭陵の蕭眘も俊才として名を知られており、眘は青楊巷に住んでいて、妥は白楊頭に住んでいたため、人々はこう言った。
「世に両俊あり。白楊の何妥に、青楊の蕭眘。」
 称賛される様はこんな風だった。
 江陵が陥ちると(554年)〔長安に連行され、〕のち北周の武帝に重用を受けて太学博士とされた。

○隋75・北82何妥伝
 何妥字栖鳳,西城人也。父細〔脚〕胡,通商入蜀,遂家郫縣,事梁武陵王紀,主知金帛,因致巨富,號為西州大賈。妥少機警,八歲遊國子學,助教顧良戲之曰:「汝既姓何,是荷葉之荷,為是河水之河?」應聲答曰:「先生姓顧,是眷顧之顧,是新故之故?」眾咸異之。十七,以技巧事湘東王,後知其聰明,召為誦書左右。時蘭陵蕭眘亦有儁才,住青楊巷,妥住白楊頭,時人為之語曰:「世有兩儁,白楊何妥,青楊蕭眘。」其見美如此。江陵陷,周武帝尤重之,授太學博士。

●陸繕の死
 夏、4月、癸亥(8日)、陳の尚書左僕射の陸繕が亡くなった(享年63)。
 侍中・特進・金紫光禄大夫を追贈し、安子と諡した。太子叔宝は繕が東宮の旧臣だった事(569年に太子詹事・行東宮事とされた)を以て、特別に祖奠(出棺前の供え物)を与えた。

○陳宣帝紀
 夏四月癸亥,尚書左僕射陸繕卒。
○陳23陸繕伝
 十二年卒,時年六十三。贈侍中、特進、金紫光祿大夫,諡曰安子。太子以繕東宮舊臣,特賜祖奠。

 ⑴陸繕…字は士繻。生年518、時に63歳。名門呉郡陸氏の出身。承聖年間(552~555)に中書侍郎・掌東宮管記とされ、江陵が西魏に陷とされると建康に逃亡した。のち給事黄門侍郎や侍中、新安太守とされ、陳の文帝が即位すると太子中庶子・掌東宮管記とされた。容姿端麗で立ち居振る舞いにも品があったので、帝の子どもたちの手本とされた。陳宝応を滅ぼすと(564年)建安太守とされた。のち御史中丞とされ、太建の初め(569)に度支尚書・侍中・太子詹事・行東宮事・領揚州大中正とされた。575年に尚書右僕射、576年に左僕射とされた。578年に尚書僕射、579年、尚書左僕射・領揚州大中正とされた。579年(3)参照。
 ⑵太子叔宝…陳叔宝。字は元秀。幼名は黄奴。宣帝の嫡長子。生年553、時に28歳。554年、西魏が江陵が陥とした際に父と共に長安に連行され、父の帰国後も人質として北周国内に留められた。562年、帰国を許され、安成王世子に立てられた。569年、父が即位して宣帝となると太子とされた。のち周弘正から論語と孝経の講義を受けた。577年(4)参照。

●旱魃と雨乞い
 乙丑(10日)、枡ほどの大きさの流星が天厨星より現れ、紫微宮に入り、鈎陳に当たって消えた。占いの結果はこうだった。
「天子が亡くなり、大きな戦争が起こり、将軍が殺される。」
 また、このような結果も出た。
「臣下が君主に叛き、君主が死ぬ。」

 この日、陳が宣毅将軍の河東王叔献を散騎常侍・軍師将軍・都督南徐州諸軍事・南徐州(京口。建康の東の長江玄関口)刺史とした(叔献はこのときまだ13歳)。

 己巳(14日)、北周の天元帝が太廟を祀った。
 己卯(24日)、詔を下して言った。
「朕は徳や見識が薄く、治国の方法に暗く、天地を休息させて陰陽を調和させる事ができなかった。そのため、春から夏に至るまで雨が降ることが無かった。このままでは秋には凶作となり、農民の生業が破綻してしまうことになる。朕は朝夕勤勉に働き身を慎み、うたた寝すらもしないように努めているが、まだ人民を良い方向に導けず、政刑には多くの誤りがある。ゆえに、天下で起きた犯罪の責任は全て朕にある。そこで、寬恵に深く思いを致し、これを全土に広く行き渡らせようと思う。よって今、罪人のうち、死罪の者はみな流罪に減刑し、流罪の者は徒罪に減刑し、五歲刑以下の者はみな釈放する事とする。ただ、謀叛(内乱や外患を計画した者)・悪逆(祖父母・父母を殺そうと謀ったり、伯叔父・父の姉妹などを殺す罪を犯したりした者)・不道(一家のうち、死罪にあたらない者三人を殺す罪を犯した者)など、通常の赦免の対象外の者は、減刑の対象外とする。」

 この日、陳が大規模な雨乞いの儀式を行なった。

 壬午(27日)天元帝が仲山に赴いて雨乞いをした。雨乞いが終わって咸陽宮に到った時、雨が降った。

 この日、陳でも雨が降った。

 甲申(29日)天元帝が長安に帰った。長安市民は街の到る所で音楽を奏で、その帰還を歓迎した。

 5月、癸巳(9日)、軍師将軍・尚書右僕射の晋安王伯恭を尚書僕射とした。

○周宣帝紀
 夏四月乙丑,有星大如斗,出天厨,流入紫宮,抵鈎陳乃滅。己巳,祀太廟。己卯,詔曰:「朕以寡薄,昧於治方,不能使天地休和,陰陽調序。自春涉夏,甘澤未豐,既軫西郊之歎,將虧南畝之業。興言夕惕,無忘鑒昧(寐?)。良由德化未敷,政刑多舛,萬方有罪,責在朕躬。思覃寬惠,被之率土。見囚死罪竝降從流,流罪從徒,五歲刑已下悉皆原宥。其反叛惡逆不道,及常赦所不免者,不在降例。」壬午,幸仲山祈雨。至咸陽宮,雨降。甲申,還宮。令京城士女於衢巷作音樂以迎候。
○陳宣帝紀
 乙丑,以宣毅將軍河東王叔獻為南徐州刺史。己卯,大雩。壬午,雨。五月癸巳,以軍師將軍、尚書右僕射晉安王伯恭為尚書僕射。
○隋天文志災変応周
 占曰:「有大喪,兵大起,將軍戮。」又曰:「臣犯上,主有憂。」
○陳28河東王叔献伝
 七年,授宣毅將軍,置佐史。尋為散騎常侍、軍師將軍、都督南徐州諸軍事、南徐州刺史。

 ⑴河東王叔献…字は子恭。宣帝の第九子。生年568、時に13歳。謙虚な性格で、頭が良く、学問を好んだ。573年、河東王とされた。573年(5)参照。
 ⑵仲山…《読史方輿紀要》曰く、『西安府(長安)の北七十里→涇陽県の西北七十里にある。』
 ⑶晋安王伯恭…字は肅之。文帝の第六子。母は厳淑媛。565年に晋安王に封ぜられた。のち呉郡太守とされると、十余歳の身ながら職務に精励して役所をよく治めた。569年に中護軍・安南将軍とされ、のち中領軍→中衛将軍・揚州刺史とされたが、事件に連座して免官となった。572年、復帰して安左将軍→鎮右将軍・特進とされた。574年、安南将軍・南豫州刺史とされた。577年、安前将軍・祠部尚書とされた。579年、軍師将軍・尚書右僕射とされた。579年(3)参照。

●天元、普六茹堅を忌む
 北周の天元大皇后の普六茹氏楊氏。名は麗華)は従順な性格で嫉妬しなかったため、四皇后や嬪御たちから敬愛を受けていた。
 天元帝は時が経つにつれて無道・暴虐ぶりが激しくなり、感情の起伏が常軌を逸するようになった。ある時、帝は麗華(普六茹氏)を責めて処罰しようとしたが、麗華は落ち着き払って全く恐れの色を見せなかったので、帝は激怒し、自殺するよう迫った。嬪御たちはみな麗華のために叩頭し、殺さないよう求めた。麗華の母の独孤氏はこの事を知ると皇宮に赴き、麗華のために陳謝し、額から血が出るほどに叩頭した。すると帝は怒りを解いて麗華を赦した。

 独孤氏生年544、時に37歳)は諱を伽羅といい、北周の太保・柱国・衛国公の独孤信の第七女である。母は崔氏
 信は伽羅が十四歳の時(557)、普六茹堅楊堅。557年のとき17歳の容貌が只者でないのを見て、これに嫁がせた。堅は伽羅とおしどり夫婦になった。堅は絶対他の女性との間に子を作らない事を誓った。伽羅も初めのうちは従順・控えめで堅の両親に孝行を尽くし、婦道から外れなかった。
 独孤一族は伽羅の姉が北周の明帝の后となり、伽羅の長女が宣帝天元帝)の后となるなど、外戚として比肩する者が無いほどの盛んさを誇ったが、伽羅は驕ることなく謙虚にふるまったので、人々から賢婦人と讃えられた。

 麗華の父で上柱国・大前疑・隨国公の普六茹堅は、帝の巡幸の際、常に長安の留守を任された。帝が《刑経聖制》という厳しい法律を作ると(579年〈1〉参照)、堅は法律が厳しいのは人民を善に導くやり方から外れていると考え、強く諌めたが聞き入れられなかった。堅は地位も声望も非常に高かったため、帝に非常に忌み嫌われた。麗華の他の四皇后の家族たちは帝の寵を争い、互いに讒言し合った。〔堅への讒言を信じた〕帝は、いつも麗華に怒ってこう言った。
「必ずお前の家族を皆殺しにしてやる!」
 麗華は長跪(膝立ち)して赦しを請い、帝の怒りが解けるのを待ってから立ち上がった。
 ある時、帝は堅を呼ぶと、衛士たちにこう命じておいた。
「〔二心を持っているなら必ず動揺するはずだ。〕動揺の色が見えたら、即座に殺してしまえ。」
 堅がやってくると帝は引き止めて暫くの間話を交わしたが、その間堅は泰然自若として顔色一つ変えなかったので、帝はやむなく誅殺を諦めた。

○隋文帝紀
 俄轉大前疑。每巡幸,恒委居守。時帝為刑經聖制,其法深刻。高祖以法令滋章,非興化之道,切諫,不納。高祖位望益隆,帝頗以為忌。帝有四幸姬,並為皇后,諸家爭寵,數相毀譖。帝每忿怒謂后曰:「必族滅爾家。」因召高祖,命左右曰:「若色動,即殺之。」高祖既至,容色自若,乃止。
○周9宣帝楊皇后伝
 后性柔婉,不妬忌, 四皇后及嬪御等咸愛而仰之。帝後昏暴滋甚,喜怒乖度。嘗譴后,欲加之罪,后進止詳閑,辭色不撓。帝大怒,遂賜后死,逼令引訣。后母獨孤氏聞之,詣閤陳謝,叩頭流血,然後得免。
○周16独孤信伝
 第七女,隋文獻后。
○隋36・北14文献独孤皇后伝
 文獻獨孤皇后,〔諱伽羅,〕河南洛陽人,周大司馬、河內公(衞公)信之女也。信見高祖有奇表,故以后妻焉,時年十四。高祖與后相得,誓無異生之子。后初亦柔順恭孝,不失婦道。后姊為周明帝后,長女為周宣帝后,貴戚之盛,莫與為比,而后每謙卑自守,世以為賢。
○隋79独孤羅伝
 初,信入關之後,復娶二妻,郭氏生子六人,善、穆、藏、順、陁、整,崔氏生獻皇后。
○北史演義
 逼令引決。嬪御皆為之叩頭求免。…后父堅位望隆重,天元忌之,嘗忿謂后曰:「必族滅爾家。」后長跪求饒,候其怒解乃起。一日,召堅入宮,戒左右曰:「爾等視堅色動即殺之。」堅至,留與久語。堅應對無失,神色不動,乃免之。

 ⑴独孤信…字は期弥頭。もとの名は如願。503~557。おしゃれ好きの美男子で、若い時に『独孤郎』と呼ばれた。武川出身で、宇文泰の幼馴染み。泰の配下となると隴右十一州大都督・秦州刺史とされ、長く西魏の西境を守った。557年、宇文護との政争に敗れ、自殺に追い込まれた。
 ⑵普六茹堅(楊堅)…幼名は那羅延。生年541、時に40歳。父は故・隨国公の楊忠。母は呂苦桃。落ち着いていて威厳があった。宇文泰に「この子の容姿は並外れている」と評され、名観相家の趙昭に「天下の君主になるべきお方だが、天下を取るには必ず大規模な誅殺を行なわないといけない」と評された。また、非常な孝行者だった。晋公護と距離を置き、憎まれた。568年に父が死ぬと跡を継いで隨国公とされた。573年、長女が太子贇(のちの宣帝)に嫁いだ。575年の北斉討伐の際には水軍三万を率いて北斉軍を河橋に破った。576年の北斉討伐の際には右三軍総管とされた。577年、任城王湝と広寧王孝珩が鄴に侵攻すると、斉王憲と共にこれを討伐した。のち定州総管とされた。577年、南兗州(亳州)総管とされた。578年、宣帝が即位すると舅ということで上柱国・大司馬とされた。579年、大後丞→大前疑とされた。579年(2)参照。

●南征
〔帝の寵臣で開府・領内史事・沛国公〕の宇文訳鄭訳は堅と同学の士で、堅の容貌が只者でないのを見ると、これと親しくしておけばきっとのちにいい事があると考え、心を込めてこれと付き合っていた。堅も訳が帝に寵用されていることを以て、常にこれと仲良くしていた。
 現在、堅は帝に忌み嫌われるようになると不安になり、あるとき永巷(宮中の長い通路)にて密かに訳にこう言った。
私と公の仲の良さは国中知らない者は無いほどであり、公が陛下の前にいる限り、私の命は保証される。しかし、帝の考えは予測し難く、いきなり思いつきで誅殺をする事がある。そのような場合だと、公が異変に気づいて私を救おうとしても、間に合う事はない。ただ、都の外に出れば、その突然の誅殺を免れる事ができるのだ。しかし、地方の長官になりたいという事を私の口から言うと角が立つ。私はずっと公に、都を出て地方の長官となりたいと願望を口にしてきた。私がこうやって敢えて本心を曝け出しているのだから、公ももう少しこの事を気に留めて、〔陛下に働きかけてくれないか〕。」
 訳は答えて言った。
「公は天下の人々から慕われている存在。多くの幸福を求めようとするなら、その公の願いをどうして忘れたりしましょうか。謹んでこの事をすぐ陛下に言上させていただきます。」
 この時、たまたま帝は訳を〔元帥(総指揮官)として〕南征に向かわせようとしていた。すると訳はこう言った。
臣には将才がありませぬゆえ、どうか他の者を元帥としてください。」
 帝は言った。
「卿は誰がいいと思うか?」
 訳は答えて言った。
「陛下が江東を平定したいと願われますなら、その元帥は皇室の外戚かつ重臣の者でなければ務まりません。臣は隋公(堅)が、外戚の中で唯一、将帥の才を備え、国に忠を尽くし、君主に叛く事のない者だと考えています。彼を元帥とすれば、必ずや良く江南を平定し、天下を統一してくれる事でありましょう。寿陽の地は江南に接する地でありますゆえ、彼を寿陽総管として、軍の指揮権を委ね、ゆっくりと攻略の機会を窺わせますれば、江南の地は容易に我が国の物となるに違いありません。
 帝はこれを聞き入れた。
 己丑(5日)、堅を揚州(寿陽。もと陳の豫州)総管とし、訳に長安から兵を率いて出発し、寿陽にてこれと合流して陳を伐つよう命じた。
 堅はこれを聞くと大いに喜び、妻の独孤氏にこう言った。
「十中八九、助かったのではないか!」
 かくて皇宮に行って帝に別れの挨拶をすると、帝は速やかに出発するよう命じた。
 しかし堅は出発の直前、突如足の病気(脚気?)に罹って歩くことができなくなったため、結局行く事は無かった。

○周宣帝紀
 五月己丑,以上柱國、大前疑、隨國公楊堅為揚州總管。
○隋文帝紀
 大象二年五月,以高祖為揚州總管,將發,暴有足疾,不果行。
○隋38鄭訳伝
 初,高祖與譯有同學之舊,譯又素知高祖相表有奇,傾心相結。至是,高祖為宣帝所忌,情不自安,嘗在永巷私於譯曰:「久願出藩,公所悉也。敢布心腹,少留意焉。」譯曰:「以公德望,天下歸心,欲求多福,豈敢忘也。謹即言之。」時將遣譯南征,譯請元帥。帝曰:「卿意如何?」譯對曰:「若定江東,自非懿戚重臣無以鎮撫。可令隋公行,且為壽陽總管以督軍事。」帝從之。乃下詔以高祖為揚州總管,譯發兵俱會壽陽以伐陳。
○北史演義
 內史鄭譯與堅少同學,奇堅相表,以其後必有非常之福,傾心相結。堅亦知其為帝所寵,每與友善。及聞帝深忌,屢欲殺害,情不自安,因私謂譯曰:「吾與子相善,一國莫不知。子於帝前,豈不能庇我以生?但帝意難測,倘遇卒然之誅,子欲救無及。不如出外圖全。又恐面陳取禍,願子少留意焉。」譯曰:「以公德望,天下歸心。欲求多福,豈敢忘也。有便當即言之,保無害耳。」會天元欲伐江南,使譯引兵前往。譯自言無將才,請得一人為元帥。天元曰:「卿意誰可者?」對曰:「陛下欲定江東,自非懿戚重臣,無以鎮撫。臣意大臣中唯普六茹堅,以椒房之戚,具將帥之才,為國盡忠,事君不貳。若命為將,必能平定江南,混一四海。且壽陽地控鄰邦,使堅為總管,以督軍事,徐圖進取,則陳氏之土地可坐而有也。」天元從之,以堅為揚州總管,使譯發兵會壽陽。命下,堅大喜,謂其夫人獨孤氏曰:「吾今庶可免矣。」遂詣闕辭帝,帝命速發。將行,忽起足疾,不能舉步。

 ⑴宇文訳(鄭訳)…字は正義。生年540、時に41歳。北周の少司空の宇文孝穆(鄭孝穆)の子。幼い頃から聡明で、本を読み漁り、騎射や音楽を得意とした。一時宇文泰の妃の元后の妹の養子となり、その縁で泰の子どもたちの遊び相手とされた。輔城公邕に仕え、邕が即位して武帝となると左侍上士とされ、儀同の劉昉と共に常に帝の傍に侍った。帝が親政を行なうようになると御正下大夫とされ、非常な信任を受けた。魯公贇が太子とされると、太子宮尹下大夫とされてその傍に仕え、非常に気に入られた。573年、副使として北斉に赴いた。577年、贇と共に吐谷渾の討伐に赴いた。その間、贇の問題行動を止めることが無かったため、武帝の怒りを買って鞭打たれ、官爵を剥奪された。のち復職して吏部下大夫とされた。贇が即位して宣帝となると開府・内史中大夫・帰昌県公とされ、朝政を委ねられた。579年、内史上大夫・沛国公とされた。間もなく勝手に官有の木材を自分の邸宅の造営に使った事が原因で官爵を剥奪されたが、劉昉の説得によりすぐに復帰し、領内史事とされた。579年(3)参照。
 

 580年(2)に続く